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源頼朝の手にした征夷大将軍の称号は武家のトップの称号ではない。天叢雲剣の新たな形代こそ征夷大将軍という称号であった。 ドラッカー講座 日曜18時 / 平安時代講座 土曜18時
<フィクション> ・わかりあえるはず ・あおひとくさ ・ほしがき ・せむかた -restart- ・ほむらみさき ・苦悶の捕虜 ・ほむらみさき、そして… <ノンフィクション> ・獅子光臨〜三原修の足跡 ・朴正煕の野望 ・共喰 トモグイ〜連合赤軍事件の全貌。 ・蟹工船の時代 ・平安時代叢書
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そして、建久四(一一九三)年八月二〇日、ここで明確に曾我兄弟の仇討ちと源範頼とをつなぐ記述が吾妻鏡に登場する。吾妻鏡のこのあたりの記載は源範頼が曾我兄弟の仇…
だが、いったい誰がこんなものを信じるのか? 當麻太郎は源範頼の家臣として有名であるだけでなく、その武芸においても有名な人物であった。その人物が源頼朝の寝室の…
建久四(一一九三)年八月二日、源範頼は源頼朝への忠誠を誓う起請文を源頼朝に送りながら、逆に源頼朝の怒りを買い、鎌倉からの追放となったのである。 吾妻鏡に記載…
富士の巻狩の始まりは建久四(一一九三)年五月八日、そして、終了は六月七日。文字通り一ヶ月間に亘る壮大な規模の巻狩が終わりを迎えた。ただし、曾我兄弟の仇討ち以…
巻狩の舞台と鎌倉との間は距離がある。そして、センセーショナルな情報というのは真実よりも早く届いてしまう。リアルタイムで情報伝達ができる現在であっても、情報と…
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曾我兄弟の実父である河津祐泰は、河津祐泰の父である伊東祐親が平家の権勢を背景にして伊東荘を手に入れたことを非難し、河津ではなく伊東を苗字とするようになった父…
残る三人は源頼家が健在であるという前提が必要となる。 まず比企能員であるが、源頼家には比企一族の後方支援が存在している。源頼家の養育は比企尼をはじめとする比…
さて、この曾我兄弟の仇討ち事件については工藤祐経への殺害を主としたものではなく、源頼朝の暗殺を狙った犯行であるとの説もある。 二一世紀に生きる我々は鎌倉幕府…
その後、夜半に仁田忠常に討ち取られた曾我祐成の首が運ばれ、曾我時致は間違いなく兄であることを確認した。 曾我時致に同情する者も多く、助命を求める者も現れてき…
その後、兄の曾我祐成が仁田忠常に討ち取られると、弟の曾我時致は源頼朝めがけて突進していったが、大友能直にとって取り押さえられ、捕縛されて翌朝を迎えることとな…
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建久四(一一九三)年五月二八日は朝から雨天だったが午後になって雨が上がったとある。ただし、雨は夜になると再び降るようになり、真夜中には雷雨へと変わった。 朝…
先に巻狩を現在のゴルフに準(なぞら)えたが、無論、現在のゴルフと大きな違いが多数存在する。その中でも最たるものは、一日で終わるとは限らないというものだろう。…
五月一六日の矢口祭はまず、北条義時が三つの餅を献上した。大きさはタテ八寸、横三寸、厚さ一寸という大きなもので、かつ、そのうちの一つは黒、一つが赤色をしている…
巻狩の始まりは六斎日のうちの一日である一五日が過ぎた翌建久四(一一九三)年五月一六日である。 吾妻鏡が伝えるところによると、源頼朝の後継者であり、後に源頼家…
先に平氏の多くが桓武天皇の子孫である桓武平氏であると記したが、桓武平氏の全員が武士なわけではない。地方に降った桓武平氏のうちの一部は伊勢国を根拠地とする武家…
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さて、このときの巻狩の前に記しておかなければならない出来事がある。 まさに巻狩に出かけているために源頼朝が不在となっていた鎌倉で、一人の文人が命を落としたの…
源頼朝らが現地に到着したのは五月一五日。源頼朝にしてはゆっくりとしたペースであるが、源頼朝らは戦争をしに行くのではない。レジャーとしての巻狩に赴いているので…
出来事の推移を時系列で追いかけてみる。 建久四(一一九三)年五月二日、源頼朝の命令により北条時政が駿河国藍沢、現在の静岡県の御殿場に出向いた。この巻狩は後に…
二人が選んだ方法は弓矢での射殺であった。 だが、この暗殺は失敗した。伊東祐親ではなく、息子の河津祐泰が殺されてしまったのだ。 伊東荘を巡る争いは有名であり、…
建久四(一一九三)年五月二日、源頼朝の人生で最大規模の巻狩の準備が始まった。場所は富士山麓の藍沢である。 これだけを記せば、後白河法皇の一周忌を契機として、…
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吾妻鏡はさすがに源頼朝の主催した巻狩のことを詳しく書いてある。 まず建久四(一一九三)年三月二一日に信濃国三原野、現在の長野県須坂市に二二名の御家人を率いて…
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源頼家の名で発令された命令として特筆すべきが、各国の守護の職掌の明確化である。地頭が荘園を管理監督しその年貢を手に入れることのできる役職である一方、守護とい…
一三人の合議制の成立と、その合議制のメンバーに含まれていない五名への特権の付与。 本来であれば対立すること間違いない構造であるが、この後の記録を追いかけてい…
建久一〇(一一九九)年四月一二日に一三人の合議制が誕生したことに対し、源頼家は反発を見せたとはすでに記したが、では、具体的にどのような反発を見せたのか? 吾…
武士である九名の本拠地を記すと、伊豆国が北条時政と江間義時の二名、相模国が三浦義澄、和田義盛、梶原景時、安達盛長の四名、武蔵国が比企能員、足立遠元の二名、常…
源頼家の起こした行動の前に、このときに選抜された一三名について記しておく必要がある。 一三名を吾妻鏡の順番に記すと以下の通りとなる。 北条時政、伊豆国守護兼…
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権威が必要な職務、それは、司法。 武士達が御家人として鎌倉幕府に身を寄せるようになったのは、鎌倉幕府が日本最大の武力集団であることだけではなく、鎌倉幕府に御…
しかし、源頼家個人の資質を全否定するところのある吾妻鏡の記載も多少割り引いて考えなければならないところがある。中原広元の尽力があったとは言え政所をそのまま保…
ここで一つ注意すべきことがある。 それは、北条政子の出家の時期。 夫である源頼朝の死を受けて、北条政子が出家したことは間違いなのだが、何月何日に出家したかが…
源頼朝はもういない。 しかし、源頼朝の意思はまだ生きている。 大姫の入内にこだわり続けていた源頼朝であるが、その目論見は大姫の死によって潰えた。しかし、誰か…
建久一〇(一一九九)年二月一四日、源隆保に対する噂が一つの結末を生み出した。この日、後藤基清、中原政経、小野義成の三名の武士が六波羅在中の鎌倉幕府の雑色に捕…
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源頼朝の突然死の知らせが京都を混迷に招いたことは既に記した通りである。それは二月になってある程度鎮静化してきたものの平穏が取り戻せたというレベルにはほど遠い…
鎌倉幕府は源頼朝という上流貴族が鎌倉に滞在し、その上流貴族の周囲に多くの御家人が集まって形作られている組織として誕生している。 そのトップにある人間が、権大…
建久一〇(一一九九)年一月の源頼朝の死の知らせは京都を混迷に陥らせたらしく、特に土御門通親への反発は強かったようで土御門通親は二二日に後鳥羽院のもとに避難せ…
どういうことか? 忘れてはならないのは、前年の後鳥羽天皇から土御門天皇への譲位である。 土御門天皇は三種の神器が揃わない状態で即位した。ただし、公式見解とし…
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本来なら源義経追討の宣旨は摂政九条兼実が主導して発給するところであった。実際、文治四(一一八八)年二月一四日に発給した宣旨については摂政九条兼実が主導してい…
源義経が奥州平泉にいることは周知の事実になっていたが、京都に住む人の中にはもっと別の場所、具体的には京都にもっと違い場所にいるはずという思いもあったようで、…
九条兼実はさらに鎌倉方の影響縮小を図る道を選んだ。 鎌倉方における地方統治の要となっている地頭について、朝廷の名で鎌倉に対処を求めたのである。 文治四(一一…
九条兼実は鎌倉方の力を利用して後白河院を牽制しつつ、院政前の時代を取り戻そうとしていた。しかし、全てが鎌倉方の言いなりというわけではなく、九条兼実は源頼朝の…
平泉で藤原秀衡が亡くなってからおよそ半月、畠山重忠の釈放から一ヶ月以上を経た文治三(一一八七)年一一月一五日の夜、鎌倉で騒動が起こった。 畠山重忠に謀叛の疑…
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奥州藤原氏の当主交代があったという知らせが京都に届いたであろう頃、京都では摂政九条兼実の主導する時代の復旧が進んでいた。平家政権も、源平合戦も無かったことで…
能力は問題なくとも血縁に問題のある兄の藤原国衡。 血縁は問題なくとも能力に問題のある弟の藤原泰衡。 この二人のどちらを後継者に指名しても問題が起こることは目…
藤原秀衡死去の様子を、吾妻鏡の文治三(一一八七)年一〇月二九日の記事はあっさりとした記載で済ませている。藤原秀衡が陸奥国平泉で亡くなったこと、そして、既に病…
文治三(一一八七)年一〇月四日、源頼朝は一つの決断をした。畠山重忠の軟禁状態を終了させ、武蔵国の所領へ戻ることを許したのである。ただし、没収した所領について…
鎌倉で畠山重忠がハンガーストライキに突入していた頃、京都では摂政九条兼実が憂鬱に襲われていた。この頃の九条兼実の日記を読むと、自らの思い描いている政務を執り…
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奥州藤原氏に対するさらなる追い風が吹いたのが文治三(一一八七)年九月二七日のことである。この日、畠山重忠の所領四ヶ所が没収となり、千葉常胤の長男である千葉胤…
奥州藤原氏のもとに源義経がいるという話を、藤原秀衡が公的に認めたわけではない。鎌倉では源義経が平泉にいるのは既定路線となっていたが、京都ではまだ源義経が平泉…
京都は治安悪化についての対処を一通り終えた源頼朝のもとに東北地方から不穏な知らせが飛び込んできたのは文治三(一一八七)年九月四日のことである。 源頼朝は源義…
四つと記しておきながら三つしか記していないと思うかもしれないが、四番目はしっかりと存在する。それも、何よりも最優先で対応しなければならないこととして存在して…
結論から言うと、畠山重忠に対する処罰は九月まで引き延ばされた。安田義定のときと違い、畠山重忠の家臣についての実情を調べなければならなかったことに加え、他の問…