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  • 平良丘陵開発の今

    昨日は宮島サービスエリアの展望所からみた平良丘陵開発の進捗状況であったが、画像は市街地からみた開発用地の全域の遠望である。画像中央を横切っているのが西広島バイパスの廿日市高架橋で、画像向こうの左側高い山が中世の星ケ城跡で右側の山に極楽寺がある。平良丘陵開発の今

  • 平良丘陵開発の今

    時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、宮島サービスエリアの展望所からの遠望である。商業系、準工業系、住居系などの用地が造成されているようであり、それぞれの平地の部分が多くみられるようになってきた。平良丘陵開発の今

  • 伊勢神社参詣

    時折り紹介している原地区にある伊勢神社に初参りをした。昨年秋に足首を痛めてウォーキングが出来なくなり正月の初参りも出来なかった。リハビリ治療のおかげでぼちぼちとウォーキングを始めたところである。一昨日降った多くの雪も湿雪であったので残雪はわずかであった。伊勢神社参詣

  • 厳島神社反り橋の擬宝珠が!

    以前にも紹介したが、厳島神社西廻廊の曲がり角から陸地側に架かる反り橋に10ケ所の擬宝珠がありこの内1ケ所廿日市鋳物師が鋳造したものがみられる。刻銘によると安永5年(1776)3月に廿日市鋳物師の山田氏藤原貞利が鋳造している。解体修理前は廻廊側に取り付けられていたが、重要文化財なのに解体修理後はなぜか陸地側に取り付けられているのである。厳島神社反り橋の擬宝珠が!

  • 松くい虫防除

    経納山頂に登ってみると松くい虫で伐採された大きな松の木の切り株がみられる。被害を免れた大きな松の木には松くい虫防除の薬剤が注入されたものとみられ、薬剤名や注入年月日が記された表示が取り付けられていた。松くい虫防除

  • レトロスクーターが!

    相当以前に紹介したが、ある施設内にまだ懐かしいレトロなスクーターが置かれていた。銘板から昭和34年(1959)に発売された三菱・シンバーピジョンC110のようである。可動するのかは不明であるが、施設には似付かないようなものがなぜ置かれているのだろうか。レトロスクーターが!

  • みやじま杜の宿の地今昔

    上画像は大元公園にあるみやじま杜の宿であるが樹木が茂って見えにくい。大正期この地には広島産業奨励館(原爆ドーム)設計のヤンレッツルが設計した宮島ホテルが建築されていた。終戦後に宮島ホテルはイギリス連邦占領軍(BCOF)に接収されていた。(下画像-呉の歩みⅡより)昭和28年(1953)に火災に遭い宮島ホテル建築は焼失したが、当ブログ主が小学校遠足で訪れた時に焼け跡があったのを記憶しているのである。みやじま杜の宿の地今昔

  • 大元神社の鳥居今昔

    上画像は大元神社の鳥居の現在で笠木、柱が丸太で貫が長方形の神明鳥居である。江戸期の厳島図会の絵図をみると明神鳥居が描かれており(中画像)、下画像昭和期の絵葉書をみると鮮明ではないが上部の笠木と島木がみられ、時代とともに鳥居の形式が変わったのであろうか。大元神社の鳥居今昔

  • 大元公園遠望今昔

    上画像は昭和初期であろうか経納山から大元公園方面をみた絵葉書で、手前左手には茅葺の大元旅館がみられ右側の現在宮島水族館のあるところは海であった。遠くには宮島ホテルがみられる。現在経納山の樹木が茂っており瓦葺となっている旧大元旅館と宮島水族館の一部しか見ることが出来ない。大元公園遠望今昔

  • 有の浦海岸通りの今昔

    上画像は1952年発行の岩波写真文庫71からの画像で、厳島神社境内地堺付近から有の浦海岸通りを見た画像である。岩波写真文庫には「海岸通りをふさぐ柵、進駐軍自動車路というのが名目だが、・・・」と記されている。火の見櫓がみられこの場所は昭和49年の地図には消防庫と記されている。有の浦海岸通りの今昔

  • 有の浦長雁木の今昔

    上画像は1952年発行の岩波写真文庫71からの画像で、連絡船から降りたすぐの参道脇の護岸に長い雁木が設けられていた。小中学生の頃何度も遠足で訪れているのでこの雁木はよく覚えており、松大船がこの雁木に歩み板を架けて乗船客が乗り降りしていたのも記憶している。有の浦長雁木の今昔

  • 宮島街並みの今昔 ②

    上画像の絵葉書は昭和初期ごろだろうか五重塔がある塔の丘からみた有ノ浦の街並みである。向こう側の山が昨日触れた要害山で左側には以前にも触れた商船桟橋がみられる。現在桟橋はなく突堤上に広島経済大学成風館の建物がみられる。宮島街並みの今昔②

  • 宮島街並みの今昔

    上画像の絵葉書は昭和初期ごろだろうか要害山頂からみた有ノ浦の街並みであり、下画像は樹木が茂っているので上画像と同じような場所からは撮影出来なかった。表参道商店街通りに面する建築物は大きく変わっており、伝統的な建築物は見られなくなっている。塔の丘の五重塔の仮囲いが遠望できる。宮島街並みの今昔

  • 厳島神社参詣

    久しぶりに宮島を訪れ厳島神社に初参りをした。何と訪日した外国人旅行客の多いこと。現在厳島神社では東回廊の屋根葺替え工事などや五重塔修復工事、多宝塔の屋根葺替え工事などが行われており、しばらくの間チョット絵にならないのである。厳島神社参詣

  • 岩木神社元宮

    岩木神社元宮摂社岩木神社速谷神社鳥居前方にある権現山に祀られている岩木神社元宮で、安芸国神名帳に佐西郡十三前、二位五前、石城明神とあるのが岩木神社に相当するものとされている。明治初年に本社境内に移されていたようで大正期造営の際に本殿脇の現在地に祀られたようである。太古の時代「磐座信仰」の磐城が石城明神→岩木神社となったのでは・・・岩木神社元宮

  • 五平餅

    遥か昔に訪れた木曽路や南会津の大内宿などで食べた五平餅をなぜか食べたくなったので取り寄せて懐かしい味を堪能した。ネット検索してみると大内宿で食べたものはしんごろうというもののようであった。他所で同じようなものをみていくと秋田ではみそたんぽ、新潟ではひこぜん、栃木ではばんだい餅などといわれているようである。五平餅

  • 厳島宮路之枝折

    明治11年(1878)に初出版され再版された宮島案内の和綴じの活字冊子で、当ブログが知る限り活字冊子の初期案内書のようである。記事の中に年中定祭日行事式で官祭と私祭があったようで、昨日の2月11日建国記念の日は当時官祭であり遥拝所で紀元節祭礼が催されたようである。厳島宮路之枝折

  • 家納喜

    昨日紹介した昭和10年(1935)版の宮島の紹介パンフレットに醸造元合資会社丸亀商店の広告が掲載されていた。登録商標家納喜(ヤナギ)とあり丸亀商店時代に銘酒家納喜が醸造されていたようである。銘酒家納喜から家納喜酒造の社名とされたのかと思っていたが、大正9年(1920)6月に家納喜酒造株式会社が設立されているので???家納喜

  • 宮島の紹介パンフ

    昭和10年(1935)版の宮島観光協会の宮島の紹介パンフレットで、絵図の下部には当時の厳島代表の旅館と商店が掲載されている。栄枯盛衰、今ではみられない旅館名や商店名がみられる。電話番号には一桁、二桁、三桁の番号がみられる。宮島の紹介パンフ

  • 急傾斜地法面保護工事

    急傾斜地の法面保護工事が行われており、斜面に格子状に鉄筋が組まれていたが型枠もなくどのようにしてコンクリートを打ち込むのだろうか思っていた。昨日小雪の舞う中でコンクリートかモルタルを圧送して吹付をしてコテで角形に仕上げておられた。急傾斜地法面保護工事

  • 抹茶碗で一服⑧-萩焼天寵山

    若い頃には萩の城下町を度々訪れており、各所に多くの萩焼の窯元がありぶらりと訪れていた。窯元天寵山を訪れて七代兼田三左衛門の茶碗を求めプレゼントしていたものである。この茶碗がなぜか現在手元にあるが・・・抹茶碗で一服⑧-萩焼天寵山

  • 戦時報国債券・貯蓄債券

    物入れの片隅に大東亜戦争国庫債券・戦時報国債券・報国債券・戦時貯蓄債券・貯蓄債券・福券があった。とお―の昔に時効になっているので換金はできそうにない。これらは戦争資金を調達するために、臨時に債券を売り出し償還期時に利息を付けて返す国債の一つだったようである。戦時報国債券・貯蓄債券

  • 懐かしい暖房具

    今冬一番の寒さで暖房器具は手放せない日が続いていますが、懐かしい暖房具を紹介しよう。上画像は子供の頃に使用していた陶器製湯たんぽ、中画像は手あぶり火鉢でヤカンを架けていた大火鉢はなくなってしまった。下画像は以前ウォーキング途中で見かけたコタツでコタツ櫓の中に置いて櫓上に布団を掛けたり、直接布団をかけていた。懐かしい暖房具

  • 市道堂垣内広池山線工事の今

    時折り紹介している市道堂垣内広池山線の可愛川に架かる橋の橋脚工事の進捗状況で、現在橋台立ち上がりの工事が行われているようである。看板表示によると3月末が工期のようである。市道堂垣内広池山線工事の今

  • 草葺き(茅葺き)屋根の鐘楼門

    上画像は津田地区にある教覚寺の鐘楼門で宝永3年(1706)に建立されたようである。草葺き(茅葺き)屋根で棟部分には馬乗り型の棟飾りが取り付けられている。馬乗り型で神社の千木に似た部材は地方によりカラスオドシ・ホテギ・キンマ・ウマノリなどといわれていたようであるが、津田地区でどのように言われていたかは定かでない。下画像の鐘楼門もよく似た草葺き屋根の鐘楼門で、1984年に撮影したものであるがどこの寺のものか思い出せないのである。草葺き(茅葺き)屋根の鐘楼門

  • 速谷神社-湯立神事・節分祭

    昨日、速谷神社では湯立神事・節分祭が行われた。湯立神事は厳島野坂文書・毛利隆元書状に「早田(速田)社江立願之事、御湯立七年可進之由得其心候、即従今月可遂其節候」とあり、戦国時代に速田社て湯立神事が行われていたようで、平成31年(2019)に天皇陛下の御代替りを記念して復活されたものである。湯立神事の後に鬼遣い神事や年男・年女による豆撒きが行われた。速谷神社-湯立神事・節分祭

  • 抹茶碗で一服⑦-山口萩焼松緑窯

    若い頃には萩の城下町や大内氏の遺跡のある山口には度々訪れており、各所に多くの萩焼の窯元がありぶらりと訪れていた。萩焼松緑窯は明治期に山口市宮野に移って作陶活動をされている山口萩窯元で、訪れた記念に松緑窯10代の大和正一の萩焼茶碗を求めていた。抹茶碗で一服⑦-山口萩焼松緑窯

  • 抹茶碗で一服⑥-楽山焼

    若い頃に松江城や菅田庵・明々庵などを見物した際に楽山公園近くにある楽山焼の窯元を訪れて求めたもので、11代長岡空権の得意としていた伊羅保写の茶碗である。長岡空権は平成12年(2000)に島根県指定無形文化財に認定されているようである。※昨日、当ブログを開設してからトータル閲覧数700万PVの大きな節目を迎えることができました。当ブログは老化防止のために見たままを記した万人受けするものではありませんが、多くの方々に御来訪閲覧して頂き大いに励みとなっております。可能な限り継続していきますので御来訪して頂きますようお願い致します。抹茶碗で一服⑥-楽山焼

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