当ブログ主の畑に隣接して大きな桑の木がある。昔、養蚕の名残りの桑の木がそのまま大きく育ったものとみられ現在沢山の実を付けている。白い実から赤みが付いて赤黒くなって熟したものは美味しいものである。若い頃、中国トルファン(吐魯番)郊外のヤールフー千仏洞近くで見た桑の実は2cm位の大きな実で白いままで熟しており、美味しかったのを今でも覚えているのである。桑の実
昨日紹介した廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の種を昨日採取した。以前に近接して植えていたことがあったので切葉松本地大根は桜島大根と交配したものとみられ同じような形状の大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の実が実っておりもうすぐ種を採取しなければ・・・来シーズンには廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
上平良地区の吉野山にある中電の廿日市八幡線高圧線鉄塔(上画像赤丸ケ所)が同じ山上で少し位置を変えて建替えられるようである。藤戸の谷の田んぼでは作業をするための用地が整備されていた。吉野山の高圧線鉄塔
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況を時折り紹介しているが、東側の工事はほぼ終わっているようである。周辺整備がもう少し残っているのだろうか。今年度は西側の橋脚工事が行われるのであろう。市道堂垣内広池山線工事の今
昨日、田植えの一便が助っ人により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。平野地で圃場整備された四角な田んぼであれば苦労は少ないが、いびつな箱庭のような段々田では何かと大変である。田植え
早朝、田んぼの水廻りを兼ねた夏場のウォーキングコースとなり速谷神社に参詣した。現在、楼門や神門、社殿に防護覆いがしてあり修復工事が行われているようである。速谷神社社殿の修復工事
一昨日の中国新聞に広電宮島線でかつての廿日市駅舎前にある山田漬物店が閉店されることが大きく掲載されていた。以前にも紹介したが、昭和18年(1943)にマキノバスが広島電鉄に買収統合されて廿日市営業所となった。当ブログ主が小学生の頃、漬物店の所に営業所と待合所があったのを記憶している。昭和29年(1954)に国道2号線沿い(メガネ21ケ所)に移転しており、昭和42年(1967)に廃止となっている。(下画像-ふるさとの写真集)広電廿日市営業所跡
知り合いの畑にみたことが無いような植物があり名前を教えて貰ったが覚えることは出来なかった。画像を撮ってGoogleレンズで検索するとキク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本のアーティチョークのようであった。蕾を貰ったがどのようにして食べるのか分からずネットで調理方法を調べてみたが、御飯に味噌汁人間には・・・アーティチョーク
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
松本城下町に祀られている深志神社を参詣した。当神社は中世にこの地の領主により先日来紹介している諏訪大社の分霊を宮村宮としてこの地に祀り、北野天満宮の分霊が他所に祀られていた。後に天満宮を宮村宮の傍に遷し宮村両社とされていたのを深志神社と改称されたようである。ここの宮司さんは何と当市佐方にお住まいであったようで、遥か昔に当ブログ主は父上様と姉上様に別々の場所でお逢いしたことがあったのである。深志神社
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社春宮は旧中山道脇に祀られている。社殿配置は秋宮とほぼ同じようであり中央に神楽殿があり、後方に弊拝殿と左右片拝殿と東西御宝殿が配置されている。現在車道となっている参道中央に下馬橋(太鼓橋)があったが、マイクロバス移動だったので撮影できなかった。これで諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮を参詣することが出来た。諏訪大社参詣-下社春宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社秋宮は旧中山道と甲州街道が交わる地に祀られている。温泉地であり手水に温泉(御神湯)が使われている。社殿の周囲には7年に一度の大祭である御柱大祭の4本の御柱が立てられている。諏訪大社参詣-下社秋宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、前宮は本宮より少し離れた場所に祀られている。諏訪信仰の発祥の地だったが、室町中期に本宮の地に神殿が移転したようである。本殿は神明造りで伊勢神宮の用材で建てられたようである。諏訪大社参詣-上社前宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、上社本宮は弊拝殿の左右に片拝殿が並んでいる諏訪造りという社殿配置のようである。四脚門は徳川家康が寄進した門のようである。7年に一度の大祭である御柱大祭の一ノ御柱のみしか撮影できなかった。諏訪大社参詣-上社本宮
下関市豊田町殿居に祀られている厳島神社で、江戸期の防長寺社由来によると芸州佐伯郡宮島勧請とあり、文安5年(1448)に願主佐伯盛安によって再造立されたようである。江戸期、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代当主毛利広包が社殿を再建している。各地の厳島神社㉚-殿居の厳島神社
昨日は某研修旅行で名古屋から木曽路、諏訪地方にきた。諏訪大社など参詣して諏訪湖畔のホテルに宿泊した。慣れないタブレットから送信。信州探訪
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で海中部分の工事は去年位に終わっていた。現在何かの工事が行われているようであり、上部橋梁工事に向けての準備工事が行われているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。抹茶碗で一服①-母里焼
以前に紹介した河野原溜め池のほかに、迫の谷下流のジャングル化した中に小さな溜め池がまだ残されていた。宝暦2年(1752)の上平良村の地誌に「河ノ原留池水持4畝拾弐歩水懸り3町2反」とある。子供の頃この溜め池で泳ぐようになっていたが、浅く小さいために前述のため池に仲間達とこっそりと行っていたのを思い出した。遥か昔の話。河ノ原溜め池
長野川取水口川末川取水口上平良大原地区の大原井手(仮称)は長野川から取水しているが、渇水期には水量が少ないので川末川から取水して井手のバイパス(井手名不明)を経て長野川に流入している。かつて大原井手セキの時には、原地区の井手のバイパス関係者に届け物をしていたということである。中世には森宗を所有していた桂元澄と下流の厳島社領大原御衣領の用水懸りを巡る紛争が記されており、古くから大原地区は用水不足気味であったようである。井手のバイパス
5月の第一日曜日は当ブログ主の田んぼに関係する水路の井手セキであり、水路を清掃した。現在水路はコンクリート溝となっているので作業をすることは少なくなったが、水田を作らなくなった人達も参加しての久しぶりの顔合わせとなった。かつて井手の修理に掛かった費用は田んぼの面積按分で負担していたとのことである。江戸期の地誌に各所の井手が記されているがこの井手がどれに相当するのか定かでない。井手セキ(堰き)
藤掛交差点脇の七尾陸橋歩道脇の街路樹に数多くの小さな蕾が付いている樹木があったが、当ブログ主は初めてみるようなものであった。Googleレンズで検索するとカナメモチという樹木のようである。カナメモチ⁇
平良丘陵開発地内で稼働していた掘削ブルトザーや運搬ダンプカーなどが、大型連休のために広場に勢揃いしていた。山が掘削されて左側向うにはアーバンビュー渚の高層マンションが良く見えるようになった。また、五日市港には大きな船が停泊しているのがみられた。造成機器が勢揃い
峰高陸橋付近からの平良丘陵開発地の遠望で、昨日紹介した工事ケ所が画像右端に見える部分である。後方高い山が中世の星ケ城跡で右側の低く見える山に極楽寺がある。画像中央を横切っているのが西広島バイパスの廿日市高架橋でその手前には市道の平良佐方線の七尾陸橋がみられる。カメラ位置のすぐ下にはJR山陽本線が走っている。平良丘陵開発地遠望
時折り紹介している平良丘陵開発の進捗状況で、西広島バイパスの側道から見た開発地の最下流域の現状である。下画像の計画図によると西広島バイパス沿いには調整池が設けられるようである。平良丘陵開発の今
平良体躯館跡に公園が整備されていることを以前に紹介したが、工事は完成しているようであるが開園はもう少し先になるのであろうか。養生してある看板を見ると「平良っ子わいわい広場」と称されるようである。この地には平良村役場や平良小学校の講堂(後に平良体躯館)があったところである。平良っ子わいわい広場
画像は大正期頃、速谷神社後方の見晴し山から平良郷を遠望した画像であるが、見晴し山の現在は山林化して遠望は出来ない。大正15年(1926)発行の「広島瓦斯電軌(株)経営電車沿線案内」によると見晴山の秋月、速谷川の奇岩、可愛川畔の梅桜、小富士の朝霞、神苑の時鳥、宮島湾の漁舟、西連寺の晩鐘、極楽寺山の暮雪が速谷八景とある。速谷八景
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当ブログ主の畑に隣接して大きな桑の木がある。昔、養蚕の名残りの桑の木がそのまま大きく育ったものとみられ現在沢山の実を付けている。白い実から赤みが付いて赤黒くなって熟したものは美味しいものである。若い頃、中国トルファン(吐魯番)郊外のヤールフー千仏洞近くで見た桑の実は2cm位の大きな実で白いままで熟しており、美味しかったのを今でも覚えているのである。桑の実
昨日紹介した廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の種を昨日採取した。以前に近接して植えていたことがあったので切葉松本地大根は桜島大根と交配したものとみられ同じような形状の大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の実が実っておりもうすぐ種を採取しなければ・・・来シーズンには廿日市20代目桜島大根と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
上平良地区の吉野山にある中電の廿日市八幡線高圧線鉄塔(上画像赤丸ケ所)が同じ山上で少し位置を変えて建替えられるようである。藤戸の谷の田んぼでは作業をするための用地が整備されていた。吉野山の高圧線鉄塔
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況を時折り紹介しているが、東側の工事はほぼ終わっているようである。周辺整備がもう少し残っているのだろうか。今年度は西側の橋脚工事が行われるのであろう。市道堂垣内広池山線工事の今
昨日、田植えの一便が助っ人により当ブログ主は田んぼに入ることなく終了した。平野地で圃場整備された四角な田んぼであれば苦労は少ないが、いびつな箱庭のような段々田では何かと大変である。田植え
早朝、田んぼの水廻りを兼ねた夏場のウォーキングコースとなり速谷神社に参詣した。現在、楼門や神門、社殿に防護覆いがしてあり修復工事が行われているようである。速谷神社社殿の修復工事
一昨日の中国新聞に広電宮島線でかつての廿日市駅舎前にある山田漬物店が閉店されることが大きく掲載されていた。以前にも紹介したが、昭和18年(1943)にマキノバスが広島電鉄に買収統合されて廿日市営業所となった。当ブログ主が小学生の頃、漬物店の所に営業所と待合所があったのを記憶している。昭和29年(1954)に国道2号線沿い(メガネ21ケ所)に移転しており、昭和42年(1967)に廃止となっている。(下画像-ふるさとの写真集)広電廿日市営業所跡
知り合いの畑にみたことが無いような植物があり名前を教えて貰ったが覚えることは出来なかった。画像を撮ってGoogleレンズで検索するとキク科に属するアザミの仲間の多年生宿根草本のアーティチョークのようであった。蕾を貰ったがどのようにして食べるのか分からずネットで調理方法を調べてみたが、御飯に味噌汁人間には・・・アーティチョーク
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
松本城下町に祀られている深志神社を参詣した。当神社は中世にこの地の領主により先日来紹介している諏訪大社の分霊を宮村宮としてこの地に祀り、北野天満宮の分霊が他所に祀られていた。後に天満宮を宮村宮の傍に遷し宮村両社とされていたのを深志神社と改称されたようである。ここの宮司さんは何と当市佐方にお住まいであったようで、遥か昔に当ブログ主は父上様と姉上様に別々の場所でお逢いしたことがあったのである。深志神社
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社春宮は旧中山道脇に祀られている。社殿配置は秋宮とほぼ同じようであり中央に神楽殿があり、後方に弊拝殿と左右片拝殿と東西御宝殿が配置されている。現在車道となっている参道中央に下馬橋(太鼓橋)があったが、マイクロバス移動だったので撮影できなかった。これで諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮を参詣することが出来た。諏訪大社参詣-下社春宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社秋宮は旧中山道と甲州街道が交わる地に祀られている。温泉地であり手水に温泉(御神湯)が使われている。社殿の周囲には7年に一度の大祭である御柱大祭の4本の御柱が立てられている。諏訪大社参詣-下社秋宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、前宮は本宮より少し離れた場所に祀られている。諏訪信仰の発祥の地だったが、室町中期に本宮の地に神殿が移転したようである。本殿は神明造りで伊勢神宮の用材で建てられたようである。諏訪大社参詣-上社前宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、上社本宮は弊拝殿の左右に片拝殿が並んでいる諏訪造りという社殿配置のようである。四脚門は徳川家康が寄進した門のようである。7年に一度の大祭である御柱大祭の一ノ御柱のみしか撮影できなかった。諏訪大社参詣-上社本宮
下関市豊田町殿居に祀られている厳島神社で、江戸期の防長寺社由来によると芸州佐伯郡宮島勧請とあり、文安5年(1448)に願主佐伯盛安によって再造立されたようである。江戸期、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代当主毛利広包が社殿を再建している。各地の厳島神社㉚-殿居の厳島神社
廿日市町絵図芸州吉田行程記中央市民センター横の四辻角が更地となっていた。かつて旧西国街道沿いの四辻角には胡堂(廿日市絵図)、市戎(芸州吉田行程記)があったが、近代に新港町に移され現在は天満神社境内に祀られている。中世、ここの四辻付近では市場が形成され商業の神として市戎が祀られ20日の御開帳の日の市が著名となり廿日市地名の起源と思われるのである。(「廿日市」地名の起源について)廿日戎旧跡
鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。各地の厳島神社⑲-下榎厳島神社
ウォーキング途中でみかけた2種類の磁器製酒樽については以前に紹介したが、かつての家納喜酒造の前身である丸亀商店の支配人に宮城春悟の名がみられる。(大正10年(1921)~昭和7年(1932))また、昭和7年(1932)頃には以前紹介した幸橋モニュメントの地に宮城春悟の和洋酒類の商店があったようである。これらからみていくと丸亀商店の登録商標の正宗を宮城商店でも販売していたようである。「正宗」磁器製酒樽
ウォーキング途中の道路脇の山には白い花が咲いたようにマタタビの葉が白くなっていた。花を付ける頃に葉の表が白化して受粉をしてくれる昆虫を誘うためのようで葉の裏側は緑のままである。以前にマタタビの実を焼酎に入れてマタタビ酒を作って物入れの奥に置いていたのを忘れており下画像のようになっていた。古酒となったがもう飲めないだろうか・・・マタタビの葉が白化
ウォーキング途中にみられる麦畑で毎年この時期に紹介しているが、小麦が実っているようでありもうすぐ刈り取りをされるのではなかろうか。この小麦を使って味噌も作っておられるようで以前に頂戴したことがある。下画像は今月初めに訪れた出雲平野の麦畑である。麦秋
今治市波方町養老にある厳島神社で江戸期の地誌「愛媛面影」にはみられず由緒などについては定かでない。看板表示によると厳島神社のある地は中世来島家の居館波方館の別館養老館があった地のようである。各地の厳島神社⑱-養老厳島神社
昨日、平良丘陵開発予定地内の広池地区を通っていると催し場用の大型テントの設営がされていた。本日か明日に関係者による地鎮祭が行われるのではなかろうか。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
ウォーキング途中で民家の片隅に見たことが無いようなヒペリカムの黄色い花が咲いていた。上画像は23日に撮影しており、昨日よくみると黄色い花と思っていたが、花びらや黄色の実もあり赤くなり始めている実もみられた。ヒペリカム
昨日の午前中、五日市港に2隻の車両運搬船が停泊していた。右側の船はパナマ船籍の「アクアマリンエース」で収容力は18772トンDWTで、次の寄港地はシンガポールのようである。左側は「日昇丸」で収容力は5030トンDWTで、次の寄港地は苅田港のようである。五日市港の車両運搬船
高知市を流れる鏡川と国分川の合流付近にあった小嶋の弘化台に厳島神社が祀られていたようであるが、弘化台埋立地の築造に伴って小嶋の弘化台は掘削されたようである。現在は弘化台中央卸売市場の片隅に小さな厳島神社が祀られていた。(下画像-今昔マップより)各地の厳島神社⑰-弘化台厳島神社
上画像のような平良丘陵開発が行われる予定地の山々を山陽自動車道宮島サービスエリア下り線の展望所先端部からパンニング俯瞰。4枚目画像の海の向こう遠くにG7広島サミットで各国首脳が訪れた宮島が見られる。平良丘陵開発予定地俯瞰
平良丘陵開発地域への市道堂垣内広池山線のルートで可愛川の東側部分(下画像赤丸ケ所)では道路の一部が築造されていた。上画像の山方面に道路が向かうと以前紹介した旧石州街道がある所に向かう。中画像の可愛川には橋が架けられて向うの国道433号線の陽光台南交差点に接続するようになる。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線道路改良工事の今
ウォーキング途中の畑の隅に珍しい磁器製の酒樽が置かれており、酒樽には「廿日市丸亀支店正宗第六号」とあった。丸亀支店とあるのはかつての家納喜酒造創業者である丸亀小六に関係があるものとみられるのである。丸亀小六は大正7年(1918)に丸亀商店、大正9年(1920)に家納喜酒造を創業している。下画像には丸亀酒場とあり丸亀支店・丸亀酒場は丸亀商店創業以前のものであろうか。「正宗」磁器製酒樽
平良丘陵開発予定地内の広池地区をウォーキングしていると道端にピラカンサの花が咲いていた。秋には赤い実がびっしりとなっているのを車での通りがかりに何年も見ていたのであるが、花が咲いているのは歩いていて初めて気が付いた。ここは開発予定地内であり赤い実がなるまでには取り除かれてしまうのではなかろうか。ピラカンサの花
本日から広島サミットが開催される。以前訪れた北海道洞爺湖畔には平成20年(2008)7月に開催された洞爺湖サミットを記念した洞爺湖サミット記念館が設けられていた。記念館内には各国の首脳たちが意見を戦わせた会議テーブル等が保存展示してあった。洞爺湖サミット記念館
大竹市小方の旧西国街道の苦ノ坂峠手前に残されている逓信省時代の装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡で、ケーブル心線による電話回線は通話能力が減衰するために装荷線輪をケーブル亘長1830m毎に設置したようで、「ケーブルハット」はこの装荷線輪装置を収納していた所のようである。以前に紹介した畑口橋交差点近くにあるレトロな逓信省看板は苦ノ坂の「ケーブルハット」と同じ長距離電話ケーブル関連の施設のようで、これらから長距離電話ケーブルは旧西国街道沿いに設置されたようである。(資料-東京神戸間長距離電話「ケーブル」工事の概要より)装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡
今ではあまり見ることが無い閂(かんぬき)が昨日紹介した木野厳島神社境内にある神輿庫でみられた。倉庫や物置などの大きな開口部の両開き戸や折畳み戸などの施錠のための横棒を閂というが、現在はシャッターなどが設けられて見かけることが殆どないのである。閂(かんぬき)
木野集落の後背山斜面に建立されている厳島神社で旧称は氏野大明神と称されていたようである。江戸期の地誌には「氏野社とあり瀛津姫命を祭る、境内に末社五宇あり」とある。現在一段高い所に摂社・末社の恵比須神社・天満宮・祇園神社・稲荷神社・金比羅神社・人丸神社が祀られている。各地の厳島神社⑯-木野厳島神社
小瀬川(木野川)沿いの木野集落にある木野小学校跡で平成23年(2011)3月に廃校となったようで、学校跡には体育館が残されており隣接して木野集会所が建てられている。集会所脇には昭和14年(1939)2月11日に寄付建立された二宮金次郎像と昭和51年(1976)に建立された創立百周年記念碑「創造」が残されている。小瀬川沿いぶらり-木野小学校跡
昨日紹介した宗玄寺の少し上流側の小瀬川(木野川)沿いに比較的新しい校舎の乙瀬小学校跡があった。狭い前庭には昭和62年(1987)3月に建立された開校百周年記念の乙女像が残されていた。この学校は平成13年(2001)に小瀬小学校に統合され休校していたが平成26年(2014)に廃校となったようである。小瀬川沿いぶらり-乙瀬小学校跡