臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
梅雨時期に以前にも紹介したことがある岩国市六呂師大藤にある梅雨左衛門で、江戸期の地誌には「田疇ニ大岩高サ四間程也。岩中ニ一双小蛇有。形烏蛇ノ如ク、白色頭帯。毎年入梅ノ日ヨリ、彼蛇岩ノ穴ヨリ頭ヲ出シ退不。半夏ノ日ニ至テ始テ穴中ニ入ル。郷俗、梅雨座左エ門ト号。・・・」とある。近年は田畑が荒れ地となって近くに行くことが出来なくなっているものと思われる。(上・中画像-2011.07.06撮影)(下画像-2020.06.29撮影)梅雨左衛門
当ブログ主が子供の頃清水が湧き出しているとのことで親に連れられて行ったことがある。当時この付近まで田んぼが植えられ田の畔を通って清水に行ったことを記憶している。昭和後期頃に観光協会が整備してつゆ太郎水として紹介してから汲み取りに行く人が多くマイ猫車が多く並んでいた。現在は蛇頭の口が詰まっているのか上段画像のようである。つゆ太郎水今昔
梅雨の合間に梅雨太郎さんに会いに行ったが見かけることができなかった。巨岩の石の割れ目にいるというが・・・江戸期の地誌には「異石-上平良村石か小屋にあり、石罅に雙蛇を栖しむ、梅雨の後、去て見えず、此石犯すものは祟ありといふ」とある。梅雨太郎さん
平良丘陵開発予定地内の広池地区を久しぶりにウォーキングしてみると以前山林伐採されていた山が掘削され始めていた。調整池予定地付近でも何かの工事が始まっているようである。8月頃から市道が通行止めとなるようなのでそれまで進捗状況を見ていきたい。平良丘陵開発の今
昨日紹介した広電バス葛原線峠車庫跡内に残されている上画像の手押し消防ポンプは以前に紹介したが、二段目画像は浅原地区の民家軒下に吊り下げられていた自家用の足踏み消防ポンプで大正3年(1914)に購入されたようである。(2006.7.30撮影)三段目画像は太田川沿い打梨地区の消防小屋でみかけた消防ポンプで台車の上にエンジン式消防ポンプを載せたものである。(2020.12.07撮影)下画像はウォーキング途中で見かけたもので手押しポンプ脇に江戸期、明治期に用いられた消火道具の龍吐水の一部とみられるものである。(2019.11.20撮影)レトロ消防ポンプ
酷道433号線沿い葛原集落の最奥部に残されている広電バスの葛原車庫跡で以前にも紹介したことがある。この葛原線は昭和38年(1963)6月1日に開通しており、広島バスセンター発(12:15、17:37)~葛原行、葛原発(6:34、14:24)~広島バスセンター行の二便往復があった。何時頃に廃止されたのかは不明であるが、現在はささき観光の代替バスにて川角、上白川方面への便が運行されているようである。広電バス葛原線峠車庫跡
佐伯区葛原の酷道433号線を走っていると茅葺屋根に葺き替えたばかりの民家がみられた。GoogleEarth画像には薄鉄板覆いの民家(下画像)が見られこの民家が葺き替えられたようである。隣接の骨組みなどから民家で使用されるのではないようにみられるのであるが・・・茅葺民家が!
昨日紹介した太陽光発電所から県道461号線を白砂方面に進んで行くと道路脇に馬魂碑が建立されている。碑文によるとこの地は血とり原と呼ばれ近郷近在の馬が集められ血とりが行われたようで、営農生活に貢献した愛馬の霊を慰めるために愛馬会により昭和53年(1978)10月に建立されたようである。(馬の血とりは冬の間に伸びた爪を切ったり、手足の関節のあたりの内側や上唇と歯の間に焼きゴテをちょっと当てたりするようで、馬の健康管理のために昔から行われていたようである。)馬魂碑
一昨日紹介した新西広島変電所の入口にあったゴルフ練習場が太陽光発電所になっていた。下画像は平成20年(2008)の国土地理院の空中写真でありゴルフ練習場がみられる。広島県の資料などによると令和になってから設置されたようである。ゴルフ練習場が太陽光発電所に
水稲育成箱で陸稲・黒米・赤米の種を蒔いていたのが育ってきたので雨が降るとのことで昨日夕方畑に植付けした。育成箱の上左側が黒米、上右側が陸稲で下両側は赤米の苗で、畑の向う側が陸稲、手前左側が黒米、右側が赤米である。本来陸稲は畑に直播きし黒米・赤米は水田に植えるものであろうが、手間暇かけてこれらがどのように育っていくのかまさに遊びの菜園である。遊びの菜園-陸稲・黒米・赤米畑植
玖島地区の上大町から県道461号線を白砂方面に向かって行くと佐伯区境の手前の山中に広大な新西広島変電所がある。50万V送電線の東山口幹線、西島根幹線、新西広島幹線と接続して22万Vの2系統で広島市や県西部地区への電力供給拠点としての役割を担っているようである。(国土地理院地図加筆)新西広島変電所
玖島上大町地区の谷間を登った所にある小さな溜池で張り出した木の枝にモリアオガエルの卵塊が多くみられた。すでに孵化して雨で溶けて池面に落下した跡も多く見られるので訪れる時期が少し遅かったようである。モリアオガエルの卵塊
以前、原地区橋本集会所前に設置してある公衆電話ボックスに公衆電話を撤去すると掲示してあった。ウォーキングコースを変えていたのでどのようになっているのか知らなかった。昨日通っていると公衆電話機は無くなっていたがまだ元の公衆電話ボックスは残されていた。元公衆電話ボックスが!
田んぼの水廻りを兼ねた早朝ウォーキング途中に茅の葉があったので久しぶりに茅の葉バッタを作ってみた。当ブログを始めた最初の記事・画像は、早朝ウォーキング途中茅の葉でバッタを作っていたおじさんに出会い、教えてもらい作ったバッタ画像であった。その日から本日で6204日目である。茅の葉バッタ
栗栖の田の神観音神社の田の神体調不良で助っ人頼みとなった田植えも終わって順調に育っているようである。昨日夕方鴨がやってきて田の世話をしてくれていたがあとは田の神に・・・当地方では田の神信仰はみられないが栗栖と観音神社には他地方から移された田の神がみられる。田の神信仰は鹿児島県や宮崎県地方などでみられる習俗のようである。田の神に!
和歌山県串本町の紀伊半島南端部にある潮岬灯台は我が国最初の洋式木造灯台であった。この灯台も先に紹介した角島灯台、六連島灯台、樫野崎灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治6年9月15日初点灯している。その後石造に改築され明治11年4月15日に再点灯しているようである。元吏員退息所は灯台資料展示室となっている。(2016.02.16探訪)各地の灯台④-潮岬灯台
昨日、平良丘陵開発予定地内の広池地区を通っていると山林の木が伐採されており、他のケ所でも作業が行われて開発工事が始まっているようである。伐採地付近は地図を見ると新幹線五日市トンネルが通っている付近のようである。平良丘陵開発の今
田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキングで足を延ばして速谷神社に参詣している。現在、創建1800年記念事業の一環として社殿周囲に巡らされている板玉垣が老朽化しているために建て替えの工事が行われていた。速谷神社板玉垣工事の今
和歌山県串本町の紀伊大島にある樫野崎灯台で、この灯台も角島灯台、六連島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治3年(1870)6月10日初点灯のようである。当初の灯台は低いものであったため昭和29年(1954)に継ぎ足し工事が行われたようである。この灯台も半円形貯納庫がみられ上部に展望台が増設されている。吏員退息所は国登録有形文化財に指定されており資料館となっている。(2016.02.16探訪)各地の灯台③-樫野崎灯台
下関市六連島にある六連島灯台で角島灯台と同じく英国人技師R.H.ブラントンの設計で明治4年(1871)11月21日初点灯のようである。石造の灯台で角島灯台に比べ低い灯台で半円形貯納庫は同じような形状である。吏員退息所や倉庫は取り壊されており灯台のみとなっている。(2019.04.04探訪)各地の灯台②-六連島灯台
元吏員退息所クヅ瀬照射灯元気象観測舎角島灯台は角島大橋が開通した時以来の探訪で、灯台周辺には元吏員退息所、元倉庫、クヅ瀬照射灯、元気象観測舎などがある。明治政府は洋式灯台の有効性を強く意識し、英国人技師R.H.ブラントンを招聘して各所の灯台を設置しており、角島灯台は明治6年(1873)8月に起工して明治8年(1875)12月に灯台、吏員退息所、倉庫などが竣工している。吏員退息所は創建当時の復元工事が行われて現在は灯台記念館として使用されている。クヅ瀬照射灯は沖合の国石岩礁上の標柱を照らす装置で灯台上部に併設されていたが、昭和47年(1972)3月に現施設が設置されたようである。旧角島灯台気象観測舎は昭和18年(1943)から昭和39年(1964)まで使用されていたようである。(吏員退息所関連-阿多田島灯台...角島灯台
地域のOLD倶楽部の人達と北長門方面を旅行した。角島大橋が開通した時に訪れて以来の久しぶりに訪れた。龍宮の潮吹きは遥か昔に訪れたが現在は元乃隅神社が祀られてすっかり様子がかわっていた。ずらりと並んだ赤い鳥居の景観はインスタ映えするとのことだろうか多くの人達がみられ、なんと岐阜県から観光バスがやってきていた。北長門旅行
田植えをしたばかりの田んぼにカモのつがいがやって来た。カモが水中をかき乱すので植えたばかりの苗が浮かないかと心配で追い払いたいところであるが・・・ブログのネタ切れ気味なので我慢して撮影をしていたらどこかに飛び去って行った。田んぼにカモが!
ウォーキング途中の田んぼの荒れ地に見たことが無いような小さなキキョウに似たような花があった。ネットで調べてみると北アメリカ原産の帰化植物のキキョウソウのようである。別名はダンダンギキョウ(段々桔梗)というようで、この葉の付きかたから付いた名前のようである。野の花-キキョウソウ
廿日市18代目桜島大根(上画像)と廿日市8代目切葉松本地大根(下画像)の種が実ったので昨日採取した。この種で次のシーズンには廿日市19代目桜島大根と廿日市9代目切葉松本地大根を栽培する予定である。近接して栽培しているので桜島大根の影響なのか切葉松本地大根の特徴が全くないようなものになっているのである。桜島大根も廿日市18世桜島大根となっているのである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の種採取
天満神社の玉垣正覚院の石燈籠佐方八幡神社の狛犬佐方八幡神社の石燈籠御船屋敷には元文元年(1736)頃に93人の家中が居住しており、市域の寺院には船屋敷関係者の墓碑が多くみられる。また家中の田原小左衛門は天満神社の玉垣、正覚院の石燈籠、佐方八幡神社の狛犬を寄進し、堀田仁助藤原泉〇は佐方八幡神社の石燈籠を寄進しており、船屋敷の人々は廿日市町人の生活の中に融合していたようである。津和野藩御船屋敷家中の寄進物
津和野藩主の亀井家は江戸時代大名の重要な勤めであった参勤交代などの往来に際し津和野街道を東上して廿日市に宿泊しここから海路をとっていた。この中継居留地が津和野藩御船屋敷(廿日市下屋敷)であったが御船屋敷の遺構は残されていない。昨年までは御船屋敷跡に津和野太鼓谷稲荷神社を勧請して祀られていた稲生神社があったが現在は天満神社境内社の稲荷神社に合祀されている。唯一定かでないが御船屋敷時代のものではないかと思われる井戸が某所に残されている。(井戸画像-昭和後期に撮影)「廿日市の文化第19集津和野藩御船屋敷(屋敷位置復原の試み)参照」津和野藩御船屋敷旧跡
中央市民センターの掲示板に津和野街道交流記念事業のパンフレットが掲示してあり、今月11日に厳島神社の平舞台で津和野弥栄神社の鷺舞が奉納されるようである。鷺舞の画像は平成29年(2017)7月20日に津和野町の殿町通りで舞っている鷺舞である。鷺舞奉納
廿日市町絵図芸州吉田行程記中央市民センター横の四辻角が更地となっていた。かつて旧西国街道沿いの四辻角には胡堂(廿日市絵図)、市戎(芸州吉田行程記)があったが、近代に新港町に移され現在は天満神社境内に祀られている。中世、ここの四辻付近では市場が形成され商業の神として市戎が祀られ20日の御開帳の日の市が著名となり廿日市地名の起源と思われるのである。(「廿日市」地名の起源について)廿日戎旧跡
鳥取県日野町の下榎に祀られている厳島神社で、伯耆志によると祭神は田心姫命、湍津姫命、市杵島姫命で、長谷部信連の子孫が安芸佐伯郡の厳島神社を勧請したとあり、応永9年(1402)、応仁元年(1467)、大永3年(1523)の棟札なども記されているので中世から祀られていたものとみられるのである。各地の厳島神社⑲-下榎厳島神社
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臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で現在何かの工事が行われていると先日紹介した。後日訪れてみると周辺部に看板表示がしてあつた。来年4月14日までの工期で海上部上部工工事が行われているようである。海上部上部工とあるが橋が完成するまでが含まれているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
先日来、諏訪大社を参詣したことを紹介したが、諏訪大社上社前宮と下社秋宮で鋳造鳥居を撮影することが出来た。上社前宮の鳥居は鋳造銘文によると大正10年(1921)年に鋳造建立されたようであり、下社秋宮の鳥居は刻銘分によると文化12年(1815)に鋳造建立されたようである。鋳造鳥居二基
さくらのおか公園や周辺の法面に鮮やかな黄色の花が咲いており何の花かと思っていたが、なんと特定外来生物に指定されたオオキンケイギクとのことであった。この花は日本の生態系に重大な影響をおよぼすおそれがある植物ということで栽培、運搬、販売、野外に放つことなどが禁止されているようである。臨港道路廿日市草津線の分離帯でもオオキンケイギクの群生がみられた。特定外来生物オオキンケイギクが!
アルプス公園内に設けられている山と自然博物館の5階展望室からは北アルプス連峰や松本平、安曇野平など360度が一望できた。生憎の曇天で美しい北アルプス連峰の画像は撮れず画像のような状態であった。アルプス公園からの遠望
今年の3月に訪れてから再度の探訪となった。城内見物は数珠繋ぎ状態であったが、前回の時よりは少な目であった。前回は時間の関係で赤い埋橋方面に行くことが出来なかったが赤い折れ曲がった埋橋と天守閣画像が撮れた。松本城は国宝の天守閣5城の一つであり、現存の天守閣12城の一つでもある。国宝松本城天守閣探訪
松本城下町に祀られている深志神社を参詣した。当神社は中世にこの地の領主により先日来紹介している諏訪大社の分霊を宮村宮としてこの地に祀り、北野天満宮の分霊が他所に祀られていた。後に天満宮を宮村宮の傍に遷し宮村両社とされていたのを深志神社と改称されたようである。ここの宮司さんは何と当市佐方にお住まいであったようで、遥か昔に当ブログ主は父上様と姉上様に別々の場所でお逢いしたことがあったのである。深志神社
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社春宮は旧中山道脇に祀られている。社殿配置は秋宮とほぼ同じようであり中央に神楽殿があり、後方に弊拝殿と左右片拝殿と東西御宝殿が配置されている。現在車道となっている参道中央に下馬橋(太鼓橋)があったが、マイクロバス移動だったので撮影できなかった。これで諏訪大社の上社本宮、上社前宮、下社秋宮、下社春宮を参詣することが出来た。諏訪大社参詣-下社春宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、下社秋宮は旧中山道と甲州街道が交わる地に祀られている。温泉地であり手水に温泉(御神湯)が使われている。社殿の周囲には7年に一度の大祭である御柱大祭の4本の御柱が立てられている。諏訪大社参詣-下社秋宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、前宮は本宮より少し離れた場所に祀られている。諏訪信仰の発祥の地だったが、室町中期に本宮の地に神殿が移転したようである。本殿は神明造りで伊勢神宮の用材で建てられたようである。諏訪大社参詣-上社前宮
信濃国一ノ宮である諏訪大社は諏訪湖の周辺4ケ所に祀られている神社で、上社本宮は弊拝殿の左右に片拝殿が並んでいる諏訪造りという社殿配置のようである。四脚門は徳川家康が寄進した門のようである。7年に一度の大祭である御柱大祭の一ノ御柱のみしか撮影できなかった。諏訪大社参詣-上社本宮
下関市豊田町殿居に祀られている厳島神社で、江戸期の防長寺社由来によると芸州佐伯郡宮島勧請とあり、文安5年(1448)に願主佐伯盛安によって再造立されたようである。江戸期、長州藩一門家老である吉敷毛利家の5代当主毛利広包が社殿を再建している。各地の厳島神社㉚-殿居の厳島神社
昨日は某研修旅行で名古屋から木曽路、諏訪地方にきた。諏訪大社など参詣して諏訪湖畔のホテルに宿泊した。慣れないタブレットから送信。信州探訪
臨港道路廿日市草津線の広島はつかいち大橋の下り線側の橋脚工事で海中部分の工事は去年位に終わっていた。現在何かの工事が行われているようであり、上部橋梁工事に向けての準備工事が行われているのであろうか。広島はつかいち大橋の今
半世紀前頃に訪れた地にあった窯元で記念に求めたものである。安来市伯太町母里には江戸期、松江藩の支藩であった母里藩の陣屋があった所で、陣屋跡や街並み、母里焼の窯元など探訪し求めたものである。ノコギリの刃のようにギザギザの町並みがあったのを現在でも覚えている。現在、求めた母里焼窯元は廃窯となっているようである。抹茶碗で一服①-母里焼
以前に紹介した河野原溜め池のほかに、迫の谷下流のジャングル化した中に小さな溜め池がまだ残されていた。宝暦2年(1752)の上平良村の地誌に「河ノ原留池水持4畝拾弐歩水懸り3町2反」とある。子供の頃この溜め池で泳ぐようになっていたが、浅く小さいために前述のため池に仲間達とこっそりと行っていたのを思い出した。遥か昔の話。河ノ原溜め池
長野川取水口川末川取水口上平良大原地区の大原井手(仮称)は長野川から取水しているが、渇水期には水量が少ないので川末川から取水して井手のバイパス(井手名不明)を経て長野川に流入している。かつて大原井手セキの時には、原地区の井手のバイパス関係者に届け物をしていたということである。中世には森宗を所有していた桂元澄と下流の厳島社領大原御衣領の用水懸りを巡る紛争が記されており、古くから大原地区は用水不足気味であったようである。井手のバイパス
5月の第一日曜日は当ブログ主の田んぼに関係する水路の井手セキであり、水路を清掃した。現在水路はコンクリート溝となっているので作業をすることは少なくなったが、水田を作らなくなった人達も参加しての久しぶりの顔合わせとなった。かつて井手の修理に掛かった費用は田んぼの面積按分で負担していたとのことである。江戸期の地誌に各所の井手が記されているがこの井手がどれに相当するのか定かでない。井手セキ(堰き)
藤掛交差点脇の七尾陸橋歩道脇の街路樹に数多くの小さな蕾が付いている樹木があったが、当ブログ主は初めてみるようなものであった。Googleレンズで検索するとカナメモチという樹木のようである。カナメモチ⁇
平良丘陵開発地内で稼働していた掘削ブルトザーや運搬ダンプカーなどが、大型連休のために広場に勢揃いしていた。山が掘削されて左側向うにはアーバンビュー渚の高層マンションが良く見えるようになった。また、五日市港には大きな船が停泊しているのがみられた。造成機器が勢揃い
峰高陸橋付近からの平良丘陵開発地の遠望で、昨日紹介した工事ケ所が画像右端に見える部分である。後方高い山が中世の星ケ城跡で右側の低く見える山に極楽寺がある。画像中央を横切っているのが西広島バイパスの廿日市高架橋でその手前には市道の平良佐方線の七尾陸橋がみられる。カメラ位置のすぐ下にはJR山陽本線が走っている。平良丘陵開発地遠望
高知市を流れる鏡川と国分川の合流付近にあった小嶋の弘化台に厳島神社が祀られていたようであるが、弘化台埋立地の築造に伴って小嶋の弘化台は掘削されたようである。現在は弘化台中央卸売市場の片隅に小さな厳島神社が祀られていた。(下画像-今昔マップより)各地の厳島神社⑰-弘化台厳島神社
上画像のような平良丘陵開発が行われる予定地の山々を山陽自動車道宮島サービスエリア下り線の展望所先端部からパンニング俯瞰。4枚目画像の海の向こう遠くにG7広島サミットで各国首脳が訪れた宮島が見られる。平良丘陵開発予定地俯瞰
平良丘陵開発地域への市道堂垣内広池山線のルートで可愛川の東側部分(下画像赤丸ケ所)では道路の一部が築造されていた。上画像の山方面に道路が向かうと以前紹介した旧石州街道がある所に向かう。中画像の可愛川には橋が架けられて向うの国道433号線の陽光台南交差点に接続するようになる。(廿日市市地図情報システムより)市道堂垣内広池山線道路改良工事の今
ウォーキング途中の畑の隅に珍しい磁器製の酒樽が置かれており、酒樽には「廿日市丸亀支店正宗第六号」とあった。丸亀支店とあるのはかつての家納喜酒造創業者である丸亀小六に関係があるものとみられるのである。丸亀小六は大正7年(1918)に丸亀商店、大正9年(1920)に家納喜酒造を創業している。下画像には丸亀酒場とあり丸亀支店・丸亀酒場は丸亀商店創業以前のものであろうか。「正宗」磁器製酒樽
平良丘陵開発予定地内の広池地区をウォーキングしていると道端にピラカンサの花が咲いていた。秋には赤い実がびっしりとなっているのを車での通りがかりに何年も見ていたのであるが、花が咲いているのは歩いていて初めて気が付いた。ここは開発予定地内であり赤い実がなるまでには取り除かれてしまうのではなかろうか。ピラカンサの花
本日から広島サミットが開催される。以前訪れた北海道洞爺湖畔には平成20年(2008)7月に開催された洞爺湖サミットを記念した洞爺湖サミット記念館が設けられていた。記念館内には各国の首脳たちが意見を戦わせた会議テーブル等が保存展示してあった。洞爺湖サミット記念館
大竹市小方の旧西国街道の苦ノ坂峠手前に残されている逓信省時代の装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡で、ケーブル心線による電話回線は通話能力が減衰するために装荷線輪をケーブル亘長1830m毎に設置したようで、「ケーブルハット」はこの装荷線輪装置を収納していた所のようである。以前に紹介した畑口橋交差点近くにあるレトロな逓信省看板は苦ノ坂の「ケーブルハット」と同じ長距離電話ケーブル関連の施設のようで、これらから長距離電話ケーブルは旧西国街道沿いに設置されたようである。(資料-東京神戸間長距離電話「ケーブル」工事の概要より)装荷線輪装置用「ケーブルハット」跡
今ではあまり見ることが無い閂(かんぬき)が昨日紹介した木野厳島神社境内にある神輿庫でみられた。倉庫や物置などの大きな開口部の両開き戸や折畳み戸などの施錠のための横棒を閂というが、現在はシャッターなどが設けられて見かけることが殆どないのである。閂(かんぬき)
木野集落の後背山斜面に建立されている厳島神社で旧称は氏野大明神と称されていたようである。江戸期の地誌には「氏野社とあり瀛津姫命を祭る、境内に末社五宇あり」とある。現在一段高い所に摂社・末社の恵比須神社・天満宮・祇園神社・稲荷神社・金比羅神社・人丸神社が祀られている。各地の厳島神社⑯-木野厳島神社
小瀬川(木野川)沿いの木野集落にある木野小学校跡で平成23年(2011)3月に廃校となったようで、学校跡には体育館が残されており隣接して木野集会所が建てられている。集会所脇には昭和14年(1939)2月11日に寄付建立された二宮金次郎像と昭和51年(1976)に建立された創立百周年記念碑「創造」が残されている。小瀬川沿いぶらり-木野小学校跡
昨日紹介した宗玄寺の少し上流側の小瀬川(木野川)沿いに比較的新しい校舎の乙瀬小学校跡があった。狭い前庭には昭和62年(1987)3月に建立された開校百周年記念の乙女像が残されていた。この学校は平成13年(2001)に小瀬小学校に統合され休校していたが平成26年(2014)に廃校となったようである。小瀬川沿いぶらり-乙瀬小学校跡
小瀬川(木野川)沿いの岩国市乙瀬地区にある護念山宗玄寺の本堂に架けられている喚鐘で、銘文によると宝永3年(1706)8月2日に廿日市鋳物師の山田貞能が鋳造している。山田貞能の鋳造作品は梵鐘・喚鐘など14口の鋳造をしたことが判明している。以前に、何時の時代のことかは不明であるが当寺の梵鐘を近くの小瀬川河原で鋳造したとの話を聞いたことがある。小瀬川沿いぶらり-宗玄寺の喚鐘
神楽殿の大注連縄で出雲大社のHPによると長さ13.6メートル、重さ5.2トンとあり日本最大級の注連縄といわれている。かつて訪れた福岡県福津市にある宮地嶽神社の大注連縄(下画像)はHPによると「当神社の注連縄は直径2.6m、長さ11m、重さ3トンの日本一の大注連縄で当社のシンボルである」とある。出雲路ぶらり-出雲大社③
かつて拝殿の西側には上画像のような、神社建築の社殿が建ち並んだ境内に異彩を放った斬新な鉄筋コンクリート造の庁舎があったが現在は下画像の木造庁舎が建てられていた。旧庁舎は著名な建築家菊竹清訓氏が設計したものであるが、老朽化や耐震問題などのために建替えとなったようである。出雲路ぶらり-出雲大社②
洞雲寺本堂脇の池の中にある小祠で古くは鎮守堂と記されており、寺院の土地、境内、建物の護り神として当寺と関わりの深い厳島神社を分祀して祀ったものとみられる。江戸期の辛未紀行(文化8年-1811)に「鎮守厳島社、寺ノ左ニ有、弘安四年寄附ノ鰐口・・・」、洞雲寺誌に「鎮守堂、ひわだ葺」とあり、現在は小祠であるが江戸期には桧皮葺の堂で向拝に鰐口が吊るされていたようである。この鰐口は願主が海田庄中金屋とあるので現在の奥海田で鋳造活動をしていた中金屋が寄進したようである。洞雲寺-境内社厳島神社
昨日は「とおーんじ」の日だった。廿日市駅裏にある洞雲寺の花まつりの日であるが「とおーんじ」といっても分かる人は少ないであろう。洞雲寺の縁日は「とおーんじ」で極楽寺の縁日は「かんのんさん」、小中学生の頃は授業が早く終わっていたので小銭をにぎって行っていたものだ。かつて洞雲寺の縁日(花祭り)には山陽本線脇の参道入口から鐘楼門前までずらりと露店が並んでおり植木露店が多いのが特徴的であった。現在は門前マルシェが開催されておりかつて植木露店や一般露店がずらりと並んで賑わっていた頃を彷彿とさせる。とお-んじ
石見路から急遽コースを変えて何年ぶりであろうか久しぶりに出雲大社へ参詣のため訪れた。お参りをする八足門手前の石段下には過去に行われた発掘調査で出土した巨大な本殿跡の柱根元部分を表したマークがみられる。下画像は平成12年(2000)4月29日付の読売新聞一面で、トップ記事に巨大な柱根元部分の出土を報じている切り抜きである。出雲路ぶらり-出雲大社
上画像は大田市駅跨線橋の渡り通路の小屋組みで見たことが無いような鋼材の組み合わせの小屋組みである。下画像は江津駅跨線橋の小屋組みであり山形鋼を組み合わせてリベット接合したもので、昭和期中頃まで採用されていた工法である。大田市駅は大正4年(1915)に開業、江津駅は大正9年(1920)の開業であり、年数の隔たりは少ないのに小屋組み形状が異なっているのは昨日ふれたように大田市駅跨線橋が他所から移築されたのではないかと思われるのである。石見路ぶらり-大田市駅跨線橋②
大田市駅跨線橋江津駅跨線橋JR大田市駅の跨線橋で階段登り口両側の柱や渡り廊下の柱が珍しい鋳鉄製柱で造られている。登り口の柱脚部分には「MAKERSKOBE1890」とあり明治23年(1890)に鋳造されたようであるが、当駅は大正4年(1915)に開業しているので他所から移築されたものであろうか。看板表示には帝国鉄道庁神戸工場で製造されたとあるが、帝国鉄道庁は1907年に設置されている。下段画像は以前に訪れて紹介したことがある江津駅の跨線橋で階段登り口の柱脚正面に「鉄道院」側面に「明治四十五年横河橋渠製」と鋳造文字が見られる。それ以前の英字鋳造文字のある大田市駅跨線橋柱は外国で製造されたものかも知れない。石見路ぶらり-大田市駅跨線橋
島根県はアナゴの漁獲量日本一でその半分は大田市で水揚げされているようであり、久しぶりに穴子料理を食べに大田市に向かった。GW期間中メニューとなっていたが穴子丼と連れ添いは穴子天丼を食した。大雑把な配膳であったが瀬戸内ではみられないようなボリュームたっぷりの穴子料理を堪能したのである。出雲路ぶらり-大アナゴ