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  • アリウム・トリケトラムが ‼

    山道をウォーキングしていると道端に見たことが無いような小さな花が咲いていた。何の花だろうかと抜いてみるとスイセンのような葉であり球根が付いていた。ネットで調べてみると聞いたことがないようなアリウム・トリケトラムのようで、地中海沿岸地方の比較的多湿な地に自生しているニラ・ネギの仲間のようである。人里離れた山になぜ生えているのだろうか。アリウム・トリケトラムが‼

  • 遊びの菜園-桜島大根と切葉松本地大根の今

    先日、廿日市18代目桜島大根(上画像)と廿日市8代目切葉松本地大根(下画像)が花をつけ始めたことを紹介したが、もう実が大きくなっていた。種が出来たら次のシーズンには廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根を栽培する予定である。遊びの菜園-桜島大根と切葉松本地大根の今

  • 国前寺の梵鐘・喚鐘

    以前訪れた広島駅の裏手にある国前寺の梵鐘と喚鐘は廿日市鋳物師が鋳造したもので、梵鐘と喚鐘は元禄7年(1694)7月に鋳造されている。梵鐘には山田治右衛門、喚鐘には山田治右衛門藤原貞栄と刻されており、山田貞栄の鋳造作品は16口の梵鐘、喚鐘の鋳造が判明している。(梵鐘、喚鐘画像は過去に行われた見学会時に撮影)国前寺の梵鐘・喚鐘

  • 弾丸鉄道用地杭

    昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭

  • 西国街道-鳴川の石畳

    江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳

  • 唐船浜

    大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜

  • 雉の雄が!

    雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!

  • 汐原観音堂の喚鐘

    観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘

  • 汐原観音堂

    汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂

  • 佐伯高校吉和分校跡

    吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡

  • ルバーブ

    当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ

  • 吉和村閉村モニュメント

    市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント

  • 水仙ロード

    吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード

  • 吉和支所複合施設整備工事の今

    市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今

  • 各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社

    愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社

  • 旧石州往還道を歩く-②

    平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②

  • 旧石州往還道を歩く

    久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く

  • 新幹線五日市トンネルの点検孔口

    平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口

  • 平良丘陵開発土地区画整理事業の今

    表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今

  • 平良小学校-平和の鐘

    平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘

  • さくらのおか公園-鬱金(うこん)

    昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)

  • 講中膳

    白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳

  • 長良川鉄道

    長良川鉄道の終着駅である北濃駅から長良川沿いの桜など見ながら観光列車ではなく普通列車で郡上大和駅までの列車旅をした。北濃駅は元国鉄の越美南線の終着駅だったようで当時の転車台が残されており、国の登録有形文化財に登録されているようである。長良川鉄道

  • ウダツの町屋

    上画像は郡上八幡の職人町・鍛冶屋町・柳町の町並みで、国重要伝統的建造物群保存地区に選定されているようである。吉田川を渡った伝統的建造物群保存地区の新町通り町並みにウダツある町屋が2棟みられた。中画像は水野家住宅、下画像は斉藤家住宅で何れも鉄板葺きの屋根で本ウダツが設けられている。今まで見てきた本ウダツとは異なり屋根勾配が緩くウダツ屋根も鉄板葺きのためよく見ないと気付かないようなウダツである。ウダツの町屋

  • 山桜神社の火の見櫓

    飛騨高山の古い街並みから宮川に架かる柳橋を渡り本通り商店街にある山桜神社社殿の建屋上にある木造の火の見櫓である。嘉永7年(1854)に馬頭組により火消溜所が建てられたようで、大火で明治14年(1881)に再建され、昭和7年(1932)に現在地に移築されたようである。櫓内には明治14年(1881)刻銘の半鐘が吊り下げられているようで再建時のものとみられている。構造は江戸時代からの櫓建築の技法を踏襲しているようであり登録有形文化財(建造物)に指定されている。山桜神社の火の見櫓

  • 火の見櫓が!

    高山市の県道89号高山上宝線(飛騨・そま街道)沿いで火の見櫓が見えたのでバス車中から撮影。グーグルアースで調べてみると高山市消防団丹生川支団第3分団消防車庫脇にある火の見櫓であった。火の見櫓は当地方では見かけることが無いが長野県や近隣地方には多く残されているようである。火の見櫓が!

  • 飛騨高山-ミノワ薬店

    古い街並みから少し離れた通りを散策していると、創業大正10年と表示のある老舗の薬屋さんに昨日紹介した下呂膏があったので購入した。店先には懐かしい人達のホーロー看板、ケロリンの洗面器などや店内には古い薬看板や置薬箱がずらりと並べられ、昔置き薬の中にあったような薬袋がみられどれもこれも懐かしいものばかりであった。飛騨高山-ミノワ薬店

  • 奥田又右衛門膏本舗-下呂膏

    宿泊地の下呂温泉には伝統の下呂膏があることを以前訪れた時に知っていたので、奥田又右衛門膏本舗を訪れてみたいと思っていた。しかし名神高速道路の渋滞で到着が遅くなり店舗はもう閉まっていた。下画像の膏薬は飛騨高山の薬屋さんで求めたものである。奥田又右衛門膏本舗-下呂膏

  • 各地の厳島神社⑬-十日市厳島神社

    三次市十日市町に祀られている厳島神社で以前は巴橋近くにあったが(上画像)、昭和47年(1972)の水害で堤防改修が行われ昭和50年(1975)に現在地に遷座されたようである。石見銀山街道側の参道に石鳥居が、堤防道路側の参道に赤い木造の両部鳥居が建立されている。各地の厳島神社⑬-十日市厳島神社

  • 飛騨高山・・・宮川朝市

    飛騨高山の古い町並みを散策してから宮川沿いで開かれている朝市をぶらりと見て歩いた。なんと外国の人達の多いこと・・・飛騨高山・・・宮川朝市

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