先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
上画像は6月15日に畑に植え付けた陸稲の現在で順調に育っているようである。下画像は田植えした黒米の苗が余っていたので畑植してみたがこれも今のところ何とか育っているようである。本来水田で栽培するものでありどのようになるのであろうか。遊びの菜園-陸稲の今
遠く離れた田んぼの水廻りを兼ねての早朝ウォーキング途中に速谷神社を参詣、何度か駐車場の拡張工事進捗状況を紹介していたがすでに完成している。現在は境内にある便所の増改築の工事が始まったようである。速谷神社記念事業の今
孫達にと思っていたスイカをすべて食べられたことを先日紹介したが、この他に黒ウリの多くも食べられてしまった。捕獲檻の貸与を依頼したが貸出中のことで自衛策を講じてならず者を捕獲した。イタチであろうか、捕獲後の今朝もまた下画像の籠蓋をしていた黒ウリの被害があったので複数のならず者がいるようである。ならず者御用だ‼
ウォーキング途中にある原市民センターでは日射を防ぐ緑のカーテンである西洋アサガオが茂っていた。ここのセンターのこの場所では毎年緑のカーテン・西洋アサガオがみられるのである。緑のカーテン
宮浜温泉の奥部で山陽自動車道(正式には広島岩国道路)側道脇に海望の源泉地と表示され小公園化された宮浜温泉の源泉地がある。平成5年(1993)に地下1400mまでボーリングしたようで、コアがずらりと並べられて庭園化されているが現状は画像のような状態である。当初は清水峰温泉と称されていたが昭和中頃に宮浜温泉と名付けられたようで、源泉量の不足によりこの地でボーリングされたようである。宮浜温泉源泉地
八坂川の上流で一昨日紹介した残念社近くに設けられている治山ダムの垂直堰堤からすだれ状に水が流れ落ちていた。雨が降った跡の水量が多い時であったのでこのような状態がみられたようである。カメラ位置を旧西国街道が横切っておりここを通った昔の旅人はこの流れで喉を潤したものであろう。すだれ滝で涼を⁉
残念社近くの四十八坂峠から経小屋山への登山道を少し登ると依田神社が祀られており、以前訪れた時は宮島工業高校建築科の生徒達での修復が行われていたが、平成28年(2016)に大野18区298軒の奉賛を得て社殿修復が完了したようである。この社殿は依田伴蔵の没後100年を機に昭和41年(1966)の命日である7月9日に建立されたようである。依田神社
山陽自動車道(正式には広島岩国道路)で大野地区を走っていると「残念さん」との看板がみられるが、久しぶりに残念社を訪れてみた。幕末の長州戦争時に丹後宮津藩士の依田伴蔵が和平の使者として遣わされていたが、四十八坂で長州藩の遊撃隊に撃たれ本懐達成できず「残念」と叫んで倒れたという。長州戦争後、土地の人々が戦死を悼み残念社を建てて祀り「残念様」といったようである。下絵図は山口県文書館蔵の芸州四十八坂ヨリ宮内辺戦争図である。残念社
昨日紹介したサイホン水路の近くの尾那岡に祀られている三十郎稲荷社で、大野町誌によると天明の頃、天草の女が伊勢参宮して尾道で三十郎という狐に見入られ狐つきとなって丸石に滞在していたが、狐がおちて本心にかえり生まれ故郷に帰っていった。後に女の住んでいた跡に稲荷社を建てたところ、田畑の作物の被害がなくなったという。三十郎稲荷社
丸石地区を通る国道2号線に平行してJR山陽本線があり、線路脇にレンガ積みの構築物がみられる。このレンガ積み構築物はかつてのサイホン式水路跡で、丸石新開への灌漑用水路が明治30年(1897)山陽鉄道の軌道工事に伴って切通し状になって分断されたために線路下を通水するこの逆サイホン式水路が築造されたものである。「広島県の近代化遺産参照」丸石のサイホン式水路跡
20日の昨日、市役所前の市民プラザで本市の地名にちなみ「はつかの市」が開催され、地元特産品をはじめ、野菜、果物や衣料品、小木工品、手作りの小物、衣料品などの品々が展示即売されていた。中世の廿日市は厳島神主家の本拠地であり、佐西の中心地で近郊近在の人達が集まり市は度々開催されていた。集落中心の四辻に祀られていた胡堂の御開帳の日である20日の市は、信仰心の深かった当時、御開帳の日「廿日の市」は特に賑わって廿日市地名が成立したものと思われるのである。「芸備地方史研究第250・251号所収「廿日市」地名の起源について参照」廿日の市
旧平良小学校の体育館は小学校移転に伴って平良体育館として使用されていたが、2017年に閉鎖され2019年に取り壊されて更地となっていた。(上画像-取壊し前の平良体育館)更地となっていた元平良体育館の跡地では、現在市道堂垣内広池山線の立ち退き代替え地としての住宅が建築中のようである。元平良体育館跡地の今
先月の北海道探訪で廿日市地方とは植生が違うなくらいしか感じていなかったが、洞爺湖ビジタセンター横に設置されていた太陽光発電のパネルを見ると角度があり、廿日市とは緯度が違うことを知らせてくれたのである。上画像:洞爺湖ビジタセンター横緯度42°33′下画像:廿日市市上平良緯度33°21′緯度の違い
広電宮島口駅の新駅舎が開通したことは先日紹介したが、これから周辺整備が来年3月末までに行われるようである。旧宮島口駅舎などの取壊し作業がすでに始まっているようであり、旧線路の撤去作業も行われていた。国道2号線から分岐して観光客用のアクセス道路が整備されるようである。広電宮島口駅整備工事の今
田んぼの稲は順調に育っており現在は除草剤を散布するので草取り民具を使用することは殆どない。親の時代に使用していた草取り民具で上画像はハッタンズリで柄の短いものはしゃがんで使用していたのだろうか。中画像はタグルマで柄は通常みかけるものはダブルのものであるが1本柄のものが残されていた。下画像は高松市田村神社で見かけた珍しい2連のタグルマでこのようなものは初めてみた。草取り民具
本日の新聞に来年開催される広島サミットに向けて政府事務局が発足したことと、湯崎県知事が国内での前回2016年の伊勢志摩サミットの関連施設を視察したことが報道されていた。2008年に北海道洞爺湖サミットが開催された洞爺湖温泉には洞爺湖サミット記念館があり、各国の首脳たちが意見を戦わせた会議テーブル等が、そのままの状態で保存展示されていた。洞爺湖サミット記念館
北海道道央自動車道の上り線側有珠山SAの屋上展望台に向かうホールに白樺人形の音楽隊がテーブルの上に設置されていた。北海道で多くみられた白樺の大小の木を輪切りにし組み合わせて人形や楽器を表したユニークな白樺人形の音楽隊であった。白樺人形の音楽隊
黒米赤米今年も田んぼの片隅に黒米と赤米を植え付けたが順調に育っているようだ。黒米はうるち米やタンチョウモチと一緒に6月13日に植え付け、赤米は苗が小さかったので17日に植え付けた。令和2年に出雲の道の駅で購入した黒米と赤米の玄米から栽培を始めて2年目である。遊びの菜園-黒米・赤米の今
先日来北海道旅行で紹介した所はマニアックな所ばかりであったが、最後に通常のツアーコースで訪れる地も数十年年ぶりに訪れたので・・・「鬼が出迎えてくれた登別温泉は地獄谷から湧出した温泉が引湯されており、ここを起点に放浪を・・・」「有珠山SAからの遠望で左側に有珠山と右側に昭和新山、右端遠くに羊蹄山がみられる」「金毘羅火口災害遺構で右側の桜ケ丘団地跡と左側に町営公衆浴場「やすらぎの家」跡がみられる」「サイロ展望台から洞爺湖・中島遠望。洞爺湖畔を一周したが立ち止まることなくただ走るだけ」「有珠山ロープウェイ展望台から洞爺湖と昭和新山遠望」「有珠山銀沼大火口遠望」「洞爺湖内の中島と向うに蝦夷富士といわれる羊蹄山の遠望」北海道ぶらり-洞爺湖有珠山ジオパーク
今回の旅行でゆっくりと時間をかける予定であった「民族共生象徴空間」(ウポポイ)であるが・・・ウィークデーであり予約しなくても一人二人は大丈夫であろうと思って9時過ぎに向かってみると大勢の学生達で、予約なしでは国立アイヌ民族博物館は入館出来なかった。しかたなく園内の工房での実演や伝統的コタンのチセ(家屋)内でアイヌの暮らしや文化などを聞いたのみで入場料一人1200円+駐車料也。先日紹介した二風谷アイヌ文化博物館では民族資料は充実しており同館者は他に3名のみで、こちらで時間を取るようにしなかったのが間違いであった。北海道ぶらり-「民族共生象徴空間」(ウポポイ)
白老町の「民族共生象徴空間」(ウポポイ)の近くにある仙台藩白老陣屋跡を探訪した。昨日紹介した南部藩モロラン陣屋と同様に仙台藩が陣屋を構築したようである。堀と土塁に囲まれた内曲輪には本陣、勘定所、殻蔵、兵具庫跡、外曲輪には長屋、稽古場跡などが平面復元整備されていた。北海道ぶらり-仙台藩白老陣屋跡
室蘭市にある東蝦夷地南部藩陣屋跡のモロラン陣屋跡を探訪した。幕末には度々の異国船が来訪し、北海道域は諸外国の侵犯に脅かされ幕府より南部藩は東蝦夷地警備を命ぜられてこの陣屋が築造されたようである。陣屋跡では堀や土塁が復元され内陣の建物跡が平面復元整備されていた。北海道ぶらり-南部藩モロラン陣屋跡
室蘭市にある旧室蘭駅舎は明治45年(1912)に建築された北海道内の駅舎の中で最古の木造建築物のようで国の有形文化財に登録されており、少し離れた所に平成9年(1997)に新築されたモダンなデザインの新室蘭駅舎がある。旧駅舎の隣接地には北海道各地で物資の輸送を行って役目を終えた蒸気機関車D51560号が保管されていた。北海道ぶらり-旧室蘭駅舎・現室蘭駅舎
北海道の太平洋沿岸を走っていた日高本線は数年前に暴風雪の高波で線路が被災して多くの路線が運休・廃線になったことが以前に報道されていたので、放浪途中にある廃線跡を尋ねてみた。先日紹介した二風谷ダムがある沙流川の河口に近いところに旧日高本線の長い沙流川鉄橋があり、近くには旧富川駅舎が残されていたが閉鎖されておりホームも立入り禁止となっていた。北海道ぶらり-日高本線の廃線跡
先日紹介した二風谷ダムの脇に発掘して復元整備されたユオイチャシ跡(コツ)があり、チャシ跡を訪れるのは初めてである。ユオイチャシ跡はダム築造以前沙流川左岸に細長くのびた段丘の先端に築造されていたようである。北海道のチャシ跡はアイヌ文化期の祭祀場、見張場また砦、城などの機能を持っていたようであるが定かなことは不明のようである。北海道ぶらり-ユオイチャシ跡
畑に小玉スイカを植え付けてもうすぐ食べ頃になるかと思っていたら何かの小動物がどこからか連日入り込んで横取りしてしまった。小動物や鳥の被害を受けないようにと網を張って厳重に防護していたつもりであるが・・・以前紹介した桑の実が落ちているのをアナグマが食べているのをみたことがあるのでアナグマの仕業であろうか。スイカ泥棒が‼
昨年末に線路も道路も走ることが出来る徳島県・高知県の阿佐海岸鉄道のDMVが報道されていた。先日来紹介している宮島口駅の整備工事で使用されている線路上の架線作業車はナンバープレートが見られるので線路と道路を走ることが出来る作業車のようである。線路を走る作業車
広電宮島口駅の新駅が開業したことを昨日紹介したが、これを記念して宮島杓子を使用し記念乗車乗船券が発売された。この杓子乗車乗船券で広電の宮島線、市内線、宮島松大船が1日限り乗り放題のようであり、どこに乗って行こうかな・・・この杓子乗車乗船券は廿日市市の市木が「さくら」であるので山桜の原木から作られているようである。杓子の記念乗車乗船券
2日に宮島線の線路切り替えが行われると新聞報道されていたので9時過ぎに訪れてみたが、線路の切替え工事はすでに終わって関連の整備作業が行われていた。新駅舎では午後に開通式セレモニーが行われて1時半ごろに貸切りの一番電車が出発して行き、13時50分から定時運行が始まったようである。広電宮島口駅整備工事の今
一昨日紹介した二風谷コタンにアイヌ文化博物館がありアイヌの人達の暮らし、祈りや信仰、農耕や狩猟、文様装飾などの民具・資料が展示されていた。当方は俵のコモや注連縄のコモ編みをしているが民具類の中に編み機があった。編み機はイテセニと言われているようで、編み紐は石に巻き付けてありこの石をピッというようである。北海道ぶらり-二風谷アイヌ文化博物館
炎天下の昨夕、今年前半の区切りとなる6月の晦日、速谷神社では半年間に溜まった罪や穢れを払い清める神事「夏越の大祓式」が三年ぶりに行われた。参詣者一同神前で大祓詞を唱え人の形の紙で出来た「人形」に罪や穢れを移す人形神事、茅で作った「茅の輪」をくぐって身や心を清める茅の輪神事が行われ、多くの参詣者が後半年間の無病息災、家内安全、疫病退散を祈念した。速谷神社「夏越大祓」
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先日来紹介している、かつての山陽鉄道宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道部分には大墓地があったようである。延命寺の石垣にみられる墓石は参道改修に伴った墓地の移転での無縁墓の墓石が使用されたものとみられる。延命寺の石垣
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治31年(1898)1月1日厳島の人々の寄進で建立された鳥居である。駅前参道の道路拡幅に伴って取り除かれたものが地御前神社に移設されたようである。元宮島口参道の石鳥居
明治30年(1897)に開通した山陽鉄道の宮島駅から宮島渡航の桟橋までの参道に、明治44年(1911)5月広島市の手拭改良元祖桑原政助が、創業25周年紀念で奉納建立したものである。駅前参道の道路拡幅に伴って新しく開発された宮浜温泉の逢瀬橋手前に移設されたようである。元宮島口参道の注連柱
宮浜温泉地内で「新しい源泉を掘削しています-宮浜温泉3号源泉掘削工事」と表示した看板が掲げられていた。しかし現地では仮囲いの工事が行われているのみであるが、この地で源泉の掘削工事が行われるのであろうか。下画像は現在の源泉地である。宮浜温泉源泉掘削工事
農業用物置に親時代に農作業や山仕事で使用していた懐かしいオイコがあったが、背負い紐と背覆いが無くなっている。かすかな記憶ではオイコやニコと呼称していたようである。オイコは枝木のある木を加工して作っており枝木部分は荷を乗せる腕木としている。オイコ・ニコが!
さくらぴあ1階のプティ・ギャラリーで、当ブログ主の七尾中学校時代美術の恩師である吉野先生の作品展が昨日より開催されている。通路脇のプティ・ギャラリーには数々のアルミオブジエ作品が展示されており、9月30日まで展示されるようである。当方美術はさっぱりだった。(光禅寺境内の原爆慰霊碑)作家吉野誠作品展
時折り紹介している廿日市19代目桜島大根(上画像)と廿日市9代目切葉松本地大根(下画像)の花が満開である。花が実ってその種を採って来シーズンには廿日市20代目桜島大根(上画像)と廿日市10代目切葉松本地大根を栽培する予定である。2005年2月に鹿児島方面を車で旅行した時に桜島大根の種を買ってから栽培し続けているものである。遊びの菜園-桜島大根・切葉松本地大根の今
山陽自動車道に架かる極楽寺橋で極楽寺参道(廿日市参道)の橋だったが、現在開発中の平良丘陵開発のために通行止めとなっている。銘板によると昭和60年(1985)2月に築造されたようである。自動車道の上画像は上り方面で、下画像は下り方面で右端と左端の路線は宮島サービスエリアに出入りの路線である。極楽寺橋
従来の極楽寺参道(廿日市参道)は平良丘陵開発で消滅してしまった。現在は宮島サービスエリア上り線の側道を進んで107段のブロック階段を登っていくと従来の参道となる。ブロック階段脇には名も知れない(当ブログ主が知らぬだけかも)小さな花がたくさん見られた。107段のブロック階段
ソメイヨシノは葉桜となりつつあるが、ウォーキング途中では八重桜やウコン桜がみごろであった。また道中では白やピンクのハナモモや細い花びらの集合体花のベニバナトキワマンサクなども花盛りであった。春爛漫
ウォーキング途中の道端でみかけた花で上段は休耕地の田んぼに沢山のタンポポの花が咲いていた。中段の花は荒れ地に生えていたもので、Googleレンズで検索するとグラジオラストリスティスという長い名前の花のようである。下段の花はムラサキハナナのようである。路傍の花
市道堂垣内広池山線で可愛川に架かる橋脚工事の進捗状況で東側のコンクリート躯体工事はほぼ終わっているようで周辺整備が残っているようであった。コンクリート護岸の下流側で狭まっているのだろうか・・・市道堂垣内広池山線工事の今
上平良堂垣内地区にある速谷溜め池で昭和18年(1943)に築造されており、灌漑面積は5町(5ha)だったようである。現在流域は市街地化して田んぼはほとんどないような状態である。先日の新聞報道で災害リスクを無くするために2か所の溜め池を廃止していくとのことであったが、この溜め池はどのようになっていくのであろうか。速谷溜め池
ウォーキング途中、以前にも紹介したが道路脇の笹藪にある米国ゼネラルモーターズのキャデラックの現在の状態で注意して見ないと通り過ぎてしまいそうである。下画像は以前の状態であり見た感じでは朽ちかけたような状態ではなくレストアすればレトロな車で町中を走っていると振り向かれそうであるが・・・笹藪のキャデラックが!
ウォーキング途中で古い納屋を取壊しされておりそばに懐かしいメゴ(目籠)があった。親の時代には農作業の運搬に使用しており、メゴを制作していたのも覚えている。下画像は遥か昔にメゴ造りの詳しい方に教えて貰いながら、あずって作った直径25㎝の小さなメゴであるがどうやって作ったのかもう覚えていない。メゴ(目籠)が!
安芸高田市八千代町佐々井に祀られている厳島神社で、看板表示によると正和2年(1312)にはすでに鎮座していたようである。昨日紹介したように毛利氏は厳島明神を崇敬しており毛利輝元は木材を寄進して社殿を造営させているようである。ずらりと並んだ石燈籠は新しい時代に寄進されたものであるが圧巻である。各地の厳島神社㉘-佐々井嚴島神社
安芸高田市吉田町長屋に祀られている嚴島神社で、元就卿御教訓状に「・・・厳島を皆々御信仰肝要本望たるへく・・・」とあり、毛利氏は厳島明神を崇敬していたようで看板表示によると天文10年(1541)9月に毛利元就が勧請した一社のようである。本殿内には江戸前期の面影を残した玉殿が安置されているようである。各地の厳島神社㉗-長屋嚴島神社
先日訪れた吉田町の旧道沿いは現在シャッター通り化しており、かつての賑わいを彷彿とさせる胡子神社が先日紹介した高林坊近くの四辻に祀られている。また、胡子神社近くの町並みには本うだつが設けられている町屋がみられた。下画像は古い町屋の造りではないが見たことが無いような造りなので紹介する。吉田町の町並み
時折り紹介している上平良に祀られている河野原大歳神社の桜も満開であった。当社殿は画像ではしっかりしているように見えるが老朽化が進んでおり、氏子数も少なく信仰心の薄れた現在、修復の目処が立たないようであり先行きが危惧されるのである。※当ブログを平成18年(2006)6月22日に開設してから本日で6500日となりました。老化防止のために万人向けではないがもう少し続けていきたいと思いますので御来訪のほど宜敷くお願いいたします。河野原大歳神社の桜
ウォーキング途中にみられる桜でどこも満開であった。ふれあいライフ原(旧国立原病院)の門柱脇の古桜、ボンボリが吊り下げられた伊勢神社の桜の下ではお花見をされていた。原市民センター前の枝垂れ桜と立善寺の桜、元原村役場跡(現橋本集会所)の桜などどこも満開であった。ウォーキング途中の桜
昨日紹介した鳴川の石畳があるところに弾丸鉄道用地の範囲を示すコンクリート杭が数ケ所みられる。また、八坂神社参道登り口脇にもコンクリート杭が数ケ所みられる。弾丸鉄道は日中戦争に伴う軍事輸送の激増に対処するために計画された高速新幹線で、用地買収もされていたが後に別のルートで現在の山陽新幹線が開通したのである。弾丸鉄道用地杭
江戸期の西国街道は昨日紹介した唐船浜から東に向かうと鉾ノ峠を越えて鳴川に下る坂道となり、ここには土砂が流れないように平らな石を並べた石畳が20数m残されている。西国街道-鳴川の石畳
大野地区の市境から国道2号線沿い大竹市最初の集落である唐船浜で、中世にはこの浜で造船が行われていたようである。天正3年(1575)の中書家久公御上京日記に「・・・左の方ニくはたとて町立有、是ハ舟を作所也、作おろさるゝ舟五拾二艘かハらはかりをすえ置たるハ数をしらす、・・・」とあり、江戸期の玖珂郡志には「・・・舩板ト云処アリ、是ハ秀吉公御代、芸州久波ノ唐船浜ニテ、防房丸出来シ時、舩板採用有リシ故、・・・」などと記されているのである。唐船浜
雉の鳴き声がしたので荒れ地の木の下をみると雉の雄が同じ場所でじっとしているので望遠で撮影した。数日前も同じ場所にいたので居心地が良い場所なのだろうか。雉の雄が!
観音堂に吊り下げられている喚鐘は元洞雲寺の末寺であった妙音寺のものであったが、昨日紹介した堂宇の一部や仏像、位牌などと共に移されたものである。この喚鐘は宝永4年(1707)に鋳造されたようで、洞雲寺19世の晦巌忍随が銘文を記している。鋳工名はみられないが廿日市鋳物師が鋳造したものとみられるのである。(廿日市市郷土文化研究会会報「さくらお第54号」に記述)汐原観音堂の喚鐘
汐原地区に祀られている観音堂で昭和後期頃に古い堂から新しい堂が新築され、廃寺となっていた妙音寺の伽藍の一部や十一面観音像、達磨大師像、招宝七郎大権修理菩薩像などが移されている。脇壇には江戸期浅野藩家老の上田家歴代の位牌が安置されている。(旧観音堂-吉和村誌より)汐原観音堂
吉和保険センター先日触れたの地はかつて佐伯高校吉和分校があった地で、昭和23年(1948)9月には前身校の津田農林高校吉和分校が開校しているようである。昭和53年(1978)9月には創立30周年記念で記念碑が建立されているが、昭和55年(1980)3月に廃校となっている。(下画像-吉和村誌より)佐伯高校吉和分校跡
当ブログ主はやりっぱなし農業をしているが、吉和地区の畑で見たことが無いような野菜が植えられていた。通り掛かりの人に聞いたらルバーブという野菜のようであった。今迄気が付かなかったが以前から栽培されているようで、赤い茎を加工してジャムやスイーツ、甘酸っぱいソースなどがつくられているようである。ルバーブ
市吉和支所の駐車場脇に平成15年(2003)2月に吉和村が廿日市市へ合併した時に建立されたモニュメントがある。裏面をみると「2003-2023TIMECAPSULE」とあり、閉村から20年目にタイムカプセルを開封予定とされていたのであろうか。今年が20年目であり吉和支所(旧吉和村役場)も移転される節目であるが・・・吉和村閉村モニュメント
吉和地区の道路などの各所にスイセンが植えられており、もうスイセンの咲き時期が少し過ぎた所もみられたが、満開の見所ケ所もあちらこちらでみられた。車を走らせていると周りは緑の樹木の中に鮮やかな何の花だろうかと止まって近づいてみるとモミジであり、下の方は紅葉した頃のような色をしていた。水仙ロード
市吉和支所吉和市民センター吉和保険センター吉和歴史資料館以前に紹介した吉和支所複合施設整備の工事はほぼ終わっているようであり、新施設の供用開始は5月1日のようである。地域内の老朽化し分散している市吉和支所、吉和市民センター、吉和保険センター、吉和歴史資料館などの公共施設を集約する施設のようである。吉和支所複合施設整備工事の今
愛媛県西条市三津屋の江戸期金毘羅参道沿いにある厳島神社で、愛媛県神社庁の資料によると延暦2年(804)安芸の厳島神社から勧請奉祀したと伝えられているが定かなことは不詳のようである。明治期には村社であったようである。(2017.8.25撮影)各地の厳島神社⑭-三津屋厳島神社
平良丘陵開発区域への市道堂垣内広池山線のルートは旧石州往還道部分を掘削して築造されるものとみられる。(赤丸ケ所・赤線は市道第2群塚線)市道堂垣内広池山線のルート予定地付近の各所には新しい境界杭がみられ旧石州往還道の幅員は90cmであった。長年多くの人々や駄馬が行き来した往還道の幅員が90cmだったのだろうか。旧石州往還道を歩く-②
久しぶりに平良丘陵開発区域が行われる広池地区西側の菊ケ迫山から御棒杖山の尾根筋東側を通っていた旧石州往還道を歩いてみた。今は誰も通る人はいないけれど交通機関が発達する以前は廿日市~原~玖島~多田~吉和~匹見に通じていた往還道であった。旧石州往還道を歩く
平良丘陵開発区域内である広池地区に新幹線五日市トンネル(寺田~宮内)の点検孔口があり、自動車置場の撤去によりよく見えるようになった。トンネル内を新幹線が通過している大きな音が時々孔口から聞こえる。この点検孔は五日市トンネルを掘削した時の土石の搬出口であった。地図を見ると孔口より離れた位置に線路があり長いスロープで接続されているようである。新幹線五日市トンネルの点検孔口
表題の整理事業区域内である広池地区にある作業場などの撤去作業が行われており、地域内にあった太陽光発電施設も撤去されていた。また用地内の山林の伐採が始まっているようである。平良丘陵開発土地区画整理事業の今
平良小学校の平良っ子通りに平和の鐘と表示された鐘が吊り下げられていた。この鐘は当ブログ主が小学生低学年の頃2階建て校舎に吊り下げられ授業の開始や終わりの号鐘だったのではなかろうか。高学年になってからは大きなベルが設置されてから使用されることは無くなったことを記憶している。平良小学校-平和の鐘
昨日、平良小学校で選挙投票を済ませて帰り道に「さくらのおか公園」を通って帰った。公園内の桜はもう葉桜になりつつあったが、サトザクラの園芸品種と表示のある鬱金(うこん)と八重桜は満開であった。さくらのおか公園-鬱金(うこん)
白川郷の長瀬家を見学していると室内に講中膳と表示された膳が3セット並べられており、この地方でも当地方にあった講中と同じような互助組織があったのかと思った。ネットによるとこの地方は浄土真宗の信仰が厚い地域で11月下旬に親鸞上人をしのんで「報恩講」が執り行われ報恩講の『お斎』(料理)は朱塗りの膳、黒塗りの膳が用いられていたようである。講中膳
長良川鉄道の終着駅である北濃駅から長良川沿いの桜など見ながら観光列車ではなく普通列車で郡上大和駅までの列車旅をした。北濃駅は元国鉄の越美南線の終着駅だったようで当時の転車台が残されており、国の登録有形文化財に登録されているようである。長良川鉄道