父のDVと母の涙。 ACで背伸びばかりしている私のおしゃべりと、内緒の本音をきいてください。
さようなら、をきめた途端、困惑とともにそこらじゅうに退屈で上品な幸福が溢れた。私の様な、怖くてひとの目を視られない、それでいてあたたかな誰かに強く結び付いていたがるのに甘えるのを心底恐れる、そういう種類の人間はこういう幸福にすわりが悪い想いを抱く。ひた隠しにそのすわりの悪さを不道徳とみなしては抑圧し、子供だましのつもりか笑顔を、笑顔を・・・・・・。想い出になるとどんな人も急に可憐に思えて恋しくなる。「もうすぐいなくなるから」と言う人、「今までありがとう」と言う人。なぜ人は一人になった時でなきゃ、愛の意味に気づけないのだろう。しかし裏を返せば、一人になりさえすれば、その時には必ず愛の意味に気づける、って事か。私が近付けば「愛してるなんて言ってないけど?」としらばっくれる。私が遠のけば「もっと話してくれ、話そう」と...さよなら、の手紙
可愛くなりたいなあ。明日天気悪いけれどあたたかいらしい。何、着ようか。春は、ブラウスとフレアスカートを着る為だけのものになっても、かまわない。先日ひとから「読み手を意識して文章を書いていない、浮遊感があって、まとまりがない、小難しい言葉をちょいちょい出して、それがはなにつく」と言われて、思考するだけの段階ですら、言語化するのが怖くなった。ユダヤのことわざに「賢者は何を話しているかを知っていて、愚者は知っていることを話す」というのがあるんだけど、この場合の”話す”は”ものがたる”の意じゃないかとちょっと思った。知っている事を話すのも、何を話しているかを知っているのも、日常にはどちらも混在している、私の場合はね。どちらの場合でも不道徳でない場合があるし、何を話しているか知っていてもそれがひとでなしな場合もある。物語...今日生きたこと
どんな感動も私に作用しない。不機嫌と無感動が絶望的にゆるがない。PMDDという病らしい。ドーナツ屋で小供がぴょんぴょん跳ねておしゃべりを始める。彼らは急に踊るし、急に歌う。日常がミュージカルのステージなのである。陽気だな、と慢性的に不幸な私は傍らで思う。私は陰気な小供だったから、ドーナツ屋(そもそもそういった場所に親ともひとりでも行った事がなかったが)のウィンドウを前にしてぴょんぴょん跳ねなかったし、これが欲しい、と大声でわめいておもちゃ屋の前で涙をひっくり返すようなこともまったくなかった。「お菓子ほしい?」ときかれれば、「ううん、私いらない」、内心どんなに欲しくても。弟はこの反対で自分が子供であることを最大限に利用して(?)わがままで両親を(特に母親を)困らせていた。死ねばいいのに。平安全ての結晶のように輝く...慢性的不幸とこども
私が自殺しない/しなかったことに甘えて生きてるんでしょう。私が自殺しない/しなかったから、今のあなたがいて、平然と良心の呵責もなく平穏無事に日常に活きてるんです。あなたは私の自殺しないことに甘えているんです、そのことをゆめゆめ忘れないでいて下さい。そしてできれば明日、私の為にあなたが死んでください。てめえは
わたしの両親、死なないかな。死んでからじゃなきゃ、私の人生が本当の意味で始まらないという確信がある。あのひとたちが生きている限り私はいつまでたっても報われない。私の人生は親の死を合図に幕開けるんだ。神様、あのふたりをはやくおめしになって。幕開けは親の死を合図に
小説家になりたくてたまりません。小説家になるか、でなくば何にもなりたくない。わたしは
あなたの好きなあのひとに私は一生かなわないからあなたはあのひとと永遠に仲良くしていたら、いいよ。私、いらない人間。あなたを好きな私は、不要。入らない人間。あなたとあのひとは永遠に友人で私にはずっとよそよそしい。永遠に仲良くしていたら、いいよ。私、いらない人間。永遠に。運命の絆
一方で同情を超えたあわれみを母親に感じ、一方で最も悲惨な人生のエアポケットに落ち込んだままなにものへも抗えずにいた母親に呆れる。でもどちらの場合でも「あの過去の傷をいやすのは私の役目だ」と決意をあらたにする、どちらが照らし出された場合でも、そう。過去を見かえしたい、母親を癒したい、という思いはもともとは母親からすりこまれた古い習慣のひとつだったかもしれないが、今ではすっかり私自身の意志として私の内部に取り込まれている。私はそこで飛ぶしかない。一生、一生、飛ぶしかない。飛んでみせる。母親と私の空
こっちに来てくれたら、いいのに。待ち人。私の片恋の。日が短くなったせいで脳内物質のバランスが崩れたのか、不調です。両親の性行為場面と、父親の暴力と、過去に出会った悪意のある人々――その表情や言葉と、最近の私の暴走とその行いがフラッシュバックしてうう、とか、ああ、とかうなって朝目が覚めます。苦痛です。足りないもの、ばかり。だけど、手に入らないとわかったら、もう諦めて求めなくなるから、夢はかなったも同然になる、現実が、夢と等価になる。私がおかしくなる前に
両親の快復が私自身の快復なんだと呪われてでもいるのだろうか、私は信じて疑わない。それが出来ない時、私が両親を快復させられずに生きて行くしかないと悟った時、私の死ぬ時だと思う。私は一生報われない。じごくめぐり
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