「安居」のシステム論的考察
色々とあって、最近、『正法眼蔵』「安居」巻を参究していた。無論、何度も拝読している。だが、参究というのは、参学眼を通して、正法眼で本文に自己を没却させていく作業である。こちらが読むのではなくて、本文に読ませてもらう。その時、自己は忘れているが、かえって仏道は学ばれていく。まさしく、「仏道をならうというは・・・」という「現成公案」である。さて、「安居」について以下の一節を参究してみたい。九十日為一夏は、我箇裏の調度なりといへども、仏祖のみづからはじめてなせるにあらざるがゆえに、仏仏祖祖嫡嫡正稟して今日にいたれり。しかあれば、夏安居にあふは、諸仏諸祖にあふなり、夏安居にあふは、見仏見祖なり、夏安居、ひさしく作仏祖せるなり。「安居」巻我々は、仏祖が安居をするものだと思っている。だが、実は逆で、先に「安居」がある...「安居」のシステム論的考察
2024/01/18 08:28