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  • 歴史紀行 地域版 3 小泉八雲 記念碑 【静岡県】

    小泉八雲 記念碑 静岡県 焼津市栄町 JR焼津駅前 この秋、【 NHK朝の連続テレビ小説 〜ばけばけ 】に取り上げられるのが、帰化作家の小泉八雲とその妻の物語です。 【焼津は神様の町です。】 と口癖のように言って焼津の町を愛した作家 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の記念碑がJR焼津駅前にあります。 ギリシャ生まれの小泉八雲は、父かイギリス軍医だったことから、アイルランド、フランス、アメリカと転属を繰り返すことから彼もヨーロッパ、アメリカと暮らす場所を変え、アメリカ在住の時に新聞記者兼筆者となり、ニューオーリンズ在住時に日本の文部省関係者と知り合ったことがきっかけとなり、日本で英語教師として教…

  • 歴史紀行 地域版 2 晴明塚 【静岡県】

    晴明塚 静岡県掛川市大渕 昨年、1年間にわたって放送された大河ドラマ〜【光る君へ】 主人公の まひろ こと、後の紫式部が時の権利者〜藤原道長との生涯をかけた出世と源氏物語、それに二人のラブストーリーを絡めた物語でした。 物語の序盤から この時代を生きた陰陽師〜安倍晴明も登場し、藤原道長の出世にも手を貸す役割を演じていました。 清明塚 静岡県の南部、御前崎市と浜松市を結ぶ国道150号の掛川市大渕町付近から南への小路へ入ると、1000年の昔、京の都の陰陽師、安倍晴明が津波を防いだという言い伝えのある晴明塚があります。 平安時代、京の都で高名な陰陽師、安倍晴明がこの地方を訪れた際に高波の被害が絶えず…

  • 歴史紀行 地域版 1 三井 (みい) 赤染の井〜奈良県

    三井 (みい~赤染の井) 奈良県生駒郡斑鳩町三井 世界遺産 法隆寺から東へ約2キロ。 聖徳太子の皇子 山背大兄王が建立した法輪寺の西隣の集落 三井に、その昔 太子が地元民のために掘らせたという井戸が、三井の赤染の井戸です。 開削以来、三井の集落の人々の貴重な水資源でしたが、明治時代には役割りを終えたとして一度は埋められましたが、昭和初期に聖徳太子の功績が見直され、再び掘り出されることになります。 そして昭和7年の発掘調査で復活して、近隣の住民たちの貴重な水源として昭和30年代まで実際に使われていました。 井戸の底に4個の石を方形に組み合わせて、その内外の隙間より水が湧き出るようなになっており、…

  • 歴史紀行 特別編 3 赤い糸 発祥地

    箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 〜赤い糸〜 または運命の赤い糸と呼ばれ、男女が結ばれるべく、その絆を表すときに用いられます。 赤い糸の伝説は、中国や東アジアにも諸説あるのですが、それらよりも遥か昔に編纂された古事記に記された赤い糸について書きます。 赤い糸〜はじまりの社へ 三輪山 奈良県桜井市 桜井市 赤糸の小道周遊ルート 大神神社拝殿 古 事 記から 古事記に記られた三輪の赤糸伝説が〜運命の赤い糸〜の起源とされます。 活玉依姫(いくたまよりひめ) 古事記 〜崇神朝期・赤糸伝説の由来〜 崇神天皇5年、(紀元前93年~皇紀568年) 崇神帝の御世に、疫病が蔓延し、多くの民が死に絶えそうになった。 帝…

  • 歴史紀行 特別編 2 靖国神社

    靖国神社 東京都千代田区九段北 ペリー来航が引き金となり、外国人排斥と外敵の排除を掲げて尊王攘夷運動が始まり、これらの動きはやがて江戸幕府打倒へと変節し、薩摩、長洲の西国外様諸藩出身の志士らが中心となり、倒幕運動を起こし、やがて戊辰戦争が勃発します。 この倒幕を目的とした戦争は、江戸幕府開府時における関ヶ原の戦い、大坂の陣といった美濃地方、大坂といった局所の武士、大名同士の戦いとは違い、尊王攘夷運動は主に京都、戊辰戦争に至っては、これらが発端となったといえる京都、江戸、中国、さらに会津藩のある東北、長岡のある北陸地方の越後、さらに戊辰戦争最後の戦い 箱館戦争の起きた蝦夷地(北海道)と全国に拡大…

  • 歴史紀行 特別編 1 神武天皇 御由緒紀

    神武天皇 御像 静岡県焼津市焼津 焼津神社 初代天皇で在らせられる神武天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御孫で天孫降臨により地上に降りた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の3代目にあたり、神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)といいます。 皇后は、事代主神(大物主神)と玉櫛媛との間に生まれた媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后といいます。 九州、日向国(現在の宮崎県地方)の高千穂宮で誕生された神日本磐余彦は、瓊瓊杵尊が天照大神から受けた天業恢弘(てんぎょうかいこう〜互いに争うことのない、永遠に困窮しない国を創る天子の事業を広めようとすること)の神託を実現す…

  • 歴史紀行 26 伝 飛鳥板蓋宮跡

    飛鳥板蓋宮跡【あすかいたぶきのみやあと】 奈良県高市郡明日香村 岡 飛鳥板蓋宮は、女帝 皇極天皇の宮殿でした。 645年 皇極2年 6月12日、権勢を私物化している蘇我入鹿を中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が討ち取る乙巳の変(いっしのへん)を起こし、蘇我本宗家の勢力を一掃した後で皇極天皇は譲位して次代天皇には、皇極天皇の弟の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇となりました。 皇太子には中大兄皇子が就き、政策を立案する内臣(うつおみ)には中臣鎌足が就きました。 孝徳天皇を頂点に、中大兄皇子と中臣鎌足が朝廷を動かす身となり、摂津 難波(現在の大阪市)に遷都を決めました。 盆地の大和 飛鳥より…

  • 歴史紀行 25 藤原鎌足 誕生地

    藤原鎌足 誕生地 奈良県高市郡 明日香村小原 後に朝廷の最高権力者となる藤原氏の祖、藤原鎌足は、614年 推古天皇22年に飛鳥の大原(現在の明日香村小原)の地で、鎌足の一族は祭官(祭司、当時の国の役人)として仕える中臣氏の家に生まれました。 若い頃から儒学を学び、秀才の名をほしいままにするも、当時の朝廷は蘇我氏が権勢を独占し、643年 皇極天皇2年、唯一、蘇我氏に対抗しうる皇位継承の資格もあった上宮王家(聖徳太子の一族)の山背大兄王は、蘇我馬子の孫、蘇我入鹿に攻め滅ぼされ、その勢いは天皇すら凌ぐ強大なものとなりました。 打倒 蘇我氏を胸に秘めた鎌足は、蹴鞠の会に参加した中大兄皇子(後の天智天皇…

  • 歴史紀行 24 伝 山背大兄王 墓所【富郷陵参考地】

    伝 山背大兄王 墓所 富郷陵 参考地 奈良県生駒郡斑鳩町三井 推古朝で摂政を務めた聖徳太子の皇子 山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、622年 推古30年、太子の死後、有力な皇位継承者となりました。 山背大兄王の一族は上宮王家と呼ばれ、蘇我氏と皇位継承者の擁立を巡り、暗闘が続きます。 蘇我馬子の子、蝦夷は、他の有力豪族に巧みに味方につけ、自身の推す田村皇子を皇位継承者とし、田村皇子が34代 舒明(じょめい)天皇となり、自身の子 入鹿と権勢を欲しいままに専横を極めました。 蘇我氏を継いだ入鹿は、自身の従兄弟で、意のままに操れると考えた古人大兄王皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇位に据えるべく…

  • 歴史紀行 23 法起寺

    法起寺 奈良県生駒郡斑鳩町岡本 法起寺は、聖徳太子摂政による推古朝の時代、仏教を精力的に取り入れた太子が自ら法華経を講説した岡本宮が起原となります。 太子の法華経講説より十数年、622年 2月22日、流行り病に伏した太子は、死期を悟り、枕頭に嫡子 山背大兄王を呼び、岡本宮を改めて寺にすることを遺命にし、太子は薨去されました。 山背大兄王存命の頃は、まだ法起寺に三重塔はなく、山背大兄王の上宮王家が蘇我入鹿の手により滅ぼされた後、685年 天武14年、恵施僧正が三重塔の建立を発願。 飛鳥時代も末期となった706年 慶雲3年、起工から20年余りをかけて三重塔は完成をみました。 三重塔 この飛鳥時代建…

  • 歴史紀行 22 法輪寺

    法輪寺 奈良県生駒郡斑鳩町 三井 法隆寺、法起寺とともに斑鳩三塔とも言われる法輪寺は、聖徳太子の皇子、山背大兄王が622年 推古30年、病に伏した太子の病気平癒を願い建立しました。 その後、推古朝から天武朝時代にかけて法隆寺西院と同じ形式で伽藍を整えました。 平安時代から室町時代に諸堂を完備して寺運は隆盛を極めました。 伽藍は度々、戦災や落雷に遭い、その度に時間をかけながらも再建されました。 江戸時代再建の金堂や昭和になって再建の日の目をみた三重塔の完成により、斑鳩三塔として崇敬を受けています。

  • 歴史紀行 21 推古天皇 陵

    推古天皇 陵大阪府南河内郡太子町山田 推古天皇は、592年 臣下ながら天皇家の外祖父となり、絶大な権力を誇った蘇我氏と対立した32代天皇の崇峻天皇が蘇我馬子の意思を汲んだ東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)により暗殺された後に即位した初の女帝です。 推古天皇は、蘇我馬子を叔父に持ちながらも甥にある聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に据えて十七条憲法、冠位十ニ階の制定、遣随使の派遣と次々と先進的な改革に着手させました。 専横に走りそうになる馬子を諌めつつ政権を保っていた推古王朝でしたが、622年 太子が死去すると626年に馬子も死去、両雄の死から4年後の628年、推古天皇は75歳の生涯を閉じます。 太…

  • 歴史紀行 20 叡福寺 聖徳太子 御廟所

    叡福寺 太子廟 大阪府南河内郡太子町 叡福寺 叡福寺の創建は、西暦620年 推古天皇28年、聖徳太子が民情視察を兼ねて愛馬 黒駒で駆けていたところ、磯長(しなが)の地を気に入り、自らの墓所とすることを決めたことから始まります。 翌年の621年、太子の生母、穴穂部間人皇后が病に倒れます。太子と正室 膳部苔岐々美郎女(かしわでのほききみのいつらめ)の必死の看病も実らず帰らぬ人となり、磯長の地に埋葬されて円墳が築かれました。 年が明けて622年、 続いて太子と妃も病を発症して倒れました。 2月21日、妃が亡くなり、翌日 2月22日には太子自身も帰らぬ人となりました。余りに早い病の発症から伝染病かと思…

  • 歴史紀行 19 橘 寺〜聖徳太子 御誕生地

    聖徳太子御誕生地碑 橘 寺 奈良県高市郡明日香村 橘 聖徳太子、誕生の地と伝わる橘寺は、太子の父 用明天皇の上宮(かみつみや)が置かれていた地で、皇后 穴穂部間人(あなほべのはしひと)が宮中を巡行中に産気付き、厩戸の前で太子を出産されました。 そのため、太子ひ厩戸皇子〜(うまやどのみこ)とも呼ばれます。 皇族ゆかりの寺として庇護をうけ、かつては66もの堂宇を誇る大寺院でした。 太子の愛馬〜黒駒 像 梵鐘 二面石 蓮華塚

  • 歴史紀行 18 小野妹子 墓所

    小野妹子 墓所 大阪府南河内郡太子町山田 小野妹子(男性)は、近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市)出身の豪族の出で、推古天皇の摂政となっていた厩戸皇子(聖徳太子)に見い出されました。 太子の制定した冠位十ニ階により役人として大礼(だいらい、十ニ階の六番目)に昇進。 607年推古天皇15年、小野妹子は、遣隋使として隋国(現在の中国)に渡り、聖徳太子の認めた世に云う 【日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす…現代尺~太陽がのぼる日本国の天皇より、親書を太陽の沈む隋国の皇帝に贈る…。】 にはじまる親書を託され、隋国の煬帝(ようだい)皇帝に拝謁します。 聖徳太子が認(したた)めた対…

  • 歴史紀行 17 中宮寺

    中宮寺奈良県生駒郡斑鳩町 法隆寺北 中宮寺は、法隆寺東院のさらに東の斑鳩宮の隣接地に聖徳太子が母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために創建した寺です。 僧寺である法隆寺、中宮寺は尼寺として創建され、塔と金堂が建立されたといいます。 微笑を浮かべながら軽く頬杖をついて瞑想する姿の本尊 国宝【菩薩半伽像】は飛鳥時代最高傑作とされ、エジプトのスフィンクス。ダヴィンチのモナリザ。とともに、世界の三大微笑像とも呼ばれます。 菩薩半伽像 堂内の撮影は禁止のため、特別展の写真をお借りしました。 中宮寺は、太子の没後、後継者の上宮王家一族が蘇我入鹿の手により滅んだ後に衰退し、平安時代には一堂のみという…

  • 歴史紀行 16 飛鳥寺跡 【安居院】

    飛鳥寺跡 【安居院】奈良県高市郡明日香村 飛鳥 飛鳥寺は、大陸から仏教が伝来した西暦538年から半世紀後の西暦588年 崇峻天皇元年に蘇我馬子の手により造営が開始されます。 これは、 聖徳太子が造営を指揮して日本で最初の本格的な官寺として誕生した四天王寺の創建から3年後のことで、今から1400年以上 昔の西暦596年 推古天皇4年のことになります。 飛鳥寺造営に際しては蘇我馬子が持てる権力を使い、大陸から多数の職人や僧侶を招聘し、彼らが指導しました。 蘇我馬子は息子の善徳を寺司(工事責任者)とし、招聘した高句麗の高僧〜慧慈(えじ)と、百済からの高僧〜慧聰(えそう)の二人を住持として住まわせ、布…

  • 歴史紀行 15 ‐ 25 世界遺産 法隆寺 東院 夢殿

    法隆寺 東院伽藍 夢殿 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 601年、推古天皇9年、 聖徳太子は推古朝の皇居のある飛鳥から、推し奨めようとしていた仏教による新しい国造りのための場所を探しました。 そして飛鳥の村から北西にある斑鳩の里に約束の地を見つけました。 斑鳩の里で下馬した太子は、自らの理想を体現する宮殿造りをはじめ、完成までの間、飛鳥宮と斑鳩宮の間を往復する日々を費やし、その間に身分を問わず優れた人を召し抱える冠位十二階。日本史上初の憲法、〜和をもって貴しとなす〜の序文から始まる十七条憲法を制定と、太子の偉業は、この地で行われました。 622年 2月22日、太子が流行り病で亡くなると、斑…

  • 歴史紀行 15 ‐ 24 世界遺産 法隆寺 東院 伝法堂

    法隆寺 東院伽藍 伝法堂 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 東院伽藍の中で、平屋建ての住宅のような堂が伝法堂です。 それも そのはずで、伝法堂は、奈良時代の聖武天皇の后である橘古那可智(たちばなの こなかち)妃の住居が移築奉納されたものだからです。 東院の過去帳でもある東院資材帳には、瓦葺きの講堂として記載され、742年 天平14年と746年に資材が奉納され、古那可智如が亡くなる759年 天平宝宇3年まで続きました。 奈良時代の講堂は主に土間ですが、伝法堂は皇族の住宅を移築したもので、内部の床は板敷きとなっていて、須彌壇には平安時代の重要文化財の阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来の三尊像に弥勒(…

  • 歴史紀行 15 ‐ 23 世界遺産 法隆寺 東院 鐘楼

    法隆寺 東院 鐘楼 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 ニ階式の東院鐘楼は、下階の部分が袴を穿いたような鐘楼で、袴腰付鐘楼と呼ばれ、中世 鎌倉時代に流行した造りで、東院鐘楼は平安時代後期の1163年 応保3年に建立の記録があり、その最古のものと言われてます。 鐘楼二階に天平時代に鋳造された梵鐘が吊るされてあり、梵鐘には中宮寺と刻印されており、法隆寺に隣接する中宮寺からの移設されたものとされています。 現在の鐘楼は鎌倉時代に大修理されたもので、国宝に指定されています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 22 世界遺産 法隆寺 東院 絵殿、舎利殿

    法隆寺 東院伽藍 絵殿、舎利殿 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 舎利殿(右) 絵殿(左) 馬道(めどう) 絵殿、舎利殿は、東院伽藍、夢殿の北にある伽藍で、檜皮葺の屋根に建物はひとつの伽藍でありながら2つの役割を持ちます。 左の絵殿は名前の通り内部には聖徳太子の生涯一代記を描いた障子絵が広がります。 舎利殿は、中央に須彌壇が設けられ、その上に舎利塔と、宝物を納めた唐櫃が置かれました。 室町時代初期に新調された春日厨子が加わり、新年正月元旦から3日間、聖徳太子が納めたとされる仏舎利が厨子から奉出され、舎利講という法要が営まれます。

  • 歴史紀行 15 ‐ 21 世界遺産 法隆寺 東院 礼堂

    世界遺産 法隆寺 東院伽藍 礼堂奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 東院伽藍601年 推古9年2月、聖徳太子は斑鳩の地に宮殿を建設します。 宮殿を飛鳥から斑鳩へと移した太子は、伝来して間もない仏教による平和国家の実現へと日夜思案を重ね、身仏の加護を信じ、慈悲を願い、祈りを続けました。 礼堂(らいどう) 礼堂は元々東院伽藍の中門にあたり、平安時代になって礼堂に改築されました。 礼堂は東院伽藍の本堂である夢殿を礼拝するための場所で、正面五間、側面四間の堂内は板敷きで、四方の壁の部分は蔀戸(しとみど)となっていて使用時には吊り上げられる仕組みとなっており、広々として爽快で、前庭では舞台を組んで舞楽や…

  • 歴史紀行 15 ‐ 20 世界遺産 法隆寺 上御堂

    法隆寺 上御堂 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 上御堂は西院伽藍の境内の北、大講堂の背後の高台に建つ御堂で、天武天皇の皇子 舎人(とねり)親王による創建とも伝わります。 平安時代に台風のために2度、倒壊の被害を受け、再建は鎌倉時代末期の1318年 文保2年で、内部は瓦敷きの土間に釈迦如来坐像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩坐像の釈迦三尊坐像が安置され、その四方に四天王立像が配置されています。 通常、上御堂は非公開ですが、毎年11月の初週の3日間のみ公開されます。

  • 歴史紀行 15 ‐ 19 世界遺産 法隆寺 西大門

    世界遺産 法隆寺 西大門 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 法隆寺 西大門は、世界遺産、国宝の伽藍が多く建つ西院伽藍のさらに西の門で、門の外にはかつて法隆寺伽藍の建築、改築、修繕に従事した宮大工、装飾職人らが住んだ西里の集落があります。 この集落からは、豊臣秀吉に見出され、大坂城や方広寺大仏殿といった豊臣家の象徴となる建築を差配した中井正吉。 その息子で、徳川家康に仕え、江戸城、二条城、駿府城と、徳川家の威風を示す建築物を幾つも手掛けた中井正清の中井親子を輩出しました。 さて、この法隆寺西大門、設置されたのは江戸幕府も5代将軍 徳川綱吉の時代で、江戸時代もほぼ100年目となる1697年元禄…

  • 歴史紀行 15 ‐ 18 世界遺産 法隆寺 東大門

    法隆寺 東大門 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 西院伽藍を抜け、宝物庫である大宝蔵院を越えると東西に通る参道に出ます。 参道を東に向かうと法隆寺 東院です。 東大門は西院と東院とを結ぶ石畳の参道が東西に広がり、西院伽藍の先に西大門、そこから約300メートル東の門です。 東大門築地塀 石畳参道 東大門は八本の柱からなる八脚門で、両脇に築地塀により開かれています。 奈良時代に西院伽藍の食堂寄りに建っていたものを、平安時代に現在の位置に移され、東西に抜ける門となりました。 東大門を潜り、さらに東へ進むと東院です。

  • 歴史紀行 15 ‐ 17 世界遺産 法隆寺 食堂、細殿

    食堂(じきどう)左と細殿(右) 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 東西に細長い2棟の建物が並ぶのが、食堂と細殿です。 同規模の建物が並び、一組のように接している建物を双堂(ならびどう)といい、奥行きを大きく取る奈良時代の手法です。 食堂は文字通り僧たちの食事の場で、堂内中央に須弥壇(しゃみだん)が設けられ、奈良時代の薬師如来座像が安置されています。 〜法隆寺伽藍縁起〜によると、当時の食堂は大講堂に匹敵する大きさの規模でしたが、火災焼失し、現在に伝わる食堂は、焼失前の前身もしくは法隆寺の寺務所にあたる政所(まんどころ)であったと考えられています。 壁がなく、柱だけの構造の細殿は、食事前の儀式…

  • 歴史紀行 15 ‐ 16 世界遺産 法隆寺 正岡子規 句碑

    正岡子規 法隆寺句碑 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 〜法隆寺の茶店に憩ひて 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〜 聖霊院前の鏡池のほとり、明治後期の俳人、 正岡子規の詠んだ世に有名な法隆寺句碑があります。 風化してしまい、残念ながら句碑も読み取ることも困難です。 俳人 正岡子規 短歌、俳句において、後の近代文学に多大な影響を及ぼした俳人で、法隆寺の一句は、従軍記者として日清戦争の戦地に赴いたものの喀血して帰国、故郷の伊予 松山から奈良にかけて歩き、明治28年に法隆寺を訪れて詠んだ句です。

  • 歴史紀行 15 ‐ 15 世界遺産 法隆寺 聖霊院

    世界遺産 法隆寺 聖霊院奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 金堂、五重塔という西院伽藍の廻廊の東に位置する聖霊院は、平安時代に全国に広まった太子信仰の中心をなす伽藍です。 平安時代の後期、1121年 保安2年、聖徳太子の500年遠忌の前年に先立ち、太子信仰はより高まりをみせたことを受け、法隆寺では東室の南側3房分を改築して聖霊院として建立し、聖徳太子座像と侍者像を開眼法要を営みました。 聖霊院内部は、外陣、内陣、後陣、脇陣と区画で分けられ、内陣は菱欄間と格子戸で仕切られ、内陣には三室に区切られた厨子が置かれ、上部には唐破風が設けられています。 本尊でもある聖徳太子座像は秘仏として安置され、撮…

  • 歴史紀行 15 ‐ 14 世界遺産 法隆寺 綱封蔵

    世界遺産 法隆寺 綱封蔵奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 綱封蔵(こうふうぞう)という聞き慣れない名前の由来は、かつては勅命でなけれぱ開くことが出来ない倉のことです。 綱封蔵は二つの倉が一つの屋根で覆われ、なお中央が吹き抜けで、高床式となった特徴的な建物です。 これは中央部が吹き放しになった「双倉〜ならびくら」という様式で、外回りには窓はなく、白壁で包まれており、出入口は吹き放しの部分に面して向かいあって設けられています。 奈良時代の財産目録である「法隆寺伽藍縁起並びに流記資材帳」によると、双倉が二棟あったと記されているものの、現在の綱封蔵はそれには該当しないようです。 双倉の開閉は厳しい…

  • 歴史紀行 15 ‐ 13 世界遺産 法隆寺 妻室

    法隆寺 妻室 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 妻室は、中庭を隔てた東室に付属する建物で、本来の名称は〜東室小子房〜といい、現在唯一残る貴重な建物です。 1601年 慶長6年の改築の際に、南北の長さが約3分の2に縮小され、南半分が聖霊院の御供所、北半分が東室の台所にされました。 現在は当初の9房の姿に復元され、各房は三間を1房として、南側の一間は扉口のある前室、北側のニ間は窓のない造りの住房となっていて、東室と中庭を挟んで一組として使われ、各房ごとに仕切られていました。 小子房が妻室と呼ばれるようになったのは、僧房の衰退により移転、改築された頃とされています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 12 世界遺産 法隆寺 東室

    法隆寺 東室 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 東室 法隆寺の僧たちの居住空間は僧房と呼ばれ、747年、天平19年に法隆寺資材帳に記された4つの僧房があり、かつては西院伽藍の廻廊を囲んで東室、西室、北室と3ヶ所ありました。 現在は三経院と棟続きの西室と、廻廊の東側に南北に細長い建物の東室だけが残され、また、創建当初の僧房の姿を今に伝えるのは東室だけになりました。 扉口と連子窓の南北二間分で1房を示し、本来は9房であったものが、南側の3房が聖霊院に改造されて6房分が残りました。 平安時代の保安年間(1120~1124)に旧材を用い た再建に近い大修理がなされ、以来、度重なる大修理や改築によっ…

  • 歴史紀行 15 ‐ 11 世界遺産 法隆寺 三経院

    法隆寺 三経院 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 三経院は、聖徳太子が撰述したという勝鬘経(しょうまんぎょう)、惟摩経(ゆいまきょう)、法華経(ほけきょう)、の三経義琉(さんぎょうぎしょ)に因みつけられた名称の僧坊で、内部は三経院と西室とで分けられ、三経院には阿弥陀如来座像が安置され、西室は僧の生活の場として仕切られました。 西院廻廊に隣接した伽藍でしたが、平安時代に一度火災焼失し、鎌倉時代の1231年 寛喜3年に廻廊から西へ離れた現在の位置に再建されました。 現在では、聖徳太子の遺願、教えを学ぶ〜夏安居(げあんご)のお説教〜として5月から8月の間に実践される三経宣布の道場となっています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 10 世界遺産 法隆寺 西円堂

    世界遺産 法隆寺 西円堂 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 西円堂は法隆寺 西院伽藍の北西の小高い丘に建つ八角の円堂で、屋根の宝珠が特徴です。 創建は聖徳太子の没後で、行基大僧正が堂を造り、本尊の薬師如来坐像を建立したとされています。 行基大僧正により建立された御堂は平安時代の1050年 永承5年に破損し、再建されたのは200年後の鎌倉時代〜1250年 建長2年のことでした。 西円堂の丘から見た西院伽藍 薬師如来は無病息災、延命長寿の霊験があると信じられ、古くから〜峰の薬師〜の愛称で親しまれています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 9 世界遺産 法隆寺 経蔵

    世界遺産 法隆寺 経蔵 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 経蔵は大講堂の西院廻廊に接していて、鐘楼と向かい合う位置にあります。 鐘楼と同じ二階建ての楼閣で、飛鳥時代の様式を持つ金堂や五重塔とは異なり、奈良、天平時 代の建築様式を顕著にしています。 経蔵は名の通り経典を納めるための建物で、当初は回廊の外にありましたが、925年延長3年の火災により再建される際に廻廊に連結するように建てられましたが、鎌倉時代以降 多くの経典が散逸してしまいました。 来日して暦や天文地理などの学問を教えたと日本書紀に記された伝、観勒僧正像が安置され、 歴代の代表者の就任式がこの伽藍で行われました。

  • 歴史紀行 15 ‐ 8 世界遺産 法隆寺 鐘楼

    世界遺産 法隆寺 鐘楼 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 鐘楼は、中門から大講堂に続く廻廊の両側に建つ閣廊のひとつで、経蔵と対をなす構造です。 飛鳥時代の鐘楼は925年 延長3年の火災で大講堂とともに焼失しましたが、大講堂と廻廊と一緒に再建され、飛鳥時代から残る梵鐘が法要の際には僧たちに時を知らせます。 低く落ち着きのある鐘の音色は、何処かおおらかさを感じさせ、まるで飛鳥時代後期から平安時代前期に華開いた白鳳文化を今に伝えるようです。 近年では年中行事以外では、この鐘を撞くことはほとんど無くなりましたが、2022年は聖徳太子の没後1400年にあたる節目の年で、ぼくの訪ねた当時、2022年の正月明け…

  • 歴史紀行 15 ‐ 7 世界遺産 法隆寺 廻廊

    世界遺産 法隆寺 廻廊奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 向こうに見える人影は法隆寺の僧の列で、この後、大講堂で法要をを行いました。 廻廊から中門の内側、向こうは南大門の方角。 廻廊の中から見た金堂と五重塔廻廊が陽射しを和らげ、撮影に適しています。 廻廊は中門を基点にして左右に延び、四角に折れ曲がり向こう正面の大講堂に繋がります。 そして西院の中心伽藍である金堂と五重塔を懐に優しく包み込みます。 法隆寺建立当時、廻廊は金堂、五重塔のみを囲む造りで、大講堂を囲んではいませんでしたが、平安時代の925年、延長3年に大講堂が火災に見舞われた後に大講堂をも守る様に包み込む形に改修されました。 内側は吹き晒し…

  • 歴史紀行 15 ‐ 6 世界遺産 法隆寺 参道

    法隆寺 参道 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 1400年もの古(いにしえ)の歴史を持つ法隆寺。 その中で比較的 新しく整備されたのが参道です。 鎌倉時代の1261年、弘長元年、後嵯峨上皇による法隆寺行幸が決まり、法隆寺の僧たちが対応に追われるのを見ていた村人たちか松を植樹し、門前は整然と並ぶ松の木の道が出来上がりました。 日本の歴史上、この 後嵯峨上皇の法隆寺行幸が全国に見られる松並木の始まりとされ、法隆寺参道はその後も大切に保護され、拝観者を出迎えます。

  • 歴史紀行 15 ‐ 5 世界遺産 法隆寺 中門

    世界遺産 法隆寺 中門 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 法隆寺 南大門を潜ると、飛鳥建築の威容な門が目に入ります。 中門(ちゅうもん)です。 南大門が仏門と世俗との境界とするなら、中門は1400年続いてきた仏(ほとけ)と現世とを結ぶ境界といえるでしょう。 中門 全景 高欄 1400年前の唐の古式を現代に伝える[卍崩し]と呼ばれる意匠。 中門 最大の特徴は、門の中央に柱が立つている造りで、いまだに謎とされていて、奥行きが三間、正面が四間と広くなっています。 金剛力士立像、阿形 (こんごうりきしりゅうぞう、あぎょう) 金剛力士立像、吽形 (こんごうりきしりゅうぞう、うんぎょう) 中門の両側に安…

  • 歴史紀行 15 ‐ 4 法隆寺 西院 南大門

    法隆寺 国宝 南大門 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 法隆寺の玄関にあたる南大門は、平安時代の1031年に造立され、1077年承暦元年に火災焼失。 再建されるも、1435年永享7年 今度は学僧同士による争いが火災に発展したそうです。 この時の再建には4年を要しました。 独特な築地塀が左右に広がる南大門は瓦屋根が緩やかに突出す曲線が見事で、国宝に指定されています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 3 世界遺産 法隆寺 西院 大講堂

    法隆寺 西院〜大講堂 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 大講堂は、法隆寺のシンボルでもある五重塔と金堂を中門と回廊で取り囲む様に見える大きな堂宇です。 大講堂は、僧が学問を学び、法要を行う場として建立されましたが、平安時代の延長3年(925年)に隣接する鐘楼とともに落雷による火災で焼失しました。 再建されたのは990年の正暦元年になってからで、それまで回廊の外にあった大講堂は、北側の回廊が再建時に取り払われ、さらに屈曲させ、回廊に繋がる形となりました。 大講堂は火災前は正面八間の堂宇でしたが、再建時に西側一間を増築させて九間としたことで内部で柱列が重複するという珍しい造りとなりました。 本…

  • 歴史紀行 15 ‐ 2 世界遺産 法隆寺 西院 金堂

    法隆寺 西院〜金堂 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 法隆寺が日本で最初の世界文化遺産に認定された決め手に世界最古の木造建築物だということが挙げられます。 西院の五重塔に並立して建立された金堂は、世界最古の木造建築と言われ、力強い胴張りを持つ柱に連続する曲線による特色のある建築様式が伝わります。 本尊の薬師如来坐像や太子のために建立された釈迦三尊座像など、国宝、重要文化財の飛鳥時代の像が十数体安置されています。 また、これらの仏像を守護するように最古の四天王像が四方を固めています。 残念ながら、これら国宝級の仏像を撮影することは厳禁とされているので、内部の撮影は叶いません。 金堂と五重塔 法隆寺年…

  • 歴史紀行 15 ‐ 1 世界遺産 法隆寺 西院 五重塔

    世界遺産 法隆寺 法隆寺 西院〜五重塔 奈良県生駒郡 斑鳩町法隆寺 山内 聖徳太子ゆかりの御寺 法隆寺は、生駒山地の山裾に広がる斑鳩(いかるが)の里に推古天皇15年(西暦607年)に建立されたと伝わります。 また、1993年平成5年には、貴重な世界最古の木造建築物として日本で最初の世界文化遺産に登録されました。 初の女帝、推古天皇が誕生し、推古帝を補佐する摂政だった聖徳太子は、用明天皇元年 父、用明帝が寺の建立と仏像の安置を望みながらも実現出来ぬまま病気となり崩御されたことで、推古帝と御意願を継ぐ意味も込めて太子の御住まいである斑鳩御所周辺の現在の地に法隆寺を建立しました。 法隆寺は大きく西院…

  • 歴史紀行 14 聖徳太子 御像

    聖徳太子 御像 奈良県桜井市三輪 平等寺 聖徳太子は、飛鳥時代の皇族の1人で、574年 敏達天皇3年、用明天皇の第二皇子として生まれ、后が厩の前で産気づき、太子を出産したため、厩戸皇子(うまやどのおうじ)とも呼ばれます。 聖徳太子の名は、諡名(おくりな)として、逝去後に贈られた名前です。 日本史上、初の女帝となった推古天皇の摂政として政治を任され、内政では〜和をもって貴しとなす〜の序文からはじまる日本史上初の憲法となる十七条憲法。 土地の有力者たる豪族らを現在の官僚にあたる身分として組織化した冠位十二階を制定して国家としての形作りを行いました。 外交では、随国(現在の中国)と対等な外交関係を築…

  • 歴史紀行 13 用明天皇 御陵

    用明天皇 御陵 大阪府南河内郡太子町 飛鳥時代前期の第31代の天皇となる用明天皇は、仏教に否定的だった先代の敏達(びだつ)天皇とは違って、積極的に取り入れる天皇でした。 御即位は西暦585年で、 異母兄の敏達天皇の 崩御により皇位につきましたが、即位早々に疱瘡(天然痘)に冒され、 翌々年に崩御しました。 用明天皇の第二皇子だった聖徳太子(厩戸皇子)は、父、用明天皇の御発願だった仏閣の建立を進め、法隆寺の創建へと繋がります。

  • 歴史紀行 12 四天王寺

    四天王寺 (五重塔、金堂) 大阪市天王寺区四天王寺 推古天皇元年(593年)四天王寺は、今から1400年以上昔に創建した日本初の官寺となります。 遡ること欽明天皇13年(552年)、日本に初めて仏教が伝来すると、その教えに感化された者と否定する者とで別れ始めます。 日本書紀によると、欽明天皇が臣下にもたらされた仏教の是非を問い、蘇我稲目(蘇我馬子の父)は帰依すべきと主張し、物部尾興は強く反対します。 欽明天皇は蘇我稲目に仏像を授け、稲目は邸宅に仏像を祭る日々を送ります。 やがて国中に疫病が流行ると、物部尾興は神々の怒りに触れたためだとして邸宅を焼き払い仏像を川に投げ捨てました。 この対立はやが…

  • 歴史紀行 11 仏教伝来の地碑

    仏教伝来の地碑 奈良県桜井市金屋 初瀬川(大和川)一帯は、古くは第10代崇神天皇が崇敬する大神神社近くに宮殿を置いたことから栄え始め、欽明天皇の代には磯城瑞織宮が置かれたことで交易も盛んとなり、古代末期の大和朝廷の政治と経済の中心地でもありました。 欽明天皇13年(西暦552年頃)の10月、摂津の難波津(現在の大阪港)から大和川を遡り大陸からの船か到着しました。 日本書紀によれば、百済の聖明王から金と銅の釈迦仏一体ずつ、それに経典を約千巻を使節を通して献上がありました。 この桜井市金屋は、代々天皇が崇敬する大神神社創建の地に仏教が初めて上陸した記念の地でもあります。

  • 歴史紀行 10 日本武尊命 (倭建命)像

    日本武尊 像 静岡県焼津市焼津2丁目 焼津神社 ぼくの住む静岡県には、日本武尊の像が各地に、また伝説も残されています。 日本武尊【やまとたける~倭建命】は、今から1800年以上 昔の天皇~第12代景行天皇の皇子(次男)として生まれました。 古事記では、兄の大碓皇子が景行天皇から寵姫を奪ったことが日本武尊の悲劇の発端となります。 景行天皇は日本武尊に兄を諭しなさいと天皇は指示しますが、誤解した日本武尊は兄を殺して戻り、日本武尊を恐れた景行天皇は九州へ赴き熊襲(くまそ)征伐を命じました。 日本書紀では九州で天皇に背いて再度反乱が起きたため、と記されていますが、当時10代の少年だった日本武尊の初陣と…

  • 歴史紀行 9 大神神社

    大神神社 一ノ鳥居、御神体 三輪山 奈良県桜井市三輪 崇神天皇5年、(紀元前93年~皇紀568年)神託により国中に蔓延した疫病を御諸山(三輪山)に大物主大神を祀ることで退散させた崇神天皇。 御神体を三輪山とする大神神社は、創建が古事記や日本書記に記される日本最古の社(やしろ)とされています。 古事記 によると、大物主大神が出雲の大物主神の前に現れ、国造りのために~倭(大和)の青垣、東の山の上に居着き祀れ~と三輪山に鎮まれることを望んだとされ、日本書記では、二神の問答で~大物主大神は、大物主神の吾(われ)は幸魂(さきみたま)、奇魂(くしみたま)であるとして、同じように三輪山に鎮まれることを望んだ…

  • 歴史紀行 8 伊勢神宮 外宮〜末社

    伊勢神宮 外宮 一の鳥居 伊勢神宮 外宮~末社三重県伊勢市豊川町 伊勢神宮 外宮 二の鳥居 伊勢神宮 外宮~風宮 風宮は、農業との関わりが深く、風雨を司る級長戸津命(しなつひこのみこと)と級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀り、古来から稲を中心に、農作物が無事に育つようにと祈りが捧げされてきました。 土宮土宮は、外宮一帯の土地の守り神、大土御祖神(おおつちのみやのかみ)を祀ります。 多賀宮多賀宮は、御正宮に次いで祭典が行われる外宮第一の別宮で、祭典時には、天皇陛下の勅使により奉納を受けられます。 三つ石 三つの石が重なる不思議な場所があります。三つ石と呼ばれ、式年遷宮の際に奉仕する人々を払い清め…

  • 歴史紀行 7 伊勢神宮 内宮〜末社

    伊勢神宮 内宮~末社 宇治橋 宇治橋は、日常から神聖な世界への架け橋ともいわれ、全長101.8メートル、幅8.42 メートルの純日本風の反り橋で、橋の外と内に架けられた大鳥居は、旧正宮の棟持柱が用いられ、さらに20年後の式年遷宮の際に解体され、鈴鹿の関の追分と、桑名の七里の渡の鳥居に用いられます。 五十鈴川御手洗場(いすずがわみたらし) 御手洗場は、清流 五十鈴川が宇治橋から正宮側へ流れるこの場所は、古来 参拝に訪れた人は、ここで心身を清めてから正宮に参りました。 風日祈宮(かざひのみのみや) 風を司る神、級長津彦命(しなつひこのみこと)、級長戸辺命(しなとべのみこと)を祀る宮で、鎌倉時代 元…

  • 歴史紀行 6 伊勢神宮 外宮

    伊勢神宮 外宮【豊受大神宮】 三重県伊勢市豊川町 伊勢神宮の正式な名称は【神宮】です。 名古屋の熱田神宮、東京の明治神宮など、全国に数々の神宮がありますが、ただ一言で、神宮と呼んで通るのは伊勢神宮のみです。 ただ、私たち庶民からは、(お伊勢さん)と親しみを込めて呼ばれている伊勢神宮は、内宮と外宮に別れています。 外宮の御祭神は、豊受大御神(とようけのおおみかみ)で、一般には、私たちの衣食住を司る神様とされ、また、内宮の天照大御神の御食事を調える神様とも言われます。 外宮の御創建は、内宮の御鎮座から約500年後の西暦478年、雄略天皇22年、第21代 雄略天皇の治世下で、雄略帝の夢に現れた天照大…

  • 歴史紀行 5 伊勢神宮 正宮〜【内宮】

    伊勢神宮 正宮【内宮、皇大神宮】 三重県 伊勢市宇治館町 伊勢神宮 内宮 由緒 伊勢神宮 内宮(皇大神宮)は、日本国の象徴と仰ぐ天皇の御祖先であられる天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る社で、その創建から約二千年という歴史を有することから、(日本の心のふるさと)といわれ、日本の総氏神として庶民からは 【お伊勢さん】と親しみを込めて呼ばれます。 約二千年前のこと、日本書記によると、天照大御神の御霊代として、神鏡~八咫鏡(やたのかがみ)を歴代天皇がお祀りしていましたが、第10代 崇神天皇の御代に八咫鏡は皇居の外へ出られることとなります。 大御神の創建 約二千年前の崇神天皇の御代、御殿には、天照…

  • 歴史紀行 4 崇神天皇 御陵

    崇神天皇 御陵 奈良県天理市柳本町 初代天皇である神武天皇は、九州 日向国から東征を成し、大和の橿原宮で即位したと伝わりますが、次代の2代綏靖(すいぜい)天皇から9代 開化天皇までは、その実績など記録が無いに等しいため、存在そのものが はっきりせず、欠史八代と呼ばれています。 これが10代の崇神天皇からは一変します。 日本書記によると… 19歳で皇太子となった崇神帝は、父の開化天皇が崩御し、翌年に即位したのが52歳の時でした。 初代天皇である神武天皇は、九州 日向国から東征を成し、大和の橿原宮で即位したと伝わりますが、次代の2代綏靖(すいぜい)天皇から9代 開化天皇までは、その実績など記録が無…

  • 歴史紀行 3 神武天皇 御陵

    神武天皇 御陵 奈良県橿原市大久保町 神武東征の旅へ 生まれながらにして明達で強い意志の持ち主だったカムヤマトイワレヒコ(後の神武天皇)は、生まれ故郷の日向国(現在の宮崎県地方)を発ち、東征の旅に出ました。 治めるのに相応しい美しい土地が東の地方にあるとされたからです。 兄の五瀬命(イツセノミコト)と共に豊後の字沙を経て、筑紫の岡田宮で一年、さらに東を目指し、阿岐の挨宮(えのみや)で7年、吉備の高島宮で8年を費やし、そこから太平洋に出て、浪速の湾から河内の白肩津に上陸しますが、険阻な地にはばまれ、紀伊半島へ迂回します。 熊野の山で道に迷うも、天照大神が遣わした八咫烏(ヤタガラス)に導かれ、生駒…

  • 歴史紀行 2 橿原神宮

    橿原神宮 【橿原宮跡】 奈良県橿原市久米町 初代 神武天皇を祀る橿原神宮は、現在の奈良県橿原市久米町の畝傍山の麓に鎮座されました。 祭神は神武天皇と皇后の五十鈴媛命で、江戸幕末期に勃発した近世尊王論により天皇奉祀の社や天皇陵の修繕や保護が唱えられ、次いで政権を担った明治新政府は政権の大本営として天皇を担ぐことにより正当化し、特に初代 神武天皇の創業の事績を称えるべく、かつて神武天皇が即位し、宮殿となった橿原宮の遺跡に天皇家奉斎の神宮の創建を取り決めました。 橿原神宮 南神門 橿原神宮 外拝殿 紀元節の決定 明治5年、世界標準でもある太陽暦への導入とともに神武天皇の即位紀元が決められ、明治22年…

  • 歴史紀行 1 神武天皇 御像

    神武天皇 御像 静岡県焼津市焼津2丁目 焼津神社 古事記や日本書記によると、我が国 日本は、神世七代の最後に生まれたイザナギとイザナミの二柱の神により生み出され、さらに生まれた三貴神の一柱、天照大神(あまてらすおおみかみ)により三種の神器を賜り、孫の瓊々杵命(ににぎのみこと)が地上の日向国、高千穂の峰に降り立ちました。 その瓊々杵の曾孫が神武天皇【かむやまといわれひこ】で、【かむやまといわれひこ】は、日本という国を治めるには外れに位置し過ぎていることから東の地を目指す旅に出ました。 【かむやまといわれひこ】は、豊後、筑紫、阿岐、吉備と戦いの旅で15年余りをかけ、さらに浪速の津でも抵抗をうけ、紀…

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