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  • 現代語訳 徳川実紀 34 桶狭間の戦い〜大高城兵糧入れ

    桶狭間の戦い〜大高城兵糧入れ 母上との対面の感動の余韻も内に秘め、元康君は軍勢を二つに分けた。 家中で戦上手で知られる酒井正親、石川数正らを別動隊に八百の軍勢を指揮させて寺部城を攻めさせた。 元康君自らは、大高城へ運び入れる兵糧を積んだ小荷駄隊を、大高城から半里(約2キロ)あまり離れたところに控えなさった。 正親、数正らは寺部城を力推しで押し寄せ、城門を打ち破り、火をかけた後で引き上げ、すぐ様、支城である梅坪城を襲って二の丸、三の丸まで攻めかかった。 大軍が攻め寄せたと思い込んだ両城の城兵らは、元康君に攻められた前回の轍は踏むまいと本丸に籠もり、鉄砲を撃ちかけ、鬨の声を張り上げて、必死に防御し…

  • 現代語訳 徳川実紀 33 桶狭間の戦い〜再会、母よ

    33 桶狭間の戦い〜再会、母よ 松平竹千代 像愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 父祖代々の地、岡崎で軍勢をまとめた元康君は、早々に出立なされた。 出立間もなく、元康君の使いを終えた早馬とうち合った。 〜元康様、上々にございました。〜 〜そうか…〜 〜不幸にも、敵対と相成り申したが、母子の情は別儀、女房も心待ちに致しておる故、遠慮なく立ち寄られよ。とお返事を賜わりました。〜 元康君は、出立に先立ち、母〜於大の再嫁先。今は織田方に味方している阿久比(あぐい)城主の久松佐渡守俊勝へ、もはや今生の別れかも知れぬ御役目の前に、ひと目 母上にご対面したき候〜と丁重に文を出され、久松佐渡は快諾してくれた。 阿久…

  • 現代語訳 徳川実紀 32 桶狭間の戦い 2 鍋之助、元服

    桶狭間の戦い 2鍋之助、元服 お館殿が尾張攻めを決め、元康君が先発隊として出陣なさることとなった。 屋敷に戻った元康君は、北の方(瀬名姫)へ出陣の命が下されたこと、何かあらば、父上の指図を仰ぐようにと告げ、一刻ほどして北の方を下がらせた。 〜鍋、これへ。〜 控えていた鍋之助が太刀を手に入る。 〜忠次から訊いたとは思うが、尾張へ出陣いたす〜 〜存じておりまする、殿はわしが御守りいたすので心配なさらずに〜 鍋之助は六つも若輩ながら、不思議と鍋之助に守ると言われると安堵できる元康君。 〜鍋、今宵をその方の元服といたす〜 〜えっ!〜 普段から爛々としている鍋之助の眼つきが一瞬変わった。 そして元康君の…

  • 現代語訳 徳川実紀 31 桶狭間の戦い 1 元康、運命の戦場へ

    松平元康 騎馬像愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 桶狭間の戦い 1 元康、運命の戦場へ 永禄三年(1560年)、このころ 織田信長は、父信秀の箕裘(ききゅう〜父祖の業)を継いで、尾張をほぼ統一し、兵を鍛えて国を富ます計略をめぐらせて、美濃、伊勢を切り取り従わせ、駿府、遠江、三河をも実力で奪おうと、手始めに鳴海の近辺のあちこちに砦を設けて兵を配置したという。 これに今川のお館殿は大変怒り、〜ならば自分から機先を制して尾張を攻め取り、ただちに国の中央に旗を立てるべし〜 とおっしゃり、国境のあちこちに新しい要害を設けて兵を配備した。 なかでも、大高城へは、信頼のおける一族にあたる鵜殿長照を留めておいたが…

  • 現代語訳 徳川実紀 30 初陣、松平元康 2

    現代語訳 徳川実紀 30 初陣、松平元康 2寺部城跡愛知県豊田市寺部町 初陣の陣中で三河の老臣すら唸らせる采配をみせた元康君、支城を落として後詰めの恐れを無くし、本城である寺部城を攻め落とした。 凱旋した元康君の様子に今川のお館殿も気を良くし、もとの所領のうち、山中の地、三百貫を返し、腰刀を差し上げた。 元康君は休む間もなく出陣を命じられ、織田方に味方している広瀬、伊保などの城を攻め、伯父にあたる水野下野守信元と戦われた。 戦における指揮や機を捉えた駆け引きも、これは生まれながらの勇略であると三河の老臣たちは感服した。 このころ、岡崎の老臣たちは、しきりに駿府に赴き、以前の領地を返してほしいと…

  • 現代語訳 徳川実紀 29 初陣、松平元康 1

    松平元康 騎馬像 愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 弘治三年の暮れ、元信君は今川のお館殿に目通りし、改名を願い出られた。 元信の信の字が尾張の織田信長に通じておるのではないか。と御曹司の氏真ら、今川親族衆から度々嗜められることから、踏み切られた。 新たな名は、〜松平蔵人元康〜。 勇名を馳せた祖父、清康にあやかった名である。 翌、弘治四年に改元、新元号が永禄となった。 今川のお館殿は、織田方に寝返った東三河 寺部城の鈴木重辰を討伐せよと、元康殿に出陣を命じられた。 御年十七歳での初陣である。 元康君は古参の三河衆を率いて岡崎を出陣し、矢作川沿いの寺部城を見定めた。 〜支城があるであろう。〜 陣中に戻…

  • 歴史紀行 特別編 11 長嶋茂雄ランニングロード記念碑

    読売巨人軍 長嶋茂雄ランニングロード記念碑 静岡県伊豆の国市吉田 今朝、悲しい訃報が届きました。 巨人軍のプロ野球選手として素晴らしい成績と、いつまでも記憶に残る名プレーヤーとして活躍され、巨人の監督としても高成績を残してきた巨人軍終身名誉監督の長嶋茂雄さんが亡くなりました。 89歳でした。 心よりご冥福をお祈りいたします。 機会をみて、 いずれ掲載させていただく予定だったこの記事を急ではありますが、ここに掲載いたします。 1974年 (昭和49年)10月14日 プロ野球で巨人軍V9時代の四番打者として大活躍した長嶋茂雄 選手がこの日 引退しました。 【 我が巨人軍は永久に不滅です 】 この言…

  • 現代語訳 徳川実紀 28 暗愚な後継者

    松平竹千代、今川義元公像 静岡市葵区 静岡駅前 暗愚な後継者 元信君と瀬名姫の祝言は、元信君がどこまでも〜某如きが身に余る栄誉にございますと、簡素、質素に。 という願いもあり、比較的 少ない人数での祝言の後の酒宴ということになった。 雪斎禅師の遺言のような戒めもあり、元信君は一層 今川家中の者には腰を低く接した。 そこへ 〜三河の小倅!竹千代はいるか!〜 ささやかな酒宴が開かれていると聞きつけた義元殿の嫡子、氏真殿が喚き散らしながらやって来た。 顔は赤らめ、足元はおぼつかなく、相当に酔っていた。 〜これは氏真様、わざわざお出で下さるとは。申して下されば、こちらから出向きましたものを〜 酒宴の主…

  • 現代語訳 徳川実紀 27 元信君、瀬名姫を娶る  

    元信君、瀬名姫を娶る 弘治三年(1557年)正月十五日、元信君は今川治部大輔義元の勧めで一門衆の関口親永の娘、瀬名姫を娶った。 肌は透き通る如く白い見目麗しき姫君である。 瀬名姫の父、親永の妻は義元の妹で、義元とは姪にあたる姫君を妻に迎えになられたことからも、義元が三河国を傘下に収める腹積もりもありながら、元信君にはいかに期待を寄せていることかを物語っている。 瀬名姫の出自 瀬名姫の父は、今川家一門である瀬名家の関口親永(または瀬名義広)で、母は遠江国衆の井伊直平の娘とされ、言わば井伊家からの人質でした。 瀬名姫の母は井伊直平が今川氏に臣従したとき、今川義元に人質として差し出されました。彼女は…

  • 現代語訳 徳川実紀 26 元信君、幕府に良馬 嵐鹿毛を献ず

    現代語訳 徳川実紀 26 元信君、幕府に良馬 嵐鹿毛を献ず。 神馬 像 愛知県岡崎市 康生町 岡崎公園内 龍城神社 元信君、幕府に良馬 嵐鹿毛を献ず。 弘治二年 (一五五六年)、元信君が良馬を献上した。 並ぶ者がない俊足であり、名を嵐鹿毛という。 この馬を元信君が誓願寺の元信君住僧 泰翁を通じて室町将軍家に献上された。 足利義輝 様の喜びはひとしおであり、元信君に書状と短刀を返礼に贈られた。 これこそ 徳川家から幕府へ贈答をした始まりである。 考えるに、その頃 京都の室町将軍家は足の速い馬をお求めになっており、織田家へもお命じになった。 しかし、織田家では しかるべき馬を差し上げることは出来な…

  • 現代語訳 徳川実紀 25 雪斎禅師の教え

    雪斎禅師の教え 元服の晴れ舞台を故郷、岡崎で過ごされた元信君ではあるが、その喜びは駿府への道中すぐ消え失せた。 様々な教えを乞うてきた雪斎禅師の病がいよいよ重くなり、枕頭で元信君を呼んでいると、元信君の留守居を務めていた石川数正が早馬を駆けて知らせて来たからである。 自らの死期を悟っていた雪斎禅師は、病身ながら秘かに駿府の臨済寺を発ち、住持を務める駿府より西の藤枝の長慶寺へと身を移された。 このことは今川家中の主だった者はまだ誰も知らずにあった。 禅師は、死期が家中に漏れれば、義元はじめ、駿府在国の重臣らから、慕う領民まで臨済寺に押し寄せると踏み、ひっそりと静まる禅寺である藤枝の長慶寺へと移り…

  • 現代語訳 徳川実紀 24 譜代 大久保の無念

    譜代 大久保の無念 大久保という譜代が松平家中にいる。 本多、鳥居、石川。これらの家々に並ぶ譜代の家で、松平と苦難を共に過ごしてきた。 大久保は岡崎の南、上和田を強固に守る譜代で、 竹千代君の父、広忠が尾張の織田と熾烈に戦っている中、度々 上和田が最前線に晒されながら一族で戦い抜いた。 やがて竹千代君が駿府へ人質の身となると、今川は三河の産物であっても少しも使うことを許さず、食べるだけの扶持を除き、根こそぎ奪っていった。 大久保ら、譜代の家中は十年余り、百姓同然に餓死寸前になりながら鎌、鍬を取り自ら田を耕し、わが身を過ごした。 それで年に数度、今川は織田との戦となれば、竹千代殿の家来に先陣を切…

  • 現代語訳 徳川実紀 23 太刀持ち、鍋之助

    本多平八郎忠勝 像 愛知県岡崎市康生町 岡崎公園 太刀持ち、鍋之助 元信君は、十四歳で元服の運びとなり、御屋形 義元殿の許しを頂き、晴れて帰郷と相成った。 ただ、父祖伝来の地、岡崎はこの世の春を謳歌している駿府とは雲泥の差があった。 百姓も武士の別も無い、武士といえど、今川から禄のほとんどを吸い上げられてしまっているため、百姓らと同じ様に田畑を耕しても粥にもろくに有りつけない有様だった。 鳥居彦右衛門から三河の惨状を聞いてはいたが、自らその姿を目の当たりにし、胸に刺さる思いをなされ、幾度も涙ぐまれた。 元信君が集まって来た老臣らと涙を浮かべながら語らいでいると、元信君を遠巻きに見ている どこか…

  • 現代語訳 徳川実紀 22 元信君、家士を憐れむ

    元信君が家士を憐れむ 岡崎に帰郷なされ、父祖の法要も済ませ、古参の御家人との対面もなされた元信君。 ある日、一日鷹狩りをなさっていると、折しも早苗をとる頃で、御家人 近藤某は農民に混ざって早苗を挿していると、元信君がお出ましになられたのを見た。 そこで近藤は、わざと泥で顔を汚して見つからない様にしたが、早速 元信君に見つかってしまった。 ~あれは近藤ではないか? ここへ呼べ。~ と おっしゃったので、近藤もやむを得ず顔を洗い、田のあぜに立てかけておいた刀を差し、渋帷子の破れたものを身に付けて縄をたすきにかけ、恐る恐る出てきたが、その様は目もあてられない程見すぼらしい様であった。 元信君は、~我…

  • 現代語訳 徳川実紀 21 鳥居忠吉、

    鳥居忠吉、密かに米銭を貯える。 鳥居氏発祥地碑 愛知県岡崎市 渡町 元信君は元服前に一度、増善寺の等膳和尚の計らいで密かに帰郷し、父の菩提を弔って以来、今回は義元の許しを得て正式に三河の御曹司として、堂々と松平元信が帰郷された。 ここ岡崎に鳥居伊賀守忠吉といって先代から御家人となり、いまは八十歳余りの老人がいた。 この老人は、今川家から岡崎の御領のことを執り行うよう命令された。ただ、租税は今川が無理矢理奪っていたので、徴税奉行の忠吉は百姓らの不満を抑えるのに日々苦心していた。 忠吉の御家 渡党は、元は平 清盛から平姓を許された熊野別当行範の子孫がこの地に土着して渡里姓を名乗り、一時は海運、商工…

  • 現代語訳 徳川実紀 20 元信君、岡崎に帰る

    元信君 岡崎に帰る 元服式を終えた竹千代君は、後日 御礼言上のために今川館に義元を訪ねた。 言上の席で竹千代君は、私は十五になりましたが、今だに先祖の墓前に詣でていません。 出来ることなら、一度 故郷に帰って祖先の墓を掃き清め、亡き父の法事を営み、年老いた家老の者たちとも対面したい。とおっしゃられた。 義元も、竹千代君のご意志を尊重すべきであるとして、しばらくの間として時間を差し上げるとなったので、竹千代君の喜びは大変なものであった。 わずかな供を連れて急いで三河国へお発ちになり、ご先祖の墓前に詣でて、追善供養を営まれた。 この時 岡崎には今川の城代 山田新右衛門という者が本丸に住んでいた。 …

  • 現代語訳 徳川実紀 19 竹千代君の元服

    弘治元年( 1555年) 閏三月、竹千代君は浅間神社で元服を迎えられた。 今川義元が烏帽子親となり、冠をかぶせ、関口刑部親永が理髪をした。 義元は竹千代君に一字を与えられ、二郎三郎元信と名を改められた。 雪斎禅師が病に伏せがちとなり、晴れの舞台に姿を見せられなかったのが誠に残念な様子であった。 義元は元服の祝いを兼ね、松平一族に日近城攻めを命じた。 竹千代君の名代として東条松平の右京亮義春を差し向けたが、敵の大将 奥平貞直はよく防ぎ、義春は討ち死にしてしまった。 義元は続けざまに福釜に新しく要害を構えさせ、酒井、大久保をはじめとした主だった御家人に守らせた。 尾張の織田上総介信長はこれを聞いて…

  • 現代語訳 徳川実紀 18 竹千代君、臨済寺 手習いの間にて

    竹千代君、臨済寺 手習いの間にて 竹千代君の駿府での生活は、最近は今川からも何か意を受ける様なこともなく、屋敷で過ごし、時折 鷹狩りに出て、浅間神社に詣で、月に数度 雪斎禅師の薫陶を受けに臨済寺へ通う日々を送った。 天文二十三年、今川の軍師でもある雪斎禅師は、東の北条、北の武田との間で同盟を結ぶ偉業を成し、今川の家中でさらに重きをなす身上となった。 義元は家中譜代の者の意は聞く耳を持たずとも、雪斎を隣に侍ることでその役回りを済ませてきた。 同盟の数日後、竹千代君は手習いの日で臨済寺へ足を運ばれた。 学びの席で竹千代君は雪斎禅師に同盟の話を問い掛けた。 ~雪斎様、先日の北条、武田との和議の話を聴…

  • 現代語訳 徳川実紀 17 等膳和尚、竹千代君を諭す

    等膳和尚、竹千代君を諭す 慈悲尾の森は、今川義元の父、氏親の菩提寺 増善寺の門前である。 安倍川から遠出をしてきた竹千代君は、鷹の獲物が多いこの森で鷹狩りをやると言い出した。 小姓たちは、寺は殺生禁断の聖地にございますと申しても聞く耳持たぬため、住持に許しを得ようと本堂へ走った。 やがて小姓が戻った。増善寺の若い和尚を伴っていた。 ~やれやれ、竹千代殿、臨済寺での行儀の良さは偽りでござりますか。~ 竹千代君は顔を赤らめ目が点になった。 増善寺の若い和尚は等膳といい、臨済寺で手習いを受ける竹千代君に時折、勉学を教えた。多忙な雪斎禅師が寺に居らぬ時は、等膳が臨済寺に足を運び竹千代君の世話をなされた…

  • 現代語訳 徳川実紀 16 竹千代君、癇癪をおこす

    竹千代君、癇癪をおこす 天文二十年が明け、国守 義元への挨拶も済ませた竹千代君の元に、生まれ故郷 岡崎で留守を預かる奉行の鳥居忠吉の倅、彦右衛門(元忠)が新たに小姓としてお付きになった。 竹千代君は臨済寺の雪斎禅師の戒めもあって、しばらくは大人しくしていた。 鷹狩りが大好きになった竹千代君であるが、隣の庭が木々の鬱蒼とした今川家臣の孕石の庭で、鷹が木に引っ掛かって落ちてしまうことから、鷹より小さい百舌鳥を手懐けようとお考えになった。 ある日、竹千代君は 屋敷に来て間もない彦右衛門に百舌鳥を狩りの出来る様に手懐けよと、お命じになった。 ところが何日経とうが百舌鳥は彦右衛門の手で狩りを覚える様なこ…

  • 現代語訳 徳川実紀 15 雪斎の戒め

    今川義元への年賀挨拶の折り、竹千代君と祖母、源応尼は今川の軍師格の雪斎禅師に声をかけられた。 ~わしは臨済寺の雪斎と申す。 ~竹千代殿、先ほどの放尿はいかなる存念でなされた。~ ~今川の家来が座中で私の陰口をしてる故、一度にわからせてやろうと思い、小便を放ちました。~ ~ほう、それでどうなったかの。~ ~もっとざわめきました。~ ~お主の先ほどの行いはのう。太刀を片手に名乗りをあげ、今川の家来衆を向こうにしてみせた様なものである。 お主はいずれ三河の国守となる身、館での軽挙妄動は慎みなされ。~ ~けいきょもうどう…?~ ~お主が軽はずみな行動を取れば、国元の民、家臣に類が及ぶと考えなされ。~ …

  • 現代語訳 徳川実紀 14 竹千代君の立ち小便

    竹千代君の立ち小便 天文二十年 (1551年)正月元旦、竹千代君は今川館へ招かれた。 館は今川の家臣でごった返した。 とくに下座は座る場に困る有り様で、竹千代を館へ伴った小姓は、居場所を探して回るも顔色を伺ってばかりであった。 小姓の様を見ていた竹千代君は、上座近くの縁側に進み出た。 ~わ 若、そちらは…~ 小姓が竹千代君を制止しようとすると、 ~あれはどこの童だろう。~ 上座近くに座していた家臣たちがざわめき始めた。 大人たちの年賀の挨拶に一人だけ場違いな童が現れたので、家臣たちの視線は竹千代君に集まった。 ~三河の松平清康の孫じゃないのか?~ ~そんなはずは あるまい~ 家臣らの視線が竹千…

  • 現代語訳 徳川実紀 13 竹千代君、石合戦を観る

    竹千代君、石合戦を観る 今川の人質の身となり、駿府城下の少将宮町に屋敷を給り暮らし始めた竹千代君。 屋敷の隣には、同じような境遇の相模 北条氏の人質、助五郎(後の北条氏規)が居り、竹千代君は顔を合わせると助五郎と語らいあった。 今川は竹千代君の生活に特段、口を出すことはなかったが、屋敷の庭を隣り合わせる今川の臣、孕石元泰は、最初は竹千代君と小姓を黙って見ていたのみだったが、次第に竹千代君を罵る如く仰せる有り様。 竹千代君の鷹が孕石の屋敷の庭に落ちると、 ~またか!三河の小倅には飽き飽きしたわ!~ ~宿無しが わしの庭に何の用だ?~ と口汚く仰せる始末。 竹千代君も次第に不機嫌になっていった。 …

  • 歴史紀行 動物編 5 犬の虎退治

    豊臣秀吉は、目前だった織田信長の天下布武を継承。 天下統一を果たした英傑といえるでしょう。 ただ、犬好きのぼくは、太閤 秀吉さんを手放しでは讃えることは…ムリです。 豊臣の世で ぼくが犬について思い浮かぶのは、犬にとって大変不幸な世であったと考えるからです。 これは 秀吉の生への執念と気まぐれにより、多くの犬が犠牲になった民話です、一時期、大坂城では虎が飼われていました。 それを象徴するかのように、大阪城の天守には、虎のレリーフが飾られています。 その虎と犬にまつわる2つの話です。 犬の虎退治〜新著聞集より いまからおよそ四百年ほど前、豊臣秀吉は朝鮮に軍隊を出して、無謀な侵略戦争を起しました。…

  • 現代語訳 徳川実紀 12 竹千代君、今川の質となる

    竹千代君、今川の質となる 竹千代君は、天文十六年 六歳にて尾張の人質となられ、八歳にして初めて帰国なされたので、御家人はいうまでもなく、岡崎近郊の人々までも、竹千代君の帰国を喜んでいると、今川義元は老臣らに ~竹千代が未だに幼きゆえに義元が預って駿府にて後見いたす~ と申し送ってきた。 十一月二十二日、竹千代君は駿府に着き、少将宮町に屋敷を宛がわれた。 小梳神社にて衣服を整え、武運長久を祈願し、今川義元に拝謁した。 今川義元は岡崎に城代を遣わし、三河の国中のことは義元の思うがままに取り仕切り、御家人らを合戦の度に先鋒に用いた。 竹千代君、御母公 於大の方様の母君、源応尼様を駿府に遣わして竹千代…

  • 現代語訳 徳川実紀 11 人質交換

    現代語訳 徳川実紀 11 人質交換 天文十八年 三月、岩松八弥に襲われて以来、体調の優れぬ松平広忠が日増しに悪化していき、三月六日に二十四歳で亡くなられた。 まだ三十歳にも満たず、先代 清康に次ぐ相次ぐ不幸に一門、御家人らも嘆き悲しまぬ者はいなかった。 しかし、織田信秀が昨年来、岡崎を攻め込む様子を崩さなかったので、再び今川へ加勢を要請した。 御家人たちは広忠逝去が織田方へ伝わってしまうことを恐れ、深く帰依していた法蔵寺の教翁和尚と内々に申し合わせて、岡崎の大林寺において密かに法要を行い、納見ガ原に内葬したのち、今川へその旨を告げ、大樹寺において葬礼を行い、納見ガ原の地に一寺を建立、松応寺とし…

  • 現代語訳 徳川実紀 10 二人の御曹司

    織田信長 公~近世の曙像(名古屋市緑区 桶狭間古戦場公園) 二人の御曹司 万松寺 天主坊に薄汚れた身なりの青年が足早に訪ねて来た。 織田の御曹司、信長である。 その出で立ちは腰に朱鞘の太刀を縛りつけ、髪は茶筅で乱暴に縛りつけ、手には大小の瓜をぶら下げていた。 朱鞘の太刀が無ければ、百姓の若者にも見えるだろう。 渡り廊下をづかづか足音を立て、竹千代君の居る部屋の襖を勢いよく開いた。 部屋には三人の童。 一人は折り紙遊び。一人は書物を読んでいる瞳の大きな童。もう一人は書物を読んでいる童を遠巻きに眺める年上の童だった。 信長は折り紙遊びの童に向かって、 ~その方が松平の竹千代か?~ と切れ長の目を開…

  • 現代語訳 徳川実紀 9 母の便りと黒鶫

    母の便りと黒鶇(くろつぐみ) 万松寺、天主坊に幽閉された竹千代君であったが、織田信秀は竹千代君を戸田康光の持ちかけに応じ、竹千代君を買い取り人質としたものの、その生母に関して意外な事実を知った。 東を固める阿久比(あぐい)城主、久松佐渡守俊勝の再嫁した於大の方である。 さすがに幽閉はしても竹千代君を粗略に扱うことは無かった。 竹千代君の身柄が尾張にあると知った 御母公~於大の方は、岡崎で生き別れた我が子が信秀の元にあることを夫、俊勝に告げた。 御母公は夫 俊勝の許しを得て、手紙や菓子、季節の衣類に至るまで家臣 平野久蔵と竹内久六の両名に持たせて万松寺へ訪ねさせ、竹千代君の安否を確かめた。 どう…

  • 現代語訳 徳川実紀 8 織田信秀、竹千代君を幽閉する

    織田信秀、竹千代を万松寺に幽閉する 戸田康光から竹千代を買い取った信秀だったが、 広忠の毅然とした返答に感心したのか、いずれ使い道はあろうかと、竹千代の命を奪おうともせず、万松寺の天主坊へ身柄を置いた。 今川義元も広忠の義心に感心し、~それならば救援の兵を遣わすように~と遠江と東三河の軍を差し向け、三河 小豆坂において織田勢と合戦し、織田方はついに退却した。 松平蔵人信孝が織田方に内応したとはいえ、松平忠倫が討たれたあとは、同志の者たちが没落するのを憤り、自ら打って出たが 返り討ちにあってしまった。 山中城の松平権兵衛重弘も落ち失せたため、織田方はいよいよ大軍を動員して岡崎へ乱入しようとした。…

  • 現代語訳 徳川実紀 7 竹千代君、売られる…

    竹千代君、売られる… ここに三河 田原城の戸田弾正少弼康光は、いまの広忠の義父になるが、この縁で、~陸地には敵が多い。 船で我が領地から送り申し上げる~ と約束し、西郡(にしごおり)から吉田へお入りになるところを、康光はその子 五郎政直と申し合わせ、供の人々を欺いて、竹千代を船に乗せて尾張 熱田湊に送った。 織田信秀に渡したところ、信秀の喜びは大変なものであり、熱田の加藤図書順盛の元へ預け置いた。 こうして信秀から岡崎へ使者が立てられて、 ~幼君 竹千代は私(信秀)の膝元に預かり置いた。 いまに至っては、今川との手切れをし、私に降参するほうが良い。 もしも叶わぬときは、幼君 竹千代の一命を頂戴…

  • 現代語訳 徳川実紀 6 織田信秀、三河へ侵攻

    織田信秀 三河へ侵攻 天文十七年このころ、武勇に優れた道閲入道(武勇に優れた五代当主、松平長親)も亡くなられ、織田信秀の喜びは大変なものであった。 ~今ならば、三河を侵略することは容易い~と、まず安祥城を攻め落とし、その子 信広にあとを守らせ、筒針に砦を構え、上和田城に内応に応じた松平忠倫、上野城に酒井将監忠尚、松平清定、山中城の松平重弘と、岡崎城は敵に囲まれ孤立して大変危険になった。 三河は大いに乱れ、明けても暮れても互いの戦が止むことは無かった。 当時、筧 平三郎重忠は、岡崎の御家人だったが、偽って上和田城の松平忠倫に降参し、親しげにに近づき忠倫を刺し殺した。 今回の反逆の首謀者であった忠…

  • 現代語訳 徳川実紀 5 老臣達の争い

    老臣達の争い 天文十五年(1546年)…この頃、尾張の織田信秀は、三河を勢力下に収めようと しきりに謀を巡らせた。 三河では、上和田城主 松平三左衛門忠倫、上野城主 酒井将監忠尚らをはじめ、これに内応する者も少なくなかった。 ここに蔵人信孝は、広忠を擁立した功績により、その権威に肩を並べる者がなく、好き勝手に振る舞うことが多かったが、阿部大蔵定吉はじめ老臣たちはかねてから仲が悪く、互いに疑い、信孝の驕り昂った勝手な行動をそのまま放っておいたならば、昔の松平内膳信定を甦らせると折々に広忠を諌めたのである。 一五四七年 天文十六年 正月、広忠が病に苦しんでらっしゃったので、名代として信孝を駿府の今…

  • 現代語訳 徳川実紀 4 岩松八弥 広忠を襲う

    岩松八弥 広忠を襲う 1545年 天文十四年 三月のころ、御家人 岩松八弥が突然、広忠の傍らに来て股を一刀突き申し上げて、門外へ逃げ出した。 (隣国より頼まれて刺客となったという) 傍らの者たちは驚き慌てて追いかけた。 広忠も刀を取って、「逃がすものか」と追いかけたが、股の傷が痛み、追いつくことが出来なかった。 このとき、植村新六郎が外の方から広忠を訪ねて来て、偶然 八弥と行き会い、そのまま押し捕 らえ、共に空堀の中に落ち入り、ついには組伏せて八弥を討ち果たした。 この植村新六郎は、さきに竹千代 祖父の清康が阿部弥七の手にかかった時、即座に討ち止め、今度はまた八弥をも逃がさずに首を取り、二代の…

  • 現代語訳 徳川実紀 3 松平広忠の子

    松平広忠の子 竹千代の父、松平広忠の子は、竹千代の他に男児一人、女児が三人いらっしゃった。 正妻 於大の産んだ子は竹千代のみで、側室がも うけた男児は家元。後に康元と称し、生涯足が弱く、世に出て人にも交わることはなかった。 のちに母、正光院と生活を共にした。 長女は多劫姫と申し、桜井の松平与一忠政に嫁し、忠政の死後、その弟与一郎忠吉に嫁し、 その後また保科弾正忠光に降嫁した (『藩翰譜』には、正光に降嫁したとし、烈祖 (家康)の 妹は伝通院(家康生母)が再嫁した久松俊勝のもとで設けたとあるが誤りである。 その次 (二女)は市場殿といって、荒川甲斐守頼持 (または義虎)に嫁し、のちに筒井紀伊守政…

  • 現代語訳 徳川実紀 2 於大の方離別

    於大の方離別 於大の方を水野家へ返す 天文十二年七月 ここに於大の方の父水野忠政が死去すると、その子下野守信元が今川方を背き、織田方についた。 松平広忠はこれをお聞きになると、「私が今川の同盟国であることは人もみな知っているところである。 したがって、いま織田方に内通する信元と緑を結んでいるべきではない」と、於大の方を水野家に送り 返すと決められた。 これは竹千代(家康)が三歳のときのことである。 我が子の別れを借しむ心の内はさぞかし寂しかったであろう。 さて、当日は、金田、阿倍などの御家人らを添えて 於大の方を興に乗せ刈谷へ送り遣わされた。 於大の方が途中でこれらの御家人におっしゃるには、「…

  • 現代語訳 徳川実紀 1 家康の誕生

    現代語訳 徳川実紀 このカテゴリーの記述は、徳川実紀を中心に徳川家と一族、家臣に至るまで、伝説、伝承、地域に残る逸話を他の資料も交えて補完を目指したものです。 1 家康の誕生 天文十一年 十二月二十六日、虎の刻。 於大の方より若君が安らかにお生まれになった。 これぞ天下無疆( #てんかむきょう)の大統を広げることとなる当家の烈祖東照宮でいらっしゃる。 そのときの奇瑞(吉兆)が様々世に伝わることが多い。 (於大の方が鳳来寺峰の薬師に祈願があって、七日満願の夜、薬師十二神将の寅神を授けられた様子が見られてから、身重になられるなど、日光山の縁起にも記されてることが多い。) 石川安芸守清兼が蟇目役(#…

  • 上限いっぱい…

    記事に画像添付できず… 容量オーバーとなりました。

  • 歴史紀行 29 阿倍比羅夫 像

    阿倍比羅夫 像 北海道余市郡余市町 阿倍比羅夫 古代史を知る上で欠かせない日本書紀において、朝廷から派遣された武将で、記録上、北海道に上陸した初めての名の残る人物です。 大化の改新の後、朝廷は天皇による中央集権国家を目指しました。 658年 (斉明天皇4年〜斎明帝重祚により元号停止中)。阿倍比羅夫は朝廷の命により大船団を率いて越国(現在の新潟)から津軽にかけて支配下に置きます。 その支配は、一方的な圧力ではなく、比羅夫が土地の支配者を饗応(接待)し、酒や食料、禄を与えるといったり、それでも敵対する者には武力に出る手法を取りました。 660年(斉明天皇6年)、比羅夫は渡島(蝦夷地、北海道)へ足を…

  • 歴史紀行 動物編 4 消防犬ぶん公

    消防犬ぶん公 像 北海道小樽市色内2丁目 小樽運河プラザ前 北海道小樽市は、江戸時代にはニシン、鮭の漁場として栄え、また明治時代に入ると、北海道内陸部で産出される石炭の搬出港として、小樽港が使われたことで大いに繁栄し、輸入港としても活用され、人、物、金が集まる夢の街として知られました。 それに伴い、小樽の街は、人が集まるに連れて火災も頻繁に起こります。 そんな火災のよく発生する小樽の街で、大正3年の春、住宅街の火災で消火活動していた消防士が、焼け跡現場で鳴いていた一匹の仔犬を救助しました。 仔犬は白と茶色のぶち模様で、明らかに雑種犬でした。 火災現場の指揮をしていた小樽市消防組(現在の小樽市消…

  • 歴史紀行 地域版 10 ソーラン節発祥之地碑 【北海道】

    ソーラン節発祥之地碑北海道余市郡余市町 豊浜町 北海道民謡として、最も有名なソーラン節。 近年では全国の小中学校などでのダンス授業や、一般の祭りでの舞踊で披露されたりと、いまではメジャーな民謡として認知されています。 北海道では、初夏の到来を告げると共に、北海道一ノ宮、北海道神宮例大祭の前祭の様に開催されるコンテスト形式の〜よさこいソーランまつり〜が人気で、祭りの様子はテレビ中継もされて話題となります。 ソーラン節の起こりは、江戸時代から昭和初期にかけて、主に北海道西部の日本海側で、大漁の漁獲量によって携わる人々に莫大な富をもたらした鰊【ニシン】漁を沖合で行う船上での掛け声が発展したものとされ…

  • 歴史紀行 地域版 9 元新選組 永倉新八 近藤勇 息女、対面の地 【北海道】

    元新選組 永倉新八 局長 近藤勇 息女 山田音羽 対面の地 北海道 小樽市花園町 〜新選組〜 幕末に第14代将軍 徳川家茂の上洛の警護を司る浪士組の結成から始まった組織で、近藤勇や土方歳三らが隊士として応募して上洛後、壬生浪士組から新選組と変遷する過程で、近藤勇らが内部で対立し始めた芹沢 鴨ら水戸浪士一派を粛清して組織はより先鋭的、一本化され、京都守護職を司る会津藩主 松平容保(かたもり)の下で京都の治安維持を名目に活動を強化、尊王攘夷、倒幕を練る不逞浪士の多くを討ち取りました。 倒幕が成ると、有能な志士を数多く失った外様諸藩の恨みは新選組と彼らを支配下に置いていた京都守護職の松平容保が藩主の…

  • 歴史紀行 特別編 10 元京都見廻組 今井信郎 像

    今井信郎 像、今井信郎碑〜今井信郎 屋敷跡 静岡県島田市阪本 今夜は八十八夜 新茶摘みにちなみ、茶に関わる歴史について書いています。 1867年 慶応3年、11月15日、京都河原町の醤油商 近江屋の二階で幕末の風雲児、坂本龍馬が土佐の同輩〜陸援隊を率いる中岡慎太郎とともに刺客に襲われ還らぬ人となりました。 通説によると、龍馬に手をかけたのは、幕府の京都見廻組の組頭、佐々木唯三郎 を筆頭にした七名でした。 時代が明治を迎え、龍馬暗殺の実行犯として逮捕されたのは今井信郎でした。 今井は見廻組、組頭 佐々木唯三郎の指揮下で龍馬捕縛へと捜索、龍馬が醤油商 近江屋に潜んでいると情報を得て急行、二階に踏み…

  • 歴史紀行 特別編 9 中條金之助景昭 像

    中條金之助景昭 像 静岡県島田市 阪本 今日、5月1日は立春から八十八夜を迎えました。 今年も静岡県地方は新茶を摘む季節となりました。 不毛の台地を一大茶産地に変えた不屈の闘志を持った旧徳川家臣の逸話があります。 東海道金谷宿東部から島田宿南部を流れる大井川。 蓬莱橋を渡り、大井川を越え蓬莱峡を抜けて牧之原台地へ登ると、大井川を背に牧之原台地を見守る中條金之助景昭の像がそびえています。 牧之原台地での苦難に満ちた開拓黎明期を先導した中條金之助景昭は、1827年 文政10年、幕府小姓組、中條市右衛門の長男として生まれました。 1854年 嘉永7年、徳川13代将軍 徳川家定に御書院番として仕えて以…

  • 歴史紀行 地域版 8 蓬莱橋 【静岡県】

    蓬莱橋 静岡県島田市 宝来町 1869年 明治2年 7月、江戸幕府 最後の将軍 徳川慶喜が謹慎のために水戸へ発ち、やがて明治新政府により謹慎か赦免されて静岡への道中を護衛してきた幕府 精鋭組【後の新番組】を中心とした幕臣らは、徳川宗家を慶喜から継いだ徳川家達が静岡藩主となり、新番組は ここで御役御免となりました。 旧幕臣達の身の振り方を考えていた勝 海舟は、広大な幕府領でありながら、耕作に不向きなため、何百年と放置されてきた金谷原【現在の牧之原台地】の存在を知ります。 勝は、新番組の一員の中條景昭らに金谷原での開墾と茶葉の栽培を持ちかけました。 中條景昭は、【死を誓って開拓します】と快諾し、景…

  • 歴史紀行 特別編 8 牧之原大茶園

    牧之原大茶園 静岡県島田市、牧之原市、御前崎市、菊川市 牧之原大茶園から島田市 大井川方面を望む 牧之原大茶園 ~現、島田市阪本、谷口原 ~ 牧之原大茶園~島田市阪本、権現原~ 牧之原大茶園~島田市阪本、初倉方面~ 牧之原大茶園~開拓記念碑~ 開拓記念碑~拡大~碑名に中條景昭、今井信郎ら 記念碑所在地 静岡県島田市阪本4846 〜牧之原大茶園〜 明治維新以後、徳川幕臣の約6千名が幼年ながら静岡藩主となった徳川家達(徳川宗家16代)が駿河 府中城(駿府)城主となって封じられたことに伴い、家達の居る駿府に入りました。 駿府城下の町は、江戸から追われる様にやって来た旧徳川幕臣の士族であふれ、城下に留…

  • 歴史紀行 地域版 7 足久保 〜静岡茶発祥の地〜【静岡県】

    静岡茶発祥の地 足久保 静岡市葵区足久保 本日、5月1日は立春から数えて八十八日目にあたる八十八夜を迎えます。 八十八夜を境に新茶を摘む初夏の季節を迎えました。 永らく全国一の生産量を誇る静岡茶。 有名な生産地は、5000ヘクタールにも及ぶ牧之原台地です。 ここは明治時代に旧、徳川幕臣達により開拓の手が入り、一大産地へと成長していきました。 牧之原については、次の静岡茶の寄稿で掲載致します。 静岡茶がその息吹をはじめたのは鎌倉時代にさかのぼります。 日本に茶というものが最初に遣唐使により、 もたらされたのは奈良時代ですが、その時は朝廷内のごく一部で楽しまれる程度で世間一般的には広まらず、やがて…

  • 歴史紀行 特別編 7 ‐ 3 浅羽佐喜太郎 公記念碑

    浅羽佐喜太郎 公記念碑~現代語訳〜 我らは国難のため扶桑(日本)に亡命した。公は我らの志を憐れんで無償で援助して下さった。思うに古今に類なき義侠のお方である。ああ今や公はいない。蒼茫たる天を仰ぎ海を見つめて、我らの気持ちを、どの様に、誰に、訴えたらいいのか。此処にその情を石に刻む。 浅羽佐喜太郎公碑~原文 豪空タリ古今、義ハ中外ヲ蓋ウ。公ハ施スコト天ノ如ク、我ハ受クルコト海ノ如シ。我ガ志イマダ成ラズ、公ハ我ヲ待タズ。悠々タル哉公ノ心ハ、ソレ億万年。 — 大正七年三月、越南光復会 説明板 天皇皇后両陛下行幸啓記念碑 浅羽佐喜太郎 ファン・ボイ・チャウ ファン・ボイ・チャウのその後… 帰国後、清国…

  • 歴史紀行 特別編 7 ‐ 2 浅羽佐喜太郎 公記念碑

    【浅羽佐喜太郎の支援とファン·ボイ·チャウの日本退去】 借金のあても無くなったファン・ボイ・チャウは、以前行き倒れになった同志のグエン・フォン・ディを助けたばかりでなく、東京同文書院への入学手続きや学費まで払ってくれた、浅羽佐喜太郎先生にお願いするほかはないとグエン・フォン・ディに相談をします。グエンの件があり、浅羽佐喜太郎は義侠の人としてベトナム留学生の間でも良く知られていました。 ファン・ボイ・チャウは窮状を書き、グエンに書状を託します。しかし、公のこれまでの厚志に何のお礼らしきこともできていないのに、また援助を求めるのは厚かましいことだと心苦しく思っていました。 なんと 朝持たせた手紙の…

  • 歴史紀行 特別編 7 浅羽佐喜太郎 公記念碑

    浅羽佐喜太郎公記念碑 天皇皇后両陛下行幸啓記念碑 浅羽佐喜太郎 公記念碑、 天皇皇后両陛下行幸啓記念碑 静岡県袋井市梅山 常林寺 本日、4月30日。 ベトナムはベトナム戦争終結 50周年と南北統一を迎えました。 そして… 2023年12月、日本とベトナムは、外交関係樹立50周年の節目を迎えました。 個人的に、ぼくの職場には、数十人のベトナム人実習生が毎年来日し、技術の習得、語学勉強と、一生懸命頑張る姿がとても印象的で、こうした彼等の直向き(ひたむき)な姿を見ていると、帰国後の彼らの夢と成功を応援したくなります。 こうした彼らの姿を象徴する様に、近年のベトナムは目覚ましい発展を遂げ、かつて日本が…

  • 歴史紀行 地域版 6 ねこ塚 ねずみ塚 【静岡県】

    ねこ塚 静岡県 御前崎市 御前崎 ねずみ塚 静岡県 御前崎市御前崎市ケープパーク 昔、御前崎に遍昭院という寺がありました。 寺の住職がある朝、海岸で難破した船があると聞き、様子を見に行くと、木片に掴まって流されている子猫を見つけたので、漁師に頼んで助けてもらいます。 住職は何かの縁を感じたのでしょう。 子猫を寺に連れ帰り、飼うことにしました。 子猫は住職の愛情を受け、 隣家の猫とも仲良くなり、すくすくと育ち それから約10年の月日が流れた頃、遍照院に旅の僧が宿を求めてきました。 住職は快く僧を迎え入れます。 そして3日目の夜中、本堂の屋根裏で何か争う大きな物音がしていました。 翌朝、住職が屋根…

  • 歴史紀行 地域版 5 匠の里 西里 【奈良県】

    匠の里 西里 奈良県生駒郡 法隆寺町 天下人を支えた大工棟梁の集落 法隆寺の西隣には、築地塀の邸宅群がいまも残ります。 この辺りの集落は、西里といい、昔は法隆寺の宮大工が住んだ集落でした。 飛鳥時代、聖徳太子により創建した法隆寺は、西里の宮大工らによって手直しを受けながら その姿を現代の私達に残すことが出来ました。 そして戦国時代の終わり、豊臣秀吉によって法隆寺の宮大工の棟梁が召し出されました。 中井正吉 正吉は大坂城築城や、あの方広寺大仏殿を築いて名声をほしいままにしました。 正吉の子、中井正清 秀吉に仕えた正吉に対し、正清は徳川家康に仕えました。 若くして家康に仕えた正清ですが、父 正吉の…

  • 歴史紀行 地域版 4 恋之水神社 【愛知県】

    恋之水神社 愛知県知多郡美浜町 奥田中白沢 恋之水神社は、創建由来が不明なほど古い古社ですが、神話時代の少名彦名命がこの地の水を飲み、病気が平癒したと伝わります。 また、古墳時代の第19代 允恭天皇が延命の神水が東方にあるという御告げを聞き、臣下の藤原仲興に命じて探させます。 仲興は尾張の熱田社(後の熱田神宮)で神水の言い伝えを南の知多半島の野間にあるという御告げを受け、野間にたどり着くものの、村人に土地の名前を聞くも、誰も知らないと言うばかりで、【~尾張なる 野間の知らぬ 沢踏みわけて 君が恋しき 水を汲むかな~】と和歌を詠みました。 以来、この神水の泉の地は恋之水と名付けられます。 平安時…

  • 歴史紀行 動物編 3 悉平太郎

    悉平太郎 像 見附天神社【矢奈比売神社】 静岡県磐田市住吉町 サッカーJリーグのジュビロ磐田のホームタウンとしても知られる磐田市。 磐田市の繁華街から北へ向かえば、旧東海道の見附宿です。 見附宿に近い現在の住吉町に、凛々しい姿で、一見、狼にも見える犬の像がある見附天神、矢奈比売(やなひめ)神社があります。 菅原道真を祀る見附天神社は、天下の奇祭 裸祭の神社として知られますが、これは かつて泣き祭りとして行われていた人身御供の名残りとも言われてます。 ~悉平太郎(しっぺいたろう)の人身御供伝説~ 見附の里には、毎年 8月初めになると、何処からか飛んできた白羽の矢が刺さった家は、年番として家の娘を…

  • 歴史紀行 動物編 2 忠犬ハチ公

    上野英三郎博士とハチ公像 東京都文京区弥生 東大弥生キャンパス正門 日本では… 忠犬ハチ公とハチ公にまつわる話は、あまりにも有名ですが、ハチ公像というと、東京 渋谷駅前にある待ち合わせスポットとして知られる像が有名ですね。 ハチ公は【ハチ公物語】というタイトルで映画化もされ、公開された1987年の年間最大のヒット映画となり、2009年には、アメリカ、ハリウッド映画として、【HACHI 約束の犬】のタイトルでリチャード・ギア主演でリメイクされました。 ぼくが新しいハチ公の像の設置を知り、実際に目の当たりにして感動したことは、忘れられずによく覚えています。 ハチ公は、現在の秋田県大館市で生まれた秋…

  • 歴史紀行 動物編 1 ‐ 3 南極観測隊 樺太犬 タロ、ジロ 3

    南極観測隊 樺太犬 タロ、ジロ 名古屋市港区ガーデン埠頭 昭和33年2月8日、昭和基地付近に小型飛行機が飛来します。 昭和号です。 宗谷は、バートン・アイランド号の先導により辛くも昭和基地近海にたどり着くも、一度は第一次越冬隊に代わる第二次越冬隊を送り込みました。 犬係の北村泰一隊員は、樺太犬たちを第二次越冬隊に引き継ぐ際に犬が逃げ出さないように首輪をきつく締め、引き渡しに備えました。 この引き継ぎのために行なった処置が、北村泰一隊員に生涯悔いを残す結果となります。 さらに観測隊は、空輸による輸送で昭和基地に残っている第一次越冬隊員を収容します。 2月10日~12日の間に天候回復のわずかな時間…

  • 歴史紀行 動物編 1 ‐ 2 南極観測隊 樺太犬 タロ、ジロ 2

    南極観測隊 樺太犬 タロ、ジロ 名古屋市港区ガーデン埠頭 越冬隊によるボツンヌーテン初登頂 タロとジロを含む樺太犬19頭を伴った第1次南極観測隊。 第1次観測隊は、隊員の中から11名を選抜し、観測隊副隊長の西堀栄三郎氏が越冬隊長として隊を指揮、南極での越冬を開始しました。 越冬隊はそれぞれ専門分野の知識人が選抜されましたが、昭和基地の設置、観測船 宗谷から降ろした荷物の運搬といった作業は、人員が限られていることから越冬隊院総出での業務となりました。 昭和基地周辺の地図 越冬隊は昭和基地の設置を済ませると、犬ソリを率いてカエル島への遠征を成功させ、続いて昭和基地から南へ約180キロほどの岩山〜ボ…

  • 歴史紀行 動物編 1 ‐ 1 南極観測隊 樺太犬 タロ、ジロ

    南極観測隊 樺太犬 タロ、ジロ 名古屋市港区ガーデン埠頭 ぼくは普段から歴史記事を投稿していますが、歴史は人のみにあらず、人に身近な犬を含め、動物にも歴史があります。 聖徳太子の愛犬で、人々の言葉を理解したとも言われる〜雪丸 弘法大師 空海が唐の国から連れ帰った 安産犬〜ころころ 源義経の愛馬で、一ノ谷の戦いで断崖絶壁を下って平家に奇襲をかけて勝利を手繰り寄せた愛馬〜太夫黒 西郷隆盛の愛犬で、政府の重職を辞し、鹿児島に帰って遊山を共にした〜ツン 自分をとても可愛いがってくれ、飼い主であった上野英三郎博士の死後、10年以上も渋谷駅で帰りを待ち続けた忠犬ハチ公 赤字経営に苦しむ私鉄ローカル線、和歌…

  • 歴史紀行 特別編 6 昭和天皇 太平洋戦争終結の勅書

    昭和20年8月15日、正午のラジオ放送により、大東亜戦争終結の勅書をお読みになられる昭和天皇のお言葉が放送されました。 後世、玉音放送と呼ばれるラジオ放送です。 原文と現代釈文を書き記しました。 昭和天皇 大東亜戦争終結ノ詔書 原文 朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現狀トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所 曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庻幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如…

  • 歴史紀行 28 蘇我入鹿 首塚

    蘇我入鹿 首塚 奈良県高市郡明日香村飛鳥 643年 皇極2年 蘇我入鹿は、自らの権力をさらに大きくすべく、聖徳太子の皇子で、有力な皇位継承資格者であった山背大兄王を斑鳩宮で襲撃します。 父、聖徳太子から、【諸の悪を作(な)すこと莫(なか)れ。諸の善を行え。】と遺言を遺された 山背大兄王は戦うことを否定し、一族共々自害して果て、まるで殉教のような最期を遂げました。 山背大兄王とその一族の滅亡は、これにより聖徳太子から続く上宮王家が途絶えました。 上宮王家を滅ぼした蘇我入鹿は父、蝦夷と共に朝廷において絶大な権力を独占し、その権勢は天皇家をも凌ぎ、蝦夷は入鹿を王子と呼ぶ有り様でした。 留学生や僧が帰…

  • 歴史紀行 27 談山 【かたらいやま】

    談山 奈良県桜井市多武峰(とうのみね) 摂政 聖徳太子(厩戸皇子)が622年(推古天皇30年)に流行病により死去すると、大臣を務める蘇我氏が横暴な権勢を振るい始めます。 推古女帝の崩御の後を継いだ舒明天皇が13年の治世で崩御すると、翌年の642年(皇極天皇元年)に舒明帝の皇后が「皇極天皇」(こうぎょくてんのう)として即位します。 甥にあたる舒明帝の皇子〜古人大兄皇子、(ふるひとのおおえのおうじ)を次期 天皇にしたい蘇我入鹿と、 無闇な政争を好まぬ聖徳太子の嫡子〜山背大兄王、(やましろのおおえのおう)は対立の末に引き、蘇我氏が主導で舒明帝の皇后〜皇極帝が女帝として即位します。 皇極女帝のもとで大…

  • 歴史紀行 特別編 5 広島 原爆ドーム

    世界遺産 原爆ドーム 広島県広島市中区大手町 太平洋戦争 終結【日本の無条件降伏】の10日前となる 1945年 昭和20年 8月6日、午前8時15分、人類史上初 の原子爆弾 (原爆)が広島市に投下されました。 原爆ドームは、明治時代後期に日清戦争で大本営が置かれた広島市か軍都として発展目まぐるしい中で、さらに海外向けに広島産の製品を紹介する拠点施設~広島県物産陳列館として、大正時代の1915年 大正4年4月5日、チェコ人建築家のヤン・レッツェルにより設計され、竣工しました。 ヤン・レッツェルの起用は、広島県知事の寺田祐之が前職の宮城県知事当時に、レッツェルの手掛けた宮城県の松島パークホテルの姿…

  • 歴史紀行 特別編 4 太平洋戦争 宣戦の勅書

    皇居 今年、2025年は昭和100年〜太平洋戦争終結から80年の節目を迎えます。 太平洋戦争開戦の流れ 最初に、日本陸軍が日本時間12月8日未明にイギリス領マレー半島東北端のコタ・バルに接近、日本時間午前2時15分(現地時間午前1時30分)に上陸し、海岸線で英印軍と交戦、イギリス政府に対する宣戦布告前の奇襲によって太平洋戦争の戦端が開かれました。 続いて帝国海軍航空隊が日本時間12月8日 午前1時30分(ハワイ時間12月7日午前7時)にアメリカ領 ハワイ州オワフ島 真珠湾(パールハーバー)へ向けて発進して、日本時間午前3時19分(ハワイ時間午前7時49分)から攻撃が開始されました。 この攻撃に…

  • 歴史紀行 地域版 3 小泉八雲 記念碑 【静岡県】

    小泉八雲 記念碑 静岡県 焼津市栄町 JR焼津駅前 この秋、【 NHK朝の連続テレビ小説 〜ばけばけ 】に取り上げられるのが、帰化作家の小泉八雲とその妻の物語です。 【焼津は神様の町です。】 と口癖のように言って焼津の町を愛した作家 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の記念碑がJR焼津駅前にあります。 ギリシャ生まれの小泉八雲は、父かイギリス軍医だったことから、アイルランド、フランス、アメリカと転属を繰り返すことから彼もヨーロッパ、アメリカと暮らす場所を変え、アメリカ在住の時に新聞記者兼筆者となり、ニューオーリンズ在住時に日本の文部省関係者と知り合ったことがきっかけとなり、日本で英語教師として教…

  • 歴史紀行 地域版 2 晴明塚 【静岡県】

    晴明塚 静岡県掛川市大渕 昨年、1年間にわたって放送された大河ドラマ〜【光る君へ】 主人公の まひろ こと、後の紫式部が時の権利者〜藤原道長との生涯をかけた出世と源氏物語、それに二人のラブストーリーを絡めた物語でした。 物語の序盤から この時代を生きた陰陽師〜安倍晴明も登場し、藤原道長の出世にも手を貸す役割を演じていました。 清明塚 静岡県の南部、御前崎市と浜松市を結ぶ国道150号の掛川市大渕町付近から南への小路へ入ると、1000年の昔、京の都の陰陽師、安倍晴明が津波を防いだという言い伝えのある晴明塚があります。 平安時代、京の都で高名な陰陽師、安倍晴明がこの地方を訪れた際に高波の被害が絶えず…

  • 歴史紀行 地域版 1 三井 (みい) 赤染の井〜奈良県

    三井 (みい~赤染の井) 奈良県生駒郡斑鳩町三井 世界遺産 法隆寺から東へ約2キロ。 聖徳太子の皇子 山背大兄王が建立した法輪寺の西隣の集落 三井に、その昔 太子が地元民のために掘らせたという井戸が、三井の赤染の井戸です。 開削以来、三井の集落の人々の貴重な水資源でしたが、明治時代には役割りを終えたとして一度は埋められましたが、昭和初期に聖徳太子の功績が見直され、再び掘り出されることになります。 そして昭和7年の発掘調査で復活して、近隣の住民たちの貴重な水源として昭和30年代まで実際に使われていました。 井戸の底に4個の石を方形に組み合わせて、その内外の隙間より水が湧き出るようなになっており、…

  • 歴史紀行 特別編 3 赤い糸 発祥地

    箸墓古墳 奈良県桜井市箸中 〜赤い糸〜 または運命の赤い糸と呼ばれ、男女が結ばれるべく、その絆を表すときに用いられます。 赤い糸の伝説は、中国や東アジアにも諸説あるのですが、それらよりも遥か昔に編纂された古事記に記された赤い糸について書きます。 赤い糸〜はじまりの社へ 三輪山 奈良県桜井市 桜井市 赤糸の小道周遊ルート 大神神社拝殿 古 事 記から 古事記に記られた三輪の赤糸伝説が〜運命の赤い糸〜の起源とされます。 活玉依姫(いくたまよりひめ) 古事記 〜崇神朝期・赤糸伝説の由来〜 崇神天皇5年、(紀元前93年~皇紀568年) 崇神帝の御世に、疫病が蔓延し、多くの民が死に絶えそうになった。 帝…

  • 歴史紀行 特別編 2 靖国神社

    靖国神社 東京都千代田区九段北 ペリー来航が引き金となり、外国人排斥と外敵の排除を掲げて尊王攘夷運動が始まり、これらの動きはやがて江戸幕府打倒へと変節し、薩摩、長洲の西国外様諸藩出身の志士らが中心となり、倒幕運動を起こし、やがて戊辰戦争が勃発します。 この倒幕を目的とした戦争は、江戸幕府開府時における関ヶ原の戦い、大坂の陣といった美濃地方、大坂といった局所の武士、大名同士の戦いとは違い、尊王攘夷運動は主に京都、戊辰戦争に至っては、これらが発端となったといえる京都、江戸、中国、さらに会津藩のある東北、長岡のある北陸地方の越後、さらに戊辰戦争最後の戦い 箱館戦争の起きた蝦夷地(北海道)と全国に拡大…

  • 歴史紀行 特別編 1 神武天皇 御由緒紀

    神武天皇 御像 静岡県焼津市焼津 焼津神社 初代天皇で在らせられる神武天皇は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の御孫で天孫降臨により地上に降りた瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の3代目にあたり、神日本磐余彦火火出見天皇(かむやまといわれひこほほでみのすめらみこと)といいます。 皇后は、事代主神(大物主神)と玉櫛媛との間に生まれた媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)皇后といいます。 九州、日向国(現在の宮崎県地方)の高千穂宮で誕生された神日本磐余彦は、瓊瓊杵尊が天照大神から受けた天業恢弘(てんぎょうかいこう〜互いに争うことのない、永遠に困窮しない国を創る天子の事業を広めようとすること)の神託を実現す…

  • 歴史紀行 26 伝 飛鳥板蓋宮跡

    飛鳥板蓋宮跡【あすかいたぶきのみやあと】 奈良県高市郡明日香村 岡 飛鳥板蓋宮は、女帝 皇極天皇の宮殿でした。 645年 皇極2年 6月12日、権勢を私物化している蘇我入鹿を中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足が討ち取る乙巳の変(いっしのへん)を起こし、蘇我本宗家の勢力を一掃した後で皇極天皇は譲位して次代天皇には、皇極天皇の弟の軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳天皇となりました。 皇太子には中大兄皇子が就き、政策を立案する内臣(うつおみ)には中臣鎌足が就きました。 孝徳天皇を頂点に、中大兄皇子と中臣鎌足が朝廷を動かす身となり、摂津 難波(現在の大阪市)に遷都を決めました。 盆地の大和 飛鳥より…

  • 歴史紀行 25 藤原鎌足 誕生地

    藤原鎌足 誕生地 奈良県高市郡 明日香村小原 後に朝廷の最高権力者となる藤原氏の祖、藤原鎌足は、614年 推古天皇22年に飛鳥の大原(現在の明日香村小原)の地で、鎌足の一族は祭官(祭司、当時の国の役人)として仕える中臣氏の家に生まれました。 若い頃から儒学を学び、秀才の名をほしいままにするも、当時の朝廷は蘇我氏が権勢を独占し、643年 皇極天皇2年、唯一、蘇我氏に対抗しうる皇位継承の資格もあった上宮王家(聖徳太子の一族)の山背大兄王は、蘇我馬子の孫、蘇我入鹿に攻め滅ぼされ、その勢いは天皇すら凌ぐ強大なものとなりました。 打倒 蘇我氏を胸に秘めた鎌足は、蹴鞠の会に参加した中大兄皇子(後の天智天皇…

  • 歴史紀行 24 伝 山背大兄王 墓所【富郷陵参考地】

    伝 山背大兄王 墓所 富郷陵 参考地 奈良県生駒郡斑鳩町三井 推古朝で摂政を務めた聖徳太子の皇子 山背大兄王(やましろのおおえのおう)は、622年 推古30年、太子の死後、有力な皇位継承者となりました。 山背大兄王の一族は上宮王家と呼ばれ、蘇我氏と皇位継承者の擁立を巡り、暗闘が続きます。 蘇我馬子の子、蝦夷は、他の有力豪族に巧みに味方につけ、自身の推す田村皇子を皇位継承者とし、田村皇子が34代 舒明(じょめい)天皇となり、自身の子 入鹿と権勢を欲しいままに専横を極めました。 蘇我氏を継いだ入鹿は、自身の従兄弟で、意のままに操れると考えた古人大兄王皇子(ふるひとのおおえのみこ)を皇位に据えるべく…

  • 歴史紀行 23 法起寺

    法起寺 奈良県生駒郡斑鳩町岡本 法起寺は、聖徳太子摂政による推古朝の時代、仏教を精力的に取り入れた太子が自ら法華経を講説した岡本宮が起原となります。 太子の法華経講説より十数年、622年 2月22日、流行り病に伏した太子は、死期を悟り、枕頭に嫡子 山背大兄王を呼び、岡本宮を改めて寺にすることを遺命にし、太子は薨去されました。 山背大兄王存命の頃は、まだ法起寺に三重塔はなく、山背大兄王の上宮王家が蘇我入鹿の手により滅ぼされた後、685年 天武14年、恵施僧正が三重塔の建立を発願。 飛鳥時代も末期となった706年 慶雲3年、起工から20年余りをかけて三重塔は完成をみました。 三重塔 この飛鳥時代建…

  • 歴史紀行 22 法輪寺

    法輪寺 奈良県生駒郡斑鳩町 三井 法隆寺、法起寺とともに斑鳩三塔とも言われる法輪寺は、聖徳太子の皇子、山背大兄王が622年 推古30年、病に伏した太子の病気平癒を願い建立しました。 その後、推古朝から天武朝時代にかけて法隆寺西院と同じ形式で伽藍を整えました。 平安時代から室町時代に諸堂を完備して寺運は隆盛を極めました。 伽藍は度々、戦災や落雷に遭い、その度に時間をかけながらも再建されました。 江戸時代再建の金堂や昭和になって再建の日の目をみた三重塔の完成により、斑鳩三塔として崇敬を受けています。

  • 歴史紀行 21 推古天皇 陵

    推古天皇 陵大阪府南河内郡太子町山田 推古天皇は、592年 臣下ながら天皇家の外祖父となり、絶大な権力を誇った蘇我氏と対立した32代天皇の崇峻天皇が蘇我馬子の意思を汲んだ東漢直駒(やまとのあやの あたいこま)により暗殺された後に即位した初の女帝です。 推古天皇は、蘇我馬子を叔父に持ちながらも甥にある聖徳太子(厩戸皇子)を摂政に据えて十七条憲法、冠位十ニ階の制定、遣随使の派遣と次々と先進的な改革に着手させました。 専横に走りそうになる馬子を諌めつつ政権を保っていた推古王朝でしたが、622年 太子が死去すると626年に馬子も死去、両雄の死から4年後の628年、推古天皇は75歳の生涯を閉じます。 太…

  • 歴史紀行 20 叡福寺 聖徳太子 御廟所

    叡福寺 太子廟 大阪府南河内郡太子町 叡福寺 叡福寺の創建は、西暦620年 推古天皇28年、聖徳太子が民情視察を兼ねて愛馬 黒駒で駆けていたところ、磯長(しなが)の地を気に入り、自らの墓所とすることを決めたことから始まります。 翌年の621年、太子の生母、穴穂部間人皇后が病に倒れます。太子と正室 膳部苔岐々美郎女(かしわでのほききみのいつらめ)の必死の看病も実らず帰らぬ人となり、磯長の地に埋葬されて円墳が築かれました。 年が明けて622年、 続いて太子と妃も病を発症して倒れました。 2月21日、妃が亡くなり、翌日 2月22日には太子自身も帰らぬ人となりました。余りに早い病の発症から伝染病かと思…

  • 歴史紀行 19 橘 寺〜聖徳太子 御誕生地

    聖徳太子御誕生地碑 橘 寺 奈良県高市郡明日香村 橘 聖徳太子、誕生の地と伝わる橘寺は、太子の父 用明天皇の上宮(かみつみや)が置かれていた地で、皇后 穴穂部間人(あなほべのはしひと)が宮中を巡行中に産気付き、厩戸の前で太子を出産されました。 そのため、太子ひ厩戸皇子〜(うまやどのみこ)とも呼ばれます。 皇族ゆかりの寺として庇護をうけ、かつては66もの堂宇を誇る大寺院でした。 太子の愛馬〜黒駒 像 梵鐘 二面石 蓮華塚

  • 歴史紀行 18 小野妹子 墓所

    小野妹子 墓所 大阪府南河内郡太子町山田 小野妹子(男性)は、近江国滋賀郡小野村(現在の滋賀県大津市)出身の豪族の出で、推古天皇の摂政となっていた厩戸皇子(聖徳太子)に見い出されました。 太子の制定した冠位十ニ階により役人として大礼(だいらい、十ニ階の六番目)に昇進。 607年推古天皇15年、小野妹子は、遣隋使として隋国(現在の中国)に渡り、聖徳太子の認めた世に云う 【日出ずるところの天子、書を日没するところの天子にいたす…現代尺~太陽がのぼる日本国の天皇より、親書を太陽の沈む隋国の皇帝に贈る…。】 にはじまる親書を託され、隋国の煬帝(ようだい)皇帝に拝謁します。 聖徳太子が認(したた)めた対…

  • 歴史紀行 17 中宮寺

    中宮寺奈良県生駒郡斑鳩町 法隆寺北 中宮寺は、法隆寺東院のさらに東の斑鳩宮の隣接地に聖徳太子が母、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后のために創建した寺です。 僧寺である法隆寺、中宮寺は尼寺として創建され、塔と金堂が建立されたといいます。 微笑を浮かべながら軽く頬杖をついて瞑想する姿の本尊 国宝【菩薩半伽像】は飛鳥時代最高傑作とされ、エジプトのスフィンクス。ダヴィンチのモナリザ。とともに、世界の三大微笑像とも呼ばれます。 菩薩半伽像 堂内の撮影は禁止のため、特別展の写真をお借りしました。 中宮寺は、太子の没後、後継者の上宮王家一族が蘇我入鹿の手により滅んだ後に衰退し、平安時代には一堂のみという…

  • 歴史紀行 16 飛鳥寺跡 【安居院】

    飛鳥寺跡 【安居院】奈良県高市郡明日香村 飛鳥 飛鳥寺は、大陸から仏教が伝来した西暦538年から半世紀後の西暦588年 崇峻天皇元年に蘇我馬子の手により造営が開始されます。 これは、 聖徳太子が造営を指揮して日本で最初の本格的な官寺として誕生した四天王寺の創建から3年後のことで、今から1400年以上 昔の西暦596年 推古天皇4年のことになります。 飛鳥寺造営に際しては蘇我馬子が持てる権力を使い、大陸から多数の職人や僧侶を招聘し、彼らが指導しました。 蘇我馬子は息子の善徳を寺司(工事責任者)とし、招聘した高句麗の高僧〜慧慈(えじ)と、百済からの高僧〜慧聰(えそう)の二人を住持として住まわせ、布…

  • 歴史紀行 15 ‐ 25 世界遺産 法隆寺 東院 夢殿

    法隆寺 東院伽藍 夢殿 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 601年、推古天皇9年、 聖徳太子は推古朝の皇居のある飛鳥から、推し奨めようとしていた仏教による新しい国造りのための場所を探しました。 そして飛鳥の村から北西にある斑鳩の里に約束の地を見つけました。 斑鳩の里で下馬した太子は、自らの理想を体現する宮殿造りをはじめ、完成までの間、飛鳥宮と斑鳩宮の間を往復する日々を費やし、その間に身分を問わず優れた人を召し抱える冠位十二階。日本史上初の憲法、〜和をもって貴しとなす〜の序文から始まる十七条憲法を制定と、太子の偉業は、この地で行われました。 622年 2月22日、太子が流行り病で亡くなると、斑…

  • 歴史紀行 15 ‐ 24 世界遺産 法隆寺 東院 伝法堂

    法隆寺 東院伽藍 伝法堂 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 東院伽藍の中で、平屋建ての住宅のような堂が伝法堂です。 それも そのはずで、伝法堂は、奈良時代の聖武天皇の后である橘古那可智(たちばなの こなかち)妃の住居が移築奉納されたものだからです。 東院の過去帳でもある東院資材帳には、瓦葺きの講堂として記載され、742年 天平14年と746年に資材が奉納され、古那可智如が亡くなる759年 天平宝宇3年まで続きました。 奈良時代の講堂は主に土間ですが、伝法堂は皇族の住宅を移築したもので、内部の床は板敷きとなっていて、須彌壇には平安時代の重要文化財の阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来の三尊像に弥勒(…

  • 歴史紀行 15 ‐ 23 世界遺産 法隆寺 東院 鐘楼

    法隆寺 東院 鐘楼 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 ニ階式の東院鐘楼は、下階の部分が袴を穿いたような鐘楼で、袴腰付鐘楼と呼ばれ、中世 鎌倉時代に流行した造りで、東院鐘楼は平安時代後期の1163年 応保3年に建立の記録があり、その最古のものと言われてます。 鐘楼二階に天平時代に鋳造された梵鐘が吊るされてあり、梵鐘には中宮寺と刻印されており、法隆寺に隣接する中宮寺からの移設されたものとされています。 現在の鐘楼は鎌倉時代に大修理されたもので、国宝に指定されています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 22 世界遺産 法隆寺 東院 絵殿、舎利殿

    法隆寺 東院伽藍 絵殿、舎利殿 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 舎利殿(右) 絵殿(左) 馬道(めどう) 絵殿、舎利殿は、東院伽藍、夢殿の北にある伽藍で、檜皮葺の屋根に建物はひとつの伽藍でありながら2つの役割を持ちます。 左の絵殿は名前の通り内部には聖徳太子の生涯一代記を描いた障子絵が広がります。 舎利殿は、中央に須彌壇が設けられ、その上に舎利塔と、宝物を納めた唐櫃が置かれました。 室町時代初期に新調された春日厨子が加わり、新年正月元旦から3日間、聖徳太子が納めたとされる仏舎利が厨子から奉出され、舎利講という法要が営まれます。

  • 歴史紀行 15 ‐ 21 世界遺産 法隆寺 東院 礼堂

    世界遺産 法隆寺 東院伽藍 礼堂奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 東院伽藍601年 推古9年2月、聖徳太子は斑鳩の地に宮殿を建設します。 宮殿を飛鳥から斑鳩へと移した太子は、伝来して間もない仏教による平和国家の実現へと日夜思案を重ね、身仏の加護を信じ、慈悲を願い、祈りを続けました。 礼堂(らいどう) 礼堂は元々東院伽藍の中門にあたり、平安時代になって礼堂に改築されました。 礼堂は東院伽藍の本堂である夢殿を礼拝するための場所で、正面五間、側面四間の堂内は板敷きで、四方の壁の部分は蔀戸(しとみど)となっていて使用時には吊り上げられる仕組みとなっており、広々として爽快で、前庭では舞台を組んで舞楽や…

  • 歴史紀行 15 ‐ 20 世界遺産 法隆寺 上御堂

    法隆寺 上御堂 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 上御堂は西院伽藍の境内の北、大講堂の背後の高台に建つ御堂で、天武天皇の皇子 舎人(とねり)親王による創建とも伝わります。 平安時代に台風のために2度、倒壊の被害を受け、再建は鎌倉時代末期の1318年 文保2年で、内部は瓦敷きの土間に釈迦如来坐像、文殊菩薩坐像、普賢菩薩坐像の釈迦三尊坐像が安置され、その四方に四天王立像が配置されています。 通常、上御堂は非公開ですが、毎年11月の初週の3日間のみ公開されます。

  • 歴史紀行 15 ‐ 19 世界遺産 法隆寺 西大門

    世界遺産 法隆寺 西大門 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 法隆寺 西大門は、世界遺産、国宝の伽藍が多く建つ西院伽藍のさらに西の門で、門の外にはかつて法隆寺伽藍の建築、改築、修繕に従事した宮大工、装飾職人らが住んだ西里の集落があります。 この集落からは、豊臣秀吉に見出され、大坂城や方広寺大仏殿といった豊臣家の象徴となる建築を差配した中井正吉。 その息子で、徳川家康に仕え、江戸城、二条城、駿府城と、徳川家の威風を示す建築物を幾つも手掛けた中井正清の中井親子を輩出しました。 さて、この法隆寺西大門、設置されたのは江戸幕府も5代将軍 徳川綱吉の時代で、江戸時代もほぼ100年目となる1697年元禄…

  • 歴史紀行 15 ‐ 18 世界遺産 法隆寺 東大門

    法隆寺 東大門 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 西院伽藍を抜け、宝物庫である大宝蔵院を越えると東西に通る参道に出ます。 参道を東に向かうと法隆寺 東院です。 東大門は西院と東院とを結ぶ石畳の参道が東西に広がり、西院伽藍の先に西大門、そこから約300メートル東の門です。 東大門築地塀 石畳参道 東大門は八本の柱からなる八脚門で、両脇に築地塀により開かれています。 奈良時代に西院伽藍の食堂寄りに建っていたものを、平安時代に現在の位置に移され、東西に抜ける門となりました。 東大門を潜り、さらに東へ進むと東院です。

  • 歴史紀行 15 ‐ 17 世界遺産 法隆寺 食堂、細殿

    食堂(じきどう)左と細殿(右) 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 東西に細長い2棟の建物が並ぶのが、食堂と細殿です。 同規模の建物が並び、一組のように接している建物を双堂(ならびどう)といい、奥行きを大きく取る奈良時代の手法です。 食堂は文字通り僧たちの食事の場で、堂内中央に須弥壇(しゃみだん)が設けられ、奈良時代の薬師如来座像が安置されています。 〜法隆寺伽藍縁起〜によると、当時の食堂は大講堂に匹敵する大きさの規模でしたが、火災焼失し、現在に伝わる食堂は、焼失前の前身もしくは法隆寺の寺務所にあたる政所(まんどころ)であったと考えられています。 壁がなく、柱だけの構造の細殿は、食事前の儀式…

  • 歴史紀行 15 ‐ 16 世界遺産 法隆寺 正岡子規 句碑

    正岡子規 法隆寺句碑 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 〜法隆寺の茶店に憩ひて 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺〜 聖霊院前の鏡池のほとり、明治後期の俳人、 正岡子規の詠んだ世に有名な法隆寺句碑があります。 風化してしまい、残念ながら句碑も読み取ることも困難です。 俳人 正岡子規 短歌、俳句において、後の近代文学に多大な影響を及ぼした俳人で、法隆寺の一句は、従軍記者として日清戦争の戦地に赴いたものの喀血して帰国、故郷の伊予 松山から奈良にかけて歩き、明治28年に法隆寺を訪れて詠んだ句です。

  • 歴史紀行 15 ‐ 15 世界遺産 法隆寺 聖霊院

    世界遺産 法隆寺 聖霊院奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 金堂、五重塔という西院伽藍の廻廊の東に位置する聖霊院は、平安時代に全国に広まった太子信仰の中心をなす伽藍です。 平安時代の後期、1121年 保安2年、聖徳太子の500年遠忌の前年に先立ち、太子信仰はより高まりをみせたことを受け、法隆寺では東室の南側3房分を改築して聖霊院として建立し、聖徳太子座像と侍者像を開眼法要を営みました。 聖霊院内部は、外陣、内陣、後陣、脇陣と区画で分けられ、内陣は菱欄間と格子戸で仕切られ、内陣には三室に区切られた厨子が置かれ、上部には唐破風が設けられています。 本尊でもある聖徳太子座像は秘仏として安置され、撮…

  • 歴史紀行 15 ‐ 14 世界遺産 法隆寺 綱封蔵

    世界遺産 法隆寺 綱封蔵奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 綱封蔵(こうふうぞう)という聞き慣れない名前の由来は、かつては勅命でなけれぱ開くことが出来ない倉のことです。 綱封蔵は二つの倉が一つの屋根で覆われ、なお中央が吹き抜けで、高床式となった特徴的な建物です。 これは中央部が吹き放しになった「双倉〜ならびくら」という様式で、外回りには窓はなく、白壁で包まれており、出入口は吹き放しの部分に面して向かいあって設けられています。 奈良時代の財産目録である「法隆寺伽藍縁起並びに流記資材帳」によると、双倉が二棟あったと記されているものの、現在の綱封蔵はそれには該当しないようです。 双倉の開閉は厳しい…

  • 歴史紀行 15 ‐ 13 世界遺産 法隆寺 妻室

    法隆寺 妻室 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 妻室は、中庭を隔てた東室に付属する建物で、本来の名称は〜東室小子房〜といい、現在唯一残る貴重な建物です。 1601年 慶長6年の改築の際に、南北の長さが約3分の2に縮小され、南半分が聖霊院の御供所、北半分が東室の台所にされました。 現在は当初の9房の姿に復元され、各房は三間を1房として、南側の一間は扉口のある前室、北側のニ間は窓のない造りの住房となっていて、東室と中庭を挟んで一組として使われ、各房ごとに仕切られていました。 小子房が妻室と呼ばれるようになったのは、僧房の衰退により移転、改築された頃とされています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 12 世界遺産 法隆寺 東室

    法隆寺 東室 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 東室 法隆寺の僧たちの居住空間は僧房と呼ばれ、747年、天平19年に法隆寺資材帳に記された4つの僧房があり、かつては西院伽藍の廻廊を囲んで東室、西室、北室と3ヶ所ありました。 現在は三経院と棟続きの西室と、廻廊の東側に南北に細長い建物の東室だけが残され、また、創建当初の僧房の姿を今に伝えるのは東室だけになりました。 扉口と連子窓の南北二間分で1房を示し、本来は9房であったものが、南側の3房が聖霊院に改造されて6房分が残りました。 平安時代の保安年間(1120~1124)に旧材を用い た再建に近い大修理がなされ、以来、度重なる大修理や改築によっ…

  • 歴史紀行 15 ‐ 11 世界遺産 法隆寺 三経院

    法隆寺 三経院 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺 山内 三経院は、聖徳太子が撰述したという勝鬘経(しょうまんぎょう)、惟摩経(ゆいまきょう)、法華経(ほけきょう)、の三経義琉(さんぎょうぎしょ)に因みつけられた名称の僧坊で、内部は三経院と西室とで分けられ、三経院には阿弥陀如来座像が安置され、西室は僧の生活の場として仕切られました。 西院廻廊に隣接した伽藍でしたが、平安時代に一度火災焼失し、鎌倉時代の1231年 寛喜3年に廻廊から西へ離れた現在の位置に再建されました。 現在では、聖徳太子の遺願、教えを学ぶ〜夏安居(げあんご)のお説教〜として5月から8月の間に実践される三経宣布の道場となっています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 10 世界遺産 法隆寺 西円堂

    世界遺産 法隆寺 西円堂 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 西円堂は法隆寺 西院伽藍の北西の小高い丘に建つ八角の円堂で、屋根の宝珠が特徴です。 創建は聖徳太子の没後で、行基大僧正が堂を造り、本尊の薬師如来坐像を建立したとされています。 行基大僧正により建立された御堂は平安時代の1050年 永承5年に破損し、再建されたのは200年後の鎌倉時代〜1250年 建長2年のことでした。 西円堂の丘から見た西院伽藍 薬師如来は無病息災、延命長寿の霊験があると信じられ、古くから〜峰の薬師〜の愛称で親しまれています。

  • 歴史紀行 15 ‐ 9 世界遺産 法隆寺 経蔵

    世界遺産 法隆寺 経蔵 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 経蔵は大講堂の西院廻廊に接していて、鐘楼と向かい合う位置にあります。 鐘楼と同じ二階建ての楼閣で、飛鳥時代の様式を持つ金堂や五重塔とは異なり、奈良、天平時 代の建築様式を顕著にしています。 経蔵は名の通り経典を納めるための建物で、当初は回廊の外にありましたが、925年延長3年の火災により再建される際に廻廊に連結するように建てられましたが、鎌倉時代以降 多くの経典が散逸してしまいました。 来日して暦や天文地理などの学問を教えたと日本書紀に記された伝、観勒僧正像が安置され、 歴代の代表者の就任式がこの伽藍で行われました。

  • 歴史紀行 15 ‐ 8 世界遺産 法隆寺 鐘楼

    世界遺産 法隆寺 鐘楼 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 鐘楼は、中門から大講堂に続く廻廊の両側に建つ閣廊のひとつで、経蔵と対をなす構造です。 飛鳥時代の鐘楼は925年 延長3年の火災で大講堂とともに焼失しましたが、大講堂と廻廊と一緒に再建され、飛鳥時代から残る梵鐘が法要の際には僧たちに時を知らせます。 低く落ち着きのある鐘の音色は、何処かおおらかさを感じさせ、まるで飛鳥時代後期から平安時代前期に華開いた白鳳文化を今に伝えるようです。 近年では年中行事以外では、この鐘を撞くことはほとんど無くなりましたが、2022年は聖徳太子の没後1400年にあたる節目の年で、ぼくの訪ねた当時、2022年の正月明け…

  • 歴史紀行 15 ‐ 7 世界遺産 法隆寺 廻廊

    世界遺産 法隆寺 廻廊奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 向こうに見える人影は法隆寺の僧の列で、この後、大講堂で法要をを行いました。 廻廊から中門の内側、向こうは南大門の方角。 廻廊の中から見た金堂と五重塔廻廊が陽射しを和らげ、撮影に適しています。 廻廊は中門を基点にして左右に延び、四角に折れ曲がり向こう正面の大講堂に繋がります。 そして西院の中心伽藍である金堂と五重塔を懐に優しく包み込みます。 法隆寺建立当時、廻廊は金堂、五重塔のみを囲む造りで、大講堂を囲んではいませんでしたが、平安時代の925年、延長3年に大講堂が火災に見舞われた後に大講堂をも守る様に包み込む形に改修されました。 内側は吹き晒し…

  • 歴史紀行 15 ‐ 6 世界遺産 法隆寺 参道

    法隆寺 参道 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺山内 1400年もの古(いにしえ)の歴史を持つ法隆寺。 その中で比較的 新しく整備されたのが参道です。 鎌倉時代の1261年、弘長元年、後嵯峨上皇による法隆寺行幸が決まり、法隆寺の僧たちが対応に追われるのを見ていた村人たちか松を植樹し、門前は整然と並ぶ松の木の道が出来上がりました。 日本の歴史上、この 後嵯峨上皇の法隆寺行幸が全国に見られる松並木の始まりとされ、法隆寺参道はその後も大切に保護され、拝観者を出迎えます。

  • 歴史紀行 15 ‐ 5 世界遺産 法隆寺 中門

    世界遺産 法隆寺 中門 奈良県 生駒郡 斑鳩町 法隆寺山内 法隆寺 南大門を潜ると、飛鳥建築の威容な門が目に入ります。 中門(ちゅうもん)です。 南大門が仏門と世俗との境界とするなら、中門は1400年続いてきた仏(ほとけ)と現世とを結ぶ境界といえるでしょう。 中門 全景 高欄 1400年前の唐の古式を現代に伝える[卍崩し]と呼ばれる意匠。 中門 最大の特徴は、門の中央に柱が立つている造りで、いまだに謎とされていて、奥行きが三間、正面が四間と広くなっています。 金剛力士立像、阿形 (こんごうりきしりゅうぞう、あぎょう) 金剛力士立像、吽形 (こんごうりきしりゅうぞう、うんぎょう) 中門の両側に安…

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