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2024/05/30

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  • 石ころは、すでに、石ころではない

    ◎石ころは、高らかに笑う(老子狂言)『石ころは、高らかに笑う私は考えられないくらい幸福だから考えられるほど不幸だたしかに観念といえば観念だでも、どうでもいいではないか無限は無限なのだから・・・だがこれはとこしえにそれ以上だ!石ころは、すでに、石ころではないこれは体験したほうがいいだろうその刹那石ころは高らかに笑う』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。これは、石ころの心を知らないと全く何のことかわからない。石ころの心から、人間の喜びと悲しみとをしみじみと眺めあたたかく包む何ものかが、限りなくあふれ出すのだ。石ころは、【考えられるほど不幸だ】が、【私は考えられないくらい幸福】なのだ。石ころこそ無限であって、世界の秘密、闇の秘密、666の黒光りしたクンダリニー、女の汚れの中の女。【...石ころは、すでに、石ころではない

  • 見知らぬ未知に飛び込むのは

    ◎何と完全なんだろう!(老子狂言)『何と完全なんだろう!見知らぬ未知に飛び込むのは本当に恐ろしいことだそしてそれよりもっと恐ろしいことは君が、すでに未知だということだ私はなにも知らないとも言えない何と完全なんだろう!』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。【見知らぬ未知に飛び込むのは】とは、ニルヴァーナに突入するシーン。突入して中心太陽にあっては、【君が、すでに未知だということだ】。その時私は、すべてのすべてにして、なにもかもなし。よって、【私はなにも知らないとも言えない】。おお、稀有なる中心太陽突入の実感描写よ。見知らぬ未知に飛び込むのは

  • パンドラの箱はあけないにこしたことはない

    ◎パンドラの箱(老子狂言)『パンドラの箱パンドラの箱はあけないにこしたことはない知恵の樹の実は食べないにこしたほうがいいけれどもどうゆうわけか種子は花開き果実になってゆくそうなって行くそのままにまかす以外にないじゃないかい』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。パンドラの箱からは、あらゆる苦難と最後に希望が出た。知恵の樹の実を食べたばかりに数々の艱難を経て、ハルマゲドンから至福千年を目指すことになった。現代は花の時代であって、やがて実が大地に落ちるのがカタストロフィーにして大峠。ただしその実は、も叫びもないみろくの世、千年王国の礎になる。だから【そうなって行くそのままにまかす以外にないじゃないかい】。パンドラの箱はあけないにこしたことはない

  • 太乙金華宗旨の光について-4

    ◎西洋は太陽重視で、男性偏重で、活動的すぎる光とは何か。OSHOバグワンの説明。太乙金華宗旨の冒頭。ポイントは、以下。天上のこころ(天心)は太陽と月の中間にある。それは、男性的でもなければ、女性的でもない。西洋は太陽重視で、男性偏重で、活動的すぎる。東洋は月重視で、女性偏重で、受動的すぎる。外側では太陽を重視し、内側では月を重視せよ。太陽と月をあなたの内側で出会わせ、あなたはちょうどその真ん中にいれば天上の心がある。『そして光を巡らせる瞑想は、ひとえに逆流の動きにかかっている。それにより思考の集中が起こる。天上のこころは太陽と月のあいだに位置している。いいかね、もう一度くり返そう。太陽は男性エネルギーの象徴であり、月は女性エネルギーの象徴だ。ハートは男性的でもなければ、女性的でもない。それがハートの美しさ...太乙金華宗旨の光について-4

  • あたいの子宮はなんでもかんでも受け入れちまうよ

    ◎私は女だ(老子狂言)『私は女だ私は女だ太古の女神だ!あたいの子宮はなんでもかんでも受け入れちまうよ母なるものの熱帯のぬくもりが欲しいこれも夢だけれどね・・・』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。勉強のできる女、勉強のできない女若い女、おばあさんになった女美人の女、美人じゃない女几帳面な女、がさつな女健康な女、持病や障害のある女リッチな女、プアな女気高い女、浅ましい女そんなこんなでも天皇貴人をもひょいひょいと産む【太古の女神だ!】。私の直前の前世は女だったという。当時、まだ忘れられた女になるのはいやだったのだろう。ダンテス・ダイジは、【あたいの子宮はなんでもかんでも受け入れちまうよ】タイプの女をド女と呼んでいた。【これも夢だけれどね・・・】女には、男性同様のニルヴァーナを目指...あたいの子宮はなんでもかんでも受け入れちまうよ

  • 独身で忘れられた女

    ◎心置きなし(2008-10-26)マリー・ローランサンの「鎮静剤」という詩の一節に、最も哀れな女は「忘れられた女」であるというのがある。もともとは、こんな詩(堀口大學訳)。退屈な女よりもっと哀れなのはかなしい女です。かなしい女よりもっと哀れなのは不幸な女です。不幸な女よりもっと哀れなのは病気の女です。病気の女よりもっと哀れなのは捨てられた女です。捨てられた女よりもっと哀れなのはよるべない女です。よるべない女よりもっと哀れなのは追われた女です。追われた女よりもっと哀れなのは死んだ女です。死んだ女よりもっと哀れなのは忘れられた女密教学者の正木晃さんが独身のキャリアウーマンを病気見舞いにいく話がある。彼女は若い時から、バリバリのキャリア・ウーマンで独身であった。50代でガンが発見され、入院する前から多額の保険...独身で忘れられた女

  • 無常を内に秘めた甘美なるものへの耽溺

    ◎なにもかもいいんだよ・・・(老子狂言)『なにもかもいいんだよ・・・マーヤーとは無常を内に秘めた甘美なるものへのたんできだなにもかもがないと知ったらなにもかもが輝いている底知れぬ闇さえも光り輝く!ああ生命力よ!情熱よ!あこがれよ!クンダリーニよ!マハー・マーヤよ!なにもかもいいんだよ・・・』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。究極を極めた者が無明(迷い)を定義したのがこれ、【マーヤーとは無常を内に秘めた甘美なるものへのたんできだ】。【ああ生命力よ!情熱よ!あこがれよ!クンダリーニよ!マハー・マーヤよ!】大悟覚醒を目指すには、生命力も、情熱も、あこがれも充分に必要だが、十分にない人に対しても、【なにもかもいいんだよ・・・】と示す。これは覚者の感慨であって、未悟者がこれを言うのは...無常を内に秘めた甘美なるものへの耽溺

  • 太乙金華宗旨の光について-3

    ◎無為を達成するために有為を用いる光とは何か。OSHOバグワンの説明。太乙金華宗旨の冒頭。ポイントは、以下。1.人は太乙という神になる。2.両目をひとつにする秘法は、無為を達成するために有為を用いること。3.黄金の華とは光だ。両目がひとつになれば、黄金の光の華があなたのなかで咲いたかのようになる。4.今は闇だが、黄金の華は光源のない光。ひとたび黄金の光を知れば、あなたは不死なる者になる。5.タオと同様に光はつねに存在している。果たして光はクンダリーニなのだろうか。『太乙(大いなる一者)とは、それにまさるものがない者の呼び名である。その一者になることが「太乙」になるということだ。このようにして道家の人々は、「神」という言葉を使わずに神についての何かを述べている。ひとつになれば、あなたは神になっている。生命の...太乙金華宗旨の光について-3

  • まだ、私の何ものかが信じている

    ◎すべてのすべてが至福だと(老子狂言)『すべてのすべてが至福だとまるで私ははづれてしまった私の冬に私はいる私という真夜中に私ははいるニルヴァーナの想い出とマーヤーの戯れが戯れとも気づかずに戯れている何のためでもなくあのニルヴァーナの絶対無以外に完全な歓びも安心もエナジーもない私は曲がった小路を歩いているのかもしれないだが、まだ、私の何ものかが信じているすべてのすべてが至福だと』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。これは、ニルヴァーナから戻って、まるで迷いの中に暮らしているが如き心境。ニルヴァーナという体験とは言えない体験を経ても【あのニルヴァーナの絶対無以外に完全な歓びも安心もエナジーもない私は曲がった小路を歩いているのかもしれないだが、まだ、私の何ものかが信じているすべての...まだ、私の何ものかが信じている

  • 何もかもが全く見知らぬものと化す

    ◎過ぎ去る夢の夢よ・・・(老子狂言)『過ぎ去る夢の夢よ・・・楽しみが一ミリもない時はどうしたらいいのか?何もかもがわからないということに気づいた時はどうしたらいいのか?私はそうである以外にない。何もかもが全く見知らぬものと化す。不安は意味もないのに不安と感じられる。重苦しい今の夢よ・・・過ぎ去る夢の夢よ・・・』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。【何もかもがわからないということに気づいた時は】これは、中心太陽との合体時の実感と思われる。【私はそうである以外にない。】素直であるしかない。【何もかもが全く見知らぬものと化す。】これは、覚者の生活実感というべきものだと思う。老子狂言の目次&リンクスダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方何もかもが全く見知らぬものと化す

  • 朗らかさの中を朗らかに自由に飛んでいけるようにと

    ◎センチメンタル・ジャンプ(老子狂言)『センチメンタル・ジャンプどこにでも、どこまでも、朗らかさの中を朗らかに自由に飛んでいけるようにと、私は、あらゆるもの達に願う。ジャンプ·イン!ジャンプ・アウト!自由自在な愛と美が踊り狂う!すべてが、よかったのだ。渇望の狂暴なパンチが、あらゆる生命を、駆り立てる。美と醜のかなた―――理解と不可解、安心と不安のかなた―――孤独な鳥は、天翔ける。アメンティーの中心太陽に向かってアメンティーの中心太陽の中を・・・』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。【どこまでも、朗らかさの中を朗らかに自由に飛んでいけるようにと、】これは、誰にでもできることでなく、神様の慈悲と、相当に生きる情熱がないとできない。【ジャンプ·イン!ジャンプ・アウト!自由自在な愛と...朗らかさの中を朗らかに自由に飛んでいけるようにと

  • 限りなき高みを天かける孤独の鳥

    ◎鳥は鳥に帰るのだ(老子狂言)『鳥は鳥に帰るのだ鳥は鳥に帰るのだ。魚は魚に帰るのだ。限りなき高みを天かける孤独の鳥は、その量り知れぬ意志ゆえに、空の果てまでも見破って、永遠の神秘におののく。この魚も、海の底深く、深海魚よりも、さらに深く、まっ暗闇の深海の地獄へ沈んでゆく。鳥が太陽に向かって飛ぶように、魚は海に溶け込みたいのだ・・・もし、太陽が鳥を愛し、海が一ぴきの魚を慈しむのなら、かれらは、太陽となり海となるだろう。そうして帰ってくるのだ。鳥は一ぴきの愚かな鳥として、魚は一ぴきの無知なる魚として、帰るともなく帰ってくるに違いない。』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。鳥は限りなき高みを孤独に飛翔し、やがて太陽となり、一ぴきの愚かな鳥として、帰るともなく帰ってくる。魚は、深海の...限りなき高みを天かける孤独の鳥

  • 一切を越えた神秘体験に夢中だ

    ◎快楽の極限(老子狂言)『快楽の極限もはや禅味だけになってしまった。余りにも、禅定が神秘で力強いエクスターゼだから。宗教は阿片だ・・・神秘体験以上の歓喜は、この世に存在していないかのようだ。かつて小麦色のしなやかな肢体の女に、狂喜したように、今は、ただただ、一切を越えた神秘体験に夢中だ。これが本当だったのだ。これが完全なる至福だったのだ。否、完全なる至福以上のこれ!何もかもかもが、本当に本当にどうでもいいのだ。』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)※禅味:禅を通して得られる、言葉では表現しきれない奥深い体験や感覚や味わい。※禅定:ダンテス・ダイジは、定と三昧を区別している。定は、見ている自分がある。三昧は見ている自分がない。※エクスターゼ:エクスタシー。※どうでもいい:第七身体ニルヴァーナに居る感慨だと...一切を越えた神秘体験に夢中だ

  • 太乙金華宗旨の光について-2

    ◎水は下降で、外へ向かう流れ。火は上昇で、“内向”する光とは何か。OSHOバグワンの説明。太乙金華宗旨の冒頭。ポイントは、以下。両目がひとつになったとき、天上の光が見える。その時、光の爆発が起こる。洗礼者ヨハネの火の洗礼は、その爆発のこと。〝外向〟と〝下降"は同じ意味であり、〝上昇〟と〝内向"は同じ意味だ。下降するものはすべて外にも向かい、上昇するものはすべて内にも向かう。そしてその逆も言える。水は下降で、外へ向かう流れ、水の旅は外界の旅。火は上昇で、上に向かって進み“内向”する。両目とは、外向の目を内向の目に転じて両目がそろうことで、これが水の洗礼と火の洗礼。(ゴシック体は、経典本文)『天上の光は見ることができない。それは両目のあいだに含まれている。だが、両目がひとつにならないかぎり、あなたはそれに気づ...太乙金華宗旨の光について-2

  • 万物は陰陽を抱いて和す

    ◎老子第42章道生一(2008-09-25)『有無一如の玄なる道は、先ず有なる一としてあらわれる。その有は陰陽の二気に分かれ、更にこの二気は冲気(陰陽二気を中和交流させる気)によって相和し、そこに万物が生じる。人の嫌いいやがるものは、ただ孤(徳がなく孤立すること)や寡(徳が寡いこと)やそれから不穀(自分が不善であること)といわれることである。ところがこれらの語をもって王侯は自称する場合の代名詞としている。すべてのものは、これを損することが益することであり、これを益することが却って損をすることになる。このことは古人の教えるところであり、そして私もまた教えようとするところである。事実、強がりのものは、満足な死に方をしないものである。だから私はものに剛強でない柔弱不争の徳をもって、教えの根本とする。』一は有、二...万物は陰陽を抱いて和す

  • 太乙金華宗旨の光について-1

    ◎天上の光は、両目のあいだに含まれている道教では光を回して、金華を得る。そこで光とは何か。OSHOバグワンの説明。太乙金華宗旨の冒頭。※性を精髄と訳。※命を生命と訳。※天光を天上の光と訳。(ゴシック体は、経典本文)ポイントは以下。精髄と生命は、天上の光のなかに含まれている。天上の光は見ることができない。天上の光は、両目のあいだに含まれている。精髄も生命も、直に感じ取らねばならない。両目はあなたの内側にある男性性と女性性を表している。この男性と女性があなたの内側での出会いが「天上」での内なる交合。イエスも「二つの目がひとつになると、光が現れる」と言う。『タオには名前もなければ形もない。それは一つの精髄、原初の精神である。(中略)精髄と生命は見ることができない。この二つは天上の光のなかに含まれている。天上の光...太乙金華宗旨の光について-1

  • 人間とはジャンキーのことだ

    ◎人間ジャンキー(老子狂言)『人間ジャンキー人間というジャンキーよ、おれたちは、何といとおしいのだろう・・・麻薬ジャンキー、セックス・ジャンキー、夢想ジャンキー性愛ジャンキー、社会性ジャンキー、新興宗教ジャンキー、権力ジャンキー、支配欲ジャンキー、戦争ジャンキー、殺人ジャンキー、マイホーム・ジャンキー、プライド・ジャンキー、自然ジャンキー、神秘体験ジャンキー、センチメンタル・ジャンキーニルヴァーナ・ジャンキー、衣食住ジャンキー、空気と水のジャンキー、しかり!ジャンキー・マーヤ・ジャンキー!!しかり!ジャンキー・モクシャ・ジャンキー!!人間とはジャンキーのことだ。それにしても、なんと美しいことだろう・・・』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。ジャンキーは、迷いの現れ、マーヤ(無...人間とはジャンキーのことだ

  • 極楽さえチンケなほどの悦楽

    ◎答え(老子狂言)『答え極楽さえチンケなほどの、悦楽を味わうのだ。地獄がママゴトに見えるほどの、苦痛を味わうがいい!そうしたら、私達は二度と、答えを求めはしなくなるだろうよ。』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)以下【】内は上掲詩から引用。欲望は欲望を滅尽させるために欲望としてある。欲望は、悦楽による充足と苦痛による苦悩というゲームの作り手である。だから【極楽さえチンケなほどの、悦楽を味わ】っても満足することはなく、別の悦楽を求めに奔る。また【地獄がママゴトに見えるほどの、苦痛を味わ】ったとしても、また欲望満足にチャレンジし、不本意でまた無意識にかもしれないが、別の苦痛を求めて進む。それが欲望のゲーム、喜怒哀楽のゲームであって、常に満足と苦悩の間を往復し、決して終わることがないがゆえにそのゲームは既に終...極楽さえチンケなほどの悦楽

  • 考えられないほど素適で想像することもできないほど邪悪な

    ◎サッパリわからん(老子狂言)『サッパリわからんおれは、死のトリックを見抜いたぞ!死は、闇でも光でもなかった・・・悟りでも迷いでもなかった・・・死は、生でも死でもなかった・・・快楽でも苦痛でもなかった・・・ニルヴァーナでもマーヤーでもなかった・・・死は死ではなかった。それは、考えられないほど素適で、想像することもできないほど邪悪な、時のない久遠の戯れだった。おれは、すべてを見抜いたぞ!けれども、おれは、何が何だかサッパリわかりはしない・・・ああ、おれが、おれになった刹那よ!我もなく映し世もなく何もかも夢の中なる夢の戯れ我もなく映し世もなく何もかも神の中なる神のあらわれ我もなく映し世もなく何もかもなにもかもなしなにもかもなしサッパリわからん!』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)これは言葉で表現することが...考えられないほど素適で想像することもできないほど邪悪な

  • 周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-2

    ◎黄金の華は、賢者の石黄金の華は、賢者の石であり、アムリタ(甘露)である。古代インドで、インドラ神は、クリシュナの要請に応じて、アムリタを多量の尿として、ウッタンカ仙人に与えようとした。ところがこの尿を、ウッタンカ仙人は、怒って飲まなかった。ウッタンカ仙人は、まだ準備ができていなかったのだ。黄金の華を得るためには、最高度の知性と明晰さ、そして完全な受容性と静謐さが必要となる。黄金の華の秘密の続き。(ゴシック体は、経典本文)『タオは女性指向ではない。タオはその両方――それらの統合だ。巡らせるのは男性的なエネルギーであり、一点にとどめておくのは女性的なエネルギーだ。行為を通して無為に到り、受動性にたどり着く。努力を通して無努力を達成する。この根本原理を実践する際には、他の技法を探し求める必要はない。ただ汝の思...周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-2

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