精神世界の研究試論です。テーマは、瞑想、冥想、人間の進化、七つの身体。このブログは、いかなる団体とも関係ありません。
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◎自我の内部が完全に一となり今北洪川は、明治初期の禅僧。鎌倉円覚寺の管長までやった。彼の悟りとされる体験。『明治時代の著名な禅僧今北洪川は、もと儒教徒であったが、この体験について次のように述べている。「ある夜、坐禅に没頭していると、突然全く不思議な状態に陥った。私はあたかも死せるもののようになり、すべては切断されてしまったかのようになった。もはや前もなく後もなかった。自分が見る物も、自分自身も消えはてていた。私が感じた唯一のことは、自我の内部が完全に一となり、上下や周囲の一切のものによって充たされているということであった。無限の光が私の内に輝いていた。しばらくして私は死者の中から甦ったもののごとく我に帰った。私の見聞き、話すこと、私の動き、私の考えはそれまでとはすっかり変わっていた。私が手で探るように、こ...今北洪川の悟り
◎龐居士が禅客を咎めるここ一週間ほどは、北日本の大雪のニュースが伝えられ、例年の二倍三倍の積雪ということで、私は雪国で育ったから、ことさらに高齢化した各地の除雪の苦労が思い起こされる。というわけで雪の禅語録。薬山、龐居士、雪竇(せっちょう)とも、有力な禅僧。薬山のところには、禅客と呼ばれる老師上堂説法時に質問だけをするけしからん輩がいたようだ。雪竇頌古から薬山を訪ねた龐居士が辞去した。薬山は十人の禅客に門のところまで見送らせた。居士は空中に舞う雪を指さして言った、「見事な雪だ、一ひらひらが余計な場所には落ちない(最初からそこに落ちることが決まっていたかのように、きちんきちんと落ちる)。」折から全禅客という男がいて、「どこに落ちますか。」居士は一発平手打ちをくらわせた。全禅客、「居士どの、乱暴は困ります。」...雪の落ちる様は見飽きぬもの
◎天童如浄の語録からダンテス・ダイジは、クンダリーニ・ヨーガは上昇、只管打坐は下降と唱える。クンダリーニ・ヨーガの上昇は異論のないところだと思うが、只管打坐の下降は結構論証が大変だ。まず道元の師の天童如浄の清涼寺語録から。天童如浄が弟子たちに説法する。『法座。大地平沈し、この座は高く広い。千変万化、功無くして賞を受ける。』(天童如浄禅師の研究鏡島元隆/著春秋社P151から引用)(大意)『説法の座に拠っていう。大地は等しく沈んでも、この法座は高く広く巌としている。世界は千変万化しても、この法座は無為の功によって賞を受ける。』大地は等しく沈んで、身心脱落する。そこで無為の功(無用の用)が達成されて、その報酬を得る。さらに清涼寺語録から、『衆寮を建てて上堂す、喝一喝、大地平沈、徧く黄金を布く。』(上掲書P183...大地平沈-只管打坐と下降
◎瞑想と東方の賢者たちセルビアのミタール・タラビッチ(1899年没)は、読み書きができなかったので、その予言をザハリヘ司祭に記録してもらっていた。クレムナの予言を注目した理由は、瞑想を評価していることと、東方の賢者たちが終わりの時代をリードするということである。ところが、『新釈・クレムナの予言/たくきよしみつ』を見たところ、瞑想という言葉は見当たらず、代わりに「自分の心の中に真実を見つけようとすること」みたいな表現がそれに該当するようだった。「自分の心の中に真実を見つけようとすること」で瞑想をイメージする人はほとんどいないので、残念なことだった。東方の賢者たちの教えは、最初受け入れられないが後に受け入れらるようになるということだけ書いてあって、東方の賢者たちが誰で、その教えがどのようなものかどうかは何も言...タラビッチのクレムナの予言
◎救いと癒しキリスト教の神殿の眠り(神殿の御籠り)というのは、病人や助けを求める者が教会に泊まり込んで、夢の中で聖人に出会い、願いを叶えてもらおうとすること。初期キリスト教は、当初この神殿の御籠りの風習に激しく抵抗したものの、すでに四、五世紀には、夢の中で聖人からじかに指示を受けたり、また聖人と直接的に触れ合うことにより癒しを得ようと、多くの人々が殉教者の墓や巡礼地を訪ねるようになった。神殿では、現れた神に心配事や悩みをすべて打ち明け、そして癒しのために必要な指示を受け取る。聖人は心の聖なる領域を示し、魂の隠れた次元への入口を開く。癒しの夢の話では、大天使ミカエルおよびコンスタンティノープルの殉教者コスマスとダミアヌスに奉献された教会に由来するものが多い。これらの巡礼地の評判を聞きつけ、キリスト教徒でない...キリスト教の神殿の眠り
◎雲水の誰もが仏になるわけではない臨済録から。『王常侍が、ある日臨済禅師を訪ねた。師と僧堂の前で出会うと、そこでたずねた、「この雲水諸君は、いったいお経を読みますか。」師、「読まない。」常侍、「坐禅をしますか。」師、「しない。」常侍、「お経も読まず、坐禅もしないとすれば、いったい何をするのですか。」師、「あいつらをみんな、仏にならせ祖師にならせる。」常侍、「『黄金の粉は貴いが、眼に入ったら病気になる』といいますが、これはどうです。」師、「今までそなたは一箇の俗物だとばかり思っていた。」』雲水は経を読まず坐禅もしないというのが、黄金の粉で、雲水だからといって誰もが仏になるわけではない。高官の王常侍に厳しいところを突かれた。禅堂には、UFO(UAP)も宇宙人もないが、中間段階を認めないその作法でもって究極に至...雲水は経を読まず、坐禅もしない
◎大災害の時代の直前に「今だ、今だ」と叫ぶUFO最近アメリカを中心に世界各地で目撃されるUFO。米海軍報告では、これは中ロのものではなく、かつレーダーに映っておらず、地球製飛行体では不可能な迅速、敏捷な動きをするという。UFOを考える基本線は、以下。UFOは、現実(肉体レベル)のものでなく、霊界(エーテル体、アストラル体レベル等)にある。UFOといえば宇宙人だが、ダンテス・ダイジの言い方では、映画館に行ったら複数名の宇宙人がいたなどと言っていたので、人間には、外見は人間だが中身が宇宙人の人間がいるらしい。また宇宙人の判別についてダンテス・ダイジは、人類に友好的かどうかという見方を披歴していたので、これには「おや」っと思った。霊界の生き物に対しても同じような区分をとることがあること、そしてジョージ・アダムス...UFOと宇宙人の印象
◎無意識の支配下にあっても意識的であること熟眠中に夢を見てしまうケン・ウィルバーは、やがて熟眠中に夢を見ない状態を達成した。これが冥想修行の極み。熟眠中に夢を見ないとは、熟眠という無意識の支配下にあっても意識的であることを継続できていることだろうと思う。アメリカの遠隔透視部隊のマクモニーグル(マックモンイーグル)は、トランスという無意識優勢な状態に入っても遠隔透視のために意識的な部分を残すことができた。※マックモンイーグルの上司がアットウォーター。マックモンイーグルは、オーストリアでの臨死体験があり、おそらくアストラル体で肉体を離脱したことがある。『さまざまな要因のなかでも、ケルト人の血とオーストリアでの臨死体験のふたつが、マックモンイーグルにとって非常に有用な能力を与えたようだ。つまり、夢を見ているよう...アメリカの遠隔透視の実情
◎臨済録-心心不異2024年12月15日、世界各地にレーダーで捕捉できないUFO群が出現。同日イスラエルのシリア攻撃で、きのこ雲が目撃され核使用を疑われているようだ。世界全面核戦争の予言あるいは警告として、霊界からUFOが出現したのか。ダンテス・ダイジは、UFOは霊界のものと言っている。「究極を悟ることができずに一生を終えれば、この世でむだ飯を食ったその飯代を請求される。」などとダンテス・ダイジは語っていたものだ。河北省で活躍した禅マスター臨済が弟子たちに同じようなことを語る。『「修行者たちよ、真実の道心を発(おこ)すことはむずかしく、仏法は幽玄で奥深いものだが、しかしみんながわかることは相当にわかっているのだ。わしは一日じゅう、彼らに説き明かしてやっているが、修行者たちはまったく問題にしてくれぬ。彼らは...真実の道心はむずかしい
◎大宇宙己が所有と為すときは心にさやるなにものもなし人間の本質は神の宮。肉体を生きかわり死にかわりして人間は、永久に生き続ける。釈迦と仏教者は人生を苦と見るが、肉体人間が永久に生き続ける場合は、苦に始まり苦に終わるので、解脱あるいは苦の卒業がなければいささか都合が悪い。出口王仁三郎は、人間の本質は、精霊、神の宮であって、神と人間が合一した立場にあって、そこで人間も神も永久に生き通しと説いているように思う。出口王仁三郎の歌集言華より。『あめ地に神なきものとほこりつつまさかのときに手を合す曲(まが)衣食住これより外に望みなき獣のはばる世こそさびしき日の本の国の名のみは残れども外国人やけもののみ住むくにの為め世人の為めと言ひながら世の大方は身のためにする霊肉の分離したのを死と言へどその本体は生き通しなる人の世の...生き通しの次元
◎生まれて死んでまた生まれ、死んで生まれてまた生まれダンテス・ダイジの死生観続き。『死ぬというのは人の世の果てにはあらず生魂(いくみたま)の重荷下して休むとき神のみ前に遊ぶとき栄えの花の開くとき歓喜充てる時ぞかしまたもや神の命令に神世の宿を立ち出でて再び人生の旅をする旅は憂いもの辛いもの辛い中にもまた一つ都に至る限りなき歓喜の花は咲き匂う神の御子たる人の身は生まれて死んでまた生まれ死んで生まれてまた生まれ*死んで生まれてまた生まれ*どこどこまでも限りなく堅磐常盤に栄えゆく常磐の松の美し世の五六七(みろく)の神の太柱玉の礎つき固め高天原に千木高く宮居を造る働きは神の御子たる人の身の勤めの中の勤めなりああ頼もしき人の旅ああ頼もしき人の身の人は神の子神の宮神と人とは生きかわり死にかわりして永久に五六七の世まで栄...ダンテス・ダイジの『死生観』-2
◎古神道の奥義開陳ダンテス・ダイジの断簡に古神道関係のものはほとんどない。道場の壁に墨色黒々と、出口王仁三郎の高熊山での開悟の歌『われは空行く鳥なれや』の一節を彼が揮毫したのを見たことがある程度だ。以下は、珍しいダンテス・ダイジの古神道の死生観を歌ったもの。出口王仁三郎の霊体からダンテス・ダイジは、古神道の奥義を受けたが、誠に出口王仁三郎直伝をうかがわせる。『天と地とは永久に陰と陽との生き通し神の水火(いき)より生まれたる人は神の子神の宮生くるも死ぬるも同じことこれをば物にたとうれば神の世界は故郷の恋しき親のいます家この世に生まれた人生は露のしとねの草まくら旅に出でたる旅人のクス野をたどるが如くなり辿りたどりて黄昏にいずれの家か求めつつこれに宿りしその時はこの世を去りし時ぞかし一夜の宿を立ち出でてまたもや...ダンテス・ダイジの『死生観』-1
◎個人は完全に消滅し神となる本山博は、お不動さんなどの個別神霊が人間と合一する場合は、人間は死にはしない。その人間も残ったままで、お不動さんも残っている。つまり二つのものが合わさるが、二つのままでいる。これが合一。霊能者は、このパターン。一方創造神(第六身体アートマン)と個人が一致した場合は、個人は完全に消滅する。個人はその時死なねばならない。大死一番である。創造神とは、場所的神のことであり、有の側のことである。第七身体は、無の側であり、創造神(場所的神)とは別のことになる。第七身体(無、ニルヴァーナ)のことを本山博は、絶対者と呼び創造神と区別している。本山博は、神秘家は、有である神を感得し接し得るが、それは無の側ではないと見ている。さらに有が絶対無に接する時、有は絶対的に無となるので、生死の場所は有であ...本山博の個別神霊との合一と創造神との一致
◎頓悟の大なるリスク(2021-01-12)OSHOバグワンは頓悟の方法を開示しない。その理由の一つは、その方法を用いれば、修行者は死んだり発狂したりすることがあり得るからである。もう一つの理由は、開示すると文書として伝承され、単なる好奇心の結果、不幸な修行者が増えるからである。翻ってその教えは邪教として廃されかねない。さらに頓悟の方法はグループで為されるべきであるとする。理由は修行者が長期にわたって無意識に留まり日常生活ができなくなることがあるから。一人で修行する代表例は、経典やハウツー本やマニュアルだけで冥想修行するものだが、これも危険だとする。頓悟するのに必要な鍵は、経典の外に師から弟子への口伝として存在しているからである。(以上参照:究極の錬金術Ⅰ/OSHOバグワンP177-181)またそういった...OSHOバグワンは頓悟の方法を開示しない
◎坐って目を閉じても冥想などできない人が多い(2020-11-07)インドでは、人間のたどり着くべき境地が、熟睡中の夢を見ない状態であることを古来唱える。それを枕に、OSHOバグワンは、『自己中心人間は眠れない』とする(死・終わりなき生/OSHO/講談社P155-162)。彼は、西洋における無神論の根底には、西洋人の乱れて混沌とした睡眠の状態があるとし、ニューヨークでは、三割以上の人が精神安定剤なしで眠れないという。つまり、世界の広汎な赤化の原因のひとつは、その睡眠を奪われつつある生活スタイルだと断じている。睡眠薬や精神安定剤なしで眠れるようになれば、無神論と赤化の勢いは止まるということがあろう。科学的論証は困難だが、そこに冥想が広まれば、自然な睡眠を取り戻す人が増え、無神論の暴走は止まるという法則が推測...自己中心人間は眠れない
◎「場所」には、創造神と個別神霊がある。本山博の「場所的個」とは、神人アヴァターラのことのようである。三身、三位一体の構成要素としての人間のことだと思う。「場所的個」とは、「場所的個」とは、ヨーガでは「アヴァターラ」、仏教では「応化身」、キリスト教では「神が受肉をしてキリストになった」、あるいは「神の子」のこと。この場合の「場所」というのは「神様そのもの」。だから、「場所的個」とは神とイコールな人間で、普通の人間ではない。人間なのだけれども、神様になった状態でいる人。「絶対」と個人とのつながりを本当にこの人の存在全体で体験した人が「場所的個」絶対と現実(相対)とをつなぎ、両方を成り立たせるものが「場所的個」。「場所」には、創造神と個別神霊がある。創造神とは、一切のものがそこで死んだり生きたりするような、そ...本山博の「場所的個」
◎心霊、神霊との一致の宗教体験と色界の四禅ダンテス・ダイジの実家はかつて井の頭線三鷹台にあって(今は何もない)、駅二つ隣が吉祥寺。吉祥寺の井の頭公園の南側には、クンダリーニ・ヨーギ本山博ゆかりの玉光神社があった(今もあるかどうかは知らない)ダンテス・ダイジは、クンダリーニ・ヨーガの教授を求められると本山博のところを勧めていたという。出家並みの修行に打ち込める衣食住の整った環境がなければ、クンダリーニ・ヨーガの修行の継続、深化はないのだろうから、ダンテス・ダイジはクンダリーニ・ヨーガの自らの伝授には慎重だったのだろうか。本山博は、七つの身体論ではないが、それなりに究極についてどう見ているかは、考えさせらるところがある。『人間が、他の人間や自然と区別される小さな自分を見てと思っている間は、より大きな存在との一...本山博の最初の三次元
◎私に殺す心があるからです禅の食事作法では、生飯といって餓鬼に施すため米飯数粒を膳のわきにのけて、係が全員の生飯を集めて野鳥に供する。ある日、院主が鳥に生飯をやろうとしているのに、なぜか鳥が皆飛んで逃げる。趙州「鳥はあなたを見て、どうして鳥が飛んで逃げるのですか?」院主「私がこわいからです。」趙州「なんということを言っているのだ。」趙州は、院主に代わって言った「私に殺す心があるからです。」現代人は、何はさておきメリット・デメリット、タイパ、コスパと他人を出し抜いて一円でも儲かってやろうという気持ちの人が多い。幼少時から、敵をせん滅することを繰り返すモバゲーで成長してきたせいか他人を殺し続けるのはお手のもの。だが四六時中そればっかりでは、一日のうちにどうしても安らぐ時間を求めることになる。冥想、瞑想は、本来...鳥に餌をまいても逃げられる人
◎八番目のチャクラならざるチャクラ(2019-04-12)「八つのチャクラが、人間の絶対性の基本的ポイント」とダンテス・ダイジは、云う。人間の絶対性とは、人間を外的な部分・社会と内的な部分・個人とに自分というものを区分して認識し、個々人が分かれていながら、同時に神・絶対者から個々人が流れ出ているものであって、今ここしかない今しかないが、過去現在があるものとして時間の流れを想定してしまう認識形態とでも言おうか。個と全体の並立・共存と七つの次元に亘りながら、今ここという一つながりのものの不断の変容を現実と認識する一方で、それが夢幻でもあることをよく承知することもできる。その意味で、芭蕉がその庵を幻住庵と名付けたのは至高のネーミングだと思う。ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。『だが、アメンテ...ダンテス・ダイジの8チャクラ説-3
◎大涅槃とクンダリニー(2019-04-11)サハスラーラ・チャクラ(ブラフマランドラ、泥丸)をチャクラに数えるかどうかの議論は、頻出であって珍しいものではない。だが、チャクラを解説した本を開くと、なにげなく会陰のムラダーラとクンダリニーが接して描かれているものだが、決してそうではないことを、ダンテス・ダイジは、8チャクラで暗示する。ダンテス・ダイジの『戯れに冥想を』から以下引用の続き。『クリヤ・ヨーガつまり、クンダリニー・ヨーガの場合は、クンダリニーをチャクラの一つに加えるかどうかで、七チャクラズの流派と六チャクラズの流派とに別れる。同様に、サハスラーラ(ブラフマ・ランドラ)を、チャクラの一つに入れるかどうかについても言える。一方、アメンティー・タントリズムにおいては、八つのチャクラが、人間の絶対性の基...ダンテス・ダイジの8チャクラ説-2
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