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2024/05/30

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  • 夢にだに見ることのできぬあなた自身

    ◎一刹那の戯れ(老子狂言)『一刹那の戯れ一刹那を戯れなさい。次の刹那なぞありはしないのだから!これは、刹那主義ではない。刹那主義という、永遠の欲求不満のトリックではない。一刹那の戯れとは、夢にだに見ることのできぬ、あなた自身のことだ・・・あなたは、恐怖を恐れてはならない。あなたは、あなた自身を恐怖してはならない。』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)隙間理論では、現象の一刹那は、人間は、『隙間』『現象』『隙間』『現象』『隙間』『現象』と流れている。『隙間』がニルヴァーナであって君自身の側、『現象』が有であって君の頭の側。現象は第六身体であってすべての空間、時間、物質が一枚鏡になっているが、これが一刹那に挟みこまれている。これぞ一刹那の戯れ。自分自身に直面すると、「私」が消え去っていく、そして自分に死が起...夢にだに見ることのできぬあなた自身

  • すべてのすべてを見破ったら

    ◎忘れ果てるがいい(老子狂言)『忘れ果てるがいい何を語れば、いいというのだ。語るべきものなぞ何一つとてない。石ころは、一体何を語っているのだろうか。形あるものは必ず死ぬというのに。すべてのすべてを見破ったら、おろかに、なにもかも忘れ果てるがいい。私は髪の毛、一本、白くも黒くもできはしない···』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)非人間的な石ころから始まるのは、ダンテス・ダイジの慣用句。上掲『すべてのすべてを見破ったら、おろかに、なにもかも忘れ果てるがいい。』は、禅では、見性、大悟に執着しないことを言い慣わす。『髪の毛、一本、白くも黒くもできはしない』は、イエスの言葉。大悟後に超能力霊能力が使えるようになっても、それが何だというニュアンスが隠れている。すべてのすべてを見破ったら

  • 大悟には、悟りも迷いもありはしない

    ◎大悟(老子狂言)『大悟見性とは、なにもかもいいんだ!という、理解ではない。見性は、なにもかもよい!というそのことだ。大悟には、いい!いやだもない。なにしろ、大悟には、悟りも迷いもありはしない。だが今のところ、心の底から本当に愛着できる何ものかが欲しい・・・悟りなぞと、つっぱらないのがいい。』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)見性は、なにもかもよい!ことを見ている自分がいる。十牛図第三図大悟は、言葉で表現できないから、悟りも迷いもない。十牛図第八図悟っても一個人に戻るから、悟りなどと、つっぱらないのがいい。大悟には、悟りも迷いもありはしない

  • 周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-1

    ◎太乙金華宗旨クンダリーニ・ヨーガでは、クンダリーニのエネルギーコードを上昇させ、周天では身体の前後に気を周回させる。ほとんどの人は、クンダリーニのエネルギーコードと気は別物と考えているのだろうと思うが、OSHOバグワンは、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見ている。クンダリーニのエネルギーコードは、玉の緒と呼ばれるように第二身体エーテル体から第七身体エーテル体まで、各身体を通貫して存在している。これを基本認識とせねば、気とクンダリーニのエネルギーコードは、同一と見れないように思う。というのは、気は、エーテル体が基地であるが、呂洞賓の太乙金華宗旨(黄金の華の秘密)では、気あるいは回光も同一物が次元を越えて運動、作用しているように見えるからである。そういう見方が可能なのは、OSHOバグワンが正師に...周天とクンダリーニ・ヨーガの違い-1

  • なにもかもないそれが老子

    ◎老子狂言の老子『老子老子について何も知らない。ただ気楽な人だったなあと、私は思う。そうなってゆく、そのままの人。そうなってゆく石ころ。そうなっていく雨だれ。ただ素直にやわらかく、豊かだったなあと、私は思う。イエスのように純真だが、そのオトボケは、ソクラテスを楽々とノイローゼにさせるほどの俗物中の俗物。もちろん、老子とは個人の名前でもなく、老子という本の名前でもない。宇宙の名前だといったらよいのか?無限の名前といったらいいのか?否、否、三たび否!なにもかもないそれを、老子が老子と名付けたらしい。ありとあらゆるものそれ自身を、誰かが仮りに老子と名づけたようだ。それだからこそ、老子はあたりまえな人間なのだ・・・』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)『気楽な人』と『そのオトボケ』は、クンダリーニ・ヨーガに比し...なにもかもないそれが老子

  • 言わずして大道に帰する

    ◎老子第34章大道汎兮(2006-03-02)老子の中には、人間という視点が全くないものが時々ある。この一篇もそうである。使われている言葉は、自分が作ったとは言わない、そして主人顔をしないなどというものだが、書かれていることは、個人という人間や人間という心理は全く顧慮されていない。ここで老子は、タオ・道に成りきって、その属性を語っている。限りない夢と真実の裏側に常にひそむ「何物か」は、この世のどこにでも遍満しているけれども、自分勝手な奴ではなかった。『道は天下に普く満ちわたっていて、右にでも左にでも何処にでも見出される。万物すべてこの道を恃んで生じるけれども、しかも彼は決してこれを辞するということがない。そして功成っても自分が為したと主張しない。彼はすべてものを養い育てる。けれども決してそれの主人顔をしな...言わずして大道に帰する

  • 玄徳-道そのものの徳

    ◎老子第10章載営魄(2010-11-13)『私たちはよく、その身体の上にその精神的欲望を司る魂と感覚的欲望を司る魄との二つともを、たちまち守りながら、しかも道の発動現成にあたって、道から離れずに生きてゆけるか。この自分の中にある生々の原動力、無意識的生本能そのものの発動のままに生きることを専らにし、自分の欲望的意識は、極力これを抑えて発動せしめず、ちょうどあの赤ん坊のように生きることができるか。民を愛し、国を治めるにあたって能く無為たることができるか。天門の治乱興亡の諸事件、諸現象にあたって、自分の力で自由にすることができることを知りながら、よくそれをしないで、人為的発動をしないで、無為を守っていることができるか。あらゆる方面において聡明でありながら、しかも能く知なきが如くしていることができるか。道は万...玄徳-道そのものの徳

  • 之に及ぶもの希(まれ)なり

    ◎老子第43章天下之至柔(2008-09-08)『この世で最も柔弱なものが却って最も剛強なものを自由にする。形のないものは、隙間のないところへも入れる。だから私は、無の作用の大きな意義を知るのだ。この天地の言わずしてあらわれる教と無のはたらきの大きな意義と、これに及ぶ偉大なものは、この世の中にない。』この世で最も柔弱なものが、最も剛強なものとしてあらわれている。もとより一定の形のないものであるから、隙間のないところへも入れる。この道とは何者か。それを見るためには、人間の果てまで行き着いてみなければならない。これ以上偉大なものはないと言いきるところに、それを確証した老子の立ち位置の至高であることがわかる。之に及ぶもの希(まれ)なり

  • 中国という現実感覚

    ◎大観園の解剖=戦前の中国のアヘン窟(2015-10-22)日本では上水道が行き渡り、山中などよほどの不便なところでない限りは、手汲みの井戸にお目にかかることはなくなった。私の少ない経験で言えば、水の悪い中国での生活に対して、昭和10年代の生まれくらいの人まではあまり抵抗がなかったように記憶している。水事情が悪ければ、風呂もシャワーもなかなか浴びれない。明治や大正の人は、中国に留学し、中国語の舌の訓練が要る発音と「礼節」を学んだ人がいたものだが、彼らにさほどの中国での生活に違和感があったことは聞かない。中国での生活をやや不便と感じこそすれ、そこでの生活に耐えられないとまで思うことはなかったのではないか。そうしたやや慣れた日本人であっても、中国人の徹底した虚無に近い部分の人生観に暗澹とし、また驚異の眼を見張...中国という現実感覚

  • OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方-2

    ◎問題はソーマではなく、本人の準備ができているかどうか。悟り薬、それは一回服用すればニルヴァーナに到達できる薬であって、まるで一かけらを鉛に投入したけで全体が黄金に変成する賢者の石のような薬。それが実際にあれば、ニルヴァーナに入りっぱなしで、ラーマクリシュナのように横になったきりで何日も過ごすような人が続々と出るのではないか。そのようにニルヴァーナの至福感は強烈なのだろう。ただしニルヴァーナに入りっぱなしというのは、よさげに聞こえるが、ダンテス・ダイジは、そのような状態には否定的だった。実際ラーマクリシュナは、数日その姿勢のままなので侍者が口に水を含ませたりなど世話が必要だったようだ。以下の文では、ドラッグの効果は、現実(ニルヴァーナという意味)に到達できず、幻覚に過ぎないとし、薬物の効果は必ず切れるので...OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方-2

  • 体験ではない体験

    ◎体験ではない体験それ自身を再体験(2021-10-20)このブログでは、人間から見た究極の体験を「体験とはいえない体験」と呼んで多用している。そのoriginが、ダンテス・ダイジの未公刊の詩集「老子狂言」のメシアン・ハンドブックという詩にある。『メシアン・ハンドブック救世主は知っているいかなる人であっても自分を神の子だと考えるのはもっともなことだと健康と病気豊富と貧困解放と束縛これらを受け入れるかどうか決めるのは君達だパッと手を離したらいいあとのことは流れがやってくれている君達に命ずるこれからずっと幸福でいなさい思い出してごらんすでに君は死んだことがあるんだよ立派な救世主は自由に行きたい道を行くできないことはできない救世主でいるくらいなら手品師か催眠術師のほうがましだ君はつねに神でいることはできないだが...体験ではない体験

  • OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方

    ◎ソーマ依存になって廃人になる危険が大OSHOバグワンのアシュラムでもソーマ摂取が盛んだったようだが、OSHOバグワンはこれに対して否定的な意見だった。要するにソーマ・ヨーガによって悟りに至る可能性は否定はできないが、実際のところソーマ依存になって冥想修行どころか、生活すらできなくなる危険の方が大きいと見ていた。OSHOバグワンは、ソーマ・ヨーガによって悟りに至る方法としては、ソーマによって、幻想の世界、夢の世界があることを自覚させること(霊道を開くということでもある)をきっかけにより、以後冥想修行に邁進できる可能性を見ていた。だが、そのケースでもソーマの使用はいわば最初の一回に限定している。ソーマの使用は、未悟者は禁止だが、覚者の中にはソーマや酒でもって悟りを維持する場合があるらしい。冥想パワーで体内の...OSHOバグワンのソーマ・ヨーガの見方

  • 自意識の頂点では英雄の夢は破れる

    ◎戦争の代わりにオルガズムを(2021-07-20)ダンテス・ダイジの老子狂言から、若い頃から気に入っている詩。『大志をもて!かつて男にも大志があった。地位・名声・権力———それらは、一種のオルガズムであり得た。あるいは、知的探求・芸術的創作———少なくとも幾ばくかの陶酔を与えてくれた。男の性的悦楽なぞ淡いものだ。だから男はいつの日か英雄になることを夢見た。だが、自意識の頂点では、英雄の夢は破れる———それは生物学的必然なのだ。破れた夢は、一つの暴力と化す。戦争はすぐまじかにある。人間を大自然に憩わしめるのは、オルガズム以外にはない。悟りとは、究極的なオルガズムなのだ。今や文明は終わった。究極的オルガズムに帰る最適の時だ。女はと言うと、女は女でなくなった。現代女性は、男のように自意識的に快楽を求めつつある...自意識の頂点では英雄の夢は破れる

  • ダンテス・ダイジのホワイト・フォックス

    ◎だが、おまえもおれなのだ。(2015-09-19)今日も外国人観光客の人気ナンバーワンの観光スポットは、ホワイト・フォックスの伏見稲荷でござる。そこで、ダンテス・ダイジのホワイト・フォックスの詩。愛も愛情も不安な灰色と化したこの現代に、まだ大金を儲けようという考えから抜け出せない人は、ダンテス・ダイジの歓迎する客ではない。しかしそんな我利我利亡者も彼の一部である。そうした見方は彼のやさしさではあるが、ろくでもない影響を時代に与え続けているという一側面もある・・・・・ダンテスの悪影響。『ホワイト・フォックスホワイト・フォックス。おれは、長いこと、おまえを嫌っていたらしい。女の汚れの中の女。何一つ見ることのないホワイト・フォックス。おまえの頭は打算だけだ。フォックス———だが、おまえもおれなのだ。666の黒...ダンテス・ダイジのホワイト・フォックス

  • ダンテス・ダイジのアートマン

    ◎有相三昧=ウィリアム・ブレイク(2014-12-25)ダンテス・ダイジのアートマンとは「この一なるもの」であり、「一切万象、多様次元自身が目覚めている」ことであり、彼はそれを未公刊の詩集『老子狂言』のウィリアム・ブレイクという詩で表現している。『ウィリアム・ブレイクそうなってゆくそのままでよいのだ。人は喜び悲しむために産まれて来たのだ。だが、この絶対者は違う。絶対者は喜怒哀楽から離れて、喜怒哀楽を戯れ、そしてまったく同時に喜怒哀楽を超越して絶対の流れを流れ続けるそして絶対者は、すべてのすべてで久遠にいませり!存在と非存在とに何のかかわることもなく。私が絶対者なのだ。ほんの卵だけれどもね・・・』(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)人の視点と絶対者の視点は違うものだ。個人の感傷や倦怠やこだわりなど意に介す...ダンテス・ダイジのアートマン

  • 心の底から満足できない

    ◎決定的根拠(2007-07-22)エスニックなグルメ、ジャパネスクなグルメ、アヴァンギャルドでキュートなファッション、魅惑的な異性との出会いとメイク・ラブ、異国の旅先で感じるほのかなエキゾチズムなど人の心を惹きつけるものは、この情報あふれる時代で、価値観の多様化した今でも数多いものだ。何があっても心の底から満足しえないことを知っている21世紀初頭の日本人にとって、本当の満足へのメソッドとはこのようなものか。『決定的根拠いかなる根拠もないということが、これそのものなのだ。理屈と保証がないからこそこれは久遠の安楽なのだ。喜びもなく苦しみもないからこそ、あなたは永遠の平安を生きて死ぬ。そして、あなたは喜びを求めて飛び続ける。ニルヴァーナという妄想エクスタシーというマーヤ-それを欲すること-----これが人間と...心の底から満足できない

  • 長く読めなかった老子狂言-2

    ◎何も知らないうちが花なのだ(2022-01-18)ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その二。『すべてを知り尽くすこの世とあの世―――存在と絶対無―――生と死の秘密を、すべて知り尽くすことほど、大きなわざわいはない。何も知らないうちが花なのだ。それでも、花はかれ果て、実になろうと欲する。余りの苦痛にもかかわらず花は散って、実を結ぼうとする。私は、なぜそうなっていくのか知らない。』(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)大悟した後に彼の人生で出会うすべての人物の顔を事前に見たダンテス・ダイジほどの人物が、『すべて知り尽くすことほど、大きなわざわいはない。』と言ってみせる。人間や社会や世界の最も醜悪な部分をも知ることほど気が滅入るものはないから、ロマンも叙情もへった...長く読めなかった老子狂言-2

  • 長く読めなかった老子狂言-1

    ◎悟りとは至福のことではなかったのか?(2022-01-17)ダンテス・ダイジの未公刊の詩集『老子狂言』の中に、長く読めなかった詩が二篇ある。その一。『果てしない旅幸福は、外的な状態に依存してあるのではない。あらゆる方法や修錬によって、至福を知るのだ。内面のただ一人だけの充実に向かって、苦難の果てしのない道をやみくもに走り続けるのだ。君が君にオーケーと宣言した時が君の情熱の消える時だ。そして君は、灰色の穴ぐらの中に自己満足とあきらめの日々を暮して死んでいく。ただ量り知れぬ秘められた情熱だけが、幸福や至福の彼方へ甦える。何と果てしない旅だろう!』(ダンテス・ダイジ/老子狂言から引用)大悟覚醒して、至福の何たるかを知った後も一個の人間として『灰色の穴ぐらの中に自己満足とあきらめの日々を暮して死んでいく。』のだ...長く読めなかった老子狂言-1

  • ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

    ◎悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々何度目かの老子狂言を通読した。最初に老子狂言を手にしたのは40年ほど前で、8割方は意味が分からず読み飛ばしていたというのが正直なところだった。人間がどう覚醒していくのかということは未だに謎が多いが、最近は、七つの身体、7チャクラ、有の側、死の側、クンダリーニのエネルギーコード、身心脱落、水平の道、垂直の道など冥想十字マップにまつわるキーワードで、悟りに至るメカニズムを知的につかむことができたように思う。そうした目で見れば、老子狂言とは、悟りを持ちながら生きる人間の生きる実感の数々であって、未悟の人向けにそれを率直に親切に説き示してくれているもの。そういう類のものは、なかなかないものだ。老子狂言と言えば、老子道徳経の『名』というカルマを生き切るカルマ・ヨーガで大...ダンテス・ダイジの老子狂言の歩き方

  • OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-34(最終節)

    ◎カイヴァリヤ:何かを言う可能性はここで終わる。これを超えるのは経験だけヨーガ・スートラ4-34の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。(OSHOバグワンのYoga:TheAlphaandtheOmega,Vol10P143-)ポイントは、以下。1.カイヴァリヤは、三つのグナが再出現した後に続く悟りの状態。世界が止まり、刹那と刹那の間を見る。※三つのグナの再出現とは、第六身体アートマンか。2.幻想的な世界が夢のように消える時、それがカイヴァリヤ。その時、人は身元も名前も形もない純粋な意識となる。これは、独存であって、基本的で、最も本質的で、最も存在的で、純粋で、孤独。※これは、有の側の現象が終わって、無に入ったことをカイヴァリヤと言うのだと思う。3.人はカイヴァリヤになることができるが、カイヴァリヤ...OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-34(最終節)

  • 老子狂言の目次&リンクス

    ◎老子狂言の目次&リンクス献辞巻頭言格言1悟りが夢であるようにオカルチック・ソネットIAMNOTPOET流浪者の故郷ミステリーかな純文学かなSFかなDreamTruth人のからくり格言2老子ウィリアム・ブレイク果てしない旅悟りのテクニシャン大悟忘れ果てるがいい一刹那の戯れサッパリわからん答え人間ジャンキーどうでもいいホワイト・フォックス快楽の極限鳥は鳥に帰るのだセンチメンタル・ジャンプ過ぎ去る夢の夢よ・・・なにもかもいいんだよ・・・私は女だ楽しさをあこがれ続けるらしいパンドラの箱何と完全なんだろう!石ころは、高らかに笑うメシアン・ハンドブックどこまで行ってもきりがない・・・坐禅とは格言3ただそれだけのこと私はとこしえに楽しく生きたい!すべてがわかるっていいね帰っておいで永遠の旅に出るわが父に感謝をこめてま...老子狂言の目次&リンクス

  • OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-33

    ◎すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消えるヨーガ・スートラ4-33の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。(OSHOバグワンのYoga:TheAlphaandtheOmega,Vol10P141-)ポイントは、以下。1.すべては無から出てきて、遊び回り、再び無に消える。2.ヨーギは、冥想修行の最終段階で、すべてのグナがブラックホールに消え、無に消えていくのを目にする。だからヨーギたちは世界をマーヤ、魔法のショーと呼ぶ。世界全体が夢を見ており、世界全体が映像を投影している。3.原子・物質は実体でなく、何もない空間が神である。4.多数の静止画像が早く動くと、ものが動いているかのように思えるが、個々の静止画像と静止画像の間には空白がある。その空白の方が真理であり、神である。5.すべてのグナが止まり...OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-33

  • OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-2

    ◎ヨーガは、私たちが切り離されてしまった無限の生命に到達するための努力であるヨーガ・スートラ4-32の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。(OSHOバグワンのYoga:TheAlphaandtheOmega,Vol10P140-)ポイントは、以下。1.誰かが悟りを開くと、その人にとって世界は終わりとなる。他の人にとっては世界は続く。2.ヨーガは、私たちが切り離されてしまった現実(無限の生命)に到達するための努力である。『(仮訳)【目的を果たした後、三つのグナの変化のプロセスは終わりを迎えます。】三つのグナ、サットヴァ、ラジャス、タマスの世界は終わりを迎えます。誰かが悟りを開くと、その人にとって世界は終わりを迎えます。もちろん、他の人々は夢を見続けます。もし、熱い砂の上で、焼ける太陽の下で苦しんでい...OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-2

  • 三種のグナの終わり

    ◎無力と悲惨の終わり(2017-10-20)パタンジャリのヨーガ・スートラの最後から3番目の4.32から。『三種のグナは、その目的を達成し、その変化のプロセスは終わる。』三種のグナは、サットヴァ(照明)、ラジャス(不安)、タマス(暗痴)で、この世の三元素であり、心の三元素。これが真理かといえば、そうしゃちほこばることもなくて、仏教圏は、地水火風空の5元だし、中東から欧州は、地水火風の四元だし、中国へ行くと五行だしと、世界の元素は、お国ぶりみたいなものと考えてよいと思う。さて、三種のグナが終われば、世界が止まり、現象の転変も終わる。現象は見られるものであり、現象の転変は見る者のために存在する。人は、神によって世界に投げ込まれ、3種のグナで演じられる人の子の無力と悲惨は、現象全体、世界全体を見渡すところで止む...三種のグナの終わり

  • OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-1

    ◎私たちは神を知るため、神の海から投げ出される必要があったヨーガ・スートラ4-32の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。(OSHOバグワンのYoga:TheAlphaandtheOmega,Vol10P139-)ポイントは、以下。1.悟りを開いた人にとっては、世界全体が止まり、世界は状況として存在する。それは神を忘れ、再び思い出すための状況。なぜそうなるかといえば、私たちは神を知るためには、神の海から投げ出される必要があったから。2.悟りを開いたとき、彼は世界から卒業した。3.人は苦しみを通して神を知るが、神を知った後の世界は以前とは違っている。もうすでに世界は何であるかを知っているから。『(仮訳)【目的を果たした後、三つのグナの変化のプロセスは終わりを迎えます。】悟りを開いた人にとって、世界全体...OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-32-1

  • ディヤン・スートラの七つの段階-10

    ◎感情からの自由とサマーディ(2021-11-23)思考の観察から一歩進んで感情の観察もできる。最後には純粋な観察者を目指す。この「見ていること」を意識と呼び、英知と呼ぶ。OSHOバグワンは、ここで予想どおりあるいはいつものパターンで、感情の観察については詳述していない。せいぜい思考の観察と同様に感情を見守るのだくらいの説明である。ここで無身体、無思考、感情からの自由の三つの“空”が成り、これによってサマーディに進むとする。だがサマーディとは個なのか全体なのか、何がどう素晴らしいのかなどについてはほとんど説明がない。続く質疑の章に次のような暗示するものはあるが、サマーディの説明がちゃんとしていないのは、聴衆のレベルがあったのだろう。『そう、あなたが神性の探求に乗り出すときは、「わたしは神性を見つけるつもり...ディヤン・スートラの七つの段階-10

  • OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-30、4-31

    ◎心を通じて得られる知識は、悟りを通じて得られる知識に比べて非常に少ない心を通じて得られる知識とは、未悟の人がいわばスポットライトを当てた部分の知識のことであって、悟って宇宙全体が自分と合一すれば、宇宙全体がスポットライトを当てたように知ることのできる知識というようなところか。知識に絞ればそういう話なのだろう。ヨーガ・スートラ4-30、4-31の本文(ゴシック体)とOSHOバグワンの解説。(OSHOバグワンのYoga:TheAlphaandtheOmega,Vol10P139-)『(仮訳)【次に、苦しみとカルマからの解放が続きます。心を通じて知ることができるものは、悟りによって得られる無限の知識に比べて非常に少ないです。悟りの中で、ベール、歪み、不純物が取り除かれるとき。】ほんの数スートラ前に、パタンジャ...OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-30、4-31

  • ディヤン・スートラの七つの段階-9

    ◎思考からの自由(2021-11-22)思考からの自由は、自分の思考の正しい観察を通して起こる。思考の流れを傍観する。思考が流れて行くのを見守る。やがて思考と自分は別であることに気づく。自分は思考でなく観照者であることに気づく。トータルな気づきを以って内側を見つめると思考が止まる。その時行為者と観察者が別だとわかる。だが、そこで考えてはいけない。この観察者を見る人とも呼ぶ。OSHOバグワンの説明では、凡人には、思考がある。瞑想者には、思考と観察の二つが並行する。覚者には、観察だけがある。思考は死んでいる。(参照:ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHOP235-242)自分が思考ではないと気づくなら、思考は死ぬという大胆な分析である。ここは、体験した者だけが語り得る部分。只管打坐でも似たようなことをやってい...ディヤン・スートラの七つの段階-9

  • OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-29

    ◎ダルマ・メーガ・サマーディ(Dharmameghasamadhi)パタンジャリのヨーガ・スートラは、この世の実体のないこと(空、空性)の実証である隙間理論に及んでいるので、その直前の節から読んでみた。この節は、ヨーガ・スートラ4-29であって『永続的な識別知の中において、瞑想から得たどんなものからも自分自身を切り離せば、雲という特質を散り散りにするサマーディに入る』(現代人のためのヨーガ・スートラ/グレゴール・メーレ/ガイアブックスから引用)と訳されているが、これでは何のことかわからない。これがOSHOバグワンなら『最も高貴な悟りの状態に対してさえも、欲望のない状態を維持し続け、最高の識別力を発揮できる者は、「美徳の雲が降り注ぐ」として知られる状態に入ります。』となる。そこで、OSHOバグワンのYoga...OSHOバグワンのヨーガ・スートラ解説4-29

  • ディヤン・スートラの七つの段階-8

    ◎自分の身体は“空”(2021-11-21)ディヤン・スートラの七つの段階の前半三段階の浄化で土台が整い、後半は神性と合体する。後半三段階を“空”とし、“空”にも三段あり身体、思考(マインド)、感情の段階があるとする。『自分は身体だ』と感じることが消えると身体は“空”となる。『自分は身体だ』と感じることを落とすと身体は“空”となる。OSHOバグワンは、行住坐臥、一挙手一投足について、「それがどこで起こっているのか、肉体なのかそうではないかに気づきをもって見つめよ」と言う。例話では、傷つけられる自分は肉体なのかそうではないのか、今まさに殺されようとする自分は肉体なのかそうではないのか見極めよという話を出して来ている。更に夢を見ている自分は肉体ではないと既に自覚できていることも挙がっている。このように一日24...ディヤン・スートラの七つの段階-8

  • 老子狂言の格言1

    ◎確かなものが人間自体にないことを知ってしまったから人間は確かなものを求めざるを得ないダンテス・ダイジの老子狂言の続き。『巻頭言そこの横丁のタバコ屋のオヤジさん一ぴきの井の中のカワズだったぼくの超高級神秘力の眼で見てみたらあ奴が老子だったのさ・・・格言1○人間は確固とした何者かであろうとする人間とは欲望を自覚した分裂的な個生命体のことだ人間的な一体感は安心感を仮作するがその安心感ゆえに不安でもあることになる人間は確かなものを求めざるを得ない確かなものが人間自体にないことを知ってしまったからだ人間的安定は、絶対者の戯れと正反対の立場にある産みの苦しみは本当に産みの苦しみだ人間性は、完全な束縛を願い、そしてまた、あらゆる束縛からの解放を願う観念的であるということは現実的であることだ現実的行動派は実は余りに夢想...老子狂言の格言1

  • 老子狂言の巻頭について

    ◎水平の悟りを持ちながらカルマ「名」を生きるダンテス・ダイジの未公刊の韻文集『老子狂言』の巻頭について。まず生の側から極めるというのが、その求道の姿。そこで水平の悟りを持ち続けながら、波乱万丈の社会生活、私的生活を送るというのが、老子狂言本来の意義である。私は窮極を極めることなく老境に至ったが、その歩んできた道は、クンダリーニ・ヨーガや密教、錬金術、煉丹、古神道の「死の側から極める」ではなく、サービス業で精密に仕事をやり続けながらそれを道とする事上磨錬をベースに、老子的あるいは只管打坐的な「生の側から極める」人生行路だった。狂言というのは、生の夢幻性を心得て演ずるから狂言。『わが最愛なる妻ピット・インに』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)ダンテス・ダイジには三人の女性がいて、ノリーン、ピット・イン、ス...老子狂言の巻頭について

  • 人のからくり

    ◎神などと言っているうちは、ぜんぜん楽しくないのである(2021-12-23)今年も臘月八日の後は、ダンテス・ダイジ忌だった。ダンテス・ダイジ自身も存命ならば70代。彼に面識のある者もその年代周辺であって、社会的にはOBとなり、あまり影響力はなくなったと見られる。ダンテス・ダイジの教えで特徴的なのは、真理の社会性を相対的なものと見、いわばおひとり様宗教もありだと示したこと。覚者が必ずしも人格者や好々爺ではないことを示したこと。覚者の非社会性をことさらに強調して見せたこと。こうした真理自体の許容度を広げて見せた結果、一生を棒に振ったり、社会に迷惑をかける邪教がはびこったりというのは「ダンテスの悪影響」と称される。ダンテス・ダイジという覚者と直接の面識がなくとも、七つの身体論という人間像の相対化、あらゆる世界...人のからくり

  • ディヤン・スートラの七つの段階-7

    ◎感情の浄化-4感謝(2021-11-13)感情が純粋になれる4つの局面の4番目は、感謝。感謝とは神性である。OSHOバグワンは、「誕生に際して、あなたは意識的なはたらきかけをしたわけではない。誕生は自分自身の決定ではなかった。」と前置きをする。そして、我が肉体を感謝できない人は他人の肉体に感謝できはしない。人は、まず自分を作った空と大地に感謝しなさい。これを神聖なる感謝とよぶ。『この感謝なくして宗教的にはなれない。感謝しない人間が、どうして宗教的になれるだろう?この感謝を絶えず体験し始めたら、あなたは驚くだろう-この感謝はあなたを大いなる安らぎに満たし、大いなる神秘に満たす。するとあなたは、あることを理解する-自分は、こうしたすべてを与えられるに値しないということを。しかし、これらすべてを手にしているが...ディヤン・スートラの七つの段階-7

  • 現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている

    ◎欲望は、充足と苦悩というゲームの作り手なのだダンテス・ダイジの老子狂言は、巻頭に格言1が置かれ、老子狂言全体の意義の説明をしているのだが、ここに紹介するのは、格言2。老子狂言を最初に手にした時は、単なるアフォリズム集か、風狂の覚者の片言隻句というのはこういうものかという程度で、およそ何もわかっちゃいなかった。海外から戻ってきて、20年前にブログを始めて精神世界に関する理解が徐々に深まる中で、生の側から極める代表格が只管打坐であり、道元であり、老子であり、クリシュナムルティであることを知り、老子も改めて全文読んでみた。確かにダンテス・ダイジが老子の生まれ変わりと見た伊福部隆彦は、中年まで細君と不仲だったが、さるきっかけで老子的大悟をする。だがある日伊福部隆彦氏が、釈迦と背比べをしたら、自分の足は釈迦の胸の...現代人は、その知性ゆえに誰もかれも死の安らぎを願っている

  • ディヤン・スートラの七つの段階-6

    ◎感情の浄化-3快活さ(2021-11-12)感情が純粋になれる4つの局面の3番目は、快活さ。これは、喜び、幸福、歓喜、至福の感覚、そして苦悩の不在だ。これは、普通の人の考える快活さではなく、肉体死を既に問題にしない人の快活さである。毒杯をあおったソクラテスの言葉、『そして彼は言った。「わたしは幸せだ。死は、たったふたつのことしかできない—完全にわたしを破壊するか、しないかだ—もし死がわたしを完全に破壊するなら、わたしは幸せだ。なぜなら、悲しみを体験するわたしはそこにいないのだから。また、もしわたしの一部が残るとしたら、わたしは幸せだ。なぜなら、破壊されるのはわたしでない部分だからだ。わたしは依然として存続する。死は、たったふたつのことしかできない。だからわたしは笑っているのだ」。』(ディヤン・スートラ―...ディヤン・スートラの七つの段階-6

  • 中国バブルの夢の跡

    ◎中国不動産バブル解消100年と米中以下は、根拠も薄い個人の妄想である。30年前、日本のGDP約600兆円でバブルの不良債権約100兆円と言われ、これをほとんどの金融機関を破綻させずに30年かけて償却、解消しきったのは、金融当局と日銀、政治家の知恵の結晶だったと思うが、その結果国民の賃金は、30年間ほとんど上昇できず仕舞いだった。一方中国不動産バブルは、GDP約2000兆円で不良債権約2000兆円とも言われ(信頼できる統計がない)、実質破綻した不動産会社を延命させているため、ほとんど不良債権処理が進んでいないようだ。つまり実質破綻した不動産会社を延命させることにより、大手金融機関や融資平台(地方政府傘下のノンバンク)の破綻を避けているのだろうと思われるが、これでは、不良債権は増加する一方である。これを指し...中国バブルの夢の跡

  • 竹富島

    ◎星砂の地での命の悲しみ(2013-04-02)BSの民放で世界の旅番組をやることが多い。おかげでヨーロッパの古城は行ったこともないのにかなり観光させてもらったような気がする。その中でもハプスブルグ家の城砦のように、言霊による繁栄という点では徳川家の天海僧正なみのオカルティストが助言を行っていたに相違ないと想像が膨らんだものもある。沖縄の島々もリアルで行ったことはないが、実際の駆け足観光では見れない風景、光景を取材してくれるのでありがたい。その中で竹富島の放送があった。浜には星砂。島全体がサンゴ礁で、広東や四川や山水画で見られるような丈の低い牛を追って、白いサンゴかなんかで敷き詰められた道をシャリシャリと足音と共に進む情景が印象的であった。竹富島はトイレも石造り。もう40年も前のことだろうか、ダンテス・ダ...竹富島

  • ディヤン・スートラの七つの段階-5

    ◎感情の浄化-2慈悲(2021-11-11)感情が純粋になれる残り4つの局面の2番目は、慈悲。人生はただ生きるだけでも非常に困難なものであり、人はいつ死ぬかもわからないが、生き、愛し、多くのものを作り出し、出会った人とは別れ、愛した人や愛したペットとも別れる。そうしたものすべてへの共感、同情は、慈しみであり、悲しみである、これを慈悲という。(OSHOバグワンは、幾つかの例を出して説明しているが、いまひとつしっくり来ない印象。)mercyという言葉もあるが、いっそ悲しみ、命の悲しみの方が慈悲の本質に近いのではないか。ダンテス・ダイジは、竹富島で自殺した友人の霊に一緒に死んでくれと求められ、直ちに首をくくって死んだ。その時、「その友人の人間の果てにある孤独感を理解した」。それが命の悲しみ、慈悲。ディヤン・スートラの七つの段階-5

  • 逍遥訣解読-3

    ◎無何有郷=どこにもない場所(2018-07-26)太乙金華宗旨の逍遥訣から『第七句そして奥義中の奥義をしめす一句がある。第八句どこにもない場所こそ真の家である。(無何有郷は是れ真宅なり)』呂洞賓の解説では、この二句は、訣中の訣、つまり核心である。常にこれから離れてはだめなもの。いわゆる心を洗い、想念を浄化し、沐浴を行うことである。沐浴こそは、大周天の奥秘である、と。沐浴は、太乙金華宗旨の文中に3箇所出てくるが、逍遥訣以外のもう一箇所は、第十二章周天。第十二章周天では、周天とは気をメインにするものでなく、心で到るもの。周天とは、(もともと動くものへの)サポートであり、無心にして守り、無意にして行う。更に薬とは有形のものでなく、性光(本性の光)であって、先天の真気であり、これは大定という深い瞑想の境地におい...逍遥訣解読-3

  • ディヤン・スートラの七つの段階-4

    ◎感情の浄化-1友愛(2021-11-10)OSHOバグワンは、感情を4区分する。感情が純粋になれる4つの局面とは、友愛、慈悲、快活さ、感謝。それぞれの反対語である不純な局面とは、憎しみ・敵意、冷酷さ・暴力・不親切、惨めさ・苦悩・不安、恩知らず。不純な局面は常に外側、外面に焦点を向けているのに対し、純粋な局面は自分の内側から流れ出る。また純粋な感情は実存の一つの境地、逆に不純な感情は歪み。以上が感情の全体論。これに対して、局面別の説明が続く。最初は友愛の説明だが、愛と友愛の違いにはあまりこだわっていない。人生にはごくごく些細なこと、非常にささやかなことが無数にある。この中に友愛と愛の中枢を目覚めさせるチャンスが広がっている。そこで毎日何の見返りも求めないことを一つか二つ必ず実行する。そうすると自分の内側に...ディヤン・スートラの七つの段階-4

  • 釈迦の弟子ヴァッカリの自殺

    ◎罪なくして臨終を(2011-04-09)長老ヴァッカリは、陶器づくりの者の家で、重病に伏し、困窮していた。彼は一度でいいから釈迦の足を頂礼したいという願いを持っていた。ヴァッカリは強い痛みにさいなまれていた。一日、釈迦はヴァッカリのところを訪問し、ヴァッカリが「もの、感受、想念、因果的存在、心(五蘊=色・受・想・行・識)は永遠に無常である」と見ていることを確認し、そうなれば、再びこの世に生を受けることはないとアドバイスした。翌朝釈迦は、イシギリパッサ・カーシラー山に居たヴァッカリのもとに比丘をやって、「おそれるな。ヴァッカリよ、おそれるな。おまえの死は罪に汚れてはいない。罪なくして臨終を迎えるであろう」と伝言させた。この使いの比丘が立ち去ってまもなく、ヴァッカリは、刀をもって自殺した。戻ってきた比丘の報...釈迦の弟子ヴァッカリの自殺

  • ダライ・ラマ例外的なケースで自殺を認める

    ◎自殺を絶対的に罪だとするキリスト教とは違う仏教者は、釈迦が弟子ヴァッカリの自殺を例外的に認めたケースがある。ラマ教のダライ・ラマも同様に例外的なケースで自殺を認めている。『極限状態の中で、自殺は許されるしかしながら、自殺はなべて悪であるとは言い切れない。ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない。最近、私はある親しい友人、チベット人の友人と語り合った。話題はチベット動乱の後、私がインドへ亡命した一九五九年以後のチベットのことに及んだ。彼には長く親しんできたラマ僧の友がいた。ひじょうな大食漢であったそのラマ僧は、とてつもなく肥満していたそうなのだが、毎日、少なくとも五〇個もモモ(皮の分厚い、肉と野菜のチベット餃子)を食べ、一キロもの肉を食べ、巨大...ダライ・ラマ例外的なケースで自殺を認める

  • 逍遥訣解読-2

    ◎天上に遊び帰って行く(2018-07-24)太乙金華宗旨の逍遥訣から『第五句水中にそよ風が吹く第六句天上(中心太陽)に遊び帰って行き、死の世界の至福(坤徳)を味わう。』呂洞賓の解説では、この二句は、7チャクラ(北斗七星の柄)と昇降のすべてのプロセスを説く。水中とは坎である。目がそよ風(巽風)のこと。目光が坎宮に照らし入り、太陽の精を摂召するとはこのことである(坎=水。水の卦は陰陽陰で成り、陰に挟まれた陽が太陽の精)。天上とは乾宮(サハスラーラ)のこと。『遊び帰って行き、死の世界の至福(坤徳)を味わう。』とは、精神エネルギーが気の中に入り、天が地の中に入り、火を養うこと。「天が地の中に入り」についてOSHOバグワンは、神があなたのもとに既に到達した状態と読む。ここであなたは消え失せた、と。結局、7チャクラ...逍遥訣解読-2

  • ディヤン・スートラの七つの段階-3

    ◎思考(マインド)の浄化(2021-11-07)現代人のほとんどは金かセックスか権力について始終考えている。これをOSHOバグワンは不純な思考に分類し、この周辺に嘘をつくことや不正をやることが位置するとする。一方彼は、純粋な思考の焦点とは、真善美だとする。不純なマインド(思考)のままでは、光明を得られない(悟れない)。そしてマインド(思考)は、行動の源泉であるから、不純なマインド(思考:金、セックス、権力)は、不純な行動となり、純粋なマインド(思考:真善美)は、純粋な行動となる。ここで彼は、行動する前にその行動は真善美に沿っているものか考えなさいと言う。だが、素直にそうしようとする人なら、自分は真理が何かを知りもしない、自分は善とは何かを知りもしない、自分は美が何かを知りもしないと感じるものだ。だが、その...ディヤン・スートラの七つの段階-3

  • ディヤン・スートラの七つの段階-2

    ◎身体の浄化(2021-11-05)最初の段階の「身体の浄化」とは、次のようなものである。1.身体の障害やブロックやしこりをなくする。2.今の身体の持っているブロックやしこりをとるために、人に見られることのない林の中などで、身体のしたいことをするがままにさせる。それは、想像上の敵を殴ることだったりする。これにより、古いしこりやブロックを解放し新しいブロックが育たないようにする。OSHOバグワンは、ここで原理を説明する。まずあなたは怒っているとする。怒りのエネルギーすべてが、(例えば胃や足や両手の)筋肉の収縮に使われていると想像し、怒りのエネルギーすべてを筋肉の収縮に投入する。すると不思議なことに1、2分後には怒りは消えている。これこそ怒りという心的エネルギーが筋肉の収縮エネルギーに転換されたもの。この転換...ディヤン・スートラの七つの段階-2

  • がんばろう大阪万博2025

    ◎いろいろ言われているシンプソン予言大阪万博が2025年4月13日(日)からほぼ6か月間開かれる。二言目には、どうしてシンボルがあのみゃくみゃくなのかと、みんなが口を揃えて不審に思う。シンプソン予言は、的中率87%とも言われ、注目されている。大阪発のパンデミック予言は、OsakaFlu(大阪風邪Simpsons、Season4、Episode21)と言われ、以前は新型コロナを予言したシンプソン動画として注目されていたが、シンプソン動画ほどの致死率ではなく、大阪発ではなかったので、はずれ予言として今は忘れ去られているようだ。ところが、https://www.youtube.com/watch?v=l-gXR_JTGNk&t=56sこれを見ると、病原体は大阪から世界中に宅配便で運ばれ、空気感染で、致死率は高い...がんばろう大阪万博2025

  • プレアデスの7姉妹

    ◎第一身体のシンボルとしてのシーシュポス(2010-11-20)ギリシア神話によると、巨人アトラースとニンフのプレーイオネーの間には、プレイアデスの7姉妹(アステロペー、メロペー、エーレクトラー、マイア、ターユゲテー、ケライノー、アルキュオネー)があった。このうち、マイア、エーレクトラー、ターユゲテーは、ゼウスと交わって子を産んだ。特にマイアは長女であって、ヘルメスの母となった。ケライノー、アルキュオネーは海神ポセイドーンと交わって子をなした。ステロペーは、軍神アレスと交わってオイノマオスを産んだ。メロペーは、ただの人間であったコリントスのシーシュポスと結婚したので、天上の星座に加えられることはなかった。シーシュポスは、冥界で、一個の巨大な岩(太陽を暗示する)を山頂までころがし上げ、もう一息で山頂に着こう...プレアデスの7姉妹

  • 西洋には一生を夢で見て求道に入る寓話がない

    ◎キリスト教では「自分は罪人だ」から始まる西洋には高粱一炊の夢のような一生を夢で見て虚無を感じ求道に入るというタイプの寓話がない。これは、キリスト教の神へのアプローチの第一歩が「自分は罪人だ」という自分に対するネガティブ方向への自覚から始まっているせいなのだろうと思う。「自分は罪人だ」「自分は罪人だ」と繰り返すことで、自意識に対する圧力をかけ続け、その圧力が極点に達したところで破裂させ、神人合一に至らせる。キリストの求道プロセスの根幹はそういうところではないだろうか。だからゾイゼみたいに肉体を苛める苦行まである。現代人のように一生をライフ・プランでシミュレーションして、最後に死ですべてを失うという、一生全体の虚無性を人生の最初に見せてしまえば、もっと自然に冥想修行に入って行ける。一方「自分は罪人だ」から始...西洋には一生を夢で見て求道に入る寓話がない

  • 積善陰徳したその後

    ◎社会的成功と巨額寄付、だが死はすべてを奪うこと嘘を言わない、善い事をする、悪いことをしない。そういう禁欲的な日々の積み重ねの結果、過去の悪業、悪因縁は徐々に払拭され、お金はたまり、結婚相手にも恵まれ、子孫も繁栄し、畳の上で大往生し、死後は、天国極楽に行く。大学生の初期は、そいう人生観、世界観を当然のものとして信じていた。ところが先日笹目秀和の『ストップ・ザ・富士大爆発相楽予言に挑戦!人類の業障と因縁を解く/笹目秀和』を読んでいたら、貧困卑賎の一男性が、北京で屋台から始めて一流レストランを成功させた話がでてきて、彼がたまった財産の半分を紅卍会に寄付したことが大変な善行を積んだみたいに書いてあった。これは、勤勉な世間的成功者に宗教教団が巨額寄付を募る話であって、本人の大悟覚醒とは、ほとんど何も関係ない。そこ...積善陰徳したその後

  • 逍遥訣解読-1

    ◎日月合体のプロセス(2018-07-23)昨夜は、戸外の気温が遂に30度を下回らずに終わった。25度以上は熱帯夜というが、来るところまで来ている感がある。火力文明の末路は、風水火の威力を目の当たりにするのだろうと思う。海水面の上昇は、埋め立て地や海浜都市の放棄につながっていくことは、科学者が予想していることであり、似非オカルティストの大予言などではない。太乙金華宗旨は、気を回していく初めはこうなって、その次はこうなってなどという初歩や中間段階の説明はほとんどない。いい線を行っているケースに関してのメタファーと、最終段階についての解説ばかりであり、ちょっとかじりたいアマチュアに呈示できる情報とすれば、これが限度と思える。OSHOバグワンの「黄金の華の秘密」は、英訳で読んでいるようなので、(易経・八卦の素養...逍遥訣解読-1

  • 神人合一の実感を語る-7

    ◎一瞬間を梅毒病みの娼婦として生き(2021-11-29)ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『私は一瞬間を聖クリシュナとして生き一瞬間を梅毒病みの娼婦として生きた梅毒の苦痛が陣痛と出産の苦痛であり性愛の享楽が聖者の清らかな解脱であるそしてすべては去ることもなく去りまた来ることもなく新しい生涯が来る止まることのない生々流転よ私は生々流転のあったためしのないここでゴーヴィンダ・クリシュナの美しい横笛の音を奏でる今でない今、ここでないここで私はクリシュナとして生きクリシュナとして死んだ』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120-121から引用)※ゴーヴィンダ・クリシュナ:牛飼いのクリシュナこの詩の劈頭は、クリシュナとして生き、クリシュナとして死にたいから始まっているので、それを受けた形。...神人合一の実感を語る-7

  • 神人合一の実感を語る-6

    ◎私は私自身の中を旅し続けている(2021-11-28)ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『精神の広大さも物質宇宙の戯曲も私には何のかかわりもない私は私の冥想の旅を続ける旅は方向をもって続けられるがその旅は私に理由のない確信を与えても決してどこかに行き着くことはない私は私自身の中を旅し続けている』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP120から引用)未知の虚空にもともとありもしない手と足とを放ち去ったので、精神の広大さも物質宇宙の精妙にも全く関わりなく生きている。生と死をフル・コートとした冥想の旅は、『今でない今、ここでないここ』であるが故に、いつまでも終わることはない。その全体を確信してはいるが、今でない今、ここでないここであるから、終着駅にたどり着くことはない。今でない今、ここでな...神人合一の実感を語る-6

  • 痛みや苦しみを忘れようとする人、打ち破ろうとする人

    ◎無意識から意識へ、冥想の道人間の覚醒のためには、未だに先入観と抑圧が必要な時代。不条理・理不尽で人を追い込むと、意識と無意識のせめぎ合いが起こる。苦しいけれどそこで飽くまで意識を持ち続けると意識が全体に広がる瞬間がある。それが大悟覚醒。痛みや苦しみを忘れようとすることは、一種の無意識だ。人は一日二十四時間、痛みや苦しみを忘れる方法を探している。内側に多くの痛みや苦しみを抱えていることを忘れるために、人と話したり、音楽を聴いたり、酒を飲んだり、トランプをしたり、かけ事をしたり、モバゲーをしたり、自分を忘れられるような何らかの悪さに熱中したりしている。人は一日二十四時間、自分を忘れる方法を探している。見れば怖いから、あなたは痛みも苦しみも見たがらない。だから、ありとあらゆることをして痛みを忘れ、苦しみを隠す...痛みや苦しみを忘れようとする人、打ち破ろうとする人

  • ディヤン・スートラの七つの段階-1

    ◎サマーディとは神になること(2021-11-04)サマーディへの七段階などというと、あたかも三昧というものが、個人的体験の一つであって世間でも共通認識のあるテクニカル・タームであるように誤解されがちである。ところが、サマーディとは、神になること、仏になること、宇宙意識になることであり、七つの身体論でいえば、第六身体と第七身体。つまりサマーディ以前とサマーディ以後には連続性はないのだ。『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』は、三日間の瞑想初心者向けの冥想合宿での講話。OSHOにしては、飽きないで体系だって説明しているところは珍しい。こういう真面目な語り口の講話は、1970年代や世界逃亡開始以後のウルグアイ以後に多い印象がある。さて『ディヤン・スートラ―瞑想の道/OSHO』に出てくるOSHOバグワンの説...ディヤン・スートラの七つの段階-1

  • 神人合一の実感を語る-5

    ◎死:もともとありもしない手と足とを未知の虚空に放ち去ろう(2021-11-27)ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『私達はこの世では狐独であり続ける私達の眼は私達の故郷を見知らぬものとして眺め私達の家族を初めて見るこれは私達の眼がかすんだゆえではない私達の眼がより透明になったせいだ何もかもが常に未知なものとしてあり何もかもが常に新しい何もかもが未知な新しさであれば私達の脳髄は尽虚空中に砕破する死は何と私達の身近かにあったことだろう最も身近かな死だけが人類の唯一最大の教師だ手足を放ち去ろう未知の虚空にもともとありもしない手と足とを』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP119から引用)※尽虚空:顕れない宇宙全体。神人合一の実感を人間の側から語るとこのようになるだろうという叙述。ここで言...神人合一の実感を語る-5

  • 神人合一の実感を語る-4

    ◎一刹那を神の御意のままに生き死ぬ、神人合一(2021-11-26)ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『一刹那の生涯でよい神の御意のままに生き神の御意のままに死にたい一刹那の神の御意はすべての生命達の生涯とすべての生命達のそれぞれの宇宙であった神のみが終対無の中に久遠の安住を続けあくび一つも神には無縁だ私は私という心身の異郷の客であり何一つとして私のかつて見知った事柄はないこの悲しみが人間に理解できるだろうか』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP118から引用)『一刹那の神の御意』こそが神人合一の瞬間。この時、神には久遠の安住なる至福、実在・智慧・歓喜(サット・チット・アーナンダ)の充溢だけがあり、あくびのような個なる弛緩はない。だが、ここに我が身に還えれば、『私は私という心身の異郷...神人合一の実感を語る-4

  • 冬の日や馬上に凍る影法師

    ◎孤舟蓑笠の翁、透徹した孤独感を生きる豊橋から渥美湾に沿って田の中に細い道があったが、これを天津繩手と言い、不遇な友人を思う芭蕉の句二人見し雪は今年も降けるか芭蕉(大意:去年は配所にあって不遇の君と二人で見たあの天津繩手の雪はまた今年も降っているだろうか?)そんな感慨も漂泊の旅人として、やや力んで暮らす自分がある。月雪(つきゆき)とのさばりけらし年の暮芭蕉(大意:花鳥風月と一年中突っ張って生きたことよ、年の暮れ)(1686年作、『あつめ句』所収)さらに冬の天津繩手でもう一句。あまつ縄手は、田の中に細道があって、海から吹上がる風がとても寒い所。冬の日や馬上に凍る影法師芭蕉これは、山水画の孤舟蓑笠の翁の姿であって、透徹した孤独感を生きる覚者の姿であって、『さび』の極み。雪国の今度の冬は雪が多い。冬の日や馬上に凍る影法師

  • 神人合一の実感を語る-3

    ◎快楽は苦痛の種となり、老衰と病のない健康もない(2021-11-25)ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『ソロモン王の英知がソロモンの栄華と幸福を実現しそして又ソロモンの英知がその英知ゆえに愚迷のうちに滅亡したように死のないどのような生もあり得ない愚かさを持たぬどのような智慧もなく安心のある所に不安があり愛のある所に憎悪が勇気のある所に恐怖が幸福のある所に不幸があり快楽は苦痛の種となる老衰と病のないどのような健康もあり得ぬように善は悪とともにいつもあり宿善の功徳は天人の天国を実現するがその天人にも五つの衰亡を避ける手だてはない』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP117-118から引用)夢の宇宙はあのように戯れ続け、人は人である以上、この世を天国的に生きようと希求し努力もする。地上...神人合一の実感を語る-3

  • 神人合一の実感を語る-2

    ◎夢の宇宙はあのようにも戯れる(2021-11-18)ダンテス・ダイジ-『今でない今、ここでないここで』の続き。『無限の中には時間も空間も因果律も存在していない無限の中に宇宙の果ては私の小指の長さにあり千億光年の天体生命の光茫が私の肉体の心臓の一鼓動とともに生まれ来たり滅び去る熟したリンゴの樹の果実が地面から枝へと昇る神の絶対無の中に夢見続ける宇宙夢の宇宙はこのように戯れ夢の宇宙はあのようにも戯れる』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP116から引用)無限という言葉は日常感覚で問題にする人は少ない。その実感が『時間も空間も因果律も存在していない』であって、それを敷衍したのが、宇宙の果ての長さが小指だったり、遠距離の辰星が鼓動とともに生滅するということ。世界樹は、根を上にして、枝葉、樹冠を下にする。林檎の実が...神人合一の実感を語る-2

  • 神人合一の実感を語る-1

    ◎ダンテス・ダイジ-今でない今、ここでないここで(2021-11-17)神人合一した人物がその境地を語ることは、時に沈黙だったり、片言隻句だったり、短歌だったりするのだが、ダンテス・ダイジは、韻文で残してくれている。『今でない今、ここでないここで一刹那の生涯でもよいクリシュナとして生きクリシュナとして死にたいあらゆる演戯を越えた―つの戯れ根本無明の演戯がなければ神は神自体を観照することができぬ根本無明のこの移し世が神自身の唯一の演戯道場神は人間の作り出したどんな思想の中にも宗教の中にもいない人間自体の死の虚無性が人間からすべてを奪い人間をも奪う』(絶対無の戯れ/ダンテス・ダイジP115-116から引用)ダンテス・ダイジの前世の一つはインドの神人クリシュナとして知られるが、戯れる者、マーヤの演技者としてクリ...神人合一の実感を語る-1

  • Dream Truth

    ◎あらゆる個生命達の、夢と真実と愛のストーリーダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言から。『DreamTruthこの世のあらゆることには、完成ということがない。それは、時計が回るように回帰する。人生それは、また時計のように成熟し得る。時計には、個生命としての生老病死がある。あらゆる個生命達の、夢と真実と愛のストーリー。THISISDREAM-TRUTH.』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)私が18歳で東京に出てきた時、初めて三重複線の電車を見て、その壮観に驚いたものだ。回帰と言えば、人は何回かの輪廻転生を経て、ニルヴァーナへの突入あるいは神人合一をイメージする人が多いかもしれない。上掲『時計が回るように回帰する。』について、今の私が見る限り回帰には、三重の回帰がある。一つは、始まりはダンテス・ダイジ自...DreamTruth

  • 生者の霊衣と生死

    ◎病気回復と左翼系、共産主義系出口王仁三郎の霊衣の説明。霊衣とはアストラル体のことなのだろうと思うが、生者の霊衣は丸く、死者(亡者)の霊衣は三角ということで、死んでも残るボディということでもあり、第三身体アストラル体が霊衣なのだろう。出口王仁三郎は、霊衣の厚い薄いと、形の円いのか三角なのかで病人が回復するかどうかを見るという。病気は、第二身体エーテル体(気)の要素もあるはずだが、ここではほとんど論じていない。(肉体⇔エーテル体⇔アストラル体相互に呼吸がある)彼は、大病人であっても神徳ある人が神恩を謝し、神の大恩を忘れず生きれば、病気も本復し再生するが、神恩を忘れた瞬間に霊衣をはぎ取られ死亡するとする。これはすさまじい。さらに、神に反対したり信仰者の妨害をする人は、霊衣は薄くなり、形は三角になっていくものだ...生者の霊衣と生死

  • 雪の朝に干した鮭を食べる

    ◎貧しいことも孤独なことも、本当には何の問題もない子供の頃、トバと呼ばれる干した鮭を食べたことがあったが、子供の味覚のせいかおいしいと思ったことは無かった。トバは、固くて噛むのが大変だ。芭蕉37歳、深川での句。リッチな家では上等な肉を食べ、若者は菜っ葉や大根を食べる。しかるに私のような貧乏人は、雪の朝独り干鮭を噛み得タリ(ゆきのあしたひとりからざけをかみえたり)まさに芭蕉37歳で深川に仏頂和尚に参禅。仏頂和尚「青苔がまだ生えないで、春雨がまだやって来ない時はどうする」と問うた。その時ちょうど一匹の蛙が庭の古池に飛び込んだ。芭蕉「蛙飛び込む水の音」と答えた。この時、芭蕉は大悟した。以後透徹した孤独感とそれでも全く問題ない自分という二重の生活実感を生きることになる。この干鮭の句には、禅僧趙州が椅子も買えないで...雪の朝に干した鮭を食べる

  • 全人類が滅亡之境に至ったが

    ◎どう手段しても全部を救うことが難しい朝鮮の神人姜甑山が、東洋と西洋は甚大なパンデミック被害の結果、ようやくバランスが取れるようになるとする。だが、そのパンデミックは、先般の新型コロナの比ではない致死性の高いものであるという。やがて病劫は避ける間もない洪水の様にやって来るので、彼は弟子たちに武道・戦闘ではなく、医学を学ぶことを勧めている。姜甑山は、全人類(天下蒼生)が滅亡之境に到りつつあると言われていても、誰も少しも悟ることができず、この末世に目先のことに没頭するばかりなので、どうして哀惜しないで居られようかと、慨嘆している。今後のパンデミックでは、寝ていても死に、食事中でも死に、往来する途中で死んでも弔うものが無く、死体を三ツ刃の鋤で引っぱり出す暇もなく、履物をまともに履くことさえ出来なくなって、茫然自...全人類が滅亡之境に至ったが

  • 瞬時に勝敗が決まるので、戦争は将来できなくなる

    ◎ミサイルとドローンが主力の戦争からウクライナ戦争は、現代戦がミサイルとドローンが主力の戦争であることを世界が思い知らされた。首相官邸の屋上にドローンがしばらく落ちていたのに気がつかなかった日本は、相変わらず岩国基地や最新艦艇の上をドローンが飛び放題の能天気ぶり。そうは言っても、根本は核戦略であり、地域限定戦術核の応酬が、直ちに全面核戦争に拡大していくメカニズムが最重要であることは変わっていない。ところが、出口王仁三郎と同時代の朝鮮の神人姜甑山が、『今、西洋から渡って来た武器の暴威の前にはこれ迄の経験は役に立たず、瞬時に勝敗が決まるので、戦争は将来できなくなるであろう。』(回天の聖者/姜甑山先生顕彰会P276から引用)と述べている。これは、全面核戦争は始まれば全世界壊滅まで数時間しかかからないと予想されて...瞬時に勝敗が決まるので、戦争は将来できなくなる

  • 胃ガンで死んだブッダ

    ◎アパナーナ・サティ・ヨーガ、ヴィパッサナーダンテス・ダイジの未公刊詩集「老子狂言」から。『胃ガンで死んだブッダかつてインドに生まれて死んだ釈尊のアパナーナ・サティ・ヨーガという冥想道は、それはそれで完結していて余りにも美しい。「ただ出る息、止まる息、入いる息、止まる息・・・それをそれと自覚し、これをこれと見守るのみ。あるいは、それをそれと、これをこれと聞き入る、聞き守るといってもいいだろう。」たしか、釈尊は胃がんで死んだ。』(老子狂言から引用)釈迦は、アパナーナ・サティ・ヨーガ(ヴィパッサナー、呼吸覚醒)を極めて大悟覚醒した。釈迦は、性愛冥想(カーマ・ヨーガ)の道は、その困難さからか忌避したらしい。アパナーナ・サティ・ヨーガは、やり方が単純であるせいか、発狂しやすいとも言われる。冥想修行は、精神をいじる...胃ガンで死んだブッダ

  • 何秒間呼吸を意識し続けられるか

    ◎ヴィパッサナー秘伝(2019-12-16)ヴィパッサナーは呼吸覚醒と言い、呼吸を意識し続ける冥想法。これは、呼吸をしながら、呼吸を意識し続けるということで、窮極のながら冥想法。ながらを強いるのは珍しい。OSHOバグワンは、相当に醒めている一般人であっても、6秒以上呼吸を意識し続けることはできないと言う。OSHOバグワンによると、息が入り、息が出ていく。そこには息のない隙間が2種ある。一番目の隙間は内側、二番目の隙間は外側。息が入り息が出る。この間が一番目の隙間。息が出て息が入る。この間が二番目の隙間。二番目の隙間を意識する方がより難しい。OSHOバグワンは、第一番目の隙間に自分の中心、宇宙の中心がある、これは人の内なる中心。第二番目の隙間にも宇宙の中心がある。これは人の外側の中心。最初に内なる中心に気づ...何秒間呼吸を意識し続けられるか

  • 流浪者の故郷 STRANGER IN THE STRANGE LAND

    ◎最高峰を表現する(2016-03-18)ダンテス・ダイジの未公刊詩集「老子狂言」から『流浪者の故郷STRANGERINTHESTRANGELAND我れこの異郷にありて見知らぬ旅人となり恋がれる故郷を忘れつつある神は神の意志自体で、私に現れ、あるいは一つとなる!私にはなすすべがない・・・私があらゆることどもを可能にできたとしても・・・』(老子狂言から引用)故郷は個人であり、異郷は神である。神人合一にあって、そこは異郷と表現される。ここでは得意の「未知」や「見知らぬ」という言葉は出てこないが、想像される景色は同じだ。「神は神の意志自体で、私に現れ」とは、如来という語感そのものだ。そして神にありては、「忘れつつある』。本当に「今ここ」にあるということは、この絶対的な孤絶感、言葉にできない未知に満ち満ちているこ...流浪者の故郷STRANGERINTHESTRANGELAND

  • ミステリーかな純文学かなSFかな

    ◎闇の秘密の岩石よダンテス・ダイジの未公刊詩集「老子狂言」から『ミステリーかな純文学かなSFかな七つのステップの欲望七つのステップの欲望七つのステップの欲望吉凶禍福ロック・アンド・ビート欲望の消えるビート意識のサエルビート闇の秘密よロック闇の秘密の岩石よ岩石の生よ、岩石の死よ!』(老子狂言から引用)人間が宇宙全体となったり、人間が苦しんだり足掻いたり、あまりの歓喜に呆然となったり、何もかもないことに気づいたり等々いろいろあるが、そういう極大と極小、あるいは夢と現実、それも夢だったということが、上掲『ミステリーかな純文学かなSFかな』。こうした悲喜こもごもの人間ドラマと宇宙ドラマは、七つのステップの欲望からすべて展開していくのであって、通俗的には吉凶禍福という見方もできる。七つのステップの最初の方では、欲望...ミステリーかな純文学かなSFかな

  • I AM NOT POET

    ◎果てしなく続く欲念のリィンカネーション(2016-12-11)ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言から。『IAMNOTPOET私は、詩人でもないのに詩人にされ私は、著述家でもないのに著述家にされたすべては詩でもあるかもしれないウグイスの鳴き声も、海ヘビの泳ぎも、詩そのものかもしれない“すべては”という一つのパラノイア存在・神・全知全能への欲望果てしなく続く欲念のリィンカネーションそしてそれとなった時なき時』(老子狂言から引用)私は、人間ではないのに人間として生まれ・・・・。この時代に人は、自分の抱く欲望が、その欲望がたとえ実現したとしても、一時的、部分的、限定的なものであることを知っている。でもって欲望にはこんなのがある。厄除け、家内安全、商売繁昌、健康長寿、交通安全、試験合格、金運上昇、恋愛成就、美...IAMNOTPOET

  • 室伏広治ハンマーを磨いて金メダルを取る

    ◎心と体がハンマーと一体になるハンマー投げの室伏広治は、ある時からハンマーを磨き始め、ハンマーと向き合い、ハンマーの気持ちになることができるようになった。やがて心と体がハンマーと一体になるようになって、それから記録がどんどん伸びるようになって、ついに2004年アテネオリンピックで金メダルを獲得できた。彼は、練習の終わりにいつも5分間ハンマーを磨いていたという。禅の世界では、瓦を磨いて鏡にすることで悟りを開こうとした南嶽がいる。それを見て馬祖が「瓦を磨いても、鏡などできないでしょう。」と問うた。南嶽、「それならば、坐禅してどうして仏になれようか?」と返されて、馬祖は何も言えなかった。禅では、一人の僧が御簾を巻き上げるのはダメとされたが、別の僧が御簾を巻き上げるのは可とされた。同様に坐禅中にある僧が居眠りして...室伏広治ハンマーを磨いて金メダルを取る

  • 古事記でも人類生き残りは、三分の一

    ◎古事記黄泉平坂の戦いの内容は現実化する古事記で伊邪那岐命は、最終戦争・大峠である黄泉平坂の戦いの最後に、伊邪那岐命は、巨大な岩で道をふさぎ、岩を挟んで伊耶那美命は、一日千人取り殺すと言い、伊邪那岐命は、一日千五百人産むと言った。ここは文字通り読むのではなく、全体で千五百人いるところ、その三分の二の千人が殺され、三分の一の五百人が生き残ると、シンボリックに読むのだろう。このように古事記でも、最終カタストロフィにおける人類生存率は三分の一と予言されている。古事記は予言の書と言われ、出口王仁三郎は、終わりの時代に、上つ巻の内容はすべて現実化すると予言している。人類の生き残りが三分の一ということを説くのは、ダンテス・ダイジ、ブルガリアの予言者ベラ・コチェフスカ、出口王仁三郎、そして古事記とあるが、ババジ予言は更...古事記でも人類生き残りは、三分の一

  • オカルチック・ソネット

    ◎私は神秘な恋の囚人だ、牢獄は私自身ダンテス・ダイジの未公刊の詩集老子狂言から。オカルチック・ソネット。『オカルチック・ソネット私の歌をわかってくれたたった一人のマーヤ。求めて尽きることのない情熱よ。しなやかな美しさを秘めたおまえ—私自身よ。私は神秘な恋の囚人だ。牢獄は、私自身。おおマーヤよ、マーヤよ。帰しておくれおまえの何ものかのもとへ。今や、私の情熱は尽きんやもしれぬ!?』(老子狂言/ダンテス・ダイジから引用)OSHOバグワンによれば、釈迦は、臨終直前まで第六身体アートマンに留まり、臨終時にようやく第七身体ニルヴァーナに入ったという。これをマハパリニルヴァーナ(大涅槃)と呼ぶ。よって釈迦が生前悟り(ニルバーナ)について説いたのは、ニルバーナの外側にいて、ニルヴァーナについて語ったものだと、OSHOバグ...オカルチック・ソネット

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