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  • 今日の一枚(激突)

  • 昭和の思い出(麻雀)

    下宿で流行った。誰かの部屋のホーム炬燵の上板の裏が麻雀台になる。少し覚えて仲間に入った。もちろん弱い。それ以上に姿勢が一定で数時間費やすのがつらい。根気が続かないが一周するまでは抜けられない。点数もまともに数えられず、負け戦が続いた。サラリーマンには必須科目とのことで、これ...

  • 昭和の思い出(ボーリング)

    下宿したころボーリングがブームとなった。1ゲーム300円と高価だった。当時の人気ボウラー、中山律子。スターだった。そして須田代子、並木恵美子。下宿屋の仲間といった。ボールも靴も借りる。ボーリングがプロのようにカーブがかけられない。当時は下手だからと思っていたが、ずっと後でボ...

  • 昭和の思い出(ファンシーケース)

    4畳半の下宿に置いたものにファンシーケースがある。軽いのと簡単な作りで流行った。机と小さなタンス以外何もないところにむき出しで壁に服をかけていた殺風景な部屋を少しでも豊かな気分にさせようという努力だ。しかし部屋も狭くなるしビニール製で通気もよくないのであまり好きではなかった...

  • 昭和の思い出(煉瓦の塀)

    駅近くにクレー工場があった。そこでは石を砕いてクレー粉を作っていた。工場の周りにはクレー粉の山があった。そこに勝手に入り込んで遊んだりした。クレー工場は道から覗けて大人の背の高さを超えるほどの大きな石のローラーがメリーゴーラウンドのようにぐるぐる回っていた。その工場が不景気...

  • 昭和の思い出(マミヤ6)

    小学6年の頃、父がマミヤ6を持ってきた。家で初めての写真機だ。子供の写真や運動会でとった。高校に入ったころ主に自分が使うようになった。友人との写真を幾枚かとった。6X6版でとれる枚数が少なく経済的ではなかった。いつのまにか飽きて2年の秋、修学旅行でみんな一眼レフをもっていた...

  • 昭和の思い出(洋画)

    下宿するまでは自主的に映画館にいくことはなかった。自由になる金がないことがひとつ、そして映画そのものに関心はなかった。下宿屋の同居人がカークダグラスのスパルタカスがお気に入りで何度も見たという。そこで映画館に行った。確かに面白かった。それからフーテンの寅第一作、第二作とみた...

  • 昭和の思い出(甘酒)

    田舎の家では毎年甘酒を作っていた。スーパで売っている甘酒の味とは違う。北側の廊下に白い米麹が台の上に広げてあった。つまんで食べると甘い美味しい味がした。甘酒は布団でくるまれた容器(何だったか思い出せない)に入れられて数日置かれて出来上がった。最初は甘い味がだんだん変わってあ...

  • 昭和の思い出(チューブ入りチョコレート)

    突然チューブ入りのチョコレートを舐めていたのを思い出した。チョコレートが高価だったころだ。検索してみると古い時代からあったものらしい。駄菓子屋で買ったのだろうが、一度か二度のことだろう。忘れていたことをふと頭を横切ることがある。懐かしい気分だがすぐに消え去る。 今日の一枚(...

  • 昭和の思い出(百面童子)

    小学の時、町の映画館に連れられていって見た映画だが、ストーリーは全く覚えていない。唯一残っているのが最後のシーン。百面童子が火あぶりにされて、顔がどんどん変化していく。この続きも別の機会に見たが、内容は思い出せない。検索してストーリーをみても記憶はない。東千代之介という当時...

  • 昭和の思い出(ノート)

    ノートをとることが下手だ。学年が始まると各教科のノートを揃える。しかし授業が進んでもノートにまともな記述はない。そして学年が終わると大半のページが白紙で残る。もったいないと思い、書いたところを破って使ったりもするが、結局、そのままどこかに消える。 高校の時は問題を解くとかで...

  • 昭和の思い出(体力テスト)

    中学で体力テストがあった。いろんなものをやった。覚えているものを列挙する。 60m走、1500m走、走り幅跳び、懸垂、背筋力、握力、ソフトボール投げ 種目ごとに上中初級の基準があり、すべての種目の基準をクリヤすると順に上級(金メダル)、中級(銀メダル)、初級(銅メダル)に格...

  • 昭和の思い出(木下大サーカス)

    初めてサーカスを見た。木下大サーカスだ。初めに一人の芸人が寝転がって足を上げ、樽を転がす。回し方を変えていろいろやっているがあまり変わり映えしない。しかし印象に残った。あと、定番の空中ブランコや象の芸など見た。かなりあとでもう一度サーカスを見る機会があった。オートバイが鉄の...

  • 昭和の思い出(パラキン)

    東京オリンピックの前あたりから、外国のポピュラーソングが流行った。ラジオでも連日流れた。それを日本風に訳して歌ったグループにダニー飯田とパラダイスキングがあった。そこで九重佑三子が歌った「ヘイポーラ」「ミスターベースマン」が気にいってレコードを買った。ポータブル電蓄で何度も...

  • 昭和の思い出(製図)

    中学の技術家庭で製図の授業があった。教科書のねじの図面を写した。烏口など製図セットに関心があったが、あとで使うことはなかった。実技で文鎮を作ったが鉄の棒に穴をあけてつまみを取り付けるだけの作業だった。 当時の雑誌に子供の科学というのがあって、いつも模型の青写真がついていた。...

  • 昭和の思い出(恩讐の彼方に)

    菊池寛の「恩讐の彼方に」は高校の国語教科書にあった。かたき討ちに出会ったが青の洞門を掘削する姿に動かされて一緒に掘り、出来上がった時にはかたき討ちのことは忘れて涙を流して喜び合ったという話。通俗的にわかりやすい話で、かたき討ちは創作らしい。憎しみを原動力に一生頑張るのは現代...

  • 昭和の思い出(バスガイド)

    ワンマンバスが普及する前はバスに車掌がいた。そのはずだが路線バスにめったに乗らなかったので印象は薄い。バッグをもって切符を切るような気がする。ただワンマンカーに代わっていったことは覚えている。一方、観光バスのバスガイドは強く印象に残っている。中学修学旅行の時。箱根強羅温泉で...

  • 昭和の思い出(十和田のひめます)

    小学校で国語の時間に読んだ教材に「十和田のひめます」がある。数少ない記憶の中でなぜかこの話は印象に残った。なぜか和井内貞行という名も記憶に残っている。苦労の果てに姫ますが帰ってきたと喜びの声を上げる場面の記述が印象的である。そのほかには「海彦山彦」とか「野口英世」など。「ガ...

  • 昭和の思い出(散髪)

    いつも行く散髪屋は2軒あった。親の勧めの方は丁寧な仕上げらしい。一方は雑らしい。自分ではどちらでもよかった。行くと待合の席で順番を待つ。だいたい一時間ほど待つことが多かった。番がくると専用の椅子に板を置いて、その上に座らされた。子供なので座高が低いので散髪屋のやりやすい高さ...

  • 昭和の思い出(ホンダドリーム号)

    中学の数学の先生は小柄ながら当時の先端のオートバイであるホンダドリーム号にかきつくように乗って通勤していた。そのころトヨタが新発売の国民車の名を公募した。その先生も応募したことを得意げに話した。先生の言うことには「パグリックカーという名で応募した。当選した名は「パブリカ」だ...

  • 昭和の思い出(土間)

    田舎の家は農家づくりで土間があった。今の家には一戸建てでも土間はない。土間にはかまど、コンロ、風呂場、井戸、炊事場、米蔵、などあった。玄関から入ったところは自転車置き場になっていて3台ほどおいていた。横に居室につながる縁があった。さらに納屋と広い庭があった。それは農作業に必...

  • 昭和の思い出(8マン)

    中学に入るころに漫画から遠ざかった。月刊誌から週刊誌の時代になっていった。再び漫画を思い出させたのはテレビアニメのエイトマンだった。高校の2年にちょうど家にテレビが入って、学校帰りに家でのんびりと一人で見ていた。出だしの、主題歌と新幹線と競争する姿が不自然だが印象的だった。...

  • 昭和の思い出(第40回記念大会)

    昭和33年の夏、甲子園で板東英二がヒーローだった。初優勝は柳井高校で話題となった。決勝で徳島商を破った。このころ冒険王を愛読していて付録に40回記念大会のバッジがついた。たわいない10円玉のようなものだったが当時は大々的に特別付録となっていた。付録は漫画が主だったがたいてい...

  • 昭和の思い出(フラフープ)

    フラフープが流行ったのは昭和33年。近所でも持っているものもいた。ほしいとも思わなかった。やりすぎると腸に穴が開くなどといわれた。同じ頃ホッピングも流行った。やはり家では買わなかった。友人のを借りてやったが面白くなかった。これも腸がさがるなどと言われた。だっこちゃんブームが...

  • 昭和の思い出(子供の世間)

    田舎での子供時代の遊び仲間は案外狭い。近所の家(10軒余りで隣保といった)にはいろんな年代の子がいた。子供会(中1~小学)の年代に当たる。それより年上の青年団に当たる人と話し合うことはまずない。小学6年のときの例を取ると、中学5人、小学6年(本人含む)2人、5年3人、4年1...

  • 昭和の思い出(BCG)

    二の腕に今でも残るBCG接種の跡。5~6個は確認できる。当時、毎年のようにツベルクリン反応が陰性でBCG接種をした。膿んで火山の噴火口のように中心から液がでて、周辺が固くかゆかった。症状が治まるのに結構長い時間がかかった。注射器が湯の入った四角い金属製の容器に何本も漬けられ...

  • 昭和の思い出(鉄棒)

    中学体育で鉄棒の授業があった。低鉄棒で胸の高さである。飛び上がって腰の位置で停止し、前に上体を傾けて前転して降りる。簡単なのだが、これができない生徒が一人いた。少し鈍い生徒で成績も悪い。優しい性格なのでからかわれることが多かった。この生徒は飛び上がって腰の位置で停止まではで...

  • 昭和の思い出(傘)

    「あめあめふれふれかあさんが蛇の目でお迎えうれしいな」のうたのあるように、駅で傘を持ったお迎えの人をよく見た。小学校では時々部落(村)ごとに分かれての集会があった。何をするかと期待したが、そのとき備え付けの番傘の数を点検するだけだった。なんとなく期待外れであった。家にはなか...

  • 昭和の思い出(バタコ)

    バタコ、この言葉を聞かなくなって久しい。これは方言かと思って検索すると普通に三輪トラックのことをいうとあった。バタバタともいったようだが、田舎ではオートバイも含めていたように思う。同級生が女子生徒と会話中にバタコといったのを笑われていたが、本人は格好をつけてオートバイと言お...

  • 昭和の思い出(ユークリッド)

    高校数学1で立体図形を学ぶことになった。新課程ということらしい。それで大学入試にも立体図形の問題が出た。中学では公理公準というものには明確にされず、なんとなく学ぶ。三角形の内角の和は180度。平行線の錯角は等しいなど。これらをでユークリッドの公準を前面に出して説明された。こ...

  • 昭和の思い出(トランジスターラジオ)

    真空管からトランジスターラジオに移り変わる時代にあった。初めて組み立てたのが1石レフレックスラジオのキット。ゲルマラジオと同様、イヤホンで聞くが大きなアンテナなしで付属のロッドアンテナで聞こえる。レフレックスというやや複雑な回路で、当時はあまり理解できていなかった。また、ト...

  • 昭和の思い出(弁当)

    覚えているのは弁当箱が長方形で上端の狭いところにおかずが少しあって、残り8割ほどがご飯だった。鰹節をまぶして、蓋につくので、最初にそれを落とす。おかずは何だったのかほとんど覚えていない。めったに弁当をもっていかなかったためだ。前が道を挟んで学校なので昼休みに家に帰って食べて...

  • 昭和の思い出(旭のブンガワンソロ)

    カラオケのない時代に人前で歌を歌うことはない。田舎の青年団主催の催しで寺の境内に舞台を設置し、村人が芝居や踊りを披露した時ぐらいだ。学校でも音楽の時間に一人に歌を歌わせることはなかった。唯一の機会はバス旅行だ。村の子供会で海水浴に行ったときのこと、マイクが回ってきた。そこで...

  • 昭和の思い出(月がとっても青いから)

    親類の家が家から少し歩いて池の周りを過ぎた所だった。この家からの帰り道、月が煌々と輝いていてこの歌を口ずさんだ記憶がある。街灯も何もない暗い時代だったが、星空は美しく天の川が天空を横切り、流れ星も見える。この時代、まだ目も悪くなかったのでよく星空を見た。菅原都々子のヒット曲...

  • 昭和の思い出(気動車)

    通学で使っているローカル線には昼間は気動車が走っていた。汽車と違って床下にエンジンがあり、夏などは振動と熱で不快だった。ドアもあけるとすぐ車内で余裕がない。効率化のためだろうが列車のほうがデッキからトイレ、そして車内へとちゃんとしたつくりになっていた。安普請の家でドアを開け...

  • 昭和の思い出(曽根史郎)

    曽根史郎というと「若いお巡りさん」。調べると小学3年のときのヒット曲で紅白にも出場。一発屋といってもいい。しかし超有名だ。関係はないが中学国語の授業で生徒に当てて答えさす。「わかりません」というと「立っとれ」といって席に立たせる。「その後ろ」「わかりません」「立っとれ」・・...

  • 昭和の思い出(科学の進歩)

    小学4年のときの先生が、「将来自転車の後ろに空き缶一個分の原子力装置で一年中走り回れる」という話をした。また中学の時にも、「科学が進んで労働時間がどんどん減る」といったが、疑問だったので「今でも労働時間は長い」とうと。「江戸時代などは寝ずに労働したから減っているんだ」といっ...

  • 昭和の思い出(ワークブック)

    中学1年の国語でワークブックを使った。それを紛失してしまった。どこを探してもない。先生に言えばいいのだが、いえなかった。そこで近くの町の本屋を数件探し回った。数キロ離れたところに自転車で言ったりした。どこにも売っていない。学校で使用するものは市販されていないのが普通だった。...

  • 昭和の思い出(アマチュア無線)

    戦前からの古いラジオに代わり、新しい真空管ラジオがやってきた。今度のラジオは2バンドで短波放送が聞ける。ダイヤルを回して日本短波放送などが聞ける。しかし面白い放送ではない。7メガサイクル付近にたくさんのざわついた話し声が聞こえた。アマチュア無線だった。ときおりものすごくはっ...

  • 昭和の思い出(石)

    石という地味なものに興味がわくには幼すぎた。学校から河原に鉱物を拾いに行く授業だった。石は河原一面に大きいのから小さいのまでいろいろある。変わったものを見つけようとするがほとんど平凡なもので鉱物のようなものは見つからない。かろうじて水晶が一部含まれているようなものを見つけた...

  • 昭和の思い出(あさぶら)

    いつもはいていた履物があさぶらだ。本来、あさぶらは名の通り麻などでできた履物だそうだ。寒い時期を除いて、これで過ごした。大学生になってからアルバイトにもこれで通った。最近、ビーチサンダルを履いてみると親指と人差し指の間が痛くて耐えられなかった。長い間、この手の鼻緒のある履物...

  • 昭和の思い出(おおきに)

    近所の家でお菓子などもらったら「ありがとう」か「おおきに」というように教えられた。ありがとうは口がもつれて言いにくく、「おーきに」が言いやすい。駄菓子屋に行って「おばちゃん」といいながら戸を開けるのが最初は怖くてできなかった。こういう経験はいつの頃か思い出せないが幼稚園から...

  • 昭和の思い出(デシリットル)

    デシリットル、この言葉は懐かしい響きがある。遠い記憶の彼方にあるが、普段気にすることがない。調べると現在も小学2年で教えている。容積の単位として最初にリットル、デシリットルを教える。かすかな記憶にあるのが学校の校舎の北側にあった水飲み場に集まってコップに水を汲んでいる景色だ...

  • 昭和の思い出(円周率)

    小学校で円の面積を求める作業をした。方眼紙に円を描き、囲まれた方眼の数を数えて円の面積を求めた。欠けている方眼は四捨五入で数える。そうして円を囲む正方形との面積の比率を求める。正確にはπ/4=0.785となるが、それぞれ近い値を出した。この数値で、面積の公式 (直径)×(...

  • 昭和の思い出(必要条件と十分条件)

    高校数学Ⅰで早々に出会うのが必要条件と十分条件。これが分かりにくい。 「PならばQ」が真なら、PはQの十分条件、QはPの必要条件という。 これが意味不明だった。Pが条件はわかるとしても、Qがどうして条件なのだ。しかたないので機械的に覚えることになる。 「明日晴れなら、遊園地...

  • 昭和の思い出(授業)

    高校の授業で古文の先生は出席を毎時間とった。50名あまりの名を読み上げる。生徒の顔は見ていなかった。それをいついも聞いていると生徒の名簿順の名を覚えてしまって今でもあOOO,いOO,うOOとでてくる。また、べつの先生は教壇の高いところから挨拶はしない。みんなと同じ高さの床で...

  • 昭和の思い出(生活費2建築費)

    家を建てるのは高度成長を経て何十年たっても相変わらず一生事である。昭和42年ころの建築費を調べると 建物の標準的な建築価額表(単位:千円/㎡) 構造 木造 木骨 1967年(昭和42年)19.9 100平米の家で約200万円 田舎ではこの数年後、家を建て替えたが、値上がりが...

  • 昭和の思い出(行進)

    東京オリンピックをテレビで見ることができた。印象に残ったものは多いが、一番は開会式と入場行進だ。整然とした日本選手団。敬礼。トランペットのファンファーレ。鳩の飛び立ち、聖火。白いパンツとランニングで階段を駆け上がる。 行進が一番の出し物なのはなぜだろう。運動会の練習も行進が...

  • 昭和の思い出(愛と死をみつめて)

    東京オリンピックも近づき、世間に遅れて家にもテレビが入った。14インチの白黒。そのころ、学校から帰って誰もいない家でテレビドラマをよく見ていた。大空真弓、山本学でドラマ化した純愛作品「愛と死をみつめて」だ。高校生としては縁が遠い衝撃的な話だった。食い入るようにドラマに見入っ...

  • 昭和の思い出(模型船)

    模型にもいろいろあるが簡単で面白いものと言えばゴム動力船だろう。板を船の形に切り、船尾にスクリュー、先頭にくぎを打ち、ゴムをかける。ゴムは少したるませる。これを小川の堰のある所に行き、ゴムを巻いて走らせる。スクリューがプルプルと音を立てながら船尾の水をまき上げて進む姿と音は...

  • 昭和の思い出(生活費)

    下宿生活はすべて自分で金銭の始末をつけなければならない。当時の物価を思い出してみる。 定食 100~120円 風呂 32円 はがき 7円 散髪 380円 家賃 5000円(4畳半、共同(便所、洗濯機、水道、新聞)代含む) 電気 12円/kWh 即席ラーメン 25円 一か月の...

  • 昭和の思い出(定食屋)

    最初の下宿の近くの定食屋はご飯を個別の小さなおひつから茶碗に盛る。コメの味が良くて感動した。家では麦飯だったせいかもしれない。しかし、それ以外の印象は学生が一人ずつもくもくと食べている姿だった。半年で陰気な雰囲気の下宿を大勢の住む下宿屋に引っ越した。そこでは同じ大学の学生で...

  • 昭和の思い出(駄菓子)

    近所の駄菓子屋で甘いものを買うのが日課であった。キャラメル一箱10円でそれぞれ特徴がある。飴の味で勝負するのが本道だが、子供の射幸心をあおるものが多い。グリコのおまけ、日の丸の野球カードで景品、カバヤと森永は飴だけ。カバヤは10個、森永は8個。カバヤが安いがやや固い。どちら...

  • 昭和の思い出(脱穀)

    図工の時間に好きな絵を描くときに思いつくのが脱穀の絵だった。石油発動機と脱穀機がべるとでつながれてエンジンの音が鳴り響き、稲わらからモミが飛び散るのが心地よい。とくに石油発動機の動きと音が迫力があってみているだけで楽しかった。かけはじめにはずみ車を勢いよく回すと、エンジンが...

  • 昭和の思い出(畔豆)

    田んぼの畔の境界に植えるので畔豆という。田植えの頃に田んぼの泥で塗ってある斜面に棒で穴をあけ、種を落とす。豆ができると枝ごと引き抜いて干し、千羽こきでさやを落とす。収穫した豆は炒っておかずやおやつとなる。どんぶりに盛った炒り大豆が食卓にあった。醤油や砂糖で味付けもした。石臼...

  • 昭和の思い出(学生鞄)

    小学生の鞄というとランドセルだ。しかし思い出はほとんどない。白い肩掛け鞄が流行りで、小学3年ぐらいにはこれを使っていた。中学途中からは手提げかばんが流行りで親の古い鞄を使った。これは高校卒業まで使った。学生服はよく親類のお古を使わせられた。ボタンのマークがまちまちで、どこか...

  • 昭和の思い出(蓄音機)

    田舎の家の納屋の屋根裏で古い手回し蓄音機をみつけた。同時にレコード盤もあった。レコードは浪花節などが多く、そのなかに菊池寛の「父帰る」があった。「お父さんを呼んで来い」というところで終わる。短いものだったが妙に記憶に残った。自分で取り寄せた無線通信士講座もあった。取り寄せた...

  • 昭和の思い出(暖房)

    家には暖房のために火鉢、こたつがあった。豆炭あんかは便利だった。いまでは寒くて我慢できないが当時は火鉢で手を温めるのが気持ちよかった。餅も焼いた。火鉢の火をいらっていると暖かい気持ちが起きる。頭通の時は顔を火鉢にかざすと良くなった。部屋を暖めるストーブのようなものはなく、学...

  • 昭和の思い出(大気圧)

    中学1年の理科で心に残ったことに大気圧がある。1cm四方に1kgの力があらゆるものの表面にかかっている。これを先生は卓上で実験して見せた。教卓の端に長い板を半分ほどせり出して置き、卓上の板をかぶさるように新聞紙を数枚広げておいた。せり出した板を上からかなり強くたたく。板はび...

  • 昭和の思い出(石油コンロ)

    プロパンガスが家で使用する前に石油コンロというものがあった。これは灯油を使うもので使用前に器具についたポンプを押して空気をタンクに貯める操作がある。これが面倒で火が付くのに時間がかかった。火は青白い炎でガスと同じ。あるとき、コンロ全体が火だるまになって家事にでもなるのかとあ...

  • 昭和の思い出(時計)

    家に柱時計が一台、柱に掛かっていた。時報がボーンボーンとなるゼンマイ式で文字盤の左右に計箇所ねじ穴があった。それ以外に時計は知らない。ラジオの時報で扉を開けて針を手で回して時間合わせをしていた。あるとき急に時計の針の音が大きく聞こえて困ったことがあった。疲れていたのだろう。...

  • 昭和の思い出(年末)

    年の暮れが近づくと大掃除をした。畳を上げて干す。下に新聞紙を敷く。障子を張り替える。古い障子を破るのは面白い。今と違い、部屋にほとんど家具がないので苦労なくできた。箪笥は廊下とかにあって畳の上にはほとんど置いてなかった。家事は土間で行うので住居部分には物が少ない。かまどで餅...

  • 昭和の思い出(憲法)

    中学三年の社会で憲法を習う。先生は前文とその他重要条文の暗唱を生徒全員に課した。できそうもないと今でも思うが、当時はみんなできた。完全ではないが文句も言わずやった。戦前の教育の名残りと思って調べると、なんとたくさんの件数がヒットする。60年たったいまでも多くの中学校で憲法前...

  • 昭和の思い出(英語)

    小学校でローマ字を習う。あいうえおがa,i,u,e,o,かきくけこ以降はk,s,t,n,h,m,y,r,wをつけるだけ。これで英語も通じると思った。その後、言葉すべて覚えなければいけないと知った時、落胆し、絶望した。 中学で初めて英語の授業があった。まずアルファベットの筆記...

  • 昭和の思い出(アグリッパ)

    近所によく一緒に遊んだ子供がいた。その子と一緒に遊んでいると、中学生が校舎の2階の窓から身を出して「あほりっぱ」という。そのとき、バカにしているのかと思った。「アグリッパ」というローマの英雄のことだ。今思うと友人はそのような迫力のある顔だったかなと思う。子供はそれを知らない...

  • 昭和の思い出(肖像画)

    小学校の音楽室に掲示されていた音楽家の肖像画。バッハからヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベン、ウエーバー、、、と続く。全国的にあったらしく、その起源はレコード会社の返礼の寄付だとか。授業前に音楽室に入って見上げて順に名を読んでいくのが習慣になっていた。肖像画の頭は...

  • 昭和の思い出(鬼追い)

    露店で暇つぶししながら鬼の登場を待つ。待ちに待った鬼の登場。子供の頃の印象は顔が体の半分もある。とてつもなく顔の大きい赤鬼だった。持ったたいまつを時折欄干にたたきつけ、火の粉を飛ばす。下から見上げている村人にかかる邪気を払うそうだ。動きがゆっくりだ。ゆっくり足を上げ、間をお...

  • 昭和の思い出(リヤカー)

    家にリヤカーがあった。これはどうやら父親が作ったものらしい。骨組みの鉄パイプを溶接して作ったのだろう。溶接の仕事をしていたので、合間に作ったのではと思う。これが母親に少し不満だった。バランスが悪く、重心が前に偏っていて、持ち手が重いらしい。市販のよりも小さいのが原因か。ある...

  • 昭和の思い出(拡大器)

    田舎の祭りは秋祭りが最大のものだが、その他に寺社の主催するものがある。太子祭、厄神祭、花祭りなど。そこで露店が出る。輪投げやルーレット、景品はほとんど手に入らない。店の主人がやって見せるといとも簡単に当てる。からくりがあった。これとは別に拡大器なるものが印象に残り、手に入れ...

  • 昭和の思い出(コッパ)

    田んぼの手伝いで苦痛だったものに、刈り取った後の稲の株を掘り起こす作業があった。家では牛を飼っていなかったので、鋤を親類に頼んでいた。いきなり田んぼに鋤を入れても株が邪魔で牛が負担となるらしい。何株一反にあったのか、膨大な数の株をひとつづつコッパを打ち下ろして掘り起こす。手...

  • 昭和の思い出(作図)

    昭和の思い出(作図) 数学の授業を思い浮かべると、大きな三角形と大きなコンパスで黒板に作図をする姿を思い出す。ノートに小さな図を描くよりも気持ちよさそうだ。作図の授業がいつだったか忘れたが、まず垂直二等分線、正三角形、正六角形までは簡単。いろいろやって、最後に正五角形の図を...

  • 今日の一枚(フェルマー)昭和の思い出(ポンプ)

    今日の一枚(フェルマー肖像画) 昭和の思い出(吸い上げポンプと押上ポンプ) 学校にあった井戸は地面からパイプが出ていて、端に手押しポンプがついていた。鉄製のハンドルを上げるとピストンが下がり、押し下げると、上がる。このとき井戸からパイプを通して水が上がる。ポンプの横についた...

  • 今日の一枚(ガロア)

    今日の一枚(ガロア肖像画) 経済界の有名人 柳井正、孫正義、三木谷浩史、渡邉美樹 これらの人は、服飾、通信、インターネット、外食といずれも大衆の日常生活を支える大事な仕事をされていて、ご苦労様です。

  • 今日の一枚(大礼橋)

    今日の一枚(大礼橋下流の堰) 学校の実験で印象深いのは酸素中の燃焼実験。先生が教壇でやったものだが、ビーカー中に酸素を満たし、そこへ線香の火をいれると激しく燃え上がる。酸素は危険なものだと分る。この燃焼の理論を作ったのがラボアジェ。フランス革命で断頭台の露と消えた。 化学の...

  • 昭和の思い出(麦踏み)今日の一枚(村の景色)

    家では裸麦を作っていた。冬の麦踏みは妙に疲れる。麦の根元を飛ばさないよう両足で一つ一つ踏んでいく。とくに力がいるとかではない。稲刈りなどの重労働ではない。腰をかがめることもない。しかし面白くない。麦の穂に黒いのが混じっている。この穂を抜く。穂の部分をとり、数センチの麦のパイ...

  • 昭和の思い出(鉄砲)今日の一枚(月見橋)

    おもちゃの鉄砲というと、市販では煙硝鉄砲と水鉄砲。煙硝鉄砲は渦巻テープになった煙硝玉を鉄砲に装着してパンパン鳴らす。銃口から煙がでるのもあった。この仕組みは煙硝玉を打ち付ける銃口の入り口に小さな穴があけてあり、この穴から煙が銃口に抜ける。水鉄砲も夏には人気で、音はないが水を...

  • 昭和の思い出(自転車)今日の一枚(加古川大堰)

    昔は子供用自転車は一般的でない。26インチで自転車も今のようにフレームがU字方に下に曲がってなくてサドルとハンドルの間に一本のパイプがある(三角フレーム)。だからサドルが高い。またぐと足が届かないので、片足をペタルにのせて助走して、もう一方の足を十分あげて乗らないといけない...

  • 昭和の思い出(紙芝居)今日の一枚(闘竜橋)

    10数人が村の公民館の広場に集まって紙芝居が来るのを待っている。誰かが「来た来た」という。皆が来る方向に目をやる。そいつが指で北方を指す。そのうちやってきた。拍子木でカチカチ叩き、合図する。水あめを2本の割りばしに巻いて、10円出す子に渡す。「買うてないのは後ろ」。自分も後...

  • 昭和の思い出(帽子)今日の一枚(福田橋)

    小学校の旅行の記念写真をみると、男子はほぼ全員帽子をかぶっているか手に持っている。女子もかぶっている人も結構いる。帽子も野球帽から学生帽とまちまちである。高校生になったときは誇らしげに校章の付いた制帽を被っていた。帽子をわざと汚したり、くしゃくしゃにもんだりした。貫禄を付け...

  • 昭和の思い出(カレー)

    カレーライスはドロッとして肉入りのものだが、思い出すのはカレー粉で色と風味をつけた野菜煮だった。さらさらで、これは体に良かったのかもしれない。最近カレーライスで胸やけを起こすようになったが、油とメリケン粉は胃に負担がかかるようだ。母は外食を「店やもん食いゆうてな、あかんのや...

  • 昭和の思い出(版画)

    学校で版画を作った。彫刻刀のセットを買った。ゴム版、木版、そして紙を切り貼りしての紙版画、順序は忘れたが、面白かったのは紙版画。切った紙を重ね貼りして謄写版のインクを使ってローラーでインクをつけ、画用紙に写す。予想外の絵が出てきた。他に比べて大きいこともよい。木やゴム板を彫...

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