平安時代
古事記・日本書記の神代から始まる天皇の家系図を背骨にして、古代豪族、平安貴族、藤原氏、平家、源氏、北条氏、足利氏、徳川家などとの姻戚関係を中心とした歴史の中で特に古代、飛鳥時代から中世の話題を紐解いていきたいと思います
平安時代
1.頼朝挙兵 <義経鎌倉へ 二十二歳> <義経、頼朝と黄瀬川にて涙の対面>2.九郎義経 鍬形の兜姿の総大将 1.頼朝挙兵 <義経鎌倉へ 二十二歳> <義経、頼朝と黄瀬川にて涙の対面>2.九郎義経 鍬形の兜姿の総大将 1.頼朝挙兵 <義経鎌倉へ 二十二歳> <義経、頼朝と黄瀬川にて涙の対面>2.九郎義経 鍬形の兜姿の総大将
前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資 前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資 前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資
前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ 前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ 前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ
前回のブログの主題、一の谷の戦いで平家が範頼・義経の鎌倉方源氏軍に敗れたのが元暦元年(1184年)2月の事で、翌文治元年(1185年)2月の八島(屋島)の戦いを経て、壇ノ浦で平家一族が滅亡するのが翌月の3月です。このわずか1年余りの出来事に平家物語は巻十、巻十一の二巻を使っています。そして巻十二にて平家嫡々の六代御前の死をもって「それよりしてこそ平家の子孫はながくたえにけり」、全巻を終了します。今回はこのブログシリーズの終章として、最後の三巻を見ていこうと思います。この三巻
平家を西国に追い落とした義仲は都に入ったものの西国での平家との戦に手間取り、都の中では後白河院や貴族に疎まれた結果、院の義仲追討の院宣を受けた頼朝率いる鎌倉軍によって、粟津で首を取られるまでを見てきました。一方、都を落ちた平家は瀬戸内海を西に進み大宰府を目指しますが、鎮西の豪族たちも平家に味方するものは少なく、もはや平家の意のままにはなりませんでした。<このブログの目次>大宰府落生田の森、一の谷の戦い<鵯越><坂落し><忠度最期><敦盛最期><知章最期(「
平家を西国に追い落とした義仲は都に入ったものの西国での平家との戦に手間取り、都の中では後白河院や貴族に疎まれた結果、院の義仲追討の院宣を受けた頼朝率いる鎌倉軍によって、粟津で首を取られるまでを見てきました。一方、都を落ちた平家は瀬戸内海を西に進み大宰府を目指しますが、鎮西の豪族たちも平家に味方するものは少なく、もはや平家の意のままにはなりませんでした。<このブログの目次>大宰府落生田の森、一の谷の戦い<鵯越><坂落し><忠度最期><敦盛最期><知章最期(「
前回のブログで入道相国の「あつち死」までを見てきましたが、その清盛の死後、「築嶋」にて経ガ嶋の話のあとに、もう一章段「祇園女御」という面白い章段が現れます<このブログの目次>祇園女御倶利伽羅峠の戦い<竹生島詣><倶利伽羅落し>平家都落ち<主上都落><維盛都落><忠度都落><一門都落><福原落>義仲都へ入る<法皇還御を守護><後鳥羽天皇即位><頼朝に征夷大将軍院宣><平家に大敗><院との確執>義仲、院を幽閉<鼓判官><法住寺合戦><頼
前回のブログで入道相国の「あつち死」までを見てきましたが、その清盛の死後、「築嶋」にて経ガ嶋の話のあとに、もう一章段「祇園女御」という面白い章段が現れます<このブログの目次>祇園女御倶利伽羅峠の戦い<竹生島詣><倶利伽羅落し>平家都落ち<主上都落><維盛都落><忠度都落><一門都落><福原落>義仲都へ入る<法皇還御を守護><後鳥羽天皇即位><頼朝に征夷大将軍院宣><平家に大敗><院との確執>義仲、院を幽閉<鼓判官><法住寺合戦><頼朝、義仲追討へ><義経初登場><義
前回のブログ「平家物語(1)」では『平家物語』が語る時代の範囲について考え、そのうち、前半の”平家の繁栄”の記述を見た後、既にその前半部においてその繁栄に対する反感から平氏打倒の動きがあることを見てきました。今回はその続きとして、清盛の数々の悪行を諫めてきた嫡子重盛の死をはじめ、その清盛の悪行、源頼朝や義仲など源氏勢の蜂起など、その凋落の兆しが並べられ、そしてその栄華を導いてきた総帥清盛の死が語られるまでを見ていこうと思います。<このブログの目次>重盛の死去<史実
前回のブログ「平家物語(1)」では『平家物語』が語る時代の範囲について考え、そのうち、前半の”平家の繁栄”の記述を見た後、既にその前半部においてその繁栄に対する反感から平氏打倒の動きがあることを見てきました。今回はその続きとして、清盛の数々の悪行を諫めてきた嫡子重盛の死をはじめ、その清盛の悪行、源頼朝や義仲など源氏勢の蜂起など、その凋落の兆しが並べられ、そしてその栄華を導いてきた総帥清盛の死が語られるまでを見ていこうと思います。<このブログの目次>重盛の死去〃 の清
”海人のたく藻の夕煙、尾上の鹿の暁のこゑ、渚々によする浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀(しっそつ)のきりぎりす、すべて目に見え、耳にふるる事、一つとして哀(あはれ)をもよほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は西海の浪に纜(ともずな)をといて七千余人、雲海沈々として、青天既にくれなんとす。孤嶋(こたう)に夕霧(せきむ)隔て、月海上にうかべり。極浦の浪をわけ、塩にひかれて行く舟は、半天の雲にさかのぼる。日かずふれば、都は
”海人のたく藻の夕煙、尾上の鹿の暁のこゑ、渚々によする浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀(しっそつ)のきりぎりす、すべて目に見え、耳にふるる事、一つとして哀(あはれ)をもよほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は西海の浪に纜(ともずな)をといて七千余人、雲海沈々として、青天既にくれなんとす。孤嶋(こたう)に夕霧(せきむ)隔て、月海上にうかべり。極浦の浪をわけ、塩にひかれて行く舟は、半天の雲にさかのぼる。日かずふれば、都は
記紀 紀年の錯綜今まで4回にわたり、継体天皇の時代を見てきました。過去に例のない五世王という立場で即位し、畿内の諸豪族をまとめ、九州磐井の乱を平定後、屯倉や国造の設置等により大和政権の中央集権化を強化し、のちの飛鳥京時代の基礎を作った天皇として、日本史の画期であったことが見て取れました。その中で、この時代の記紀の紀年の立て方には様々な錯綜が見られます。その錯綜とは、武烈の崩御から継体の擁立、即位そしてその大和入りまでの期間、次世代の安閑・宣化さらに欽明の即位、また仏
記紀 紀年の錯綜今まで4回にわたり、継体天皇の時代を見てきました。過去に例のない五世王という立場で即位し、畿内の諸豪族をまとめ、九州磐井の乱を平定後、屯倉や国造の設置等により大和政権の中央集権化を強化し、のちの飛鳥京時代の基礎を作った天皇として、日本史の画期であったことが見て取れました。その中で、この時代の記紀の紀年の立て方には様々な錯綜が見られます。その錯綜とは、武烈の崩御から継体の擁立、即位そしてその大和入りまでの期間、次世代の安閑・宣化宣化さらに欽明の即位、ま
今まで3回にわたり継体天皇について考えてきました。その中で、継体天皇即位前夜として、三王朝交代説をもとに、三輪王朝、河内王朝、そして新王朝としての継体王朝誕生までの経緯を確認したその中で河内王朝の系統の断絶に至る、朝廷内部の異母兄弟による壮絶な権力闘争によって、記述が残る23名の皇子の内、実に13名の皇子が殺害された上記によりついに後嗣が途絶え、飯豊青皇女の執政を経て履中天皇二世王億計・弘計両天皇の発見により、皇位がつながったこの河内王朝に
今まで3回にわたり継体天皇について考えてきました。その中で、継体天皇即位前夜として、三王朝交代説をもとに、三輪王朝、河内王朝、そして新王朝としての継体王朝誕生までの経緯を確認したその中で河内王朝の系統の断絶に至る、朝廷内部の異母兄弟による壮絶な権力闘争によって、記述が残る23名の皇子の内、実に13名の皇子が殺害された上記によりついに後嗣が途絶え、飯豊青皇女の執政を経て履中天皇二世王億計・弘計両天皇の発見により、皇位がつながったこの河内王朝に、4名の姫を入内させ、6名
近江か越前か継体の出自を語るとき一番に問題となるのは、どこで生まれ、どこで育ち、そしてどこから迎えられたか、「日本書紀」に云う越前国か、「古事記」に云う近江国かということです。「日本書紀」は「上宮記 一に云ふ」とほぼ同じ内容で、継体天皇の出生譚として、「近江国高島郡の三尾の別邸」にいた父の彦主人王(汗斯王)が、垂仁天皇七世の孫、振媛(妹布利比弥命)がとても美人であると聞いて、「越前国坂井の三国」より迎え入れて妃とした。そして天皇が生まれた。
近江か越前か継体の出自を語るとき一番に問題となるのは、どこで生まれ、どこで育ち、そしてどこから迎えられたか、「日本書紀」に云う越前国か、「古事記」に云う近江国かということです。「日本書紀」は「上宮記 一に云ふ」とほぼ同じ内容で、継体天皇の出生譚として、「近江国高島郡の三尾の別邸」にいた父の彦主人王(汗斯王)が、垂仁天皇七世の孫、振媛(妹布利比弥命)がとても美人であると聞いて、「越前国坂井の三国」より迎え入れて妃とした。そして天皇が生まれた。天皇がまだ
王統は絶えてはいなかった!先のブログ「継体即位前夜」では「河内王朝」十一代目の第25代武烈天皇で、ついに仁徳系の後嗣は一人もいなくなってしまいました。記紀は両書とも「元より男女なくして継嗣絶ゆべし(継体即位前紀)」と皇統断絶の危機を訴えます。ところがそのすぐあとに、大連大伴金村が「足仲彦天皇(仲哀)の五世の孫倭彦王が丹波国におられるので、試しに兵を遣わし御輿を守らせてお迎えしよう」と提案し、迎えを差し向けます。ところが当の倭彦王はその兵を見て恐怖におののき山の中に遁
王統は絶えてはいなかった!先のブログ「継体即位前夜」では「河内王朝」十一代目の第25代武烈天皇で、ついに仁徳系の後嗣は一人もいなくなってしまいました。記紀は両書とも「元より男女なくして継嗣絶ゆべし(継体即位前紀)」と皇統断絶の危機を訴えます。ところがそのすぐあとに、大連大伴金村が「足仲彦天皇(仲哀)の五世の孫倭彦王が丹波国におられるので、試しに兵を遣わし御輿を守らせてお迎えしよう」と提案し、迎えを差し向けます。ところが当の倭彦王はその兵を見て恐怖におののき山の中に遁
応神天皇五世の孫「日本書紀」は継体天皇について、”男大迹王は応神天皇五世の孫で、彦主人王の子。母を垂仁天皇七世の孫、振媛という”、と簡単な記述しかありません。「古事記」にも”応神天皇五世の孫”とあるのみで、日本書紀も古事記も継体天皇の出自についてその多くを語りません。それ以前の25代にわたる天皇はすべて親子あるいは兄弟相伝で、そのうちヤマトタケルの子である仲哀天皇と、磐坂市辺押羽皇子の子供である仁賢・顕宗の3天皇のみは二世王、先代の兄弟の子で、つまり甥にあたりますが
応神天皇五世の孫「日本書紀」は継体天皇について、”男大迹王は応神天皇五世の孫で、彦主人王の子。母を垂仁天皇七世の孫、振媛という”、と簡単な記述しかありません。「古事記」にも”応神天皇五世の孫”とあるのみで、日本書紀も古事記も継体天皇の出自についてその多くを語りません。それ以前の25代にわたる天皇はすべて親子あるいは兄弟相伝で、そのうちヤマトタケルの子である仲哀天皇と、磐坂市辺押羽皇子の子供である仁賢・顕宗の3天皇のみは二世王、先代の兄弟の子で、つまり甥にあたりますが
長寿の天皇 神武天皇127才、開化115才、崇神120才、垂仁140才、景行106才、成務107才、応神110 長寿の天皇 神武天皇127才、開化115才、崇神120才、垂仁140才、景行106才、成務107才、応神110 長寿の天皇 神武天皇127才、開化115才、崇神120才、垂仁140才、景行106才、成務107才、応神110
長寿の天皇神武天皇127才、開化115才、崇神120才、垂仁140才、景行106才、成務107才、応神110才。「先是一品舎人親王奉勅修日本紀 至是功成奏上 紀卅卷系圖一卷」一品舎人親王が、紀三十巻と系図一巻を奏上した、と『続日本紀』養老四年(720年)5月21日の記事にあるように、『日本紀』が元正天皇に奏上されます。この『日本紀』は、国家としての体裁を整えるうえで、条坊制による「本格的な都城」の建設や、「律令」の制定と並んで重要な施策とされた、歴史書としての「正史
皇極天皇元年(642年)、その年は大干ばつに見舞われ、あらゆる祈雨は効なく、困り果てた中で、皇極女帝が「南淵の 皇極天皇元年(642年)、その年は大干ばつに見舞われ、あらゆる祈雨は効なく、困り果てた中で、皇極女帝が「南淵の 皇極天皇元年(642年)、その年は大干ばつに見舞われ、あらゆる祈雨は効なく、困り果てた中で、皇極女帝が「南淵の
皇極天皇元年(642年)、その年は大干ばつに見舞われ、あらゆる祈雨は効なく、困り果てた中で、皇極女帝が「南淵の河上に幸して,跪きて四方を拝む、天を仰ぎて祈ひたまふ、即ち雷なりて大雨ふる、遂に雨降ること五日、あまねく天下を潤す」とあります。その祈祷の霊地が飛鳥川をさかのぼった奥飛鳥だといわれ、飛鳥の神奈備ともされています。また、壬申の乱(672年)勃発まで、夫の大海人皇子とともに隠棲した吉野をしのび、大海人亡きあと自らが天皇として何回となくその吉野に行幸したと伝わる持統女帝が
飛ぶ鳥の明日香 都をたたえる歌 巻第一 78和銅三年庚戌春二月 藤原宮より寧樂宮に遷る時 御輿を長屋の原に停め 飛ぶ鳥の明日香 都をたたえる歌 巻第一 78和銅三年庚戌春二月 藤原宮より寧樂宮に遷る時 御輿を長屋の原に停め 飛ぶ鳥の明日香 都をたたえる歌 巻第一 78和銅三年庚戌春二月 藤原宮より寧樂宮に遷る時 御輿を長屋の原に停め
飛ぶ鳥の明日香 都をたたえる歌巻第一 78和銅三年庚戌春二月 藤原宮より寧樂宮に遷る時 御輿を長屋の原に停めて 古郷を廻望みて作らす歌 一書に云く 太上天皇の御製飛ぶ鳥の 明日香の里を 置きて去なば 君があたりは 見えずかもあらむ和銅三年とは西暦710年、都が飛鳥から藤原京を経て奈良の都、平城京へ移った年です。明日香の都を去るに際して、その旧都を懐かしむ歌として有名です。この歌の詞書の一書に曰くとしての”太上天皇”については、41持統天皇(鸕野讚良皇女)あるいは43
飛鳥古京遠望 ー 甘樫丘より 狭隘な飛鳥盆地の西を限って横たわる標高50mほどの甘樫丘北端に位置 飛鳥古京遠望 ー 甘樫丘より 狭隘な飛鳥盆地の西を限って横たわる標高50mほどの甘樫丘北端に位置 飛鳥古京遠望 ー 甘樫丘より 狭隘な飛鳥盆地の西を限って横たわる標高50mほどの甘樫丘北端に位置
飛鳥古京遠望 ー 甘樫丘より東南側 画面左端に飛鳥寺(現在の安居院)、右に真神原が広がり、山すそに酒船石、右端民家群の前に飛鳥宮跡北西側 畝傍山、遠方に二上山北側左 耳成山北側右 天香久山 狭隘な飛鳥盆地の西を限って横たわる標高50mほどの甘樫丘北端に位置する展望台からは、東南方向に飛鳥古京の中心部を、北に畝傍山、耳成山、天香久山の大和三山を、そして畝傍山の奥に二上山と、飛鳥時代を網羅する景観を楽しむことができます。崇峻
68 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 三条院 後拾遺集 68 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 三条院 後拾遺集 68 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 三条院 後拾遺集
68 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな 三条院後拾遺集例ならずおはしまして、位など去らむとおぼしめしけるころ、月のあかかりけるを御覧じて、三条院御製第67代三条天皇は、第63代冷泉天皇の第2皇子で、11歳で一条天皇の東宮、36歳にして、病重い先帝の譲位を受けて践祚、わずか5年の在位ののち、翌年出家、ほどなく42歳の生涯を閉じます。美しくも悲しい歌です。声調がきれいなので、何度も読んでいくうちにだんだんと気持ちの沈んでいく
百人一首は数百種ある一人の歌人が百首の歌を詠むことは平安時代から行われてきたようですが、百人の歌人の歌を一首ずつ集めたもの、いわゆる百人一首は平安時代末期から鎌倉時代初期に活躍した藤原氏御子左家の血をひく藤原定家のものが初めてです。その歌集が「小倉山荘色紙和歌」とか「百人一首」と呼ばれ、室町時代から江戸時代にかけて世間に広く知れ渡るようになると、室町幕府九代将軍足利義尚が「新百人一首」を選び、以降江戸時代になると「武家百人一首」とか「女房百人一首」とか様々な百人一首
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平安時代
1.頼朝挙兵 <義経鎌倉へ 二十二歳> <義経、頼朝と黄瀬川にて涙の対面>2.九郎義経 鍬形の兜姿の総大将 1.頼朝挙兵 <義経鎌倉へ 二十二歳> <義経、頼朝と黄瀬川にて涙の対面>2.九郎義経 鍬形の兜姿の総大将 1.頼朝挙兵 <義経鎌倉へ 二十二歳> <義経、頼朝と黄瀬川にて涙の対面>2.九郎義経 鍬形の兜姿の総大将
前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資 前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資 前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資
前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ 前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ 前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ
前回のブログの主題、一の谷の戦いで平家が範頼・義経の鎌倉方源氏軍に敗れたのが元暦元年(1184年)2月の事で、翌文治元年(1185年)2月の八島(屋島)の戦いを経て、壇ノ浦で平家一族が滅亡するのが翌月の3月です。このわずか1年余りの出来事に平家物語は巻十、巻十一の二巻を使っています。そして巻十二にて平家嫡々の六代御前の死をもって「それよりしてこそ平家の子孫はながくたえにけり」、全巻を終了します。今回はこのブログシリーズの終章として、最後の三巻を見ていこうと思います。この三巻
平家を西国に追い落とした義仲は都に入ったものの西国での平家との戦に手間取り、都の中では後白河院や貴族に疎まれた結果、院の義仲追討の院宣を受けた頼朝率いる鎌倉軍によって、粟津で首を取られるまでを見てきました。一方、都を落ちた平家は瀬戸内海を西に進み大宰府を目指しますが、鎮西の豪族たちも平家に味方するものは少なく、もはや平家の意のままにはなりませんでした。<このブログの目次>大宰府落生田の森、一の谷の戦い<鵯越><坂落し><忠度最期><敦盛最期><知章最期(「
平家を西国に追い落とした義仲は都に入ったものの西国での平家との戦に手間取り、都の中では後白河院や貴族に疎まれた結果、院の義仲追討の院宣を受けた頼朝率いる鎌倉軍によって、粟津で首を取られるまでを見てきました。一方、都を落ちた平家は瀬戸内海を西に進み大宰府を目指しますが、鎮西の豪族たちも平家に味方するものは少なく、もはや平家の意のままにはなりませんでした。<このブログの目次>大宰府落生田の森、一の谷の戦い<鵯越><坂落し><忠度最期><敦盛最期><知章最期(「
前回のブログで入道相国の「あつち死」までを見てきましたが、その清盛の死後、「築嶋」にて経ガ嶋の話のあとに、もう一章段「祇園女御」という面白い章段が現れます<このブログの目次>祇園女御倶利伽羅峠の戦い<竹生島詣><倶利伽羅落し>平家都落ち<主上都落><維盛都落><忠度都落><一門都落><福原落>義仲都へ入る<法皇還御を守護><後鳥羽天皇即位><頼朝に征夷大将軍院宣><平家に大敗><院との確執>義仲、院を幽閉<鼓判官><法住寺合戦><頼
前回のブログで入道相国の「あつち死」までを見てきましたが、その清盛の死後、「築嶋」にて経ガ嶋の話のあとに、もう一章段「祇園女御」という面白い章段が現れます<このブログの目次>祇園女御倶利伽羅峠の戦い<竹生島詣><倶利伽羅落し>平家都落ち<主上都落><維盛都落><忠度都落><一門都落><福原落>義仲都へ入る<法皇還御を守護><後鳥羽天皇即位><頼朝に征夷大将軍院宣><平家に大敗><院との確執>義仲、院を幽閉<鼓判官><法住寺合戦><頼朝、義仲追討へ><義経初登場><義
前回のブログ「平家物語(1)」では『平家物語』が語る時代の範囲について考え、そのうち、前半の”平家の繁栄”の記述を見た後、既にその前半部においてその繁栄に対する反感から平氏打倒の動きがあることを見てきました。今回はその続きとして、清盛の数々の悪行を諫めてきた嫡子重盛の死をはじめ、その清盛の悪行、源頼朝や義仲など源氏勢の蜂起など、その凋落の兆しが並べられ、そしてその栄華を導いてきた総帥清盛の死が語られるまでを見ていこうと思います。<このブログの目次>重盛の死去<史実
前回のブログ「平家物語(1)」では『平家物語』が語る時代の範囲について考え、そのうち、前半の”平家の繁栄”の記述を見た後、既にその前半部においてその繁栄に対する反感から平氏打倒の動きがあることを見てきました。今回はその続きとして、清盛の数々の悪行を諫めてきた嫡子重盛の死をはじめ、その清盛の悪行、源頼朝や義仲など源氏勢の蜂起など、その凋落の兆しが並べられ、そしてその栄華を導いてきた総帥清盛の死が語られるまでを見ていこうと思います。<このブログの目次>重盛の死去〃 の清
”海人のたく藻の夕煙、尾上の鹿の暁のこゑ、渚々によする浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀(しっそつ)のきりぎりす、すべて目に見え、耳にふるる事、一つとして哀(あはれ)をもよほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は西海の浪に纜(ともずな)をといて七千余人、雲海沈々として、青天既にくれなんとす。孤嶋(こたう)に夕霧(せきむ)隔て、月海上にうかべり。極浦の浪をわけ、塩にひかれて行く舟は、半天の雲にさかのぼる。日かずふれば、都は
”海人のたく藻の夕煙、尾上の鹿の暁のこゑ、渚々によする浪の音、袖に宿かる月の影、千草にすだく蟋蟀(しっそつ)のきりぎりす、すべて目に見え、耳にふるる事、一つとして哀(あはれ)をもよほし、心をいたましめずといふ事なし。昨日は東関の麓にくつばみをならべて十万余騎、今日は西海の浪に纜(ともずな)をといて七千余人、雲海沈々として、青天既にくれなんとす。孤嶋(こたう)に夕霧(せきむ)隔て、月海上にうかべり。極浦の浪をわけ、塩にひかれて行く舟は、半天の雲にさかのぼる。日かずふれば、都は
記紀 紀年の錯綜今まで4回にわたり、継体天皇の時代を見てきました。過去に例のない五世王という立場で即位し、畿内の諸豪族をまとめ、九州磐井の乱を平定後、屯倉や国造の設置等により大和政権の中央集権化を強化し、のちの飛鳥京時代の基礎を作った天皇として、日本史の画期であったことが見て取れました。その中で、この時代の記紀の紀年の立て方には様々な錯綜が見られます。その錯綜とは、武烈の崩御から継体の擁立、即位そしてその大和入りまでの期間、次世代の安閑・宣化さらに欽明の即位、また仏
記紀 紀年の錯綜今まで4回にわたり、継体天皇の時代を見てきました。過去に例のない五世王という立場で即位し、畿内の諸豪族をまとめ、九州磐井の乱を平定後、屯倉や国造の設置等により大和政権の中央集権化を強化し、のちの飛鳥京時代の基礎を作った天皇として、日本史の画期であったことが見て取れました。その中で、この時代の記紀の紀年の立て方には様々な錯綜が見られます。その錯綜とは、武烈の崩御から継体の擁立、即位そしてその大和入りまでの期間、次世代の安閑・宣化宣化さらに欽明の即位、ま
今まで3回にわたり継体天皇について考えてきました。その中で、継体天皇即位前夜として、三王朝交代説をもとに、三輪王朝、河内王朝、そして新王朝としての継体王朝誕生までの経緯を確認したその中で河内王朝の系統の断絶に至る、朝廷内部の異母兄弟による壮絶な権力闘争によって、記述が残る23名の皇子の内、実に13名の皇子が殺害された上記によりついに後嗣が途絶え、飯豊青皇女の執政を経て履中天皇二世王億計・弘計両天皇の発見により、皇位がつながったこの河内王朝に
今まで3回にわたり継体天皇について考えてきました。その中で、継体天皇即位前夜として、三王朝交代説をもとに、三輪王朝、河内王朝、そして新王朝としての継体王朝誕生までの経緯を確認したその中で河内王朝の系統の断絶に至る、朝廷内部の異母兄弟による壮絶な権力闘争によって、記述が残る23名の皇子の内、実に13名の皇子が殺害された上記によりついに後嗣が途絶え、飯豊青皇女の執政を経て履中天皇二世王億計・弘計両天皇の発見により、皇位がつながったこの河内王朝に、4名の姫を入内させ、6名
近江か越前か継体の出自を語るとき一番に問題となるのは、どこで生まれ、どこで育ち、そしてどこから迎えられたか、「日本書紀」に云う越前国か、「古事記」に云う近江国かということです。「日本書紀」は「上宮記 一に云ふ」とほぼ同じ内容で、継体天皇の出生譚として、「近江国高島郡の三尾の別邸」にいた父の彦主人王(汗斯王)が、垂仁天皇七世の孫、振媛(妹布利比弥命)がとても美人であると聞いて、「越前国坂井の三国」より迎え入れて妃とした。そして天皇が生まれた。
近江か越前か継体の出自を語るとき一番に問題となるのは、どこで生まれ、どこで育ち、そしてどこから迎えられたか、「日本書紀」に云う越前国か、「古事記」に云う近江国かということです。「日本書紀」は「上宮記 一に云ふ」とほぼ同じ内容で、継体天皇の出生譚として、「近江国高島郡の三尾の別邸」にいた父の彦主人王(汗斯王)が、垂仁天皇七世の孫、振媛(妹布利比弥命)がとても美人であると聞いて、「越前国坂井の三国」より迎え入れて妃とした。そして天皇が生まれた。天皇がまだ
王統は絶えてはいなかった!先のブログ「継体即位前夜」では「河内王朝」十一代目の第25代武烈天皇で、ついに仁徳系の後嗣は一人もいなくなってしまいました。記紀は両書とも「元より男女なくして継嗣絶ゆべし(継体即位前紀)」と皇統断絶の危機を訴えます。ところがそのすぐあとに、大連大伴金村が「足仲彦天皇(仲哀)の五世の孫倭彦王が丹波国におられるので、試しに兵を遣わし御輿を守らせてお迎えしよう」と提案し、迎えを差し向けます。ところが当の倭彦王はその兵を見て恐怖におののき山の中に遁
前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資 前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資 前回「義経伝説 その1」で義経が伝説となり、判官びいきの言葉を生むまでを見てきましたが、そこで引用してきた各資
前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ 前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ 前回のブログシリーズ「平家物語 その時代」で「平家物語」に登場する義経を見てきましたが、そこに描かれる義経はあ
前回のブログの主題、一の谷の戦いで平家が範頼・義経の鎌倉方源氏軍に敗れたのが元暦元年(1184年)2月の事で、翌文治元年(1185年)2月の八島(屋島)の戦いを経て、壇ノ浦で平家一族が滅亡するのが翌月の3月です。このわずか1年余りの出来事に平家物語は巻十、巻十一の二巻を使っています。そして巻十二にて平家嫡々の六代御前の死をもって「それよりしてこそ平家の子孫はながくたえにけり」、全巻を終了します。今回はこのブログシリーズの終章として、最後の三巻を見ていこうと思います。この三巻
平家を西国に追い落とした義仲は都に入ったものの西国での平家との戦に手間取り、都の中では後白河院や貴族に疎まれた結果、院の義仲追討の院宣を受けた頼朝率いる鎌倉軍によって、粟津で首を取られるまでを見てきました。一方、都を落ちた平家は瀬戸内海を西に進み大宰府を目指しますが、鎮西の豪族たちも平家に味方するものは少なく、もはや平家の意のままにはなりませんでした。<このブログの目次>大宰府落生田の森、一の谷の戦い<鵯越><坂落し><忠度最期><敦盛最期><知章最期(「
平家を西国に追い落とした義仲は都に入ったものの西国での平家との戦に手間取り、都の中では後白河院や貴族に疎まれた結果、院の義仲追討の院宣を受けた頼朝率いる鎌倉軍によって、粟津で首を取られるまでを見てきました。一方、都を落ちた平家は瀬戸内海を西に進み大宰府を目指しますが、鎮西の豪族たちも平家に味方するものは少なく、もはや平家の意のままにはなりませんでした。<このブログの目次>大宰府落生田の森、一の谷の戦い<鵯越><坂落し><忠度最期><敦盛最期><知章最期(「