5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
総武本線「旭駅」~「飯岡刑部灯台」。その6。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
そろそろ昼飯時。旭駅周辺で買い物ができず、ここまで。帰りのバス時間も考え、刑部灯台から帰途へ。「上永井公園飯岡刑部岬展望館~光と風~」。この展望館は、千葉県立九十九里自然公園内に位置し、自然とふれあう活動の場として平成13年3月にオープンしました。展望館のある刑部岬からの眺望は、「日本の夕陽百選」「日本の旭百選」「日本夜景遺産」「日本夜景百選」「ちば眺望百景」「関東の富士見百景」に選定されています。空気の澄んだ晴天時には、水平線に浮かぶ富士山や夕陽に映える富士山のシルエットを見ることができます。特に2月下旬には父子山頂に夕陽が沈む「ダイヤモンド富士」という珍しい現象が見られます。ここ刑部岬からいすみ市太東岬に至る約66㎞の九十九里浜は、ハマヒルガオなどの植物群落のある美しい海岸として「日本の白砂青松100...総武本線「旭駅」~「飯岡刑部灯台」。その6。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その5。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
飯岡漁港・刑部岬付近の今昔。(現在)砂州が沖に伸びています。(1880年代)岬のような地形ではありません。100年間の海岸地形の変化は著しい。港湾施設の建設などで潮流の変化があったことも、大津波の一因になったのでは?「・・・自宅兼店舗は、海に向いた玄関から津波が入り周囲の壁を壊して突き抜けていた。幸い家族は避難して無事だったので、しばらくは友人やボランティアの力を借りて私は週末だけ帰り片付けを手伝った。再建に時間がかかったが12月にオープン。私は郷里に戻り父と二人で店を経営してゆく決心をした。経営は難しいが、私なりにインスタグラムやフェイスブックなどを活用して、会席料理をもっと気軽に若い人に楽しんでもらえるよう頑張る。」「大地震の日は飯岡中学校で帰りのホームルームの最中だった。津波が来るかもしれないと言う...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その5。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その4。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
断崖絶壁の下は、大海原が広がる。刑部岬の先端。「屏風ヶ浦と刑部岬」。飯岡台地が断崖となって太平洋に落ち込む屏風ヶ浦は、高さ60m、現在地には飯岡灯台がたち、刑部岬と呼ばれている。灯台周辺は公園に指定されており、水平線と九十九里浜が織りなす眺望は、昼夜を問わず絶景であり人気が高い。ここ刑部岬から銚子市名洗にかけて、高さ40~50mの絶壁が屏風のように約10㎞にわたり続いており、屏風ヶ浦は俗に「東洋のドーバー」と呼ばれています。太平洋の荒波が直接打ち寄せるため、その浸食により形成されたもので、700年余りに約6㎞近く陸地が後退したといわれています。平安時代末期にはこの地に源義経の四天王の一人、片岡常春が佐貫城をかまえていたが、その城跡は激しい浸食による海岸線の後退で今では海中に没してしまい、昔の姿はありません...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その4。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その3。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
眼下に「飯岡漁港」が広がります。飯岡の町並み。右奥の遊歩道を上がってきました。遠く九十九里浜が連なる。けっこう高台に上がってきます。左手奥が刑部岬の先端。「飯岡刑部岬展望館」が正面に。屏風ヶ浦先端に立つ「刑部灯台」。眼下に広がる大海原。「希望の鐘」。「打ち上げ花火下から見るか横から見るか」ロケ地。「東日本大震災により大きな被害を受けた本作のロケ地と東日本復興への願いをこめて」と、2011年7月22日から8月31日まで岩井俊二の公式サイトにて、無料で動画配信された。※Aパート、Bパートがあるようです。Bパート足をぶつけることなく勝った典道はなずなに「花火大会に二人で行こう」と誘われ、男友達にも「打ち上げ花火は横から見たら丸いのか?平べったいのか?」と誘われるも、ギリギリまで粘った典道はなずなとの約束を優先し...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その3。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その2。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
飯岡漁港付近の今昔。(1880年代)銚子港への道は、飯岡村(飯岡漁港)を抜けて、北東に向かいます。(現在)飯岡漁港付近は港湾施設が整備され、道筋は変化していますが、東側には旧道が残っています。刑部灯台を望む。釣り船が出航。灯台の方へ向かいます。この道はかつての往還道。現在は、遊歩道になっています。山を回り込みながら進む。右に「海津見神社」。通称「永井の妙見様」。急な石段を上っていきます。坂道を振り返る。かつての往還道になっている。50mほどの高さを一気に上がり、灯台に向かう舗装道路に出ます。銚子に向かう旧道はここから台地の縁を東に進みますが、次回に回すことにして、刑部灯台に向かいます。この付近の今昔。(1880年代)(現在)〇が分岐点。灯台への上り坂を行くと、絶景が待っていました。総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その2。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その1。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
今回は、もう一つある「銚子往還道(従銚子港至千葉町道)」を歩く、その前に。旧道に連なる「飯岡漁港」から刑部岬・灯台付近を探訪します。4・19(金)。晴れ。「旭駅」から旭市コミュニティバスを利用して、「玉崎神社」下車。(ここまで運賃100円。)※小学生、75歳以上、運転免許返上者は100円。通常は200円。数人乗ってきました。飯岡漁港まで歩きます。道路が整備され、新築のおうちが目立ちます。実は、それには背景があったのですが、後で知ります。さらに、19日に出かけた翌日、整髪に行ったとき。行きつけの床屋さん、飯岡の「三川」出身だということが判明。「昨日、歩きましたよ。旭駅からバスに乗って、飯岡漁港から刑部灯台まで」「高校まで三川に住んでいました」そこから、話が弾んで、玉崎神社までのコミュニティバスの停留所を停留...総武本線「旭駅」~「刑部灯台」。その1。(「銚子往還」をゆく。第7日目。)
総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その6。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
総武本線・上りの電車。古い石塔。旧道沿いの街並み。「塙廣屋」。屋号?「柴崎町」交差点。国道356号「利根水郷ライン」を横切る。※利根水郷ライン=千葉県銚子市から、我孫子市に至る全線に渡って利根川右岸に沿う。角に大きな記念碑。「銚子市立海上幼稚園」。奥に「海上小学校」。海上=うなかみ。海上村(うなかみむら)は、千葉県海上郡に存在した村。現在の銚子市の、おおむね松岸駅と椎柴駅・猿田駅の間の沿線に位置していた。海上は広域地名であり、1954年から2005年まで存在した海上町(現旭市)は本村と位置も異なる別の自治体である。銚子市立海上小学校などにその名をとどめている。いよいよゴール地点へ。正面は、「藤兵衛支店」。来た道を振り返る。「銚子信用金庫松岸支店」。佐原方面から利根川沿いを進む「銚子街道」と出会う(追分)。...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その6。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
久々の「向島百花園」。4・20。ツツジ・サツキ。サクラソウ。タケノコ。タムケヤマ。カルガモの姿が。
すっかり春めいた今日この頃。小さな花が咲きそろっています。近所のおうちの車庫前の溝にも小さな花が。風で運ばれてきたのか、車で出かけたときにタイヤについてきたのか?土もなさそうなところに、けなげに咲いています。路地裏にも、これは我が家の鉢植え。そういえばサクラソウの咲く時期。毎年、百花園でも地元の方々が丹念に育てた「展示会」が開かれるはず、今年も、と出かけます。ところが、今年は中止。暑さで生育が思うようにいかなかった、とのこと。今年は園内で育てた花のみが。それでも、様々な色合い、姿のサクラソウが咲いています。満開のサツキ。ツツジとサツキは、それぞれ似た特徴をもった植物のようです。では、どうやって見分ければいいのでしょうか。「ツツジとサツキはどちらも花が非常に良く似ていることから、間違えてしまうことも多い植物...久々の「向島百花園」。4・20。ツツジ・サツキ。サクラソウ。タケノコ。タムケヤマ。カルガモの姿が。
総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
収穫済みのキャベツ畑。平地が広がる。「標高8.5m」。約50m下がってきたわけです。前方遠くには「JR線」。東方向。西方向。キャベツ畑。JR総武本線踏切。「柴崎街道踏切」。銚子方向。旭方向。成田線「柴崎踏切」。佐原方向。銚子方向。この際、まとめて路線図。成田線総武本線佐倉駅から北へ分岐し、成田駅を経て、利根川南岸に沿って、再び総武本線との合流駅である松岸駅へ至る本線と、成田駅から分岐して我孫子駅に至る支線(我孫子支線)と、成田駅から約2km北の地点で本線と分岐し空港第2ビル駅を経て成田空港駅に向かう支線(空港支線)を持つ路線である。本線の佐倉駅-松岸駅間では総武本線よりも13.4km営業キロが長い。成田線の正式な起点駅は佐倉駅であるが、千葉駅を発着する成田線発着・経由列車は、総武本線成東駅方面行きの列車と...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
三叉路に石碑などがいくつか。小さな集落に入ります。右手には畑が広がります。路傍には明るい色のキク科?の花々が。ガーベラ?この花の名は?右手下にも住宅が。剪定された見事な槙。県道に合流します。その手間に作業所。ダイコンを水洗いながら先端を切り落としています。カートに山積みされたダイコン。その作業所の前に、木彫りの熊?振り返る。合流地点に記念碑。この付近、旧道の道筋ははっきりしません。(1880年代)丘陵と丘陵の間を進む。(現在)黄線が県道。白線が旧道。西側には畑が広がる。この道が旧道の一部?東総台地の北端から下り坂にかかります。台地に上った分、下るわけです。坂の途中に古い石碑。右手は谷筋。前方が開けてきます。平地に降り立った印象。来た道を振り返る。<imgsrc="https://blogimg.goo.n...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
銚子市内に入っても、畑地が大きく広がる。収穫時期をずらしてのキャベツ畑。収穫済みとこれからのもの。こちらでは、ダイコンの収穫が盛んにおこなわれています。何を植えるのでしょうか?どういう工場・施設だったのか?廃業になっているようです。ダイコン畑。シートをかけた畝。これから大きくなるキャベツ。奥には、成長したキャベツ。キャベツもダイコンも収穫時期をずらすことで、年間を通しておいしい野菜が収穫できます。また、露地植え、といういところにこの地域の特徴があるようです。遠くの方まで、風力発電所の風車(プロペラ)が。シートを外したダイコン畑。緑濃きキャベツ。キャベツ畑が遠くまで続いています。県道から右にそれて進みます。小さな集落へ。ハウスから軽トラにいくつも苗を載せています。「何の苗ですか?」「メロンの苗でしすよ。」メ...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
大きな風車(プロペラ)の下にも畑。千葉県の北東部、銚子市や旭市などの東総地域には、東総台地という標高40~50mの台地が広がっています。関東平野から太平洋へと突き出しているこの地域は、東南北の三方を海に囲まれており、1年を通して風速6m/s前後の強い風が吹いていることから、旭市から銚子市にかけての東西約10kmの範囲に、過去10年以上にわたって累計40基もの風車が建設されました。車で成田空港方面から国道296号線を東進し、さらに匝瑳市で国道126号線に入って旭市へと向かうと、まず左手の台地の上に飯岡風力発電所(850kW×5基)が見えてきます。そこから更に銚子方面へと走ると、銚子市内に入ってまもなく、丘の向こうに八木風力発電所(1,500kW×6基)が見え、海側には銚子小浜風力発電所(1,500kW×1基...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
4月13日(土)。晴れ。今回。総武本線「旭駅」で下車し、総武本線と成田線が合流する「松岸駅」から帰途に、という計画。歩くとかなり時間がかかり、途中、北総台地を越えていくことになります。膝の具合もよくないので、途中までタクシーを利用、台地の南端まで行き、そこから歩くという算段。けっこう安易な歩きになりそうです。この付近の今昔。(現在)道筋はほとんど変わらない。(1880年代)「従銚子港至千葉町道」。塙新町。まとまった集落になります。ここまではカーブが続く、緩い上り坂。振り返る。塙十字路。左の角に「塙十字路祠」。集落から次第に離れていくと、左右が開けてきます。風力発電の大きなプロペラが目に入ってきます。起伏にとんだ丘陵。緩やかな上り坂を進みます。右には谷に降りる細道。谷の向こうに雄姿を見せる巨大なプロペラ。振...総武本線「旭駅」~「松岸駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第6日目。)
総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
「安中藩太田陣屋跡」。解説版。明和4年(1767)、上野安中藩の下総領二三ヵ村、およそ1万石の土地を支配する拠点として設けられた陣屋の跡。・・・安中藩はここ太田村に陣屋を置き、代官2名、与力数人を常駐させて、支配地の年貢の収納、治安などを行わせた。周囲に堀をめぐらし、南に長屋門をおき、奥に間口八間・奥行四間の役所があった。堀は排水溝程度のもので粗末なものだった。明治初年、廃藩になるまでのおよそ100年間を支配したが、江戸時代末期にアメリカのペリーが江戸湾に来航し、海防の必要から藩より30数人の武士が派遣増員された。廃藩後、陣屋の施設は撤去されたが、部下たちのなかには安中に帰らずにこの土地に残った者もあり、現在もその子孫が市内で生活している。県道に戻ります。旭市のマンホール。太平洋から昇る朝日と市の木クロマ...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
カフェ&レストラン「グレコ」。開けたところに出ます。角に「セブンイレブン」。旭の市街地に向かいます。すでに水が張られた田んぼ。「沖縄を楽しみましょう三線ライブもやっています」。昼間、お店は閉まっていますが。しばらく進んで旧道へ。旧家の趣。すぐ県道に復帰。来た道を振り返る。路地の奥に趣のあるおうち。「宿天神青年館」との看板が。7月27日、旭市太田の宿(しゅく)天神(てんじん)地区にある八坂神社祇園祭、通称「太田(おおた)祇園(ぎおん)」の夜に演じられるつく舞を、地元では「太田のエンヤーホー」と呼んでいる。つく舞は、長さ9間の柱と、その前に組まれた2間四方、2段の舞台で演じられ、動物の面を付けて舞台上段で無言劇を演じる「地(じ)舞(まい)」部分と、登り獅子がつく柱に登っての曲芸部分から成ります。地舞では赤獅子...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
園芸店[園芸店「川嘉園」。県道は、整備されたようです。カーブごとに注意喚起の表示。用水路と古仏。道路整備に伴って移転?槙の生垣が続く。槙の生垣が連なる様子は、房総半島によく見られる風景。趣ある門のおうち。匝瑳市から旭市に入ります。左の旧道に入ります。県道に、「小久保畳店」。「一針入魂」。国道に合流します。沿道沿いのおうち、鉢植えのチューリップが満開。趣のある門構え。内裏神社。社伝によれば、祭神耳面刀自媛(弘文天皇の妃)は関白太政大臣の藤原鎌足の娘で、白鳳元年に壬申乱が起り、妃は悲運にも弘文天皇と共に近江の露と消えゆる所を、逃れて東国に下りました。途中海難に遭い現在の匝瑳市野手の内裏塚浜に漂流し、不幸にもそこで病歿し、従者などが媛を葬り墳土を築きました。妃の従者の子孫の美敷が天慶3年(940年)に野手の墳土...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
銚子方向。車の通りも少ない旧道を進む。古い石塔。判読不能。バス停「新宿」。1880年代の古地図では民家がなく、「新宿」(しんじゅく・にいじゅく)という地名はありません。八日市場町が発展するにしたがって、「新宿」と名付けたものと思われます。※かつて、この地域には沼地・湿地帯が広がっていました。ここにも同じような古い石塔。「四国八八ヵ所巡礼・・・記念碑」?用水路と田畑が広がる。廃業となったビジネスホテル。ソテツがたくさん。通りの向こうに「水準点」。7.0m。田植えの準備中。この付近の今昔。(現在)(1880年代)↓の部分が直線化されている。左側の歩道が旧道?かなり幅広い。バス停「東谷入口」。家並みが続く地区へ。「匝瑳市立平和小学校」。「庚申塔」「西国参拝記念碑」など、まとまって古仏が置かれています。両側に家並...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
「銚子往還」歩きも5日目になりました。3月30日(土)。晴れ。今回は、総武本線から離れて歩きます。「旭駅」が街道近くにあるので、そこまで歩くことに。駅でいうと、2駅になります。「八日市場駅」。銚子往還(旧道)に「復帰します。看板建築。モルタル仕立て。バス停「法務局前」。「←八日市場青果地方卸売市場」。バス停「篭部田(かごべた)」。水準点。地中に埋めてあるケースもあるようです。9.0m国道126号に合流します。(「篭部田」三差路)左手奥に「市役所」、右に「八日市場ドーム」。この先、斜め右に入っていきます。「大利根用水西幹線用水路」大利根用水(おおとねようすい)千葉県北東部の利根川沿岸地域の排水と、九十九里平野北部の地域への農業用水の供給を目的とした用水路。疏水百選に選定されている。千葉県香取郡東庄町で利根川...総武本線「八日市場駅」~「旭駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第5日目。)
JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
街道沿いに家並みが続くようになります。バス停「砂原」(八日市場イ)。バス停「仲町」。「裁判所→」。「千葉地方裁判所八日市場支部」。「塚本弓具店」。なかなか素敵な店構え。八日市場の中心街に入ってきます。ところで、「八日市場町」とは?かつて毎月八日に市が開かれ、市場町として発展した。「八日市場」の名はこれにちなむ。似た市名としては、滋賀県の八日市市(ようかいちし、現東近江市)があった。また、匝瑳(そうさ)市に改称後もかつてのイ〜ホの前に「八日市場」の名が付いている。(「Wikipedia」より)匝瑳市は、平成18年1月23日、八日市場市と匝瑳郡野栄町が合併して誕生した市です。市の名称については、八日市場市・野栄町合併協議会において、15歳以上の住民を対象に両市町の名称を除いて行ったアンケート調査で1位であった...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その5。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
隅田川・お花見客でいっぱい。満開の桜のもと。ユリカモメもたくさん。曇り空の下。
一昨日からPCの調子が悪く、電源を入れても起動しない。「ようこそ」がかなり長く(何分どころではない)続く。そのまま画面が動かず。再起動して先達の指示などを参考にして、あれこれ(例えばF8キーを押す)試みてもダメ。ますます事態は悪化(したのだろう)。PCにしてみればごちょごちょやりすぎだろ、爺さん!改善されない。HPで問い合わせてもらちが明かない。相手はおそらくAI。やり取りしても、行き違う。結局、PCを初期化することに、意を決して。昨日、5時間くらいかかって初期化。それで済むはずもなく、なんだかんだ我が家のPC様もご機嫌斜め。何とか再起動はしたが、今度は、メールやウィルス対策ソフトが起動しない。ここまでは、昨日夜。これらは、「明日できることは、今日するな」という原則に則って、今日に持ち越し。今朝。メール。...隅田川・お花見客でいっぱい。満開の桜のもと。ユリカモメもたくさん。曇り空の下。
JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
この先、旧道は、いったん消滅します。国道126号に合流します。バス停「」。「飯倉」=「いいぐら」と読む。(→)※国道の東奥に総武本線「飯倉駅」があります。「飯倉」。来た道を振り返る。左手。右手には「九十九里ホーム病院」。残り少なくなったキンカンの実。国道から左手の旧道へ。バス停「米倉三叉路」。すでに匝瑳市内に入っていました。(←)房総でよく見かける屋根の建物。「高橋本店」。商家らしい建物。バス停「米倉分校跡」。来た道を振り返る。用水路と古仏。「御菓子司処鶴屋」。水準点。9.9m。八日市場の町場に入っていきます。JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その4。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
集落に入っていきます。左角に記念碑?が。田畑が広がります。山裾沿いに家並みがあり、東側には田んぼが続く。立派な門構え。水準点。かつては重要な道筋だったことが分かります。標高7.1m。山裾では畑作業。直進。けっこう新しいのおうちが目立ちます。農道の向こうに「総武本線」。↓長い路地の先のおうちの佇まい。旧家らしい雰囲気。左手の奥にも。満開の真っ白な花。梅ではなさそう、いったい何という木でしょうか?隣では宅地?の造成中。「子安神社」の常夜燈。田植えに備えて?「お菓子のたいよう本店」。昭和26年創業、千葉県匝瑳市(そうさし)を拠点に近隣市町村に5店舗の直営店を運営している、地元の小さいお菓子屋です。落花生せんべいをはじめ、どら焼き、苺大福、慶弔まんじゅう・赤飯などの和菓子から、バウムクーヘン、マドレーヌ、クッキー...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その3。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
旧道らしいカーブが続く。踏切を越えます。「第二千葉銚子街道踏切」。総武本線・銚子方向。西方には田園風景が広がる。国道126号に合流します。この付近、旧道が失われています。「横芝光IC入口」。国道からすぐ旧道に入ります。左に「銚子連絡道路」造成中。歩いた後、「横芝光町芝崎(横芝光IC)~匝瑳市横須賀(県道八日市場野栄線)」が3月31日に開通しました。この向こうに進みます。「銚子連絡道路」。「国道126号」のバイパス的役割。この付近の今昔。(1880年代)大きな沼を巻いて北へ進む旧道。(現在)沼地を埋めて鉄道や国道が建設されている。田んぼが広がります。「成田国際空港」を離陸した飛行機の姿が(↓)。田植えの準備が進む。JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その2。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
「横芝駅」。銚子往還4日目。あと何日で銚子までたどりつけるか?3月24日(日)晴れ。ところで、横芝光町(よこしばひかりまち)千葉県の北東部に位置し、山武郡(さんぶぐん)に属する町。成田空港の南側、九十九里浜に面する自然豊かな町で、千葉県内の町村では人口規模が最大。現・九十九里町にて生誕した伊能忠敬が、現・香取市佐原に婿養子にいくまでの少年・青年期を過ごした町としても知られている。千葉県北東部に位置し、千葉市から約35キロメートルの距離、東京都の都心から60-70キロメートル圏内である。太平洋に面し、九十九里浜および九十九里平野のほぼ中央に位置する。町の北部は標高が高い場所もあるが起伏は大きくなく、中央部を九十九里平野最大の河川である栗山川が流れている。2006年(平成18年)3月27日に匝瑳郡光町と山武郡...JR総武本線「横芝駅」~「八日市場駅」。その1。(「銚子往還」をゆく。第4日目。)
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5月16日(金)。曇り。東急「新丸子」駅で下車し、「東海道新幹線」「湘南新宿ライン」の下をくぐり、「多摩川」に復帰。対岸は、東京都大田区。下流方向。「河口まで12K」。河川敷には、「多摩川ゴルフ倶楽部」ゴルフ場が広がる。武蔵小杉駅付近の高層マンション群。対岸は、「キヤノン本社」付近。「ガス橋」。「多摩川大橋」。川崎リバーサイドパーク(ゴルフ場)。。x
神保町に出かけたついでに酒屋さんへ。この酒屋さんは全国の地酒を置いてあります。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5c/ea/48d17bea432009ba28d8ae497f58e483.jpg">「呼友(こゆう)」。x
今度は、左の方の源流をたどっていきます。・・・生息地へ流れ込む生活排水は約千五百世帯分で、日量約千立方メートルだ。その生活排水を県と民間養鱒場から放流する日量約二万立方メートルのきれいな水で希釈しているのが現状なのだ。水質測定結果から、生活排水による汚濁の進行が明らかとなり、稚魚や餌となる甲殻類への影響が懸念されている。このままでは近い将来、絶滅のおそれもある。絶滅させないためには、この区域に最低三kmは生活排水を流入させない対策が急務である。京都府と兵庫県の一部に生息し絶滅したミナミトミヨの二の舞になることは、是が非でも防がなくてはならない。世界で唯一熊谷市にしか生息していない希少種ムサシトミヨを守れるとすれば、それは、流域住民の意志と行政の決断にかかっている。(この項、「埼玉新聞」より)この記事のうち...c
<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/d1/46ecbb9c96ed82474989a87876322445.jpg">z
すぐ下は、吾妻川の渓谷。右には断崖絶壁が連なる。ここに鉄道と旧国道が通っています。狭間によく鉄道を敷いたものです。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1c/28/8819281773775eef0c1760fb7dfab12a.jpg">z
10月1日。晴れ。八ッ場ダム建設で廃線となった「吾妻線」沿線(「川原湯温泉駅」~「岩島駅」)を歩きました。一時の暑さもおさまった感のする一日。家を出たときは雨がポツポツ、しかし、高崎付近あたりでは、すっかり晴れ渡ってきます。沿線の田んぼも稲刈りが進み、秋の田園風景。約ひと月ぶりの「吾妻線」です。今回、「八ッ場ダム」から「岩島駅」(「川原湯温泉駅」の一つ渋川駅寄り)まで歩く予定です。「川原湯温泉駅」に12時ころ到着。前回同様、今回も小生一人、下車。八ッ場ダムまで歩きます。思ったよりも汗をかきました。※「八ッ場ぐるりんバス」12:06発のバスを利用すれば、わずか8分ほどで八ッ場ダムに着きます。無理して歩く必要はありません。旧線路が眼下に見えます。エレベータで下まで降り、通路を歩くと、一気にダム下に。この橋から...a
高麗川駅に近づきます。住宅と田畑と。緩やかな丘陵地帯。豊かな緑の中に住宅が。畑が広がっています。「高麗川駅」に到着。隣のホームから「八王子行き」。スムーズに乗り換え。当駅の所属線である八高線と、当駅を終点とする川越線の分岐駅となっている。八高線は当駅を境に八王子方面が電化、高崎方面が非電化となっており、運転系統が分断されている。また、川越線も電化されており、川越線の川越方面と八高線の八王子方面で当駅を経由して直通運転が行われている。また八高線には、かつて当駅から青梅線を経由して中央線直通で東京駅との間を結ぶ電車も設定されていた。八高線は八王子駅から当駅までが八王子支社、当駅から北の区間が高崎支社、川越線は大宮支社の管轄となっており、当駅は八王子支社の管轄となる。※川越線埼玉県の県庁所在地であるさいたま市か...z
しだいに雨も上がり、青空が広がってきます。住宅が増えてきます。「明覚(みょうかく)駅」。埼玉県比企郡ときがわ町大字番匠(ばんしょう)にある、東日本旅客鉄道(JR東日本)八高線の駅である。ときがわ(都幾川)町にある唯一の鉄道駅で関東の駅百選にも認定されている。※当時の村名が「明覚村」であったことにちなむとする説と、当時「妙覚寺」というお寺があり、それが「明覚」に転訛したという説がある。1988年(昭和63年)11月9日:午前3時頃出火し、駅舎が全焼。1989年(平成元年)9月18日:現駅舎完成。駅舎は旧・都幾川村の木を使用して建築された。1995年に駅舎がグッドデザイン賞受賞。1997年(平成9年):「関東の駅百選」第1回選定駅になる。選定理由は「地元産の丸太で造り、周辺の山とマッチしたカナダ風ログハウスの...x
「児玉駅」。埼玉県本庄市児玉町児玉にある。1931年(昭和6年)7月1日:鉄道省八高北線(現・八高線)児玉駅-倉賀野駅間開通時に終着駅として開設。盲目の国学者塙保己一塙保己一は、江戸時代の中頃の延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)に生まれました。7歳の時に病気のために失明し、15歳になって江戸に出て当道座(盲人の組織)に入り、検校雨富須賀一に弟子入りしました。保己一は当道座での修業を積み苦労を重ねて立身し、晩年には当道座の最高位である総検校に昇進しました。保己一は国学者としても著名であり、「群書類従」や「続群書類従」の編さん、さらには和学講談所の設立及び運営、当道座の改革など多大な功績を残しています。中でも群書類従の編さんは41年を費やした大事業であり、正編666冊、続...z
倉賀野駅を過ぎると、踏切が二う。一つは「日光例幣使街道」、その次に「旧中山道」を過ぎていきます。二つとも歩いて通過しましたが、どのあたりだったか、確認できず。「ザ・ガーデンゴルフクラブ」。烏川河川敷。「烏(からす)川」。烏川は、その源を群馬、長野の県境にそびえる鼻曲山(1654m)に発し、榛名山の西と碓氷丘陵の東の斜面境を東南方向に流れ、平野部に入ってから碓氷川、鏑川、神流川の西毛の三大河川を合わせて利根川に合流しています。流域面積は470km2、流路延長は61.8kmです。(「国土交通省」HPより)※烏川の名の由来水源の地形が唐臼(中国の臼)に似ており「カラウス川」と呼ばれたとの説、また傷ついた日本武尊を烏が現在の烏川水源に導いて救ったから・・・など、烏川の名の由来には諸説がある。「北藤岡駅」先で、高崎...z
8月22日から8月25日まで、「向島百花園」で「虫ききの会」が行われています。江戸時代から続く伝統行事「虫ききの会」。この期間は、夜の9時まで開園。相変わらず蒸し暑い一日。そんな中、昨日(23日)、夕涼みがてら、行ってきました。荒川・四ツ木橋より。遠くにスカイツリー。向島百花園。園内から放された「スズムシ」の涼しげな音が聞こえてきます。ひとときの安らぎ。風鈴の音が響く。カルガモの姿はありませんが、虫たちの展示。遠くにスカイツリー。しだいに暮れなずむ空の下、さまざまな色彩に変化する「スカイツリー」を紹介。別の場所から。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/2e/52cfa81eec5e648ba585da51406b35ad.png">園内からのス...「虫ききの会」。8月23日・向島百花園。夕涼みがてら。
「「訳者あとがき」より抜粋そもそもナチスは、ヒトラーに取材するフランス人を厳選していた。自国の世論において、かなりの発言力と影響力をもっていた退役軍人たちを利用したのだ。フランスの場合、第二次世界大戦での死者(約二一万人、市民約四〇万人、計約六〇万人)よりも第一次世界大戦の死者(一三六万人)のほうがはるかに多い。悲惨な戦いを経験したフランス人にとって、戦争を二度と繰り返したくないと願うのは自然だろう。それゆえに、ヴェルサイユ条約でドイツを追い詰めることを危惧する向きすらあった。こうした切なる平和への願いをもとに、フランス人退役軍人とナチスのフランス通が友好関係を築き上げた結果誕生した仏独委員会が、フランス人に対するナチスドイツの窓口になる。ヒトラーにお目通りがかなうのは、ナチス側のもはやいいなりだった仏独...「ヒトラーへのメディア取材記録」
q。「物語は、「今日、また食べ物を吐いた。でもこれが最後だ。」という主人公エマの言葉に始まり、同じ言葉で終わる。主人公であるエマ・ラシュナルは、17歳。祖母マムーシュカのことが大好きで、心から尊敬していたが、祖母の死後、祖母の部屋で古い日記を見つけたことで、祖父母にまつわる恐ろしい事実を知り、摂食障害が日ごとに悪化していくことに・・・。その古い日記は、ポーランドのゾビブルという収容所でユダヤ人の「処理」にかかわっていた青年ジャック・デロシュの日記。読む権利などないと思いつつ、どうしようもなく惹きつけられて開いてしまった日記には、ナチの武装SS、ヒトラー、ユダヤ人の隔離、排除、強制退去、絶滅収容所、鉄条網、監視塔、ガス室、エヴァ・ヒルシュバウムとその息子シモン・・・。嘔吐と過食を繰り返し、身も心もぼろぼろに...「ジャック・デロシュの日記」。「ショアーの歴史」。
何を見つけたのか?それも飽きて、今度はジジをくわえ(お気に入りの獲物?)、うなり声を上げて歩き回る。※ジジ魔女の宅急便の主人公キキの相棒の黒猫。よくキキの話し相手をしている(これは、キキの数少ない能力の1つ)。どこか人間臭いネコで、ある届け物の受取人の少女の不機嫌そうな「あたしこのパイ嫌いなのよね」発言に「感じ悪い」と非難し、あかんべーをしていたりする。キキの相棒だが、その信頼ゆえか、ぬいぐるみの身代わりにされたり、ピンチになる場面もあった。この時ばかりはキキに愚痴を漏らしている。しかしある日、白猫のリリーに一目惚れした結果、キキのもとにあまり居付かなくなる(尚、リリーはおソノさん夫婦が経営するパン屋の常連の女性の飼い猫で、当初はすました態度を見て「いけ好かない」と発言していた)。エンディングでは、その白...記事がない時のソウタ頼み。その2。
ということで、ソウタ君。「ソウタ」と「あんず」。あんずはパッといなくなるので、写真がなかなか撮れない。暑さでぐったり。そこへ大きな箱の届け物が。さっそく、ところが、意外に最初に入ったのは、あんず。においをかぐソウタ。ソウタに譲って、あんずは、遠目で。飽きたと見えて、ゴロンと。今度は窓から暑い日差しの外を眺め、それも飽きて、テーブルの下でゴロン。そのまま静かにしているかと思ったら、記事がない時のソウタ頼み。
白岡市のマンホール。抽象的な「家族」を中央に配置。その周りを市の花「梨の花」と市の木「松」のつぼみで飾り、「創造と希望」がコンセプト。「篠津一号橋」。「星川」。星川の上流(右手)に「星川と隼人堀川の立体交差」があります。橋を渡って星川沿いに進もうとしましたが、その土手は草が生い茂っていてちょっと歩きにくい。そのため、工場の脇を迂回せざるをえません。けっこうな回り道。「蓮田白岡環境センター」。右手に流れる「隼人堀川」の脇を進んで、やっと元荒川に戻ります。蓮田白岡環境センターの煙突。産廃工場などがあり、狭い道路を大型車などが行き交う。星川までの桜並木もなくなり、蒸し暑い中、汗をかきはじめます。上流に橋が見えてきます。橋の手前で右に折れ、隼人堀川沿いに。「根金小橋」。※隼人堀川は白岡市柴山を管理起点とし、宮代町...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
向島百花園のカルガモたち。いったいどうしているか?ところが、どこを見渡してもいません。親もヒナもいません。ヒナも大きく育ち、別のところに移動したのでしょうか?そのかわり、池の上をシオカラトンボがたくさん飛んでいます。帰り際に窓口の方に尋ねたら、4日前にはいた(7/23)、とのこと。こうしてカルガモの姿は、来年までおあずけ。園内には、風鈴が涼しそうな音色を響かせています。足下には木漏れ陽。炎天下で花を咲かせている「はす」一輪。そしてザクロの実が一つ。朝顔展の準備が始まっています。売店には「氷」の旗が。この前、TVで放送していましたが、「氷」の旗は全国ほぼ共通なようです。明治政府の販売許可証だった、とか。アゲハチョウの姿が(↓)。遠くにスカイツリー。今日は、「隅田の花火大会」。スカイツリー近辺は大賑わいになる...7月27日(土)。酷暑の向島百花園。カルガモたちの姿が見当たらない池。風鈴。朝顔。そして、隅田川花火大会(開催前の隅田堤)
7月19日(金)。曇りのち晴れ。朝はまだ日差しも強くなく、歩き始めました。「八幡橋」方向。かなり蒸し暑いですが、なんとか予定通り歩けそうかな?と「さくらロードガーデン」。川べりも歩けそうです。左手に解説板があります。「茅野(かやの)の渡し」。現在の元荒川は、河川改修や西地区の区画整理などにより、かつての自然や地形などの面影は少なくなりました。この元荒川の白岡・篠津には二カ所の渡し場がありました。この付近は「茅野の渡し」があり、下流の八幡橋付近には「八幡の渡し」がありました。茅野の渡しは、町内の篠津地区と蓮田市貝塚地区を結ぶものです。この渡し場の瀬は蓮田側がきゅうに深くなっていて篠津側は浅くなっていました。舟は対岸には直接着くことができましたが、篠津側は砂の上を少し歩いてから岸に上がりました渡しは対岸の二軒...宇都宮線「白岡駅」~「蓮田駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第4日目。挫折編。)
「東北新幹線」。白岡町(白岡市)の表示が。※「白岡市」白岡市は、関東平野の中ほど、東京都心まで約40キロメートルであり、総面積は24.92平方キロメートルで、東西は9.8キロメートル、南北は6.0キロメートルと東西に長い市域です。昭和29年に日勝村、篠津村、大山村(上大崎を除く)の合併により町制を施行し、白岡駅を中心に発展を期するという計画のもと白岡町と改称しました。当時の世帯数は2,678世帯、人口15,679人でした。誕生から56年後の平成22年国勢調査では、世帯数が17,869世帯、人口が50,272人となるまでに成長しました。このため、市制施行に向けた準備を進め、埼玉県による白岡町を白岡市とする決定を受けて、平成24年10月1日の市政施行により、白岡市が誕生しました。交通面では、都心まで40分程度...東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
日差しが強くなってきます。木々があるので、歩くのにはちょうどいい。ここでも炎天下でゴルフを楽しむ人たち。次の橋に近づきます。振り返る。この先には運動公園はなさそう。広い県道に出ます。元荒川へ流入する用水路。「新今宮橋」。下流方向。上流方向。大きくて見事なサボテン。水管橋。蓮田市のマンホール。市の木ハナミズキ。「今宮橋」・今宮けやき通り。下流方向。上流側から橋を望む。川沿いには桜などが植えられているが、車道を歩くしかない。これがけっこう長い。この付近から白岡市入り。対岸に東北新幹線。この付近の今昔。(1880年代)周囲は、田畑。上部に渡船場。(現在)川の西、南側は蓮田市。東北側に白岡市。東武アーバンパークライン「東岩槻駅」~JR宇都宮線「白岡駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第3日目。)
公園内の釣り堀。賑わっています。森の中の下道。公園内に。森に囲まれ、体育館やグランド、大きな池などが広がっています。案内図。「グリーンアドベンチャー岩槻文化公園コース」。この木の名は?この地域はかつては元荒川沿いの微高地でした。(1880年代)(現在)駐車場の向こうに元荒川の流れ。川沿いの小道。足下の草むらをトンボが。全身真っ黒で蝶々のようにひらひら羽を動かし、ヒラヒラ飛んでいます。○のところにとまっている。中川歩きの時に見た「ハグロトンボ」。ハグロトンボ(羽黒蜻蛉カワトンボ科のトンボ。別名ホソホソトンボ。東アジア(日本、朝鮮半島、中国、ロシア)、北米に分布する。日本国内では東北・本州・四国・九州に分布する。成虫の体長は57-67mm、後翅長35-44mmほどで、トンボとしてはやや大型。雌の方が雄より若干...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
溜井が大きく広がる。桜並木。右手は緑濃き、水田。「武蔵第六天神社」の境内地に入ります。川原に下りられる階段がありますが、今は水底に。「夏越の祓」茅の輪がある。先に進みます。まだ「岩槻市」のまま。※現在は、さいたま市に編入「さいたま市岩槻区」。田んぼが広がります。土手の道が途切れ、たんぼの中の道を進みます。上流に赤い橋。振り返る。久々な経験。農家の脇に、カボチャ。枝豆。県道に出ます。上流に見えていた赤い橋に向かいます。「大野島水管橋」。※大野島水管橋は、昭和52年(1977)竣工。三連アーチのランガー補剛形式で70m。口径600mmの管が2本設けられ、元荒川の上を水道水が横断している。大野島水管橋は歩行者も渡れる。下流方向。上流方向。橋を渡り、右岸に。振り返る。上水道管。「岩槻文化公園」の脇の道を進みます。東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「末田須賀堰(すえだすがせき)」が目の前に。さいたま市岩槻区の永代橋の脇には、「末田須賀堰」があります。堰とは水深や流量の調整のため、河川の途中などに設けられる構造物です。元荒川は古くから農業用水路として用いられており、全部で4カ所の堰が設けられていて、末田須賀堰はその一つです。4月から9月にかけて、農業用水の確保のため水門が閉まります。また、水門の脇には魚道が設けられていて、水門が閉じている時期でも魚が遡上できるようになっています。(この項、「」HPより)「永代橋」。モニュメント。この付近の今昔。(現在)中央に堰。川幅が大きく広がっている。(1880年代)現在の堰付近の流れが複雑になっている。上流方向。広がりを見せる。旧永代橋の架橋記念碑。周囲には古い親柱、中柱が残されている。1926(大正15)年の建...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
暑いせいか、涼しさを求め、家の中を転々とする猫たち。だから、二人が鉢合わせをすることも。6日には、窓際に。あんずが窓際に乗ると、ソウタは、あんずがいなくなると、その後を目で追うソウタ。という猫たちを横目で見ながら、「向島百花園」へ。7月6日。「小暑」の日の午後。いました!親が。親の後をくっついて泳いだり、歩いたりしていたヒナは?親から離れ、自由気ままに泳いでいます。親はそんなヒナたちを目で追い、守っているようす。そして親子一緒に。前来たときは7羽のヒナ。見ると5羽、残りのヒナは?気になります。もみじあおい。にっこうきすげ。やまゆり。寺島なす。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/87/2ff6d8ff92a04e21bf1b674e796011d...あんずとソウタ。そして、向島百花園のカルガモたち。花も咲き、緑も濃く、夏らしい雰囲気。
「〆切橋」を渡り、右岸を歩きます。こちら側にも農地が。ここにもネムノキの大木。上流に「大砂橋」が見えてきます。「元荒川緑道(上流部)散策案内」。「大砂橋」を振り返る。けっこう緑が深い。路傍に何体かの古仏。元荒川の流れ。農地が続きます。菊の栽培。左手には畑作地が広がる。イチゴ。サツマイモ。咲き始めている菊。川沿いから離れて進みます。右手灌木の右に、元荒川。一面、青々とした田んぼ。「三野宮橋」。上流方向。橋を渡り、左岸へ。「元荒川」沿いの、車の行き来が激しい県道を進みます。「補修境界←さいたま市北部建設事務所→越谷県土整備事務所」。さいたま市に入ります。この辺りも「さいたま市」?さいたま市埼玉県の県央部に位置する市。埼玉県の県庁所在地で、人口は約135.0万人と県内最多。政令指定都市の一つ。また財政力指数は政...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
「国道4号線(現日光街道)バイパス」を渡ります。.元荒川橋から下流を望む。川沿いには歩道がないので、県道を進みます。この標識板には、「↑越谷国道4号線→春日部←上野」とあります。左手に「元荒川」。「〆切橋」(人道橋)。越谷市においては最も歴史の古い橋である。江戸時代(宝永年間)には橋が架けられ、明治時代には長さ約29メートル、幅員約3メートルの土橋が架かっていた。また、1924年(大正13年)には先代の橋が架けられていた。現在の橋は1937年(昭和12年)竣工のRC橋で、市内の元荒川に現存する橋の中でも古い部類。橋長54.6メートル、幅員4.15メートル。老朽化に伴い、大砂橋開通後の2005年(平成17年)度以降は橋の両詰めに車止めが設置され、人道橋として歩行者のみの通行が許されている。元荒川はかつて〆切...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
元荒川歩き、2日目。往復とも東武線内の乗り降りです。北越谷駅西口。「元荒川」土手。前回に続き、左岸を歩くことに。森の脇に進みます。(「歴史的農業環境閲覧システム」より)中央に「宮内庁埼玉鴨場」。現在、宮内庁が管理している鴨場は、埼玉県越谷市の「埼玉鴨場」と千葉県市川市の「新浜鴨場」の2か所があり、両鴨場のそれぞれ約12,000平方メートルの元溜(もとだまり)と呼ばれる池には、毎年2千羽を超える野鴨などの渡り鳥が越冬のため飛来しています。鴨場は、鴨の狩猟期間(11月中旬から翌年2月中旬)に、天皇陛下の思召しにより内外の賓客の接遇の場として使用されています。埼玉鴨場(埼玉県越谷市)及び新浜鴨場(千葉県市川市)では、野生の鴨を無傷のままで捕獲する独特の技法が維持保存されています。我が国では、古くから網や鷹を使っ...東武伊勢崎線「北越谷駅」~東武アーバンパークライン「東岩槻駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第2日目。)
東武線のガードをくぐって先に進みます。越谷駅と北越谷駅は直線の線路で隣同士ですが、元荒川は半円状で迂回します。○。明治時代から現在までほとんど変わらない流路。(「今昔マップ」より)東武線鉄橋方向を振り返る。左岸のようす。桜堤通りになっていますが、右岸は炎天下の道。ところどころ、花壇があり、ベンチなどもあります。前方に「神明橋」。中央の車道部分は古そうなトラス橋振り返る。この橋を渡り、左岸に移ります。桜並木の下。河川敷には耕作地が広がっています。対岸に「文教大学」キャンパスが見えてきます。前方には「出津橋」(人道橋)。文教大学越谷キャンパス。出津橋。学生たちが通行中。今回は、ここまで。「北越谷駅」に向かいます。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その7。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
元荒川歩きを再開します。カラフルな遊歩道になっています。右手が元荒川。葛西用水は、元荒川を「伏越」で越えて流れてきます。※伏越(ふせごし)用水施設や排水施設などの水路において、開渠となっている部分が、河川または他の水路と交差している場合、逆サイフォン構造によって河川・水路の河底を通過させる工法・技法、およびそれによる工作物で、施工方法が開削工法によるもの。用水路・排水路など開水路の場合、河川と交差する部分で、沿岸の双方の高さに高低差が大きい場合、高い側から逆サイフォンで河川を自然流下で通過させることが多い。歴史的に古い水路・用水にも見られる工法である。(「Wikipedia」より)振り返る。右が葛西用水。「新宮前橋」。「宮前橋」。「久伊豆(ひさいず)通り」となっています。東の方に「久伊豆神社」があります。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その6。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
「溜井(逆川・葛西用水)」。花しょうぶが満開。「元荒川」。「越谷市役所」・「越谷市中央市民会館」が見えてきます。「平和橋」(葛西用水)「新平和橋」(元荒川)。越谷市中央市民会館。平和橋・新平和橋。いったん、東武伊勢崎線「越谷駅」に向かい、小休止。「越谷・松伏水道企業団」のマンホール。「越松水」「仕切弁」。※越谷市の花、松伏町の花が共に菊です。旧日光街道。日光街道歩きのときに通過しました。日本橋から3番目の宿場・越谷宿。越谷駅。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その5。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸の河原。「瓦曽根堰(かわらぞねせき)スポット広場」。正面は、「しらこばと橋」。解説板。「葛西用水」の成立享保(1719年)すでに開削されていた幸手領用水(万治3年1660年)の利根川の川俣圦樋が増設され、琵琶溜井・松伏溜井・瓦曽根溜井・亀有溜井を連結させた十ヶ領、三百村、領石高13万3千石(年貢米)の大用水が成立し、葛西用水と呼ばれた。「葛西用水」流路図。「利根川」から取水された「葛西用水」は、「大落古利根川」、「逆川」を経て、ここまで流れ、この後は、「元荒川」から離れ、八潮市、足立区、葛飾区、墨田区まで続くことになります。※「溜井」は河川を堰き止めて洪水対策や農業用水とした施設。近世初頭に瓦曽根溜井が建設され、中期以降に石堰が設けられた。中土手(元荒川と溜井を分ける土手)には竹を植えたり畑があった。...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その4。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
右岸沿いに大きく広がる「遊水地」。南方に「越谷レイクタウン」があります。「越谷レイクタウン」の今昔。(現在)大規模な商業施設、住宅地となっている。(1970年代)ほとんど、田んぼや畑であった。※市街化調整区域左岸の大きな建物。「越谷東高校」。舗装された道なので、照り返しがけっこうキツイ。早く木陰の下に。ほっと一息。「大相模スポット広場」。所々にこうした小公園風な施設がある。「不動橋」が見えはじめる。「不動橋」のたもとに、「相模町スポット広場」。木陰が涼しい。水分補給などで小休止。「元荒川緑道(下流部)散策案内」。来た道を振り返る。「不動橋」。※「不動橋」の由来は沿岸にある「大聖寺(大相模不動尊)」から。「しらこばと橋まで1,050m」。「動端落し(どうばたおとし)スポット広場」。流入口。JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その3。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
雨降りの午後。向島百花園。アジサイには、雨が似合う。降ったりやんだりのお天気。入園者も少なく、のんびりと散策。ヤマユリ。リンドウ。ハンゲショウ(半夏生)。ネムノキ。カザグルマ。カルガモたちはどうなったか?四阿で雨宿りをしていると、現れました。親鳥とヒナたちがスイスイと水面を。ヒナは、合計7羽。親鳥のあとをついていきます。正面の叢に。雨脚が強くなってきました。親子であちこちウロウロ。天敵の野良猫がうろつかないうちに。ヒナたちが叢の中に。そのうち姿が見えなくなりました。さて、帰ろうかとすると、「オナガ」が。<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/74/0f/35390b3509d0b0685431b98cec8dc837.jpg">※オナガ水色の美しい鳥実を...雨降りの午後・日曜。「向島百花園」。アジサイ。リンドウ。ハンゲショウ。カルガモ・ヒナ。オナガ。・・・
中川の一つ上流にある「吉川橋」。その先で、元荒川が中川に合流する。左手が「元荒川」、右手が「中川」。付近は、工事中。左手に「中島橋」。越谷市内のマンホール。「越松水消火栓消防士ガーヤちゃん」。越谷特別市民「ガ-ヤちゃん」が消防士にふんしたデザイン。元荒川の最下流に架かる「中島橋」。中川方向を望む。上流に向かって歩き始めます。右岸の「元荒川緑道」を歩きます。「飯島排水機場」からの流れ。その先に「大成スポット公園」。緑道には、休憩ベンチ・簡単な運動器具・トイレなどが整備されています。左手に土手状の盛り土が続いています。この付近の今昔。(1880年代)元荒川沿いの微高地で自然堤防が形成されている。(現在)住宅地や畑地などになっている。土手沿いに水路。対岸のようす。国道4号線・「大成橋」。「水道管橋」その先に、「...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その2。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
今回から「元荒川」を「中川」との合流地点から水源まで遡ることにします。ただ流域は暑さが並みではないところ。熱中症に気を付けながら、歩く距離も短めに。5日くらいかけて歩くつもり。また上流は最寄り駅が遠いので、バスを利用する予定。本数があまりなさそうですが。「元荒川」現在、埼玉県熊谷市久下にある熊谷市ムサシトミヨ保護センター内に源を発する。おおむね南東方向に流れ、行田市、鴻巣市、久喜市、桶川市、蓮田市、白岡市を経由する。途中、鴻巣市袋付近で武蔵水路と、白岡市柴山・蓮田市高虫付近で見沼代用水と立体交差する。白岡市西付近で星川が合流すると川幅を大きく広げ、さいたま市岩槻区を経由し、越谷市中島で中川に合流する。かつての元荒川は1955年(昭和30年)頃までは荒川扇状地の湧水を水源としていたが、高度経済成長期に水源が...JR武蔵野線「吉川駅」~東武伊勢崎線「北越谷駅」。その1。(「元荒川」をゆく。第1日目。)
6月16日(日)。13回忌法要を済ませて、帰宅。息子夫婦から父の日のプレゼント。やはり、ビール。サントリーのセット。箱から出した途端、ソウタがすぐ、底の浅い箱に入っています。よほど箱好きなようです。入りきれないしっぽ。そのうち箱もつぶれて、そして、昨日。この格好は?頭は?しっぽは?<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1b/45/37d01859d03c8e7e1fc05c60f5915302.jpg">ソウタ。家人が出かけると、ジジを咥え、雄たけびをあげながら、家の中を走り回るようです。帰ってくると、必ずジジがそばに。家に来たときはこんな小さかったソウタ。ふだんは、一方のあんずは3歳になっても大きくなく、「可愛いわね」と声を掛けられる存在。家人の姿が...ソウタとあんず。我が家の猫たち。
賑やかな町並みに入ります。漁港らしいお店なども。「鈴木海苔株式会社」。しばらく進み、「国道356号」に合流し、「銚子大橋」に向かう交差点へ。左に「銚子大橋」。利根川最下流の橋。ここが「銚子往還(飯岡灯台~)」との追分になります。総武本線「旭駅」の先で二手に分かれた「銚子往還」。松岸町での追分と併せて二カ所の追分にたどり着きます。右に行くと「銚子駅」。この先は、前回、行きました。しばらく歩いた左手に「飯沼観音」(今回の「佐原銚子街道」のゴール)があります。ここまでで旅の終わりとします。この「あぶら屋」さんも関連がありそうです。銚子駅から成田線で帰途につきます。「下利根漁業協同組合」。利根川一帯も漁業の盛んな土地柄であることがわかります。「下総豊里」駅。この駅で下車して「佐原銚子街道」を歩きました。約12㎞。...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その6。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)
「松岸」。ここを右に曲がって進むと、「松岸駅」に。「松岸駅」は「総武本線」(千葉~銚子)と「成田線」(成田~松岸)が合流する駅。「金井商店」。街道筋らしいお店。実は、この道は利根川歩きのとき、土手が工事中のため、途中から通った道です。利根川の土手に行ってみましたが、相変わらず工事中(何年越しでしょうか)でした。この先、街道から少し右に入ったところに、石碑「飯沼観世音江一里」。残り4キロ。残りわずかに。石仏などが一か所に集められています。銚子市のマンホール。図柄は「犬吠埼灯台」と「カモメ」と市の魚「イワシ」。利根川沿い・銚子港の一角。街道に戻ると、「木内旅館」。この先、桝形になっています。この付近の今昔。(現在)〇が桝形の部分。赤い線が国道356号線(利根水郷ライン)。(1880年代)街道は利根川・銚子港沿...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その5。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)
しばらく進んだ右手に、石碑「飯沼観世音江二里」。あと8キロ。その先、右手に入る道が旧道です。田畑が広がります。遠くには風力発電所。国道356号線に復帰。田んぼが広がる。右に入る道も旧道のようですが、省略し、国道をそのまま進みます。「高田川」。利根川方向。上流方向。バス停「余山(よやま)」。「余山貝塚」は、利根川に注ぐ高田川東岸の標高約7メートルの浜提上の集落によって形成された長軸約140メートル、短軸約70メートルの広がりを持つ貝塚です。貝塚は縄文時代後期から晩期を中心にして形成されていますが、弥生、古墳、奈良・平安時代に至る遺構や遺物も出土しており、原始から古代の長期間にわたって継続した遺跡です。余山貝塚は明治時代中ころから多量の人骨や遺物が出土することで考古学界に知られるようになり、考古学史上著名な貝...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その4。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)
銚子市立椎柴小学校。見事な槙の生垣。右左折します。桝形のような形状の道筋ですが。かつては利根川沿いの道だったので、それと関連があるか、と。庭一面に「かきつばた」。バス停「野尻」。左手に大きな長屋門が見えてきます。「滑川家住宅母屋・長屋門」。滑川家住宅主屋滑川家住宅は集落内で最も有力な家のひとつで江戸時代には、代々「藤兵衛」を名乗っていました。主屋は奥行が深く、座敷部を別に構えるなど規模が大きくその家格を示していることに加え、座敷部の室内意匠や仕様を上級武家住宅風になっています。多くの河岸問屋が存在していた野尻河岸において、明治6年(1873)に建てられた主屋が現存し、舟運で栄えた集落の往時の様子を示す家として貴重な存在です。近年においても薬局店、塩、煙草商店として広く地域住民に親しまれた歴史が伺えます。滑...成田線「下総豊里駅」~総武本線「銚子駅」。その3。(「佐原銚子街道」をゆく。第4日目。)