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2022/11/07

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  • ローカル私鉄の旅。51。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その7。

    運転席から。中央道(大月~河口湖~山中湖)。桂川。相模川(さがみがわ)の上流・山梨県内の呼称。富士山の伏流水を水源とする忍野八海、山中湖に源を発する。由来については、かつて都留市東桂から富士吉田市明見、鐘山へと続く流域に桂の大木が茂っていたことに因む説や都留郡のつるが蔓葛(つる)と転記され、蔓葛(かづら)の読みから桂へ転記されたとする説[石割山の石割神社の桂の神木に因む説などがあり、定かではない。リニア実験線。右手後方に「山梨県立リニア見学センター」があります。・・・<imgsrc="https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/02/1ec9c8221708c05260e2b8ca23caad46.jpg">JR東海が強引に進める東京・品川―愛知・名古屋間を走らせるリニ...ローカル私鉄の旅。51。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その7。

  • ローカル私鉄の旅。50。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その6。

    「都留文科大学前」駅に近づいてきます。大学キャンパスは右手奥に広がります。1953年(昭和28年)に山梨県立臨時教員養成所として発足し、1955年(昭和30年)に都留市立都留短期大学に、さらに1960年(昭和35年)に4年制の都留市立都留文科大学となった。東日本エリアの公立大学で唯一の教員養成系大学であり、卒業生の多くが教職に就いている。とりわけ創設以来、小学校教員養成に力を注いできた。人口約3万人の地方小都市である都留市が大学運営を行っている市立大学である。2009年(平成21年)に公立大学法人へ移行し、2013年(平成25年)に創立60周年を迎えた。都留市の中心部である谷村は、江戸時代に興譲館という郷学が設立されるなど、教育・文化を重視する風土があり、県立臨時教員養成所の誘致や短期大学への移行は市民の...ローカル私鉄の旅。50。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その6。

  • ローカル私鉄の旅。49。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その5。

    木造の格子仕立て。遠ざかる富士山。木に隠された!「道志」方向。「月光寺(げっこうじ)」。「下吉田」。ブルートレインなど客車や貨車が陳列。開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受...ローカル私鉄の旅。49。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その5。

  • ローカル私鉄の旅。48。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その4。

    「富士山駅」から。晴天の下での富士山。河口湖へ向かう外国人多し。「富士山(ふじやま)ビール」がずらり。駅舎と重なる。構内のお土産屋さんもにぎやか。「大月」まで「富士山ビュー特急」で戻ることに。3号車自由席運賃+400円。※「1号車は料金も設備も別格。元の車両は、JR東海が小田急新宿駅への直通特急「あさぎり」号で使用していた371系。JR東海での運行終了に伴い、富士急行が譲渡を受けて、同社の2000系「フジサン特急」の老朽化引退の後継としてデビューしました。富士急行ではこれ以前に、2014年から小田急の「あさぎり」号で活躍していた20000形ロマンスカーも中古導入しており、かつて「あさぎり」号で活躍した2車種が、再び富士山麓で競演する姿が見られるようになりました。(この項、「」HPより)この電車はスイスの列...ローカル私鉄の旅。48。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その4。

  • ローカル私鉄の旅。47。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その3。

    くっきり見える富士山。駅前では、土・日・祭日に関係ない外国人観光客ならでは光景が繰り広げられる。「富士山麓電気鉄道」。「モ1号」。河口湖へ向かいます。河口湖町マンホール。中央に富士河口湖町の町章、町の花の月見草をデザイン。・・・老婆も何かしら、私に安心していたところがあったのだろう、ぼんやりひとこと、「おや、月見草。」そう言って、細い指でもって、路傍の一か所をゆびさした。さっと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残った。三七七六メートルの富士の山と、立派に相対峙し、みじんもゆるがず、なんと言うのか、金剛力草とでも言いたいくらい、けなげにすっくと立っていたあの月見草は、よかった。富士には、月見草がよく似合う。(太宰治『富岳百景』より)・・・途...ローカル私鉄の旅。47。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その3。

  • ローカル私鉄の旅。46。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その2。

    道志山方向。「下吉田駅」でたくさんの外国人が下車します。開業当時は貨物の取扱を行っていた駅でした。駅前にはロータリーもあり、駅舎は建築当時、東洋一の建造物と言われていた名古屋駅を模して建てられました。周辺にはアヤメの群生地で有名な新倉山もあります。また平成21年7月18日(土)に、工業デザイナーの水戸岡鋭治氏デザインによる駅舎に生まれ変わりました。今回のリニューアルでは、下吉田駅が開業した当時の新しさと驚きを再び感じ取れるよう、レトロな味わいを生かしつつ、21世紀モダンの駅に生まれ変わることをコンセプトに、天井画を大胆に配置した吹き抜け、富士の稜線をイメージしたベンチ、センターテーブルが配されたコンコース等、今までの駅には見受けられなかったゆとりある雰囲気を演出し、駅にいながら富士山や桜並木などの風景を楽...ローカル私鉄の旅。46。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その2。

  • ローカル私鉄の旅。45。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その1。

    JR大月駅から乗り換え。車内の様子。大きなザックを背負った外国人がたくさん。次第に混んできて、日本語よりも英語、中国、他の外国語と様々な会話が飛び交う。地元のお客さんは、静かに。富士急行線山梨県大月市の大月駅から富士吉田市の富士山駅を経て南都留郡富士河口湖町の河口湖駅までを結ぶ、富士山麓電気鉄道が運営する鉄道路線の総称である。駅ナンバリングを構成する路線記号はFJ。大月駅から富士山駅までの大月線(おおつきせん)と、富士山駅から河口湖駅までの河口湖線(かわぐちこせん)の2路線で構成されている。両線で一体的に運行されている。JR東日本・中央本線の大月駅(標高358m)から富士山駅でスイッチバックし、富士山麓の河口湖駅(標高857m)まで登る。地元住民の生活路線であると同時に、首都圏から富士山・河口湖周辺への観...ローカル私鉄の旅。45。「富士山麓電気鉄道富士急行線」。その1。

  • 向島百花園。晩秋の。とらのおすずかけ。まつむしそう。ふくろくじゅうり。ざくろ。みつばあけび。ねむのき。すすき。・・・

    久々に向島百花園に。よく晴れた土曜日。日なたはぬくぬく、日陰になると、肌寒い。そんな午後。けっこう人が訪れています。左:とらのおすずかけ。右:まつむしそう。・トラノオスズカケは四国、九州に分布する希少な植物で、現在では絶滅危惧種に指定されています。自然教育園のスズカケトラノオは平賀源内が江戸時代、松平讃岐守の故郷から持参し移植したと言い伝えられています。園内では1949年(昭和24年)に絶えたと考えられていましたが、2007年(平成19年)に58年ぶりに再発見されました。国立科学博物館附属自然教育園http://www.ins.kahaku.go.jp/(この項、「雑学のソムリエ」HPより)・「松虫草」の名は、花の終わったあとの坊主頭のような姿が、仏具の「伏鉦」(ふせがね:俗称「松虫鉦」)に似ているところ...向島百花園。晩秋の。とらのおすずかけ。まつむしそう。ふくろくじゅうり。ざくろ。みつばあけび。ねむのき。すすき。・・・

  • 渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その7。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

    「←栃木県栃木市→群馬県板倉町」。谷中湖(旧谷中村)展望台。△印は、洪水時の水位。強風に煽られながら、上がってみます。南西方向。南東方向。北東方向。遠くに「谷中湖北水門」。北西方向。再び「←群馬県板倉町→栃木県栃木市」。この付近は、旧渡良瀬川流路に沿って県境が入り乱れています。「谷中湖」と離れ、「思い出橋」から東武線「板倉東洋大前」駅に向かいます。「思い出橋」。振り返る。「わたらせ自然館」。渡良瀬遊水地のインフォメーションセンター。大谷石造りの米蔵を改築利用して、緑道に続く渡良瀬遊水地の入り口に開設しました。東京ドーム700倍の面積に660種以上の植物を抱える広大な渡良瀬遊水地には、年間8万人もの人々が訪れます。その遊水地を立体模型や植物のジオラマ展示などで紹介しています。「板倉東洋大前」駅。しゃれた駅舎渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その7。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

  • 渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その6。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

    解説板。拡大してより詳しく、「谷中村の移り変わり」。《左》渡良瀬遊水池《右》史跡保全ゾーン周辺図はるか遠くに筑波山。屋敷と背後に田畑が広がっていたようす。盛り土(「水塚」?)。その上にかつての屋敷跡。湖の方へ戻ります。「体験活動センターわたらせ」。「体験活動センターわたらせ」では、渡良瀬遊水地の利活用及び湿地環境等に関する情報提供、資料の公開、展示や渡良瀬遊水地の環境を生かした体験・環境学習などの支援を行っています。谷中湖。湖面にウインドサーファーの姿が。強風の下、けっこうスピードがあります。右手には「子供広場ゾーン」。「水辺ゾーン」。「←群馬県板倉町栃木県栃木市→」。渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その6。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

  • 渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その5。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

    雷電神社の先は、整地され、一面、広々としたところに。散策路があるようですが。雷電橋。この一帯には、家屋や田畑、屋敷林などもあり、人々の暮らしがありました。今は、すっかりアシなどの原に。木々が生い茂る小道。至る所に「イノシシ出没注意」の看板があります。年寄りにはちょっと・・・、引き返すことに。墓地のところまで戻ります。ススキの群れ。湖沿いの道を再び歩きます。湖面に小島が見えます。芝生の広場に出ます。右手一帯が、「谷中村史跡ゾーン」。屋敷跡の杭が設置されています。落合幸蔵屋敷跡。橋を渡り、向う側に行こうとしましたが、イノシシの親子が対岸に。しきりに食べ物を探しているようです。木の実でもあるのか。しばらく眺めていると、走って左奥の藪の中に消えていきました。途中、じゃれあったりして、まさに自然体です。イノシシたち...渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その5。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

  • 渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その4。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

    一面ヨシの原。谷中湖。小高い丘、森が点在。旧谷中村の一部があった付近。湖面一帯にも集落がありました。谷中村の歴史渡良瀬川・巴波川・思川の合流地点付近にあった。村の北は赤麻村で、間には赤麻沼・赤渋沼・石川沼・前原沼があった。西は旧上野国(群馬県)海老瀬地区で、大正7年(1918年)に藤岡台地を開削・通水する以前は、渡良瀬川が「七曲がり」と呼ばれ屈曲して境を流れていた。これは現在も栃木・群馬両県境の形として引き継がれている。室町時代からこの地は肥沃な農地として知られていた。江戸時代には主に古河藩が開拓を行った。当時から洪水が頻発していたため、古河藩はこの地の年貢を大幅に減免する措置をとった。しかし、洪水がない年の収穫は非常に大きく、1年収穫があれば7年は食べられるとも言われたほどだったという。1888年に全国...渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その4。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

  • 渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その3。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

    「谷中湖」を横断する中央橋を歩きます。「西橋」。日光連山。「渡良瀬貯水池」。左右に水面が広がります。橋の方向を振り返る。中央奥は、「谷田川第一排水機場」。快晴ですが、強風にあおれる。樹木もこんなようす。「中の島」。そのまま東に進みます。「イノシシ出没注意」の看板。・近づかない・刺激しない・出会ったら静かに離れましょう・うり坊の側には親が必ずいますイノシシの子ども時代をうり坊と呼びます。たまらなく愛嬌があり可愛らしい姿なので、キャラクターなどでも使用されることがありますし、ぬいぐるみでもよく見かけますよね。地方、地域などによっては、うり坊のことを「うりっこ」「うりんこ」などとも呼んでいます。いずれの呼び方もかわいらしい響きです。「うり坊」と「イノシシ」、同じ動物なのに全く呼び名が違うのは不思議ですよね。イノ...渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その3。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

  • 渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その2。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

    「下宮橋グラウンド」。「旧谷中村・谷中湖(渡良瀬貯水池)」案内板。湖のハート型になっています。この付近の今昔(「歴史的農業環境閲覧システム」」より)現在のようす。県境(破線)はかつての渡良瀬川の流路。1880年代のようす。かつての渡良瀬川は激しく蛇行する。「下宮橋」。板倉川に架かる。橋を渡り、土手に上がると、眼前に大きな「谷中湖」が。「道と川百選渡良瀬遊水池」。谷中湖は、洪水調節・水道用水の安定供給等を目的に第1調節池内に建設された貯水池の通称です。その規模は、面積約4.5平方キロメートル、総貯水容量2,640万立方メートルで、平成2年度よりダムとしての利用を開始しました。また、周辺を含めた広大な空間は、スポーツやレクリエーションの場として親しまれており、現在までに約百万人の人々が訪れています。(この項、...渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その2。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

  • 渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その1。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

    東武日光線「柳生駅」。当駅所在地の地名から命名されています。穀倉地帯であるこの地域は、渡良瀬川をはじめ谷田川、合の川等多くの川が流れており、川の氾濫でたびたび水害を引き起こしていました。そこで地域住民は水害対策の一環として、堤に根張りの良いといわれる柳の木をたくさん植えて、水害から守ったそうです。そんなところから「柳生」という地名が生まれました。足尾鉱毒によって全村が廃村になった「谷中村」跡を訪ねました。広大な渡良瀬遊水池になっています。10月6日(金)快晴・強風。たわわに実るクリの木。田舎からゆで栗をたくさん貰い、一家で美味しく食べたばかりです。踏切で待っていると、「特急スペーシアX」が通過。孫がもう乗りたがって乗りたがって、近々一緒に出かける予定です。最新型の特急。渡良瀬遊水池に行く前に「三県境」地点...渡良瀬遊水池・谷中湖、旧谷中村を訪ねて。その1。(東武日光線「柳生」駅~「板倉東洋大前」駅。)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その8。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    高山社宅が並ぶ高原木。川向こうの台地が「高原木」というところで、その昔天正18年(1590)に小田原の武士、斎藤大和守・山城守の兄弟が浪人となり、やがて足尾に来て足尾郷14ヶ村を支配し、後に弟の山城守がこの高原木に住んで仁田元・松木・久蔵・赤倉を治めてから開かれたといわれている。慶長15年(1610)に足尾に銅山が発見されてから、各所で採鉱が行われるようになり、宝永2年(1705)に幕末の大思想家、佐藤信淵の祖父信景(農政学者)が仁田元で錫山を発見し、その後錫山を銀山にしようと仁田元・高原木の招きで、日光に来ていた信淵の父信季(農政学者)は信淵を伴って天明4年(1784)来山したが、信季の客死に遇い実現できなかった。明治になり足尾銅山再開発とともに廃石堆積場になり現在の台地が築かれ、同40年(1907)ご...足尾銅山跡を訪ねる。その8。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その7。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    上流へ向かう。秋の訪れを感じる渓谷。中央に巨大な煙突。振り返る。「足尾製錬所」跡全景。中央が旧足尾線・ターミナル駅舎跡。奥に、「硫酸タンク」跡。足尾銅山本山製錬所大煙突。痛々しい岩肌。銅の採掘・精錬が終了した後も、まだ鉱毒除去の作業が続いている。社宅が並んでいた地域。「足尾銅山社宅愛宕下」。江戸時代の愛宕下は赤倉村字「牧詰」という地名で農家が3戸あったが、明治20年(1887)に松木から起こった大山火事で焼失し、以後草っ原となっていた。その後足尾銅山の社宅地として開発され、始め同30年に鉱毒予防工事で間藤浄水場を建設するため、東京から来た人達の飯場が建てられたが、工事が終わると除去された。次いで同40年代になると対岸の精錬所の社宅14棟(1棟7戸建」が建ち、「赤長屋」と呼ばれるようになり、大正10年(19...足尾銅山跡を訪ねる。その7。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その6。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    古河橋。古河橋は、足尾銅山施設の近代化の一環として渡良瀬川に架設されたもので、明治23年に竣工した。ドイツ国ハーコート社製の鋼製のトラス橋で、工場であらかじめ製作した部材を、現場でボルト接合のみで短期間で簡易に組み立てられる工法が用いられている。古河橋は、足尾銅山において近代最初期に整備された施設の中で、ほぼ完存する唯一の遺構であり、歴史的に価値が高い。日本でも数多く架設されたドイツ国ハーコート社製のボルト接合による橋梁の中で、原位置に残るわが国現存最古の遺構であり、西洋の異なる国々から先端技術を導入し、短期間で近代化を成し遂げたわが国橋梁分野の技術的展開を示す遺構として重要である。(この項、「文化遺産オンライン」HPより)旧足尾本山駅があった本山地区は、足尾銅山の操業の中心地であった。その本山地区と社宅...足尾銅山跡を訪ねる。その6。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その5。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    水量発電所跡。解説板の奥に当時の導水管が保存されています。間藤水力発電所は、坑内排水用動力として坑内に設置した蒸気ボイラーの排煙問題解決のために導入されたのが契機とされています。ドイツのシーメンス社の提案に基づき、明治23年に完成しました。水源は久蔵沢、深沢とし、2.9kmに及ぶ水路を木銿で通した。落差32mを確保して出力90キロワットで運転を開始し、坑内排水、竪坑捲揚機、照明の電化が実現しました。しかし、渇水期には安定した電力を得ることが難しいため、その後、足尾地内に小規模発電所を相次いで建設されました。明治39年に細尾発電所(出力2000キロワット)が完成した後、間藤水力発電所は足尾電燈株式会社に払い下げられて、町民に電燈電力を供給しました。その後、間藤水力発電所がいつまで使われていたかは定かではあり...足尾銅山跡を訪ねる。その5。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その4。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    午前11時41分に「間藤駅」着。「銅山(あかがね)街道」を北上します。江戸時代のはじめ、足尾銅山は幕府の直営とされていました。足尾で精練した御用銅を江戸へ運ぶための道として、銅山街道(あかがねかいどう)が設けられました。この街道は、まさしく銅の道でした。足尾を出た御用銅は、沢入(そうり)・花輪・大間々(のちに桐原)・大原・平塚の、5つの宿を順番に送られたのち、利根川を下って江戸浅草の御蔵入りとなりました。この銅山街道が整備されたころ、はじめは大間々宿に銅問屋が設けられていました。しかしその後、大間々が天領でなくなったために、江戸時代の中ごろになって桐原宿に移されました。桐原の藤生家では、今でも銅蔵(どうぐら/銅をいち時保管する蔵)と、その役めに関係のある文書などが残されています。このように、大間々、桐原は...足尾銅山跡を訪ねる。その4。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その3。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    渡良瀬川。ススキ。次第に秋色に。通洞駅の手前に架かる橋。「わたらせ渓谷鐵道」の「渡良瀬川橋梁」から、新旧「切幹(きりみき)」橋。手前が旧橋。庚申川に架かる橋。庚申川庚申山を源とし切幹の地で渡良瀬川に合流します。日光国立公園の一部であり源流部ではブナなどの自然林、中流部は景観が素晴らしい渓谷が連なります。少し上流の銀山平付近には温泉もあり、渓谷沿いには林道が切り開かれています。川は深い谷に囲まれ奇岩や怪石が多く、新緑や紅葉などとともに渓谷美が楽しめます。天狗の投げ石などの名所もあります。付近には足尾銅山の産業遺跡も点在しています。悲話を秘めた坑夫滝(光風の滝)・小滝の小滝・広道路の滝・めがね滝・庚申七滝など様々な滝があります。(この項、「」HPより)※夏目漱石に「坑夫」という作品があります。「足尾銅山」が舞...足尾銅山跡を訪ねる。その3。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その2。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    渡良瀬川に架かる橋を中心に紹介。「はねたき橋」。はねたき橋は、渡良瀬川の中流、高津戸峡に架かる歩行者専用橋。全長120m、全幅3.5mを誇り、水が飛び跳ねる様が滝のように見えることから名前が付けられました。橋からは関東の耶馬溪と讃えられる高津戸峡が一望でき、紅葉シーズンには多くの観光客で賑わいます。左岸側からは約500mの高津戸峡遊歩道を通って高津戸橋まで散策することも。(この項、「」HPより)※はねたき橋は自殺の名所として知られ、2016年の夏には橋上から家族で飛び降り、無理心中を図った事件も発生している。このため自治体では看板や監視カメラを設置するといった自殺予防策を講じている。また、過去に山形県で自殺の名所とされていた吊橋にバンジージャンプ台を設置し、イメージアップに成功した事例があることから、はね...足尾銅山跡を訪ねる。その2。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • 足尾銅山跡を訪ねる。その1。(ローカル鉄道の旅。番外編)

    前回に引き続き、再び「足尾」へ。「足尾銅山」のその後が気になったので。わたらせ渓谷鐵道の終点「間藤駅」までは本数が少ない。前回乗った時は、午後1時過ぎに到着。とんぼ返りで戻ってきてしまいました。今回は、午前11時41分「間藤」着に。これならば、「間藤駅」から帰途につくまで2時間弱あるので、少しは見て回れるかな、と。自宅を7時過ぎに出て、約4時間半。普通列車を乗り継いでの旅。特急に乗るなら、もっと遅い時間の出発でもいいのですが、着く時間は同じ。それなら、という次第。電車に乗り継ぎ、乗りっぱなし、というのも、けっこうおしりが痛くなる!帰りは最短時間で。《行程》・往路青砥―牛田―(東武動物公園)―館林―東小泉―(太田)―相老(わたらせ渓谷鉄道)―間藤・復路赤倉(日光市営バス)=(間藤駅)=東武日光駅(特急)―東...足尾銅山跡を訪ねる。その1。(ローカル鉄道の旅。番外編)

  • ローカル私鉄の旅。44。「わたらせ渓谷鐵道」。その9。

    赤とんぼ(アキアカネ)。ベンチにて。間藤駅は、紀行作家の故宮脇俊三さんが、77年に国鉄全線を完全乗車した際の最後の駅として、鉄道ファンには聖地として有名。宮脇俊三(1926-2003)1926(大正15)年、埼玉県に生れる。東京大学西洋史学科卒業後、中央公論社に入社。「日本の歴史」「世界の歴史」シリーズ、中公新書の創刊等を手掛ける。出版部長、中央公論編集長等を経て、1978年退社。同年刊行の国鉄全線完乗記『時刻表2万キロ』で日本ノンフィクション賞を受賞する。『最長片道切符の旅』『時刻表昭和史』『中国火車旅行』等で文芸の一ジャンルとしての鉄道紀行文学を確立した。『古代史紀行』等の歴史紀行、泉鏡花文学賞を受けた小説集『殺意の風景』がある。1999年、菊池寛賞を受賞。2003年2月26日、病没。『宮脇俊三鉄道紀...ローカル私鉄の旅。44。「わたらせ渓谷鐵道」。その9。

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