山を降りるまで薫は無言だったが、その間、2度立ち止まった。 1度目は事件現場の崖を最後に見渡せる坂の上で、2度目は寺に入る前に立ち寄った神社の鳥居を望める分かれ道で。 そして山を降り、待たせていたタクシーを呼びよせたところで、薫が口を開く。「相馬さん、ひとつお願いがあるのですが・・・ご対応いただけますか」「嫌だ」 即答した相馬を、薫が信じられないものを見るような目で見た。 その視線を受けて、相馬は...
「主任さんがおっしゃっていた通り、かなり変わった方ですね」 一応の事情聴取を終えた早乙女伸一の一歩後ろに付き従うようにして警視庁を出てゆく小野寺充を見送りつつ、佐谷戸は言った。「そう、ですね・・・」 と、相馬は呟く。「何か気になります?」「いや、あの政治家・・・早乙女伸一。以前となんだか随分雰囲気が違う気がして。テレビで見るのと違うのは、まぁ、分かるんですが」「こんな騒動があったから、ではなくです...
「た、助けてくれぇッ、殺される・・・!!」 駆け寄ってくる坂下を見た早乙女伸一が必死の形相で、取り縋るように坂下の二の腕を両手で掴む。 伸一の背後、玄関から出てきたのは能面のような顔をした女性だった ―― 早乙女結子だ。 緊迫した状況とは別世界にいるかのように、結子は美しかった。 背中半ばまである長い巻き髪は艷やかにセットされ、殆ど乱れていない。 白い肌にはシミひとつなく、目元から唇に至るまで完璧な化...
「お、主任さん、顔色、かなり良くなりましたね」 翌朝、7時すぎに姿を現した相馬の顔を見て第一声、佐谷戸が言った。「ああ、やはり同じ寝るんでも、仮眠室と自宅とじゃ全く違いますね。大分すっきりしました、すみませんでした ―― で、庵野のパソコンから例の三ツ木夫妻と箕輪の鼻孔から採取された違法薬物の購入履歴が出たそうですね」「ええ、押収されたパソコンにはどれもかなり厳重なセキュリティがかけられていたみたいな...
相馬はスマートフォンの画面を眺めながら、封を切ったビールをゆっくりと2、3口飲んでから、電話に出る。「こんばんは」 と、回線の向こうで薫が言った。「お元気・・・では、なさそうですね」「・・・なんでだよ。何も言ってないだろ」 と、相馬が言うと、薫が少し笑ったような気配が伝わってくる。「では、元気なんですか?」「別に・・・、そうとも言いきれないけど」 自分でも子供っぽい言い方だと情けなくなりつつ、相馬...
その後、相馬と佐谷戸は黙々と部屋の中を調べて回った。 殆どのPC機材には厳重にセキュリティがかけられていたが、いくつかの記録媒体にはアクセスすることが出来た。 佐谷戸がそちらを調べ、相馬は引き続き巨大な本棚に納められたファイルを調べ続けた。 沈黙の中、どのくらいの時間、それぞれ捜査をしていただろうか ―― まるで示し合わせたかのように、相馬と佐谷戸が同時に互いの名前を口にした。 その声音から、互いが見...
「現状、三ツ木昇が顧問弁護士をしているNPO法人が出入りしている公園で不審死があったから、関係があるかどうかわからないけど念のため調べておこう。ってだけですしね」 と、アンナが言う。「そういうことだ」 と、相馬は頷き、乙部とエツローを見る。「今日か明日の早い段階で、コインロッカーの場所が分かるだろう。そこから早急に庵野公平の隠れ家を割り出して、そこから何が出てくるやら・・・、分からないが、その目処が...
薫が怯むような切り返しをしてやろうと相馬が口を開いたところで、部屋の固定電話が鳴った。 立ち上がった薫が電話に出て相手の話を聞いてから受話器を置く。「車の用意ができたそうです。エレベーターまでお送りします」 振り上げた心の拳の行き場を失わせたまま、相馬もなしくずし的に立ち上がる。「・・・ところで、今回の事件を“胸が悪くなる”と感じた理由を聞いていなかったな」「ああ、そうですね、言い忘れていました」...
「被害者の弁護士・三ツ木昇はめった刺しにされて殺されていたんだが・・・胸が悪くなるってのは、そういう意味ではないんだろうな」 と、相馬が訊くと、薫は頷く。「殺し方はその場に適当に合わせただけで、特に意味はなかったでしょうね」「その場に適当に合わせただけ?」「はい。その ―― と薫は相馬の胸元、庵野公平のねぐらから見つけ出したキーを入れた辺りをチラリと見た ―― コインロッカーから彼の本当の隠れ家に辿り着け...
掘り返した土を元に戻した後で ―― 元通りに踏み固めておかないと、掘り返したってバレますよ。もっときっちり元に戻さないと。等と言われながら ―― 相馬たちは入ってきたのとは別の入り口から公園を出た。 そこにはレオンが運転するポルシェ・マカンが停車しており、なしくずし的に相馬も乗り込んで(というかアランに半ば押し込まれて)公園を後にする。 出来ればそのまま警視庁に取って返し、庵野公平のねぐらで見つけたキーが...
薫との電話を終えた相馬は、鑑識と科捜研に立ち寄って新たな情報がないか確認した後、池袋に向かった。 西口公園にはちょうど佐谷戸とアンナがいて、亡くなったホームレスのねぐらを調べているところだった。 公園の木と木の間に枝や布、ダンボール等を使ってテントのようにしたそのねぐらは、人一人が寝そべると一杯になる程度の広さで、脇に鍋やスプーン、タオルや新聞などの日用雑貨が雑然と置かれている。 この公園では毎...
「ご多忙を極める相馬さんからわざわざご連絡を頂けるなんて。身に余る光栄です」 班のメンバーがそれぞれ捜査に出て行き、一人になってから電話をかけ直した相馬に、薫は言った。「同じ意味合いでも、様々な言い方があるもんだよな。日本語って本当、奥深い」 しみじみと、相馬は言った。「は?」 と、薫は言った。「・・・その返し、よせよ。感じ悪いから」 と、相馬は言った。「は?」 と、薫が繰り返す。「・・・悪かった...
「どうしました?誰からです?」 スマートフォンを耳に当てたまま固まる相馬に、アンナが言った。「・・・、・・・神無月薫からだ ―― 箕輪の件で」 と、相馬が低く言うと、相馬の真向かいに座っていた乙部和敏(おとべ・かずとし)がさっと立ち上がり、会議室の出入り口に歩いて行き、廊下に誰もいないことを確認してからドアを閉める。「相馬主任、今回のこと、神無月さんに伝えたんですか?」 と、アンナが抑えた声で訊いた。「...
「いいところに目を付けたね、相馬くん」 相馬が科捜研の第一研究室のドアを息を詰めてそおっと開けたのと同時に、科学捜査研究所所長、鴻池多香子(こうのいけ・たかこ)が言った。 彼女は警視庁の科学捜査研究所所長で、科学警察研究所にも籍をおいていたこともある、化学のスペシャリストだ。 各都道府県の科捜研から鑑定の相談を受けることも多く、科捜研の女帝と名高い。 以前、かなり繊細な資料の鑑定真っ最中にドアをノッ...
宮田管理官との話を終えたその足で、相馬は坂下のところへと向かった。 相馬の顔を見た坂下はすぐに立ち上がり、「今回はまた、とんだことに巻き込まれたなぁ、相馬。お前、大丈夫か?」 と、言って相馬の背中をバンバンと叩いた。 そういうお前はずいぶん生き生きしてるな・・・という内心を綺麗に隠して、相馬は肩を竦めて見せる。「この仕事をしてれば、“とんだこと”には毎日のように巻き込まれてるようなもんだろ」「そり...
「・・・しかしこれは、・・・参ったな・・・」 と、宮田管理官は頭を抱えて言った。 箕輪から電話を貰ったあの夜から怒涛の一日が過ぎ、再び深夜になっていた。 裏高尾にある薫の家から六本木の現場に急行した相馬は、移動の時以外は座ることすらなく捜査に当たり、漸く警視庁に帰ってきていた。「あいつは、やってませんよ」 と、相馬が低い声で言い、宮田は顔を上げる。「他からの報告は、箕輪が刺したことはほぼ間違いない...
「・・・は?お前・・・、何を言ってるんだ」 と、相馬は言った。 電話の向こうからは、嗚咽のような、微かな声がしている。「人を・・・殺した?お前が?・・・誰を?」 思わず訊いてから、相馬ははっとして寝室のドアを振り返る。 そこにはもう、薫の姿はなかった。 何れにせよ、落ち着かなくてはならない ―――― 相馬は自分に言い聞かせ、短く強く頭を左右に振った。 身体や思考のそこここに漂う、つい先ほどまで薫と交わ...
小さな音と共に目の前に置かれた皿を、相馬はまじまじと見下ろした。 金色に縁取られた美しい皿の上には小さくサラダが盛られ、その横には何だかよく分からない豆の小山とアスパラガスのバターソテーが数本横たわっている。 その手前に、不自然に膨らんだ鶏肉が鎮座していた。 同じ内容の皿を自分の前にも置き、テーブルを挟んで座った薫はまず皿の脇に置かれたスプーンを手に取り、豆の小山をひとすくいして、口に運んだ。 ...
短い眠りから目覚めたとき、相馬は広いベッドにひとりだった。 サイドテーブルに置かれた陶器製の時計の短針は、11の近くを指し示している。 相馬は身体を起こしてベッド脇に落ちていたズボンを履き、ベッドの足元に引っ掛かるようになっていたシャツを羽織りながら寝室を出る。 上がってきた階段の向こう、寝室とは逆側の廊下の突き当たりの部屋のドアが半分開いているのが見えた。 とりあえずそちらへ歩いて行って覗き込ん...
唇が重ねられた次の瞬間、相馬は一歩前に出た。 同時に薫も前に出たので、2人の身体がぶつかり合うようになる。 互いの両腕が相手の身体に回り、這い上がっていった相馬の右手が、薫の後ろ髪をきつく掴んだ。 キスはすぐに激しさを増し、唇を交わしながら互いの身体を弄る手指は加速度的に荒々しくなり、もどかしげな相馬の手は乱暴めいたやり方で薫のジーンズからシャツを引き出そうとしていた。 理不尽な力が加えられたシ...
前回同様、近場のシティホテルへ入るのだろうと、相馬は思っていた。 だが薫はBMW Z4を停車させる素振りを見せず、朝比奈方面ではなく海老名方面を通るルートで、東京へ戻ってゆく。 昼過ぎまでの時間を自分の用事に振り回したのだから、後半は薫の好きにすればいい。と思って相馬は黙っていたが、車が八王子で高速を降りた後、都心とは反対方向へ向かうのを見て内心首を傾げる。 車窓の向こうが車よりも木の数の方が圧倒的に...
「何も、訊かないんだな」 沈黙を破って、相馬は言った。「訊いて欲しいなら、訊きますけど」 と、薫は言った。 再び、沈黙があった。 薫が開けた車の窓から、波が押し寄せ、引く音だけが聞こえてくる。「義妹の ―― さおりの居場所を、調べたんだ」 やがて、沈黙を破って、相馬が言う。「はい」 海の果てを見たまま、薫が言う。「あんたの言った通り、湖ではない水の近く・・・鵠沼海岸のそばで暮らしていた。結婚、していた...
猟奇的、宗教絡み、オカルトチックと、あまりにもセンセーショナルな事件だったため、年始の厳かさ、華やかさを吹っ飛ばす勢いでマスコミは連日派手に事件を報じた。 また、ここまで特徴的な事件であったにも関わらず5人もの被害者を出した警察への批判も強かった。 それが収まったのは松の内が明け、鏡開きが終った頃だ。 人気男優と人気女優の電撃入籍が発表され、世間の話題と注目は一気にそちらへと傾いていた。 その日...
薫に言われた通りに簑輪は車を走らせ、リストアップした病院を回っていった。 リストの最初の3軒の病院は、外周りを一周しただけで、「このまま次で」という一言で終わったが、4軒目、お茶の水にある病院まであと数十メートルというところまで来たとき、薫の表情が少し変わった。 相馬は助手席にいて、バックミラーに映る薫をずっと観察していたのだ。 相馬の予想通り薫は、車が病院を半周したあたりで、「駐車場に車を入れて...
アランに促されて先に部屋を出てゆく箕輪の姿が見えなくなってから、相馬はリビングの入り口ドア前に立つレオンの前で足を止めた。「彼は、大丈夫なんですか」 ベランダの方を見ながら相馬が訊くと、レオンもベランダの薫に視線を送る。 彼は再び長椅子に寝そべった状態で燦々と降り注ぐ太陽の光に晒されていた。「今日1日で完全復活するのは難しいでしょうね。ただ薫が、“満月に近い”というこの機を逃せば負担が増えると言う...
調査結果に関する話は翌日に、という予定だったが、昨夜の薫の様子から、相馬は翌々日以降になるかもしれないと考えていた。 しかし翌日の午前中、早い段階でレオンから、「神無月からご依頼の件に関して話をいたします。すみませんが、こちらまでご足労いただけますか?」 という連絡がきた。 それを受けて相馬と箕輪はすぐにホテル最上階にある特別室へと向かった。 奥の方の特別室前にアランが立っていて、ドアを開けてく...
3日前と同様、相馬は薫の乗ったポルシェ・マカンを先導する形で16時過ぎにホテルを出て、野間ひかりの実家へ向かった。 到着後、薫はいつも通り黒いコートに手袋、サングラス姿でゆっくりと車から降りたが、その日の薫はいつもと違い、マカンの脇に立って1分程、喉をそらすようにして空を見上げていた。 やはり今日も難しいのだろうか?と相馬は危ぶんだが、やがて薫は庭を抜けて玄関へと向かい、相馬が開いた玄関前で再び1分...
どのくらいの間、湖のほとりで呆然と座り込んでいただろうか ―― 目の前を一組の老夫婦が行き過ぎたことで、相馬ははっとして慌ててスマートフォン取り出す。 時刻は7時を少し過ぎたところで、ほっとした。 ノロノロと顔を上げると、目の前の景色は相変わらず絵画か葉書かというほど明るく、美しい。 湖のほとりにはいつの間にかやってきていた家族連れの姿があった。 小学生に上がりたてくらいの少女が真剣なようすで水辺に...
「・・・っ、そ、その割にあんた、福島へは来るなって、言ってきただろうが!」 相馬は喚きながら、薫から距離をとるために後ずさろうとした。が、忌々しいことにベンチには金属製の肘かけがついており、端に座っていた相馬が逃げるスペースはなかった。「仕事をする上では、あなたは来ない方が良いと感じましたから。でもそう言ったところであなたは来るだろうと予想していましたし・・・実際来たのを見てかなりイラッとはしまし...
「・・・調子狂うな」 東京で凄惨な事件が起きていることを忘れてしまいそうなほどのどかな、鳥のさえずりだけが聞こえる沈黙の後、相馬は言った。「・・・はい?」 頭を下げ続けていた薫が、顔を上げる。「一番年下とは思えないくらい、誰よりも偉そうにしてるだろう、いつも。突然頭なんか下げられても、かえって調子が狂うって言ってんだよ」 薫は答えずに俯いた。 おいおい、本気で調子が狂うし、やり辛すぎるだろ・・・...
レオンとの話を終えて部屋に戻ると、時刻は12時近かった。 箕輪は既に夢の中で、全くこいつは完全に旅行気分だな・・・と思いつつ、相馬は東京の本部から送られてきたメールをチェックし、必要なものには返信をしてから、殺害現場ホテルの防犯カメラを再度見直してゆく。 箕輪には「何度見ても同じじゃないですか?」と言われるくらいに繰り返し見ているので、犯人の一挙手一投足、足の出し方から手の動きまで自ら体現できるく...
「以前、府警の田沼刑事から聞きました」 と、相馬は言った。「CIA内部でトラブルがあって、神無月さんが何ヵ月も入院していたと」「そういえば大阪の刑事が薫について、あれこれ嗅ぎ回っていましたね」 と、レオンは小さく笑って言った。「そう、その、田沼刑事の言うところの“トラブル”により、薫は一度死んだ ―― とある現場で名前を呼ばれて、振り返ったところにタオルケットを押し付けられたんです」「え?タオルケット?」...
それから、5分ほど経っただろうか。 奥の方の特別室のドアが開き、そこからアランが姿を現した。 彼は相馬の存在が見えていないかのように、相馬の横を通って薫がいる特別室へと入ってゆく。 入れ違いに、レオンが部屋から出てきた。「お待たせしました。 相馬さんには、ご理解頂いておいたほうが宜しいかと思われるお話があるのですが・・・お時間、頂けますか」 レオンに訊かれ、相馬は頷く。 レオンも頷き、相馬を奥の...
断定的な薫の言葉に対し、相馬は何も言えなかった。 薫は淡々と続ける。「今回の被害者、野間ひかり ―― 彼女は生への執着が非常に薄い。自ら死ぬことすら望めないほどに。死の間際に抵抗したのは、実家にいた頃に義父からされていた虐待の記憶に囚われたからです。彼女が抵抗していたのは、“あの瞬間”ですら義父にだった。そんな彼女が終始執着していたのが・・・いえ、あれは執着というより懇願のようなものですが、それがドア...
相馬も刑事なので、武道の心得は人並み以上にある。 学生時代にやっていた剣道では都大会に出場した経験があるし、柔道も有段者だ。 だがアランの攻撃を、相馬は全く防げなかった。防ぐどころか、身構えることすら出来なかった。 それにも驚いたが、それより驚いたのは相馬が吹っ飛ばされたのと同時に、薫が廊下に倒れたことだ。 その倒れ方は“くずおれる”とかいうものではなく、ある程度重量のある木の柱が突かれて倒れる時...
宿泊するホテルに関しては事前に薫側から、『我々の宿泊先は自分達で手配・精算します』と連絡が入っていた。 そしてその後、彼らが手配したと連絡してきたのは裏磐梯近辺では最高級レベルのホテルで、しかも最上階に2部屋ある特別室を両方押さえていた。 その部屋の宿泊料金を調べてみて相馬はひっくり返りそうになったのだが、自分達の分は自分達で精算すると言っているのだから、それはそれで、まぁいい。 問題は相馬達が...
東京から福島の猪苗代に着くまで、途中のサービスエリアで2回休憩を取ったが、薫は車から出てこなかった。 助手の猫塚兄弟は車外に出てきていたが、2人ともほとんど車から離れず、終始厳しい表情で額を突き合わせるようにして何やら話をしていた。 羽生サービスエリアでは、“来るなと言ったのを無視して俺が来ているから機嫌が悪いのかもしれない、それに付き合わなきゃならない助手も大変だな”などと相馬は思っていた。 だ...
薫の『感覚』とやらをどう判断するのか ―― 警視庁内でも、意見は割れた。 これまで薫の捜査協力に直接関わってきたのは相馬や箕輪をはじめとする、ほんの一握りの捜査員だけだ。 実際に薫の能力を目の当たりにした相馬ですら未だその能力を信じきれずにいるのに、実際に接していない捜査員が薫の能力を疑問視するのは当然であった。 加えて今回、薫自身が『覚束ない感覚』であると言い切っているのだ。 そんな不確かなものを...
「・・・は?」、と相馬は言った、「『駄目』?・・・って、何が?」「被害者の女性、ここへ越してきてかなり日が浅いですね」 年頃の女性の部屋とは思えない、がらんとした1DKの部屋を眺めながら、薫は言った。 確かに被害者女性である野間ひかりは、かなり頻繁に引っ越しを繰り返していることが分かっていて ―― 恐らく父親の捜索の手から逃れるためであろう ―― 彼女がこのアパートに越してきて1ヶ月程しか経っていなかった。「...
相馬たちの必死の捜査を嘲笑うかのように、11月5日、五反田のラブホテルでデリヘル嬢の他殺体が発見された。 この法則でゆくと、12月の犯行日は4日である可能性が高い ―― 捜査員全員がそう予測していたにも関わらず、概当日、やはり事件は起きる。 8月は渋谷、9月は上野、10月は新宿、11月は五反田、と来ていたので23区内には厳重な警戒が敷かれていたが、それを避けたのか、12月4日に犯行が行われたのは東京都下、立川郊外に...
灼熱地獄のような夏が終り、漸く秋らしく過ごしやすい気温の日が増えてきた10月上旬。 季節の移り変わりに想いを馳せる余裕もなく、都内では立て続けに凄惨な事件が起こっていた。 20代前半のデリヘル嬢をターゲットにしているとみられる、連続殺人事件。 殺害現場は都内各所にあるラブホテルの一室で、犯人は出会い系アプリ経由、つまり店を通さずに女性と会ってホテルに連れ込み、刃物で胸を一突きして息の根をとめ、その後...
「で、神無月さんのことですけど」 と、箕輪は話を戻して言った。「日下浩二は明日の昼過ぎには東京に帰ってくるらしいので、とりあえずちょっと話を聞くという形で事情を聞きに行くつもりなんですけど、それに同行してもらおうかと思ってます。それでいいですか?」「ああ。よほどの無理難題でない限り、神無月薫のやりたいようにさせていい。上からもそう言われているしな。ただし・・・」「『直接日下浩二とは口を利かないよう...
―― 神無月薫への依頼は、8割方断られる ―― 最初にそう聞いたとき、“解決するのが簡単そうなものを選り好んでいるのだろう”、“仕事なのに有り得ない。自由すぎだろ”と、思っていた相馬だった。 だが“解決出来そうなものを選り好んでいる”という説に関しては、早々に認識を改めた。 先の「連続『誘拐』事件」はどう考えても“解決するのが簡単そう”からは程遠い事件であったから。 一方、“仕事なのに自由すぎ”というのは事実であ...
「冗談じゃありませんよ・・・」 と、相馬は力なく言った。「もちろん冗談などではない」 と、警視庁捜査一課管理官、宮田は言った。 霞ヶ関にある警視庁本部庁舎の一室。 デジャブのように半年ほど前と同じやりとりをしている2人であったが、今回、室内には相馬と宮田しかいなかった。「彼はこれまで2年もの間、超能力を使って捜査協力をするという触れ込みで全国各地の警察を転々としていたんですよね?」 相馬は必死になっ...
神無月薫が車を停めたのは、街道沿いにあるシティホテルだった。「先に上に行っていてください。最上階」 と、神無月薫は駐車場の片隅を顎で指し示しながら言い、自らはフロントへと向かった。 黙って言われた通りの方向に進むと、恐らく従業員用なのだろう、狭い階段があった。 それを上がって扉を開けると、客用のエレベーター横に出ることが出来た。 相馬は小さく肩を竦め、エレベーターで言われたとおり最上階へと向かう...
事件の現場となった別荘の、規制線から十数メートルのところで神無月薫とキスするのがまずいことは、至極当然のことだ。 だがそこから徒歩数分のところに停められた車の中なら良かったのかと言うと、そういう話ではなかった。もちろん。 ―― と、相馬が思ったのは、それから半日近くが経過した後の事だった。 神無月薫のものだという車は、深紅のBMW Z4だった。 らしいと言えば、らしいのか ―― と、相馬は思った。 同時に、...
ベンチに座る相馬と、それを見下ろす神無月薫と ―― 見つめ合ったまま、暫しの時間が流れた。 やがて相馬が言う、「外れだ」「『外れ』?」、と神無月薫が言う。「ああ。残念ながら今度こそ、な」 相馬は言い、立ち上がる。 見上げる側と見下ろす側が、逆になる。 小さく首を傾げる神無月薫を見下ろして、相馬は続ける。「俺は、知り合いとは寝ない。事件や仕事関係者とは特に ―― それだけは絶対と決めてるんだ」「・・・それ...
足元が崩れ落ちる、とか。 目の前が真っ暗になる、とか。 空が落ちてくる、とか。 そういった比喩表現は、こういう経験をした人間が、崩れ落ちた土砂や空の残骸に頭まで埋もれ、真っ暗闇の中で考えついたに違いない。 ぐらつく頭の奥底で、相馬は悟った。『ウルフ』。 それは7ヶ月ほど前に、相馬がメッセージのやり取りをしていた人物だった ―― ゲイ専用の、マッチングアプリで。 義務教育が完了する頃には既に、相馬は自...
「・・・兎にも角にも、今回の件は最初から最後まで、何もかもが悉く奇妙な事件だった」 白樺の枝の向こうに広がる空を見上げたまま、相馬は言った。「変な『超能力者』までしゃしゃり出て来ましたしね」 他人事のように、面白そうに、神無月薫が言った。「ホントだよ。俺は未だにあんたのことをどう考えれば良いのか、さっぱり分からん。正直言って、超能力者なんて詐欺師と同義語なんじゃないかとしか思えねぇし」 正直に相馬...
「刑事部長は未だに、あいつは元々何か知っていたに違いないって言ってるよ」 ライターの金属が擦れ合う音と共に、田沼は小さく笑った。「けどな、そういう可能性がないように、捜索願が出されてから何年か経っているものを ―― 少し古くて情報がすぐに集め辛いであろう捜索願を引っ張り出したんだ。 刑事部長は事前に調べていたんだろうとか往生際の悪いことを言うが、そもそも神無月薫は東京生まれの東京育ちで、5歳の時に渡米...
あれは2年前の夏だった、と田沼は語りだす。 ある日、刑事部長に呼び出されて、言われたんだ ―― 来週、関空にアメリカから客人がくる。 CIAの超能力研究チームに所属していた22歳の男性で、CIA内部で起きたトラブルのため、日本に帰国することになった。 このままにしておくには勿体ない特殊能力を持つ人物なので、日本の警察で使ってみて欲しい ―― という要請が、CIA上層部から日本警察にあったのだ、と。 相馬が最初に『超...
非番のその日、相馬は軽井沢にいた。 ここ半年ほど無休状態で働いていた相馬は、宮田監理官の命令で半ば強引に1週間、休暇を取らされていたのだ。 最初の2日間は、ひたすら寝ていた。 流石に3日目になると寝るのにも飽きてきたので、何をしようかと色々考えて、悩んだ末 ―― 結局、まず足が向いたのは軽井沢だった。 今回の事件で被害者の子供たちが遺棄された別荘は軽井沢といっても群馬に近い場所に位置しており、いわゆる...
事件はその後2週間ほどで解決したが、その2週間は正に、驚きに次ぐ驚きの連続だった。 そしてその驚きはやがて相馬に、恐怖にも似た感覚を与えた。 そう、事件の要所要所で、神無月薫が言ったことがぴたりぴたりとはまって行くのだ。■□■□■□■□■□■□■□■□■□■ 事件の始まりは、とある匿名掲示板だった。 10年ほど前、その掲示板の家庭や育児に関する相談スレッドに、ひとつの書き込みがされた ―― 妻が妊娠した。ずっと不妊治療を...
その日神無月薫が最後に外した手袋を元通りに左手にはめ直したのは、夜11時に近い時刻だった。 最初の家で口を開いて以降、神無月薫は相馬や箕輪が話しかけても一切答えなかった。 時間が経つにつれ、なんだか神無月薫の顔色がどんどん青ざめてゆく気がして、相馬は一度「おい、大丈夫か?」と尋ねてみた。 が、それにも神無月薫何の反応も見せなかった。 そのため、こいつは今日はもう話すつもりはないのだろうか?と思って...
「・・・『外れ』?」、不思議そうに、神無月薫は首を傾げる、「何の話ですか?」「何の話ですかって、他の何でもない、義父の話だよ。誘拐された子供の祖父、つまり女親と男親、どちら側の義父を指していたとしても、双方既に鬼籍に入っている。 あんたが誰の『義父』のことを話しているのかは知らないが、とんだ見込み違いに他ならな ―――― 」「ああ、なるほど。すみません」 立て板に水の態で話していた相馬の言葉を遮り、神無...
室内に入った神無月薫は、それまで前で組んでいた手を後ろに回し、手袋をしたままの両手の指を絡み合わせるようにしながら、じれったいほどにゆっくりとした足取りでマンションの各部屋を回っていった。 相馬が最初に宮田管理官に言っていたような水晶玉を出してくることも、あちこちに手を翳してみせるようなこともしない。 神無月薫はただただゆっくりと、まるで深い渓谷に渡されたロープで綱渡りをしているようなどこか慎重...
「はぁ?約束?絶対厳守? ―― あのなぁ、ふざけてんじゃねぇぞ。こちとら仕事をしてるんであって、遊んでるんじゃねぇんだ。一体どこから目線でそんな偉そうなこと・・・」「捜査一課長。刑事部長。警視総監」 反射的にキレかかった相馬の隣で、箕輪が低く小さく、唱えるように呟いた。 そう、宮田管理官にこの件を頭だしされた後、相馬は捜査一課長と刑事部長からも呼び出されていたのだ。 そこで聞かされたのは、実はこの「超...
「冗談じゃありませんよ」 と、相馬慶一郎(そうま・けいいちろう)は言った。「もちろん冗談などではない」 と、宮田智史(みやた・さとし)は言った。 霞ヶ関にある警視庁本部庁舎の一室。 相馬は警視庁捜査一課管理官である宮田と睨み合っていた。 遠巻きにその様子を伺う刑事たちの視線には「相馬主任、またやってるよ」というのをベースに、「まぁ今回のは流石に酷い話だよなぁ」「確かにちょっとなに言ってるのか分かりませ...
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山を降りるまで薫は無言だったが、その間、2度立ち止まった。 1度目は事件現場の崖を最後に見渡せる坂の上で、2度目は寺に入る前に立ち寄った神社の鳥居を望める分かれ道で。 そして山を降り、待たせていたタクシーを呼びよせたところで、薫が口を開く。「相馬さん、ひとつお願いがあるのですが・・・ご対応いただけますか」「嫌だ」 即答した相馬を、薫が信じられないものを見るような目で見た。 その視線を受けて、相馬は...
「やっぱりそう思うよな」 と、相馬は言い、さり気なく薫の腕を取って崖際から距離を取らせた。 薫の察知能力があれば、うっかり落下するなどという事故は起きないのかもしれない。が、事件発生当初に一旦刈られたのであろう雑草は事件から一月以上経過した現在、再び崖際が不明瞭になる程度に育っている。 相馬からすればどこから崖になっていて危険なのか分からないため、見ていてヒヤヒヤするのだ。 「しかし坂下のやつはそ...
薫は引き続き相馬の案内を待つことなく、釣鐘堂を越え、その奥にある小さな通用門を通り、寺の裏手の山道を抜け ―― 女子高生が身を投げた現場で足を止めた。 そして振り返る。「それで、一ノ宮さんはなんと?ここまでの現場では、特に事件についての話はされていませんでしたよね」「ああ。結論としては警察の見解を指示する方向だったな。全て自殺だろう、と」 と、相馬は言いながら薫の隣、一連の事件の最後の現場となった崖...
翌日の午後、相馬は薫を伴い、昨日最後に訪れた寺院に再訪していた。 朝一番で行くことを提案したのだが、薫が、「恐らく行動をチェックされるはずですので・・・相馬さん、何かしら用事がありますよね。午前中、先にそちらを片付けていただいて、済んだら連絡をください。待ち合わせ場所はその時にお伝えします」 と言うので、昨夕むつ警察署で聞いた諸々を東京の班員に伝えて情報収集を頼んだり、関係者に直接話を聞きに行っ...
最後の寺の現場を見て回った後、相馬はホテルに戻る一之宮玲子とそれに同行するという坂下たちと別れた。「どこに行く?」 相馬がこの後は別行動をすると言うのを聞いた坂下に訊ねられ、相馬は、「服部さんたちとむつ警察署。捜査資料や物証を一通り見てくる。お前らも来るか?」 と、訊き返す。 警察庁長官サイドから一之宮玲子に失礼のないように、と釘を刺されているであろうことは想像に難くなく、佐谷戸からも“上から何...
女生徒たちが亡くなったのは、むつ市内にある6つの寺院、そして彼女たちが通っている青森県立むつ第1高校校舎でのことだった。 寺院敷地内でそれぞれ1人ずつ、高校敷地内で2人の女生徒が投身している。 校長や教師から話を聞いた後、2人の生徒 ―― 5番目に亡くなった町田寿子、7番目に亡くなった森梨沙 ―― が倒れていた現場と、飛び降りた校舎屋上に青森県警の服部たちが案内してくれたが、事件発生両日ともに、その前後に不審...
今回の事件は、青森むつ市 ―― 下北半島のまさかりの根本あたりで起きた。 青森までは新幹線が通っているが、そこからむつ市までは車か電車、またはバスで行くことになる。 どちらにしても、青森からは2時間以上かかる。 地方では当然なのだが、主な公共交通機関は日に数本、片手に余る本数しか走っていないため、青森からは車の手配をしていた。 陰陽師・一之宮玲子(と、高性能な人感センサー付きの薫にも何人来ているのか...
翌日の昼少し前、相馬は東京駅にいた。 青森へ向かう新幹線最後尾、車両中程の指定席に腰を下ろしてメールをチェックしながら売店で購入したボトルコーヒーを一口、口に含んだ直後、そのまま吹き出しそうになる。 必死で飲み込んだもののコーヒーの一部が気管に入り込み、激しく咳き込む。 何とかまともな呼吸が出来るようになってから、隣に腰を下ろした男 ―― 神無月薫をまじまじと見つめた。「あ、あんた、何でここにいるん...
「お初にお目にかかります。一之宮玲子と申します」 明日から捜査のため青森へ出発する予定になっていたその日、警視庁へ来ていた陰陽師・一之宮玲子は捜査に同行する相馬へも挨拶をしに来ていた。 高名な政治家や企業トップを顧客に抱え、未来に関する忠告を与えて破格の料金をとるというのは一体どんな女性なのかと内心身構えるような気持ちでいた相馬だったが、予想に反して ―― と言っていいものかどうか、一之宮玲子は至って...
「・・・えーっと、“何か、どこかがおかしい”っていうのは例えば、どういう点がおかしいんだろう?」 と、相馬は訊いてみる。 薫は振り返り、最初とは逆回りでソファを回って元の場所に腰を下ろし、取り上げたワイングラスから白ワインを少し飲んだ。 そして相馬を真っ直ぐに見て、「おかしいところが分かっているのなら、こんな曖昧な言い方はしなくて済むんですけどね」 と、答えた。「・・・うん、そうだよな。まぁ、そりゃ...
翌日の夕方、相馬は猫塚アランがCEOを務める警備保障会社「Michis Security Service」本社ビルにいた。 入口を抜け、受付で名乗ろうとしたところで名前を呼ばれる。 見ると、そこにはハッとするような濃い青の瞳の女性が立っていた。 一見しただけで仕立ての良さが分かるシンプルな黒いスーツ、それとは対象的に立体的なレースが幾重にも重なり合った華やかな白いブラウスを身に着け、金色の髪を複雑な形に結い上げている。 ...
相馬と薫の関係は今や仕事とプライヴェート、それぞれに亘る感情が複雑に絡み合っており、捜査に直接関係のない場で薫に関してどういう反応を示せば良いのか測りかねていた相馬は、特に返事をしなかった。 だが宮田の一連の推測は、大筋で間違っていないだろうと思った。 相馬が担当であることと薫が警察の仕事を受けていることの因果関係はともかく、薫という人間が自身の力を崇め奉られて喜ぶ人間でないことは確かだ。 それ...
佐谷戸の不吉な予言により重苦しい気分を抱いたまま警視庁捜査一課管理官・宮田の執務室に入室した相馬は、宮田の話を聞いた後たっぷり数分間、無言で立ち尽くしていた。 どのくらいの時間が経過しただろうか ―― よく分からなくなった頃、いつまでも向かい合って沈黙を分け合っているわけにはいかないと考えたのであろう宮田が口を開く。「“冗談じゃありません”とか、今回は言わないのか」 しかしそれでも、相馬は黙っていた。...
「ほんっとぉぉおーーーーに、格好いいんですよ。惚れ惚れしちゃいましたよ、いいなぁー、羨ましいなぁー、あれが自分のだったら、俺、もう毎日撫で回して、愛でまくります。いや、いっそ住みますね、間違いない!」 ここ2ヶ月ほど、大きな事件はないものの細々とした事件が立て続けに起こり、文字通り関東各所を駆け回っていた相馬班である。 その日は久々に班員が一堂に会することが出来、約束の時間より少し遅れて部屋に入っ...
「そもそもさ。俺があんたを怖がったり怯えたりする意味って、あるのか?」 と、相馬は訊いた。 意味が分からないという風に、薫は微かに眉根を寄せる。「以前、猫塚レオンに説明されたんだよ、“薫は会う人の思考を手当たり次第に読んでいるわけではない”、自分の命に関わる可能性があることを無防備に、日常的にやってるわけが無いですよね?”、“そのことをしっかり理解してもらわないと困る”ってな。あんたも一貫して、“分から...
ごうごうという血流の音以外を鼓膜が聞き取れるようになった頃、柱に押さえ込まれていた薫の身体がずるずると床に向かって落ち始める。 相馬は慌てて薫の足を掴んでいた手を外し、その身体を支えてまっすぐ立たせようとした。 が、薫の両足はまだその体重を支えられるほど復活しておらず、柱に沿うようにずるずると床に座り込んでいってしまい、相馬もそれを止められない。 そもそも相馬自身、ようやくまともに立てるようにな...
永田町を通り過ぎた辺りで相馬が口にした質問に、薫は小さく笑った。「相馬さん」 と、薫は視線を前に据えたまま、歌うような言い方で相馬の名を呼ぶ。「熟年夫婦じゃないんですから。“あれ”とか“それ”とか言うだけでテレビのリモコンが差し出されたり、お茶が入ったりはしませんよ?」「とぼけるのは止せ。時間の無駄だ」 と、相馬も前を見たままぴしゃりと言う。「あんた、最初から何もかも全て、計算ずくだったんだろう。あ...
各種メディアホームページが一斉ジャックされた騒動から1週間後、相馬は捜査一課管理官・宮田に呼び出されていた。「先程、サイバーセキュリティ対策本部の槙原本部長から、連絡があった ―― 例の報道・マスコミ各社のホームページジャックの件、すでに捜査が行き詰まっているそうだ」 宮田の前に立った相馬は一言、そうですか。と言っただけで、口を噤む。「犯人の痕跡を辿るためにあれこれ手は尽くしているが、現状、完全にお...
その後2ヶ月程、薫からの連絡は途絶えた。 事件は大小あれこれ起きていて、そのうちの何件かは薫への依頼もされた。 しかし何度依頼メールを送っても、まるでMAILER DEMONからの返信のように一瞬で短い断りのメールが帰ってくるのみで、薫が仕事を引き受けることはなかった。 三ツ木昇の殺害から始まった事件は、相馬が予測していた通りの流れで幕引きとなっていた。 庵野公平が三ツ木昇のマンションにタイマー付きのアロマ...
相馬が廊下に出たとき、薫の姿はもちろん、レオンやアランの姿も既になかった。 エレベーター・ホールに走ったが、薫たちを乗せたのであろうエレベーターの箱は今まさに下降し始めたところで、相馬は舌打ちと共に下向き矢印のパネルを叩く。 数十秒後にやって来た別のエレベーターに乗り込んだ相馬は一瞬躊躇ってから ―― 地下駐車場に降りるべきか、1階の駐車場出入り口前で出てくるのを待つべきか ―― タイムラグ的には駐車場...
「主任さんがおっしゃっていた通り、かなり変わった方ですね」 一応の事情聴取を終えた早乙女伸一の一歩後ろに付き従うようにして警視庁を出てゆく小野寺充を見送りつつ、佐谷戸は言った。「そう、ですね・・・」 と、相馬は呟く。「何か気になります?」「いや、あの政治家・・・早乙女伸一。以前となんだか随分雰囲気が違う気がして。テレビで見るのと違うのは、まぁ、分かるんですが」「こんな騒動があったから、ではなくです...
「た、助けてくれぇッ、殺される・・・!!」 駆け寄ってくる坂下を見た早乙女伸一が必死の形相で、取り縋るように坂下の二の腕を両手で掴む。 伸一の背後、玄関から出てきたのは能面のような顔をした女性だった ―― 早乙女結子だ。 緊迫した状況とは別世界にいるかのように、結子は美しかった。 背中半ばまである長い巻き髪は艷やかにセットされ、殆ど乱れていない。 白い肌にはシミひとつなく、目元から唇に至るまで完璧な化...
「お、主任さん、顔色、かなり良くなりましたね」 翌朝、7時すぎに姿を現した相馬の顔を見て第一声、佐谷戸が言った。「ああ、やはり同じ寝るんでも、仮眠室と自宅とじゃ全く違いますね。大分すっきりしました、すみませんでした ―― で、庵野のパソコンから例の三ツ木夫妻と箕輪の鼻孔から採取された違法薬物の購入履歴が出たそうですね」「ええ、押収されたパソコンにはどれもかなり厳重なセキュリティがかけられていたみたいな...
相馬はスマートフォンの画面を眺めながら、封を切ったビールをゆっくりと2、3口飲んでから、電話に出る。「こんばんは」 と、回線の向こうで薫が言った。「お元気・・・では、なさそうですね」「・・・なんでだよ。何も言ってないだろ」 と、相馬が言うと、薫が少し笑ったような気配が伝わってくる。「では、元気なんですか?」「別に・・・、そうとも言いきれないけど」 自分でも子供っぽい言い方だと情けなくなりつつ、相馬...
その後、相馬と佐谷戸は黙々と部屋の中を調べて回った。 殆どのPC機材には厳重にセキュリティがかけられていたが、いくつかの記録媒体にはアクセスすることが出来た。 佐谷戸がそちらを調べ、相馬は引き続き巨大な本棚に納められたファイルを調べ続けた。 沈黙の中、どのくらいの時間、それぞれ捜査をしていただろうか ―― まるで示し合わせたかのように、相馬と佐谷戸が同時に互いの名前を口にした。 その声音から、互いが見...
「現状、三ツ木昇が顧問弁護士をしているNPO法人が出入りしている公園で不審死があったから、関係があるかどうかわからないけど念のため調べておこう。ってだけですしね」 と、アンナが言う。「そういうことだ」 と、相馬は頷き、乙部とエツローを見る。「今日か明日の早い段階で、コインロッカーの場所が分かるだろう。そこから早急に庵野公平の隠れ家を割り出して、そこから何が出てくるやら・・・、分からないが、その目処が...
薫が怯むような切り返しをしてやろうと相馬が口を開いたところで、部屋の固定電話が鳴った。 立ち上がった薫が電話に出て相手の話を聞いてから受話器を置く。「車の用意ができたそうです。エレベーターまでお送りします」 振り上げた心の拳の行き場を失わせたまま、相馬もなしくずし的に立ち上がる。「・・・ところで、今回の事件を“胸が悪くなる”と感じた理由を聞いていなかったな」「ああ、そうですね、言い忘れていました」...
「被害者の弁護士・三ツ木昇はめった刺しにされて殺されていたんだが・・・胸が悪くなるってのは、そういう意味ではないんだろうな」 と、相馬が訊くと、薫は頷く。「殺し方はその場に適当に合わせただけで、特に意味はなかったでしょうね」「その場に適当に合わせただけ?」「はい。その ―― と薫は相馬の胸元、庵野公平のねぐらから見つけ出したキーを入れた辺りをチラリと見た ―― コインロッカーから彼の本当の隠れ家に辿り着け...
掘り返した土を元に戻した後で ―― 元通りに踏み固めておかないと、掘り返したってバレますよ。もっときっちり元に戻さないと。等と言われながら ―― 相馬たちは入ってきたのとは別の入り口から公園を出た。 そこにはレオンが運転するポルシェ・マカンが停車しており、なしくずし的に相馬も乗り込んで(というかアランに半ば押し込まれて)公園を後にする。 出来ればそのまま警視庁に取って返し、庵野公平のねぐらで見つけたキーが...