山を降りるまで薫は無言だったが、その間、2度立ち止まった。 1度目は事件現場の崖を最後に見渡せる坂の上で、2度目は寺に入る前に立ち寄った神社の鳥居を望める分かれ道で。 そして山を降り、待たせていたタクシーを呼びよせたところで、薫が口を開く。「相馬さん、ひとつお願いがあるのですが・・・ご対応いただけますか」「嫌だ」 即答した相馬を、薫が信じられないものを見るような目で見た。 その視線を受けて、相馬は...
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山を降りるまで薫は無言だったが、その間、2度立ち止まった。 1度目は事件現場の崖を最後に見渡せる坂の上で、2度目は寺に入る前に立ち寄った神社の鳥居を望める分かれ道で。 そして山を降り、待たせていたタクシーを呼びよせたところで、薫が口を開く。「相馬さん、ひとつお願いがあるのですが・・・ご対応いただけますか」「嫌だ」 即答した相馬を、薫が信じられないものを見るような目で見た。 その視線を受けて、相馬は...
「やっぱりそう思うよな」 と、相馬は言い、さり気なく薫の腕を取って崖際から距離を取らせた。 薫の察知能力があれば、うっかり落下するなどという事故は起きないのかもしれない。が、事件発生当初に一旦刈られたのであろう雑草は事件から一月以上経過した現在、再び崖際が不明瞭になる程度に育っている。 相馬からすればどこから崖になっていて危険なのか分からないため、見ていてヒヤヒヤするのだ。 「しかし坂下のやつはそ...
薫は引き続き相馬の案内を待つことなく、釣鐘堂を越え、その奥にある小さな通用門を通り、寺の裏手の山道を抜け ―― 女子高生が身を投げた現場で足を止めた。 そして振り返る。「それで、一ノ宮さんはなんと?ここまでの現場では、特に事件についての話はされていませんでしたよね」「ああ。結論としては警察の見解を指示する方向だったな。全て自殺だろう、と」 と、相馬は言いながら薫の隣、一連の事件の最後の現場となった崖...
翌日の午後、相馬は薫を伴い、昨日最後に訪れた寺院に再訪していた。 朝一番で行くことを提案したのだが、薫が、「恐らく行動をチェックされるはずですので・・・相馬さん、何かしら用事がありますよね。午前中、先にそちらを片付けていただいて、済んだら連絡をください。待ち合わせ場所はその時にお伝えします」 と言うので、昨夕むつ警察署で聞いた諸々を東京の班員に伝えて情報収集を頼んだり、関係者に直接話を聞きに行っ...
最後の寺の現場を見て回った後、相馬はホテルに戻る一之宮玲子とそれに同行するという坂下たちと別れた。「どこに行く?」 相馬がこの後は別行動をすると言うのを聞いた坂下に訊ねられ、相馬は、「服部さんたちとむつ警察署。捜査資料や物証を一通り見てくる。お前らも来るか?」 と、訊き返す。 警察庁長官サイドから一之宮玲子に失礼のないように、と釘を刺されているであろうことは想像に難くなく、佐谷戸からも“上から何...
女生徒たちが亡くなったのは、むつ市内にある6つの寺院、そして彼女たちが通っている青森県立むつ第1高校校舎でのことだった。 寺院敷地内でそれぞれ1人ずつ、高校敷地内で2人の女生徒が投身している。 校長や教師から話を聞いた後、2人の生徒 ―― 5番目に亡くなった町田寿子、7番目に亡くなった森梨沙 ―― が倒れていた現場と、飛び降りた校舎屋上に青森県警の服部たちが案内してくれたが、事件発生両日ともに、その前後に不審...
今回の事件は、青森むつ市 ―― 下北半島のまさかりの根本あたりで起きた。 青森までは新幹線が通っているが、そこからむつ市までは車か電車、またはバスで行くことになる。 どちらにしても、青森からは2時間以上かかる。 地方では当然なのだが、主な公共交通機関は日に数本、片手に余る本数しか走っていないため、青森からは車の手配をしていた。 陰陽師・一之宮玲子(と、高性能な人感センサー付きの薫にも何人来ているのか...
翌日の昼少し前、相馬は東京駅にいた。 青森へ向かう新幹線最後尾、車両中程の指定席に腰を下ろしてメールをチェックしながら売店で購入したボトルコーヒーを一口、口に含んだ直後、そのまま吹き出しそうになる。 必死で飲み込んだもののコーヒーの一部が気管に入り込み、激しく咳き込む。 何とかまともな呼吸が出来るようになってから、隣に腰を下ろした男 ―― 神無月薫をまじまじと見つめた。「あ、あんた、何でここにいるん...
「お初にお目にかかります。一之宮玲子と申します」 明日から捜査のため青森へ出発する予定になっていたその日、警視庁へ来ていた陰陽師・一之宮玲子は捜査に同行する相馬へも挨拶をしに来ていた。 高名な政治家や企業トップを顧客に抱え、未来に関する忠告を与えて破格の料金をとるというのは一体どんな女性なのかと内心身構えるような気持ちでいた相馬だったが、予想に反して ―― と言っていいものかどうか、一之宮玲子は至って...
「・・・えーっと、“何か、どこかがおかしい”っていうのは例えば、どういう点がおかしいんだろう?」 と、相馬は訊いてみる。 薫は振り返り、最初とは逆回りでソファを回って元の場所に腰を下ろし、取り上げたワイングラスから白ワインを少し飲んだ。 そして相馬を真っ直ぐに見て、「おかしいところが分かっているのなら、こんな曖昧な言い方はしなくて済むんですけどね」 と、答えた。「・・・うん、そうだよな。まぁ、そりゃ...
翌日の夕方、相馬は猫塚アランがCEOを務める警備保障会社「Michis Security Service」本社ビルにいた。 入口を抜け、受付で名乗ろうとしたところで名前を呼ばれる。 見ると、そこにはハッとするような濃い青の瞳の女性が立っていた。 一見しただけで仕立ての良さが分かるシンプルな黒いスーツ、それとは対象的に立体的なレースが幾重にも重なり合った華やかな白いブラウスを身に着け、金色の髪を複雑な形に結い上げている。 ...
相馬と薫の関係は今や仕事とプライヴェート、それぞれに亘る感情が複雑に絡み合っており、捜査に直接関係のない場で薫に関してどういう反応を示せば良いのか測りかねていた相馬は、特に返事をしなかった。 だが宮田の一連の推測は、大筋で間違っていないだろうと思った。 相馬が担当であることと薫が警察の仕事を受けていることの因果関係はともかく、薫という人間が自身の力を崇め奉られて喜ぶ人間でないことは確かだ。 それ...
佐谷戸の不吉な予言により重苦しい気分を抱いたまま警視庁捜査一課管理官・宮田の執務室に入室した相馬は、宮田の話を聞いた後たっぷり数分間、無言で立ち尽くしていた。 どのくらいの時間が経過しただろうか ―― よく分からなくなった頃、いつまでも向かい合って沈黙を分け合っているわけにはいかないと考えたのであろう宮田が口を開く。「“冗談じゃありません”とか、今回は言わないのか」 しかしそれでも、相馬は黙っていた。...
「ほんっとぉぉおーーーーに、格好いいんですよ。惚れ惚れしちゃいましたよ、いいなぁー、羨ましいなぁー、あれが自分のだったら、俺、もう毎日撫で回して、愛でまくります。いや、いっそ住みますね、間違いない!」 ここ2ヶ月ほど、大きな事件はないものの細々とした事件が立て続けに起こり、文字通り関東各所を駆け回っていた相馬班である。 その日は久々に班員が一堂に会することが出来、約束の時間より少し遅れて部屋に入っ...
「そもそもさ。俺があんたを怖がったり怯えたりする意味って、あるのか?」 と、相馬は訊いた。 意味が分からないという風に、薫は微かに眉根を寄せる。「以前、猫塚レオンに説明されたんだよ、“薫は会う人の思考を手当たり次第に読んでいるわけではない”、自分の命に関わる可能性があることを無防備に、日常的にやってるわけが無いですよね?”、“そのことをしっかり理解してもらわないと困る”ってな。あんたも一貫して、“分から...
ごうごうという血流の音以外を鼓膜が聞き取れるようになった頃、柱に押さえ込まれていた薫の身体がずるずると床に向かって落ち始める。 相馬は慌てて薫の足を掴んでいた手を外し、その身体を支えてまっすぐ立たせようとした。 が、薫の両足はまだその体重を支えられるほど復活しておらず、柱に沿うようにずるずると床に座り込んでいってしまい、相馬もそれを止められない。 そもそも相馬自身、ようやくまともに立てるようにな...
永田町を通り過ぎた辺りで相馬が口にした質問に、薫は小さく笑った。「相馬さん」 と、薫は視線を前に据えたまま、歌うような言い方で相馬の名を呼ぶ。「熟年夫婦じゃないんですから。“あれ”とか“それ”とか言うだけでテレビのリモコンが差し出されたり、お茶が入ったりはしませんよ?」「とぼけるのは止せ。時間の無駄だ」 と、相馬も前を見たままぴしゃりと言う。「あんた、最初から何もかも全て、計算ずくだったんだろう。あ...
各種メディアホームページが一斉ジャックされた騒動から1週間後、相馬は捜査一課管理官・宮田に呼び出されていた。「先程、サイバーセキュリティ対策本部の槙原本部長から、連絡があった ―― 例の報道・マスコミ各社のホームページジャックの件、すでに捜査が行き詰まっているそうだ」 宮田の前に立った相馬は一言、そうですか。と言っただけで、口を噤む。「犯人の痕跡を辿るためにあれこれ手は尽くしているが、現状、完全にお...
その後2ヶ月程、薫からの連絡は途絶えた。 事件は大小あれこれ起きていて、そのうちの何件かは薫への依頼もされた。 しかし何度依頼メールを送っても、まるでMAILER DEMONからの返信のように一瞬で短い断りのメールが帰ってくるのみで、薫が仕事を引き受けることはなかった。 三ツ木昇の殺害から始まった事件は、相馬が予測していた通りの流れで幕引きとなっていた。 庵野公平が三ツ木昇のマンションにタイマー付きのアロマ...
相馬が廊下に出たとき、薫の姿はもちろん、レオンやアランの姿も既になかった。 エレベーター・ホールに走ったが、薫たちを乗せたのであろうエレベーターの箱は今まさに下降し始めたところで、相馬は舌打ちと共に下向き矢印のパネルを叩く。 数十秒後にやって来た別のエレベーターに乗り込んだ相馬は一瞬躊躇ってから ―― 地下駐車場に降りるべきか、1階の駐車場出入り口前で出てくるのを待つべきか ―― タイムラグ的には駐車場...
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山を降りるまで薫は無言だったが、その間、2度立ち止まった。 1度目は事件現場の崖を最後に見渡せる坂の上で、2度目は寺に入る前に立ち寄った神社の鳥居を望める分かれ道で。 そして山を降り、待たせていたタクシーを呼びよせたところで、薫が口を開く。「相馬さん、ひとつお願いがあるのですが・・・ご対応いただけますか」「嫌だ」 即答した相馬を、薫が信じられないものを見るような目で見た。 その視線を受けて、相馬は...
「やっぱりそう思うよな」 と、相馬は言い、さり気なく薫の腕を取って崖際から距離を取らせた。 薫の察知能力があれば、うっかり落下するなどという事故は起きないのかもしれない。が、事件発生当初に一旦刈られたのであろう雑草は事件から一月以上経過した現在、再び崖際が不明瞭になる程度に育っている。 相馬からすればどこから崖になっていて危険なのか分からないため、見ていてヒヤヒヤするのだ。 「しかし坂下のやつはそ...
薫は引き続き相馬の案内を待つことなく、釣鐘堂を越え、その奥にある小さな通用門を通り、寺の裏手の山道を抜け ―― 女子高生が身を投げた現場で足を止めた。 そして振り返る。「それで、一ノ宮さんはなんと?ここまでの現場では、特に事件についての話はされていませんでしたよね」「ああ。結論としては警察の見解を指示する方向だったな。全て自殺だろう、と」 と、相馬は言いながら薫の隣、一連の事件の最後の現場となった崖...
翌日の午後、相馬は薫を伴い、昨日最後に訪れた寺院に再訪していた。 朝一番で行くことを提案したのだが、薫が、「恐らく行動をチェックされるはずですので・・・相馬さん、何かしら用事がありますよね。午前中、先にそちらを片付けていただいて、済んだら連絡をください。待ち合わせ場所はその時にお伝えします」 と言うので、昨夕むつ警察署で聞いた諸々を東京の班員に伝えて情報収集を頼んだり、関係者に直接話を聞きに行っ...
最後の寺の現場を見て回った後、相馬はホテルに戻る一之宮玲子とそれに同行するという坂下たちと別れた。「どこに行く?」 相馬がこの後は別行動をすると言うのを聞いた坂下に訊ねられ、相馬は、「服部さんたちとむつ警察署。捜査資料や物証を一通り見てくる。お前らも来るか?」 と、訊き返す。 警察庁長官サイドから一之宮玲子に失礼のないように、と釘を刺されているであろうことは想像に難くなく、佐谷戸からも“上から何...
女生徒たちが亡くなったのは、むつ市内にある6つの寺院、そして彼女たちが通っている青森県立むつ第1高校校舎でのことだった。 寺院敷地内でそれぞれ1人ずつ、高校敷地内で2人の女生徒が投身している。 校長や教師から話を聞いた後、2人の生徒 ―― 5番目に亡くなった町田寿子、7番目に亡くなった森梨沙 ―― が倒れていた現場と、飛び降りた校舎屋上に青森県警の服部たちが案内してくれたが、事件発生両日ともに、その前後に不審...
今回の事件は、青森むつ市 ―― 下北半島のまさかりの根本あたりで起きた。 青森までは新幹線が通っているが、そこからむつ市までは車か電車、またはバスで行くことになる。 どちらにしても、青森からは2時間以上かかる。 地方では当然なのだが、主な公共交通機関は日に数本、片手に余る本数しか走っていないため、青森からは車の手配をしていた。 陰陽師・一之宮玲子(と、高性能な人感センサー付きの薫にも何人来ているのか...
翌日の昼少し前、相馬は東京駅にいた。 青森へ向かう新幹線最後尾、車両中程の指定席に腰を下ろしてメールをチェックしながら売店で購入したボトルコーヒーを一口、口に含んだ直後、そのまま吹き出しそうになる。 必死で飲み込んだもののコーヒーの一部が気管に入り込み、激しく咳き込む。 何とかまともな呼吸が出来るようになってから、隣に腰を下ろした男 ―― 神無月薫をまじまじと見つめた。「あ、あんた、何でここにいるん...
「お初にお目にかかります。一之宮玲子と申します」 明日から捜査のため青森へ出発する予定になっていたその日、警視庁へ来ていた陰陽師・一之宮玲子は捜査に同行する相馬へも挨拶をしに来ていた。 高名な政治家や企業トップを顧客に抱え、未来に関する忠告を与えて破格の料金をとるというのは一体どんな女性なのかと内心身構えるような気持ちでいた相馬だったが、予想に反して ―― と言っていいものかどうか、一之宮玲子は至って...
「・・・えーっと、“何か、どこかがおかしい”っていうのは例えば、どういう点がおかしいんだろう?」 と、相馬は訊いてみる。 薫は振り返り、最初とは逆回りでソファを回って元の場所に腰を下ろし、取り上げたワイングラスから白ワインを少し飲んだ。 そして相馬を真っ直ぐに見て、「おかしいところが分かっているのなら、こんな曖昧な言い方はしなくて済むんですけどね」 と、答えた。「・・・うん、そうだよな。まぁ、そりゃ...
翌日の夕方、相馬は猫塚アランがCEOを務める警備保障会社「Michis Security Service」本社ビルにいた。 入口を抜け、受付で名乗ろうとしたところで名前を呼ばれる。 見ると、そこにはハッとするような濃い青の瞳の女性が立っていた。 一見しただけで仕立ての良さが分かるシンプルな黒いスーツ、それとは対象的に立体的なレースが幾重にも重なり合った華やかな白いブラウスを身に着け、金色の髪を複雑な形に結い上げている。 ...
相馬と薫の関係は今や仕事とプライヴェート、それぞれに亘る感情が複雑に絡み合っており、捜査に直接関係のない場で薫に関してどういう反応を示せば良いのか測りかねていた相馬は、特に返事をしなかった。 だが宮田の一連の推測は、大筋で間違っていないだろうと思った。 相馬が担当であることと薫が警察の仕事を受けていることの因果関係はともかく、薫という人間が自身の力を崇め奉られて喜ぶ人間でないことは確かだ。 それ...
佐谷戸の不吉な予言により重苦しい気分を抱いたまま警視庁捜査一課管理官・宮田の執務室に入室した相馬は、宮田の話を聞いた後たっぷり数分間、無言で立ち尽くしていた。 どのくらいの時間が経過しただろうか ―― よく分からなくなった頃、いつまでも向かい合って沈黙を分け合っているわけにはいかないと考えたのであろう宮田が口を開く。「“冗談じゃありません”とか、今回は言わないのか」 しかしそれでも、相馬は黙っていた。...
「ほんっとぉぉおーーーーに、格好いいんですよ。惚れ惚れしちゃいましたよ、いいなぁー、羨ましいなぁー、あれが自分のだったら、俺、もう毎日撫で回して、愛でまくります。いや、いっそ住みますね、間違いない!」 ここ2ヶ月ほど、大きな事件はないものの細々とした事件が立て続けに起こり、文字通り関東各所を駆け回っていた相馬班である。 その日は久々に班員が一堂に会することが出来、約束の時間より少し遅れて部屋に入っ...
「そもそもさ。俺があんたを怖がったり怯えたりする意味って、あるのか?」 と、相馬は訊いた。 意味が分からないという風に、薫は微かに眉根を寄せる。「以前、猫塚レオンに説明されたんだよ、“薫は会う人の思考を手当たり次第に読んでいるわけではない”、自分の命に関わる可能性があることを無防備に、日常的にやってるわけが無いですよね?”、“そのことをしっかり理解してもらわないと困る”ってな。あんたも一貫して、“分から...
ごうごうという血流の音以外を鼓膜が聞き取れるようになった頃、柱に押さえ込まれていた薫の身体がずるずると床に向かって落ち始める。 相馬は慌てて薫の足を掴んでいた手を外し、その身体を支えてまっすぐ立たせようとした。 が、薫の両足はまだその体重を支えられるほど復活しておらず、柱に沿うようにずるずると床に座り込んでいってしまい、相馬もそれを止められない。 そもそも相馬自身、ようやくまともに立てるようにな...
永田町を通り過ぎた辺りで相馬が口にした質問に、薫は小さく笑った。「相馬さん」 と、薫は視線を前に据えたまま、歌うような言い方で相馬の名を呼ぶ。「熟年夫婦じゃないんですから。“あれ”とか“それ”とか言うだけでテレビのリモコンが差し出されたり、お茶が入ったりはしませんよ?」「とぼけるのは止せ。時間の無駄だ」 と、相馬も前を見たままぴしゃりと言う。「あんた、最初から何もかも全て、計算ずくだったんだろう。あ...
各種メディアホームページが一斉ジャックされた騒動から1週間後、相馬は捜査一課管理官・宮田に呼び出されていた。「先程、サイバーセキュリティ対策本部の槙原本部長から、連絡があった ―― 例の報道・マスコミ各社のホームページジャックの件、すでに捜査が行き詰まっているそうだ」 宮田の前に立った相馬は一言、そうですか。と言っただけで、口を噤む。「犯人の痕跡を辿るためにあれこれ手は尽くしているが、現状、完全にお...
その後2ヶ月程、薫からの連絡は途絶えた。 事件は大小あれこれ起きていて、そのうちの何件かは薫への依頼もされた。 しかし何度依頼メールを送っても、まるでMAILER DEMONからの返信のように一瞬で短い断りのメールが帰ってくるのみで、薫が仕事を引き受けることはなかった。 三ツ木昇の殺害から始まった事件は、相馬が予測していた通りの流れで幕引きとなっていた。 庵野公平が三ツ木昇のマンションにタイマー付きのアロマ...
相馬が廊下に出たとき、薫の姿はもちろん、レオンやアランの姿も既になかった。 エレベーター・ホールに走ったが、薫たちを乗せたのであろうエレベーターの箱は今まさに下降し始めたところで、相馬は舌打ちと共に下向き矢印のパネルを叩く。 数十秒後にやって来た別のエレベーターに乗り込んだ相馬は一瞬躊躇ってから ―― 地下駐車場に降りるべきか、1階の駐車場出入り口前で出てくるのを待つべきか ―― タイムラグ的には駐車場...
「主任さんがおっしゃっていた通り、かなり変わった方ですね」 一応の事情聴取を終えた早乙女伸一の一歩後ろに付き従うようにして警視庁を出てゆく小野寺充を見送りつつ、佐谷戸は言った。「そう、ですね・・・」 と、相馬は呟く。「何か気になります?」「いや、あの政治家・・・早乙女伸一。以前となんだか随分雰囲気が違う気がして。テレビで見るのと違うのは、まぁ、分かるんですが」「こんな騒動があったから、ではなくです...
「た、助けてくれぇッ、殺される・・・!!」 駆け寄ってくる坂下を見た早乙女伸一が必死の形相で、取り縋るように坂下の二の腕を両手で掴む。 伸一の背後、玄関から出てきたのは能面のような顔をした女性だった ―― 早乙女結子だ。 緊迫した状況とは別世界にいるかのように、結子は美しかった。 背中半ばまである長い巻き髪は艷やかにセットされ、殆ど乱れていない。 白い肌にはシミひとつなく、目元から唇に至るまで完璧な化...
「お、主任さん、顔色、かなり良くなりましたね」 翌朝、7時すぎに姿を現した相馬の顔を見て第一声、佐谷戸が言った。「ああ、やはり同じ寝るんでも、仮眠室と自宅とじゃ全く違いますね。大分すっきりしました、すみませんでした ―― で、庵野のパソコンから例の三ツ木夫妻と箕輪の鼻孔から採取された違法薬物の購入履歴が出たそうですね」「ええ、押収されたパソコンにはどれもかなり厳重なセキュリティがかけられていたみたいな...
相馬はスマートフォンの画面を眺めながら、封を切ったビールをゆっくりと2、3口飲んでから、電話に出る。「こんばんは」 と、回線の向こうで薫が言った。「お元気・・・では、なさそうですね」「・・・なんでだよ。何も言ってないだろ」 と、相馬が言うと、薫が少し笑ったような気配が伝わってくる。「では、元気なんですか?」「別に・・・、そうとも言いきれないけど」 自分でも子供っぽい言い方だと情けなくなりつつ、相馬...
その後、相馬と佐谷戸は黙々と部屋の中を調べて回った。 殆どのPC機材には厳重にセキュリティがかけられていたが、いくつかの記録媒体にはアクセスすることが出来た。 佐谷戸がそちらを調べ、相馬は引き続き巨大な本棚に納められたファイルを調べ続けた。 沈黙の中、どのくらいの時間、それぞれ捜査をしていただろうか ―― まるで示し合わせたかのように、相馬と佐谷戸が同時に互いの名前を口にした。 その声音から、互いが見...
「現状、三ツ木昇が顧問弁護士をしているNPO法人が出入りしている公園で不審死があったから、関係があるかどうかわからないけど念のため調べておこう。ってだけですしね」 と、アンナが言う。「そういうことだ」 と、相馬は頷き、乙部とエツローを見る。「今日か明日の早い段階で、コインロッカーの場所が分かるだろう。そこから早急に庵野公平の隠れ家を割り出して、そこから何が出てくるやら・・・、分からないが、その目処が...
薫が怯むような切り返しをしてやろうと相馬が口を開いたところで、部屋の固定電話が鳴った。 立ち上がった薫が電話に出て相手の話を聞いてから受話器を置く。「車の用意ができたそうです。エレベーターまでお送りします」 振り上げた心の拳の行き場を失わせたまま、相馬もなしくずし的に立ち上がる。「・・・ところで、今回の事件を“胸が悪くなる”と感じた理由を聞いていなかったな」「ああ、そうですね、言い忘れていました」...
「被害者の弁護士・三ツ木昇はめった刺しにされて殺されていたんだが・・・胸が悪くなるってのは、そういう意味ではないんだろうな」 と、相馬が訊くと、薫は頷く。「殺し方はその場に適当に合わせただけで、特に意味はなかったでしょうね」「その場に適当に合わせただけ?」「はい。その ―― と薫は相馬の胸元、庵野公平のねぐらから見つけ出したキーを入れた辺りをチラリと見た ―― コインロッカーから彼の本当の隠れ家に辿り着け...
掘り返した土を元に戻した後で ―― 元通りに踏み固めておかないと、掘り返したってバレますよ。もっときっちり元に戻さないと。等と言われながら ―― 相馬たちは入ってきたのとは別の入り口から公園を出た。 そこにはレオンが運転するポルシェ・マカンが停車しており、なしくずし的に相馬も乗り込んで(というかアランに半ば押し込まれて)公園を後にする。 出来ればそのまま警視庁に取って返し、庵野公平のねぐらで見つけたキーが...
薫との電話を終えた相馬は、鑑識と科捜研に立ち寄って新たな情報がないか確認した後、池袋に向かった。 西口公園にはちょうど佐谷戸とアンナがいて、亡くなったホームレスのねぐらを調べているところだった。 公園の木と木の間に枝や布、ダンボール等を使ってテントのようにしたそのねぐらは、人一人が寝そべると一杯になる程度の広さで、脇に鍋やスプーン、タオルや新聞などの日用雑貨が雑然と置かれている。 この公園では毎...