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2022/02/27

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  • 情報整理

    今日私たちは、FB・Twitter(X)・YouTube・Instagramなど、SNSと呼ばれる膨大な情報の大河に取り囲まれて暮らしている。これをスキマ時間に閲覧していると、つい引き込まれ、気がつくと随分時間を費やしていて愕く。SNSは、それと気づかず、中毒の状態に陥り易い。ほかならぬ私がその症状を呈していると,家族から度々指摘されていた。この大河を流れる情報は、私たちの仕事や暮らしに役立つ情報も多いが、全体から見ると、われわれ一般人には知らなくて良い情報が8割以上を占めているように思う。世の中は、作為がなければ、知らせたい人が2割、知りたい人が8割ぐらいの比率に保たれていたのではないかと思う。8:2の原則である。印刷の時代とテレビの時代までは、これでバランスが取れていた。ところが、ネットの時代になり、...情報整理

  • 民主化の濃淡

    日本の政治が、敵性国家の対日強硬政策を奇貨として民意を煽り、対抗して軍事力を増強する方向に舵を切った。前の戦争遂行に大きな責任があった人々の、衣鉢を継ぐ人たちが表立って発言するのが目立つようになっている。彼ら彼女らに若い人たちが使嗾されないよう、誤った国家主義に被れないよう、私たち戦争の影響を直接蒙った世代は、政治が右傾することに対して敏感でなければならないと思う。国民が非戦を国是と望むまで、選挙の度に事を糺していかなくてはならない。日本は敗戦後、形は民主国家に生まれ代わったように見えるが、本質は民主主義の国には程遠い。中央の官僚が国会議員の私利に配慮するような国は、決して民主国家ではない。戦後の保守政権は、巧妙に外面は民主、内面は因循固陋の、政治的に不合理極まりない国を作り上げたのである。外には民主国家...民主化の濃淡

  • 喧騒の必要性

    人が喧騒を好むのは、考えたくないからではないかと思う。人間は集団化したり、喧騒の中に入ると、思考力は低下するのが普通である。孤独と静けさは、否応なく人に何ごとかを考えさせる。思考には静寂が必要だ。いくら考えたところで、良い考えが泛かぶとは限らないが、困ったことに頭というものは、静かになると自動的に作動し始めるもの。物事を考えたくない時には、喧騒の中に身を置くのが一番確実だろう。都会で暮らす人間は、日常うんざりするほど現実に追い回されている。都市の生活者には、できる限り現実から遠ざかりたい願望が常にあるのだろう。現実を忘れたいのである。喧騒は現実に対する思い煩いを忘れさせてくれる・・・深まりゆく秋の、虫の音が聞こえる静かな夜は、人を物想いに沈潜させるもの。静けさは老人たちにこそ相応しいが、若く健康な人々には...喧騒の必要性

  • 渡りの季節

    秋は鳥の渡りの季節、伊良湖岬はサシバほかのタカ類が南へ渡る経路に当たっている。岬の先端部にある丘の森が、発進の拠点になっているようだ。9月、タカたちは列島の北の各地からこの森に集まり、渡海の機会を待つ。10月に入ると、晴れた日には、サシバの渡りが本格化する。前日からの晴天が、進発の条件である。日が昇り地面が暖まると、上昇気流が発生する。タカたちは気流に乗り、三々五々、旋回を繰り返しながら段々と高度を上げていく。充分な高度を稼ぐと、数羽単位の群れを組み、発進の機を窺いながら旋回を続ける。機を見るのはリーダーの鳥だろう。思い切り良く、鳥羽の方向を目指して直進の飛翔に入り、群れが後に続く。身体が小ぶりな個体は、今年春に生まれた幼鳥だろうか?渡洋の無事を祈らずにはいられない。群れの各鳥が、点になって空に溶け込むま...渡りの季節

  • 正義感

    正義感というものは「絶対的な感覚」である。「ほどほどの正義感」というようなものはない。ところが面白いことに「絶対の正義」というものはない。正義は観念だからだ。観念は人それぞれに違いがある。観念に過ぎない正義を定義しようとするから、間違いが起こる。定義できないものを定義しようとするのはナンセンスである。正義を口にするのが躊躇われるのは、人として正しい反応である。人が声高に正義を叫ぶ時、碌なことが起こらない。正義を叫ぶ煽動家が跋扈し出したら、ファシズムに気をつけたい。ファシズムは正義を標榜する。絶対的な正義などないことを肝に銘じておきたい。正義感とは、単純に曲事を嫌う感覚である。感覚だから、正義感というものは「ある」か「ない」かのどちらかである。大概の人は、正義感を問われたら「ある」と答えるだろう。「ない」と...正義感

  • 「みこ」という語

    遠州弁は信州や甲州の方言の影響を受けているが、当然ながら三州・尾州の方言の影響も大きい。私の小学校時代には「みこ」という言葉をよく耳にした。目上の人の庇護が篤いという意味である。ひと言で云えば依怙贔屓である。「誰それは先生の『みこ』が好い(悪い)」という形で使われていた。「みこ取りが上手い(下手)」とも使う。歓心を買うに長けているということである。「みこ」は調べてみると、尾張方言であったらしい。ネットから引用させていただく。【出典】http://www.mytown-nagoya.com/nagoya/nagoya02.html#:~:text=%E3%80%8C%E3%81%BF%E3%81%93%E3%80%8D%E3%81%AF%E9%80%9A%E5%B8%B8%E3%80%8C%E3%81%BF...「みこ」という語

  • 主語曖昧の言語世界

    短歌・俳句という短い詩型は、海外の人には珍しく受け取られるらしい。何故そのような詩型が生まれたかは、いろいろ説明されているが、主語がない言語とまでいわれる日本語に、その鍵があるようだ。主観と客観を明確に意識しない言語であることが素因ということか?主語を曖昧化できる言語であるからこそ、短歌・俳句という詩は生まれた。もう一つの要因は、埒の内に囲われていないと、発想を楽しめない民族的気質。すなわち自由(無限の融通性)に馴染まない私たちの気質があると思う。限られた詩型の枠の中でなら、自由に詩想を繰り拡げられるという楽しみ方が、気質に適うのだろう。限られた詩型のお手本は、中国の詩、絶句だろうか?ひらがなの発明により、韻文の詩型が短歌に収まり、俳句に繋がったと推測している。詩想表現の奥行きは浅くなった分、間口は拡がっ...主語曖昧の言語世界

  • cozy and comfortable

    私は自分の人生を顧みると、熱心に快適性を追い求めて生きてきたと思う。別の言い方をすると、不快なことを可能な限り避けて来たということになる。こう書くと、独善的で利己的な人間と想像されてしまいそうだが、快適性を追求し不快なことを避けるのは、全ての生物に共通する自然の原則であって、人間は誰もが快適性を求めて生きている。それが積極的かどうかは、個性によって違いがある。快適性と言っても、この日本語は漠然として意味が広く、具体的なイメージを捉えにくい。日本語では舌足らずになるので、英語の語彙を借りて快適を、「cozyでcomfortableな状態」と説明させていただく。滅私報恩を尊び、苦節を讃え、他人への気遣いを評価する日本社会にあって、cozy&comfortableを貫き通すことは、それなりの配慮と工夫を要する。...cozyandcomfortable

  • 臨機応変

    内輪のことで恐縮だが、老生と老妻とは、同じ町内で生まれ育ち、幼稚園も小中学校も同じの2歳違い。幼馴染みかというとそんな親しい縁は無く、学齢期には一緒に遊んだり口をきいたりしたこともない。その上二人の性格は正反対である。私はO型で万事大雑把で八方破れ。型を嫌い融通無碍を奉じている。変わったことや珍しいことを好むことが甚だしい。家内はA型で几帳面かつ律儀。日常は予定・計画を重視し、生活がルーチンどおりに進まないと機嫌が悪くなる。絵に描いたような「水と油の関係」である。これでは夫婦間に、紛争の種は尽きない。紛争は当事者が熱くなれば拡大する。私はかねがね、夫婦が性格の不一致を離婚の理由に挙げるのを、奇妙に思っていた。性格が違うから、夫婦になる情動が強く働いて結婚し、一緒に生活することになったのだろうに・・・生物多...臨機応変

  • 万葉の森公園5

    「万葉の森公園」を2ヶ月ぶりに訪れた。先ず「伎倍の茶屋」で冷たい甘酒を飲み、身体を冷やしてから、ツクツクボーシが翔び交う園内に入った。まだ陽射しは強いが、ムクノキの大木の陰に入ると、冷房中の屋内に居るような心地がする。江戸時代、この木が街道の一里塚に植えられ、夏の炎熱に炙られ辿り着く旅人たちに至福の日影を提供したことを体感した。ヒオウギ・オミナエシ・フジバカマ・ハギなど、秋の草花を確かめながら散歩する。穀類のアワ・ヒエ・キビも稔りの時を迎え、穂を垂れている。【ヒオウギ】万葉の時代は「ぬばたま」と呼ばれていたらしい。種子の色が黒いことから、黒とか夜に掛かる枕詞になったという。オレンジの花色からは夜を連想できない。【オミナエシ】秋の七草のひとつ、オミナエシの黄色の散房花序は、やはり秋の野で最も目に付く。【マコ...万葉の森公園5

  • 生き甲斐

    仕事というものは、生き甲斐と成るほど人にとって大切なものである。そのことに異論のある人はいないだろう。仕事第一は、真っ当で正しい生き方だと思う。運良く生き甲斐になるほどの仕事に就いて、めでたく定年を迎えた人は、幸運を慶ぶべきである。だが「仕事を罷めたら何も残らない人」に成ることは、賛成致しかねる。人の人生は、仕事だけのためにあるのではない。「仕事人間」という言葉は、決して褒め言葉でなく、無趣味、無感動、無関心、三無の寂しい人生を感じさせる。その人ならではの、活き活きとした活動が仕事の対極にあってこそ、全人的には均衡がとれるのではないかと思う。一生を賭けた仕事があって、その対極に、自分が集中できる為事をもっているのが望ましい。仕事の対極にある為事には、俗に趣味とか道楽と言われるものや、ボランティア活動、中に...生き甲斐

  • ♬九月になれば

    例年9月になると、思い切りよく夏に別れを告げ、暑さに困憊した気分を刷新したくなる。老生の青年時代に公開された同名の映画のテーマ曲「九月になれば」(作曲ボビーダーリン)が脳裡に刻印されていて、月が変わった途端に、ターンテーブルが回りだす。この齢になっても、曲を聴くたびに、来るべき秋への備えに心身が引き締まる。♬ボビーダーリン楽団(オリジナル)「九月になれば」(ComeSeptember)https://youtube.com/watch?v=B7_FH4Ra4wI&si=_YSLMT5Dbb5JH8A-♬九月になれば

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