FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
<02Mar’2015、興福寺> 以下同左 興福寺東金堂(国宝)と五重塔(国宝)。 引き続き、奈良県のユネスコ世界遺産古都奈良の文化財の写真です。 今日は、奈良市内登大路町の『興福寺』です。 訪問したのが2015年,2017年で、寺の中心である「中金堂」の再建(2018
<04May’2017、唐招提寺> 以下同左 唐招提寺金堂(国宝)。 今週は同じく、奈良県のユネスコ世界遺産古都奈良の文化財の写真で、奈良市内五条町の『唐招提寺』です。 唐招提寺は南都六宗の一つである律宗の総本山。本尊は盧舎那仏、開基は唐出身の鑑真で、鑑真が
<04May’2017、薬師寺白鳳伽藍> 以下同左 西塔 今週は先週の法隆寺に続き、奈良県の世界遺産『古都奈良の文化財』の写真です。 今日は、薬師寺、白鳳伽藍その2,西塔や東院堂(国宝)です。 西塔。奥は西回廊。 解体修復のためこの時はまだカバーが掛
<04May’2017、薬師寺白鳳伽藍> 以下同左 薬師寺本堂(中央)、西塔(右)。左は当時修復中のカバーをされた東塔(国宝)「。 今週は先週の法隆寺に続き、奈良県の世界遺産『古都奈良の文化財』の写真です。 今日はまず、奈良市内西ノ京町の「薬師寺、白鳳伽藍」
<02Mar’2015、法隆寺東院伽藍> 以下同左 写真最も左は宗源寺四脚門(重文)。奥に続く石畳は東院伽藍西参道。中央奥に見えるのは東院四脚門(重文)と夢殿(国宝)の屋根。 今日は、夢殿で有名な東院伽藍です。 西院伽藍の東大門を潜ると、その先の石畳は東院伽
<02Mar’2015、法隆寺西院伽藍西、西北部> 以下同左 西円堂(国宝)の高台から見下ろした五重塔。 今日は西院伽藍の回廊の外の西部と西北部の建築物です。 西北部は高台になっていました。 西院伽藍の回廊のすぐ西側にあった、三経院(国宝)と西室(国宝)
<02Mar’2015、法隆寺西院伽藍> 以下同左 西院鐘楼です。 金堂の北東側、大講堂の東側にあります。 今日は、その他の回廊内の建築物と回廊東にある建築物です。 西院伽藍、大講堂(国宝)。金堂、五重塔を挟んで山門の反対側にあります。 大講堂の回廊に下
<02Mar’2015、法隆寺西院伽藍> 以下同左 国宝の「金堂」です。 今日は法隆寺西院伽藍その2、西院伽藍の中心「金堂」です。 金堂の前にあるのは「礼拝石」。 入母屋造の二層仏堂。 上層には部屋はなく、外観のみ。 二層目の軒を支える四方の龍の彫刻を刻
<02Mar’2015、法隆寺西院伽藍> 以下同左 今日から斑鳩町のユネスコ世界遺産『法隆寺地域の仏教建造物(登録1993年)』です。 今日は法隆寺西院伽藍のその1です。 かなり古い写真ですが、5年程病院を出たり入った生活でしたのでお許しください。 定石通り南大
佐野厄除け大師(春日岡山転法輪院惣宗官寺) in 佐野市 Mar'2022
<05Mar’2022、> 以下同左 佐野厄除け大師、佐野市。 今日の写真は、佐野厄除け大師の通称で知られる栃木県佐野市の惣宗寺(そうしゅうじ)です。 天慶7年(944年) - 藤原秀郷が春日岡(今の佐野城址の地)に創建したものと伝わり、千年以上の歴史があります。
犬伏の別れ(犬伏新町薬師堂) in 佐野市犬伏新町 Mar'2022
<05Mar’2022、> 以下同左 犬伏新町薬師堂、佐野市。 今日の写真は、戦国時代の武将真田父子の「犬伏の別れ」の舞台です。 慶長5年(1600年)天下分け目の関ヶ原の合戦前に、真田父子3人(真田昌幸・信之・信繁(幸村))が東軍と西軍に分かれて戦うことを決断し
3月初旬の塩原温泉峡と五十里湖 (那須塩原市、日光市) Mar’2022
<05Mar’2022> 以下同左 塩原温泉郷、紅の吊橋。 今日の写真は、昨年11月に美しい紅葉を見せてくれた塩原温泉郷の景色と湖面が凍ってシカなどが渡るので有名な日光市の五十里湖(いかりこ)です。 川は箒川。 杉が植林されていて山全体が黒々として味
<23Mar’2019,鳴門市> 以下同左 鳴門の渦潮。 今日は、鳴門の渦潮です。 徳島県の鳴門市鳴門町土佐泊浦大毛の亀浦観光港発の観光船で見学に行きました。 渦潮の上は、この日の朝大阪から乗った高速バスで通った大鳴門橋。 淡路島(淡路島門崎)と鳴門市
<22Mar’2019,舞鶴市> 以下同左 舞鶴赤レンガパーク。 今日は昨日までの天橋立と同じく若狭湾に面する京都府北東部の、舞鶴市です。 海上自衛隊基地のある舞鶴港周辺の舞鶴赤レンガ倉庫群、舞鶴引揚記念館の周辺を紹介します。 舞鶴は太平洋戦争前は明治から
<21Mar’2019、天橋立> 以下同左 今日は、フェリーで一の宮桟橋から天橋立桟橋にもどる時にフェリーと並走するウミネコです。 嘴の先の色と尾羽の模様がウミネコのものなので間違いないと思います。 成鳥と幼鳥が飛んでいました。 ウミネコの向こうのクロマツ
<21Mar'2019、天橋立桟橋にて> 以下同左 「文殊水道」と開いた「廻旋橋」。 今日は、文殊水道と廻旋橋です。 標題写真の廻旋橋の左のクロマツ林の陸地は、この写真の手前にある文殊の切戸で、大天橋(北砂州)と切り離された小天橋(南砂州)。右側の建物が立ち並
<21Mar'2019、天橋山智恩寺にて> 以下同左 「文殊堂」です。 今日は臨済宗天橋山智恩寺です。 天橋立で宮津湾と隔てられた阿蘇海の南東の外れ、文殊切戸の直ぐ西に突き出た小さな岬が智恩寺です。 寺の住所はなんと「京都府宮津市天橋立文珠小字切戸」です。
<21Mar'2019、成相山成相寺> 以下同左 成相山成相寺の山門です。 今日は橋立真言宗成相山成相寺(なりあいじ)です。 天橋立傘松公園からバスで登りました。 寺は天橋立を一望する鼓ヶ岳(標高569m)の南東山腹の標高328m辺りにありますが、創建時は山のさらに
丹後一宮元伊勢籠神社(このじんじゃ)(宮津市) Mar’2019
<21Mar'2019、元伊勢元伊勢籠神社> 以下同左 今日は、天橋立の北側にある丹後一宮元伊勢籠神社。 一の宮桟橋でフェリーを降りるとそこはもう参道でした。 重要文化財の狛犬です。
<21Mar'2019、天橋立傘松公園にて> 以下同左 天橋立(京都府宮津市)。橋立の向こうの黒く見える小高い山は「妙見山」。 今日はケーブルカーで登った天橋立傘松公園から眺めた日本三景の一つ『天橋立』です。 橋立の左が宮津湾、右は阿蘇海。 左から伸びるク
<06Jul'2021> 以下同左 護国院(台東区)。 今日は谷中七福神の最後、 6.護国院(寛永寺子院) - 大黒天(台東区上野恩賜公園) 7.寛永寺 不忍池弁天堂 - 弁才天(台東区上野桜木)です。 6.護国院(寛永寺子院) - 大黒天(台東区上野恩賜公園) 上野寛
<06Jul'2021> 以下同左 長安寺 (台東区谷中)。 今日は谷中七福神の内 4.長安寺 - 寿老人(台東区谷中) 5.天王寺 - 毘沙門天(台東区谷中)です。 続いて谷中霊園を通って天王寺(台東区)に。 谷中霊園には、徳川慶喜のお墓などがあります。 谷中霊
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
白河二所ノ関址碑 今日の写真は、白坂宿境の明神周辺、白河二所ノ関址碑の写真です。 白河二所ノ関址碑、白河市白坂。
境神社(陸奥側、白河市白坂) 今日の写真は、境の明神(陸奥側、白河市白坂)です。 芭蕉の句碑。実際には元禄2年4月22日に須賀川の相良等躬邸で詠んだ歌を曾良が記載。 「風流の 初やおくの 田植うた 芭蕉」
境の明神(下野側、玉津島神社、那須町寄居) 写真真ん中左の「ようこそ福島県」の標識より向こうが福島県白河市です。 松尾芭蕉主従は、元禄2年4月20日に、那須湯本から芦野の遊行柳、境の明神、二所ノ関を過ぎ、白坂から白河の古関跡へ向かいました。 今日の写
遊行柳(那須町芦野) 今日の写真は、那須町芦野にある「遊行柳」です。 芭蕉は那須野殺生石を訪れた後、いよいよ旅の目的の奥州へ行くため、まず奈良平安期の古道「東山道」の奥州へ関所であった「白河の関」跡へ向かいます。 その那須温泉から白河の関跡へ向か
那須殺生石、那須町那須湯本温泉那須温泉神社 かつて九尾の狐が化身したといれる大きな岩の国指定名勝史跡「殺生石」の写真です。 2022年3月二つに割れたことが確認されました。 今日の写真は、那須湯本温泉の那須湯前神社付近に存在する溶岩で、付近一帯に
「湯をむすぶ誓ひも同じ石清水」、松尾芭蕉 『那須湯本の温泉大明神では、京都の石清水八幡宮が合祀されているので、ここに参詣し、その社殿の湯を手ですくう(むすぶ)と、両神社にお参りしたことになるという。これは湯が結ぶ縁である。』 この句は奥の細道にはあり
芭蕉翁塚「杜鵑の墓」、那須町史跡 今日は、那須町高久本郷地区内の芭蕉所縁の地や句碑です。 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚 芭蕉翁塚
高福寺楼門、那須町大字高久甲 黒羽を立った4月16日から4月20日に那須湯本から下山し、芦野の遊行柳、白河の古関跡近くの旗宿に投宿するまでの5日間の「奥の細道」はあっさりと、『是より殺生石に行。館代より馬にて送らる。此口付のおのこ、「短冊得させよ」と乞。や
「俳聖松尾芭蕉と黒羽」、浄法寺桃雪邸跡脇の芭蕉の句碑一覧、旧黒羽芭蕉公園(現大田原市前田) 今日は、「芭蕉の里くろば」というキャッチフレーズを掲げている現大田原市の旧黒羽地区の黒羽田町、黒羽向町、余瀬、雲巌寺などに点在する10か所の芭蕉、曾良の句碑の
鍋掛八坂神社(那須塩原市鍋掛)から望む早春の那須連山。 旧鍋掛宿(現那須塩原市鍋掛)「野を横に馬牽きむけよほととぎす」 今日の写真は旧鍋掛宿の八坂神社と芭蕉の句碑です。 鍋掛八坂神社芭蕉句碑(那須塩原市鍋掛) 「黒羽町誌(黒羽町誌編さん委員会
那須連山、那須高原大橋から、那須塩原市西岩崎 那須野ヶ原は山ぎわの部分で標高500メートル、これが南東に緩やかに傾斜して標高100~150メートルまで下っていきます。ところが全体的には緩やかですが、ちょうど那須塩原市と南東の大田原市の境のあたりで5~10m急に下
源実朝の歌碑、玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 「武士の矢並つくらふ小手の上に 霰たばしる那須の篠原」(柳営亜槐本金槐和歌集) 『那須の篠原』が那須野を表す歌語として使われるようになった有名な歌。 初めて文献上に「那須野」あるいは「
那須神社(金丸八幡宮)楼門、重文。 大田原市南金丸。 今日の写真は、「那須神社」その2です。 元禄2年4月13日余瀬に住む津久井翅輪は、芭蕉と曽良を鹿子畑家に見舞った。そして余瀬の西南、約一・五粁のところにある「金丸八幡宮」に参詣すべく誘いました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須(旧黒羽町蜂巣字篠原) 今日はの写真は、昨日境内にある源実朝の和歌碑と松尾芭蕉の俳句碑を紹介した玉藻稲荷神社です。 境内には句碑の他に、九尾の狐退治の伝承地としての「鏡が池」と「狐塚」の霊を移したという祠がありました。
玉藻稲荷神社、大田原市蜂須篠原地区今日の写真は、大田原市の旧黒羽町エリアの余瀬の修験光明寺跡、蜂巣地区の犬追い物跡、篠原地区の玉藻稲荷神社と狐塚之址の碑です。 芭蕉は元禄2年(1689年)4月5日に雲巌寺まで往復約25Km を歩いた後は、雨降りだったり、休養
雲巌寺。大田原市雲巌寺。 今日の写真は、松尾芭蕉が元禄2年4月5日に訪れた雲巌寺です。 雲巌寺は、江戸深川での芭蕉の禅の師であった仏頂禅師が当時住職をしていました。 雲巌寺は、高峰顕日(仏国国師)が弘安6年(1283年)に復興開山した臨済宗妙心寺派の名
黒羽芭蕉の館、黒羽藩の藩庁だった黒羽城の三の丸跡に建つ。 今日の写真は、「おくのほそ道」で最長の14日間逗留した松尾芭蕉に関する展示や黒羽藩主大関氏に関する展示を行っている黒羽城の三の丸跡の建てられた「芭蕉の館」、句碑などが野外展示してある芭蕉の広場な
本丸跡と本丸廓を囲む城塁とその上に建つ後に物見櫓を模して作られた展望台。大田原市前田黒羽城址。 今日の写真は、元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)に芭蕉が訪れた門弟の浄法寺桃雪が城代家老をしていた黒羽藩の黒羽城と藩主大関家の菩提寺大雄(だいおう)寺で
旧浄法寺邸、大田原市前田芭蕉公園 黒羽藩城代家老で芭蕉の弟子だった浄法寺高勝(たかかつ/俳号・桃雪〈とうせつ〉)の屋敷跡に改修整備した建物。余瀬の鹿子畑翠桃は浄法寺桃雪の弟。 元禄2(1689)年4月3日(新暦5月21日)、余瀬(大田原市)に宿泊後、翌4日に黒
蛇尾川、遅沢橋(那須塩原市東遅沢)付近。東北新幹線「那須塩原」駅から西に3㎞ 今日の写真は、昨日の記事で松尾芭蕉が日光北街道から奥州街道に入り、大田原宿を過ぎて大田原城(龍城)を右に見ながら渡った蛇尾川です。 記事では、冒頭の水の無い蛇尾川が、どうし