FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
松尾芭蕉所縁の地その1 旧日光北街道(元禄2年4月2、3日)Mar’2024
日光北街道標柱、大田原市末広1丁目 今日から1か月近くは、那須野が原(旧大田原、湯津上、黒羽、那須町)、白河、須賀川、二本松の松尾芭蕉の「奥の細道」所縁の地の写真です。 「奥の細道」の日程と道程に従って、芭蕉所縁の地の記事をアップしていきます。
源頼朝と白河の関、那須野が原 Mar'2023, Mar'2024
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率
那須与一所縁の地オマケ 道の駅那須与一の里(大田原市南金丸) Apr’2024
道の駅那須与一の里、大田原市南金丸。 今日の写真は、オマケで道の駅那須与一の里です。場所は那須神社の西隣です。 敷地内には、道の駅の他、那須与一伝承館、昨日の記事にあるように千年前からの竹細工、竹の産地だけあって竹ギャラリーなどもあります。 また現
那須与一所縁の地その8 直箆温泉神社(大田原市余瀬) Apr’2024
直箆温泉神社、大田原市余瀬白旗山南端。 今日は、那須与一が源平合戦の後、矢竹を奉賽するために創建したと伝えられる直箆温泉神社です。 最初、鎮座の地は現大田原市北金丸地内の直箆でしたが、享保年間(江戸幕府8代将軍徳川吉宗の頃)に現在の余瀬白旗山南端に
駒込の池、黒羽(現大田原市大輪字長谷田) 今日の写真は、那須与一の愛馬「鵜黒の駒」の生まれ故郷の地、「駒込の池」です。 鵜黒の駒誕生の伝説は「歴史的風土のなかの黒羽の民話(黒羽町編1993/12)」の要約によると、『長谷田の溜池に、毛は鳥の羽根のようで
那須与一所縁の地その6「玄性寺」その2 稲積稲荷神社他 Mar’2024
稲積稲荷神社(福原)、玄性寺 今日の写真は、玄性寺境内の那須与一の墓の南隣に鎮座する那須一族の守護神稲積稲荷です。 お寺の中にある神社です。那須与一が屋島合戦で扇に向かって矢を放つ際に稲荷明神が白狐と化して守護したという霊験ある稲荷です。主催神は倉
那須与一所縁の地その5「玄性寺」その1那須家の墓碑他 Mar’2024
玄性寺、大田原市福原 今日の写真は、那須与一公の墓所がある福原玄性寺です。 那須氏の菩提寺で、伝承によれば、3代那須資之が、京都東山の即成院に埋葬された弟の那須与一(宗隆、のち資隆)の分骨を受けて福原(現大田原市福原)に建立した功照院が始まりといわれ
楼門(重文)、那須神社(大田原市南金丸)。 国指定名勝「おくのほそ道の風景地」 今日の写真は、金丸八幡宮として仁徳天皇の時代に建立されたと伝えられ、中世、近世を通じて那須氏、大関氏(江戸期黒羽城主)の氏神として信仰された「那須神社」です。 一
那須与一所縁の地その3「那須温泉神社」その2九尾稲荷神社と殺生石 Mar’2024
九尾稲荷神社、那須温泉神社内 今日の写真は、昨日少し説明した本殿の東側に鎮座する「九尾稲荷神社」とその北東奥にある「殺生石」です。 「九尾の狐」(玉藻前)の平安時代の退治については近いうちに、源頼朝の那須の篠原での巻狩り(1193年)か松尾芭蕉の所縁の
那須与一所縁の地その2「那須温泉神社」その1 Mar’2024
那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)、本殿、(那須町湯本) 今日の記事は、「平家物語」の中で那須与一が源平合戦屋島の戦い(1185年)で扇を射る際に「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ
那須与一所縁の地その1「その出生と高館城跡」 Apr’2024
高館城址、大田原市大輪、川田 今日の記事は、那須与一の生い立ちと高館城址の写真です。 那須余一の出生から成人するまでに関しては、今なお不明な点が多く、むしろ謎に包まれてます。 私が源義経、那須与一、松尾芭蕉の下野での足跡を調べるのに最も信頼して利
源義経の那須の足跡その8 粟野駅家と白旗山、那須与一との出会い(那須町余瀬)Apr’2024
大田原市余瀬の白旗山南東端にあたる、旧東山道沿いの「余瀬の道標」近くの「白旗城跡の説明看板」 今日の写真と記事は、東山道の関東最北の黒川駅家(うまや)の次の駅家である粟野駅家があった、現大田原市余瀬の白旗山です。 余瀬は元は旧東山道(関街道)粟野駅
源義経の足跡 in 那須その7 弁慶下駄掛石(那須町睦家)Oct’2022
弁慶下駄掛石、那須町睦家。 今日の写真は、那須町睦家にある「弁慶下駄掛石」です。 弁慶下駄掛石の伝説は、治承4年(1180年)、義経一行が旧東山道黒川駅家(現伊王野付近と推定される)から、かつて祖先源頼義が軍兵を募った粟野駅家(現大田原市余瀬)に向かう
源義経の足跡 in 那須その6 伊王野山城跡その2(那須町伊王野)Apr’2024
伊王野城山公園。伊王野山城(霞ヶ城、伊王野城)跡。 今日の写真は、伊王野山城跡を公園にした「伊王野城山公園」です。 伊王野城は室町時代の長享元年(1487)に当時の領主である伊王野資清によって築かれた城郭で、これまで居城として利用した伊王野氏居館
源義経の足跡 in 那須その5 伊王野氏の館、山城跡その1(那須町伊王野)Apr’2024
伊王野氏居館跡(手間広場)と伊王野氏山城跡、那須町伊王野 今日の写真は、昨日の馬頭観音堂があった、伊王野氏の山城跡その1とそれ以前に約300年間平城として使われた伊王野氏の居館跡です。 1180年に義経一行が鎌倉へ向かう途中で、弁慶が昨日の馬頭観音堂で
源義経の足跡 in 那須その4 馬頭観音堂(那須町伊王野)Apr’2024
馬頭観音堂、那須町伊王野伊王野氏山城址 今日の写真は、那須町伊王野の「馬頭観音堂」とその境内に湧き出る「判官清水」です。 馬頭観音堂は、那須町伊王野の伊王野山城跡に上る途中にありました。 那須町の義経伝説には、「東山道伊王野を義経一行が進んでいる
源義経の足跡 in 那須その3 沓石、大畑、御幣石(那須町大畑、伊王野)Apr’2024
沓石。那須町大畑沓石地区 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、大畑地区の「沓石」と「大畑」、伊王野地区の「御幣石(おんべし)」です。 まずは、「沓石」(那須町大畑沓石地区)です。 旧東山道(義経街道)をさらに伊王野方面に向かうと、街道
源義経の足跡 in 那須その2 月夜見山、具足岩・五両沢、矢の根石(那須町簑沢)Oct’2022
「月夜見山」伝説地(那須町簑沢) 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、簑沢地区の 「月夜見山」、「具足岩・五両沢」、「矢の根石」です。 まずは「月夜見山」。 「陸奥と下野の国境の追分明神に着いたころは、もう夕もやが境内の杉木立に深くたち
源義経の足跡 in 那須その1 追分明神(那須町簑沢)Oct’2022
追分の明神(住吉玉津島神社)、那須町簑沢追分地区。 今日の写真は、那須町の義経伝説No.1「追分明神」です。 治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で平家追討の旗を挙げたことを源義経が奥州平泉で聞き、鎌倉へ駆けつける際に古代の街道である東山道を通ったといわれ、
白河神社その3、巨木と野草の花May May’2017,Mar’2024
キクザキイチゲ、白河神社(白河市旗宿)Apr’2017 今日の写真は、白河の関跡、白河神社の巨木と山草の花です。 今から50年以上前に初めて訪れた時、子供だったこともあり私の白河の関の思い出に残ったのは、大木に絡みついたり、絡みついた大木を枯らして地面から
白河神社拝殿、拝殿、白河市白河市旗宿関の森 今日の写真は、白河神社です。 昨日は、源義経に関わる事跡と白河の関跡の関の森砦跡などの写真を紹介しましたが、今日はそれらを除いた写真です。 白河神社は福島県白河市大字旗宿字関の森に鎮座している神社で、創
「白河関跡」の石柱と白河神社一の鳥居。白河市旗宿関ノ森 源義経が兄頼朝の平家討伐の挙兵を聞いて奥州平泉を出発。古代の旧街道東山道を急ぎ鎌倉を目指しました。この時通った道は「義経街道」とも呼ばれ、道沿いには義経にまつわる地名や史跡やエピソードが今に伝わ
佐良土(旧湯津上村)その3 法輪寺と西行桜 Mar'2023
西行桜、法輪寺(大田原市佐良土) 今日の写真は昨日の記事の続きで、光丸山法輪寺と西行桜です。 昨日の記事の通り、860年(貞観2年)、慈覚大師円仁によって開山され、本尊は釈迦三尊です。 法輪寺山門(勅額門)。 逆門建造の茅葺屋根で立額は後嵯峨天皇の
光丸山大日堂、大田原市佐良土(旧湯津上村)。 今日の写真は、「光丸山」です。 昨日の記事でも言及した光丸山法輪寺ですが、正式には「光丸山並びに正覚山実相院法輪寺」です。 大日如来を本尊とする光丸山と釈迦三尊を本尊とする正覚山実相院法輪寺からな
光丸山法輪寺の入り口(写真正面)と「佐良土」交差点。 旧湯津上村(大田原市)に佐良土(さらど)という地区があります。国内最大の複合扇状地「那須野ヶ原」を作った那珂川と箒川が合流する那須野が原の南東側の頂点に当たります。 今日の写真は、この佐良土地
日本考古学発祥の地その3「侍塚古墳群」、大田原市湯津上 Mar’2022
侍塚古墳群、大田原市湯津上地区 今日の写真は、昨日の古墳と同じ大田原市湯津上地区にある侍塚古墳群です。 侍塚古墳群は下侍塚古墳(国指定史跡)のすぐ北側の国道294号線と那珂川にはさまれた約200m四方のエリアに展開する8基で構成された古墳群です。かつては10
日本考古学発祥の地その2「上侍塚古墳」と「下侍塚古墳」、大田原市湯津上 Mar’2022、May’2024
上侍塚古墳、大田原市湯津上 今日の写真は、国の史跡に「侍塚古墳」として指定されている「上侍塚古墳」と「下侍塚古墳」の2つの古墳です。 ともに江戸時代に徳川光圀(水戸黄門)の命で日本で最初の学術的発掘調査が行われた古墳として知られます。徳川光圀は、昨日
日本考古学発祥の地その1「那須国造碑」、湯津上笠石神社 Mar’2022
那須野国造(なすのくにのみやつこ)笠石神社、大田原市湯津上。 今日の写真は、日本三古碑である国宝、那須国造碑を祀っている大田原市湯津上の笠岡神社です。 那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)は、飛鳥時代(西暦700年前後)当時の那須国(郡)を治めてい
日光東照宮その13武徳殿、御仮殿(日光東照宮)Mar’2022
御仮殿、日光東照宮 今日の写真は、日光東照宮の境内外にある武徳殿と御仮殿です。 いずれも、東照宮表参道の東側に位置しています。 今日の記事で3週間弱続いた世界遺産「日光の社寺」の最後になります。 御仮殿(重文)、日光東照宮 御仮殿(重文)
日光東照宮その12奥社唐門、宝塔、叶杉など(日光東照宮奥社)Mar’2022
唐門(射抜門)、日光東照宮奥社 今日の写真は、奥社の徳川家康公御墓所です。 唐門(鋳抜門、重文)徳川家康公御墓所、日光東照宮奥社 唐門から始まり墓所を囲う奥社石玉垣も重文。 唐門 唐門 奥社宝塔(家康公の御墓、重文)と叶杉(左、御神木)
日光東照宮その11奥社参道、銅鳥居、拝殿など(日光東照宮奥社)Mar’2022
奥社参道、右側に続く石柵は重文。日光東照宮奥社 今日の写真は、 日光東照宮の中でも最も高い位置する奥社への参道と鳥居、銅神庫、拝殿です。 東照宮本社境内から昨日の眠猫のある潜門から坂下門を通り、杉が茂る石畳の道と旧な石段を上ると、鳥居が見えます。その鳥
眠猫(東回廊・潜門西側)、日光東照宮 今日の写真は、東照宮本社から奥社参道の坂下門へ向かう陽明門東回廊の潜門にある左甚五郎作と云われる「眠猫」の彫刻などです。 眠猫(東回廊・潜門西側) 雀の戯れる様子の彫刻(東回廊・潜門東側)。 西側の眠る
日光東照宮その9唐門と本社拝殿、本殿(日光東照宮)Mar’2022
東照宮本社唐門と拝殿(日光東照宮) 今日の写真は、東照宮本社の唐門と唐門越しに見える拝殿、奥社参道からちらっと見える本殿です。 唐門、門の奥に見えるのは拝殿 唐門東翼と拝殿 拝殿、本殿(奥社参道から)、日光東照宮 拝殿、本殿(奥社参道か
日光東照宮その8神輿舎、神楽殿、祈祷殿(日光東照宮)Mar’2022
神輿舎。日光東照宮陽明門内西側 今日の写真は、陽明門内の 神輿舎、神楽殿、祈祷殿です。 神輿舎。 春秋渡御祭(5月、10月)に使われる、三基の神輿が納められています。 左から源頼朝、徳川家康、豊臣秀吉の神輿。 神輿舎、源頼朝と徳川家康(右)の
日光東照宮その7陽明門東西回廊(日光東照宮)Mar’2022
東西回廊、陽明門、日光東照宮。Mar’2022 陽明門は雨漏りなどが原因で再修理中。 今日の写真は、陽明門南面の東西回廊です。 一枚板の透かし彫りの我が国最大級の花鳥の極彩色彫刻が飾られています。
日光東照宮その6陽明門(日光東照宮)Mar’2022,Jan’2023
陽明門表(南)側、日光東照宮。 40年ぶりの大修理を2017年に終え、陽明門の全体を見れると思って2022年の3月に訪れたら、2021年12月から2022年4月まで今度は「手直し」のため、全体は見ることができませんでした。 そこで2023年初めに再度訪問。 今日の写真は、
日光東照宮その5鐘楼、鼓楼、本地堂(日光山内) Mar’2022
唐銅鳥居の中、奥の階段の上に見えるのが陽明門。鳥居のすぐ前の階段の上の段で、鳥居の右に配置されているのが鐘楼、鳥居の左が輪に配置されているのが鼓楼。今日の写真は、 鐘楼(東、右)と鼓楼(西、左)は陽明門の前に東西に対称的に配置されています。 神仏
日光東照宮その4廻転燈籠、蓮燈籠、釣燈籠、南蛮鉄燈籠、朝鮮鐘(日光山内) Mar’2022
廻転灯籠(逆紋の廻り灯籠)、日光東照宮 今日の写真は、唐銅鳥居を通ってまず最初の階段を上った壇にある燈籠類などです。 まずは、陽明門西側です。 廻転灯籠(逆紋の廻り灯籠)、日光東照宮 釣燈籠 鼓楼(左)と釣燈籠。 続いて、陽明門東側です
日光東照宮その3石畳、唐銅鳥居、御水屋、輪蔵(日光山内) Mar’2022
唐銅鳥居(二の鳥居)、石畳と御水屋(日光東照宮) 今日の写真は。昨日の三神庫、神厩舎と同じ段で、陽明門にあがるためやや西へ向かったところにある石畳、唐銅鳥居、御水屋、輪蔵です。 鳥居から見て陽明門がうまく収まる場所がありますが、このあたりが北辰の
日光東照宮その2三神庫、神厩舎(三猿)(日光山内) Mar’2022
三神庫(左から上中下神庫)、日光東照宮 今日の写真は、日光東照宮の三神庫(上神庫、中神庫、下神庫)、神厩舎(三猿)と高野槙です。 上神庫、日光東照宮 上神庫(北側矢切部分)、日光東照宮 上神庫南側矢切の彫刻(二頭の象)、日光東照宮 中
日光東照宮その1表参道から表門(日光山内)Mar’2022,Jan’2023
東照宮標石柱、渋沢栄一書。 今日から2週間ほど、日光東照宮の写真です。 江戸幕府初代将軍徳川家康を神格化した東照大権現を主祭神として祀る神社です。 誰もがご存じと思いますので説明は一切しません。 今日はまず、表参道の日光山輪王寺を過ぎた地点から石
日光二荒山神社本殿 今日は昨日の続き、日光二荒山神社の神苑です。 本殿。 神苑入り口を入ってすぐ左手にあるのが「日枝神社」。 日枝神社の左前には、弘法大師御手植えの「高野槙」。 日枝神社の前には「化け灯籠」
日光二荒山神社その1 参道から拝殿まで(日光山内) Jan’2023
日光二荒山神社拝殿(日光山内) 今日、明日は、一昨日の神橋も含む日光二荒山神社です。 日光連山の主峰・日光三山(男体山、女峰山、太郎山)を神体山として祀る神社で、境内は三山のほか日光連山を境内地とし、その神域には華厳滝やいろは坂も含まれ、3千ha以上
日光山輪王寺本坊入り口 今日は、日光山輪王寺の写真です。この時は手直し工事が終わった後の東照宮の陽明門が目的でしたので、参道から撮影した写真だけです。中途半端でごめんなさい。 世界遺産「日光の社寺」は、昨日の神橋をはじめ、国指定の史跡「日光山内」の
神橋(重文、日光二荒山神社神域) 今日から世界文化遺産「日光の社寺」です。 今日はまず日光の社寺の入り口にあり、日光の表玄関とも称される神橋(しんきょう)です。 神橋(しんきょう)は、大谷川(だいやがわ)に架かる朱塗りの橋で世界遺産「日光の社寺」
山本不動尊とその渓谷の紅葉(福島県棚倉町) Nov’2023
山本不動尊参道、Nov’2023 今日は、昨日の山本不動尊とその渓流の昨年秋の紅葉の写真です。
山本不動尊(福島県棚倉町)、Nov’2023 今日は、福島県棚倉町の紅葉の名所、新観光福島三十景「山本不動尊と八溝渓谷」です。 山本不動尊の正式名称は石堂山徳善院明王蜜寺山本不動尊です。 八溝山の麓、久慈川支流の宮川のほとりに有り、130段の石段を上りつめ
鵜戸神宮本殿(日南市)、May’2023 今日は昨日の続き、鵜戸神宮本殿と亀石の写真です。 階段の向こうの洞窟内が本殿です。 鳥居のところから中に入れます。 亀石。 まずは本殿に入る前に運試し。 私も左手で運玉を願いを込めながら投げ、運良く岩の枡
鵜戸神宮(日南市)、May’2023 今日明日は、日南市にある鵜戸神宮の写真です。「鵜戸さん」と親しみを込めて呼ばれる宮崎県南で最も有名な神社。 太平洋に突き出した鵜戸崎岬の突端にある洞窟の中に、朱塗りの色鮮やかな御本殿を参拝するには崖にそって作られた
青島神社(宮崎市青島)、May’2023 今日の写真は青島神社です。 青島のほぼ中央に鎮座する神社で、周囲1.5kmの青島全島を境内地としています。 いずれも山幸海幸神話に因む神である、天津日高彦火火出見命(あまつひだかひこほほでみのみこと。彦火火出見命とも
青島(写真右端)と鬼の洗濯板(隆起波食台)(宮崎市)、May’2023。 今日の写真は、宮崎市の南東部の青島海岸と弥生橋によって結ばれている青島です。 明日投稿予定の青島神社の鎮座地でもあります。 黒潮と逆流の沿岸流により貝殻の破片などが集められ隆起波
天岩戸神社東本宮、May’2023. 今日は、天岩戸神社東本宮の写真です。
天岩戸神社西本宮拝殿(高千穂町)、May’2023. 今日明日は、高千穂町の天岩戸神社です。 岩戸川を挟んで東本宮と西本宮があり、社名は西本宮が拝する天岩戸に由来しています。 西本宮の御祭神は、大日孁尊(おおひるめのみこと)(天照大神の別名)。岩戸川対岸
高千穂神社、May’2023 今日の写真は、高千穂郷八十八社の総社である「高千穂神社」です。 高千穂神社は約1900年前の垂仁天皇時代に創建され、主祭神は高千穂皇神と十社大明神。 本殿と鉄造狛犬一対が国の重文。 手前の狛犬一対が重文の鉄製狛犬。鎌倉幕府
高千穂峡「真名井の滝」、May’2023 今日は、高千穂峡の主役「真名井の滝」、柱状節理、おのころ池などです。 真名井の滝。正面上奥は「御橋」。滝見台から 真名井の滝の対岸の溶結凝灰岩の柱状節理。
高千穂峡(五ヶ瀬川渓谷)、May’2023。 今日、明日の写真は、国の名勝、天然記念物に指定されている「五箇瀬川峡谷(高千穂峡谷)」、通称「高千穂峡」です。 高千穂大橋近くの五ヶ瀬川西岸にある第3駐車場に車を止め、高千穂大橋脇の遊歩道に入って五ヶ瀬川の岸
菅山の棚田(高森町)、May’2023。 今日の写真は、阿蘇から高千穂峡へ移動するときに寄った、熊本県と宮崎県の県境の高森町と高千穂町の棚田です。 まずは、 高森町(熊本県)菅山地区にある「菅山の棚田」です。 菅山の棚田(高森町) 菅山の棚田(高森町
白川水源(南阿蘇村)、May’2023 今日の写真は、水の生まれる郷として知られる南阿蘇村の中央を流れる清流白川の総水源「白川水源」です。 日本名水百選に選定されていて、そのまま飲める湧水でした。
阿蘇神社(阿蘇市)、May’2023. 今日は阿蘇神社です。 実は、下の写真の阿蘇内牧温泉街のいまきん食堂の「あか牛丼」の席待ち時間の間に伺って慌てて写真を撮って食堂に戻ったので、行ってきましたという写真だけになってしまいました。 神社には大変失礼なこと
阿蘇中岳山頂下のミヤマキリシマ、May72023 今日は阿蘇山に自生するミヤマキリシマです。主に中岳の山頂下で撮影しました。 ミヤマキリシマは九州の活火山などの高山に咲く色鮮やかなツツジです。 環境変化に敏感で、九州各地でも絶滅危惧種に指定されています。
阿蘇大観峰から望む阿蘇カルデラ(阿蘇谷)と阿蘇五岳(正面左から根子岳・高岳・中岳・烏帽子岳・杵島岳)。 May’2023。 今日は、昨日の続きで阿蘇山です。 今日は、外輪山やその他の阿蘇の景色です。 湯浦パーキングから望む内牧温泉街と北外輪山。May’2
阿蘇山、中岳。May’2023 右の草原は「草千里」と呼ばれる。 今日は、阿蘇山その1です。 現在は、2024年1月23日に火口周辺警報(噴火警戒レベル2)発出され、火口から概ね1kmの範囲内の立ち入りは禁止になっていて中岳の火口を見ることはできません。 この3年
熊本城大天守と本丸御殿。 May’2023 今日は昨日の続きで熊本城その2、主に熊本城の本丸、天守閣ゾーンです。 熊本城大天守。 本丸御殿床下の「闇り(くらがり)通路」。
熊本城(熊本市)、May’2023 二の丸公園から 今日は、2021年に天守閣全体の復旧が完了し天守閣を含め一部が見学できるようになっている熊本城その1です。 2022年11月、熊本市の大西市長は城全体の復旧が当初の計画より15年遅れ、完全復旧は2052年度となる見通し
御輿来海岸展望台からの眺め(宇土市) 今日は、先日の三角西港の東北東10Kmほどのところにある「御輿来海岸(おこしきかいがん)」(宇土市)です。 景行天皇が九州遠征の際、三日月型の砂紋の美しさにお越しを止めて見入られたという伝説から名付けられたそうです
鍋ヶ滝(阿蘇郡小国町)。 今日は、熊本県阿蘇郡小国町の鍋ヶ滝(なべがたき)です。 それほど大きな滝ではありませんが、裏見の滝代表例として知られるそうです。
三角西港。 今日は熊本県にある「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産である「三角西港」(宇城市)です。 三角西港は、明治中期の石炭輸送の発展を示す物証で、三池炭鉱の良質な石炭を上海へ輸出するための輸送インフラとして、近代的
三井三池炭鉱万田坑(荒尾市)。 今日、明日は熊本県にある「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産である「三井三池炭鉱万田坑」(荒尾市)及び「三角西港」(宇城市)です。 まず今日は、万田坑です。 熊本県荒尾市と、隣接する福岡
大天守(右)と小天守(左) 今日は松山城その2、本丸広場の建築物です。 今年の4月、島根県の出雲大社をスタートし、鳥取、広島、愛媛と廻った時の撮影写真は、今日で終了です。 明日以降は、5月に回った熊本、宮崎の写真が始まります。 昨日の登り石垣と高
本丸広場から望む、右から大天守(重文)、小天守、南隅櫓。松山城(松山市)。写真中央の着ぐるみは初代城主でここを「松山」と名付けた豊臣秀吉子飼いの賤ケ岳七本槍の一人加藤嘉明公を表す「よしあきくん」です。 今日、明日は、日本国内に12か所しか残っていない、
道後温泉、松山市。 今日は、愛媛県一の観光地、道後温泉と松山城ロープウェイ通りにある夏目漱石の小説『坊つちやん』のモニュメントなどです。 道後温泉は、日本三古湯の一つといわれ、その存在は古代から知られ、万葉集巻一にも山部赤人などのよって短歌に詠まれ
今治城天守 今日は昨日の続きで、今治城で主に城内です。 二の丸跡の「蒼吹の井」。 海城にもかかわらず真水が出る井戸。 「野面積み」の石垣。 藤堂高虎公像
今治城天守と藤堂高虎公像、今治市 今日は、関ヶ原の戦いでの戦功により伊予半国20万石を領した藤堂高虎が、1602年から瀬戸内海に面した海岸に築城を始めた今治城です。 別称吹揚城(吹上城)。「吹揚城」の名は、建設が大変難しい「砂が吹き上げられる浜」に建てら
来島海峡大橋、亀老山展望台公園、大島(今治市) 今日は、尾道から今治に車で移動するのに通った「しまなみ」街道の途中の島の展望台などから撮影した写真です。 瀬戸内海の景色はとても美しかったのですが、車で移動ですと島で高速を降りて車を止めて撮影となるの
大山祇神社拝殿、重要文化財(今治市大三島)。 今日は、昨日言及したしまなみ海道で立ち寄った、愛媛県今治市の大三島の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)です。 伊予の国一之宮。「日本総鎮守」と呼ばれ、全国1万社余りの山祇神社・三島神社の総本社としても知ら
五百羅漢(尾道市因島白滝山) 今日は、広島県の尾道から愛媛県の今治までのしまなみ海道を自動車で移動した時に寄った、因島のの白滝山の五百羅漢です。 白滝山は、もともと修験者の修行の場でしたが、永禄12年(1569年)因島村上水軍6代当主、村上新蔵人吉充が布刈瀬
福山城本丸南西角。 左から伏見櫓屋根と鯱鉾、筋金御門、鐘楼。 今日は福山城その2。 空襲による焼失を免れ現在国の重要文化財になっている伏見櫓、筋金御門と鐘楼です。 本丸西南角を本丸南下から見上げたところ。 左から、伏見櫓、鐘楼、筋金御門。
福山城(福山市)。 今日は、広島県福山市の福山城その1です。今日は、昭和20年の福山大空襲によって焼失し、その後再建された本丸の北側から西側にかけて建つ天守、鏡櫓、月見櫓、御湯殿などです。 鏡櫓(文書館)。 本丸東側に位置する2階建の櫓。
水木しげるロード(境港市) 昨日は、鬼太郎、目玉おやじ、ねずみ男などが中心でした今日はその他のキャラクター像です。
水木しげるロード(境港市) 今日、明日は鳥取県境港市の水木しげるロードです。 境港駅から本町アーケードまでの全長約800メートルの間に、水木の代表作『ゲゲゲの鬼太郎』のキャラクターを中心として日本各地の妖怪たちをモチーフとした銅像など180個近いのオブジ
塩見縄手(松江市) 今日は塩見縄手、松江城北側の堀沿い明々庵から小泉八雲旧居までの約500メートルの通りで、松江城築城の際に城下町が造成されたときに造られた道路の一つです。 塩見縄手の名称はこのほぼ中央に、松江藩中老の塩見小兵衛の屋敷があったことに由来
松江城、国宝天守。 今日は、国宝松江城です。 松江城は、現在の島根県松江市殿町に築かれた江戸時代の日本の城で別名、千鳥城です。 現存天守は国宝、城跡は国の史跡に指定されています。
大森の町並みその2(武家・町屋ゾーン)(石見銀山、大田市)Apr2023
大森町町屋ゾーン。瓦葺きの町並み、石州赤瓦 今日は石見銀山大森町の町並みその2,武家・町屋ゾーンです。 江戸時代、大森では地役人が住む武家屋敷と、商人や職人などが住む町家とが軒を接して暮らしていました。現在でも、その面影が色濃く残されています。
大森の町並みその1(代官所ゾーン)(石見銀山、大田市)Apr2023
石見銀山大森町の町並み。 今日、明日は、世界遺産石見銀山の大切な構成要素、鉱山街として成立した大森町です。「大森の町並み」地区は、江戸時代の武家屋敷や代官所跡、石見銀山で栄えた豪商・熊谷家住宅など歴史的な建造物や文化財が当時の面影を今も残し、島根県
龍源寺間歩 今日は、世界遺産の石見銀山遺跡の遺跡の中で唯一、常時公開されている坑道、龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)です。 石見銀山は戦国時代から江戸時代前期にかけて最盛期を迎えた日本最大の銀山でした。 銀山開発においては銀の精錬のため大量の薪炭用
出雲そば「八雲」、五段の五色割子そば 今日は、出雲大社参拝後に頂いた出雲そばです。 出雲大社前の名店「蕎麦処 八雲」で頂きました。 出雲そばの食べ方は割子と釜揚げがあるそうですが、この日は私と妻とでそれぞれ五段割子と三段割子を頂きました。 五色
出雲大社その2八足門から御本殿、その他(出雲市) Apr’2023
出雲大社、八足門(重文)。 今日は昨日の続き、出雲大社その2です。 勢溜の大鳥居から北にある拝殿まで行き、拝殿の裏側つまり北で玉垣、瑞垣(廻廊)、荒垣の三重の垣根に厳重に守護されているのが本殿です。 後でもまた述べますが、主神大国主大神の御神座は本殿
出雲大社その1勢溜の大鳥居から拝殿(出雲市) Apr’2023
出雲大社拝殿(島根県出雲市) 今日から2週間ほどは、今年4月に島根、鳥取、広島、愛媛と回った時の写真です。 今日はまずこの旅行のスタート、出雲大社です。 あいにくの雨でした。勢溜の大鳥居祓社(はらえのやしろ)。心身の穢れを祓い清める四柱の祓戸神
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FH000025 posted by (C)ピーミィ ワットマハタート(アユタヤ)の境内に放置された、仏像の頭部。 今日は、昨日まで記事にしてきたネガフィルムからFilm Scanで起こした1990年からの駐在、出張時に撮影した写真の記事に使用したsフォト蔵にアップしてある写真アルバムの
FH000027 posted by (C)ピーミィ ローズガーデンのタイボクシングショー、サンプラン、ナコンパトム県 今日の写真は、1990年代のタイその8 タイのその他の県とタイ隣接国の写真です。1.Nakhon Phatom,ナコンパトム県FH040020 posted by (C)ピーミィ ナコンパトム
FH010010 posted by (C)ピーミィ ワット・プラケーオ(エメラルド寺院)、タイ王宮、ラッタナコーシン島、バンコク 今日の写真は、1990年代のタイその7 バンコク都内の名所旧跡です。1.Royal Palace,ラッタナコーシン島、バンコクFH010004 posted by (C)ピーミィ
FH020007 posted by (C)ピーミィ 戦場にかける橋、クワイ川、カンチャナブリ、タイ 今日の写真は、一昨日の続きで1990年代のタイその6ー2、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写②です。8.Khao Kho National Park,ペチャブーン県FH000010 posted by (C)ピーミィ カ
FH010034 posted by (C)ピーミィ Wat Phra Putthabat(仏足石寺),サラブリ県 、タイ 今日の写真は、1990年代のタイその6ー1、アユタヤ以外のタイ中部と西部の写真①です。1.Sing Buri,シンブリ県FH030016 posted by (C)ピーミィ 黄金大仏、Wat Phikunthong, Tha
19910525-18 posted by (C)ピーミィ プラサート・ヒン・ピーマイ, Nakhon Ratchasima 今日の写真は、1990年代のタイその5、タイ東北地方のクメール遺蹟です。1.Prasat Hin Phimai, Nakhon Ratchasima19910525-42 posted by (C)ピーミィ アルバム「Prasat Hin Ph
FH020034 posted by (C)ピーミィ ワット・マハタート ナコンパノム、ナコンパノム 今日の写真は、1990年代のタイでクメール遺蹟以外の遺跡、名所などです。1.Ubon Ratchathani(khaong Chiam, Mae Nam Song Si, Chongmek)FH000014 posted by (C)ピーミィ アルバム
19920620-82 posted by (C)ピーミィ 1992年のゴールデントライアングル(タイ、ビルマ、ラオスの3国国境) 今日の写真は、1990年代のタイその3 Chiang Rai件です。1.Wat Phra Keo, Chiang RaiFH010010 posted by (C)ピーミィ 1434年、チエンライのとある寺の仏塔
FH000011 ワット プラタート ドイ ステープ、チェンマイ 今日の写真は、1990年代のタイのその2、「チェンマイ県とランパン県」です。 1991年にチェンマイ県から生の冷凍イチゴを300トン輸入した時のイチゴ畑と冷凍工場の写真も残っていました。 もう35年前で
FH020003 posted by (C)ピーミィ バーンパイン宮殿、アユタヤ県 今日から2週間ほどは、1990年にタイ王国バンコクに初めて海外駐在をした当時撮影していたフィルム写真のネガフィルムから起こしたデジタルスキャンデータです。 10年ほど前に放っておいたネガフィルムを
鐘楼門、金法山浄智寺(じょうちじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗円覚寺派に属する禅宗の「金法山浄智寺(じょうちじ)」と紫陽花の花です。 浄智寺は、鎌倉五山第四位に位置付けられています。 境内は「浄智
総門、巨福山建長興国禅寺(こふくさんけんちょうこうこくぜんじ)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院で、臨済宗建長寺派の大本山、「巨福山建長興国禅寺」通称「建長寺」です。鎌倉五山の第一位で、境内は「建長寺境内」として国の
階段参道、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、昨日の続きで明月院の紫陽花の花です。 この寺で紫陽花を植えたのは、第二次世界大戦後に物資や人手が不足し、参道を整備する杭の代わりに「手入れが比較的楽だから」と
総門、福源山明月院(ふくげんざめいげついん)、神奈川県鎌倉市山ノ内。 今日の写真は、あじさい寺として知られる神奈川県鎌倉市山ノ内にある臨済宗建長寺派の寺院、福源山明月院の境内です。 有名な紫陽花の花は、明日紹介します。 平安時代後期、山内俊通の供
御霊神社(ごりょうじんじゃ)、神奈川県鎌倉市坂ノ下。 今日の写真は、まさしく長谷寺のある山から海側(南側)に下る坂の下にある「御霊神社」、通称「鎌倉権五郎神社」です。 と云っても巻頭の写真に見られるように、神域の境内での撮影が禁止でしたので、神社
山門、行時山光則寺、神奈川県鎌倉市長谷 今日は、鎌倉有数の花の寺として知られる、日蓮宗の行時山光則寺の紫陽花を中心とした写真です。 日蓮の佐渡配流に際して鎌倉幕府5代執権北条時頼は、日蓮の高弟日朗も捕らえ、寺社奉行の宿屋光則邸の土牢に監禁しました。
海光山慈照院長谷寺、鎌倉市長谷。 今日の写真は、紫陽花を中心とした長谷寺の花の写真です。 あじさい路、境内図、長谷寺。
山門。 和み地蔵。 放生池。 地蔵堂。 千体地蔵、地蔵堂の後背。 阿弥陀堂。 本堂(観音堂)。 観音ミュージアム。
鷲子山上神社のふくろう達、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日、一昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きで、境内に120体以上配置されていたふくろう像達の一
境内社の本宮神社の鳥居と大フクロウ、鷲子山上神社(とりのこさんしょうじんじゃ)、栃木県那須郡那珂川町と茨城県常陸大宮市の境界。 今日の写真は、昨日の「鷲子山上神社 (とりのこさんしょうじんじゃ)」の続きです。 本宮神社。 鷲子山上神社の本殿があっ
日光北街道標柱、大田原市末広1丁目 今日から1か月近くは、那須野が原(旧大田原、湯津上、黒羽、那須町)、白河、須賀川、二本松の松尾芭蕉の「奥の細道」所縁の地の写真です。 「奥の細道」の日程と道程に従って、芭蕉所縁の地の記事をアップしていきます。
白河神社 文治5年(1189年)源頼朝の義経排除の陰謀に乗って源義経を討ってしまった藤原泰衡は、その直後に「源義経を長らく匿っていたこと」、そして「許可なく源義経を討伐したこと」を理由として逆に鎌倉幕府による征伐の対象とされてしまいます。 源頼朝自身が率
道の駅那須与一の里、大田原市南金丸。 今日の写真は、オマケで道の駅那須与一の里です。場所は那須神社の西隣です。 敷地内には、道の駅の他、那須与一伝承館、昨日の記事にあるように千年前からの竹細工、竹の産地だけあって竹ギャラリーなどもあります。 また現
直箆温泉神社、大田原市余瀬白旗山南端。 今日は、那須与一が源平合戦の後、矢竹を奉賽するために創建したと伝えられる直箆温泉神社です。 最初、鎮座の地は現大田原市北金丸地内の直箆でしたが、享保年間(江戸幕府8代将軍徳川吉宗の頃)に現在の余瀬白旗山南端に
駒込の池、黒羽(現大田原市大輪字長谷田) 今日の写真は、那須与一の愛馬「鵜黒の駒」の生まれ故郷の地、「駒込の池」です。 鵜黒の駒誕生の伝説は「歴史的風土のなかの黒羽の民話(黒羽町編1993/12)」の要約によると、『長谷田の溜池に、毛は鳥の羽根のようで
稲積稲荷神社(福原)、玄性寺 今日の写真は、玄性寺境内の那須与一の墓の南隣に鎮座する那須一族の守護神稲積稲荷です。 お寺の中にある神社です。那須与一が屋島合戦で扇に向かって矢を放つ際に稲荷明神が白狐と化して守護したという霊験ある稲荷です。主催神は倉
玄性寺、大田原市福原 今日の写真は、那須与一公の墓所がある福原玄性寺です。 那須氏の菩提寺で、伝承によれば、3代那須資之が、京都東山の即成院に埋葬された弟の那須与一(宗隆、のち資隆)の分骨を受けて福原(現大田原市福原)に建立した功照院が始まりといわれ
楼門(重文)、那須神社(大田原市南金丸)。 国指定名勝「おくのほそ道の風景地」 今日の写真は、金丸八幡宮として仁徳天皇の時代に建立されたと伝えられ、中世、近世を通じて那須氏、大関氏(江戸期黒羽城主)の氏神として信仰された「那須神社」です。 一
九尾稲荷神社、那須温泉神社内 今日の写真は、昨日少し説明した本殿の東側に鎮座する「九尾稲荷神社」とその北東奥にある「殺生石」です。 「九尾の狐」(玉藻前)の平安時代の退治については近いうちに、源頼朝の那須の篠原での巻狩り(1193年)か松尾芭蕉の所縁の
那須温泉神社(なすゆぜんじんじゃ)、本殿、(那須町湯本) 今日の記事は、「平家物語」の中で那須与一が源平合戦屋島の戦い(1185年)で扇を射る際に「南無八幡大菩薩、別してはわが国の神明、日光権現宇都宮、那須の温泉大明神、願わくはあの扇の真中射させてたばえ
高館城址、大田原市大輪、川田 今日の記事は、那須与一の生い立ちと高館城址の写真です。 那須余一の出生から成人するまでに関しては、今なお不明な点が多く、むしろ謎に包まれてます。 私が源義経、那須与一、松尾芭蕉の下野での足跡を調べるのに最も信頼して利
大田原市余瀬の白旗山南東端にあたる、旧東山道沿いの「余瀬の道標」近くの「白旗城跡の説明看板」 今日の写真と記事は、東山道の関東最北の黒川駅家(うまや)の次の駅家である粟野駅家があった、現大田原市余瀬の白旗山です。 余瀬は元は旧東山道(関街道)粟野駅
弁慶下駄掛石、那須町睦家。 今日の写真は、那須町睦家にある「弁慶下駄掛石」です。 弁慶下駄掛石の伝説は、治承4年(1180年)、義経一行が旧東山道黒川駅家(現伊王野付近と推定される)から、かつて祖先源頼義が軍兵を募った粟野駅家(現大田原市余瀬)に向かう
伊王野城山公園。伊王野山城(霞ヶ城、伊王野城)跡。 今日の写真は、伊王野山城跡を公園にした「伊王野城山公園」です。 伊王野城は室町時代の長享元年(1487)に当時の領主である伊王野資清によって築かれた城郭で、これまで居城として利用した伊王野氏居館
伊王野氏居館跡(手間広場)と伊王野氏山城跡、那須町伊王野 今日の写真は、昨日の馬頭観音堂があった、伊王野氏の山城跡その1とそれ以前に約300年間平城として使われた伊王野氏の居館跡です。 1180年に義経一行が鎌倉へ向かう途中で、弁慶が昨日の馬頭観音堂で
馬頭観音堂、那須町伊王野伊王野氏山城址 今日の写真は、那須町伊王野の「馬頭観音堂」とその境内に湧き出る「判官清水」です。 馬頭観音堂は、那須町伊王野の伊王野山城跡に上る途中にありました。 那須町の義経伝説には、「東山道伊王野を義経一行が進んでいる
沓石。那須町大畑沓石地区 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、大畑地区の「沓石」と「大畑」、伊王野地区の「御幣石(おんべし)」です。 まずは、「沓石」(那須町大畑沓石地区)です。 旧東山道(義経街道)をさらに伊王野方面に向かうと、街道
「月夜見山」伝説地(那須町簑沢) 今日の写真は、「那須町の源義経伝説地」の続きで、簑沢地区の 「月夜見山」、「具足岩・五両沢」、「矢の根石」です。 まずは「月夜見山」。 「陸奥と下野の国境の追分明神に着いたころは、もう夕もやが境内の杉木立に深くたち
追分の明神(住吉玉津島神社)、那須町簑沢追分地区。 今日の写真は、那須町の義経伝説No.1「追分明神」です。 治承4年(1180年)源頼朝が伊豆で平家追討の旗を挙げたことを源義経が奥州平泉で聞き、鎌倉へ駆けつける際に古代の街道である東山道を通ったといわれ、
キクザキイチゲ、白河神社(白河市旗宿)Apr’2017 今日の写真は、白河の関跡、白河神社の巨木と山草の花です。 今から50年以上前に初めて訪れた時、子供だったこともあり私の白河の関の思い出に残ったのは、大木に絡みついたり、絡みついた大木を枯らして地面から