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  • 歴史紀行 81 ‐ 5 平家終焉の地 平宗盛公 胴塚 5

    平宗盛公胴塚滋賀県野洲市大篠原1183年、寿永2年5月〜6月倶利伽羅峠の戦いに惨敗し、次戦の篠原の戦いと2度の連戦で木曽義仲に敗れたことにより、平家の北陸平定は頓挫しました。これは頓挫という生優しい事態ではなく、平家の軍勢は飢饉の最中に強引に徴発された寄せ集めの集団では、20年の怨嗟を溜め込んだ源氏の怒りの軍勢を抑える力など無く、これにより平家の声望は地に落ち、義仲がすでに上洛の手筈を整えたとの風聞すら都に囁かれ始めました。ここで平家一門は二つに分裂します。平宗盛は伯父にあたり、いまや一門の重鎮たる平頼盛に京の都の玄関口にあたる山科の防衛を託します。平頼盛は、平清盛とは母の違う異母弟にあたる兄弟で、かつて源頼朝の助命のために、断食まで行い頼朝の命を救った池禅尼の息子でした。宗盛とは平家の縁者であるものの、...歴史紀行81‐5平家終焉の地平宗盛公胴塚5

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 10 静岡県 菊川市 10

    千框棚田菊川市倉沢千框棚田菊川市の中心市街地からおよそ北東へ7キロ、戦国時代末期に開田されたと伝わる田んぼが広がります。千框棚田(せんがまちたなだ)は菊川上流の河川から水を引くことで、倉沢地区の谷間に千枚の棚田を築いたことから千框棚田と呼ばれ、細々と作付されてきました。国の減反政策、後継者不足に加えて機械化による大規模な作付けに不向きなことから年々その面積を減らしてきましたが、機械化と農薬散布等の使用もされてこなかったことから昔からの生態系そのものが根付いていることと、独特の景観を生み出しているこの自然豊かな棚田は、現代では失われつつある里山の原風景を思い起こされることに注目が高まりました。棚田地域振興法(一部抜粋)(基本理念)第三条棚田地域の振興は、棚田地域の有する農産物の供給、国土の保全、水源の涵かん...歴史めぐり街物語6‐10静岡県菊川市10

  • 今日いち-2024年9月28日

    仕事帰りに日本の原風景とも言われる里山に寄って来ました。帰宅して記事にまとめます。今日いち-2024年9月28日

  • 北の覇者 松前藩物語 4 蝦夷島 百年戦争勃発 1

    鑁阿寺足利将軍家菩提寺栃木県足利市家富町下の者が頂(いただき)の地位の者を喰らう下剋上の世界となる戦国時代。この混乱の時代の到来は、室町幕府3代将軍〜足利義満の死により息吹を上げ、義満の子、6代将軍〜足利義教が将軍となると、彼のもたらした恐怖政治は各国、守護大名すら安定した立場にないことを宣言した様なもので、彼の陣に参陣した守護が誅殺されたことから現実味を帯びることとなります。その恐怖の代償は彼自身が播磨、備前、美作の守護大名〜赤松満祐に暗殺されるという結末でした。将軍家すら守護大名に殺される時代は室町時代の後期に差し掛かると、地方の王たる立場にあった守護ですら、飼っていた武将に地位を脅かされる殺伐とした世の中に変貌します。その最たる例が美濃国(現在の岐阜県)で起きた斎藤道三の下剋上でしょう。後に明智光秀...北の覇者松前藩物語4蝦夷島百年戦争勃発1

  • 北の覇者 松前藩 物語 3 武田の嫡子 出奔

    松前城戦国時代から江戸時代を通して蝦夷島(北海道)を支配することになる松前氏。松前氏の始祖は言い伝えによると、若狭守護、武田氏の出であると伝わります。蝦夷島には古くから土着しているアイヌ人がいました。やがて本州から蝦夷島へ渡って来た本州の人々が南部地域に住み始めます。彼らは互いに交易をして共存をはかるも、度々戦闘となり、殺し合うことも度々ありました。室町時代の後期、この時代の足利将軍家の室町幕府は既に機能不全を起こし始めており、戦国時代の足音が聞こえ始める間際となっており、各国の守護大名が表向きは幕府に従う姿勢を示しつつも、独立国の王の様に振る舞い始めていました。1451年、宝徳3年3月、若狭国(現在の福井県地方)の守護大名、武田信賢の嫡子〜信広が突如出奔し、北へ向かいました。この武田信広、守護大名の嫡子...北の覇者松前藩物語3武田の嫡子出奔

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 9 静岡県 菊川市 9

    加茂井堰跡加茂井堰跡碑静岡県菊川市潮海寺加茂村と三浦刑部父子牧之原台地粟ヶ岳加茂村(現在の静岡県菊川市)は、牧之原台地の西麓、南北に粟ヶ岳が源流の一級河川、菊川が流れる村でした。戦国時代後期、各国の戦いが熾烈を極める中、東海一の弓取りとして他国の武将から畏れられた駿河の大名、今川義元の武将であった三浦刑部は永禄3年(1560年)、主君の義元が桶狭間の戦いで織田信長に敗れ、三浦刑部も織田の追手から逃れながら各地を流浪し、清水の里に潜んでいた末についには駿河、今川家への帰参をやめ、次いで武士の道さえもやめる決意をしました。やがて三浦刑部は百姓になろうと決意し、二人の息子(浅右衛門と勘右衛門)と共に加茂村に住みついたといわれています。方々を流浪していた三浦刑部は加茂村が肥沃な大地であると信じて、ここを第二の人生...歴史めぐり街物語6‐9静岡県菊川市9

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 8 静岡県 菊川市 8

    東海道本線沢水加(さばか)川レンガ橋梁静岡県菊川市吉沢多くの方がご存知でしょうが、日本最初に開業した鉄道路線は、東京新橋〜横浜間の東海道本線です。それに先だち幕末の1854年、嘉永七年にペリーが二度目に来航した際に、徳川将軍家に献上された鉄道模型の機関車が横浜で披露され、敷かれたレールの上を蒸気を吐きながら走る機関車の姿に、参列した多くの幕臣が驚きの眼を輝かせました。やがて日本の政権は徳川将軍家の江戸幕府から明治新政府へと移り、新政府は世界中から多くの人と技術を導入して世界へ追いつくべく奔走しました。これが文明開化への動きです。東京新橋〜横浜間で明治5年に部分開業した東海道本線はその後、着々と路線が西へ敷かれて行き、旧東海道の終着の京都をさらに越えて神戸市まで計画されました。鉄道路線、東海道本線は旧東海道...歴史めぐり街物語6‐8静岡県菊川市8

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 7 静岡県 菊川市 7

    応声教院山門応声教院【おうしょうきょういん】静岡県菊川市中内田応声教院は、855年斎衡2年、比叡山縁起の高僧慈覚大師円仁が文徳天皇の勅願寺として天台宗天岳院として創建しました。後の平安時代後期に、浄土宗の開祖、法然上人が人々のために桜ヶ池に身を沈めた恩師皇円阿闍梨の菩提を弔うために天岳院を訪れた際に浄土宗に改宗し、応声教院と改名しました。応声教院最大の特徴は、鮮やかな朱塗りの山門で、この山門は1628年寛永5年、江戸幕府2代将軍徳川秀忠が生母西郷局の菩提寺として創建した宝台院の山門でした。理由は不明ですが、1918年大正7年に応声教院に移築されました。応声教院本堂熊谷直実袈裟掛けの松跡碑片葉の葦碑熊谷直実袈裟掛けの松跡碑、片葉の葦碑静岡県菊川市中内田応声教院門前応声教院の門前に源平合戦で平家と戦い、その無...歴史めぐり街物語6‐7静岡県菊川市7

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 6 静岡県 菊川市 6

    富士製茶赤煉瓦倉庫菊川市堀之内明治時代を迎え、職を無くした旧徳川幕府の幕臣らが生き残りをかけて始まり、静岡から県の中西部を中心に広まったのが製茶産業です。茶商の原崎源作が、茶の一大産地となった菊川付近で収穫される荒茶を輸出する方法を、1889年明治22年に東海道本線の静岡県下全線の開業を期に計画し、父から継いだ会社、富士製茶の再生茶の工場と倉庫として、1891年明治24年、堀之内駅前【現在のJR菊川駅】に赤煉瓦倉庫群を次々と建設しました。茶の再生作業は、収穫した生茶を炭火で熱した大釜に入れて約40分間混ぜ合わせる【火入れ】という作業を必要とし、この過酷な作業を年端の行かない若い女工らが請け負っていました。中には倒れる女工も出る過酷な作業に心を痛めた源作は、原崎式という新たな再生茶機械を考案して広めるなど、...歴史めぐり街物語6‐6静岡県菊川市6

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 5 静岡県 菊川市 5

    潮海寺菊川市潮海寺潮海寺は、奈良時代の聖武天皇治世下の頃(西暦750年天平年間)、行基によって創建されたと伝わります。平安時代に入り、奥州平定を成した征夷大将軍、坂上田村麻呂が帰依して寺領を寄進する等、隆盛を極め、最盛期には寺領3千石、75坊を数える遠州地方きっての名刹となりますが、その後数々の戦乱に巻き込まれ、多くの伽藍が焼失しました。徳川家康が遠州を支配下に置くと、荒廃していた本堂等を再建するように家臣大須賀康高に命じた記録が残ります。本堂から薬師奥の院までは、直線距離でおよそ約2キロあり、現在茶畑となっている地も当時の潮海寺の寺領で、至るところに焼失した寺坊がありました。本堂薬師堂八坂神社東海道の南に石高に換算すると約3000石相当の寺領を有し、田村麻呂寄進の七堂もの伽藍に75の坊院と、東海地方でも...歴史めぐり街物語6‐5静岡県菊川市5

  • 今日いち-2024年9月21日

    先日、菊川田んぼアートの作品を紹介しました。故、大村ゆうきさんの田んぼアートもそうですが、アートを高台から鑑賞できる櫓に、【また、会いに来て…】と書かれた大村さんの挿絵が訪問する原動力になります。今日いち-2024年9月21日

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 4 静岡県 菊川市 4

    炭焼きレストランさわやか菊川本店2023年7月5日菊川本店リニューアルオープン当日炭焼きレストランさわやか菊川本店菊川市加茂6088静岡県民の~ふるさとの店~を歌い文句に、静岡県民に絶大な支持を受け、待ち時間がタマにキズの、いまや静岡のソウルフードともいえるのが、ハンバーグレストラン【さわやか】のげんこつハンバーグです。その【さわやか】の発祥の地がお茶の街〜菊川なんです。長年親しまれてきた【さわやか】菊川本店ですが、2023年7月5日に同じ場所に店舗を新築して生まれ変わりました。創業当初の【さわやか】は、炭焼きレストランとしてではなく、喫茶店としてのオープンでした。1977年昭和52年7月に小笠郡菊川町(現在の菊川市)に一号店【コーヒーショップさわやか】としてオープンしました。以後静岡県西部を中心に店舗を...歴史めぐり街物語6‐4静岡県菊川市4

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 3 静岡県 菊川市 3

    塩の道塩の道案内板塩の道静岡県菊川市~小笠町塩の道は、海岸地方と内陸の町村を結ぶ道で、海岸地方で採れた塩と海産物を主に運び、内陸からは材木や鉱物等を運びました。この名前で呼ばれる道は全国各地にありました。かつて戦国時代、海岸を有する駿河今川氏と山村に囲まれた甲斐武田氏が関係を拗らせた際、今川氏は塩を断って武田氏に圧力をかけました。駿河、遠州(現在の静岡県)では、東は、富士川沿いの身延街道を北上して甲斐、信濃へ向かう道。西の塩の道は、遠州相良田沼街道から北西へ進み、菊川塩買坂、小笠、城下町掛川を通って信州街道を北上して信濃塩尻へ。塩尻の地名は、塩の道終着と、塩売りがこの地域で売りつくすことから名付けられたとも言われます。塩の道公園かつて塩を馬で運んだ街道は交通機関が車へと姿を変え、役割りそのものを終えました...歴史めぐり街物語6‐3静岡県菊川市3

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 2 静岡県 菊川市 2

    菊川田んぼアート菊川田んぼアート2019菊川市下内田稲荷部(いなかべ)菊川田んぼアートは、稲荷部(いなかべ)地区の水田を様々な古代米を画材に見立て、水田に巨大な絵を浮かび上がらせる「田んぼアート」です。この試みは、菊川の地域おこしなどを目的に、田んぼアート菊川実行委員会(地元有志、JA遠州夢咲)が、2008年から実施していて、毎年菊川市のゆかりのあるものをアートの題材として、田植えから工夫を凝らし、2019年のデザインは、菊川市のイメージキャラクターちゃこちゃん、と富士山です。ちゃこちゃん菊川市出身の漫画家小山ゆうさん(主な作品~あずみ、おーい龍馬等)が手掛けた菊川市のイメージキャラクターこの年の作品は、菊川市制15周年の節目の年でもあり、田んぼアートは12回目の開催となります。菊川田んぼアート2020黒...歴史めぐり街物語6‐2静岡県菊川市2

  • 歴史めぐり 街物語 6 ‐ 1 静岡県 菊川市 1

    初代静岡県知事関口隆吉像静岡県菊川市堀之内JR菊川駅前菊川市の茶畑静岡県菊川市は、西に城下町の掛川市、東に牧之原台地を隔て島田市、牧之原市、南に御前崎市に隣接する人口約46000人の茶産地の街です。この決して大きくはない茶畑と里の町から初代県知事を輩出しました。後の初代静岡県知事、関口隆吉誕生の軌跡尊王攘夷、倒幕運動、大政奉還、王政復古、鳥羽伏見、そして無血開城と、およそこれら四文字の出来事をたどることにより、1853年嘉永6年ペリー来航から15年後の1868年、日本は明治維新を迎えることになります。政権を担っていた幕府は倒れ、倒した薩摩、長洲を中心とした外様藩の藩士から倒幕で目立った者が政政権を担う側となり、維新から10年あまり、日本はもっとも激しい変化にさらされました。旧幕臣関口隆吉は、1836年天保...歴史めぐり街物語6‐1静岡県菊川市1

  • 今日いち-2024年9月17日

    ダジャレ…?違います。【しぶたに】と読みます。ある奈良の田舎のバス停を撮りました。確か桜井市辺りだったかと…今日いち-2024年9月17日

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 10 静岡県 浜松市 10

    浜松市楽器博物館浜松市中区中央3丁目浜松市の楽器産業の始まりは、明治20年、大阪の医療機器会社の修理工だった山葉寅楠が五社神社近くの浜松病院からの医療機器の修理依頼で浜松に派遣されたことから始まりました。山葉寅楠は、医療機器の修理と共に、浜松尋常小学校(現、浜松市立元城小学校)からオルガンの修理を依頼され、苦心の末にオルガンを修理しました。楽器に魅せられた山葉寅楠は、独学でオルガンの構造を学び、遂には自らオルガンを自作、やがて今日の世界一の楽器メーカー【ヤマハ】の創業者となりました。そのヤマハで楽器製造のノウハウを学んだ河合小市が独立し、河合楽器製作所を創業。さらに大阪の楽器メーカー、ローランドが浜松市に移転して来たりと、浜松は楽器製造の盛んな産業都市として知られる様になりました。浜松市楽器博物館は、そう...歴史めぐり街物語5‐10静岡県浜松市10

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 9 静岡県 浜松市 9

    三方原古戦場碑浜松市中央区根洗町三方原墓園前元亀3年12月22日(1573年1月25日)三方ヶ原の戦い徳川家康大敗1568年永禄11年駿河、遠江の今川領を大井川を境に武田信玄と切り取った徳川家康。やがて武田信玄は遠江に侵攻して、今度は徳川領を脅かし、浜松の北、三方ヶ原で激突します。浜松城を素通りしてみせ、西に進路を向けた武田軍に対し、これを見過ごせば、徳川家の武門の面子にも関わると、家康は信玄に野戦を挑みます。数で劣る徳川軍が背後を衝くと読んだ武田信玄は、自軍の軍勢の中央を厚く構える魚鱗の陣形を組んで万全な状態で待ち構えていて、戦いは2時間ほどで決まり、武田軍の圧勝となりました。徳川家康、生涯最大の負け戦となりました。この戦いでは、夏目吉信、本多忠真といった多くの徳川家臣が家康を逃がすべく奮戦して生命を落...歴史めぐり街物語5‐9静岡県浜松市9

  • 歴史 今日の出来事 9月15日 慶長5年9月15日 関ヶ原の戦い 2

    山内一豊と千代の像静岡県掛川市中町東海道三大難所小夜の中山駿河金谷宿と遠江日坂宿の間の峠で、急峻な台地は勾配もきつい箱根、鈴鹿峠と並ぶ東海道の難所会津上杉討伐〜関ヶ原の戦い豊臣秀吉の政権終盤に越後から会津へと転封となっていた上杉家は新領地への経営に取り掛かります。北に秀次事件に連座し、側室に差し出した愛娘を秀吉の命令で殺された最上義光、最初の上洛当初から因縁があった伊達政宗と秀吉が危険視した諸大名の監視を伴うもので、さらに江戸の徳川家康への圧力を兼ねての転封でした。慶長4年3月大老前田利家の病没後、朝鮮出兵以来、関係か険悪化していた加藤清正、福島正則、黒田長政らが五奉行の石田三成の襲撃を企てるも、三成は徳川家康の屋敷に逃げ込むことで救われます。家康は両者の間を取り持ち、三成は五奉行の職を辞し、領地の佐和山...歴史今日の出来事9月15日慶長5年9月15日関ヶ原の戦い2

  • 歴史 今日の出来事 9月15日 慶長5年9月15日(1600年10月21日) 関ヶ原の戦い

    東軍を率いた徳川家康公像静岡市駿府城公園今から約424年前の1600年10月21日、(慶長5年9月15日)、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の両軍合わせて10万以上の軍勢が、南北約4キロ、東西約2キロの美濃国(現在の岐阜県不破郡関ヶ原町)の盆地、関ヶ原で激突しました。主な流れ~徳川家康と石田三成の対立の最終局面である関ヶ原の戦いは、徳川家康が会津の上杉征伐を大義名分に、上方を留守にした隙を突いて蟄居の状態にあった石田三成が挙兵を決意、これにより引き返せない事態となります。家康は福島正則、細川忠興、黒田長政ら、石田三成とは反目する豊臣恩顧の大名らを従えて下野国の小山(現在の栃木県小山市)まで下りました。石田三成は毛利輝元を旗頭に据えて親友の大谷吉継、小西行長、宇喜多秀家、島津義弘といった西国の大名を中...歴史今日の出来事9月15日慶長5年9月15日(1600年10月21日)関ヶ原の戦い

  • 思い出フォト 138 ちびまる子ちゃん

    ちびまる子ちゃんマンホールエスパルスドリームプラザ原作者さくらももこ先生愛用のピアノ思い出フォト138ちびまる子ちゃん

  • 歴史 今日の出来事 9月13日 1912年 大正元年 9月13日 乃木希典 陸軍大将 殉死

    歴史今日の出来事9月13日1912年大正元年9月13日明治天皇大葬〜乃木希典殉死乃木希典大将と辻占売(つじうらうり)少年の像東京都港区赤坂8丁目旧乃木邸跡大正元年9月13日乃木希典殉死明治時代とは、維新以降に士族が起こした萩、秋月、神風連、西南といった内乱に加え、日清~日露と、2度の国外戦争を日本人が近代化と引き換えに体験した時代でした。1912年明治45年7月29日、明治天皇が崩御され、元号が大正となり、新しい時代を迎えました。二月近くたった大正元年、9月13日、明治天皇大喪の礼当日に日露戦争で陸軍第三軍を率いた乃木希典大将が静子夫人と共に殉死しました。大正時代の到来は、日露戦争で多くの戦死者を出しながらも戦局を左右する旅順要塞攻略戦で二◯三高地を奪取した陸軍大将の殉死により迎えました。乃木大将と辻占売...歴史今日の出来事9月13日1912年大正元年9月13日乃木希典陸軍大将殉死

  • 今日いち-2024年9月13日

    1912年大正元年の9月13日、明治天皇大喪当日。日露戦争で陸軍第三軍を指揮した乃木希典大将が殉死しました。今日いち-2024年9月13日

  • 思い出フォト 137 井伊直虎

    浜松市のマスコットキャラクター家康くん&直虎ちゃん(左)出世大名家康くん(右)出世法師直虎ちゃんいまや、浜松市のお祭りやイベント等では無くてはならない人気キャラクターとなりました。井伊直虎滅亡の危機にあった遠江の小さな御家をあらゆる知恵と駆け引きで今川、武田、徳川と、大国の間を生き抜き、愛してやまない亡き許嫁の忘れ形見を徳川家臣最大の12万石の太守として成長させた女城主〜井伊次郎法師こと、井伊直虎が1582年9月12日(天正10年8月26日)に亡くなりました。(生年月日は判明していないため、享年は不明)龍潭寺龍潭寺山門奥から二番目が井伊直虎の墓大国〜駿河の今川家に曾祖父の代から散々駆り出され、実の父〜井伊直盛も桶狭間の戦いで失い、許嫁〜直親は今川家へ謀叛の疑いをかけられ、駿河へ弁明に行く道中に斬殺。掛川城...思い出フォト137井伊直虎

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 8 静岡県 浜松市 8

    浜名湖浜松市と湖西市の境界にもなっている浜名湖。もともとは遠州灘沿岸に近い淡水湖でしたが、室町時代後期(戦国時代初期)の1498年、明応7年に発生した大地震(明応地震)により、押し寄せた津波と、湖と海を隔てていた地盤が決壊したことにより、真水と海水が交ざりあうことで汽水湖となりました。遠州灘から浜名湖に入って北上する海運も可能となり、浜名湖に隣接する宿場町も賑わいを見せます。汽水湖の恩恵は、主に漁業にもたらし、全国的に知られる浜名湖のウナギや海苔の養殖、また、アサリ等の貝類も豊富となり、潮干狩りで賑わう湖となりました。遊園地〜はまな湖パルパル浜名湖オルゴールミュージアム舘山寺しかしら近年、記録的な不良に悩む漁業に変わり、浜名湖周辺は、遊園地、ロープウェイ、ミュージアム、温泉街と、観光地として特にクローズア...歴史めぐり街物語5‐8静岡県浜松市8

  • 歴史 今日の出来事 永禄4年 9月10日 第四次 川中島の戦い〜終戦

    永禄4年9月10日(1561年10月18日)〜第四次川中島の戦い~終戦武田家臣〜山本勘助の戦術、啄木鳥戦法の策〜(啄木鳥が木の中に潜む虫を捕まえる際、クチバシで突いてみせ、驚き穴から飛び出してきた所を捕まえる様に〜本陣を前進させて敵を引き付けた上で別働隊が背後を襲う戦法)で軍勢を二手に分け、上杉軍の布陣した妻女山へ夜襲をかけるべく秘かに武田軍は別働隊を出します。武田が別動隊に分けた軍勢は1万2000、本隊は8000が布陣しました。上杉謙信は、前日の滞陣中の海津城の武田兵の炊炎がいつもより多い事から、武田が夜に動くと策を見破って秘かに妻女山を下り、濃霧の晴れた武田軍の眼前には上杉軍の大軍勢がありました。川中島、八幡原の戦いでは、車懸りの陣で車輪を回すように新手を次々と繰り出して波状攻撃をかける上杉軍に武田軍...歴史今日の出来事永禄4年9月10日第四次川中島の戦い〜終戦

  • 歴史 今日の出来事 永禄4年 (1561年)9月9日〜9月10日 第四次川中島の戦い

    信玄謙信一騎討ちの像長野県長野市小田島町川中島古戦場八幡原史跡公園1561年10月17日(永禄4年9月9日~10日)、1553年天文22年から三度に渡って勃発してきた越後の上杉謙信と甲斐の武田信玄による川中島の戦いがこの日、4度目の激突となりました。半月以上妻女山に陣取り、武田軍の動きを観ていた上杉謙信は、海津城から昇る炊煙がいつもと違うことから出陣があることを察知、八幡原に本隊を配置した武田軍が、別動隊が突くことを見破ります。二手に分かれた武田軍の本隊を叩くべく夜陰に乗じて妻女山を降りた上杉軍、夜明けの霧が晴れた時に武田軍の眼前に上杉軍が現れたため、武田軍は動揺し、序盤戦は上杉軍が圧倒しました。二万の軍勢の一万二千を妻女山に向けた武田軍に対して、全軍を八幡原に集中した上杉軍は約五千の兵力差があり、武田軍...歴史今日の出来事永禄4年(1561年)9月9日〜9月10日第四次川中島の戦い

  • 歴史紀行 81 ‐ 4 平家終焉の地 平 宗盛公 胴塚 4

    平宗盛公胴塚滋賀県野洲市大篠原倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦い1180年治承四年九月、源頼朝に次いで挙兵した源義仲(木曽義仲)は、信濃を平定した後、亡き父の本拠地、上野国多胡荘(現在の群馬県高崎市付近)まで進出すると、旧領主の遺児の凱旋に地元豪族らが歓喜して配下に加わります。上野国〜北関東に約二ヵ月滞陣した義仲は、関東が鎌倉に入った同族の頼朝の影響下にあることを悟ると、信濃へ戻り、越後の平家方の豪族、城長茂を打ち破り、進路を西の北陸、越前へ向け、北陸道を押さえました。1182年、寿永元年、義仲は北陸へ逃れてきた以仁王の遺児〜北陸宮を保護して越中国(現在の富山県)に御所(仮宮)を造営して元服式まで執り行ない、彼を錦の御旗とすることに利用します。義仲に北陸の穀倉地帯を押さえられることを危惧した平家は平清盛の甥、通...歴史紀行81‐4平家終焉の地平宗盛公胴塚4

  • 歴史 今日の出来事 1651年 9月7日(慶安4年7月23日) 慶安の変〜江戸幕府転覆計画発覚

    兵学者由井正雪像1651年9月7日〜慶安4年7月23日慶安の変〜江戸幕府転覆計画が発覚1651年(慶安4年7月23日)-慶安の変。兵学者・由井正雪らの幕府顛覆計画が発覚1651年、慶安4年、江戸幕府による武家政権も3代将軍〜徳川家光の政権が終わりを迎えようとしていた頃、兵学者由井正雪を中心とした幕府転覆計画が露見しました。徳川家が武家政権の頂点となる流れを築いた関ヶ原の戦い、大坂の陣を経て、敗れた大名は滅亡、改易となり、大名家に仕えた家臣らは浪人となり、召し抱えの機会も2代将軍〜秀忠、家光の治世下では先細りとなり、彼らにより引き起こされる犯罪が社会問題となりつつありました。正雪は父が豊臣秀吉の出身地である尾張、中村郷の出で、その縁から大坂、天満橋での染物業を営みましたが、関ヶ原の戦いで石田三成に徴発されて...歴史今日の出来事1651年9月7日(慶安4年7月23日)慶安の変〜江戸幕府転覆計画発覚

  • ZARD 35周年記念アルバム

    1991年2月21日に〜Goodbyemyloneliness〜でシングルリリースしてデビューした音楽ユニット【ZARD】93年に国民的応援歌となった【負けないで】は、ZARDの名を大きく知らしめました。来年、デビュー35周年を迎えるZARDの記念アルバムが製作されることとなり、リクエストを募集することになったそうです。ヴォーカルの坂井泉水さんは2007年に逝去していて新たな活動というものは、在りし日の坂井泉水さんの歌唱シーンを展開しての楽曲ライブが中心でした。ZARD35周年記念アルバム

  • 歴史めぐり 街物語 5 ‐ 7 静岡県 浜松市 7

    井伊氏発祥の地、初代共保公誕生の地静岡県浜松市北区引佐町井伊谷2017年に放送されたNHK大河ドラマ、【おんな城主直虎】で主人公の井伊直虎が度々訪れる場所のひとつが井伊氏発祥の地方である共保公誕生の井戸です。ドラマでは、鬱蒼(うっそう)とした森の中にある井戸でしたが、現在までに伝わる井伊氏発祥の井戸は、拓けた田んぼの中にあります。西暦の1000年代の平安時代半ば頃、ちょうど現在、放送中のNHK大河ドラマ〜光る君へ〜と同時代です。藤原鎌足の12代目の子孫、藤原備中守共資(ふじわらのびっちゅうのかみともすけ)は、遠江守として遠江、井伊地方(現在の静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)に赴任してきました。1010年寛弘7年の元旦、共資は、領民の安寧を祈願すべく、土地の古社渭伊(いい)神社に参拝した帰りに、古井戸に赤ん坊...歴史めぐり街物語5‐7静岡県浜松市7

  • 今日いち-2024年9月5日

    健康診断に引っかかり、再検査。病院へ行くだけで血圧上がります。今日いち-2024年9月5日

  • 思い出フォト 136 2016年 9月 甲斐の国

    2016年9月、東海道線から身延線へ乗り継ぎ、甲斐の国めぐりに出ました。武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)に建つ武田神社西光院武田信玄公正室〜三条夫人墓所武田信玄公墓所河尻塚武田滅亡後に入府した信長家臣の河尻秀隆でしたが、本能寺の変の後に状況は一変します。信長による苛烈な寺社の処分や武田遺臣狩りによる恨みは河尻に向けられ、甲斐国の情報を探っていて危機を知らせようとした徳川家康が家臣を派遣すると河尻は疑心暗鬼になり殺害したことが明らかになると、密かに逼塞していた武田遺臣が乱入して河尻を殺害、穴に遺体を逆さに放り込んだとも言われます。大泉寺本堂武田信虎公(武田信玄公父君)墓所甲府城甲府城鉄(くろがね)門稲荷櫓武田信玄公像思い出フォト1362016年9月甲斐の国

  • 歴史 今日の出来事 建仁3年 9月2日(1203年10月7日) 比企の乱 勃発。

    比企一族の墓神奈川県鎌倉市大町妙本寺建仁3年9月2日(1203年10月7日)比企一族の乱〜比企一族滅亡建久10年1月13日(1199年2月9日)鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の落馬からの呆気ない死去により、2代将軍に擁立されたのが頼朝の嫡子頼家でした。頼朝の正妻、北条政子と岳父北条時政父子が早くから打倒平家のもと頼朝に賭け、宿願を果たし以来、盤石かと思われた鎌倉幕府も、頼朝の乳母、そして頼家の乳母父を務めた外戚の比企能員率いる一族が頼朝の死後、頼家が将軍となったことで北条氏を超える権勢を拡大しました。建仁3年7月将軍頼家が急な病で意識混濁状態となると、次期将軍家継承の合議がなされ、頼家の弟、千幡に関西の地頭職を継承。頼家の嫡子、一幡に関東の地頭職を継承させることが決まりましたが、これに比企能員が激怒し、頼家の側...歴史今日の出来事建仁3年9月2日(1203年10月7日)比企の乱勃発。

  • 歴史 今日の出来事 1923年 大正12年 9月1日 関東大震災 発生

    関東大震災東京大空襲慰霊碑東京都港区台場1丁目1923年大正12年9月1日午前11時58分、日本が政治、経済、社会と緩やかながらも発展して来た大正デモクラシーと呼ばれる動きを根底から突き崩す大地震がこの日発生しました。相模湾北西部を震源とする地震の規模を示すマグニチュード7.9と推定される関東大地震が発生しました。この地震は震源域に近い神奈川県はもとより、東京都、埼玉県、千葉県、山梨県で震度6を観測し、北海道道南部から中国・四国地方にかけての広い範囲でも震度5から震度1を観測し、10万棟を超える家屋を倒潰させました。最も甚大な被害をもたらしたのは首都東京で、地震発生が昼食の時間と重なったことから、台所から多くの火災が発生し、街中で大規模な延焼火災に拡大しました。さらに街中から上がった火柱から火災旋風を巻き...歴史今日の出来事1923年大正12年9月1日関東大震災発生

  • 今日いち-2024年9月1日

    昨日、夜7時のニュースで、河川氾濫の恐れを報じられた静岡県の1級河川の菊川です。まだ安心はできませんが、水位はかなり下がりました。今日いち-2024年9月1日

  • 歴史紀行 81 ‐ 3 平家終焉の地 平 宗盛公 胴塚 3

    平宗盛公胴塚滋賀県野洲市大篠原1181年治承五年三月、平清盛の病没の翌月、宗盛は頼朝、義仲に次いで挙兵した頼朝、義仲の叔父、源行家を討つべく弟の重衡を派遣。美濃墨俣川の戦いで源行家の軍勢を打ち破るも、行家を討ち漏らして三河まで追撃し二度に渡る合戦に勝利するも結局は行家を鎌倉へと取り逃がします。この時期、頼朝は飢饉の対策ということもあり、富士川の戦いで平家軍を追い払った後はあえて軍勢を動員する様な上洛は急がず、堅実に関東での経営に専念していました。平家の主だった軍勢が美濃、尾張、三河へと行家を追撃していた頃、信濃で挙兵していた木曽義仲は瞬く間に信濃を抑え、北関東へ進出した後は頼朝との衝突を避けて西へ転進し、越後の平家方、城長茂を横田河原の戦いで破り、北陸へ進出する足掛かりを掴みます。平家方、城長茂の3倍もの...歴史紀行81‐3平家終焉の地平宗盛公胴塚3

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