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  • 平凡なことに価値を見出すという特別

    朝から晩まで、面白味のない些末な用事ばかりしていると、自分に能力があるという実感が持てない。カーペットに掃除機をかけるのは、誰でもできる。祖国のために生命を捧げた兵士ならば、御影石の記念碑に名前のひとつでも刻んでもらえるだろう。だが家事はそうではない。家庭内を平穏に保ったからといって、ノーベル賞がもらえるわけでもない。母親が文句ばかり言うのは、自分のやっていることを認めてもらいたいのに、きちんと評価されないからだ。 アラン・ピーズ&バーバラ・ピーズ『嘘つき男と泣き虫女』 私たちは平凡で誰もができるようなことには価値を見出さず、特別で誰もできないようなことに価値を見出す。 何かと何かを比べて、そ…

  • 最近購入した整えアイテム4選

    最近購入した整えアイテムは以下のとおり。 1|玄米 我が家の主食。 栄養満点の万能食。 個人的には精米して貴重な栄養素を削ぎ落とした白米を食べることの方がもったいないと思ってしまう。 今回は別の玄米を購入。 食べるのが楽しみだ。 (まぁ、舌馬鹿の私に違いはわからないだろうが…) (function(b,c,f,g,a,d,e){b.MoshimoAffiliateObject=a;b[a]=b[a] function(){arguments.currentScript=c.currentScript c.scripts[c.scripts.length-2];(b[a].q=b[a].q …

  • 薄っぺらさの根源

    言葉というのは概念でありパターンです。目の前に美しい花がある。そして、その花と同じ色・形のものは、この世に一つとしてない。つまり、私たちが出会う花というのは、まさしく字義通りに「一期一会」なわけですね。 ところが、その美しい花は、一瞬で十把 ひとからげに「菫=すみれ」という抽象概念に置き換わって認識され、処理されてしまう。その過程で「花の形や色の美しい感じ」を受け止める感性は駆動されません。だから「言葉の邪魔の入らぬ花の美しい感じ」を持ち続けることが大事なのです。 山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』 私たちは自称大人として自分は絶対に正しいというところに立ち、おいどんは他人…

  • 日常生活というシステム

    「誠実性」のコンピテンシーを高い水準で発揮している人は、外部から与えられたルールや規則ではなく、自分の中にある基準に照らして、難しい判断をしています。この基準が長期にわたってブレない、一種の判断軸になっているわけです。 自分なりの「美意識」を持ち、その美意識に照らして、システムを批判的に見ることでしか、私たちは「悪」から遠ざかるすべは無いのです。 一方で、システムから排除されてしまえば、社会的な成功を収める事は難しい。ここに私たちが向き合っている大変難しい問題があります。 山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』 洋の東西を問わず、私たちが必ず組み込まれている最小限のシステムとい…

  • オウム真理教のように

    「生産性」だけが問われ、人望や美意識は問われない、 ということです。 こういったわかりやすい階層性、どうすれば上に行けるのかが、明確なシステムは、前述したオウム真理教の仕組みと非常に類似しているんですね。 わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位を上がっていくという時、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「有り様」について、システム内の評価とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる、ということです。 山口周『…

  • 「いかに価値のある人間として見られるか」だけの日々

    現代社会における消費というのは、最終的に自己実現的消費に行き着かざるを得ないということであり、それはつまりすべての消費されるモノやサービスは、ファッション的側面で競争せざるを得ないということです。 このような側面から考えてみると、私たちはもはやアップルという会社をIT企業と捉えるよりも、ファッションの会社だと考えた方が良いのかもしれません。 なぜなら、アップルが提供している最も大きな価値は「アップル製品を使っている私」という自己実現欲求の充足であり、さらには「アップルを使っているあの人は、そのような人だ」という記号だからです。 山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』 私たちはも…

  • 最近変えて良かったこと2選

    最近変えて良かったことは以下の2点。 1|休日の昼飯をすっきりさせた 仕事がある日の昼食は、玄米おにぎり1個と味噌汁(スープジャー)のみ、という軽いものにしているのだけれど、休日の昼食は玄米と野菜たっぷり味噌汁(丼1杯分)とスクランブルエッグ(卵3個分)という量もそれなりだし、調理時間もそれなりのものだった。 それを休日の昼食も仕事の日の昼食と同様に軽いものにしてみた。 玄米、生卵、納豆を丼に放り込み、豆腐かもずくを添える。 それだけでやんす。 調理器具は不要。 調理時間は短い。 洗い物も少ない。 健康的。うまい。 休日は昼食前に運動をして、運動後はプロテインを飲むし、朝にサプリで栄養補給をし…

  • 大事なものを大事にするだけや

    よく「選択と集中」ということが言われますが、これは同語反復=トートロジーです。選択したものに集中するのは当たり前のことでわざわざ言うまでもない。大事なのは「選択と捨像」、つまり「選択」したら、後は「捨てる」ということです。 一言で言えば「エッセンスをすくいとって、後は切り捨てる」ということです。 山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』 エッセンスというは「本質的なもの」「大事なもの」という意味だ。 それが大事なものかどうかを見極めて、そうでなければ切り捨てる。 切り捨てるというのは、それらを傷つけるとか否定するとかそういうネガティブなことではなく、時間と労力と時間を単に割かない…

  • 似たり寄ったりの幸福のリズム

    私は、今後の社会をより良いものにしていくためには、ごく日常的な日々の営みに対しても「作品を作っている」という構えで接することが必要なのではないかと思っています。 山口周『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』 「作品」と言うには及ばないのだけれど、自分にとっての良い感じの1日のリズム、良い感じの1週間のリズム、良い感じの1ヶ月のリズム、良い感じの1年のリズムみたいな感じのニュアンス的な雰囲気のものを保てているとすごく気持ちが良い。 そして良い感じのリズムを刻むために効果的な軸というのが、「大事にする」「整える」というものだ。 この世には色んなもので溢れかえっているのだけれど、大事なもの…

  • いつもの休日としてのゴールデンウィークだった

    連休中はいつもの休日ルーティンで終了した。 家事 運動 読書(インプット) 瞑想 情報発信(アウトプット) これらは特に金もかからなければ、特別な資格もいらなければ、特別な環境もいらない。 一人でできるし誰でもどこでも何歳からでもできる。 正直、これらだけで心身が整い、部屋が整い、日常生活が整い何とも言えない充実感がある。 よって、何かウキウキ・ワクワク・ドキドキ・ハラハラするような何か、つまり非日常的な時間や場所やものや人を求める必要性をあまり感じなくなってくる。 (だからといって他人や非日常が不要と言いたいのではない。他人と過ごせる機会、非日常を楽しめる機会があったら存分に楽しめばいいと思…

  • 理性的・科学的であるということは寛容であるということ

    (小林秀雄は)「迷信」というと、非科学的、非論理的なものと考えられてしまっているが、そんなおかしい話はなく、むしろそれは全く逆であり、非科学的、非論理的なものを迷信と決めつける方こそが科学主義という迷信だ、と喝破したのでした。私はこれに深く同意します。ついわれわれは理性的=論理的としがちですが、そうとも言えない。迷信と言われる物語や現象も、理性がまっとうなら、それもあるかもしれないと謙虚に考えるはずです。自分は自分の見たいようにしか見ることができず、それ以外の可能性も否定できないものなのだから。 つまり、理性とは持って生まれた精神のまっとうな働きであり、感性と対比させられるような「理性=論理」…

  • 連休中はものでも捨てようかしらん

    この世に、果てはなく、同意にて、この自分に果てはないのだから、「自分以外」というものは無く、なんだか素晴らしいものが他所からやってくる、別の場所から降りてくるなどはあり得ません。 このような物言いだとあまりに味気ないですが、すべてが自分にあるとは、問いもその答えも、すべてすでに自己に有していることになります。 宮野公樹『問いの立て方』 自分はありのままに世界を捉えていない。 必ず自分の心のフィルターなり、自分の思い込みなり、自分の考えを通して物事を捉えている。 一人ひとりはこの世にあるものだけではなく、この世にないものも想像し捉えている。 ということは自分が今見ているもの、聞いているもの、嗅い…

  • 「勝ち」とか「上」とか

    わが国の競争力が低下しているとか、このままでは他国に引き離されるとか言う言説が当たり前のようになっていますが、何がどうなったら競争力が上がったとか下がったとかいうのですか、どうなれば勝ちでどうなれば負けなのですか。暮らしが豊かになるとはどういうことですか? 遠い国の病気1つで、たくさんの会社が潰れたり路頭に迷う人がたくさんになるようなシステムのどこが豊かですか。つまるところ、本書で言うように、全ては精神の働きなのに、勝つべき!と叫ぶ者が、勝ちを知らず(考えず)、生きるとは何かを知らず(考えず)、一体何を生きていることになるのでしょうか。 宮野公樹『問いの立て方』 人に勝ちたい、人の上に立ちたい…

  • 自分にだけ見えている世界

    生きるとは、白色の世界を塗る営みだと認めるなら、それは、自分の問いの深さ、懐疑がいかほどのものか、それがそのままその人の人生、生き様となります。その問いが充分深ければ、すなわち本質的であるなら、それは常識的に生きる人を深く納得させることになり、あるいは納得されなくても何かを感じさせるものになるでしょう。人の生き方に正しいも間違いもないのは、 そして勝ちも負けもないのは、あまりに常識。先に、本分であるなら、偏りも然りと書きましたが、それはこの理由によります。 宮野公樹『問いの立て方』 私たちは白色の世界を自分の心のフィルターの色を通して見ていて、その色を現実だと思っている。まぁ実際にそう見える世…

  • ものを捨てて坐布を買った

    先日、座椅子とローテーブルを捨てた。 私の部屋には別に机と椅子がすでにあって、座椅子は瞑想するため、ローテーブルはちょっとしたものを置くためにしか使っていなかった。 ふと、あまり使っていなのだからもう捨てても良いのかもしれないと思って捨てたら、無論オムロン、部屋の中がより一層すっきりした、部屋がより広くなった。 これで部屋の中は、布団、机、椅子、懸垂マシン、ゴミ箱だけになった。 それ以外のものはクローゼット内にしまわれている。 諸行無常の理によって、ある時は使っていたものがある時にはもう使われなくなっていく。それは自分の変化を表し、その変化に応じて使っていないものを手放していくと、自分と現実=…

  • 自分なりの「良い」のままで大丈夫か

    ソクラテスの言うように、我々は絶対に「よい」と思った行動しかできません、たとえそれが犯罪であろうと、です。であれば、その自分の「よい」を疑ってみる以外に「よくあろう」とすることはできません。そして誰しもがそういう同じ人間であるという地点に立てば、安易に誰かを批判することはできないでしょう。 宮野公樹『問いの立て方』 およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えているものは、ほとんどいないそうだ。自分は一般の善良な市民と少しも変わらないと思っており、あくまでも自分の行為を正しいと信じている。 デール・カーネギー『人を動かす』 私たちは自分のことを正しい人間だと思い込み、その大前提の下、自分が良いと…

  • 好き嫌いの理由

    我々は我々自身の好き嫌いに関心を払っていません。「これ! 」と決めたことは「自分が自分で決めたのだから」と言って、そこで思考停止している場合も多い。物的であれ、心的であれ、その理由について徹底的に考えてみるのは、無駄になるはずもありません。 宮野公樹『問いの立て方』 私たちは「自分はこういう人間だ」というセルフイッメージを自ら作り出し、そのイッメージを自分だと思っている。 自分は正しい人間だ 自分は清らかな人間だ 自分は善良な人間だ 自分は正常な人間だ 自分はちゃんとした人間だ 自分は強い人間だ 自分は優秀な人間だ 自分はおしゃれな人間だ 自分はイケてる人間だ 要するに「自分は価値のある人間だ…

  • 投資の心得:私はお金ではない

    私は定額預金感覚でインデックス投資をやっているのだけれど、先日月に一度の資産チェックをしたところ、トランプ先輩がハッスルしているみたいで先月よりだいぶ資産が減っていた。 それでも普通に預金をしているよりは遥かにプラスになっているため、どの期間で見るのかで感じ方は色々と変わってくるだろうと思う。 私はデイトレーダーのように画面にかじりつき、自分の資産が今どう変動しているのかということを逐一確認することはないのだけれど、月に一度確認するだけでも、お金の価値というのは変動するものなんだなーという至極当たり前のことをしみじみと実感する。 お金の価値というのはまじで諸行無常。 トランプ先輩の一挙手一投足…

  • 自分と世界は同一という大前提

    自分の見方でしか世界が見られないとのだとしたら、世界は自分の内側にあることとなります。そう考えることで瞬く間に自分と世界は同一となり、同意にて、自分というものが無くなってしまう、なぜなら、自分が思うこと、考えることが「世界そのもの」なのですから、こんな嬉しいことがあった、こんな不都合が生じた、あんな歴史的快挙を目の当たりにした、あんな悲しい出来事が起こった……。さまざまな出来事は、自分の外にあることなのに、考え詰めるとそれは、すべては自分が(自分なりに)思うことで、自分の内に存在することだった……という矛盾です。 宮野公樹『問いの立て方』 自分にとっての全ては必ず自分なりの色付けがされている。…

  • 快楽と中毒としての他責

    つい我々は目に見える問題、ーー 言うなら分かりやすい問題ーーを問題とし、その不都合を好都合に変えようと考え、意見し、行動しています。枝葉の問題であり、それらは目に見えにくいより根本的な幹あるいは根における問題の派生です。ある問題を解決したところで、その根本問題の方を扱わないことには、次から次にまた別の問題が生じると言うことになります。 そもそもの在り方があらゆることの根本にあり、それが変わらない限り我々の暮らしも本質的には変わりようがない……。 宮野公樹『問いの立て方』 日々をヘラヘラしながら過ごしていると、どうしてこの人はこんな些末な問題を大きく捉えて騒いでいるのだろうと思うことが時々ある。…

  • いかに多くのもので自分を定義するか、という発想

    実験や調査に先立ってその根底にあるような、何をやるか、なぜやるか、やったら何なのか、そしてそれは何をやっていることになるのか、といった考え。いうならこの世界そしてこの人生の「解釈」を突き詰める行為は、そこに虚無と対峙する自分の全存在がかかっており、何よりも一番辛く難しい。 いずれ無になることに対する構え、その精神性の高さ、深さを持って生きよう(考えよう)、と考えているだけです。 宮野公樹『問いの立て方』 私たちが日々当たり前のように重視していることの1つに「いかに多くのお金を手に入れるか」というものがある。 無論オムロン、お金は日々生きていく上で大切で、お金を稼ぐこと自体を否定するつもりは全く…

  • 家事で疲れを取る

    ここ最近残業三昧の日々が続いている。 2年前に組んだ仕組みが功を奏して昨年度は残業が激減していたのだけれど、業務システムが変わり再度仕組みを組み直さなければならなくなった。これまでシステムの使い方がわかっていた人も、何をどうすれば良いかのわからなくなってしまった。 さらに新人さんも加わり、新人さんに諸々の業務を全振りすることもできず、物理的に業務時間内では終わらず、自然と残業三昧になってしまっている。 これはこれで仕方がない。 仕組みが整い、新人が育ってくれば、私の負担は減っていき、残業三昧も解消されていくのだから時間の問題だ。 とは言っても、残業ばかりしていると疲れが溜まってくる。 そんな時…

  • 最近購入した整えアイテム

    最近購入した整えアイテムは以下のとおり。 1|亜麻仁油 最近、山田豊文氏の書かれた『細胞から元気になる食事』という本を読んで、その中で亜麻仁油が「人を治す油」として紹介されていた。 亜麻仁油というのは以下の「よい食べ物の5つの条件」を全て満たすとのこと。(1)有害物質を含んでいないもの (2)食性にかなったもの (3)酵素が”生きている”もの (4)栄養バランスがよいもの (5)消化に負担をかけないもの それでまぁ試してみようかしらんと思ったわけだ。 自分の体を直接的に大事にできるのは自分しかいないからな。 毎朝小さじ1杯を飲むようにしている。 味も全然クセがなく飲みやすい。 今後も朝の習慣と…

  • 自分は思っている以上にグラデーション

    善があるから悪がある。生があるから死がある。裏側から見れば、悪があるから善があり、死があるから生がある。我々の根っこにあるのは、何も確実な事実ではなく、こんなに両義的なものなのです。そして、それが人間が意識を持った有史以来の普遍であり、単純な真理の「形式」です。 宮野公樹『問いの立て方』 善と悪は表裏一体で、生と死も表裏一体。 善だけのものもなければ悪だけのものもなく、生だけのものもなければ死だけのものもない。 これは善悪や生死だけにとどまらず、何かが一面的であるということは絶対にない。 全てのものは両義的、多義的、多面的、グラデーション、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気である、というのが真…

  • バラバラな世界でアッパラッパラッパー

    世の中にはさまざまな驚くべきことがありますが、それを驚いている自分がいること、自分が生きているという最も当たり前のこと、この「私」こそが最も驚嘆に値する事実なのです。世界に驚いているのではなく、世界が在ることに驚いているのです。 宮野公樹『問いの立て方』 私自身が自らつくり出した自分自身しか認識できないこの私の心の世界は、毎朝ビッグバンによって生じるといえるでしょう。なぜなら、目覚めた瞬間、時空なき深い眠りから一気に、この時間と空間から成り立つ広大な世界が現出するからです。これは私が毎朝経験する具体的事実です。 横山紘一『唯識の思想』 私たちはみんなが同じ世界を生きていると思い込んでいるのだけ…

  • 人よりも上になりたい理由

    おれが、わたしがといって、人の上に出ることを人びとは好む。そうしなければ、自分がつぶされてしまうと考える人もいる。たといそうでなくても、自分の存在を人に知ってほしいと望む人は多い。みな、自分というものにとらわれて、競い争うのを当然と心得ているのである。さらりと無私になって、ものやわらかく弱々しく、人にへりくだって自然に生きていく。周囲に融け込んで流れていくのである。そこから、ものごとの本質がみえてくる。そして、あくせくと進歩を求めて争うことが、いかに愚かな無意味なことかがわかってくるのである。 金谷治『老子』 人よりも上でないと潰されてしまう。 自分の存在を知ってほしい。 ここには人から粗末に…

  • 「競争に明け暮れている」ということはどういうことなのかしらん

    人びとは眼前のことにとらわれて、他人をおしのけて先へ先へと急ぐ。何を求めて争うのか、何を進歩と考えているのか。その求めているものが、本当に求めるだけの価値があるのか。進歩と考えているものが、本当に進歩であって人びとの幸福に連なるものなのか。そうした反省を怠って、ただ時代の価値観に動かされて、がむしゃらにあくせくと動きまわっている。不安と焦燥にかられ、肉体は疲れ、自分が不幸であるばかりか、他人をも不幸におとしいれ、そして苦しみのなかで無意味に死んでいく。 金谷治『老子』 日々を競争に明け暮れているということはどういうことなのかしらん。 自分の方が上なんだということを常にアッピールし、証明しようと…

  • 勝手な判断の中という世界

    人びとはその時その時の現象をつかまえて、かってな判断をしているだけである。 「わかる」は「分かる」であり、分けて切り取ったものである。そうした認識は自然のあるがままの実相から遠いといわなければならないが、それにもかかわらず人びとはそれを絶対的なものと考えて、一喜一憂をくりかえす。世界の混乱はここから出てくるのだと、老子は考える。 金谷治『老子』 私たちは自分は正しいという大前提に立ち、自分は物事をありのままに見ている、物事は自分が見ているとおりにある、と思い込み、勝手な判断をしている。 そうした勝手な判断を絶対的なもので考えて一喜一憂し、その判断通りに物事が進まなかった時、それでも自分は正しい…

  • 「足る」を知れない理由

    さかしらの知恵と欲望に責めたてられて、外に向かって駆け出すところに、人間の不幸が生まれるのだ。己れ自身をふりかえって、己の持ち物を吟味するなら、すでにそこにじゅうぶん満足すべきもののあることが、発見できるであろう。 金谷治『老子』 この「さかしらの知恵」というのは、自分はこんなに価値のある人間なんだということを他人に証明するために努力しようとする種類の知恵のことだ。 自分が自分を大事にしようとするのではなく、自分の価値を他人に証明し、他人を引きつけ、その他人から大事にしてもらおうとする。 他人を引きつけるためには「価値のある自分像」の形成が不可欠であると思い、「価値のある自分像」の下支えとなる…

  • 自分の中の政治体制

    威勢による厳罰よりも、人民が安住して人生を楽しんでゆけるようにするのが、為政者の務めである。 自分の食べ物をうまいと思い、自分の着物を立派だと思い、自分の住まいに落ち着いて、自分の習慣を楽しむようにさせたなら、隣の国は向こうに見えていて、その鶏や犬のなき声も聞こえてくるような状況でありながら、人民は老いて死ぬまでたがいに往来することもないであろう。 金谷治『老子』 政治というのは何も政治家がだけが行うものではないし、また国家経営だけが政治だとは限らない。 自分が自分自身をどのように治めて行くかというのも立派な政治と考えると、やはり老子先輩の政治論も傾聴に値する。 自分が自分自身に対する為政者で…

  • 最近購入した整えアイテム3選

    最近購入した整えアイテムは以下のとおり。 1|玄米 白米というのは玄米から色々ものを削ぎ落としたもので、つまりそれは玄米の方が栄養豊富ということになる。 特に白米にこだわりのない私のとって、だったら玄米のほうが良かろうもん、ということで私の主食はここ数年玄米になっている。 玄米は白米よりも食物繊維が豊富で、そのおかげもあって毎日快便だ。 玄米5キロを扱っている店が近くにないし、家まで配達してくれるのでとても助かるぜ。 そして普通にうまい。 2|鼻うがいセット 先日友人と会った時に「鼻うがい」をすすめてもらった。 友人は花粉症と蓄膿症も持っているため鼻うがいを始めてみたとという。 そして気持ちが…

  • 「責めたら不安が生じて自分が苦しむ」という原理・原則

    そもそも死刑をつかさどるものに代わって、かってな判断で殺したりするのは、これは大工の名人に代わって木を削ることだ。いったい、大工の名人に代わって木を削ったりすると、自分の手を傷つけないですむことはまずないであろう。 金谷治『老子』 この世の原理・原則として「責めたら不安が生じて自分が苦しむ」というものがある。 私たちには物事を善と悪に分ける傾向がある。 さらに私たちは悪を責めたて罰すれば悪は消えてきれいな世界が生まれるという根本的な思想も持っている。 この根本的な傾向と思想に基づき、私たちは悪だと決めつけた人に敵意を抱き、バチクソに責め立て、罰しようとする。 まずこのような懲罰思想はこれまでの…

  • 「わかる」という固定化

    自分でよくわかっていても、まだじゅうぶんにはわかっていないと考えるのが、最も良いことである。わかっていないくせに、よくわかっていると考えているのが、人としての短所である。(そもそも、自分の短所を短所として自覚するからこそ、短所もなくなるのだ)。聖人に短所がないのは、彼がその短所を短所として自覚しているからで、だからこそ、短所がないのだ。 わかったと思うことは、そう思うことによってすでに1つの陥穽となるのだ。ほんとうにはっきりわかったといえるのかどうか、そのわかったように思えることを、さらに懐疑して吟味してゆく必要がある。それが知を捨てて自らを洗い上げていく過程でもある。 金谷治『老子』 何かを…

  • 平凡は重要

    安定しているうちはそれを維持しやすい。 兆しのあらわれないうちはそれを処置しやすい。 もろいうちはそれを溶かしやすい。 かすかなうちはそれを消しやすい。 だから、まだなんでもないあいだに問題を処理し、まだ混乱にならないうちに事態を秩序づけておくことだ。 ものごとは大事に至らない微小なあいだにうまく処理すべきである。 金谷治『老子』 物事は放っておくと乱れていく。 汚れていく、埃がたまっていく、カビが生えてくる、疎遠になっていく、ゴミがたまっていく、淀んでくる、問題が起きてくる。 だから乱れたらその乱れが小さいうちに整えてあげる。 すると楽勝で対処することができるので、大事になることはない。 ま…

  • 寂しいから特別なものをかき集めようとする説

    何もしないことをわがふるまいとし、かくべつの事もないのをわが仕事とし、味のないものを味わってゆく。 小さいものを大きいとして大切にし、少ないものを多いとして慎重に扱い、怨みごとに対して恩恵でむくいる。 むつかしいことは、それがまだやさしいうちによく考え、大きなことは、それがまだ小さいうちにうまく処理する。世界の難問題も、必ずやさしいなんでもないことから起こり、世界の大事件も、必ず小さなちょっとしたことから起こるものだ。それゆえ、聖人は決して大きなことをしたりはしない。だからこそ、その大きなことを成しとげられるのだ。 金谷治『老子』 私たち自称大人は、何か目立ったことをすることを自分の振る舞いと…

  • つい固定してしまって苦しむ

    災禍(わざわい)があればそこに幸運(さいわい)もよりそっており、幸運があればそこに災禍もかくれている。この循環のゆきつく果はだれにもわからない。そもそもまともな基準はないのであろうか。まともなことがひっくりかえって型やぶりに変わり、りっぱなことがひっくりかえって妖しげなことに変わる。実はそこに真相があるのだが、人びとがそれに気づかないで迷いつづけていることは、もう古いむかしからのことだ。おおらかなぼんやりした政治のよいことは、これでわかるだろう。 それゆえ、「道」を体得した聖人は、方正とはいってもそれによって人をさばいたりせず、廉潔とはいってもそれによって人を傷つけたりはせず、まっすぐとはいっ…

  • 根本中の根本|心を大事にする

    外に出かけることが遠ければ遠いほど、知ることはますます少なくなっていくものだ。それゆえ「道」と一体になった聖人は出歩かないですべてを知り、見ないでいてすべてをはっきりとわきまえ、何もしないですべてを成しとげる。 足もとよりも、さらに自分の内を見よ。外に向かって見開いた眼を逆に内に転じて、わが心の奥底を凝視せよ。そこに一切は備わる。 金谷治『老子』 人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件付けされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分…

  • 「囚われている」ということ

    人びとは名誉や財産の欲にとらわれてわが身のことを忘れ、名誉や財産の獲得を喜んでわが身をそこなう害を知らないでいる。それゆえ、欲をとげようとして極端なものおしみをしていると、必ず大きな浪費(むだづかい)をすることになり、あまりにもたくさんの貯蔵(たくわえ)をしていると、必ず大きな損失をこうむることになる。 金谷治『老子』 私たちはガチのムチで名誉や財産の欲に囚われている。 この囚われているということはどういうことかというと、名誉や財産によって自分の価値が決まると思い込んでいるということになる。 名誉や財産のある自分は価値があり大事。 名誉や財産のない自分は価値がなく大事ではない。 名誉や財産には…

  • 息を吸うようにやってしまっている大きな勘違い

    たびたびの栄誉を求めて高貴になろうとするのは、かえって栄誉を失うことになるのだ。りっぱな宝玉のようなありかたも、つまらない石ころのようなありかたも、どちらも望むことではない。根源の「一」を獲得してそこに落ちつくことだ。 金谷治『老子』 私たちが息を吸うようにやってしまっている大きな勘違いの1つに、自分の価値は自分ではないもので定義できるというものがある。 立派な宝玉を手に入れることができれば自分には価値がある。 つまらない石ころをしか手に入れられなければ自分には価値がない。 宝玉や石ころで自分の価値が決まると思ってしまう思考パッターン。 本来自分ではないもので自分の価値が決まると思ってしまう思…

  • 自分を大事にする時に大事にしてしまっているもの

    「徳」のじゅうぶんな人は、ことさらなしわざをしない「無為」の立場を守っていて、何かをしたという跡を残さない。 金谷治『老子』 「徳」というのは大事にする習慣という意味だと思うのだけれど、自分が自分を大事にしていれば、「ことさらなしわざ」をいちいちする必要がない。 私たちが自分を大事にしようとする時に大事にしてしまうのは人から見た自分のイッメージで、実際の自分ではない。 ちゃんとしている自分 一人前の自分 善良な自分 優秀な自分 清廉潔白な自分 正常な自分 金持ちの自分 綺麗な自分 かっこいい自分 強い自分 賢い自分 というようなイッメージを大事にして、他人からイッメージ通りの価値のある人間とし…

  • やっぱり内側の習慣を変えていくしかないわ

    「足るを知る」ことの大切なことは、われわれにもわかる。ただ、それでは消極的だと考えて、やはり財産をいっぱいに積みあげようといつまでもあくせくとするのが、凡人であろう。(中略)目標をもって努力しているそこにこそ、すでに目標は達成されているという。これも、形のうえの完璧を求めて死ぬまでじたばたするのが、凡人であろう。 金谷治『老子』 私たちにとって財産というのは間違いなく生きていく上で大切なものなのだけれど、生きていくのに必要な額以上に財産をかき集め、失うまいと必死になるのは、財産をもってして自分の価値を規定しようとしているからだ。 私は年収〇〇万円だ。 資産額〇〇万円だ。 というようなことを自分…

  • 何かを自分のものにして何をしたいのか

    世界をわがものにしたいと望んで、そのためにいろいろと工作をするが、わたしにはそんなことはとても達成できないことだとわかっている。世界は不可思議な器ものであって、何かをしかけるようなことはできず、またつかまえておけないものである。何かをしかけようとすると、かえってそれを害することになり、つかまえておこうとすると、かえってそれを失うことになるのだ。 金谷治『老子』 私たちは何かを自分のものにしたいと渇望しながら日々生活している。 そうして何かを手に入れて、物事を自分の思い通りにしたいと思っている。 そして物事が思い通りにいかなければ怒り狂う。 あいつのせいだと人を責めるか、こんな自分はだめだと自分…

  • 勝利へのこだわり

    「道」に従うすぐれた人は、勝利をおさめたらそれでやめる。さらに進んで無理に相手をおびやかそうとしたりはしない。勝利を納めても、それを鼻にかけて自慢したりすることがなく、勝利をおさめても、それで傲慢になることがなく、勝利をおさめても、それをやむをえないことであったとする。 金谷治『老子』 私たちは自分のことを価値のある人間として人から見てもらおうとして「勝利」ということにこだわる。 その勝利を根拠にして自分を価値のある人間として定義し、敗者を価値のない人間としてみなし、自慢し見下すことによって自分の価値を感じては悦に浸る。 何かを根拠にして人を見下し優越感を得ることが幸福である勘違いしている、そ…

  • 日々争っていること

    そもそも自分を立てて人と争うということをしない。だから、世界じゅうにかれと争うことのできるものはいないのだ。古人のいわゆる「曲がりくねった役たたずでおれば、身を全うできる」というのは、いかにもでたらめではない。まことに、それでこそ身を全うして完全なままで、生まれ出てきた本源にその身を返せるのだ。 金谷治『老子』 私たちは日々ネバギバの精神で争っているが、何について争っているのかというと、「私はこんなにも価値のある人間なんだ」ということを証明しようとして日々争っている。 これが「自分を立てて」人と争うということだろう。 自分を価値のある人間として定義するための根拠にしようとしているもの、それは力…

  • 自称大人のバランス感覚

    子供の誤った行動のすべてを容認することも、愛のない育て方である。子供を育てるときには、なんらかのかたちで、寛容と非寛容、受容と要求、厳格性と柔軟性の両方が必要となる。相手にたいする、ほとんど神に近い共感を必要とするのである。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは自分のことを正しい人間、善良な人間と定義し、人から正しい人間、善良な人間として見てもらいたいと日々思っているため、自分の間違いや邪悪さを認めることができず、自分の言動の全てを正しいもの、善良なものに変えようとしてしまう。 自分のことを正しい人間、善良な人間と思い込んでいる一方で、私たちは何が正しいことで何が間違ってい…

  • スマホを買い替えた【AQUOS SENSE 9】

    先日スマホを買い替えた。 購入したのはシャープのAQUOS SENSE 9というモデル。 これまでは楽天モバイル契約時にタダでもらったスマホを使っていて、気がついたらOSのサポートが終了して約2年ほどが経過してしまっていた。 スマホ本体はまだまだ使えると思うのだけれど、OSが古すぎているためさすがに買い替えようと思った。 スマホだけではなく、日頃からきちんと使っているものや長く使っているものは、高いものであっても「もう十分に使い切った、さすがにもう買い替えよう」とすんなりと思うことができる。 一方で、日頃からあまり使っていないものは「まだ全然使っていないからもったいない」と思ってしまい、どうし…

  • カルト教団「自分」

    悪は生に対立するものであるとはいえ、悪自体もまたひとつの生のかたちである。われわれが邪悪な人たちを殺すならば、われわれ自身もまた邪悪な人間となる。われわれ自身が殺人者となるのだ。破壊によって悪を処理しようとするならば、結局は、われわれ自身を、肉体的にではないにしても精神的に、破壊する結果となる。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは一人ひとりが「こういう人間でなければならない」というような理想の自分像をもっていて、その理想像に囚われている。 自分のことを理想通りの自分と思い込み、清く正しく善良な人間と思い込み、人を悪として見て、あんなやつはいないほうがいいと人を責め立ててい…

  • 他人を通して自分の悪が見える

    (悪について)疑いの余地のない事実もわずかながらある。そのひとつが、邪悪な人間には自分の邪悪性を他人に投影する性癖があるという事実である。自分自身の罪深さに目を向けることのできない、あるいは目を向けようとしない彼らは、他人の欠点を責めることによってその言い逃れをしようとする。 なぜこれまで精神医学者は、この歴然とした、固定したタイプを見分けることができなかったのだろうか。それは邪悪な人間の身につけている体面の仮面にまどわされ、彼らの「健全性のマスク」にだまされているからである。私の友人のある聖職者は、邪悪性とは「究極の病」だと語っている。健全性を装ってはいるが、邪悪な人間は最も不健康な人間であ…

  • 汚れヒステリー

    邪悪な人間の特性として、他人を道徳的に邪悪であると批判することがあげられる。自身の不完全性を認識できないこうした人間は、他人を非難することによって自分の欠陥の言い逃れをせざるをえない。また、必要とあれば正義の名において他人を破滅させることすらこうした人間はする。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 いつの時代もそうかもしれないが、私たちは「自分は清く正しく善良な人間である」ということをガチムチで信じ、それを大前提にして他人を非難し抽象しようとする。 自分には悪の側面は一切なく、あるとしたらそれは他人にしかない。 私は清く正しく善良な人間、だからこそ本来であれば物事は自分の思い通りに…

  • 自作自演の世界

    国民としてのわれわれは、あまりにも怠惰なために学ぶことをせず、また、あまりにもごう慢なために学ぶ必要すら意識していなかったのである。自分のものの考え方がいかなるものであれ、それが正しい考え方だと信じこみ、それ以上調べてみようともしなかったのである。また、よく考えもせずに、自分のしていることがなんであれ、それが正しいことだと思っていたのである。自分たちは間違ったことをしているのではないか、と真剣に考えることができないほど、われわれは間違っていたのである。われわれの怠惰とナルシシズムが相互に助長しあい、その結果われわれは、それが何を意味するかすら考えもせずに、流血をもって自分たちの意志をベトナム人…

  • 殺生なナルシシズム

    不必要な、明らかに非道徳的な殺しにつながる明白な要因がひとつある。ナルシシズムがそれである。ここでもまたナルシシズムが問題となる。われわれのナルシシズムの現れのひとつとして、自分に似たものよりも自分とは違ったものを殺そうとする強い傾向がある。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 これを私なりに読み替えると以下のようになる。 不必要な、明らかに非道徳的な苦しみにつながる明白な要因がひとつある。ナルシシズムがそれである。ここでもまたナルシシズムが問題となる。われわれのナルシシズムの現れのひとつとして、「価値のある自分像」に似たものよりも「価値のある自分像」とは違ったものを殺そうとする強…

  • 自称大人の節分

    もうすぐ節分、節分と言ったら鬼だ。 部屋中に豆を撒き散らし、恵方巻を食い散らかすのも一興なのだけれど、自称大人であれば鬼との対話を試みて欲しいと思う。 鬼というのは醜いものと思われているのだけれど、鬼というのは罪人を苦しめる存在、悪いものを苦しめようとする存在、つまり、自称大人の私たちが多かれ少なかれ持っている持ち前の懲罰思想、物心と下心がついたときから親しんできた懲罰思想が鬼なのであーる。 つまり鬼は自分の中に厳然といるわけだ。 私たちは自分ありの基準で人を善人と悪人の2つに分ける傾向がある。 善人=正しい人、価値のある人、きれいな人、強い人、優れた人、〇〇ができる人、〇〇を持っている人・・…

  • 余分なもの、よけいなふるまい

    つまさきで背のびをして立つものは、長くは立てない、大股で足をひろげて歩くものは、遠くまでは行けない。自分で自分の才能を見せびらかそうとするものは、かえってその才能が認められず、自分で自分の行動を正しいとするものは、かえってその正しさがあらわれない。自分のしたことを鼻にかけて自慢するものは、何ごとも成功せず、自分の才能を誇って尊大にかまえるものは、長続きしない。 それらのことは、根源的な無為自然の「道」の立場からすると、余分な食べもの、よけいなふるまいというものである。余分な食べもの、よけいなふるまいでは、だれもがそれを嫌うであろう。そこで、「道」をおさめて身につけた人は、そんなことは決してしな…

  • 怒りと理想像

    自分自身を自分自身たらしめているものが、ものの考え方である。もし誰かが私のものの考え方に批判を加えるならば、私はそれを、私自身にたいする批判と考えるはずである。私の意見が間違っていることがわかれば、私自身が間違っていたことになる。私の抱いている完全性という自己像が砕け散ってしまうのである。 われわれは、表面的には、自分が絶対に正しいなどとは言わないようにしているが、心の奥底では、とくに自分が成功し、権力を持っていると思われるときには、自分はつねに正しいと考えてしまう。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは基本的に自分がいかに価値のある人間なのかということを証明するために日々…

  • 日々のいざこざの元凶

    白紙の世界を自分が塗りたいように塗っている事実において、その他人もまた自分が創造した他人であるので、 あの人があのような考えを持つのは、どのような理想を持っているからなのか そして、その理想はあの人が世界をどう見ているからなのか それは自分の見方とどう違うのか そして自分と違うあの見方を持つ人をなぜ私は創ったのか その事実をどう受け止めればいいのか となるでしょう。 宮野公樹『問いの立て方』 「わかる」は「分かる」であり、分けて切り取ったものである。そうした認識は自然のあるがままの実相から遠いといわなければならないが、それにもかかわらず人びとはそれを絶対的なものと考えて、一喜一憂をくりかえす。…

  • 自称善人の私の邪悪性

    強度のナルシシズムにとらわれた(つまり邪悪な)人間は、自己の完全なイメージをおびやかす相手にたいしては、だれかれおかまいなしに攻撃をしかける。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは自分が気に食わない人を悪とみなし、程度の差こそあれ、何らかの形で攻撃してしまう。 その攻撃は実際の言動として表すか表さないかは問わない。 レディー・ガガ並のポーカーフェイスをかましながらも、心の内で気に食わない相手のことを攻撃しているのであれば、それは立派な攻撃になる。 そしてなぜ攻撃してしまうのかというと、相手そのものが悪だからではなく、その相手が自分の完全なイメージを突き崩してくるからだ。 私…

  • 自分の中に住んでいる

    その人その人の個人的な経験から、生まれ落ちた国や地域の時代としての歴史も含め、ありとあらゆる要因が連鎖し、重層化し、密接に相関しながら、その人の考えが形成されている事はあまりに自明のことです。 宮野公樹『問いの立て方』 人は、物事をあるがままに、つまり客観的に見ていると思い込んでいるのが常である。しかし、私たちは世界をあるがままに見ているのではなく、私たちのあるがままに(条件付けされたままに)世界を見ているのだ。物事を説明しようとすると、それは結果的に自分自身、自分の知覚、自分のパラダイムを説明しているにすぎない。そして自分の意見に相手が賛成しないとなれば、すぐにその人が間違っていると思ってし…

  • 失敗した時に実際の自分が見える

    邪悪な個人は、自分の欠陥に光を当てるすべての物あるいはすべての人間を非難し、抹殺しようとすることによって内省や罪の意識を逃れようとする。同様に集団の場合にも、当然、これと同じ悪性のナルシシズムに支配された行動が生じる。 失敗はわれわれの誇りを傷つける。また、傷を負った動物はどう猛になる。健全な有機体組織においては、失敗は内省と自己批判をうながすものとなる。ところが、邪悪な人間は自己批判に耐えることができない。しがって、邪悪な人間がなんらかのかたちで攻撃的になるのは、自分が失敗したときである。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは自分自身のことを実はよくわかっておらず、実際の…

  • 自称成人にならないために

    私たちは、いま生きて目覚めてこの世界の中に住んでいると考えています。しかし、ほんとうに目覚めているのでしょうか。自分が見、聞き、考えるとおりにものごとは存在するのでしょうか。 横山紘一『唯識の思想』 自分の見方でしか世界が見られないとのだとしたら、世界は自分の内側にあることとなります。そう考えることで瞬く間に自分と世界は同一となり、同意にて、自分というものが無くなってしまう、なぜなら、自分が思うこと、考えることが「世界そのもの」なのですから 宮野公樹『問いの立て方』 私たち自称成人は基本的に誤った前提で日々を過ごしている。 自称成人が陥りがちな誤った前提は以下のとおり。 自分は絶対に正しい 自…

  • 平気で人を否定する人たち

    あまり感心しないことであるが、現実に広く見られる集団ナルシシズムのかたちが、「敵をつくる」こと、すなわち「外集団」にたいして憎しみをいだくことである。これは、初めて集団を組むことを学んだ子どもたちにも自然に発生するものである。その集団に所属しない人間は劣った人間か悪い人間、あるいはその両方であるとして見下される。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは息を吸っては吐くように他人にネガティブなレッテルを貼り付ける。 そこには自分は物事をありのままに正確に捉えているという自惚れが大前提としてある。 そして、私たちは他人にネガティブなレッテルを貼り、見下し、否定することによって、お…

  • 「徳」というのは「大事にする習慣」のことなのかもしれない

    徳は得と同じで、わが身に得られて身についたもの。能力であり、そのあらわれとしての恩恵。効果の意味になる。 金谷治『老子』 古代の哲学や思想にはよく「徳が大事どす」というような文言が出てきて、その徳というのは一体何なのかしらんと、具体的にどういうものなのかしらん、と疑問に思っていたのだけれど、この徳というのは「大事にする習慣」なのではないかと最近思い始めてきた。 習慣であるからこそ、身につけることができ、それは能力として発揮され、その習慣や能力はあらゆる方面で恩恵や効果をもたらす。 「大事にする」というのは全ての人が日常生活において実践でき、大事にする習慣は誰もが身に付けることができる。 私たち…

  • 日常の種類

    今日で8連休だった正月休みが終わる。 年末は友人が遊びに来て、非日常的な過ごし方をしたのだけれど、それ以外は至っていつもの休日だった。 基本的に自分を大事にするための家事、運動、読書、執筆、瞑想の日々なのだけれど、すごく良い。 (人は基本的にこれらの営みを通じて自分を大事にできるし、自分が自分を大事にすることによって幸福になれるし、自分を大事にするための営みは、人によって多少の違いはあるかもしれないけれど、驚くほどに極めて平凡で、特別な資格や特別なモノや大金はガチのムチで不要で、誰でもできるのでこのことに気がついて多くの人にやってもらいたいとガチのムチで思う) 今後、諸行無常の理によって病気や…

  • 2025年の心がけ

    暦というのは人間が自分たちの都合の良いように作った便宜上グッズのようなもので、概念上の区切り、共同幻想なのだけれど、それは便利グッズであるが故にやっぱり便利だ。 (私の亡き愛犬に、今日から新年ぜよ!と喚いてもポカンとしていた一方で、散歩に行くぜよ!と喚くと、狂喜乱舞していたのだけれど、やはりこれは所詮暦は人間にとっての共同幻想でしかないということの証左なのかもしれない) 数日前に西暦という共同幻想が2025年に変わった。和暦という共同幻想が令和7年に変わった。 やはり新年になるとどことなく自分自身もリフレッシュされた感じがする。 (これは私自身が暦という概念上の区切りをがっつり取り込んでいるこ…

  • 新年早々から社会が敵に見えている人

    自分についてだけではなく、眼の前にいる「他人」というものについても同様に、なにひとつ知っていないということが事実です。あの人は〇〇さんであり、性格はこのような人で、私は嫌いだ、などと「その人」を知っているように思っていますが、はたしてそうでしょうか。すでに繰り返し述べてきたように、私たち一人ひとりは、一人一宇宙であって、私の外に抜け出すことはできないのですから、私にとっての他人とは私の心の中の影像にしかすぎず、他人そのものを決して知ってはいないのです。憎い、嫌いというのは自分のほうから一方的に付与した思いにすぎないのです。 横山紘一『唯識の思想』 私の知人に社会が敵に見えている人(Aさん)がい…

  • 今年の自分の運命予想

    知恵さかしらは欲望と深く結びついている。欲をとげるためのさかしらは、そのまま大きな虚偽の始まりである。 金谷治『老子』 うそというものは混乱を引き起こすものである。邪悪な人間というのは、他人をだましながら自己欺まんの層を積み重ねていく「虚偽の人々」のことである。 邪悪な人たちがひどく苦しんでいるように「見受けられない」のは事実である。自分自身の弱さや欠陥を認めることのできない彼らは、外見を装わなければならないからである。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 ここでいう欲望というのは仏教で言うところの貪欲だ。 貪欲というのは煩悩の一種で、欲ではない。 (『老子』の中の「欲」も欲望や貪…

  • 今年も繰り返すこと

    ストレスとは善の試金石ともいうべきものである。真の意味で善良な人間とは、ストレス下にあっても自分の高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることのない人のことである。高潔さとは、状況の悪化に反応して退行することなく、苦痛に直面して感覚を鈍らせることなく、苦悩に耐え、しかもそれによって影響を受けることのない能力である、と定義することができるかもしれない。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 真の意味で善良な人間というのは、ストレス下にあっても高潔さ、成熟性、感受性、思いやりを捨て去ることがない人である。 まずはこれは「善のものさし」とする。 自分で自分の心の内側を見つめた際、そのもの…

  • 最近買った整えアイテム

    幸福になるためには、自分にとっての自分の大事さに気がついて、自分が自分を大事にし続ける必要がある。 そして、自分が自分を大事にし続けるために有益なアイテムというものがある。 以下はここ1ヶ月間の間に、私が自分を大事にするために購入した日々の整えアイテムだ。 1|洋服ブラシ 2|ジョギング用ライト 3|パジャマ 1|洋服ブラシ 今年の冬が始まったくらいにオーダーコートなるものを購入した。 値段は張ったけれど、フォーマルなアウターはその一着であり、これから毎年冬になると毎日確実にそのコートを着ることになるので、その価値は十分にある。 使わないものは買わない。 使うものにはちゃんとお金を使う。 これ…

  • 自分とそうでないものの区別

    名誉とか財産とかの大きな心配ごとをたいせつなものとして、わが身と同じように考えているというのは、どういうことか。われわれが大きな心配ごとを持つことになるのは、われわれに身体があってこそのことだ。われわれに身体がないということであれば、われわれに何の心配ごとが起ころうか。してみると、身体こそが根本だとわかるだろう。 栄辱などのことよりも、わが身そのものを何よりもたいせつに考えよというのである。そのように、わが身を大事にして尊重し愛することのできる人こそ、また他人の身をも尊重し愛することができるのであって、そこでそういう人にこそ天下の政治もまかせられるのだという。 金谷治『老子』 私たちは自分自身…

  • 地獄めぐりをどこでしようかしらん

    もし、われわれが、ゴミのなかで生活しているためにゴミにたいする不快感を感じなくなるなるならば、われわれ自身がゴミをまきちらす人間になる可能性がある。自分の苦しみにたいして無感覚になっていれば、他人の苦しみにたいしても無自覚になりがちである。侮辱的な扱いを受けつづけていれば、自分自身の尊厳にたいする感覚を失うだけでなく、他人の尊厳にたいする感覚も失ってしまう。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 何らかの事情によりゴミの中で生活していたとして、どうしてそのゴミを片付けずに、ゴミがある状態に慣れてしまったのかというと、それは自分が自分のことを大事に思えていないからなのではないか。 自分…

  • 人から大事にしてもらえるかどうかという不安

    寵愛をうけるか屈辱をうけるか、人びとはそれにびくびくして不安でいる。それは、名誉とか財産とかいった大きな心配ごとをたいせつなものとして、わが身と同じように考えているからだ。 寵愛と屈辱とにびくびくと不安でいるというのは、どういうことか。寵愛をよいこととし、屈辱を悪いこととして、うまくいくかとびくびくし、だめになるかと不安でいる。それが、寵愛と屈辱とにびくびくと不安でいるということだ。 金谷治『老子』 私たちは人から大事にされたくて日々世間的価値をかき集めることに必死だ。 世間的価値を手に入れることができたら、自分は価値のある人間になれると思い、そうして価値のある人間になったら人から大事にしても…

  • 常にトラブルの渦中にいる人

    先生を困らせるのが面白いんです。いつかもお話したように、私に支配感を感じさせてくれるんです M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 職場でヘラヘラしながら過ごしていると何かしらの問題が起こる。その問題に自分が巻き込まれることもあるし、自分とは何も関係のないところで起こっているものもある。 しかし、多くの問題の渦中にいる人というのがいる。 何かにつけて問題を引き起こしてしまう人、どうでもいいことを問題にしてしまう人というのがいて、ほんまおもろいなー、と思ってしまう。 私たちは人から価値のある人間として認識してもらいたいと思いながら日々を過ごしていて、人から価値のある人間として認識してもら…

  • 賢者たちはどうして「貪り」と「見栄」を諌めるのか

    感覚的な欲望にとらわれて一時的な快楽を追い求めるとき、人はやがてその刺激のなかに溺れて正常な感覚を狂わせてしまう。色のあることが悪いというのではなかろう。「柳は緑、花は紅」とみればよいものを、五色の世界に眩惑されておのれを失ってしまう、真実が見えなくなってしまう、そこがこわいところだ。 金谷治『老子』 歴史上の異次元の賢者たちの教えの中には共通していることがあって、それは以下の2点なのではないかしらん。 ・貪るな ・見栄を張るな 仏教やキリスト教やイスラム教やヒンドゥー教や古代中国や古代ギリシャや古代ローマの思想のなかでも、上の2点については共通して説かれているような気がする。 私たちが幸福に…

  • 自分は自閉的である、という自覚

    自閉症の人は、ある種の現実の問題に無とんちゃくになる。こういう人は文字どおり「自分だけの世界」に生きており、その世界の中で自分が最高の存在として君臨している。 自閉症の究極の姿がナルシシズムである。完全なナルシシストにとっては、他人は心理的実在ではなく、一個の家具にすぎない。(中略)シャーリーンが、「私はほんとうに先生を愛している」と信じていたことに疑いはないが、しかし、彼女の「愛」はすべて彼女の頭のなかだけのものである。客観的な現実としては存在していないものである。彼女自身にとっては、彼女は「人々の光」であり、彼女の行くところ、いたるところに喜びと幸せを発散させていることになっている。しかし…

  • 平凡になることの価値

    「道」のはたらきとして、鋭いけばけばしさをおさえて平凡なおのずからなありかたに沿うことである。 最高のまことの善とは、たとえば水のはたらきのようなものである。水は万物の生長をりっぱに助けて、しかも競い争うことがなく、多くの人がさげすむ低い場所にとどまっている。 金谷治『老子』 私たちは誰もが真似のできるような平凡なものには価値を見出せず、誰も真似のできないような何か特別なものにしか価値がないように錯覚してしまう。 また、自分ではないもので自分の価値を規定できると段違いな勘違いをしてしまう。 この2つの錯覚と勘違いが組み合わさり、私たちは、何か特別なもので自分の価値を規定しようとする。そして何か…

  • 悪を受け入れていく習慣

    精神の健全性は、自分より高いものに自分が従うことを要求するものである。この世の中でそれなりに生きていくには、われわれは、ある特定の瞬間に自分が求めているものに優先する、ある種の原理に自分自身を従わせなければならない。宗教的な人にとってはこの原理とは神である。また、非宗教的な人であっても、その人が正常な人間であるならば、意識的にであろうと無意識的にであろうと、ある種の「より高い力」――それが真理であれ愛であれ、また、他人の求めていることや、現実の要求することであれ――に自分自身を従わせるものである。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは自分は絶対に正しいという前提に立ち、自分…

  • わざとらしい暮らし

    世界の真相を洞察した聖人は、「無為」「不言」の行動に従ってあるがままに自然である。 「無為」は「為すこと無し」であるが、何もしないことではない。ことさらなわざとらしいことをしないで、自然にふるまうこと、人間としてのさかしらの知恵やかってな感情をすてて、自然界のおのずからなありかたに従って行動するのである。 金谷治『老子』 聖人は「さかしらな知恵」や「かってな感情」がなく、わざとらしいこともしない。 一方で私たちパンピーには「さかしらな知恵」や「かってな感情」があり、わざとらしいことをしてしまう。 んじゃあ、「さかしらな知恵」や「かってな感情」や「わざとらしいこと」というのは一体何なのかしらん。…

  • 自称大人の思考パッターン

    子供は「いいこと」と「悪いこと」という言葉を覚えるようになる。いい子でいれば――また、いい子でいるときだけ――いつでも完全に受け入れてもらえる、ということを学ぶようになる。こうなると子供は、母親からの愛や受け入れを自分の力で獲得しなければならなくなる。そして、その後はずっとそうなのである。無条件の受け入れが得られる期間は、せいぜい幼児期のあいだだけである。心理的に成人しているわれわれは、みな、程度の差こそあれ、愛されるためには、自分の責任において、愛されるような人間にならなければならない、ということを学んでいる。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 子供は、良い子でいれば母親から愛…

  • シンプルな日常のために気がつくべきこと

    世俗の生活の中で、私欲にとらわれて現実の利害にふりまわされているのが、われわれである。起伏の多いその波間にゆられて喜んだり悲しんだり、しかしその水底の静かな深みを知るものは少ない。 われわれが日常生活のなかで認識する価値概念はすべて相対的なものである。それを絶対的なものと考えて固執するところに、人びとのあわただしく悲しいうごめきがある。 金谷治『老子』 私たちは自分の価値や自分の大事さというものが、世間的価値の有無や種類や量によって決まると考えてしまっている。 例えば、お金があればある分だけ自分には価値があり、お金がなければない分だけ自分には価値がないと考えてしまう。 実績があればある分だけ自…

  • 運命の人の見極め方

    邪悪性はとくに次のような特性によって識別できる。 (a) 定常的な破壊的、責任転嫁的行動。ただしこれは、多くの場合、きわめて隠微なかたちをとる。 (b) 通常は表面に現れないが、批判その他のかたちで加えられる自己愛の損傷にたいして過剰な拒否反応を示す。 (c) 立派な体面や自己像に強い関心をいだく。これはライフスタイルの安定に貢献しているものであるが、一方ではこれが、憎しみの感情あるいは執念深い報復的動機を隠す見せかけにも貢献している。 (d) 知的な偏屈性。これには、ストレスを受けたときの軽度の統合失調的思考の混乱が伴う。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 これらを私なりに言い…

  • 自分が外道かどうか

    精神的に最も健全かつ最も高い域に到達している人が、普通の人が経験する以上の苦悩に苦しむことを要求されることは多い。偉大な指導者というものは、賢明かつ正しい人間であるならば、普通の人間にははかり知ることのできない高度の苦悩に耐えていることが多いものである。これとは逆に、情動的病の根底にあるのが、通常は、情動的苦痛の回避である。憂うつ、疑い、混乱、失望といったものを完全に経験する人間が、安定、満足、自己充足した人間よりはるかに健全だということもありうる。というより、病気とは、苦痛を受け入れるよりも苦痛を拒否することだ、と定義するほうがより当を得ていると言うことができる。 邪悪な人間は、自責の念――…

  • 「記号」と「自分の大事さ」の関係

    新聞やテレビがニートを問題にするとき、「生涯で得られる収入の差が正社員とアルバイトでは二億円になる」とかそんな金の話ばっかしているが、人生の意味や価値を金に換算しようとは思わないからこそ、プー太郎という人生を選んだのだ。そもそも人生の時間と二億円のどっちが本当に貴重だろうか? 即座に「二億円」と答える人の方が間違っていないか。 たとえば、近所に農家があったとして、そこからあまった野菜をもらってきて、漬物をつけていたらGDPは一円もカウントされないが、同じその時間にパチンコをやっていたらGDPに計上されて、国家の豊かさが増したことになる。そういう計算しか存在しない社会がだいたいおかしいわけで、「…

  • 努力と方向性

    「偉大な」人たち――その偉大さが善に向けられていようと、悪に向けられていようと――を特徴づけているものは、そのきわめて強力な意志だと私は考えている。(中略)キリストの意志はその父である神の意志であるが、ヒトラーのそれは彼自身の意志である。その最も大きな違いは、「喜んで従おうとする意志と、我を通そうとする意志」の違いである。この服従を拒否する意志、我を通そうとする意志が、悪性のナルシシズムの特徴となっているものである。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは日々ヒットラー先輩のごとく我を通すことに必死だ。 「我を通す」というのは自分の完全性を証明しようとすること、自分のきれいな…

  • 記号と内実

    悪は世界を薄っぺらい記号の集まりとしか考えない傾向が強いけれど、善はこの世界が記号の集積でなく、存在する一つ一つにいっぱい内実がつまっていてそれらはどれも取り替え不可能であることを知っている。悪は世界を薄っぺらな記号としか思わないから、世界がパズルかゲームのようにしか感じられない。 保坂和志『人生を感じる時間』 「イメージ」「外見」「外向け」といった言葉が、邪悪な人たちの道徳性を理解するうえで重要なものとなる。彼らには善人たらんとする動機はないように思われるが、しかし、善人であるかのように見られることを強烈に望んでいるのである。彼らにとって「善」とは、まったくの見せかけのレベルにとどまっている…

  • 日常を病ませる思考パッターン

    私が邪悪と呼んでいる人たちの最も特徴的な行動としてあげられるのが、他人をスケープゴートにする、つまり、他人に罪を転嫁することである。自分は非難の対象外だと考えている彼らは、だれであろうと自分に近づいてくる人間を激しく攻撃する。彼らは、完全性という自己像を守るために、他人を犠牲にするのである。 邪悪な人間は、自分には欠点がないと深く信じ込んでいるために、世の中の人と衝突したときには、きまって、世の中の人たちが間違っているためそうした衝突が起こるのだと考える。自分の悪を否定しなければならないのであるから、他人を悪と見なさざるをえないのである。自分の悪を世の中に投影するのである。 M・スコット・ペッ…

  • 日々の苦しみの利用方法

    世界にはびこる苦しみや悲しみの半分以上は、自尊心に対する些細な攻撃や侮辱を受けたり、虚栄心を傷つけられたりすることがきっかけで生まれているのだ D.カーネギー『道は開ける』 ここで言う「自尊心」や「虚栄心」というのは、自分が「自分はこうでなければならない」としているセルフイッメージ、「自分はこういう人間だ」としているセルフイッメージのことだ。 私たちは自分のことを「こういう人間だ」と固定化して捉えている。 そして基本的に自分のことを「善人」として固定的に捉えている。 人それぞれ個別に善悪の基準みたいか感じのニュアンス的な雰囲気っぽいものを持っていて、その中の「善」に該当する要素のみで自分は構成…

  • どうして悪は光を嫌うのか

    この種の人間は、治療によって自分の心に光を当てられることをなんとしても避けようとするものである。 自分自身を照らしだす光や自身の良心の声から永久に逃れつづけようとするこの種の人間は、人間のなかでも最もおびえている人間である。彼らは、真の恐怖のなかに人生を送っている。彼らを地獄に送りこむ必要はない。すでに彼らは地獄にいるからである。 邪悪な人たちの特性となっているのは、本質的には、そうした人たちの罪悪そのものではない。彼らの罪悪の名状しがたさ、その持続性、その一貫性である。これは、邪悪な人たちの中核的な欠陥が、罪悪そのものにではなく、自分の罪悪を認めることを拒否することにあるからである。 M・ス…

  • 誤魔化すための強迫衝動

    「あなたにそうした症状が現われる原因のひとつは、そうした症状が煙幕の役割を果たしているからです」私は彼に説明してやった。「自分の強迫観念や強迫衝動について考えたり話したりしていれば、その原因となっているもっと根本的な問題を考えずにすむからです。あなたがこの煙幕を利用するのをやめようとしないかぎり、つまり、自分のみじめな結婚生活やひどい子供時代のことをもっとしっかりと認識しないかぎり、いつまでもあの症状に苦しめられますよ」 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私の職場に自分はあの人から意地悪をされている、影で悪口を言われている、という思い込みを抱えている人がいる。 仮にその人をAさん…

  • 人から大事にされない習慣

    愛のない育てられ方をした子供は、自分が人に愛されない人間だと信じこむようになる。これは、「親の愛に著しい欠陥があるときは、子供は、その原因が自分自身にあると考えて反応する可能性がきわめて高く、そのため、非現実的なまでに否定的な自己像を身につけるようになる」という子供の発達の一般法則として語ることができる。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 私たちは人から大事にされたい、認められたい、愛されたいという根本的な欲求を抱えている。 そして、自分に価値があろうとなかろうと、良い子であろうとなかろうと、親から大事にされてきた子供は自分のことを大事な存在だと思いやすくなる。 しかし、基本的に…

  • 正しい道と安易な道

    基本的には、あなたは一種のひきょう者です。状況がちょっとでも厳しくなると、すぐに裏切りをはたらくようなことをします。自分がいつかは死ぬという現実に直面すると、あなたはその現実から逃げ出してしまいます。『ぞっとする』と言うだけで、それについて考えようとしない。自分の結婚生活がみじめなものだという苦しい現実に直面すると、やはりこれから逃げ出してしまう。そういう現実に面と向かって立ち向かおうとせず、何か行動を起こそうともせず、ただ考えることをやめてしまう。そういう、実際には逃げることのできないものから逃げようとするから、それが症状となって、つまり強迫観念や強迫衝動となってあなたにとりつくんです。 あ…

  • 時々で良いから思い出すべき「事実と原則」

    あなたの症状は、あなたが死について考えているからではなく、死についてどういう考えをしているかが原因となっていることです。 M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』 死というのは人間が諸行無常の理に便宜的にレッテルを貼っているものでしかない。 変化し続けるという過程の中で、肉体が生じ肉体が朽ち果て消失していく。 その一連の変化に人間が便宜的に区切りをつけ、その境なり区分を便宜的に「死」と呼んでいるだけでしかない。 今ある肉体はいずれ朽ち果て消滅していくという事実。 この事実には本来に良いも悪いもない。 それは無色透明な事実にすぎない。 だがしかーし、私たちは本来無色透明な事実に対し自分なり…

  • 休日のリズムを少し変えてみた

    少し前から休日の過ごし方を若干変えてみた。 やること自体は特に変わらないのだけれど、リズムを変えた。 朝は平日と大体同じ時間帯に外に出て近所のマックへ行き、読書なりブログなりをするようにした。 起床 散歩 冷水シャワー ブログ これが朝のルーティンで、仕事の日は朝の7時半頃にブログを書くのをやめて、朝食(コーヒーとナッツ)をとり、身支度をして、仕事に出かける。 休日はそのままブログを書き続け、本を読み、集中力が切れてきたらダラダラとネットを見始めたり、それにも飽きると洗濯や掃除や筋トレをする。 この休日の過ごし方を見直して、なるべくブログや考えごとや読書といった集中力を要するものは午前に集中さ…

  • 不特定多数の人間から「価値のある人間」として見られることが目的になってしまっている人生

    解けたからわかる。 私が突き付けられているような気がしていた普遍的な議題――たとえば「独身と結婚しているのとどちらがいいのか?」「仕事と家庭のどちらを優先すべきか?」「子どもを持つべきか持たないべきか?」――そもそもの問いが私の人生の重要な議題とずれていたのだ。こんな問いに立ち向かわされているとき、いつも自分の輪郭は消えそうで、きちんと答えられなくて不甲斐ない気分になることは、自分がいけないのだと思っていた。でも今夜、この今、自分の輪郭は電気が流れそうなほどにくっきりとしてびかびかと発光していた。 もう普通の幸せはいらない。恋愛も結婚もいらない。お金も安定もいらない。何もいらない。ただ今日見た…

  • 同じことの繰り返し

    「つまらない時間だった」と思ったことはなかったが、人と会って本を紹介することに少しずつ慣れ、いつしか同じことの繰り返しだと感じるようにもなっていた。 花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』 はじめは何か特別なことをしているように思えても、それは繰り返す度に日常になっていく。 同じことの繰り返しだなということに気がついていく。それが良いとか悪いとかではないのだけれど、結局同じようなことの繰り返しに収束していくんだなと思う。 例えば、私は服やスニーカーが好きで、学生時代はよく買っていたが、結局買っていたのは似たような服や靴で、一つひとつの…

  • 誤魔化しに気づいた上で誤魔化す

    別居している夫とのことで沈むような出来事が起きてもいた。それは黒いしみのように心の中に広がり、心の中に流れていた楽しい音楽を消していく。またにぎやかな世界にするためには、詰め込んで詰め込んで、楽しいことの濃度を上げていくしかない。上から塗りつぶすように楽しさを積み上げていく。夫婦の問題に引き戻されて立っていられなくなりそうになっても、もうひとつの世界でどんどん新しい世界を吸収し、元気にしている明るい残像が自分を支えた。 向き合うべきことに向き合わずに、楽しいことだけやって逃げてるだけだろ、こんなの、と、自分の声が後ろから追いかけてくる。 だけど、逃げ道がなかったらどうやって生きていけるというの…

  • 2種類の悪

    「思ったことに正しいとか間違っているとかはないんですよ。他の人が顔をしかめるような価値観や、変なことでもいいんですよ。だってそれが菜々子さんの、やっと顔を出してくれた本当の思いかもしれないですから」 花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』 私たちの心というのは実に多様な側面から成り立っていて、そこには自分の理性的な基準からして望ましい側面もあれば、望ましくない側面もある。そしてどちらとも言えないような側面も多分に含まれている。 実際には多様で豊かな心の側面に、私たちは「この側面は正しい」「この側面は間違い」「この側面はきれい」「この側…

  • 最近始めた整え習慣3つ

    最近始めた「整え活動」は以下のとおり。 1 ドライヤー習慣 2 体の保湿習慣 3 湯船習慣 1 ドライヤー習慣 私は短髪ということもあり、入浴後はタオルで髪をガシガシと拭き、あとはそのまま放置、という江戸っ子スタイルだったのだけれど、濡れた頭部をタオルでガシガシやると頭皮を痛めることになり、また入浴後を頭部を濡れた状態にしておくのも髪や頭皮にダッメージを与えることになるらしい。 だからこの世にはドライヤーなるものがあり、多くの人が使っているのかー、合点承知の助! と30代も半ばにしてようやっとそのことに気がついた。 ドライヤーについてちょいと調べてみると、5~8万円台のドライヤーもあり、びっく…

  • 陛下の不自由

    それにしても、楽しい一日であった。日本にいてはなかなかできないことだが、自分が誰かを周囲の人がほとんど分からない中で、プライベートに、自分のペースで、自分の好きなことを行える時間は大変貴重であり有益であった。 再びオックスフォードを訪れる時は、今のように自由な一学生としてこの町を見て回ることはできないだろう。おそらく町そのものは今後も変わらないが、変わるのは自分の立場であろうなどと考えると、妙な焦燥感におそわれ、いっそこのまま時間が止まってくれたらなどと考えてしまう 徳仁親王『テムズとともに 英国の二年間』 「皇族」というのは「出自」であり、「肩書」であり、それは私たち人間が作り出した「レッテ…

  • 自分が見えないと相手が見えない

    そもそも「私」がどう思うか、なんて発想は微塵もなく、何も考えず、書きたいから書いて、送りたいから送ったのではないか。悪意があるよりも、その方がずっと怖い。そこに人格を持った「私」はいない。 私に藤沢さんを責める資格があったのだろうか。ずっといっしょに過ごしてきたのに、相手の中に「自分」がいないし、自分の中にも「相手」がいないなんて。 夫婦でさえそうなら、いったい誰とならまともにそんな関係を築けるのだろう。他の人たちは築いているのだろうか。 花田菜々子『出会い系サイトで70人と実際に会ってその人に合いそうな本をすすめまくった1年間のこと』 私たちは日々人に会って、人のことを自分はきちんと見えてい…

  • 湯船に浸かるってやっぱいいわ

    つい最近、後輩が湯船に浸かりはじめたという。 これまでは基本的にシャワーで済ませていたけれど、実家から入浴剤が送られてきたため、それを使うために湯船にお湯を張って入浴したらしい。 すると、最近寒くなってきたこともあるけれど、ものすごく気持ちが良かったという。寝るまで体がポカポカでぐっすり眠ることができたとのことだった。 私も一人暮らしを始めてからは基本的にシャワーだ。 湯船にお湯を張ることはほとんどなく、冬至の時期にゆずをもらったらそれらを使うために入るくらいで、よって年に1回あるかないかくらいだ。 時々サウナに行くため、そこでは湯船に浸かることはあっても、自宅ではもっぱらシャワーで済ませてし…

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