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2021/08/11

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  • トニナ Toniná

    マ海抜800〜900mの丘の上と山腹に建造されたマヤ古典期の高地性集落。現在のメキシコのチアパス州に位置した。なお「トニナ」は現代の呼称で、古典期には「ポ」または「ポポ」と呼ばれたとみられる。

  • 笛吹きボトル(中南米) ふえふきぼとる

    紀元前から紀元後16世紀まで南米で栄えたアンデス文明では、水や空気を入れると音が鳴る「笛吹ボトル」と呼ばれる土器が数多く使われていた。儀式の際などに神聖な酒「チチャ」を注いで音を鳴らしたともいわれる。その内部構造は複雑で、製法や音の鳴らし方については、いまだ不明な点が多いという。

  • 熱田 秀信 あつた ひでのぶ

    石見銀山内の佐毘賣山神社の社家。官途名は平右衛門尉。毛利氏の被官として銀山支配の一端を担ったとみられる。秀信の子は銀山の賦課徴収を委任された「当役人六人」の一人であったが、熱田氏は慶長四年(1599)以降、史料上にみえなくなる。

  • 三宅 久重 みやけ ひさしげ

    石見銀山の昆布谷の住人。官途名は壱岐守。天正十九年(1591)六月に厳島神社に寄進を行っている。銀山には久重の他にも多くの三宅姓の人物が住んでいたが、彼らは備中国連島の三宅氏出身であった可能性が指摘されている。

  • 安原 知種 やすはら ともたね

    備中国早島庄塩津出身の鉱山師。官途名は田兵衛尉。後に徳川家康より「備中守」の名乗りを与えられた。弟に徳忠、子に直種がいる。16世紀末から17世紀初頭にかけて石見銀山における銀採掘で辣腕をふるった。銀山や生国である備中国の寺社造営にも多額の資金を提供したとみられる。

  • 服部 就久 はっとり なりひさ

    毛利家臣。官途名は二郎左衛門尉。毛利氏に討滅された本城常光の家臣の一族とみられる。毛利氏が本城氏から山吹城を接収すると、銀山代官として銀山支配に関わった。また銀山には就久の他にも服部一族が多く居住していたことが「浄心院姓名録」から分かっている。

  • 生田 就光 いけだ なりみつ

    毛利家臣。官途名は左衛門大夫。毛利氏が滅ぼした高橋氏一族の出身とみられる。永禄五年(1562)、石見銀山(佐摩銀山)を掌握した毛利氏によって銀山の代官に補任された。

  • 吉田 与三右衛門 よしだ よそうえもん

    石見銀山開発初期の大工。元は出雲国の鷺銅山の採掘に従事していたとみられる。大永七年(1527)三月、吉田藤左衛門、於紅孫右衛門とともに三島清右衛門に同行して石見銀山に入る。その後、於紅孫右衛門が横死し、吉田藤左衛門も没落した為、銀山ただ一人の大工となった。

  • 田辺 治綱 たなべ はるつな

    石見銀山の栃畑谷の住人。官途名は対馬守。永禄十一年(1568)に安芸国厳島神社に寄進した。

  • 小林 成久 こばやし しげひさ

    石見銀山の栃畑谷の住人。仮名は万助。本拠は出雲国秋鹿郡大野荘であり、栃畑では「田辺屋敷」に居住していた。天正年間には同族とみられる小林之久・同吉久も安芸国厳島神社に回廊を寄進している。

  • 銀山 ぎんざん

    石見銀山の鉱山町。大永七年(1527)に銀山開発が始まると、仙ノ山一帯には鉱山労働従事者や職人、商人らが集まって巨大な都市が形成され、膨大な物資集散が行われた。なお石見銀山自体は戦国期は「佐間(佐摩)銀山」と呼称されていた。

  • 肥中屋 孫二郎 ひじゅうや まごじろう

    石見国温泉津に居屋敷を持っていた商人。居屋敷は毛利元就から給与されており、元就死後に輝元によって安堵された。その名から、長門国肥中との関係性が指摘されている。

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