男子高校生の孫が、家に彼女を連れてくる。その子は音大を受験するつもりだそうだ。ジイさんのクラシック音楽の知識や集めたCDが……役に立つのか?
作者都合により「コロナの穴」の連載を終わります。突然のことで大変申し訳ありません。
コロナの穴 (36)「フリをしろって言うんだ」 そう言うと、オヤジはいっそう目を見開いて、 でもかすかに頷いた。おれは親父の顔の脇5センチ位の壁をぶっ叩 き、親父は 「ウッ」 と声を出しながらアゴを押さえズルズルと壁 をすべるみたいにしゃがみこんだ。(あれっ! コイツ、ちゃんと芝居するじゃ ねえか!) だがもっとビックリしたのは、そこへ急にカ ルラが現れたことだ。居間の近くにはいない と思っていた母親がキッチンから出てきた。 位置的には、おれが親父を押し付けている壁 の左側から現れたのだ。カルラには、おれがオヤジを殴り、それでオ ヤジがへたり込んでいるように見えただろう。 つまりカルラは、最高…
コロナの穴 (35)(とりあえず保留だ……殴るのは) おれはやっと二階へ行く気になったが、階段 の上がり口に灰色っぽい親父のシャツが、両 手を上げおどけてるように見える、変なだら しない格好に脱ぎ捨ててあった。(何だ、コレ) と思いながら、その汚物を足で向こうに押し やっていると、また高いトーンの声が聞こえ てきた。 「へえー。色々詳しいじゃないの、梅垣さん」(これ以上オヤジをおだてるんじゃねえ、バ カ不動産屋め) (とっとと帰れよ、あの小汚い店に) 「大したもんだよぉ。お見それしました。あ んたホントにニュースの解説してるヒトみた いだぜ」そういうおだて文句を並べながら、おっさん が心の中で…
コロナの穴 (34)家へ戻る道々、殴るのか殴らねえのか……そ れだけが問題だった。生きるべきか死ぬべき かじゃなくて、殴るべきか殴らないべきか、 それだけを必死で考えている。結論が出ないまま家に着きマルコを犬小屋に つなぐと、おれは表から入って行った。する と驚いたことにこんな朝っぱらから客が来て いるのだった。 「ホント鬱陶しいねえ、あの駅前ビルの工事」 オヤジに向かってそう言っていたのは、ウチ の斜め向かいにある豆粒みたいなセコイ不動 産屋のおっさんだ。たぶんオヤジより年上で、 六十歳以上だろう。鼻の脇に茶色いホクロがいやらしく盛り上が っているこのおっさんは、超のつくおしゃべ り好きで噂…
コロナの穴 (33)そうか……と、遅ればせにおれは気がついた。 (あの本だ) あの本に、法然上人が小さい頃に親父さんを 殺されているという話があり、それでおれは (あれと比べりゃ、親父が生きてる自分は幸 せだ) みたいに考えたんだろう。だが、まだ分からない。おれだって小さい頃 に親父が死んでたら、こういう人間じゃなく (もっと、グズグズじゃない方に) 育った可能性があるじゃないか。どうしてア タマっから (親父、生きてるだけマシ) みたいに考えるんだ?あの鬱陶しい水デブ、泥付き里芋オヤジの代 わりに……例えば、伯父さんみたいにワルくて も人からは絶対にナメられないキビシイ男が 父親だったら。い…
コロナの穴 (32)おれはいかにもさりげない風に(見えたかど うか疑問だが)しゃがみ込んだ。 (まさか、まさか、違うよな……立て続けに こんな!) 道路の真ん中でズボンを頭にかぶって裸踊り する自分の姿が目に浮かんだ。その最悪のイメージを必死に追い払いながら、 おれはマルコに話しかけた。普段はまったく 言わないようなことを。 「よしよし、おまえ今日は特別にお利口さん だぞ」 (自転車が止まったら終わりだ) マルコを放り出して逃げたとしても、ここに は走り込めるような路地がない。浄水場と特養老人ホームの敷地に挟まれて南 北に長く伸びている道は見通しがよく、次の 交差点までたぶん二百メートルはあっ…
(31)オヤジ、オフクロとは目を合わせないまま、 おれは作業場に出て表から犬小屋の方へ回ろ うとした。ところがそのとき、ちゃんとしま っておいたはずの、例の法然上人の本がまた 作業台の上に乗っているのに気がついた。こんなのは無視……というワケにはいかない。 この本、どうもヤなタイミングでおれにチョ ッカイを出してくるみたいでアレなんだが、 そうは言っても伯父さんのプレッシャーも感 じるから簡単に無視は出来なかった特にこのときは (ガラじゃないなあ) と自覚しながら (本がおれを呼んでいる!) と一瞬本気でおれは思った。おれは本を手に取った。パラパラめくり出す と、開いたのは法然上人が (遺言で…
(30)病院から家に帰ったおれは、親父を殴るタイ ミングだけをじっとうかがっていた。夜が明 けると、親父はスーパーの警備員室に電話し て 「ウチの息子に何をしたんです!」 と震える声で抗議を始めた。おれはそれを、 二階の自分の部屋で聞いている。「息子は、息子は手首を切ったんですよ。分 かるでしょうあなた! そ、そうですよ。死 のうとしたんです。どうしてそんなところま で若いものを追いつめるんですか!」 向こうで相手をしているのが誰かは分からな い。しかし誰であれ、親父なんかの抗議に1ミリ も動じていないらしいことは確実だった。 「ひどい……ひどいじゃありませんか」 ついに受話器を握ったまま泣き…
(29)(おまえみたいな男前の医者に、おれの何が 分かるんだ! おまえのその顔と、おれのこ の頭とを交換してやろうか? おれのこの、 地球最期の日みてえにデカい口でも、おまえ はそんな正義の理屈が平気で言えると思って んのか! 調子に乗りやがって)「いいか、命を粗末にしようとした罪だけは どうやっても消えないぞ」 と医者が言った。 「この世の法律ではきみに何の咎もないとし ても、命を粗末に扱ったら、それは誰が何と 言おうと罪なんだ」すると、顔をぐしゃぐしゃにした親父が脇か ら医者にとり縋った。 「やめてください、先生! いまはやめてく ださい! この子は、この子は……弱い子な んです」おれはそ…
(28)おれのその欲求は満たされた。里芋に目鼻を つけたみたいな親父の顔が、とたんに絶叫顔 ……そんな言葉、ないかも知れないが……にな った。風呂場のドアを開けて、ぐったりしているお れを見つけた瞬間のその顔をおれは忘れない。 (ざまあみろ!) と思う。 (おめえの息子は外でどんな苦しみを受けて きたと思ってるんだ!)(おめーも苦しめ) (もっともっと苦しみやがれ) (ざまあみやがれ)おれの苦しみに比べればそのくらいが何だよ、 と思う。絶叫顔の親父はしかし、実際に絶叫 はせずに 「あ、ああ……あ、あ」 と情けない声を途切れ途切れに漏らしていた。それがやがて急に大声になって 「母さん、カルラ、カ…
(27)山室さんは、おれがなぜ売場でズボンを頭か らかぶって裸踊りをしていたのかという話と、 肩をぽんぽんと叩いただけの柿田になぜいき なり乱暴したのかということとを分けて別々 に問題にしようとしていた。だが、ブルドッグ男がすぐにそれをごっちゃ にしてしまう。おれもおれで 「辞めさせていただきます」 としか言わない。だから夕方までかかって何一つ事情は明らか にならなかった。詰所にいる間は自殺のこと は考えなかった。山室さんがついに匙を投げ た表情になり、最後はブルドッグ男の 「二度とそのツラ、俺に見せるな。大口のバ ケモン野郎が!」 という声に送られておれは詰所を出た。(終わった終わった) こ…
(26)ブルドッグ男は、警備員の詰所でツバを飛ば して怒鳴りまくっていた。こっちを殴りこそ しないが、机に拳を叩きつけてカップを倒し たり、おれが座っている椅子の足を蹴りつけ たりした。(何事か?) と警備員詰所をのぞきに来た従業員もいて、 さすがにそれからはヤツもトーンを落とした が、このブルドッグがおれに対して (我慢がならねえ!) と心底腹を立てているのはよく分かった。だが、おれはもう平気だった。仮に胸ぐらと か取られて揺さぶられたって、自分が結局態 度を変えないだろうということが分かってい た。それともう一つ、彼が怒鳴り続けているのを 聞いているうちに、段々に頭の中ではっきり してきた…
(25)この場面を、詰所から飛び出してきたブルド ッグボスが目撃した。もちろんブルドッグ男 は激怒して駆け寄り、おれの襟首をつかんで 床に引き倒した。おれは仰向けの後頭部を打 って上半身がじーんとシビレたが、そんなの はもう大したことじゃなかった。(おれの方が上に決まってる!) (ああ、痛てえ痛てえ。やっぱりおれの方が 上だった!) (痛てえけど、おれの方が全然上だぜ!)たぶんこの経験があったから、自殺未遂の後 でも親父のことが殴れたんだと思う。詰所では、おれは 「辞めさせていただきます」 としか言わなかった。ことさらに顔を近づけ てきて怒鳴るブルドック男にも、氷上と槙を 見たあとのおれは全く…
(24)「ほんじゃあナ」 「変わった踊りを見せてもらったぜ」 氷上と槙はそう言い残して歩き去った。しばらく二人の背中を見つめていた山室さん が 「とにかく」 と言った。「いったん詰所へ戻ろう。戻って話を聞かせ てくれ」 この時点では、おれは素直だった。どこまで 上手く話せるかはともかく、事情は正直に打 ち明けるつもりでいた。が、このあと予想もしていないことが起こっ たのだ。従業員専用の廊下を通って警備員詰 所に戻る途中に、ペダルを踏むと冷水が出て くる水飲み器がある。ちょうどその辺にさし かかった所で、柿田がふっとおれの肩に手を 置いた。おれは下を向いて歩いていたから、最初は何 だか分からなか…
(23)(十年前とイッコも変わっていねえじゃねえ か!) 「おう、いやな目で見てるじゃねえか」氷上が与太者特有の体の揺すりをしながら山 室さんに近づいた。 「おれらが何かしたって言うのか?」 「常識では考えられないことですから」 と山室さんは言った。「よろしければ、別室でちょっと事情を伺い たいと思いますが」 「なんだ、事情って」 「ですから、こんなことになった事情です」「冗談じゃねえぞ」 と槙が口を挟んできておれを指さした。 「おれらはこの男に指一本触っていねえんだ ぞ。その辺に監視カメラがあって撮ってんだ ろうから、それをよく調べてみろや」「そうだ、調べりゃ分かるぜ。この男が勝手 に踊り出…
(22)いつもは毒にも薬にもならないようなメロデ ィを流している館内放送が、なぜかそのとき だけ妙に調子のイイ、マーチみたいな音楽に 変わった。おれはいったんパンツいっちょうの裸になり、 それから踊りをおどらされた。ズボンに両手 を通して手の先には靴をはめ、ジッパーから 頭を出した格好で、だ。つまりおれはズボン をかぶって、売場の真ん中で裸踊りをしてい る。「そう、そう。ステップは反復横飛びの要領 で! もっと、チャッチャッとテンポよく」 槙がそう言い、氷上は柿田の方を向いて 「どうスか、そこの先輩」 と声をかけた。「先輩から見て、この梅垣軍曹の踊りはどう でありますか?」 おれは目をつぶって…
(21)だが、この日の災いの本番は、まだこれから だったのである。昼過ぎ、柿田とおれで衣料 品のフロアを巡回しているときにその声が聞 こえた。「おい、ブリ! おめーブリだろ」 聞いた瞬間に多分もう体のどこかが震えてい た。十年前、高校で毎日のように痛めつけら れていた記憶がまだ生々しく体に残っている。それが氷上の声だということが、おれには分 かっていた。 「見ろよ、タケ。ブリがガードマンの制服な んか着てるぜ」 (どうしてこんなことになる?) おれは本当に泣きたい気持ちで振り返った。そのまま歩いて行ってしまいたかったが、振 り向くしかなかった。 「なんだ? ブリって誰?」 「おいおい、ブリを忘…
(20)その日は朝から気分が悪かった。開錠が終わ って壁のキー・ケースに鍵を戻しているとき 柿田が 「梅垣くん。動きがなんかおもしろいね」 と言った。 「口も大きくて面白いけど」(ああ?) おれは思わずヤツの顔を見返した。それはト カゲとかカエルとかザリガニとか、絶対に口 がきけないはずの生き物が、飼い主に向かっ て 「バーカ」 と言ったのと同じくらい、それくらい信じら れない一言だった。柿田はさも可笑しそうにぐうっと口の両端を 上げた。おれはこいつの口からそんな台詞が 出てくるとは、本当に夢にも思っていなかっ た。(てめえコラ! 図に乗って、そんな本当の こと言いやがって!) (殺されてえの…
(19)パメラというのは母親の妹だ。母親には妹も 弟もごっちゃりといる。イレーネだのネリッ サだのヴァネッサだの、マーヴィンだのカル ロだの……たくさんい過ぎて覚えられねえ。一時はそういう妹弟のほとんどが日本にやっ てきてカルラの周りをうろついていた。 (ああっ!) おれはそのとき急にひらめいた。(伯父さんだったのか) おれが小学生くらいの頃まで、しょっちゅう 家に集まってはキチ○イ騒ぎみたいな酒盛り をしていていた母親のあの弟妹たちは、どこ へ行ったのか?おれは彼らに丸っきり興味がなくヘッドフォ ンして自分一人ゲームをしているだけだった から、連中が家に来なくなっても、どうとも 思わなかった…
(18)「どうしてああ口が軽いかな、おめえの親父 は? 本人は気の利いたこと言ってるつもり なのかも知れねえが、ありゃあ女が露骨に無 視したくなるバカの雰囲気そのもんだ」(はい!) とうなずいたのでは、ここはたぶんマズイん だろうと判断して、おれはじっとしていた。「ところがヨ。あのバカ、おれが女を紹介し てやろうかって話を始めたら、思いっ切り見 栄張りやがって。『だけどアニキ、こう見え てもおれ、けっこうモテるんだぜ』だと!」おれは思わず吹き出しそうになり、あわてて ウィスキーを口元に持ってきた。自分のでか い口をグラスで隠したのだ。当然、隠し切れ ていなかったと思うが。「『ほう、いつの間にそ…
★あけましておめでとうございます。 今年もよろしくお願いいたします!ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(17)伯父さんはいつの間にかビールから日本酒に 変えていた。「おれらのオフクロ、つまりおめえにとって のバアちゃんだけどよ、覚えてるか?」 そう言われておれは 「あっと、うーん、えっと」 とか、ちょっとあわてた。バイトの頃のこと を思い出していて、すっかりそっちへ入り込 んでいたからだ。「オフクロはよォ、えらく心配してたんだ。 『ヒラクのところへ来てくれるお嫁さんはい ないのかい?』って。あいつが三十過ぎても まるっきり女に無縁だったからヨ」 ヒラクというのは親父の名前だ。「だからおれ…
【作者ご挨拶】開設から半年ちょっとですが、ご覧下さり ありがとうございます!来年もどうぞよろしくお願いいたします。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー(16)その日は午前十一時頃に生鮮品の第一便が着 く予定だった。ドライバーはたぶん、おれが (鬼軍曹) と密かに呼んでいる山城さんだろう。山城さんにはあの、重い鎖をガリガリ言わせ てるみたいなダミ声で、思いっきり爆発して もらいたかった。ところが、だ。柿田はもっさりはしているも のの、誘導の声そのものは空間全体をびりび り言わすほどバカでかかった。さすがドーブ ツというか。やつが 「ごぉらいごぉらい(オーライ、オーライ)」 とガナると (なん…
(15)その次の日からおれは柿田を連れて鍵の開け 閉めをしたり巡回コースを一緒にまわり、監 視カメラを見ているときには何に注意するか とか、従業員の通用口でチェックするポイン トなんかを教えたり、それから例の納品トラ ックの誘導をやって見せた。「順番、覚えた?」開錠の後でおれがそう聞くとやつはニヤァっ と笑って 「ううん」 と首を横に振った。おれはカッとして (仕事だぞ!) と怒鳴りたくなった。 (遊びの話してるみてえじゃねえか。ガキん ちょかよ、てめーは!)おれはそっぽを向いて、何とか自分の怒りを なだめようとしたが、こいつの無神経さがマ グソみたいにモワァっと臭ってくるようで、 怒りが収ま…
(14)また例のバイト先の回想に戻るが……そこの ボス、ブルドッグ男が自分の親戚だと言って 柿田まさるを職場に連れてきたのは去年の2 月下旬だった。おれがバイトを始めてそろそ ろ3ヶ月になろうとしていた。相変わらず仕事でヘマはし続けていたが、と にかく一生懸命ではあったので (ひょっとしたらこのままずっとココに居ら れるかも) という甘い期待がときどき腹の底に湧いてく ることがあった。納品トラックのドライバーにも 「よう、カカシ人間。元気かよ」 と声をかけられるくらいには存在を認められ て(?)きた。以前はこれが 「ゴルぁ! すりつぶすぞ、クソガキ」 だったんだから、それと比べたら大出世だ。柿…
(13) おれはどうも、口のまわりの神経がものすご く敏感で、人に見られると段々に痛痒くなっ てくる。だからマスクは (大口隠しの道具) としてふだんから絶対に外せなかった。家の 中であろうとトイレや風呂に入っていようと。だって洗面所の鏡にオレの顔が映って、見る つもりなかったのに自分のデカデカとした口 をうっかり見ちまうってことがあるから、ト イレや風呂に行くときも用心はしておくに限 るから。それがコロナになって、ウィルスなんて極小 のもんがマスクで防げるなんてバカみたいな 話なのに、みんな本気でマスク付け出したと きおれは (ざまあみやがれ) と思った。 (もしかして来たのか? おれの時代…
(12)「どうにも我慢できねえで親父を一発殴っち まった。そんで、そのまま家を飛び出したっ て言うんなら、おめえにもカナシミのカケラ くらいはあるってもんだ」(カナシミのカケラ?)「意味、分かるか?」 「へ」 「言われてる意味が分かるのか、って聞いて んだ」 「いや、あの、分かりません」 「だからおめえにはカナシミがねえって言う んだ」返事らしい返事も出来ず、それでも (「カナシミのカケラ」なんて、何となくイ イ言葉だな) と思っていると、伯父さんがまた空になった ジョッキに気づいてくれた。「まだビールでいいのか」 「あの……出来ればウィスキーを」 ロックのウィスキーがやってきて、おれがそ れ…
(11)ブルドックおやじから 「しばらくこいつを頼むぞ」 と言われておれの教育係になっていた佐野と いう大学生が、一日にいっぺんは必ず 「おいおい、おぉーい!」 と呆れて大げさに天を仰ぐのだった。「アンタ、それ、ふざけてるワケじゃないよ な?」 違いますとおれが赤くなって答えると佐野は (はぁーっ) とため息をついてぶるぶるっと頭を振る。自分より年下のやつにそんな態度を取られる のは悔しかったが、仕方がない。特に納品のトラックの誘導では、自分じゃ大 声を出したつもりでもやっぱり (モゴモゴ声) だったらしく、運転席から身を乗り出したタ コ坊主みたいなドライバーに 「ナメてんのか、キサマぁ!」 …
(10)まあそういう訳で、伯父さんの影響下にある おれのウチはコロナのニュースに振り回され なかった。それだけ世間から受けるストレスは下がった とも言えるんだが、逆に思いっきりコロナに 振り回されてる(振り回されてむしろハイに なってるような)人間に関わるハメになると、 それがかなりのストレスになる。面接帰りに寄ったファミレスでおれの味わっ たのが、まさにそういうストレスだった。面 接に落ちただけでも十分忌々しいのに、ファ ミレスであんな扱いまで受けて、おれはふて くされた。だからそれから一週間、朝も十時近くまで寝 坊して、直接は悪いことをしていない親父の ことも (元はと言えばコイツのお陰で…
(9)(いや、いや……そうじゃない) おれもオヤジも、最初は怯えてたんだ。横浜の客船の中で感染が広がっていった、あ のニュースを見たときには (飛んでもねえウィルスが出て来やがった!) って、間違いなくおれもオヤジも震え上がっ た。どこかでそれが変わった。いつからだろう?頭の薄いお笑い芸人が死んだときみんな (恐い恐い) でうろたえ出し、それから必死でマスクを買 い漁ってた頃に、伯父さんがウチに寄って鼻 で笑ったのだ。馬鹿馬鹿しい、って。「おめーらみんな、映画見せられて恐がって んのとおんなじ」 吐き捨てるように伯父さんがそう言ったとき おれもオヤジもポカンとしていた。 「あんなのは映画だと思…
(8)おれは仕方なく新聞チラシの募集広告で、 「スーパーなどの警備(派遣)」 という仕事を見つけて面接に行った。軍隊だの戦争だの戦闘とかに、おれは興味 があって、ネット対戦型のバトルゲームに は今だって月に何万もつぎ込んでいる。警備員はもちろん戦闘はしないけど、制服 は着ているし連想クイズの次元でならけっ こう似ているんじゃないかと思って応募し た。親父は、同じチラシにあった 「プラスチック工場の検査業務」 の方がいいんじゃないかと言ったが、おれ は無視した。(オメーの無能のせいでおれが働くハメに なったんだから、オメーの言うことなんか 聞くかよ!) と思って。が、おれはいきなり立て続けに三つ…
(7)伯父さんの言うことはきっとその通りなんだ ろうと、おれも思う。だが、変なたとえかも 知れないが、それは身長1メートル80セン チの人たちの常識で、身長60センチの人間 には通じないんじゃないか……とおれは思っ ていた。おれが自殺未遂の騒動を起こした直接の原因 は、バイトをクビになったことだった。形の 上では自分から 「辞めさせて下さい」 と言ったが、実質は叩き出されたのだ。コロナの前から徐々に売り上げが少なくなっ ていたウチの商売が、コロナでまたガクンと 落ち込んだとき、オヤジはうろたえておれに 言った。「なあ謙也。悪いけど、お前……バイトでい いからどこかに勤めて……それで少し、家に …
(6)まず恥じらいがないっていうのは、具体的に おれのどういうところを言ってるのか分から ない。その上さらに哀しみがない……なんて、 そもそもどういうこと?いや、第一これは、おれが勝手に 「哀しみ」 という漢字にしたのであって、伯父さんはた だ 「カナシミ」 と言っただけだ。おれは何となく、悲しみよ り哀しみの方が上みたいな感じがして。 「てめえは酒だけは強いんだな」 おれはそのとき、中ジョッキを二口で飲んで しまっていた。中ジョッキならほんとは一気 飲みでも楽勝だが、伯父さんの前だから遠慮 していた。「そんなとこばっかり、あのウワバミ女の大 酒飲みのオフクロに似やがって」 「……」 「いつも…
(5)その晩の「やわた」にはけっこう客の出入り があって、おれたちがそういう話をするには 都合がよかった。おれたちは他の客からはも ちろん、店のオヤジさんオカミさんからも適 度に放って置かれた。自殺未遂そのものはその年の春にあったこと で、前の晩親父をぶん殴ったこととは直接関 係がなかったのだが、おれは (ついに、来たか) と思った。いつか伯父さんがその話をするは ずだとは、ずっと考えていた。「この薄っぺら野郎が」 「……」 「てめえのサル芝居なんかにダマされるのは、 てめえのバカ親父だけだ」図星を指されて、おれはうつむいた。手首を切ること自体は十七、八の頃からやっ ている。たが、自分から (…
(4) そういう訳で、いまおれは 『法然……』 を読んで勉強している。と言ったって、もと もとこんな本の中味がすんなり入ってくるよ うなオツムじゃないから、ひたすらメモを取 っているのだ。 一一三三年に生まれる。いまの岡山県。 父親は漆間時国(うるまのときくに)で、 押領使(おうりょうし)。一人息子。という具合だ。押領使というのは 「地方の治安維持にあたる役職」 と、本の中で説明してあるが、よく分からな い。ネットでちょこっと調べたりして (まあ、ヤクザっぽい警察みたいなもんだろ) とアタリをつけた。そのうち伯父さんに試験をされるというのは 恐怖以外のナニモノでもないが、同時にほん のちょっと…
(3)その親父は、いま伯父さんに一喝されたばか りなのに、ピンク色の和菓子を両手に一つづ つ持ったままモジモジしていた。伯父さんがいたから自分を抑えられたが、普 段ならおれはこういう親父をみるとカッとな る。 (それが「おまんじゅう」かよっ!)親父が手に持っているのは道明寺という、こ しあんをもち米みたいなもんでくるんだ桜色 の和菓子だった。だが親父は、丸っこい菓子 なら何でも「おまんじゅう」と言うのだ。バカかよ、このオッサンは! だいたい、い い歳コイたオヤジがまんじゅうに「お」なん て付けるんじゃねえ。(昨日から、てか、もうひと月くらい親父の ことは殴ってねえんだから、今日はひとつ伯 父さ…
(2)先週はまだ親父を殴っていないうちから伯父 さんがやってきた。いや、あれは単に近所に 用があって、ついでに寄っただけなのかも知 れないが、おれは (やる前から、もう牽制に来たんか?) と、ビビった。あのときおれは親父と店の方にいて、見慣れ た「富士興業」の薄汚れたワゴン車が外に止 まったのに気づいてあわててマスクを外した。 (しゃべるときにマスクを外さないと伯父さ んは怒るのだ)伯父さんがクルマから降りて くると、親父は 「よぉ、兄貴」 と言いながらひょこひょこ表に出ていった。伯父さんは親父の顔をチラっと見ただけで返 事もせず、ずかずかと事務所に入り込んで来 て 「殴ってねえだろうな?」 …
コロナの穴 (1)おれが親父を殴ると、だいたい三日以内に亀 戸の伯父さんがやって来る。どうやってそれ を嗅ぎつけるのか分からないが、きっとやっ て来る。親父自身は家の中のカッコ悪いことは何でも 隠す性分だから自分で言うはずがないし、フ ィリピン人のお袋と伯父さんとはものすごく 仲が悪い。妹も家を出ているから告げ口は出来ないはず で、なんで伯父さんがそれに気づくのか、お れにはさっぱりわからなかった。この伯父さんは解体屋(引っ越しなんかもや る)の社長をしていて歳はもう六十に近いが、 見た目はヤクザそのものだった。以前は実際 に多少のつながりがあったんじゃないかと思 う。おれは小さい頃から動作と…
ここに長らく小説を載せていませんでしたが、12月の1日から『コロナの穴』という小説の連載を始めます。 これは旧作でタイトルも違っていましたが、それを直し直し連載したいと思います。 どうぞよろしくお願いいたします! 長編小説ランキングにほんブログ村
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ここのブログで次に連載する予定の小説は『コロナの穴』です。いまぽつぽつと手を入れています。連載開始の時期などまたお知らせいたします。長編小説ランキングにほんブログ村
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こちらで連載・完結しました小説『名曲聴いて、なんになる?』の第1章と第2章、わずかですが加筆修正の上、註をつけて note でまとめました。100 円です。こちらからどうぞ。↓https://note.com/ohabari_t7
【お詫びとお知らせです】 『世界皇帝が言いました。』は短編小説のつもりで書き出したのですが、書いているうちに終わりが見えなくなってしまいました。 そこで、このはてなブログでは、すでに公開した24節までで尻切トンボのまま終わらせていただきます。すみません! 書きたいことだけ沢山あって、それが全然整理出来ていない状態なのです。 今後書き継いで完成させたい意志はありますので、いったん中断して筋書きをまとめその上で、このブログではなくnoteにぽつぽつ出して行きたいと思います。 こちらでは代わりに既存の作品を直し直し連載出来ればと考えており、決まり次第お知らせいたします。
世界皇帝が言いました (24) 「でも、これからもし俳句作らないといけな くなったら、お父さんに教えてもらえますね」末永はとっさに (ふん) と鼻で笑うような表情をして見せたが、腹の 中では動揺していた。安純がさっき言ったこと (人間の思い上がりはものすごく強いものだか ら、そこを手玉にとれば小金を出させるのは 訳もない) が彼の胸を抉っていた。(もしかして、後光が差したのも天岩戸の連 想とかも、みんなおれののぼせ上がりだった のか?)そう思うと、これからこの娘と二人きりで暮 らしていくのは忌々しかった。 そんな末永の胸の内など知らぬげに 「でも、この頃になって思うのは」 と、安純は少し声の調…
世界皇帝が言いました (23) 「教団じゃ、幸せだったのか?」 彼は娘の横顔に向かってそう聞いた。「幸せか不幸せか、そういうことを考えずに 済みました。ひたすら活動……というか、指 示された仕事だけして……リーダーから激励 されて、いつも仲間がいて」「……だったら、それを急に辞めてまた逆戻 りってことになるんじゃないのか?」 「段々にお母さんののめり込み方が普通じゃ なくなってきて……あたしだって、他の人が 見たらずっと、マトモじゃなかったんでしょ うけど、とにかく最近のお母さん見ていて、急に胸の 底の方が冷えるって言うか、我に返るような 気分になってきていました」「じゃあもし、美寿々がおれの…
世界皇帝が言いました (22)コーヒーを二人分買って安純が戻ってくるな り 「なあ?」 と末永は言った。「ああいう教団って、そんなに簡単に辞めら れるもんなのか?」 「ふつうはそう簡単に辞めさせません」 「そうだろう?」「でも、お母さんとあたしは相当浮いてまし たから、教団の中でも」 「おれはお前を信用してイイのか?」 このひとことが自然に自分の口から出てきて、 末永は安心した。「お父さんがそう思うのは当然です」 安純はいったん父親を正面から見て、それか ら通りの方へ顔を向けた。「いくら美寿々が憎いからって、ただそれだ けでおれに付くのか、おまえは? おれが分 からないのはそこだ」 「そうじゃ…
世界皇帝が言いました (21) 「世界皇帝が言いました。『ニッポン人、も っと薄汚くなりなさい。おめーらもう十分貧 乏なんだから、着るもの選んだり洗濯なんか したりしなくていいんだよ!小汚い格好でその辺うろうろしなさい。そう そう、それでイイんだ。貧乏人は貧乏人らし く! 中身の方はよ、おまえら前からもう十 分薄汚いから、これで外っかわも小汚くなっ て完璧』」末永はこれまで世界皇帝に何を言われても (バカバカしい) と思うか他人事のように感じるか、いずれに しても特に感情が動かされるということは無 かったのに、何故か今度は違った。それを反発心と言ってよいのかどうか分から ないが、彼はほんの一言…
世界皇帝が言いました (20) プロテスタントということは宗教だろう。こ れが末永の脳みそに突き刺さった。そのキリスト教の一派が、自分にとって途方 もない意味を持っているに違いないというこ とが、なぜだか彼には分かってしまう。何故といって彼はいまどっぷりと (神話モード) に浸っているからである。するとふだんは感 じないような激しいのどの渇きが末永を襲っ た。 「おれたちは話し合う必要があるな」 末永はそう言って、背中に虫でも入ったみた いにこそばゆく思った。 (てめえの娘に向かって、何てえスカした台詞だ!)けれど、他に言いようがなかったのだ。彼は この長女と (今後のこと) について話し合わ…
世界皇帝が言いました (19) 「あれはね、あのヒトが横浜かどっかのお屋 敷で壁塗ってるときに、そこのご隠居だかお 客さんだかに怒鳴られたんだよ。なにして怒 鳴られたのかはあたしに言わなかったけど、 とにかく帰ってきてから『ムキョーヨーモン』 っておめえ、知ってっかって。『モノを知らない人間のことだろ』って、あ たしがいい加減に答えたら妙に納得しちゃっ てさ、あのヒト。それから何か気に食わない ことがあると、なんでもかんでも『ムキョー ヨーモン、ムキョーヨーモン』って」スポーツ新聞以外はまず文字を読んでいると ころを見たことのない父親が、寝そべって本 を読んでいる末永に『どけ、このムキョーヨ …
世界皇帝が言いました (18)「おれはな、ここに集まってるような連中を 軽蔑してる」 末永はそう言い右手の親指を立てて背後(つま り句会の会場)を指した。すると安純が言う。 「あたしは……Mを辞めました」 (ほう!) またしても打てば響くような答えではないか。父親は句会なんかに出ていてもしょうがない と見切りをつけ、娘は十年以上その活動を続 けてきた教団Mと、もう縁を切ったと言う。(いい流れだ) (神話的で無理がない) 本気でそう思っている彼の背後でまた扉が開 き、今度は声が掛かった。 「末永さん、あの……そろそろ始めますけど」彼は娘にここで待っていろと言い、会場に入 ると真っ直ぐ世話役の男の…
世界皇帝が言いました (17) 「おれはおまえを信用する」 と言う代わりに末永は言った。 「心配しなくてもいい。この上家まであいつ に売っ飛ばされてたまるか」「そうですか」 「アジア人同士戦わず、だな」 思わずそう言ってしまって末永は自分で驚い た。なんだ、この台詞は?安純は表情を変えなかった。だが、こいつは 必ず聞き返してくるだろうと思って娘を見つ めた末永が聞いたのは 「ああ……」 という安純の声だった。否定でも肯定でもない、それでいて困惑とも 言えない 「ああ……」 である。格別感情のこもっていない、小さな声だった。 だがそれでも末永はまあいいと思った。言っ ているおれも何でそれを口にし…
世界皇帝が言いました (16) 外からドアに手をかけたままの安純が (ちょっとこっちで……) という目顔をして見せた。末永は弾かれたように席を立ち、二人は廊下 で向かい合った。 「お父さんは、土地とか家の権利書なんか、 確かめましたか?」「ん?」 安純が母親似なのは百も承知の末永だが、こ れまで彼は自分の長女を美人だと思ったこと は一度もなかった。それがいまは、なかなか の美人……のような気がする。「それは、美寿々が、どうにかするっていう ことか?」 「用心だけはしておいた方がいいと思います」末永は昨晩、国債が売られてしまったのを確 認した直後に、土地の権利書その他、不動産 関連の重要書類と実…
世界皇帝が言いました (15) 例の“後光騒ぎ”で、まだガヤついている句会 の会場。その扉が、外から細めに開いた。いつも遅れて句会にやって来る者は珍しくな いし、この地域センターの職員なども、何か ちょっとした連絡で入って来ることがよくあ る。だがこのときは、タイミングの問題なのか、 ドアノブを回すカチャリという音がしたとた んに、その場の全員がハッとして扉の方を見 た。またその外にいる誰かも、あたかも役者が溜 めを作って登場するみたいに、絶妙な一呼吸 をおいて顔をのぞかせた。女の顔だ。 (天の岩戸!) 末永はそう思った。二十代か三十代か、ドア からのぞいた顔が輝いている。だがそれは、彼の娘の…
世界皇帝が言いました (14) それでももう一度、と思って彼がまた食事に 誘ったのは、可愛らしさで評判だった遠藤と は対照的にさっぱり化粧映えがせず、ずんぐ り体系で髪型まで野暮ったい羽根木という女 子社員だ。結果はもっと惨めだった。羽根木は後ずさり して 「いいです」 と困惑顔で言った。それでも末永が 「美寿々と結婚してもいい」 としゃあしゃあとした顔で母親に言ったのは、 決して彼が自分に見切りをつけたからではな い。そういう考えの筋道はこの男にない。末永は当面の関心事を他のことに移したのだ った。自分が美寿々と結婚すれば、美人の妻 を持った自分に会社の若い女たちが一目置く だろう、と。そう…
世界皇帝が言いました (13) その後十年以上、末永は大高親子の名前を聞 かなかった。ただしそれは母親が彼に言わな かっただけで、この間にも親子は、年に数回 末永工務店に顔を見せていた。末永がそのことを知ったのは会社勤めを始め て五年も経った頃である。ちょうどその頃、 家を出て一人暮らしを始めようかと考え出し ていた末永は、或る晩母親からこう言われた。「あんた、彼女いるのかい?」 「ああ? なんで?」 「いないんだろ」 「だったらどうなんだよ」「美寿々を覚えてるだろ?」 「……」 「大高美寿々だよ」末永の母親は、自分が大高久美の娘、美寿々 をこれまで一度も他人とは思わずに扱ってき たという話を…
世界皇帝が言いました (12) 末永信の妻、美寿々は三女の朱音(あかね) が小学校にあがる頃から教団Mの集まりに通 うようになった。初めのうちは、こんな話を聞いたとか知り合 いの誰彼に会った、というような報告を末永 にしていたが、彼がほとんど相手にしないの でそのうち何も言わなくなった。末永は家の金を全部、光熱費の支払いまで自 分で管理していたから、妻が毎月彼から渡さ れる分でやりくりしている限りは、どんな宗 教だろうと気にしなかった。避暑地で合宿する何とかセミナーに行きたい (十数万の費用がかかる)と美寿々が言って きたことが一度だけあるが、末永は 「そんな金は出せない」 と答え、彼女も食い…
世界皇帝が言いました (11) 叫んだ須藤の声がかん高く素っ頓狂だったの で、末永の向かい側に座った十人ほどは一様 に驚いた顔つきでこちらを見た。その宗教画のような厳かさ。いや、これは実際にこの場面が厳かだったと 言うよりも、末永がイメージでこの空間を俯 瞰した結果 (宗教画みたいだ) と勝手に思ったのである。そのくせ (たとえばそれは、どういう宗教画か?) と問われても、彼はすぐに答えることはでき ない。(なんか、まんなか辺りに光が差していて、 それに照らされた誰かをサ、周囲の人間が引 き気味に見つめてるみたいな、あるだろ、そ んな絵が?) そもそも須藤が後光と言ったのは、ちょうど その時刻…
世界皇帝が言いました (10) 「そろそろ清記用紙を集めたいと思いますの で、まだの方、お急ぎ頂けますか? あと、 選句の方もよろしくお願いします」末永はしばらく迷っていたものの、マスクの 句の作者が分かるまではどうしてもここに居 たいと思い、席について清記を続けた。「マスクして幸せそうなニッポン人」アジア人同士……というのも謎だが、この句 も全くのところ彼には謎だった。しかしさっ きのことがあるから、隣の都賀はこの句の作 者候補からは外していいだろう。だが、それ以上にはもう推理の働かせようが ない。十人程度の出席でも作者当ては意外に 難しいのに、今日は末永が見かけたこともな い人たちが何人も…
世界皇帝が言いました (9) 「法律が、どうかしたの?」 「いや、まぁ一般論として……」 「ウチの息子がロクでもない大学の、一応法 学部出たんだけど、今じゃ派遣会社のマネー ジャーだからねえ」「ああ、そう」 「自分で言ってるよ。『オレは奴隷隊長だ』 って。『オレ自身も奴隷なのに、奴隷をひっ ぱたくのが役目の奴隷隊長だぜ』って」 「ふーん」「あとねえ、東京地検特捜部ってのは正義の 味方じゃないんだって、ウチの息子言ってた わ」 「ああ?」 「東京地検特捜部って、アメリカに言われて ヘイコラ動くんだって。いっつもそうなんだ って。だからあの、正義の味方みたいな雰囲 気にだまされちゃダメなんだって」…
世界皇帝が言いました (8) 須藤昌枝は続ける。 「その友達って言うのがサ、小林さんって言 って中学校の国語の先生してたんだよ昔。そ れが今度、七、八人仲間集めて雑誌作ってみ ない?……ってあたしに言ってきたの」須藤は気分屋で、機嫌の良いときは今日のよ うによくしゃべるが、機嫌が悪いとこちらが 挨拶してもぞんざいに頷くだけで返事をしな かったりする女だった。 「『須藤さんあんた、顔が広いんだから仲間 集めてよ』なんて、あたし小林さんに言われ ちゃって、どうしようかなって思ってたんだ けど、実は真っ先に末永さんのこと思い浮か べたんだから」 (雑誌だあ? 恩着せがましく、なんだいそ りゃ)末永は…
世界皇帝が言いました (7) 一応末永の自覚の表面では、今日こうして句 会に出てきたのにもそれなりの理由はある。五千万円超の金を自分が失い、その動揺から さらにまた墓穴を掘るようなことをしでかさ ぬために、敢えてまるで関係の無い、こんな 句会のような集まりに出て一度は頭を冷やす ことこそが、かえっていい結果につながる…… という理屈がそれだった。 では実際ここへ来てみて、自分の頭が冷やせ そうか? (いやそれは、まだ分からない。句会の本番 はこれからだし) 彼は自分に言い聞かせていた。(それにしても、アジア人同士戦わず……って、 何だったんだ、あれは?)隣の席の都賀は、もう末永の方を見ていなか…
世界皇帝が言いました(6) なにしろ今日は、あの世界皇帝のことがある。 自分の聞き間違い、あるいは世界皇帝による 悪意の撹乱(!)といったことさえ、ないとは 言い切れないだろう。「いやそれは、……失礼しました」 何とか自分を抑えて答え、のろのろと座りか けている末永を、嫌な目で都賀がじっと見て いる。そのうち、出席者それぞれが句を書き込む短 冊が末永の手元にも巡ってきた。彼が今日の ために作っておいたのはこんなものだ。「花疲れ猫のあくびに癒さるる」「歩けども進む気のせぬ春の宵」「片付けの終わらぬ部屋に春暑し」末永は下手な字で短冊に自作を書き付けなが らふと (国債のいずこへ消えし春の暮) とい…
世界皇帝が言いました (5) 末永が今日の句会の会場になっている緑大橋 地区センターの二階会議室の一つに入ってい くと、席はほとんど埋まっていた。いつも通り長机六つで四角形を組み、折り畳 み椅子を二十ほどぐるりに並べているだけだ が、彼はかつてこの場所がこんなに人で埋ま っているのを見たことがない。もっとも、机の上にはアクリル板を席ごとに 置いてコロナウィルス感染予防をそれらしく してはあった。 しばらくウロウロした後ようやく空席を一つ 見つけたので、仕方なくそこに座る。それは、 いかにも萎びた感じのする細長い顔に、黒子 が幾つも散らばっている都賀という男の隣だ った。都賀は末永と同年輩だが、…
世界皇帝が言いました (4) 顔かたちが父親には似ず母親の方によく似た 長女の安純は、二十年ほど前に父親も母親も 出ていない「まずまず名前の知られている大 学」を出て、厚生労働省の役人が天下ってく る団体の職員になった。そして三十歳を前にして、職場に頻繁に出入 りする関連団体の妻帯者と不倫関係になった。 その男の妻が電話してきて美寿々はこのこと を知り、末永に告げた。「バカな女だ。止めさせろ、そんな不倫なん て」 まだ五十台だった末永は吐き捨てるように言 ったものだ。「あたしは昨日、なんべんも言いましたよ。 聞きゃしませんよ、あの顔じゃ」 「なんだ、『あの顔』って」 「見りゃわかります。今度は…
世界皇帝が言いました (3) 昨日の晩、妻の美寿々が末永の国債を売り、 その現金をすでに引き出してしまったことが 分かった。廊下で安純に、お母さんはお父さんの国債を 売ってしまったと告げられ、末永があわてて 証券会社のサイトにアクセスすると、確かに 先月から十数回に分けて国債が売られており、 口座の残高もほぼゼロになっていた。パソコンの操作などからきし分からないと言 っていて暗証も知らないはずの美寿々がどう して……。「Mの人間が誰か、手伝ったんだと思います」 安純が言った。Mというのは、美寿々と安純 が会員になっている宗教団体だ。 (お前は、どうしておれにそれを言う?)「お母さんはこの献金で…
世界皇帝が言いました (2) 末永は二十五年勤めた印刷会社を五十台の 終わりで辞め、その後約七年勤めた配送会社 も昨年末で辞めた。 それ以降は、というのはつまり最近はという ことだが、地元の文化センターで月二回の俳 句同好会と月一回の川柳サークルに通い、あ とは最寄りのショッピングセンターと自宅周 辺をうろうろするばかりの典型的な年寄りの 暇人になった……と思っていた。 しかし昨日の晩、もう何十年も口をきいて いない長女の安純(あすみ)が廊下の暗がり で彼を呼び止め、飛んでもない報告をしてき た。 それから彼は尻に火がついたような気分だ。 だから (世界皇帝どころの話じゃねえや、こ っちは!)…
世界皇帝が言いました (1) 制服の中学生が三人、コンビニ駐車場の隅 でふざけあっている。一人が立ったりしゃが んだりをしきりに繰り返し、あとの二人がそ の彼を指差して下品に笑っていた。コンビニの隣は曹洞宗の寺で、そちらの敷地 から駐車場へヒョロヒョロと枝先を伸ばして いる貧弱な桜の樹が、それでも南風にときど き花びらを散らしていた。ここまでは末永信(すえなが・まこと)の目 に実際に映った光景である。しかしそこで声が聞こえた。 「世界皇帝が言いました。『ニッポン人、立 ってしゃがんで、また立ちなさい』」 (え?)その声は末永の頭の中でだけありありと聞こ えた。続けて声はこう言った。 「『ニッポ…
来週の23日から短編小説『世界皇帝が言いました』を連載します。どうぞお楽しみに。長編小説ランキングにほんブログ村
昨日の書き込みで 『名曲聴いて、なんになる?』 完結しました。長い間お付き合い下さって ありがとうございます!心よりお礼を申し上げます。 今後の予定ですが、 ここで連載した原稿をまとめ 必要なら註を付けた上で noteに載せたいと思っています。十月末までには何とかしたいです。 進み具合をこちらでも ご報告いたします。また、このブログは一週間ほど お休みをいただき、その後 短めの小説を連載する予定です。どうぞよろしくお願いいたします!長編小説ランキングにほんブログ村
お見送り (12) 「どうした? ずいぶん時間かかるな」 片桐社長が言った。 「そんなに難しいのか? ベストを選ぶのが」「あ、……これです。これ。これを探してまし た」 丘一郎があわてて取り上げたのはイヴォンヌ ・ルフェビュールの弾いたラヴェルの『クー プランの墓』だった。前の年の誕生日に、そ れを亜弥がくれた。そうしてそれを社長に差し出してから気がつ いた。この曲は偶然にも丘一郎と社長と亜弥 との、最初の顔合わせに関わっていた。 まだ大学院生だった頃の亜弥がアルバイトし ていた上野のピアノ・バー。そこへ向かう途 中のタクシー内で二人が中学生みたいに密談 をした。向こうに着いたら、こんな「通っ…
お見送り (11) むろんそれは丘一郎が何か証拠を示して人を 説得できるようなものではなく、ただ彼が長 年モーツァルトの音楽に親しんできた結果、 ふっとやって来た直感だった。しかし、だからこそ丘一郎はからだの奥の深 いところで戦慄した。その直感は、むかしレ コードを聴き始めた頃の彼が、イイ気なお勉 強として仕入れた知識とはまったく別のとこ ろからやってきたからだ! ただお勉強だけをして、戦争や厳しい人間支 配の現実から出来るだけ遠ざかろうとしてい た昔の丘一郎も、レコードやCDの解説を見 て一通りのことは知っていた。つまりそのピアノ四重奏曲が作られた当時、 楽譜出版社がモーツァルトに仕事を依頼…
お見送り (10) それまで彼は (モーツァルトに関する謎めいた話題) としてしかフリーメーソンのことを認識して いなかった。だが、モーツァルトにとってフリーメーソン への関心はほとんど命懸けのものだったろう。 なぜといってモーツァルトは、とうていハイ ドンのようには貴族社会と折り合いがつかな かったのだから。もちろんモーツァルトの生活も相当に貴族社 会(の経済力)に依存していたけれど、ハイド ンのように貴族の下僕を演じることは大変な 苦痛で、またそういう目で世の中を見れば、貴族たち がするような分け隔てをせずに付き合ってく れる音楽好きの富裕市民たちが、いかにも将 来頼もしく映っていたはずだ…
お見送り (9) 「どうした? なに見てる? おれの顔に なにか付いてんのか?」 「あ……いえ」「さあ、それじゃ。最後におまえのいまのベ ストCDでも聴かせてもらって、帰るとする かな」 「分かりました」丘一郎はすぐに立ち上がり、その頃食卓の横 の小テーブルの上に無造作に積み上げていた CDの山を目で追いはじめた。そうして漠然とした予感にとらわれた。(たしかにおれは、人間の生きてる社会と距 離を置きたくて、この人にその場所を与えて もらった)しかし、 (それだけでおれは、おれの一生を終えるこ とが本当に出来るのか?)そんなはずはない。そんなはずはないよ……という自分の声を丘 一郎はアタマの中で…
お見送り (8) だが、なにかの仕事を選んでわずかな金を稼 いでいくという、それきりの暮らしを続けて 行くだけでも、人は単に職場の現実を痛いほ ど叩き込まれるだけでなく、そこから徐々にもう少し広い世界、この井戸 (職場)の外に広がっている空間について学ぶ ことを余儀なくされる。 例えば羽振り良くみえた社長や重役たちが実 は尻に火がついたような生き方をしていると 知って (なんだ、ありぁ?) と思ったりするところから始まりA社が、B社やC社には最初から逆らえない と決まっているのと同様、D国はE国やF国 にからきし頭が上がらないとか、見かけ上はまったく対等に振る舞っている政 治家Gと政治家Hがな…
お見送り (7) そうして彼は片桐社長の一本釣りでビル管理 清掃会社「きんつば」に入った。どういうことか?これは要するに、彼の願いが叶えられたとい うことではないのか? もちろん片桐社長が 「よし園部。おまえは戦争しなくていい」 と保証してくれた訳ではない。片桐社長にそういう保証が出来る訳でもない。 だいたい戦争の話なんて、片桐社長と丘一郎 の間でたぶん一度もテーマになったことがな かった。 それでも社長がああいうポジションを丘一郎 に与えてくれたということは(分かった、お前を世の中から切り離してやろ う) と言ってその通りにしてくれたようなもので はないか。表面的には (戦争やだ。戦争恐いか…
お見送り (6) 丘一郎少年はこれを機に、戦争と平和につい てより深く考えるようになって……というよ うなことはまるでなく、ただひたすらに念じ るようになった。(ぼくが生きてる間に大きな戦争、起こらない でくれ、頼む) と。 (あと、徴兵制も復活しませんように。お願い です!)これこそは彼の胸の底から絞り出される心の 叫びであり、それ以上のものはない真実の願 いだった。 それでいて、丘一郎がこれほどの願いを一度 でも近しい誰かに打ち明けたことがあるかと 言えば……それはない。冗談まじりにさえ 「おれ戦争が恐くて恐くて。とにかく生きて る間は勘弁して、戦争」 とは言わなかった。が、戦争に関する話…
お見送り (5) 丘一郎は (顔の形が変わるほど殴られても、人間は死 なないんだ) とは思わずに(ぼくは死ぬ! 顔の形が変わるほど殴られ たら、絶対ぼくは死ぬ) と思った。長い沈黙のあと胸をどきどきさせながら 「またいつか、戦争ってするんだよね?」 そう丘一郎が尋ねると父親は答えた。「まあ、歴史って戦争の繰り返しだもんなあ。 いま日本には徴兵制ってないけど、復活する ときにはあっけなく復活するもんなあ、ああ いうのは」「ぼくが生きてる間に復活する?」 「わからんなあ」父親は正直にそう答えたあとで、息子が異常 に緊張しているのに気づいたらしく 「しかし、今度大きな戦争が起こるとしたら 核戦争だっ…
お見送り (4) 「おれがあそこで死んでたら、当然おまえは 生まれていない」 (!) 父親はまったく当たり前のことを言っただけ だか、それは丘一郎にとって非常なショック だった。そうして、自分なんか別にこの世にいなくて も別にどうってことないんだ……と思って彼 は呆然とした。 「お前の友達のおやじさんたちだって、たい てい運良く生きて帰ってきて、子どもができ たんだよ」 父親はそうも言った。父親はまた、軍隊に入って最初に撮った集合 写真を実家に送ることが出来なかったという 話もした。「なんで写真が送れなかったの?」 「ぶん殴られ過ぎて、顔がこーんなに膨れち ゃってたからさ」 「え? 誰が」「お…
お見送り (3) するとこのとき、おかしなことに丘一郎のア タマは急に自分の少年時代の頃に飛んだので ある。妻のイタリア留学の話と接点らしきものはな にもない。強いて言うなら、妻にとってあの 留学時代の経験がただのむかしの思い出では なく彼女の一生を貫く本質的な経験だったよ うにそれを聞かされ刺激を受けた丘一郎も、丘一 郎にとっての本質経験を思い浮かべてみよう と、無意識にそう思ったのかも知れない。 それは当時の少年丘一郎が戦争について考え ていたことだった。対米戦争の敗戦から十年以上経って彼は生ま れている。子供の彼を取り巻いていたあの時 代の雰囲気は(日本は戦争に負け、今ではすっかり平和国…
お見送り (2)「でもねえ。やっぱり違うんだよ、ガイジン の下手くそは」 「ああ?」「下手くそなくせにがむしゃらにグイグイ押 していって……こんな馬鹿な、って笑いそう になるけどすごい気迫で押し続けて、そんで 最後にはそれなりに格好がついちゃう……み たいな、何て言うんだろうアレは?」「結局、馬力が違うってことか?」 「まぁそれもそうなんだけど。こう言うと変 かも知れないけど、やっぱり生き方が根本か ら違うんだね。目標に向かって直進しかしな いって言うか。あたしだって一応、目標は決めてそれに向か って進んでるつもりなんだけど……ああいう の見ちゃうと、やっぱり土台から違うんじゃ ないのかって気…
お見送り (1)亜弥が自分とクラシック音楽の関わりについ てもう話すのを止めようと決めたらしいのは、 多分洋一の生まれた翌年だ。それまでも丘一郎と亜弥とは、ほんのときた ましかクラシック音楽絡みの話題ではしゃべ らなかったが、それでもたとえば片桐社長が 丘一郎たちの家へ遊びに来た日曜日など、亜弥は社長のために予め調律を済ませたピア ノでシャブリエなんかを弾き、懐かしそうに イタリアの思い出話までしたものだった。そんな機会に亜弥の口から聞いたことは、い までもハッキリと丘一郎の耳に残っている。(ガイジンってさあ) 亜弥は、さっきまでちょっと済まし気味にで す・ます口調で社長(叔父)と話していたく…
その死 (2)この日の昼間、空が劇的だったことをなぜか 丘一郎は思い出していた。空がドラマチックに見える、ということがあ るのだ。それは単に、嵐で雲がちぎれ飛ぶと いうような意味での劇的ではなくて、こちらに低い空の雲もあれば向こうに高い空 の雲もあり、平板に見える雲があれば立体的 で彫刻のような雲もあり、陽光にぎらっと輝いている雲もあれば、くす んで陰になりながらそれに纏わり付いている 雲もあり……というようにあらゆる種類の雲が一堂に会した印象で、そ れでいて空全体があくまで広く明るい。そう いう空を見上げ、これはどういう種類の胸騒 ぎなのか、と考えたことを丘一郎は思い出し ていた。「そうなっ…
その死 (1) 片桐社長は二十一世紀にはいって数年も経な いうちに亡くなった。心筋梗塞だった。都心のホテルでの会合中に気分が悪くなり病 院に運ばれると、その日の内に死亡したのだ。丘一郎が社長の死に顔を見ることが出来たの は、もちろん有名無実の秘書室長としてでは なく亜弥の夫としてである。「早死にって言うほどじゃないかも知れない けど、少なくとも長生きの家系じゃないから ね、片桐は」 霊安室で丘一郎に横顔を見せたまま静かにそ う言った亜弥は 「あんた、泣かないね」 と丘一郎の肩に手を置いた。それから親族が集まり始め、丘一郎と亜弥は 二人だけで通夜の場所へ向かった。タクシー の中で丘一郎が思い返す…
CD選びは続く (4) さて残るは1枚、ハイドンがいわゆるクラシ ックのスタイルに統一して見せる前の、世俗 音楽の典型をどこに求めるのか、だ。?ウィリアム・バードを選んだときのように、 今度も自分が心から感動したその音楽で教会 とは縁の薄いところにあるものを選ぼう、所詮は当てずっぽうのお勉強知識よりも、自 分の中にダイレクトに入ってきた音楽を優先 しようと丘一郎は思った。 棚を目で追っていくと、やがてウィリアム・ ボイスのシンフォニアのCDが目についてピ ンとくる。今度もまたイギリスの音楽家でウィリアム。 1732年生まれのハイドンに対して、ボイス は1711年の生まれだから隔たりは小さい。も…
CD選びは続く (3) ウィリアム・バード(1543 - 1623)はルネ ッサンス期の音楽家で、ルターの教説は認め なかったヘンリー8世が、それでも自分の離 婚を押し通してローマカトリックと決別した、 そのほぼ十年後イギリスに生まれている。バードは国王が実質の現人神(あらひとがみ) になってしまうイギリス宗教改革の時代を、 迫害されやすいカトリック教徒として生きて、 しかも英国国教会のために作品を残したのだ。そういう矛盾と葛藤の見本のような立場にも 関わらず、時代を超えた奇跡のように澄み切 った彼の音楽をきくと (音楽史そのものが一瞬でぶっ飛んでしまう) ようなショックを受ける。 丘一郎は …
CD選びは続く (2) 人間支配の方法そのものである宗教……平等 や人権といった理念の姿をとり、地球規模で いまも人間をガッチリと縛り付けている……を根に持つこの世界を、日本人の大多数はい かにも頼りなく、明日をも知れずに漂ってい る。 音楽と比べるならば、彫刻と絵画に代表され るルネッサンス芸術の輝きは、はるかに見え やすい訳だが、それでも日本人にはたぶんほ んの上っ面しか分かっていないのだろう。だが、ルネッサンスの人間解放とその輝きを 追いかける宗教改革なしに、バロックもクラ シックもあったものではないのだ。いや、世情に左右されない音楽に固有の論理 で楽曲が変化、進化、深化していく面もそれ…
CD選びは続く (1) 聖なるものと世俗のものとがそれぞれに己の 領分を作ってバランスを取っていたようなバ ロック音楽の時代から、聖と俗の境が限りなく曖昧になり、やがて俗 なものの内にこそ聖なるものが垣間見える時 代へと、その移り行きを象徴するような三枚。 丘一郎は自分のCD棚を眺めて、さてどれを 選んだものかと盛んに思案中である。最初に決まったのはハイドンのピアノトリオ のCDだった。アンドラーシュ・シフのピア ノ、塩川悠子のヴァイオリン、ペルガメンシ コフのチェロという取り合わせだ。仕事から解放された快晴の日曜日の朝に、こ れほどふさわしい音楽はない。ひたすらに明 るくまだ何の崩れも見せて…
風向き (9) また、この騒動の同じ年には株式の公開とい うきんつばにとっての大事件があり、さらに その七年後にきんつばは大手建設会社の傘下 に組み入れられる。それは片桐社長によるワンマン体制の終わり ということだった。鬱々として楽しまぬ…… という日々が社長にやってきた。だがそれは、丘一郎が直に社長の憂鬱そうな 毎日を目撃するようになったというのではな い。秘書室で丘一郎が対面する社長の様子に は変わりはなかったのだ。だから彼は亜弥から(つまり片桐家の一族情 報から)社長がいまでは両腕をもがれてしま ったのにも近い有り様だと聞かされ仰天した。これはうかつなどという次元の話ではないが、 大事の…
風向き (8) 驚くべきことだった。いや、丘一郎が何も知らずにいたのが (驚くべきこと) なのではなく、こういう形でその話が丘一郎 に伝わったというのがビックリだった。だがいずれにしても、彼の方からヤマザキに 言ってやれることは何も無かった。それがオトボケでもなんでもなく、本当に何 も知らないのだということを、この総務課職 員は見抜いただろうか?ともかくもヤマザキはそれほどには食い下が らず、最後までコントロールを保って、苛立 ちも怒りも見せることはなかった。 丘一郎は途中から (早く弁当を食ってしまおう) と思い、味も何も分からないメシとおかずを 機械的にかきこんだ。(こいつはこの後、おれに…
風向き (7)それはいかにも偶然を装ってはいるが、丘一 郎には明らかに (待ちぶせ) と取れるような振る舞いだった。この男のつるっとした愛想のいい笑顔を見上 げ、丘一郎からは戸外の解放感などはいっぺ んに吹き飛んでしまった。そういうことに決して敏感ではない丘一郎だ が (ひょっとして、こいつはおれをつけてきた のか? それとも、予め調べておいたんだろ うか?) と思う?相手の 「こんにちは」 のボルテージが百だったとすれば、丘一郎が 返した 「こんにちは……」 のボルテージは十五未満だった。(だけど、おれがここで弁当を食ってること なんか調べ上げて、いったい何の役に立つん だ!) そう思うと、…
風向き (6) (外にはつねに嵐が吹いているんだ!) それは不況の嵐や、コストカットあるいは首 切りの嵐ではなく、市場が大きくなっていく ときの競争の嵐だったのだが、丘一郎にとっ ては似たようなものだった。(北風だろうと南風だろうと、おれなんかも し外の風に直接吹かれたら即アウトだ……)丘一郎はとっくに覚悟を決めて、ビル管理業 界の情報などには自分から近づくまいとして いたが、それでも断片が少しづつ積み重なる ようにして (時代の変化) を知らざるを得なかった。たとえばそれは、コンピューターを使ったビ ル管理のデジタルコントロール、エネルギー のコージェネシステムさらには遠隔管理…… などとい…
風向き (5) この事件のひと月ほど前に丘一郎はほんの気 まぐれから帰り道、会社の近くに停留所のあ る路線バスに乗ってみた。車内はぎゅうぎゅう詰めではないものの、前 の方からは後部座席をまったく見通せないく らいに込み合っていた。バス停の三つ分を走って、その車内がやや空 き始めるまで気がつかなかったのだが、この バスにはきんつばの社員二人(以上)が乗っ ていた。例の仮社屋からは、丘一郎が乗ったのよりひ とつ前のバス停の方が近かったのだ。「うちはその辺のこと、何を聞かれたってマ トモに答えられるヤツがいないじゃないの。 マスノさんだってテキトーにお茶濁してるだ け」 よく通る男の声が丘一郎の後ろ…
風向き (4)「おい、なんだそのツラはぁ?」 「あ、でも……スケッチなんて……わたしに出 来るかどうか」 「だからそんなの、出来るレベルでいいんだ よ。上手けりゃそれに越したことねえが、下 手なら下手でしょうがない」 「はい」「練習してみりゃいいじゃねえか、スケッチ の」 そのとき秘書室のドアがノックされ、社長が 眼で合図するので丘一郎はプレーヤーの針を 上げ、何となく入口からはステレオ方面が見 えないような位置に立って 「はい、何でしょうか?」 と返事した。「片桐社長はいらっしゃいますか?」 「ええ」 「社長にお客さまです」 若い男性社員の声だった。社長はすぐにこう 応じた。 「分かった。応…
風向き (3)思えば社長と丘一郎の最初の出会いである面 接に、会社の幹部二人は確かに同席していた が、それでも社長が履歴書の (趣味:クラシック音楽鑑賞) に食いついて上野にあるというピアノ・バー の話になっていったのを聞いていただけで、 本当に何がこの二人を結びつけていたのかに ついて (これだ!) という確信まで持てずにいたに違いない。だからこそ、彼らはあの (出会いの場面) に関して滅多なことでは社内で話題にしなか ったのに違いない。第一、丘一郎は入社以来、 上野のピアノ・バーへ社長のお供で行ったこ とを誰からもからかわれたことがない。それは、からかうからかわない以前に、あの 幹部二人以…
風向き (2) ときどき (何だ、こいつ?) という視線をちらちら浴びながら、彼はパイ プ椅子やら机やらを言われるまま物品庫から 持ち出して会場に並べていった。最初コの字型にした机を途中から教室スタイ ルに変えるとか、配布資料に不備が見つかっ て書類をいったん回収だのといった総務の不 手際もあり、他の社員以上に右往左往させら れた丘一郎の背中を、誰かがバシッと叩いた。振り向くと片桐社長が立っており 「おまえまで駆り出されたんか?」 と笑って聞いてきたものの、丘一郎の返事を 待たずにすぐ向こうへ行ってしまった。だから丘一郎もまた作業に戻り、倉庫に戻そ うとしていた折り畳み机の脚に力を込めたの だ…
風向き (1) 丘一郎と亜弥の息子・洋一が十歳になり (土星の輪っかを見るから、ちゃんとした望 遠鏡が欲しい) などと言い出した頃、丘一郎は相変わらず出 勤日の九割五分を秘書室にぽつねんとして過 ごす毎日を送っていた。残りの五分というのは、入社試験の準備に関 わる事務作業の一部と筆記試験の監督や採点 など……という春先限定の仕事だった。それ らもいちいち社長が許可したものだ。会社は少しづつ大きくなっており少し離れた 場所に土地を借りて仮社屋を建て、そこで臨 時雇いのビル清掃員の事務手続きや常駐管理 員の研修なども始めていた。慢性的に人手が足りず清掃員だけでなく日勤 のオフィスビル管理者を正式に…
交差点で (5) ともかくも、この 「涙の秋葉原(から御茶ノ水へ)事件」 の後に丘一郎はなんと夢の中で、涙ながら に片桐社長に訴えるの挙に出た。「教えて下さい。ボクは、いったい何者なん です、社長にとって?」 と。 「ん? おまえ? おまえはまぁ、オモチャ だな。おれにとっての」簡単な暗算の答えでも言うように、およそ罪 のない顔でそう答える片桐社長は、この夢の 中でなぜか狩りに出かける西洋人のような格 好をしていた。ゴツいブーツを履き丈の短い上着を着て帽子 をかぶり手袋をはめている。 「だけど、勘違いすんなよおまえ!」 そう言って社長は丘一郎を指差した。「おまえはいつでも逃げられる。おれはおま…
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