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五島高資
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2021/03/15

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  • 芭蕉百句 100 haikus of Basho 完結 !!

    何とか芭蕉百句の解説と英訳を終えました。これも陰に陽に支えて下さった皆様のお蔭と心よりお礼申し上げます。不備も多々あると思いますので、お気づきの点はご遠慮なくお申し付け下さい。推敲を重ねた上で、きちんとした形で出版できたらと考えています。深謝まで。 2021年5月5日 五島高資

  • 旅に病で夢は枯野をかけ廻る

    たびにやんでゆめはかれのをかけめぐる 元禄7年(1694)10月8日の作。『笈日記』には前書として「病中吟」とある。たしかに芭蕉が最後に詠んだものであり、辞世の句としてよく知られている。 天野桃隣の『陸奥鵆』には、同年5月、江戸を発つ際、芭蕉が「此度は西国にわたり長崎にしばし足をとめて、唐土舟の往来を見つ、聞馴ぬ人の詞も聞ん」と願い、西国行脚の意向を持っていたことが記されている。そうすると、同年秋に大坂に芭蕉が訪れたのは、同地の門人同士の諍いを仲裁する目的もあったが、西国行脚の途次でもあったことになる。 芭蕉は大坂に着いた頃に悪寒と頭痛を催し、いったん恢復するが、9月29日より下痢が続き容態が…

  • 秋深き隣は何をする人ぞ

    あきふかきとなりはなにをするひとぞ 元禄7年(1694)9月28日の作。大坂を訪れていた芭蕉は、翌29日に催される芝柏亭の句会に招かれていたため、前日に詠んだ掲句を予め送っていた。しかし、当日、芭蕉は体調不良のために欠席している。おそらく前日から何らかの症候があったのだろう。そして、そのまま病の床に就いた芭蕉は再び起き上がることはなかった。 深まり行く秋のなかで、深閑とした隣家に思いを馳せるが、その消息は分からない。別に詮索しているわけではなく、隣人も自分と同じように隠棲しているのだろうかと、むしろ、共感の思いを深めているのである。やはり、俳諧の道は孤独とは言っても、発句は、他者への挨拶であり…

  • 此道や行人なしに秋の暮

    このみちやゆくひとなしにあきのくれ 元禄7年(1694)9月の作か。同年9月23日付の「意專・土芳宛」書簡には、「秋暮」と前書きして「この道を行く人なしに秋の暮」とあり、これでは単なる蕭条とした秋の夕景の描写に留まる嫌いがある。 しかし、『笈日記』によれば、9月26日、大坂にて上五が「此の道や」、前書も「所思」と改められている。そして、芭蕉は、各務支考に対して、掲句とともに「人声や此の道かへる秋の暮」を提示し、その優劣を問うたところ、支考が「此の道や行く人なしに独歩したる所誰か其後に随ひ候はん」と応えて、芭蕉もこれを諒としたという。つまり、芭蕉が晩年に志向した「軽み」の至境に門人らがついてくる…

  • 蓮のかを目にかよはすや面の鼻

    はすのかをめにかよはすやめんのはな 元禄7年(1694)6月の作。『うき世の北』には「丹野が舞台にあそびて」と前書がある。丹野とは、大津の能太夫・本間主馬の俳号である。掲句は、丹野邸に招かれて能を鑑賞した際に詠まれたものである。 能面は、その目からは外がよく見えないので鼻の孔から見るという。したがって、面をつけて舞っていると、とどこからとなく蓮の花の香りがしてくるので、その鼻の孔から蓮を覗った。そのことを「目に通わす」と表現したのである。ちなみに「目から鼻に抜ける」とは、抜け目がなく賢いことを意味するが、掲句の場合は逆であり、悠然とした趣が漂っている。また、「鼻」で蓮の花を見るというところに俳…

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芭蕉百句 100 haikus of Basho
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