千年の影引く影や姫小松 高山れおな さわらびや何を握りて永き日を 同 玉苗のふるへたふとし水は空 同 地球より溢れ荒川雪の夜を 同 昭和百年源氏千年初鏡 同 我が狐火も霜夜は遊べ狐火と 同 息白き別れは星の匂ひかな 同 時の日の湖光りつつ眠る 同 挽歌降るべし雲雀ほど高きより 同
芭蕉百句の評釈と英訳(漸次更新中) 100 haikus of Basho selected and translated into English by Takatoshi Goto
ひやひやとかべをふまへてひるねかな 元禄7年(1694)の作。『芭蕉翁行状記』には「粟津の庵に立ちよりしばらくやすらひ給ひ、残暑の心を」と詞書きがある。『笈日記』では、芭蕉が各務支考に「この句はどう解釈するかね」と尋ねると「残暑の句と思います。きっと蚊帳の釣手などに手を絡ませながら、物思いに耽っている人の様子でしょう」と応えている。すると芭蕉は「この謎は支考に解かれたな」と笑ったと記されている。 おそらく、寝そべったまま足を壁に凭せかけた芭蕉が足裏に冷ややかさを感じたのである。壁はおそらく土壁だったのであろう。元禄時代までは「昼寝」は夏の季題とはされていなかったので、その触感はまさに秋の訪れを…
むぎのほをたよりにつかむわかれかな 元禄7年(1694)5月の作。前書に「五月十一日武府ヲ出て故郷に趣ク。川崎迄人々送りけるに」とある。それに先立つ5月初旬、芭蕉の送別会が催された。その際に芭蕉は「今思ふ体は浅き砂川を見るごとく、句の形・付心ともに軽きなり。其所に至りて意味あり」と述べて、門人らに「軽み」を説いている。この旅にて芭蕉が客死したことを思えば、結果的に蕉風俳諧の至境を遺言としたとも言える。 5月11日、江戸を発つにあたり、見送りの門人らに掲句を残して別れを惜しんだ。離別の悲しみに加えて、体力的にも衰えもあり、麦の穂を掴んでやっと身体を支えているといった哀れさが伝わってくる。また、麦…
むめがかにのつとひのでるやまじかな 元禄7年(1694)正月頃の作。早暁、山道を登っていたところ、ちょうど昇ってくる朝日に遭遇したのである。折しも、側には梅が花を咲かせて良い香りを漂わせている。あたかもその芳香に誘われたかのように現れた日輪の場景に「のつと」という口語的なオノマトペによって悠然とした臨場感が巧みに醸し出されている。 ちなみに、以前、気功を極めた老女が舞を舞ったところ、清らかな梅の香りが辺りに広がったということを聞いたことがある。それは天地との交流を介して発せられた氣による現象だったのかもしれない。それ思うと、掲句に詠まれたものは、単なる情景ではなく、芭蕉の詩魂と天地の交流による…
ほうらいにきかばやいせのはつだより 元禄7年(1694)正月、江戸・芭蕉庵での作。蓬莱とは、新年の飾り物で、三方の上に紙、歯朶 、昆布、 楪はを敷き、その上に米、橙 、熨斗鮑、蓬莱、橘 、 勝栗、 野老、穂俵、海老など、山海の幸が盛られた。中国の伝説における「蓬莱」は、東方海上にある、不老不死の三神山(蓬莱、方丈、瀛州)の一つに由来し、新年を縁起物とされた。ちなみに、のちに瀛州が日本と見なされたり、あるいは、日本国内にも仙境とおぼしき各地に蓬莱伝説が残っている。伊勢もまた山海の幸に恵まれた土地柄であり、天照大御神が鎮座する神域として不朽であり、まさに「蓬莱」と言っても良いかもしれない。 掲句は…
いるつきのあとはつくえのよすみかな 元禄6年(1693)の作。同年8月に72歳で他界した榎本東順を追悼する句。東順は、其角の父で膳所藩本多侯の侍医であった。『東順伝』によれば、東順は60歳頃、医業を辞めて隠居し文筆に専念した。『東順伝』には「市店を山居にかへて、樂む處筆をはなさず。机をさらぬ事十とせあまり。其筆のすさみ。車にこぼるゝが如し。湖上に生れて、東野に終りをとる。是かならず大隠朝市の人なるべし。」とある。 東順亡き後に残されたその机の四隅まで見入れば、窓に沈む月の円さと相俟って、「水は方円の器に随う」を思い出させる。そう考えると、その人品は、業にあって良医、筆を持って能書であったのでは…
あさがほやひるはぢやうおろすもんのかき 元禄6年(1693)の作。芭蕉は7月の盆以降、およそ1ヵ月の間、芭蕉庵の門を閉じて世俗との交わりを断った。この頃の心境については「閉関の説」に詳しい。要はそこに書かれた「老若をわすれて閑にならむこそ、老の楽とは云べけれ。」という一文にある。ちょうど、この年、芭蕉は50歳となり、当時では老境の域に入った頃ということになる。孔子によれば「五十にして天命を知る」ということになるが、すでに生涯の大事であった「おくのほそ道」の旅を終えた芭蕉にとって天命は果たされたという思いもあったのであろう。 掲句には、朝顔が凋む昼には門を閉ざして錠を下ろし、庵に籠もって閑寂を好…
しらつゆもこぼさぬはぎのうねりかな 元禄5〜6年(1692〜93)頃の作。『しをり集』には「予間居採荼庵、それが垣根に秋萩をうつし植て、初秋の風ほのかに、露置わたしたる夕べ」と杉山杉風による前書が記されている。 萩は、落葉低木であり、その枝は数条に別れて低く垂れ下がる。風が吹けば容易に撓ってうねる。掲句は、その萩の枝葉に付いている白露を落とすことなく風にゆれている光景をうまく捉えている。 ちなみに「萩」は、本来、中国では蓬の類いを指す字だが、日本では秋に草冠を付けた会意による国字としてハギを指す。『万葉集』でもよく詠まれる植物で、秋の七草の一つとしても知られている。『鳩の水』では「月かげをこぼ…
たかみづにほしもたびねやいはのうへ 元禄6年(1693)年7月7日夜の作。『芭蕉庵小文庫』には、「吊初秋七日雨星」と題した次のような前文が記されている。 元禄六、文月七日の夜、風雲天にみち、白浪銀河の岸をひたして、烏鵲も橋杭をながし、一葉梶をふきをるけしき、二星も屋形をうしなふべし。今宵なほ只に過さむも残りおほしと、一燈かゝげ添る折ふし、遍照・小町が哥を吟ずる人あり。是によつて此二首を探て、雨星の心をなぐさめむとす つまり、七夕の夜は、あいにくの雨天で庵の側を流れる隅田川と小名木川の水嵩も増しており、当然、星も見えないが、あえて芭蕉は杉山杉風らと星祭りを行ったのである。その際、ある寺に泊まるこ…
ほととぎすこゑよこたふやみづのうへ 元禄6年(1693)4月の作。水辺におけるホトトギスの題詠による句。蘇軾『前赤壁賦』の「白露横江、水光接天」という詩句が念頭にあったことや、同じく芭蕉詠の「一声の江に横ふやほとゝぎす」よりも水間沾徳や山口素堂らが掲句を良しとしたことなどが、四月廿九日付「宮崎荊口宛書簡」に記されている。 江に横たわる白露(霧あるいは靄)よりも、ホトトギスの声が横切る方がダイナミックな感興に優れ、また、「江」よりも「水の上」とした方がスケールの大きな場景となることが、掲句に落ち着いた要因であろう。もっとも、中国における「江」には、例えば、長江のように大河の趣があり、私個人として…
にわはきてゆきをわするるははきかな 元禄5年(1691)の作か。『蕉影餘韻』「寒山画讃」(芭蕉真蹟)に、箒を持った寒山の後ろ姿と共に、掲句が添えられている。 掲句には、庭の雪を掃きながらも、雪を忘れている寒山の融通無碍なる閑身自在心が詠まれている。もっとも、実際の雪は掃かれているのだが、その刹那に忘れられているのは「雪」という、記号としての言葉である。それに付随する様々な固定観念を掃き捨てるのが寒山の帚である。そうして初めて、天然造化の雪は物自体へと還元され「物の見えたる光」として、その本性を現す。それは恍惚の瞬間であり、まさに禅機とも言えよう。 季語 : 雪(冬) 出典 : 『篇突』(『蕉影…
ものいへばくちびるさむしあきのかぜ 元禄4年(1691)年頃の作か。芭蕉は、元禄5年(1691)に新築された芭蕉庵に座右の銘として掲句を書き付けている。『芭蕉庵小文庫』では、「物いへば唇寒し穐の風」の前書として「座右之銘/人の短をいふ事なかれ/己が長をとく事なかれ」とある。 言葉を発すれば、秋風が唇にしみて寒いという句意だが、前書を考慮すれば、もちろん、それだけではなく、他人の悪口を言えば心に毒だし、自慢話をすればおこがましいという自戒の念が込められている。いわゆる「口は禍いの門」あるいは「沈黙は金」ということも含まれていよう。いずれにしても、剛毅木訥の仁を重んじる芭蕉らしい句と言える。 ちな…
めいげつやかどにさしくるしほがしら 元禄5年(1692)8月15日の作。江戸深川・芭蕉庵で月見を催した際の句。同年5月から、芭蕉は旧庵の近くに新築された芭蕉庵で過ごし、そこで仲秋の名月を眺めた。旧庵と同じく、新庵も隅田川に小名木川が合流する北の角地にあり江戸湾にも近い。ちょうど仲秋の頃は大潮で海面が高くなっており、川へ面した芭蕉庵の門へも波が打ち寄せるほどであったのだろう。しかも、水面に映る名月の光が帯のように波に揺られながら庵の門口まで迫ってくる。その光の帯は名月と芭蕉庵を結ぶ一本の道のようでもあり、あたかも、波を越えて月からの使者がやって来るような幻想的な光景が想像される。まさに「天人合一…
かまくらをいきていでけむはつがつを 元禄5年(1692)4月の作か。『徒然草』の第119段にも、鎌倉の海で獲れる鰹が賞されている。江戸時代になると、物資の運送も発達して鎌倉あたりの魚介は新鮮なまま江戸へ運ばれた。掲句には、鎌倉で水揚げされた初鰹が活きの良いまま、その日のうちに届けられて、それを味わう江戸っ子の自慢が察せられる。 ただ、私は、それと同時に、鎌倉を脱出して渡宋しようとした右大臣実朝のことが思い浮かばれる。結局、実朝はそれに失敗して、その二年後、鶴岡八幡宮にて公暁に暗殺される。そののち、鎌倉幕府滅亡の際に、新田義貞に攻められて鎌倉で切腹した北条高時ら、あるいは、二階堂ヶ谷に幽閉されて…
うぐひすやもちにふんするえんのさき 元禄5年(1692)正月頃の作か。鴬と言えば、古来、春告鳥とも呼ばれ、めでたく雅なものとして詠まれては来た。ところが、掲句では、その糞が餅に落ちるという卑俗な場景を詠んで、雅俗という二項対立の超克に詩的昇華を求めている。これまで固定観念化されてきた鴬のイメージを打破すること、つまり、鴬という言葉によって隠蔽されてきた「鴬」の本性に迫ることが可能になり、俳諧的な新しい詩性が開かれたと言ってようだろう。当然と言えばそうかもしれないが、それだけ和歌が長らく伝統的な固定観念に囚われて鴬が詠まれてきたということだろう。 鴬も我々人間も同じく糞をする動物に変わりはない。…
ひともみぬかがみのうらのうめ 元禄5年(1692)の作。芭蕉は、前年の10月29日に江戸へ戻り、日本橋橘町の借家で越年しており、元禄5年5月に新築された深川の芭蕉庵に入っている。したがって、掲句は掲句は借家住まいの折に詠まれたものと思われる。 江戸時代の手鏡には白銅境がよく用いられており、鏡面の裏には花鳥などの装飾が鋳付けられている。そこに密かに咲く梅をあまり人が見ないように、隠棲する芭蕉も人とあまり接することのない春を過ごしていることが掲句から覗える。つまり、春爛漫の世間とは裏腹にある鏡の梅と芭蕉が同化している。 ちなみに、鏡に映されるものは、たしかにこの世であるが、それは自分から見れば左右…
ほとゝぎすおおたけやぶをもるつきよ 元禄4年(1691)4月20日の作か。芭蕉は、同年4月18日から5月4日まで京・嵯峨野にある向井去来の別邸である落柿舎に滞在している。今でも嵯峨野と言えば、特に竹林の道が有名であるが、当時はもっと竹林あるいは竹藪が多かったと思われ、落柿舎あたりも例外ではなかったのであろう。 大きな竹藪から月の光が漏れているところに、時鳥の声が聞こえてくるという句意であるが、天に伸びる竹の林を一条の月影が貫いているだけでも幽玄な世界を彷彿させる。さらに、そこに時鳥の甲高い一声が響き渡れば、そのあとの静寂もいっそう深まる。「光と声との交錯が、一種凄味を帯びた幽玄寂境を作り出す」…
ゐのししもともにふかるるのわきかな 元禄3年(1690)8月4日付、『千那宛書簡』に掲句が初見される。ちょうど芭蕉が幻住庵に隠棲していた頃に当たる。幻住庵のある国分山には猪や兎が出ると里人から聞かされていたことが『幻住庵記』に記されているが、芭蕉がそれらを見たかどうかは定かでない。しかし、幻住庵の近くに猪が生息していたことは間違いない。 ちょうど野分の風が吹き荒れると、山中の粗末な庵に一人住まいの芭蕉にとっては心細いことであったろう。それは近くの塒で過ごす猪にとっても尋常なことではない。外の様子が気になって、庵を出た際に、猪と遭遇したのかもしれない。いずれにしても、野分の強風にさらされているも…
きやうにてもきやうなつかしやほととぎす 元禄3年(1690)6月20日付の書簡に掲句の原句が見える。ちょうど4月初旬から7月下旬まで「幻住庵」に隠棲していた時期に当たるから、一時的に京へ出向いた際の句と思われる。 京にいながらにして、時鳥の鳴き声を聞けば、かつての京が懐かしく思い出されるという句意。上五の「京」は、芭蕉が今いる現在の「京」であり、中七の「京」は昔の「京」ということになる。平安時代頃から時鳥は「黄泉の国へ通う鳥」というイメージがあったり、別名「不如帰」は「帰るに如しかず」つまり「帰りたい」という意味があることから、その鳴き声は、帰れない過去への追慕を催させるのかもしれない。 一方…
やがてしぬけしきはみえずせみのこゑ 元禄3年(1690)、加賀の門人・秋之坊が幻住庵を訪ねた際に、芭蕉が彼に与えた句という。蝉は羽化すると間もなく死ぬが、今を盛りに鳴く蝉にはそんな気色など微塵も感じさせないという句意である。 ところで、秋之坊の素性は詳らかではないが、かつて前田藩士だったが、のちに士分を捨てて出家し、貧しい生活を送っていたらしい。その秋之坊が、芭蕉を尋ねて幻住庵に一泊する。もっとも、芭蕉も伊賀上野藩を脱藩し、士分を捨てた経緯もあり、秋之坊とは胸襟を開いて語り合ったであろうことが想像される。 『卯辰集』には「無常迅速」と前書がある。下天のうちを比べれば短い生命だからこそ、日々それ…
まづたのむしひのきもありなつこだち 元禄3年(1690)4月の作か。『おくのほそ道』の旅を終えて、芭蕉は、近江膳所の義仲寺無名庵に滞在していたが、門人の菅沼曲水から勧められて、4月6日から4ヶ月間を山中の小庵で過ごした。この庵は、もともと曲水の伯父である菅沼定知(幻住老人)の別荘であったことから「幻住庵」と呼ばれる。国分山の中腹にあり、巷の喧騒からは離れた閑寂な環境にあったと思われる。掲句はこの小庵に入ったときに詠まれたものである。その際の芭蕉の心境が『幻住庵記』に記されているが、掲句の前文ともなっている最後の件を以下に示す。 倩(つらつら)年月の移(うつり)こし拙き身の科(とが)をおもふに、…
くさのはをおつるよりとぶほたるかな 元禄3年(1690)の作。近江瀬田での作か。句意は明良で、蛍が草の葉から落ちる瞬間に飛び立った光景を詠んだものである。あくまでも客観的な表現に徹しながらも、そこに一抹の愛しみも滲ませている。それには決して平坦ではなかった芭蕉の人生経験が影響していることは間違いない。それらこそがその鋭い観察眼を養ってきたとも言えよう。 おそらく暗がりの中で、芭蕉には、草の葉や蛍そのものというよりも、蛍が発する光の微妙な軌跡のみが心を動かしたのは言うまでもない。和泉式部の「物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる」 (『後拾遺和歌集』)に通じるものを感じさせる。も…
ゆくはるをあふみのひととおしみける 元禄3年(1690)、の作。当初『堅田集』では、「行春やあふみの人とおしみける」と記されおり、「志賀辛崎に舟をうかべて、人々春の名残をいひけるに」と前書がある。一方、『猿蓑』では、前書きに「望湖水惜春」とある。いずれにしても、琵琶湖湖畔、あるいは湖上の舟で詠まれたものと思われるが、掲句では、同行の人々と近江の行く春を惜しんだという単純な解釈だけでなく、「や」を「を」に変えたことにより、去りゆく春をあたかも近江に関わる古人と見なして惜しんでいるような芭蕉の心地も覚えられる。 たしかに、大津京で漢詩を詠んだ大友皇子をはじめ、近江荒都を詠んだ柿本人麻呂、近江国粟津…
きのもとにしるもなますもさくらかな 元禄3年(1690)3月2日、伊賀上野での作。掲句は、藤堂藩士・小川風麦亭で巻かれた歌仙の発句であり、その後、近江膳所での歌仙でも用いられている。それだけ芭蕉にとって掲句が重要な意味を持っていたことの証左と言えよう。 句意は、桜の木の下で花見をしていたら、様々な料理に花片が散り敷いて、汁も膾もそれに覆われて、一面、花の衾を着せたようになったということである。これは、西行の「木のもとに旅寝をすればよしの山花のふすまをきする春風」(『山家集』)を換骨奪胎したものという批判もある。しかし、芭蕉はあえてそれを踏まえた上で、当時、何もかもという意味で慣用されていた「汁…
つきさびよあけちがつまのはなしせむ 元禄2年(1689)秋、伊勢山田での作。『おくのほそ道』の旅を終えた芭蕉は、その足で伊勢神社の御遷宮を拝するために伊勢を訪れたが、その際、伊勢神宮の神職で俳人でもある島崎又幻(いうげん)宅に逗留した。もっとも、貞亨5年(1688)2月にも『笈の小文』の旅でも又幻宅に世話になっていることから、気心が知れた間柄だったのであろう。 しかし、今回は又幻が神職間の権力争いに負けて、生活にも困るほどの貧しさの中にあった。それでも、又幻夫婦は手厚く芭蕉をもてなしてくれた。そのことに感謝して芭蕉は掲句を認めた真蹟懐紙を又幻に贈ったが、そこに前書として以下のような「明智が妻」…
はまぐりのふたみにわかれゆくあきぞ 元禄2年(1689)8月6日、美濃・大垣での作。芭蕉は、同年7月14日には敦賀に至り、そこで大垣から出迎えてくれた八十村露通と共に、同月21日に『おくのほそ道』の旅の終着地である大垣に入った。山中温泉で別れて伊勢・長島で養生していた曾良も9月3日には大垣で芭蕉と再会する。命がけで臨んだ長旅も無事に終わり、よく知る大垣の地には門人も多く、芭蕉はゆっくりと旅の疲れを癒やすことができたのであろう。「したしき人々、日夜とぶらひて、蘇生のものにあふがごとく、且、悦び、且、いたはる。」という記述からも、『おくのほそ道』の旅における俳諧精神の「蘇り」によって蕉風俳諧の確立…
いしやまのいしよりしろしあきのかぜ 元禄2年(1689)8月5日、加賀・那谷寺(なたでら)での作。当日は、昼時分に芭蕉は北枝と共に山中温泉を発ち、那谷寺へ向かった。曾良はそれを見送ったあと、体調不良のこともあり、親戚のいる伊勢・長島へ向かった。江戸より芭蕉とずっと同行していたが、ここでしばしの別れとなった。芭蕉は「今日よりや書付消さん笠の露」と詠んで、その別れを惜しんでいる。 那谷寺は、養老元年(717)に泰澄神融禅師により開創され、白山を拝し、九頭竜王の本地仏である十一面千手観世音菩薩、白山比咩神が洞窟に祀られている。その洞窟は本殿・大悲閣にあり、背後の岩山と繋がっており、白山信仰の聖地とな…
やまなかやきくはたをらぬゆのにほひ 元禄2年(1689)7月27日の夕刻、芭蕉は山中温泉に着き、8月5日まで和泉屋という湯宿に逗留する。山中温泉の歴史は古く、奈良時代に行基によって開湯説もあるが、平安時代に、白鷺が足の傷を癒やしていた小川を能登の地頭・長谷部信連が見付け、そこを掘ると薬師如来像が現れて温泉が湧き出たのが始まりとも云われる。 和泉屋の主人は、久米之助という、まだ十四歳の少年であった。この際に芭蕉に入門して桃妖の号を貰っている。掲句は、桃妖に授けたもので、真蹟懐紙に次のような前文が認められている。「北海の磯つたひして加州やまなかの湧湯に浴ス。里人の曰、このところは扶桑三の名湯の其一…
むざんやなかぶとのしたのきりぎりす 元禄2年(1689)7月27日、加賀・小松での作。芭蕉は、太田神社(現・多太神社)を参詣し、斎藤実盛の兜と錦の直垂を拝している。前者は源義朝より、後者は平宗盛より下賜されたものである。 実盛は、越前の出身であるが、のちに武蔵の幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とした武将である。大蔵合戦にて義朝に討たれた旧主・源義賢の遺児・駒王丸を預かり、その乳母を娶って信濃にいた中原兼遠のもとに送り届けたが、この駒王丸こそがのちの旭将軍・木曾義仲であった。 平治の乱によって義朝が倒れると、武蔵に落ち延び、その後は平維盛の後見役となって平氏に仕えることとなる。のちに平氏一門に…
つかもうごけわがなくこゑはあきのかぜ 元禄2年(1689)7月22日、加賀・金沢での作。芭蕉は、倶利伽羅が谷の古戦場跡を経て7月15日に金沢城下に入っている。 ちなみに、その谷は倶利伽羅峠の南斜面にあり、寿永2年(1183)、木曾義仲が火牛の計で平家の大軍を打ち負かしたところだが、その義仲も寿永3年(1184年)1月6日に近江の粟津(現・滋賀県大津市)で討ち死にし短い一生を終えている。義仲贔屓だった芭蕉にとっては感慨深い場所であったことだろう。 さて、金沢で芭蕉が待ち望んでいたのは、小杉一生という門人との出会いであった。彼は、茶商を営みながら俳諧を嗜み、貞門、談林の門を経てやがて芭蕉に傾倒する…
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千年の影引く影や姫小松 高山れおな さわらびや何を握りて永き日を 同 玉苗のふるへたふとし水は空 同 地球より溢れ荒川雪の夜を 同 昭和百年源氏千年初鏡 同 我が狐火も霜夜は遊べ狐火と 同 息白き別れは星の匂ひかな 同 時の日の湖光りつつ眠る 同 挽歌降るべし雲雀ほど高きより 同
鎌倉の人の涼しき胡坐かな 林誠司 母の日や遠くまあるく土星の輪 同 江の島へ向かつて水を打ちにけり 同 人は座し水はいそげり春の山 同 わたつみへ雲かぶせたり富士の秋 同
吃音のあとの静寂に小鳥来る 福本啓介 月朧抱きしめられてゐたりけり 同 昼月と共に過ごせり保健室 同 小春日の昨日に我を置いて来し 同 さくら咲き記憶喪失終はりけり 同
また回り出す年越の換気扇 高野ムツオ 無辺へと千手を垂らし菊枯れる 同 不立文字風に渦巻く落葉こそ 同 天の狼咆哮雪が降り出せり 同 冬の蝿昨日の朝日今日も浴び 同 終末に備え固まる黒海鼠 渡辺誠一郎 数え日や終わらぬ旅の旅衣 同 産声を忘れ宣戦布告かな 同
障子貼りゐていつの間に囲まれし 今瀬剛一 冬の星糸で繋いで贈らむか 同 瀧凍り始める寒さかと思ふ 同 ショール巻いて母が見えなくなりしかな 同 やがて会ふはずの枯野の二人なり 同 瀧深く隠して山の眠るなり 今瀬一博 鮟鱇の腹の白さよ雪催 同 目瞑れば吾も大柚冬至風呂
ペンギンの胸の広さや春隣 大木あまり 霜の花忘るるために歩きけり 同 鎌倉の水羊羹と無常観 同 マスクして逢ふや双子座流星群 同 立ち泳ぎするかに揚羽飛ぶことよ 同 入院も旅と思へば冬うらら 同
くらい水すきとほらせる花火かな 大屋達治 大年の街の音聞く橋のうへ 同 大山に脚をかけたる竈馬かな 同 海に出てしばらく浮かぶ春の川 同 泳ぎより立つとき腕を翼とす 同 日蓮が妙と叫びし初日かな 同 捨てし田を豊葦原へ還しけり 同
薔薇咲くや抜歯のあとのあをぞらを 鈴木総史 とんばうや蝦夷にあをぞらあり余る 同 背広にも晩年のあり漱石忌 同 薬飲むみづのまばゆし風信子 同 実石榴や触れればくづれさうな家 同
山上の雲の厚さや田水張る 藺草慶子 水底のかくも明るく冴返る 同 水渡り来し一蝶や冬隣 同 片雲の遠く光りて夏きざす 同 光陰のなだれ落ちたるさくらかな 同
火柱の見えしと思ふ白雨かな 石田郷子 暗がりに人詰めてをる里祭 同 寄せ合へる椅子のまちまち天の川 同 冬林檎剝けば夕べの月の色 同 万の枝けぶらふバレンタインの日 同
にんげんの回転木馬さくら散る 増田まさみ 何処へも戻らぬひとよ冬花火 同 手花火の手の入れ代わるニルバーナ 同 空蝉にまだ陽の残る浅きゆめ 同 二つ折り厳禁とあり天の川 同
街灯は待針街がずれぬよう 月野ぽぽな 真水汲むように短夜のFM 同 松茸に太古の空の湿りあり 同 まだ人のかたちで桜見ています 同 太陽は遠くて近し芒原 同 手袋に旅立ちの指満たしけり 同
ころがしておけ冬瓜とこのオレと 坪内稔典 長崎に住もう枇杷咲く五、六日 同 リンゴにもオレにも秋の影ひとつ 同 ねじ花が最寄りの駅という日和 同 夕べにはすっかり晴れて栗ご飯 同
友情にイルカが跳ねる時を待つ 十文字潤 夕焼けが捨てた光に救われて 栗原知也 誰が夢を空へ紡ぎて五重塔 星野煌太
地平の目まだ半びらき真葛原 佐怒賀正美 乗るによき父の背いつか天の川 同 地球まだ知られぬ星か磯焚火 同 亀鳴くや天の沖には磁気嵐 同 くねりだす街の石みち鳥渡る 同 青嵐や骨のみで立つ電波塔 同
黒海は波高くして春遠し 田中信行 空白を控へめに埋め冬すみれ 同 夕立に打たれ心の解毒かな 同
覚悟なき死のおびただし核の冬 大井恒行覚めているほかは眠りぬ鈴の風 同ひかりなき光をあつめ枯れる草 同赤い椿 大地の母音として咲けり 同行方わからぬ光放てり手の林檎 同
春満月戦車渋滞していたり 中内亮玄 微笑みの凄まじきこと落椿 同 曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 同
この星の春を盡すや又震ふ 高橋睦郞 踝に雲さやりつぐ川禊 同 變若水や有爲の奥山㝱深く 同 春惜む綾取りの橋壊しては 同 三界は火宅風宅三の酉 同 山や水有情無情や皆目覺む 同 高橋睦郞先生より句集『花や鳥』(ふらんす堂)を頂きました。先生には昔より要所要所で大変お世話になっております。ご上木をお祝い致しますとともに併せて心よりお礼申し上げます。「芭蕉一代の表現行爲を継承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい」と帯文にあり、深く首肯致します。
菜種梅雨パレードにひつような橋 田島健一 山桜なにも言わずについてくる 同 人をさがしてと奉じてゐる遅日 鴇田智哉 菜の花の群れが空気を膨らます 同 つま先に春の闇から届く波 福田若之 ゆく春に折り目があれば分けやすい 同 ほんたうはつばきのなかにあることば 宮﨑莉々香 星ぼしや見えなくなつた手に手を振る 同 こゑが地に届いて枝垂桜かな 宮本佳世乃 ともに夜を生き桜蘂降りつづく 同
覚悟なき死のおびただし核の冬 大井恒行覚めているほかは眠りぬ鈴の風 同ひかりなき光をあつめ枯れる草 同赤い椿 大地の母音として咲けり 同行方わからぬ光放てり手の林檎 同
春満月戦車渋滞していたり 中内亮玄 微笑みの凄まじきこと落椿 同 曼珠沙華火の骨組みに緩み無く 同
この星の春を盡すや又震ふ 高橋睦郞 踝に雲さやりつぐ川禊 同 變若水や有爲の奥山㝱深く 同 春惜む綾取りの橋壊しては 同 三界は火宅風宅三の酉 同 山や水有情無情や皆目覺む 同 高橋睦郞先生より句集『花や鳥』(ふらんす堂)を頂きました。先生には昔より要所要所で大変お世話になっております。ご上木をお祝い致しますとともに併せて心よりお礼申し上げます。「芭蕉一代の表現行爲を継承しようと志すなら、その爲事を尊敬しつつ、各人自分一代の爲事を志さなければなるまい」と帯文にあり、深く首肯致します。
菜種梅雨パレードにひつような橋 田島健一 山桜なにも言わずについてくる 同 人をさがしてと奉じてゐる遅日 鴇田智哉 菜の花の群れが空気を膨らます 同 つま先に春の闇から届く波 福田若之 ゆく春に折り目があれば分けやすい 同 ほんたうはつばきのなかにあることば 宮﨑莉々香 星ぼしや見えなくなつた手に手を振る 同 こゑが地に届いて枝垂桜かな 宮本佳世乃 ともに夜を生き桜蘂降りつづく 同
何度開けてもないものはない冷蔵庫 高橋亜紀彦 仙人掌の永き夢から醒めて赤 同 曼珠沙華汝もサイコパスかも知れず 同 白梅や詩人は生くるために書く 同 長き夜や使ひみちなき砂時計 同 出目金の泪に誰も気づかざる 同
月に住む時代それでも白子干 仲寒蟬 入口のとなりに出口牡丹園 同 息止めて水着売場を抜けにけり 同 バイナップルすら爆弾に見えてくる 同 出目金の赤は黒より不幸せ 同
雪もよい湯気のにおいのからだかな 越智友亮 気を抜くと雨粒こぼす春の空 同 噴水の水やわらかく水に消ゆ 同 駆け足や宇宙は秋の空の上 同 金木犀両手で握手して別る 同 数学をやめ台風を待っている 同 河童忌の鉄のにおいの掌よ 同 稲咲いて朝をくださる光かな 同 革ジャンの鈍きひかりやうまごやし 同 白玉や今が過ぎては今が来て 同 相槌うって君は話さずオリオン座 同 川幅に橋おさまらず枯葎 同
わだつみの道の遠のく秋入日 加藤哲也 顔見世を出て風となる一と日かな 同 宵闇に紛れ込みたる夏館 同 新涼やロダンの肘のあたりより 同 大人にもこどもにも降る木の実かな 同 蠟梅や知覚過敏を憂ひつつ 同 菜の花や月光菩薩立ち上がり 同
ぶらんこの裏まで見せて跳びにけり 蜂谷一人 心太突いて夜空を滴らす 同 龍骨のかたちに日本南吹く 同 林檎むくまあるくほどけゆく時間 同 もう土へかへる桜でありしもの 同 蒼き灯の底を聖夜の魚となる 同 蛤の舌夕暮に触れてをり 同 馬跳びの最後冬夕焼と遭ふ 同 ひぐらしや波の広がる心字池 同 空蟬を残して声となりにけり 同 昼点いて白熱灯や虚子忌なる 同
噛みてなほ七面鳥の皮の照り 佐藤文香 ぬかるみのあかるみを踏み友なりけり 同 にはとりのはぐれて一羽春の中 同 夏霧を鳥おりてきて馬となる 同 終の住処鉄扉に薔薇を這はせあり 同 こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに 同 音楽のあをく膨らむ熱帯夜 同
事切れてまだ虫籠のなかにいる 福田若之 手に木の葉てんごくにも俳句はあるよ 宮﨑凜々香 木犀の届いてゐたる自動ドア 宮本佳代乃 心地よく浮かぶ月かたむき沈む 田島健一 星あかり豆腐の壁にゆきあたる 鴇田智哉
髙野公一先生よりご著書を頂きました。お手紙では、拙著『芭蕉百句』への温かいご批評を賜り、重ねて心よりお礼申し上げます。先生は「芭蕉の天地」で、ドナルド・キーン賞優秀賞を受賞された碩学にして恐縮至極に存じます。いずれにしましても、現代にあって、芭蕉の俳諧精神を探求する者同士として心強い思いがしました。深謝まで。
冬の蝶まばゆき方へ飛びゆけり 橋本石火 鳶の輪の崩れて小春日和かな 同 父の空母の空あるなづな粥 同
卒業の丘からのぞむガスタンク 小林かんな 来た路を金魚とともに引き返す 同 にんじんの太くて書架にトルストイ 同 大人になってからの友達梅三分 仲田陽子 ピーマンの中へ本音を詰めておく 同 白鳥の遺伝子をもち自由なる 同 灰色の象の背に乗る朧月 中田美子 フラスコに残る触媒昼の月 同 黄落のあちらこちらに庭師立つ 同 少しづつ空気を吐いて百合の花 岡田由季 数へ日の母はさつさと助手席に 同 初旅の関東平野のびてゆく 同