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五島高資
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2021/03/15

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  • あかあかと日はつれなくも秋の風

    あかあかとひはつれなくもあきのかぜ 元禄2年(1689)7月17日、金沢での作。この日、芭蕉は立花北枝の源意庵に招かれて掲句を詠んだという。ここから見えた夕日かもしれないが、おそらく、日本海の夕日が見えた旅路での着想のような気もする。いずれにしても、暦の上では秋ではあるが、それとは構わず、夕日は赫赫と夏の気色を示している。一方、折しも吹き渡る風は秋の爽やかさを肌に感じるという、季節の変わり目の微妙な感覚を捉えた句と言えよう。 一説には、芭蕉が、掲句の「秋の風」を「秋の山」として、北枝に問うたところ、「山といふ字すはり過て、けしきの広からねば」と批判されて、「秋の風」に落ち着いたとされる。たしか…

  • 一家に遊女もねたり萩と月

    ひとつやにいうぢょもねたりはぎとつき 元禄2年(1689)7月12日、市振での作。北陸道を西に向かった芭蕉は「親不知・子不知」の難所を越えて、市振の宿で一泊する。掲句における「一家」とは、桔梗屋という旅籠のことである。そこで、一間隔てた部屋から若い女性二人と付き添いらしき年配の男性が話す声が聞こえてくる。どうやら新潟から伊勢参りに向かう遊女と彼女らを見送りに来た男のようである。いずれにしても、遊女と漂泊の俳諧師が同じ屋根の下で夜を過ごすことになった奇遇に芭蕉は詩興をそそられる。前者は、様々な理由で身を売らざるを得なかった薄幸な女性、後者は、世を厭う漂泊の詩人であり、ともに、士農工商という社会構…

  • 文月や六日も常の夜には似ず

    ふみづきやむいかもつねのよにはにず 元禄2年(1689)7月6日、越後・直江津での作。『おくのほそ道』では、越後路での吟であることは分かるが、句の背景は不詳である。『雪満呂気』では「直江津にて」と前書きがあり、『曽良随行日記』では、直江津今町(現・上越市内)の条に「発句有」とあり、掲句のことと推測される。古くから日本海沿岸の湊町であった直江津今町は、江戸時代から北前船の寄港地、高田藩の外港として栄えていた。 当日は、今町の宿に一泊するが、その夜、地元の俳人らと掲句を発句として連句を巻いた。6月6日の夜は、7月7日つまり七夕の前夜に当たる。七夕は中国の牽牛・織女の伝説と乞巧奠の行事が重なって伝来…

  • 荒海や佐渡に横たふ天の河

    あらうみやさどによこたふあまのがは 元禄2年(1689)7月4日、越後・出雲崎での作か。芭蕉は午後3時過ぎに出雲崎に到着した。しかし、『おくのほそ道』には、越後路の段に掲句が記されているが、当地のことが一切触れられていない。おそらく、前段に「病おこりて事を記さず」とあることから、体調不良によるものと思われる。そこで、のちに当時の詳細を芭蕉が別に記した『本朝文選』の「銀河の序」を以下に示す。 北陸道に行脚して、越後の国出雲崎といふ所に泊る。彼佐渡が島は、海の面十八里、滄波を隔て、東西三十五里に横折り伏したり。峰の嶮難谷の隈々まで、さすがに手にとるばかりあざやかに見わたさる。むべ此島は、黄金多く出…

  • 象潟や雨に西施がねぶの花

    きさかたやあめにせいしがねぶのはな 元禄2年(1689)6月17日、象潟での作。今から約2600年前、鳥海山の噴火による岩なだれは日本海に至り、海を浅くして幾つもの小島(流れ山)ができた。やがてその辺りが、海岸砂丘によって塞がれて、東西20町(約2200m)、南北30町(約3300m)ほどの汽水湖が形成された。その中にある数十の小島には松などが茂り、九十九島・八十八潟と呼ばれる景勝地として古くより和歌に詠まれることになった。江戸時代には「東の松島・西の象潟」と並び称され、歌枕の双璧としてよく知られていた。 『曽良随行日記』によれば、芭蕉が象潟を訪れた16日から17日の朝にかけて雨が降っていたが…

  • 暑き日を海に入れたり最上川

    あつきひをうみにいれたりもがみがは 元禄2年(1689)6月14日、酒田での作。前日の13日、出羽三山を発った芭蕉は、鶴ヶ岡城下を経て、そこより再び最上川を舟で下って酒田へ向かった。酒田は、最上川の水運を介して紅花などの物産が集積する港町で、日本海に面しており、特に北前船によって、瀬戸内海を経由して、上方(大坂)、さらには江戸を結ぶ西廻り航路の要所として繁栄していた。さて、芭蕉が酒田に到着した頃はすでに夕刻となっていた。その日は旅籠に一泊し、翌日14日、酒井候の御殿医だった淵庵不玉邸(のちに蕉門に入る)に招かれた際に、掲句が詠まれた。 おそらく、芭蕉は、前日の川下りで酒田の港あたりで、ちょうど…

  • 雲の峯幾つ崩れて月の山

    くものみねいくつくづれてつきのやま 元禄2年(1689)6月6日、芭蕉は、朝、羽黒山を発って、約32キロの行程で月山に登った。途中にある幾つもの難所を越えて、午後3時過ぎには頂上に到着して月山権現を参詣している。掲句からは、ゆっくりと流れる「雲の峯」がやがて月山にぶつかっては壊れる雄大な景色が目に浮かぶ。そして、気がつけばもう夕月が空に浮かんでいる。その日、芭蕉は角兵衛小屋という山小屋に泊まり、翌朝、湯殿山へ向かうことになる。 「雲の峯」は「入道雲」でもあり、そこにおける自然現象の人格化に鑑みれば、その崩壊は「死」を連想される。しかし、「崩(れ)て月の山」は「崩れて築きの山」の意味が掛けられて…

  • 涼しさやほの三か月の羽黒山

    すずしさやほのみかづきのはぐろさん 元禄2年(1689)6月5日、羽黒権現(現・出羽三山神社)に参詣した際の作。陽暦では7月21日にあたり、江戸では夏の暑さも本格的になり始める頃であるが、奥州では夜の涼しさが心地よい時季であったろう。空に浮かぶ三日月の陰の部分が羽黒山の「黒」とも共鳴し、この聖地で仰ぐ三日月の仄かな影に妙なる心地が掲句から覗える。中七と下五のh子音による頭韻も快い。 ちょうど、この日の月齢は11日にあたり、やがて上弦の月を経て満月へと向かう三日月を芭蕉は眺めていたことになる。出羽三山神社の御由緒によれば、羽黒山では現世利益を、月山で死後の体験をして、湯殿山で新しい生命(いのち)…

  • ありがたや雪をかをらす南谷

    ありがたやゆきをかをらすみなみだに 元禄2年(1689)6月4日、羽黒山での作。芭蕉は、前日の3日に修験道羽黒派の本山を訪れている。その南谷の別院に逗留し、翌4日に本坊にて別当代会覚阿闍梨に謁し、そこで厚遇を受ける。羽黒山は神仏習合の地で、仏教関連の建物や旧跡は、羽黒山神社のある所より低い谷間に多い。平将門の創建と伝わる国宝・羽黒山五重塔、御本坊跡、南谷別院跡も例外ではなく、周囲には古木が林立しており、初夏でも根雪が残る地勢をなしている。 掲句には、会覚阿闍梨に対する恩義は当然のことながら、素晴らしい環境に恵まれた有り難さが素直に表現されている。また、雪に漂う清気と芳しい青葉の風が醸し出す羽黒…

  • 五月雨を集めて早し最上川

    さみだれをあつめてはやしもがみがは 元禄2年(1689)5月の作。最上川は山形県と福島県の境にあたる吾妻山付近より発して、山形県の中央を北上し、尾花沢市あたりで北西に向かって、酒田市で日本海に至る、日本三大急流の一つである。芭蕉は本合海から古口までの約10キロを舟に乗って下った。特に古口あたりで川幅が狭く急流をなしている。五月雨の時季でもあり、水量も増しており、ダイナミックな舟下りを体験したものと思われる。 山々に降った多くの雨水によって川の水位のみならず速さをも増していたのであろう。もちろん、「早し」とは川の速さを指しているのだが、それと同時に、五月雨の一滴一滴がせせらぎとなり、沢となり、や…

  • 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

    しづかさやいはにしみいるせみのこゑ 元禄2年(1689)5月27日、立石寺での作。前文から掲句が詠まれた場景がよく分かる。「山形領に立石寺といふ山寺あり。慈覚大師の開基にして、殊に清閑の地なり。一見すべきよし、人々の勧むるによりて、尾花沢よりとつて返し、その間七里ばかりなり。日いまだ暮れず。麓の坊に宿借り置きて、山上の堂に登る。岩に巌を重ねて山とし、松栢年旧り、土石老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて、物の音聞こえず。岸を巡り、岩を這ひて、仏閣を拝し、佳景寂寞として心澄みゆくのみおぼゆ 。」(『おくのほそ道』) 境内は雨呼山の尾根筋にある天狗岩という険しい岩山に続いており、諸堂はその崖の上に…

  • 涼しさを我宿にしてねまる也

    すずしさをわがやどにしてねまるなり 元禄2年(1689)5月17日、出羽・尾花沢に着き、同月27日まで門人の鈴木清風邸に逗留する。清風は、紅花問屋を営み、江戸との往来もあり、芭蕉の門に入る。掲句の前文には、「尾花沢にて清風と云者を尋ぬ。かれは富るものなれども、志いやしからず。都にも折々かよひて、さすがに旅の情をも知たれば、日比(ひごろ)とヾめて、長途のいたはり、さまざまにもてなし侍る。」とある。当時も、大商人といえば、強欲で吝嗇家が少なくなかったのであろう。しかし、清風は遠路はるばる訪ねてきた芭蕉を厚くもてなしたのである。もちろん、芭蕉が俳諧の師であることにもよると思うが、ただそれだけでなく、…

  • 蚤虱馬の尿する枕もと

    のみしらみうまのばりするまくらもと 元禄2年(1689)5月15日、芭蕉は尿前の関を越えて、新庄の堺田に至るが、あいにくの大雨にて山中の宿に二泊する。小さな集落ということもあり、ほぼ民家に近い宿だったのだろう。夜は蚤や虱に悩まされ、枕もとでは、馬が小便する音が聞こえる。そうした状況を自虐も込めて赤裸々に詠んだのが掲句であろう。 当時、大きな宿場以外で逗留する際は、民家を借りることも少なくなかった。鄙びた山中であればなおさらである。しかし、こうした難儀な体験も一句に詠めば、観念化されて諧謔という形でユーモアともなる。これも俳諧の一つの効用である。 ちなみに、江戸時代では、「尿」を「しと」と読むの…

  • 五月雨の降り残してや光堂

    さみだれのふりのこしてやひかりだう 元禄2年(1689)5月13日、平泉中尊寺を参詣しての作。前文を示す。「かねて耳驚かしたる二堂開帳す。経堂は三将の像を残し、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散り失せて、玉の扉風に破れ、金の柱霜雪(さうせつ)に朽ちて、すでに頽廃空虚の叢(くさむら)となるべきを、四面新たに囲みて、甍を覆ひて風雨を凌ぎ、しばらく千歳の記念(かたみ)とはなれり。」光堂は正式には金色堂と呼ばれ、天治元年(1124年)の建立とされ、内外ともに総金箔で装飾された、まさに光り輝く堂宇である。東北地方で産出する金を背景とした往時の奥州藤原氏の権勢が偲ばれる。ちなみに、その須弥壇内…

  • 夏草や兵どもが夢の跡

    なつくさやつはものどもがゆめのあと 元禄2年(1689)5月13日、平泉高館での作。平泉では、高館、衣川、衣ノ関、中尊寺、光堂などを訪れている。まず源九郎判官義経の居館があった高館から巡ったのも、やはり、彼の悲劇的な最期を悼む思いが強かったからと思われる。高館は北上川に面した小さな丘陵であり、藤原秀衡より庇護された義経の居館があったところである。そこからの眺望などが『おくのほそ道』に記され、掲句の前文ともなっているため、そのまま以下に引用する。 三代(藤原清衡、基衡、秀衡)の栄耀一睡の中にして、大門(平泉館の南大門)の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野になりて、金鶏山のみ形を残す。まづ高館に登…

  • 嶋々や千々にくだけて夏の海

    しまじまやちぢにくだけてなつのうみ 元禄2年(1689)5月9日、芭蕉は、朝に塩竃神社に参詣したあと、船に乗って千賀の浦、籬島、都島を巡って、正午頃に松島に到着している。瑞巌寺を参詣したのち、雄島に渡り、八幡社、五大堂を見て、松島の宿に帰っている。そもそも『おくのほそ道』冒頭に「松島の月まづ心にかかりて」と述べており、まさにここは芭蕉が最も憧憬した景勝の地である。しかし、あまりの絶景に圧倒されて、発句を詠むどころではなかったようである。さすがの芭蕉もその景色をあらん限りの言葉で賛美したが、ついに「造化の天工、いづれの人か筆をふるひ、詞を尽くさむ」と諦めて、言葉を超えた物自体の奥深い神妙さに降参…

  • 笠嶋はいづこ五月のぬかり道

    かさしまはいづこさつきのぬかりみち 元禄2年(1689)5月4日、名取市愛島での作。芭蕉は、藤中将実方(藤原朝臣左近衛中将実方)の塚を尋ね歩き、村人から「是より遥か右に見ゆる山際の里を、箕輪・笠島と云ひ、道祖神の社 ・形見の薄今にあり」と教えられるも、折からの五月雨で道も悪く、また、疲労も重なり、ついにその塚に辿り着くことなく後ろ髪を引かれる思いでその場を過ぎ去ったのである。 実方は和歌に優れ、中古三十六歌仙の一人に選ばれている。一説には『源氏物語』における光源氏のモデルともされている。 実方は藤原行成との些細な諍いから、一条天皇より勅勘を被り陸奥国へ左遷させられた。 ある時、任国の笠島道祖神…

  • 早苗とる手もとや昔しのぶ摺

    さなへとるてもとやむかししのぶずり 元禄2年(1689)5月2日、信夫の里(福島市山口文字摺)での作。芭蕉は、しのぶもぢ摺りの石(信夫文知摺石)を尋ねて当地を訪れたが、その石は下半分を土に埋もれて放置されていた。里の子供が言うには「昔は此山の上に侍しを、往来の人の麦草をあらして此石を試侍をにくみて、此谷につき落せば、石の面下ざまにふしたり」と。「しのぶもぢ摺」は「摺り衣」を作る際に石の上に布を置き、忍草(シダの一種)の葉や茎を摺りつけて乱れた模様を出した染色技法をいう。その文知摺石がある信夫の里は古来よく知られ歌枕でもあった。 「みちのくの忍ぶもぢずり誰ゆえにみだれそめにし我ならなくに」(『古…

  • 五月雨は滝降うづむみかさ哉

    さみだれはたきふりうづむみかさかな 元禄2年(1689)4月29日の作か。芭蕉は、須賀川を発つ日は快晴であり、近くの玉村龍崎にある乙字ヶ滝(古くは石河の滝とも)に立ち寄ったと『曾良随行日記』に記されている。那須連峰に源を発す阿武隈川は龍崎あたりで滝となる。その手前で川筋が大きく湾曲して「乙」の形をなすことから乙字ヶ滝と名付けられたという。滝の落差は数メートルほどだが、幅は280mほどまで広がっており壮観である。芭蕉が訪れた際は、五月雨による増水により、却って水かさが増して滝が埋められてしまったように見えたのであろう。 ちなみに、河畔にある「滝見不動堂」の傍らには、芭蕉の句碑が建っており、「五月…

  • 世の人の見付ぬ花や軒の栗

    よのひとのみつけぬはなやのきのくり 元禄2年(1689)4月24日の作。須賀川の相楽等躬の邸内に矢内弥三郎(可伸)という僧が草庵(可伸庵)を結んで寄寓していた。そこに大きな栗の木があり、ちょうど花を咲かせていた。その静かな佇まいに芭蕉は「山深み岩にしただる水とめんかつがつ落つる橡拾ふほど」 と西行が詠んだ深山を思い出したと『おくのほそ道』に記している。また、掲句の前書には「栗といふ文字は西の木と書て、西方浄土に便ありと、行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用ゐ給ふとかや 。」とある。 可伸は俳人でもあり、栗斎と号しており、可伸庵で歌仙が巻かれ際に芭蕉が詠んだ初案(発句)は「かくれ家や目だゝぬ花を軒…

  • 風流の初やおくの田植うた

    ふうりうのはじめやおくのたうゑうた 元禄2年(1689)4月22日、須賀川の相楽伊左衛門(等躬)邸での作。その一昨日の4月20日に芭蕉は白河の関を越えている。『おくのほそ道』では「心許なき日かず重るまゝに、白川の関にかゝりて旅心定りぬ」と記されている。白河の関は、鼠ヶ関(ねずがせき)や勿来関(なこそのせき)と共に、奥州三関の一つに数えられる関所であり、歌枕の地でもある。「たよりあらばいかで都へ告げやらむ今日白河の関は越えぬと」(平兼盛)、「都をば霞とともに立ちしかど秋風ぞふく白川の関」(能因)、「白河の関屋を月のもる影は人の心をとむるなりけり」(西行)など、そこで詠まれた名歌は枚挙に暇がない。…

  • 田一枚植ゑて立ち去る柳かな

    たいちまいうゑてたちさるやなぎかな 元禄2年(1689)4月20日、那須蘆野での作。芭蕉が訪れた頃の蘆野領主は、三千余石の交代寄合旗本・蘆野民部資俊であり、神田の江戸屋敷に住んでいた際に芭蕉の門人となり、「桃酔」と号していた。芭蕉は桃酔から故郷にある「遊行柳」のことを度々聞かされていたらしい。 この柳には古くから「遊行柳伝説」があり、一説には、室町時代に遊行十四代太空上人が当地を通りかかった際、柳の精が女人として現れて救いを求めたため、太空が念仏を唱えて済度したという。もともとこの柳は平安時代から、幾度か枯れては植え直されてきたらしく、観世信光の謡曲『遊行柳』では、ここで西行法師が詠んだとされ…

  • 夏山に足駄を拝む首途哉

    なつやまにあしだををがむかどでかな 元禄2年(1689)4月の作。前書に「修験光明寺(しゆげんくわうみやうじ)と云有。そこにまねかれて行者堂を拝す。」とある。もともと光明寺は文治2年(1186)に那須与一資隆が阿弥陀仏をここに勧進して即成山光明寺を建立したことに始まる。山城国伏見の光明山即成院の阿弥陀仏に祈願して、『平家物語』に記される、扇の的を射抜くことができたことがその所以である。その後、荒廃するも、永正年間(1504〜1521)に那須資実によって天台修験道の寺として再建され、芭蕉が訪れた時には行者堂に役行者が履いたと伝わる一本歯の高足駄が祀られていた。現在は、残念ながら廃寺となっており、…

  • 木啄も庵はやぶらず夏木立

    きつつきもいほはやぶらずなつこだち 元禄2年(1689)4月5日の作。芭蕉は、黒羽城から十二キロほど東にある臨済宗妙心寺派の東山雲巌寺を参詣した。雲巌寺は、大治年間(1126〜1131)叟元和尚の開基で、その後、弘安6年(1286)に仏国国師(後嵯峨天皇第三皇子)が再興し、併せて、北条時宗の庇護もあり、千人余の雲水が修行する大寺院となり、筑前・聖福寺、越前・永平寺、紀伊・興福寺と並ぶ日本四大禅宗道場の一つとして隆盛した名刹である。雲巌寺は後ろに八溝山が控え、前には武茂川が流れ、佳景寂寞とした境内には十景と呼ばれる景勝などもあり、禅宗道場として素晴らしい環境にある。現在でも仏道修行の法統が受け継…

  • 山も庭もうごき入るや夏坐敷

    やまもにわもうごきいるるやなつざしき 元禄2年(1689)4月4日の作。同年4月3日、芭蕉は下野那須の余瀬に鹿子畑善大夫豊明(俳号 : 翠桃)を訪ねた。その兄・高勝(俳号 : 桃雪)は浄法寺家の養子となり、当時、黒羽藩城代家老であったこともあり、翌日、芭蕉は黒羽城三の丸にある浄法寺図所高勝邸に招かれた。掲句はその際に詠まれたものである。 顧みれば、桃雪と翠桃の父・鹿子畑左内高明も家老職にあったが、「給人騒動」という内紛の責任を取って江戸に隠棲していた時期があり、その際に桃雪と翠桃は江戸にあった芭蕉の門人となった。それぞれ十六、十五歳の頃である。 それから十二年後、鹿子畑家は帰藩し一族は藩の要職…

  • しばらくは滝にこもるや夏の初め

    しばらくはたきにこもるやげのはじめ 元禄2年(1689)4月2日の作。前文に「二十余町山を登つて滝有り。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて、 滝の裏より見れば、裏見の滝と申し伝へはべるなり。」とある。この滝は大谷川の支流である荒沢川にあり、滝の裏側からも飛瀑を見ることができたために裏見滝(うらみたき)と名付けられた。華厳滝、霧降の滝と共に日光三名瀑の一つに数えられている。 ところで、仏道修行である夏安居(げあんご)や夏籠(げごもり)は、略して夏(げ)という。芭蕉もこの滝の裏側の岩窟に籠もって滝を見ながら涼を取っているうちに、あたかも夏を修しているかのような心…

  • あらたうと青葉若葉の日の光

    あらたうとあおばわかばのひのひかり 元禄2年(1689)4月、日光での作。前文には次のように記されている。 卯月朔日、御山に詣拝す。往昔、此御山を「二荒山」と書しを、空海大師開基の時、「日光」と改給ふ。千歳未来をさとり給ふにや、今此御光一天にかゝやきて、恩沢八荒にあふれ、四民安堵の栖穏なり。猶憚多くて筆をさし置ぬ。 御山とは日光山のことであり、8世紀後半、勝道上人がここを修験道場として開基した。「空海大師開基」とは芭蕉も筆の誤りである。もっとも、勝道の要請で空海が日光山についての文章を書いており、それは「沙門勝道山水を歴て玄珠を瑩く碑并びに序」として『遍照発揮性霊集』に記されている。その文章は…

  • 糸遊に結つきたるけふりかな

    いとゆふにむすびつきたるけふりかな 元禄2年(1689)3月29日の作。前書に「室八島」とある。ここは『おくのほそ道』に記された、芭蕉が最初に訪れた神域であり歌枕の地である。周知のように古来「室の八島」を詠む場合、「けふり(煙)」を詠み込む慣わしがある。その由来については、境内の泉水から立ち上る水蒸気であると言われてきた。しかし、『おくのほそ道』においては、ここでの芭蕉の句は見当たらず、曽良が、「けふり」の縁起として、一夜にして懐妊した木花咲耶姫が身の潔白を立てるため燃える無戸室のなかで彦火火出見尊を産んだ故事などを記しているのみである。また、貝原益軒の『日光名勝記』(1714年刊)によれば、…

  • 行春や鳥啼魚の目は泪

    ゆくはるやとりなきうをのめはなみだ 元禄2年(1689)3月27日、芭蕉と河合曽良は、早暁に深川から舟で隅田川を北上して千住にて上陸し、日光街道へ入った。舟に乗って同行してきた親しい人々とは、千住で別れることとなる。掲句の前文に「前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに別離の泪をそゝく」(『おくのほそ道』)とある。今回の旅は長い行程となるため、客死も覚悟とはいえ、深川での生活や親しい人々との離別はやはり辛いものである。もっとも、それが儚い仮の世との別れだと分かっていても涙が溢れてくる。そうした悲しみの中では、鳥の声も嘆きに聞こえ、魚までもが泪しているように感じられる。ましてや春も過ぎゆく…

  • 草の戸も住替る代ぞひなの家

    くさのともすみかはるよぞひなのいへ 元禄2年(1689)3月27日、芭蕉は「みちのく」を目指して『奥の細道』の旅に出立する。その直前、江戸・深川の芭蕉庵を人に譲り、近くにある杉山杉風の別荘・採荼庵に移り、旅支度に勤しむことになる。その際、今まで侘び住まいで閑散とした草庵も、新しい住人のもとで華やかに飾られた雛を見て時の移ろいに感慨を深くしたのである。 『奥の細道』の旅は、ちょうど西行の五百回忌にあたる年に、「みちのく」へ発つことになるが、全行程が約600里(2400キロメートル)、日数で約150日間と、これまでにない長い旅程である。掲句のあとに、「上野谷中の花の梢又いつかはと心ぼそし」と述べら…

  • おもしろやことしのはるも旅の空

    おもしろやことしのはるもたびのそら 元禄2年(1689)の作か。『甲子吟行(野ざらし紀行)』や『笈の小文』の旅など、貞享年間はまさに「漂泊」の生活が続いたが、今年の春も旅の空を仰ぐことになりそうで、それもまた楽しみなことであるといった句意。『去来文』の「よとぎの詞」は、長崎への旅に思いを馳せた向井去来の文章であるが、その中に掲句が記されている。ちなみに『奥の細道』の旅のあとに芭蕉は長崎への旅を予定していたとされるが、これは大坂における芭蕉の客死によって幻に終わる。 かくして、同年の暮春、芭蕉は『奥の細道』の旅へと出発することになる。深川の芭蕉庵で少時の休息を取ったあと、芭蕉は「みちのく」の空の…

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