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中野重治の神がかりその4小林は中野と同じ年に、東京神田で生まれた。父は兵庫県出石郡に生まれ、幼くして元但馬藩家老職の小林家の養子となった人物で、小林の母は東京生まれだった。小林の個としての伝統とは東京の伝統だろう。小林の神には、中野のような素朴な汎神論的なものはなく、近代主義的な、「死んだ神」しかいない。伝統も、半ば借り物とするしかない。そんな小林の神となったのは「社会」だった。小林ほど「社会」を怖れた批評家はいない。小林は使用する言葉の無意味性も、文章の非論理性も隠してはいない。だが、反省はしていない。小林が時勢の先頭で呪文を唱えたのは、ただ自分を守るためだった。権力におもねるとか、強者に取り入って利益を得ようとしたのではない。小林はただ「社会」を怖れたのだ。「超人という言葉に人間という言葉がとって代わった。...中野重治の神がかりその4
中野重治の神がかりその3中野にとっての転向とは、自分の属する共同体を自ら捨て去ることだ。共同体の外部に出ることなのだ。それはただ一人で別の生き物になる決意とも言えるほど、辛いことだった。一つの共同体から別の共同体へ移る転向ならば容易い。佐野・鍋山らの転向が酷い裏切りの現象ではあっても、共産党という共同体から天皇主義という共同体への住み替えであって、そこには共同体を失う恐怖はない。共同体に安住していることに変わりはないからだ。中野らの共産主義者もまた、共産党という共同体に属するには、その前に属していたそれぞれの世間からの転向を経験していた。共産党からの転向の前に、共産党への転向があった。最初の転向を中野は『歌のわかれ』として描いている。「歌のわかれ」は新たな共同体との出会いであり、そこで中野はそれまでの共同体を捨...中野重治の神がかりその3
中野重治の神がかりその2「転向しようか。しよう‥‥?」という考えは常にあったはずだ。打ち消しても打ち消しても生じてきた。その迷いが突然消えた。消えたということは心が決まったということで、「ひょいと」思ったのは転向への決心だった。それで口が乾あがり、食欲がなくなった。自分の弱さに(身体や精神の弱さだけではなく、党の弱さにも)嘆いていると、どこからともなく声が聞こえてきた。中野は「両頬が冷たくなって床の上に起き上がり、きょろきょろ見まわした。それはまるで能舞台に亡霊が現われたかのようだ。その亡霊が中野に何かを告げ、そして「それが消えた」。すると、食欲が戻り、泣きながら、食う。つまり、この文章のはじめに戻る。納得が行くまで何度でも繰り返せるようになっている。このように中野は、論理的な時間とは異なる心理的な時間の流れを...中野重治の神がかりその2
中野重治の神がかりその1中野重治を取り上げるにはどうしても政治的転向の問題に触れないわけにはいかないし、それが当然だとされている。だが、中野の転向を、当時の状況を踏まえて原因から説き起こしたとしても、それで論証されるのは抽象としての中野の転向であって、個としての中野重治の転向の核心に触れることは難しい。ここで言う抽象的な転向とは、中野と父親との関係を、満田郁夫を例外として、吉本隆明が早くから、そして柄谷行人までもが、進歩的知識人対封建的ファシストという対立の図式を描いて納得してしまうような事態を指している。それは何よりも、「転向」という言葉による思想操作の罠に、皆が嵌っているからであり、そのことは中野自身も例外ではなかった。この論考は、『村の家』の父と息子に対立は無かったとする満田郁夫氏の論考に触発されて、中野...中野重治の神がかりその1
敦賀茶町台場物語その17付記茶町台場は砲台場として築かれたが、そのものとしては直ぐに放棄された。三十数年後に測候所の土台として使用されるようになったが、人の目は土台には向かず、砲台場があったという記憶は消滅した。その後、昭和一八(一九四三)年になると、戦局悪化の状況下において民心を掌握するために、国は五十戸を単位とする町内会制度を実施した。川崎と松栄を併せて六つの町内会を設置することになった。池子、中洲、台場、荘山、茶山、秋葉、出村の六つである。由緒が有るような無いような名前だが、誰も覚えていない八十年後になって、「台場」が復活したのだった。戦時下という困難な非常時に与えられた町内会名及び地名としての「台場」は、当時の人々の記憶に焼き付けられた。川崎町では「台場」の地名は、同時に復活した「池子」と共に、戦後ずっ...敦賀茶町台場物語その17
敦賀茶町台場物語その16歌も流行った。例えば、加賀藩監軍永原甚七郎は武田耕雲斎と降伏の交渉をした男だが、永原は陣立てにおよんで戦死を覚悟し、袖印に『面白し頭も白き老いの身を越路の雪にかばねさらさん』と書いた。同じく医者の森良齋は『身を堅めこころをさだめ雪の山』と書いた紙を懐に入れていた。7浪士たちが、加賀藩の手をはなれて小浜藩に移されると、その扱いが変わるであろうことが、足枷を作らされる職人たちにはわかった。と言って、何ができる訳ではない。なるべく痛くないようにと、鉋を当てるだけの又吉だった。浪士たちの取り調べをするために、幕府の若年寄田沼玄蕃頭意尊(おきたか)が敦賀へ来ることになり、そのお触れが知らされた。『今般若御年寄田沼様今浜永建寺え入られる手はずとなるにつき、御逗留中よりは永建寺門前、葬式通行相成らずは...敦賀茶町台場物語その16
敦賀茶町台場物語その15二年後のニ月、前年十二月に敦賀で降伏した水戸天狗党の浪士が処刑された。斬首の刑である。四日に武田耕雲斎ら二十四人、十五日に百三十四人、十六日に百三人、十九日に七十六人、二十三日には十六人が、やはり衆人が見守る中で首をはねられた。戦争でもないのに、これだけの大人数が殺されるとは、目撃した敦賀の人でさえ信じられない思いだったにちがいない。世も末だと震え上がったことだろう。お絹は命が助かっただけ拾い物なのだ。刑罰は見せしめとして行なわれる。お絹のような事をするなと見せつけられる。しかし世情は動揺している。お絹はあまりにもあくど過ぎただけで、もっと上手くやるべきだという教訓にしかならない。上手くやれるのは、財カのあるものだけである。又吉のような普通の職人は、隠し持つ金銀も何もない。しかも、嫌な台...敦賀茶町台場物語その15
敦賀茶町台場物語その14そうだ、そんなことがあったのだ。なぜかすっかり忘れてしまっていた。自分の不人情さに驚く又吉だった。松五郎を死なせたのはお絹ではない。しかし、お鈴を身売りさせるまでに追い込んだのはお絹だ。父親の葬式に借金取りが押し掛けて来るなんて、娘のお鈴にしてみれば、家のために自分の身を売り飛ばして金を作ることしか思いつかないではないか。何の力にもなれなかった又吉がお絹を責めるのは筋違いだが、お八重にしてみればお絹を恨むのはもっともなことだ。大事な大黒柱の亭主を亡くした時に、娘を追い込んで身売りさせたお絹は、地獄へ突き落したいほど憎い女だ。そのお絹がお上に捕らわれて百敲きの刑を受けるのだ。お八重は手拭いの端を噛み締めて、睨みつけるようにお絹を見ている。娘のお鈴の姿は見えない。大きな船宿へ身売りすると聞い...敦賀茶町台場物語その14
敦賀茶町台場物語その13奉行と肝煎が席に着くと、刑場役人二人に両側から腕を取られたお絹が、よろよろとした足取りで刑場の中程へと連れられてきた。背を屈め、下を向いたまま顔を上げようとせず、いまにも崩れ落ちそうな危うい歩き方だ。そんなお絹は見たことがない。お絹はいつも、自分の容姿に自信があるのか、顎を突き出すほど顔を上げて、人目を惹きつけるように思わせぶりに歩く。お絹のことを知らない者が見たなら、つい目を遣ってしまうこともあるようだ。年増だが、ちょっと気になる女といったところか。しかし、今朝のお絹にはそんな華やかさは微塵もない。過酷な拷問はお絹を生きたまま地獄に突き落とし、死んだ方がましだと思わせる責苦から逃れられるならば、たとえ刑場であっても極楽なのかもしれない。刑場の周りは竹の柵で囲まれており、見届け衆は中へ入...敦賀茶町台場物語その13
敦賀茶町台場物語その12茶町台場は文久三(一八六三)年三月末に完成した。雪の降る前に粗方出来上がっていたのだが、最後の仕上げが雪のために伸びた。なんと、大砲を八門も据えられる、敦賀一の規模を誇る台場となった。しかし、又吉の不安はつのるばかりであった。大砲は旧式で、それほどの威力があるとも思えない。しかも、小浜藩の藩兵が敦賀湊の警備にやってくる気配はなく、藩主忠氏は摂津海岸の警固を命じられており、地元は手薄だ。それなのに、三月には他藩の大名に対して、京都防御のために若狭の守衛に当たる命令が出された。他藩の兵が敦賀の町をうろついて、物騒なありさまだ。何でも、探索や煽動の目的で密かに敦賀に入り込んでいる長州の浪人を取り締まっているのだという。茶町台場の仕事が終わったと思うと、今度は金ヶ崎に台場を作ることになった。金ヶ...敦賀茶町台場物語その12
敦賀茶町台場物語その11黒船が浦賀へやって来たのは六月三日である。それが、七月の末にはこのようなお達しが出るほどに、商売を怠って金銀を買い集める者が目立つようになった。日本が外国の植民地になりそうだからとの危機感による行動だろう。実に素早い反応である。金銀を買えるのは金持ちだけだから、そのような者を見て庶民たちも動揺し、焦燥感にかられて不穏な動きの気配があったのかもしれない。このお達しのあった同じ月に、民家に所有する武具馬具の調査が行なわれ、祭礼用のものまでも書き上げるよう指示された。さらに、二十三日には武器御手当入用のための調達金が命ぜられ、二四日には昨年五月の江戸城西丸炎上で申し付けた上納金を武具御手当へ回すとの通知もあった。翌安政元(一八五四)年四月には、藩主忠義が敦賀の台場を巡視した。七日に各台場から三...敦賀茶町台場物語その11
敦賀茶町台場物語その10外国の巨大軍艦の威力を知らない井の中の蛙だった幕府の役人たちは、海を渡ってやって来る軍事力の怖さを知らなかった。大筒を構えて打ち取れば、敵船など簡単に負かすことが出来るから、その節に奮闘すれば褒美を出す、と言うのだ。敵がどうであろうと、命を捨ててこの国を守る心得が大事なのだ。人員や物資の手配はしないが、精神力で頑張れば勝てると。「そんな馬鹿な話があるかいな。金も人手も出しとるのに、今度は命やて。殺生な殿さんやなー」詳しい権力構造までは知りようがない庶民にとっては、お上は殿さんなのだ。このお触れが出た同じ年、嘉永四(一八五一)年の四月には、小浜藩家老酒井内匠介(たくみのかみ)が、海辺御手当視察のために敦賀を巡察している。二十四日に三方郡から縄間へ山道を越えて敦賀郡に入り、常宮に参詣したあと...敦賀茶町台場物語その10
敦賀茶町台場物語その9奉行所から町人たちへ伝えられた湊の防御についての心得は次のものだった。鎖国制度のもとでは、敦賀湊へはいかなる外国船も入港を認められないことは言うまでもない。もしもそのような船があれば町民総がかりでこれを撃破しなければならなかった。しかし世界の情勢が変わり、日本へ通商を求める国が増え、日本近海を航行する外国船の増加によって、難破遭難する事態の生ずる恐れが現実のものとなり、より柔軟な対応が必要となった。そこで幕府は、そのような救助を求める外国船には薪・水を与えよという薪水令を天保一三(一八四二)年に出したが、中には補給と偽って日本の国情を探ろうとする船もあったようだ。敦賀へはそのような外国船の寄港はなかったが、将来に備えて敦賀の奉行所は次の触れを嘉永四(一八五一)年に出したのである。『近年異国...敦賀茶町台場物語その9
敦賀茶町台場物語その8又吉が茶町台場の築造現場に着くと、すでに人足たち列をなして並んでいた。今日の担当の肝煎の前で、自分の名前を帳面に記録してもらうためだ。この台場普請には、本職の別なく、一日銀二匁五分が支給される。普通の大工の賃金が二匁二分だから、少しだけ上乗せになる。なれない人夫仕事は体にこたえるが、他の職人たちもみんな、その賃金が目当てでやって来ている。だが又吉は腕の良い大工だから、普段ならこの賃金以上を稼ぐ。大工の中でも稼ぎが良い方だ。こんな人足仕事は早くお役御免になりたいものだと思っていた。台場普請の仕事は単調な力仕事だ。好きな本業を取り上げられての作業には、もう一つ気が乗り切らず、わだかまりが燻ぶったままの、嫌な気分の毎日だった。それは又吉だけではなかった。朝の仕事はじめから、早く時が過ぎて陽が傾き...敦賀茶町台場物語その8
敦賀茶町台場物語その7お絹についての良からぬ噂話は何度も耳に入ってきていた。又吉はそんな話の相手にはならないが、お絹にはもう少し自分を抑えて、相手の身になって物事を考えるようになればいいのにと思っていた。お絹の亭主とは知らぬ仲ではない。特に世話になった覚えはないが、又吉が大工の見習いになった頃から顔見知りで、悪い男ではないように思う。お絹は、若い頃はまあまあの器量で寄り付く男もいたらしい。今では若作りも目を逸らしたくなる上に、なまじ実家が金持ちの質屋だからか、気位が高くて物言いも上からなのが目に付くが。又吉にではないが、取引先の職人を自分の店の小僧のように顎で使うようなところがある。お絹の亭主と材木の値段で話がまとまりかけていた時に、いきなりお絹が口を挟んできて値が上がったことが一度や二度ではないと、他の大工仲...敦賀茶町台場物語その7
敦賀茶町台場物語その6茶町の台場はその二カ月後に着工されたもので、小浜藩の兵はまだ京都におり、京都警衛の役さえも免じられたのは十一月になってからである。その間に忠義は隠居に処され、加増された一万石も没収されている。忠義のあとは忠氏(ただうじ、忠義の婿)が藩主を継ぎ、汚名返上のため幕府の新たな命を待ち、国許の固めを計っているところだ。それをお絹は分かっていない振りをして又吉を巻き込もうとするが、その手には乗らないと又吉は静観した。又吉がそれ以上は関心を示さないので、お絹は作戦を変えてきた。「そんな殺生な。この台場にかかるお金は、うちの実家が出したんじゃないか。あの時には、材木がたんと売れるからと言われたんだよ。これじゃぁ、大損じゃないか。ねぇ」と甘えた声を出した。又吉は腕にさぶいぼが出たので、後ろに隠した。茶町台...敦賀茶町台場物語その6
敦賀茶町台場物語その5敦賀の町は、若狭の小浜藩の領地である。村部には他の藩の領地となっている村も多い。徳川幕府のはじめには、敦賀は越前の福井藩の領地だった。藩主になったのは家康の次男の結城秀康で、家康の長男は信長によって死なされていたから、秀康が次期将軍とも言われていた。しかし秀康は豊臣秀吉の養子に出されていて、家康からは疎んじられていたそうだ。それで福井へ遠ざけられたのだろう。その頃までは敦賀にもお城があった。今の御陣屋の一帯がそれで、庄の川が東の外堀として流れていて、北の外堀が今の赤川(あかがわ)となっている。赤川は阿賀とも閼伽川とも書く。庄の川が荘の川や兄鷹(しょう)の川とも書くように、どれが当て字でどれが本字かわからない。赤川に接する北の町が池子(いけす)町で、その北隣が茶町だ。池子町は茶町より一〇~二...敦賀茶町台場物語その5
敦賀茶町台場物語その4敦賀にはすでに台場が何ヵ所かあるが、茶町に作っている台場はこれまでのよりも何倍も大きい。海に向かってまるで鳥が翼をひろげたような形に、横に細長く石垣を築いている。中程が最も前にせり出して、そこから鈍角にやや後方へ左右に伸びている。中ほどの三間が主砲の台座になり、右翼が三十三間、左翼は四十一間も伸びている。全部で八つの砲台が据えられるという。出来上がりの台場の広さは、一、三八O坪ほどになる。右翼が少し短いのは町家にかかるからだ。その右翼側の先端のすぐ先は庄の川の河口で、そこは洲崎(すざき)の浜と呼ばれている。川が運んできた砂が積もって、小さな岬状になって海へ突き出ている。その洲崎の浜を庭にするように荘山清兵衛の邸があり、その浜には高さ三丈の石造りの高灯籠が立っている。夜の湊になくてはならない...敦賀茶町台場物語その4
敦賀茶町台場物語その3それまでは、敦賀城の北の土地には雑多な職業の者が居住していた。敦賀城の築城を始めた時、特に大掛かりな工事として行われたのが庄の川の付け替えで、庄の橋辺りから西へ大きく曲がって流れていた川を、真っ直ぐに海へ流れ込むようにした。これによって、敦賀津の西の入江に流れ込む水流は遮断されたが、敦賀城の東の外堀としての庄の川が、城の消滅もあって商用に使用された。これによって町は大いに発展したのだった。茶町が出来たのは寛永十四、五(一六三七、八)年頃のことで、美濃や畿内からお茶を買い、北の国へ売りさばいた。そのお茶のおかげで敦賀の湊と町は京の都にもひけを取らない賑わいだったと伝わっている。ところが北国でもお茶の栽培が始められ、また、宝永三(一七〇六)年には火事で茶町が焼けてしまい、お茶の商いは廃れてしま...敦賀茶町台場物語その3
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