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  • 2021年 桜が満開です

    今年も桜が満開になりました。晴れてはいますが、黄砂も降っていますので、すっきりしないコロナ頃です。一応、閼伽川公園の桜を記録しておきます。2021年桜が満開です

  • 敦賀茶町台場物語 その2

    敦賀茶町台場物語その2庄町の長屋に住む大工の又吉は、今朝も茶町(ちゃまち)の浜へ土運び人足の仕事に出かけた。秋晴れの朝はすがすがしくて気持ちがいいが、又吉の足取りは幾分動きが重い。好きな大工仕事に行くのではないからだ。又吉の本職である大工の仕事は、当分のあいだ出来そうにない。奉行所から禁止されているのだ。又吉は三十半ばを過ぎた腕のよい大工で、大工仲間の内ではまだ若い方だが、棟梁たちからは一目置かれており、若い衆からも頼りにされている。上背もあり、きりっとした男前だと言われている。役者絵の誰それに似ているとは何度も言われたが、又吉自身は本気にしていない。又吉には紙漉き屋の娘である妻のお美代との間に三人の子供がいる。その日暮らしの家計だが、何とか生活できていた。しかし、本業の大工の仕事がしばらく出来ず、人足の賃銀は...敦賀茶町台場物語その2

  • 敦賀茶町台場物語 その1

    敦賀茶町台場物語その1越前敦賀は天然の良港であり、町は湊と共に発展してきた。海運が発達すると、数えきれないほどの大船小船が、浜辺から伸びた桟橋やずっと沖合にまで、年中停泊係留されるようになった。船荷の積み降ろしに小舟が行き交い、船頭や水主に乗客らが大船に乗り込み、降りてきた。その男たちを目当てに茶屋遊郭宿屋の女たちは小舟で客引きに出かける。陸に上がる前に客を捉まえてしまおうというのだ。せわしない風習が伝わって来たものだと、昔ながらの敦賀の商人は眉を顰めるが、よその湊で流行っているものを止める訳にはいかない。浜辺だけではない、船の上でも嬌声が上がる。その湊の浜から南へ、敦賀の町がひろがっている。町人が住む長屋や、各種商人の町屋が立ち並び、大小の寺院や神社に祠などもある。縦横に走る川には荷を積んだ舟が浮かび、舟から...敦賀茶町台場物語その1

  • マルクス剰余価値論批判序説 その37

    マルクス剰余価値論批判序説その37(17)同上、五九三頁。(18)貨幤(商品)との関係による階級規定は、便宜的なものでしかない。このような階級規定は、ドゥルプラス(『「政治経済学」とマルクス主義』岩波書店)に見ることができる。「現存社会は商品所持者間の一般的関係という視角からではなく、所持する商品の性質によって定義される個人の二つの階級のあいだの特殊な関係という視角から、者義小することができ、また、この関係は搾取関係として理解することができる。」(同書、三一六頁)。ドゥルプラスは「商品は《交換される物》ではない(二四七頁)」という正しい視点から出発しているのだが、貨幤と引き換えられるもの全てを商品であるとして、労働力もまた商品の一種にしてしまう。労働(カ)と貨幤との引換を、商品交換と同列に理解するのである。した...マルクス剰余価値論批判序説その37

  • マルクス剰余価値論批判序説 その36

    マルクス剰余価値論批判序説その36(1)「労働がどのようにして使用価値を増加させることができるか、ということを理解するのは、容易である。むずかしいのは、労働がどのようにして前提されたもの以上の諸交換価値をつくりだすことができるか、という点である。」(『資本論草稿集』第一巻、三八七頁)。(2)MEW二三、九〇頁。(3)同、六一三頁。(4)同、六一二頁。(5)岩井克人氏(『ヴェニスの商人の資本論』ちくま学芸文庫、七九、一〇三頁)が主張している剰余価値論は、その内実としては平田清明氏の言う「増加価値」(『社会形成の経験と概念』岩波書店、九八頁)の説明でしかない。日常的概念としての企業利潤をマルクスの剰余価値だとしてしまうのでは、マルクスの問題意識を無視することになる。マルクスは、個々の資本家の価値が増加するのは・どの...マルクス剰余価値論批判序説その36

  • マルクス剰余価値論批判序説 その35

    マルクス剰余価値論批判序説その356、外部としての社会資本家は労働者に労働させる。労働時間は、習慣的にあるいは法的に(あるいは暴力的に)決まっている。生産された商品は、全て資本家のものである。生産された商品の価値は、それに要する労働時間で規定される。それは、商品が労働生産物であり、労働の媒介によってしか生産されないからである。労働は価値ではないから労働生産物も価値ではない。ただ、私的交換の労働生産物だけが価値になる。問題は、労働生産物を私的に交換させるシステムの存立構造である。その構造の根幹の物的なものを「貨幣」、精神的なものを「価値」であると、マルクスは考えたのである。構造を問う場合には、その構造の成立と崩壊についての諸問題とともに、その構造の維持(再生産)としての構造自体の運動法則が問われる。『資本論』第一...マルクス剰余価値論批判序説その35

  • マルクス剰余価値論批判序説 その34

    マルクス剰余価値論批判序説その345、労働賃金労働賃金という形式は、賃金が、行なわれた労働に対して支払われているかのような外観を植えつける。それは、賃金が個別資本家から個別労働者に支払われ、個々の労働者の労働種、技術、労働時間、資本への貢献度などによって様々に異なり、いかにも賃金がその個別労働者の個別労働に対して支払われているように見えるからである。労働者も資本家もそのイデオロギーに捕らわれるのである。マルクスは、階級的観点からはこのようなイデオロギーは簡単に見抜くことができると言う。貨幣形式が生み出す幻想は、個別資本家や個別労働者に代わって資本家階級と労働者階級とが考察されるならば、たちまち消え去ってしまう。資本家階級は労働者階級に、後者によって生産されて前者によって取得される生産物の一部分を指示する証文を、...マルクス剰余価値論批判序説その34

  • マルクス剰余価値論批判序説 その33

    マルクス剰余価値論批判序説その334、労働力商品マルクスは、労働を価値と結びつけるために、労働の価格を労働者の生活費に求めたブルジョア経済学と同じ立場に立って、その商品既定の矛盾だけを解決する。(14)このようにして、賃金は労働ではなく労働力の価格とされ、労働力が商品であるとされる。労働力の価値は、他の商品と同様に規定される。(15)商品の価値は、その再生産に必要な労働の量によって規定される。そして、労働力もまた同じであるとマルクスは言うのだが、労働力の再生産は直接に労働によって行なわれるのではない。したがって、マルクスも、「言い換えれば、労働力の価値は、労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である」というように、規定の仕方を変えている。さらに、「労働力の生産に必要な生活手段の総額は、補充人員すなわち...マルクス剰余価値論批判序説その33

  • マルクス剰余価値論批判序説 その32

    マルクス剰余価値論批判序説その323、外部の隠蔽この問題をマルクスは、生産部面が労働過程と価値形成過程との統一であり、労働過程は流通過程の外部にあるが、同じ労働過程は価値形成過程として流通過程と直接に結合していると見なしてしまうことで、解決(?)するのである。労働過程は、価値形成過程としては流通過程と直結しておりその外部性は消滅される。しかし、労働過程を価値形成過程でもあるとするのは労働過程そのものの規定ではなく、労働力を商品(価値)であると規定した場合になされる間接規定でしかない。したがって、価値増殖過程としての労働過程では、労働時間の大きさきだけが、すなわち、抽象的人間的労働の大きさだけが問題となる。これは、労働過程を流通過程の尺度によって把握しようとすることである。そのためには、労働過程に必要なもの全てを...マルクス剰余価値論批判序説その32

  • マルクス剰余価値論批判序説 その31

    マルクス剰余価値論批判序説その312、剰余価値マルクスの剰余価値論を、見てみよう。剰余価値とは、最初の価値を越えて自らが生み出した超過分(増加分)であり、価値自己増殖である。それは、自分以外のところにある価値を、何らかの方法(略奪や詐欺など)で持ってきて自分に付け加える、ということではない。まさに、価値産出であり、錬金術である。(5)マルクスはまず、流通過程における剰余価値の発生について考察する。そして、流通過程における商品交換は、剰余価値を発生させないとする。(6)さらに、商品交換が不等価交換である場合にも、不等価において誰もが平等であるから、結局は価値を殖やさないことになる。(7)したがって、商品交換は価値を創造しない。(8)このように、資本は流通からは発生しないが、しかしまた、流通からしか発生させることが...マルクス剰余価値論批判序説その31

  • マルクス剰余価値論批判序説 その30

    マルクス剰余価値論批判序説その30第三章、剰余価値と社会の外部1、労働価値説労働は、価値ではない。労働が価値(商品)であると見なされるのは、それが貨幣で買われるからである。労働価値説は、労働者が賃金と引換に労働を提供する事態の、理論的表現である。したがって、労働価値説は、現に賃金労働が行われている現象の説明としては、無条件に正しいものである。労働価値説に対する批判は、労働が賃金で買われることの批判にならない限り、労働価値説を越えることはできない。賃金労働の存在を認めておいて、労働に価値はないとは言えないのである。マルクスの労働価値説が批判されるのは、それが剰余価値論と直接に結びついているからである。労働が価値であることは認めても、労働が新たな価値を生み出すことは認められないのである。(1)マルクスは、労働が価値...マルクス剰余価値論批判序説その30

  • マルクス剰余価値論批判序説 その29

    マルクス剰余価値論批判序説その29(11)『資本論を物象化論を視軸にして読む』(廣松編、岩波書店)で高橋洋児氏は、「重要なことは、賃労働に対して労賃が支払われるというあり方は労働力商品を前提とする特殊歴史的なものであるにもかかわらず、それが《労働―労賃〉という一般的な図式のなかで無区別的に捉えられてしまうという点である。(五九五頁)」と述べている。高橋氏は、マルクスの労働力商品説の立場にあるものの、《労働ー労賃〉図式の根幹に迫ろうとしている。「それにしても、労働は必ず労賃を見返りにもたらすべきものという観念が確固たるものとして成立するためには、当事者たちの側にそれなりのいわば根拠認識がなければなるまい。〈労働ー報酬〉関係がくり返し行なわれるというだけでは、なお積極的な根拠づけに欠けると言わざるを得ない。(五九六...マルクス剰余価値論批判序説その29

  • マルクス剰余価値論批判序説 その28

    マルクス剰余価値論批判序説その28(1)たとえば、岩佐茂氏は次のように言う。「社会的諸関係のこれらの関係のうち、マルクスは、物質的生産にかかわる生産諸関係(物質的関係)を社会の土台として、それ以外の他の諸関係を何らかのかたちで土台によって規定される社会の上部構造として特徴づけた。」(『人間の生と唯物史観』青木書店、一一六頁)。このように岩佐氏は、社会を土台と上部構造に分けている。しかし、岩佐氏自身がこの文の直前で述べているように、「社会的諸関係は物質的関係(生産関係)、社会的(social)関係、政治的・法的関係、精神的関係に区分することができる」のならば、ゲゼルシャフト的関係とゾツィアールな関係とを、共にゲゼルシャフトの関係としてしまうことは、社会という日本語の没概念性に、あまりにも無自覚ではないのだろうか。...マルクス剰余価値論批判序説その28

  • マルクス剰余価値論批判序説 その27

    マルクス剰余価値論批判序説その275、社会の外部労働賃金という形式は、労働が、人問生活の土台であり、人間生活の自然根源的共同制度であることを、隠すのである。それは、貨幣という外的物的な物象が、人間労働に替わって共同制度(ゲマインヴェーゼン)となることによってである。賃金(貨幣)という直接的に社会的な物と、労働という社会の外部とは、共に、人問の自然的および歴史的な本質としてのゲマインヴェーゼンの、物的および人問的な存在である。それはゲマインヴェーゼンが、物において現われたものと、人間の活動において現われたものとの、違いである。そして、労働が社会によって隠蔽されているからこそ、貨幣のゲマインヴェーゼンの直接性が、社会を超越したものとして現われるのである。貨幣の超越性は、労働本来の反社会性の物的な現われである。マルク...マルクス剰余価値論批判序説その27

  • マルクス剰余価値論批判序説 その26

    マルクス剰余価値論批判序説その264、〈労働ー労賃〉図式しかし、実はここに、大きな落とし穴がある。マルクスは、プルジョア経済学と同様に、労働が支払われるものであることを認めている。全額か一部かの違いはあるものの、労働が貨幤によって買われている、労働に貨幣が支払われていることを、自明な前提としてマルクスは、剰余価値論を組み立てているのである。労働(労働力)が貨幣で買われる(売られる)ものであるという、資本制生産に独自なイデオロギーを前提にして、労働(労働力)が一定額の貨幣と交換に取得されることの超越性を、プルジョア経済学と同様に無視して、剰余価値の謎が解き明かされるのである。労働に対して貨幣が支払われる、労働すれば貨幣が得られる、労働にはそれに見合う貨幣が支払われて当然だ、労働には正当な貨幣額が与えられるべきだ、...マルクス剰余価値論批判序説その26

  • マルクス剰余価値論批判序説 その25

    マルクス剰余価値論批判序説その253、生産過程資本の生産過程は、労働過程と流通過程との統一である。資本は、どちらか一方だけからでは、創造されない。プルジョア経済学は、流通過程からの資本の発生を唱えた。マルクスは、等価交換の流通過程からは剰余価値の発生の余地はないとする批判から、等価交換に見えて実はそうではないものとしての労働(労働力)・に注目した。そして、労働(労働力)という独特の商品の、交換(流通過程)と実際の使用(労働過程)という、交換価値と使用価値との通約不可能性から生じる交換価値の差異性によって、剰余価値の発生を論証したのである。しかし、資本の生産過程が労働過程と流通過程との統一であると言うのは、商品が使用価値と価値との、あるいは商品の生産過程が労働過程と価値形成過程との統一であると言うのとは、基本的に...マルクス剰余価値論批判序説その25

  • マルクス剰余価値論批判序説 その24

    マルクス剰余価値論批判序説その242、労働(労働過程)マルクスは、労働そのものは労働者(人間)と自然(物)との関わりであって、どのような社会形式にも関わりなく、あるいはまた、あらゆる社会形式に共通なものであると、認識していたため、労働そのものとしての労働過程は、労働者と生産手段の所有者との関係以前のことと見なしている。(5)労働過程は、流通過程の前提であるとともに、流通過程の外部にある。(6)流通過程は、労働過程を準備するとともに、労働過程を価値形成過程として成立させる。ここには、二つの側面がある。一つは、労働過程に必要な物(労働する物と労働される物)は、流通過程でしか手に入らないということ。もう一つは、労働過程の目的がそれ自身にはなく流通過程にある、ということである。流通過程は社会的なものだが、それは私的(排...マルクス剰余価値論批判序説その24

  • マルクス剰余価値論批判序説 その23

    マルクス剰余価値論批判序説その23第二章、社会の外部一、社会の土台生産諸関係の総体、社会の経済的構造が実在的土台であり、この土台そのものが社会である。したがって、マルクスの言う「実在的土台」を、社会を上部と下部に分けて、その下部の方を「社会の土台」だと言うのは正しくない。(1)土台そのものが社会であり、この杜会の上に、社会ではないもの、ゾツィアールなものが乗っているのである。このゾツィアールなものは、マルクスが言うように「社会の外部」ではあるが、それは幻想的な外部であって、実在的なものではない。マルクスは、実在的土台としての社会について、さらに絞り込んだ規定を行なっている。大工業が発展するにつれて、それがよってたつ土台である他人の労働時間の取得が富を形成したり創造したりすることをやめるのと同様に、大工業の発展と...マルクス剰余価値論批判序説その23

  • マルクス剰余価値論批判序説 その22

    マルクス剰余価値論批判序説その22(11)『資本論草稿集』第一巻、一六〇~一六一頁。(12)「私的交換にもとづく生産システムは、なによりもまず、この自然生的な共産主義の歴史的な解体である。……」(『資本論草稿集』第二巻、八一一頁)。(13)「貨幣それ自体が共同制度なのであって、自分のうえに他のものが位することを許すことができない。」(『資本論草稿集』第一巻、二四四頁)。「貨幤はここでは事実上、諸個人の共同制度が彼らの外部に物として実在しているものとして現われる。」(『資本論草稿集』第三巻、四九頁)。「貨幤関連――そこでは諸個人の共同制度そのものがひとつの外的な、だからこそまた偶然的な物として、すべての人々に対立して現われる」(同、一二一頁)。(14)MEW二三、五二頁。マルクスは、対立の統一としての概念を説明す...マルクス剰余価値論批判序説その22

  • マルクス剰余価値論批判序説 その21

    マルクス剰余価値論批判序説その21(1)『資本論草稿集』第二巻、五〇一頁。(2)「一階級などに属する諸個人には、それらを止揚することなしには、それらを全体として克服することは不可能だということがわかる。」(『資本論草稿集』第一巻、一四八頁)。(3)「三大社会階級。これら三階級のあいだの交換。流通。信用制度(私的)。」(『資本論草稿集』第一巻、六二頁)。(4)『資本論草稿集』第一巻、三一二頁。(5)『経済学批判』岩波文庫、一三頁。(6)この『経済学批判』の序言の一節は、『資本論』にも引用されており、マルクスにとって社会と社会の上部との区別は、決定的である。『資本論』第一巻では、ゾツィアールは社会の上部を指すものとして、ゲゼルシャフトと明確に区別されて使われている。ディーツ社『現行版』(MEW二三)で、その箇所を示...マルクス剰余価値論批判序説その21

  • マルクス剰余価値論批判序説 その20

    マルクス剰余価値論批判序説その208、社会化現実のゲゼルシャフトは、物象に媒介された、非直接的なゲゼルシャフトである。したがって、その止揚されたものは、直接的なゲゼルシャフトであるということになる。この、直接的なゲゼルシャフトとは、端的にはゲマインシャフトである。しかし、ゲマインシャフトという言葉は、ロマン主義的な、反動的な語感があるので、進歩的表現としてこの語を使うことには、ためらいがある。連合やアソシーションについても、それらの抽象性を批判してきた経過がある。結局、マルクスは、ゲゼルシャフトを止揚したところの人間関係を指す言葉を、見つけていない。と言うよりも、ゲゼルシャフトを絶対的なものとしたので、それ以外の言葉を使う必要性を感じなかったのだろう。だから、マルクスは、現実の矛盾に満ちたゲゼルシャフトを止揚し...マルクス剰余価値論批判序説その20

  • マルクス剰余価値論批判序説 その19

    マルクス剰余価値論批判序説その197、物象による媒介さらに、社会は、物象に媒介されることによって成り立っている諸個人の連関であり、ゲマインシャフト性が人間から疎外されて物象のものとなっている状態である。物象こそがゲマインシャフトをなしており、人間はそれに支配されることによって、間接的に共同存在でありうるにすぎない。この、媒介されている状態を社会とするか、それとも媒介を抽象して単なる諸個人の連関を社会とするのか。ここでもマルクスは揺らいでいる。どちらをも、社会的であると一言うのである。『資本論』においても、社会的であることの曖昧さは、克服されていない。それどころか、さらに混乱が深まっている。まず、商品の価値は、ゲマインシャフト的であるとともにゲゼルシャフト的でもあるような実体の結晶であると言う(14)。これは、商...マルクス剰余価値論批判序説その19

  • マルクス剰余価値論批判序説 その18

    マルクス剰余価値論批判序説その186、階級の抽象マルクスは社会を、個人と個人との連関の様態として捉えた。それは、没個別性としてのゲマインシャフトからの、個人的人間の発生であった。さらにマルクスは、社会における個人が、階級に規定されて、階級的諸個人としてのみ存在していることを把握した(『哲学の貧困』)。ところが『経済学批判要綱』以降のマルクスは、諸個人の階級的規定を、曖昧にするのである。それは、マルクスの階級規定そのものが、生産(労働)的規定であると共に政治的規定でもあるというところにある。マルクスは階級を、実在的土台において規定すると同時に、上部構造における行動(政治闘争)においても規定しようとするのである。だが、上部構造(社会の上部)においては、資本家も労働者も共に人間であり、対等で同等な人格である。階級的観...マルクス剰余価値論批判序説その18

  • マルクス剰余価値論批判序説 その17

    マルクス剰余価値論批判序説その175、ゲマインヴェーゼン貨幣の本質的な研究によってマルクスは、ゲマインシャフトを解体して成立したはすのゲゼルシャフトが、ゲマインシャフトを物の姿で持っており、この物(貨幣)こそが主体となってゲゼルシャフトが成り立っていることを、捉えたのである。(13)人間は、本源的に共同存在である。だが、それだけでは何も言っていないに等しい。人問は一人では、あるいは全く孤立した状態では、生きることすらできない。たとえ、動物的に生存することができたとしても、人間になることはできない。奴隷制も對建制も、資本制においても人間(諸個人)は、それぞれの共同制度によって生活している。このことは、何ら学問的な真理などではない。資本家は、労働者との共同制度がなければ、生活できない。労働者もまた、同様である。しか...マルクス剰余価値論批判序説その17

  • マルクス剰余価値論批判序説 その16

    マルクス剰余価値論批判序説その164、ゲマインシャフト一体性としてのゲマインシャフトを解体して、個別性としてのゲゼルシャフトが発生した。しかし、ゲゼルシャフトの個別性は、単なる個別性ではなく、個別化された個々体は直接に連関しておらず、物象を媒介として連関している。ゲゼルシャフトもゲマインシャフトと同様に、人間の連関の一形式ではあるが、全く異なった形式である。ところがマルクスは、時折この区別を抽象してしまうのである。ゲゼルシャフトは、原生的なゲマインシャフトの解体であるとされる。(12)以前にマルクスは、ゲマインシャフトはもの言わぬ一般性であるとして、それを否定した。しかし、ここでは、マルクスが否定したゲマインシャフトは原生的なゲマインシャフトであり、ゲマインシャフトそのものを否定するのではないという姿勢が見られ...マルクス剰余価値論批判序説その16

  • マルクス剰余価値論批判序説 その15

    マルクス剰余価値論批判序説その153、社会的なことマルクスは、社会の内部で生産する諸個人から出発する。しかし、彼らの生産は、直接には社会的ではないと言う。したがって、マルクスが前提とするのは、社会的な諸個人の直接には社会的ではない生産である。これは、どういう意味だろうか。マルクスは、「社会的であること」の反対を表現するために、「直接的に社会的であること」という言い方をする。つまり、社会的なこととは、個々人が非直接的に連関していることである。諸個人は、物象に媒介されて連関している。この、人間以外の物象に媒介された諸個人の連関が社会であり、社会的な形式なのである。そして、物象に媒介されないで、諸個人自身が媒介の役をなして個々人が連関していることを、直接的に社会的な形式であると、言うのである。ところが、「社会的である...マルクス剰余価値論批判序説その15

  • マルクス剰余価値論批判序説 その14

    マルクス剰余価値論批判序説その142、社会の上部マルクスはここで「社会の外部」と言っているが、『経済学批判』と併せて見れば、ここで「社会の外部」と言われているものが、実は「社会の上部」であることが確認できる。「社会の上部」とは、現実の社会の抽象、つまり公的幻想的ゲマインシャフトのことである。この「社会の上部」を指す言葉として、マルクスはsocialを使っている。有名な、『経済学批判』の序言の一節を見てみよう。人間たちは、彼らの生活のゲゼルシャフト的生産において、特定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係を、すなわち、彼らの物質的生産諸力の特定の発展段階に照応する生産諸関係を受け入れる。これらの生産諸関係の総体がそのゲゼルシャフトの経済的構造を形成するが、これが実在的土台であり、その上に法的および政治的な上部...マルクス剰余価値論批判序説その14

  • マルクス剰余価値論批判序説 その13

    マルクス剰余価値論批判序説その13第一章、社会とその上部1、生産関係としての社会『経済学批判要綱』と『資本論』とを、それ以前のマルクスから区別づけるものは、マルクス独自の剰余価値論の存在である。マルクスの剰余価値論は!古典派政治経済学の労働価値論に対する批判であり、その労働価値論に基づいた社会主義や共産主義に対する批判である。マルクスは、古典派政治経済学の労働価値論の批判において、まず労働価値論そのものを完成させる。そして、自ら完成させた労働価値論が、いかに「狂った」観念であるのかを、論証したのである。マルクスは労働価値論を提唱しただけではなく、それ自体を解体しようとしたのであるが、後者については前者ほどには注目されなかった。それは、マルクスの剰余価値論が、あまりにも社会的だったからである。『経済学批判要綱』に...マルクス剰余価値論批判序説その13

  • マルクス剰余価値論批判序説 その12

    マルクス剰余価値論批判序説その12(13)「貨幣それ自体が共同制度なのであって、自分のうえに他のものが位することを許すことができない。」(『資本論草稿集』第一巻、二四四頁)。「貨幤はここでは事実上、諸個人の共同制度が彼らの外部に物として実在しているものとして現われる。」(『資本論草稿集』第三巻、四九頁)。「貨幤関連――そこでは諸個人の共同制度そのものがひとつの外的な、だからこそまた偶然的な物として、すべての人々に対立して現われる」(同、一二一頁)。(14)MEW二三、五二頁。マルクスは、対立の統一としての概念を説明するに当たって、対立的な形容詞を二つ並べる場合がある。sinnlich"ubersinnlichesDing(MEW二三、八五頁)は有名だが、適切な表現であるとは思えない。(15)MEW二三。七三、八...マルクス剰余価値論批判序説その12

  • マルクス剰余価値論批判序説 その11

    マルクス剰余価値論批判序説その11(1)『資本論草稿集』第二巻、五〇一頁。(2)「一階級などに属する諸個人には、それらを止揚することなしには、それらを全体として克服することは不可能だということがわかる。」(『資本論草稿集』第一巻、一四八頁)。(3)「三大社会階級。これら三階級のあいだの交換。流通。信用制度(私的)。」(『資本論草稿集』第一巻、六二頁)。(4)『資本論草稿集』第一巻、三一二頁。(5)『経済学批判』岩波文庫、一三頁。(6)この『経済学批判』の序言の一節は、『資本論』にも引用されており、マルクスにとって社会と社会の上部との区別は、決定的である。『資本論』第一巻では、ゾツィアールは社会の上部を指すものとして、ゲゼルシャフトと明確に区別されて使われている。ディーツ社『現行版』(MEW二三)で、その箇所を示...マルクス剰余価値論批判序説その11

  • マルクス剰余価値論批判序説 その10

    マルクス剰余価値論批判序説その108、社会化現実のゲゼルシャフトは、物象に媒介された、非直接的なゲゼルシャフトである。したがって、その止揚されたものは、直接的なゲゼルシャフトであるということになる。この、直接的なゲゼルシャフトとは、端的にはゲマインシャフトである。しかし、ゲマインシャフトという言葉は、ロマン主義的な、反動的な語感があるので、進歩的表現としてこの語を使うことには、ためらいがある。連合やアソシーションについても、それらの抽象性を批判してきた経過がある。結局、マルクスは、ゲゼルシャフトを止揚したところの人間関係を指す言葉を、見つけていない。と言うよりも、、ゲゼルシャフトを絶対的なものとしたので、それ以外の言葉を使う必要性を感じなかったのだろう。だから、マルクスは、現実の矛盾に満ちたゲゼルシャフトを止揚...マルクス剰余価値論批判序説その10

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