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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  • Vol.421 神主の謎

    本家のご先祖様の戒名に、神主と書かれている人物が3名いたことは以前の記事で書きました。当時の考察では、宗家が内城の世之主神社の神主を代々やっていたからであろうという考察で書きましたが、それを裏付けるヒントになる情報を見つけました。島の瀬利覚に宗岡家という旧家があります。「瀬利覚の昔話」という本に書いてあったのですが、こちらの家は昔は宗という名字だったようですが、改姓して宗岡家となったそうです。この宗岡家は、百(ひゃー)と呼ばれる役を3代続けてやっていたそうです。百とは、集落の長として政治と神事を取り扱っていたが、明治時代の頃は主として神事を執り行っていたそうです。島をあげての大行事であったシニグ祭は百が主役であったとのこと。確かに明治3年の最後に行われたシニグ祭でも各村の百が参加してシニグ祭りを取り仕切っ...Vol.421神主の謎

  • Vol.420 昭和12年頃の貴重な記録から②

    野間氏の本には、島の人から聞き取ったという世之主の母方の情報が書かれていました。口碑によれば、沖永良部島がまだ琉球の支配にあった頃、村ごとに琉球王のもとに貢物を届けていた。その時にはノロの他に生娘が伴われて行くのが慣例であり、ちょうどその時も同行していた。その娘は美しかったので、国王の目にとまり、王の子供を宿した。琉球から島に帰るときは臨月で船中でお産の傾向があったから、初め屋子母に船を着けて大津勘付近で分娩しようとしたが、ちょうどその時はシニグ祭りの時で、そんな汚れたことはお断りだと断られ、やむなく次の島尻に上陸しようとしたら、また同様に断られたので、自分の生まれ故郷の下城の下の沖泊に上陸し、下城の入間というところまで来た時、ここでも家々を追われ、路傍に付近から雨蓑を集めて産屋を作り分娩した。産後は体調...Vol.420昭和12年頃の貴重な記録から②

  • Vol.419 昭和12年頃の貴重な記録から①

    Vol.376の記事で、現在の世之主の墓の納骨堂に安置されている3つの厨子甕について書きました。伝承では世之主と一緒に自害した奥方と長男のものであるということですが、実はそうではなくて3代の世之主のものであったということでした。昭和12年に沖永良部島を探訪された野間吉夫氏の「沖永良部島採訪記」(昭和17年出版)という本の中で、当家の曽祖父になる宗佐久平が野間氏と対面した時に語った話です。野間氏は別の本である「島の黙示録」の中に、「沖永良部島採訪記」の中には書いていなかった情報を書いていました。宗佐久平のこと曽祖父である佐久平は、野間氏と出会った8年後の昭和20年に79歳で他界しています。いま現在、生前の佐久平のことを知っている人はもう誰もいません。家族の中に唯一残る情報は、世之主神社の神主をしていたという...Vol.419昭和12年頃の貴重な記録から①

  • Vol.418 竿次帳と対面できました

    以前から切望していた竿次帳を閲覧するために東京まではるばる行ってきました。行先は東京国立公文書館です。竿次帳(さおつぎちょう)とは、明治12(1879)年当時の鹿児島県内の土地の所有者を示すもので、土地台帳より少し古い時に作成されています。私が探している先祖がいた沖永良部島の竿次帳も保存されているのを知り、ぜひ一度閲覧したいと思っておりました。この度、竿次帳が所蔵されているつくば分館から本館に移送してもらい、145年前に沖永良部島で作成された資料とのご対面となりました。当時の村ごとに作成されており、表示には確かに明治12年と書かれています。保存状態はいろいろで、表示がかなりボロボロのものもあり、取り扱いには注意が必要でした。表紙にペラッ薄い紙が付箋紙のように貼られており、官有地が4筆、民有地が1300筆ほ...Vol.418竿次帳と対面できました

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