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琉球史と絡む先祖調査の記録です https://blog.goo.ne.jp/yononushi

琉球が三山時代であった北山王の次男と言われる沖永良部の島主「世之主」 当家のご先祖様であるという伝承をもとに、ご先祖調査をしており、その内容をブログに記録しています。

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2021/02/12

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  • Vol.390 越之山神社:社殿と厨子甕

    沖永良部島の南部の屋子母という地区にある越之山神社。地元の人たちにも建立の歴史やその存在は今はあまり知られていない神社のようで、私もつい最近に存在を知りました。区長や地主の方の話によると、わずかに残る伝承では神社には世之主に関係する方を祀っているそうです。その方が亡くなるときに地元の沖縄の見える場所にお墓を作ってほしいとのことで、少し高台になっている現在の神社の後方付近にお墓があったようですが、訳があって近世になって神社が建立されたようです。現在の社殿は昭和初期の建立だそうです。下の道路から少し登っていくと神社があります。こちらが社殿です。祭壇には観音様が安置してありますが、これは近年になって宮崎県のお坊さんに祀りごとをお願いすることになったときに、お坊さんから譲り受けたものだそうです。神社にお坊さんやら...Vol.390越之山神社:社殿と厨子甕

  • Vol.389 宗家に連なる人々8:新納政吉翁胸像

    沖永良部島の知名町田皆地区にある「新納政吉翁胸像」。そこに書かれている碑文を紹介します。新納政吉先生は明治七年住吉の平政清の二男として生まれ、同三十五年田皆の名門新納直橋氏の養子となりました。若き時代は教育に情熱を傾注しておられましたが、明治四十四年から二期間県議会議員をつとめました。その間大島汽船を創設就航させて離島苦を解消し、奄美群島商工会議所の会頭として信用金庫の前身産業組合を設立し、知名正名間の県道を田皆まで延長して島民の生活向上に貢献されました。わけても田皆岬を中心に東西六十町歩に及ぶ共有地は先生の努力で県から払い下げられました。この共有地はある時は役牛馬の牧草地となり戦後の食糧難時代には内地からの引揚者や土地の少ない人々の耕地となり、又、防風林は隣接農地を災害から守りました。更に植樹したソテツ...Vol.389宗家に連なる人々8:新納政吉翁胸像

  • Vol.388 友竿遺跡②

    友竿遺跡で発見された古銭ですが、数枚といったわけではなく、かなりの量が発見されていました。研究者が発掘をしたわけではなく、雨が降った日に現地を訪れた中田さんが地面の表面に浮き上がっていた古銭を発見したということですから不思議です。中国の古銭がここにたくさんあるということは、その昔に中国と交易をしていた証拠でしょうし、そして大昔にここに交易をした人物が住んでいたということを物語っているのでしょうか。古銭がたくさん見つかったということは、お金を残したまま住人が急に消え去ったということでしょうか。何かの勢力によってここに住んでいた人たちは忽然と消えたということも考えられますね。こちらは中田さんが取集した古銭です。地元の歴史民俗資料館にも保管されていますが、一部をご自分で保管されています。左の少し変わった形の古銭...Vol.388友竿遺跡②

  • Vol.387 友竿遺跡①

    世之主の時代に城があった付近には、小高い丘がいくつかありました。現在は山を削って畑となってしまった場所もいくつかありますが、城があったと伝わる場所(現在は世之主神社がある)の北東側には世之主の次男が住んだ直城の丘、そのさらに東には友竿(ともぞう)と呼ばれる小高い丘がありました。この友竿遺跡ですが、この場所も昭和の時代から山が削り取られており、今では山があった当時の面影はありません。上は現在のGoogleマップで見た、付近の航空写真です。友竿は山が削りとられている工事の最中ですね。直城はすっかり平地の畑となってしまっています。城跡も現在は随分と古い時代に比べると様子が変わってしまっています。お爺さまが昭和57年に帰島した時に撮影した、神社から見た直城と友竿の写真がありました。奥の方にある段々になっている工事...Vol.387友竿遺跡①

  • Vol.386 本部太原の頭蓋骨

    本部太原(もとぶてーはら:平原とも書く)は北山滅亡の時に主人であった北山王を裏切った人物です。このいきさつは、いかのように伝えられています。時の王であった攀安知は、誰もが知る英雄であることに間違いはない。しかし知性に乏しく徳がない。だから部下の将卒の中で、王の攀安知に心服して従っている者は、きっと少ない筈だ。大将の太原もまた、豪傑として世に知られてはいるが、これもまた勇を誇るばかりの全く智が足りない小人物だ。昔からいわれるように、小人は、利をもって誘惑すれば、いと易しとされるから、思い通りになれば、やがてきっと簡単に我が軍に靡くに違いない。中山の尚巴志王はこのように自分の軍勢に語り、臣下の羽地按司を呼び寄せ、自分の考えを伝えながら、二人は細かい点まで行き届いた策略を練ったといいます。その計画を実行に移すべ...Vol.386本部太原の頭蓋骨

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