ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
貞和四年(正平三年 一三四八)六月頃から同年十一月頃まで。 貞和四年十月二十七日、後伏見院の御孫が御年十六歳で御譲位をお受けになって、同じ日に内裏で元服なさった。剣璽を渡されて後、同じく二十八日に萩原法皇の第一皇子が春宮にお立ちになる。御年十六歳にお
ところで、この日壬生の民家に隠れていた謀反人達は逃げることなく皆討たれた中に、武蔵国の住人で香勾新左衛門高遠という者ただ一人が、地蔵菩薩が身代わりとなられたことによって死を免れたのは不思議なことだった。 所司代の軍勢がすでに未明から押し寄せて十重二十重
その頃、備前国の住人三宅三郎高徳は、新田刑部卿義助に従って伊予国へ越えていたが、義助が死んだ後備前国へ帰って児島に隠れていて、なおも本意を遂げるために、上野国におられた新田左衛門佐義治をお呼びして、これを大将にして旗を挙げようと企てた。 この頃また、丹
尊氏卿と直義朝臣がすでに堂にお入りになると、勅使藤中納言資明卿と院に仕える高右衛門佐康成が参列して、すぐに法会が始まった。その日は何事もなく暮れた。 明ければ八月の終わりである。その日はまた、御結縁のために両上皇の御幸があった。昨日とは事の様子が変わっ
そうと決まれば、幕府の処置として当日の供養を執り行い、翌日に御幸があるのがよいということで、その年八月二十九日、将軍と左兵衛督が道中の装いを調えて天龍寺へ参詣された。貴賤の人々が街に溢れて、僧俗はそこに群れをなし、前代未聞の壮観である。 まず一番に、時
これによって三千の僧徒は憤りがひととおりでない。そこで、強訴すべきであるということで、康永四年八月十六日、三社の神輿を根本中堂へ上げて、祇園、北野の門を閉じ、日吉神社の獅子舞と田楽法師が庭に並び、神職と神主が御前に集まった。朝廷と幕府の決裁が主張を無視
それではということで次の日にすぐ叡山の奏状を幕府へ送られ、処置するように仰ったところ、将軍と左兵衛督は一緒に叡山の奏状を見て、「これは一体何事か。寺を建てて僧を大事にしようと言っても、叡山の所領を邪魔するわけでもなく、僧たちの面倒も掛けず、おりよく公家
この三つの意見は互いに対立して長短がそれぞれにある。上席の人々の考えはどれに決せられるだろうかと、口を閉じ困っていると、二条関白が、「南都北嶺八宗派に分かれて、末流は道を異にするとは言え、共にこれは釈尊の説いた法でないものはない。それなのにどれを取って
この二つの意見が対立してどちらが正しいかと諸卿が考えを巡らし判断しかねたので、誰も口を利かず黙ってしまった。しばらくして三条源大納言通冬が、「先ほどの意見は、まったく天地ほど異なった意見で、方向を定めることができようとは思えない。たとえ山門が申すことに
このことはもっともと思われたところに、日野大納言資明卿が、「山門はいささか強訴に似ていますが、恐れながら私の考えを申しますと、一理あろうかと思われます。と言いますのは、日本の開闢は比叡山から起こり、都の鎮護はもっぱら延暦寺が行って来た。だから政治が乱れ
奏状が内覧に下された後、公卿たちが集まってこの事をどうすべきかと協議された。しかし大事な事なので、誰もが口を閉ざしていたところ、坊城大納言経顕卿が進み出て、「まず山門が申す言葉についてその意図を考えるに、和漢の例を引いてこの宗派を好む世は必ず滅びないと
その年八月に上皇がおいでになって供養をなさるのがよいということで、諸国の大名をお呼びになって、代々の先例に倣ってそれぞれの役をお命じになる。まことに天下挙げての催しで、京中の壮観だと噂されたところ、例によって叡山の僧たちが怒って、毎夜の蜂起や僧坊毎の騒
武家の者たちがこのように諸国を何としても手に入れようとすることも、軍の費用に充てるためならば、何とも仕方のない時だから納得もできるのだが、無意味な贅沢に耽って、身には派手な衣裳を着て、食には珍しい馳走を尽くし、茶の会や酒宴に多くの費用を費やし、遊女や田
康永四年(興国六年 一三四五)の秋。 暦応に改元された頃から戦乱がしばらく静まり、天下が平穏だったとは言え、京都の人々は貴賤にかかわらず、なお生活の困窮に苦しんでいた。そのわけは、諸国の所領地や荘園も所有者の管理がままならず、税や年貢も運送の困難
三 土岐頼遠御幸に参り合い狼藉を致す事 付けたり雲客車より下るる事 ~3~
この頃の習俗は、都はすっかり変わって、野蛮な国の民となったので、人は誰も院や天皇というものが分からなくなったのか、「土岐頼遠は御幸に行き会って無礼があったとして、斬られ申された」と言うと、通りがかりの田舎人はこれを聞いて、「いったい、院でさえ馬から下
三 土岐頼遠御幸に参り合い狼藉を致す事 付けたり雲客車より下るる事 ~2~
その頃は直義朝臣が尊氏卿の政務に代わって天下の政治を取り仕切っておられたので、この事を伝え聞いて、「外国でもまだ類例を聞かない。まして我が国においては、かつて聞いたことも見たこともないけしからぬことである。その罪を考えると、親子三代を処罰してもなお足ら
三 土岐頼遠御幸に参り合い狼藉を致す事 付けたり雲客車より下るる事 ~1~
その年九月三日、故伏見院の御命日だったので、その仏事をわざわざ故院の旧宅で執り行われるために、持明院上皇が伏見殿へ御幸なさった。 この離宮は、あれほどみごとに作られ、珍しい木や石を集めて見所の多い庭園だったが元の主人がいなくなって年久しくなったので、昔
その頃、諸国の宮方の力が衰えて、天下は将軍の威徳に従うようになり、京都が穏やかになったように見えたが、仏神、三宝を敬わず、大臣や摂関家に所領を与えず、政道はまったく泥や炭の中に落ちたようになったので、世の中はどうなることかと噂し合った。 吉野の先帝の崩
暦応五年(興国三年 一三四二)の春から秋まで。 暦応五年の春伊予国から飛脚が来て、不思議な出来事の報告があった。その経過を詳しく尋ねると、当国の住人大森彦七盛長という者がいて、その心根はどこまでも不敵で力は人並み以上だった。実に血気盛んな勇者と言
そこで、大将細川頼春は、今戦いが終わって味方の手傷を受けた者、死んだ者を調べられると、七百人を越えていたけれども、敵の主だった者二百余人が討たれたので、人々は皆士気が上がり勇み立っていた。「では、すぐに大館左馬助が籠もっている世田城へ攻め寄せよ」という
その頃細川刑部大輔は七千余騎を率いて「敵はすでに出陣したそうだから、思う存分駆け合いの合戦をしよう」と千町原へ討って出て敵の陣を見渡すと、渺々たる野原に中黒の旗が一筋遠く風にたなびいて、わずかに三百騎ほどが構えている。細川刑部大輔はこれをご覧になって、
潮と追い風に乗って押し合いながら戦うその中に、大館左馬助氏明の執事岡部出羽守の乗った船十七艘が、備後の宮下野守兼信の左右に分かれて漕ぎ並んでいる船四十余艘の中へ分け入って、敵の船に次々に飛び乗り、皆が取っ組んで海中に飛び込んだのは勇ましい振る舞いだった
こういう時に、その年の五月四日、国府におられた脇屋刑部卿義助が急に病気になって、体も心も苦しまれたが、わずかに七日過ぎてとうとう亡くなってしまわれた。付き従っていた官軍の者たちは、秦の始皇帝が沙丘で亡くなって漢と楚が機に乗じることを心配し、孔明が籌筆駅
そこで、四国への通路が開けたということで脇屋刑部卿義助は、暦応三年四月一日、勅命を受けて四国、西国の大将を承って下向すると伝わった。長年付き従っていた兵は、その数が多いと言っても、越前と美濃の合戦で敗れた時に大将の行方が分からなくなって、山林に隠れ忍び
こうした頃に、伊予国から特別な使者が来て、「急いでしかるべき大将を一人選んで派遣されて、お味方として忠義の戦いを致したい」ということを申し出たので、脇屋刑部卿義助朝臣を派遣するように公卿の相談がまとまった。しかし下向の途中は海上も陸上もみな敵地である。
四条中納言隆資卿がじっとこれをお聞きになっていたが、言葉丁寧に、「この度のことについて、帝のお考えになったことは、道理にかなうものだと思います。そのわけは、義助が北国の戦いで勝利を得られなかったのは、まったくこの者の戦いが下手だったのではありません。た
この頃、脇屋刑部卿義助は、去年九月十八日、美濃の根尾城に立て籠もっていたけれども、土岐弾正少弼頼遠と刑部太夫頼康に攻め落とされて、郎党七十三人を連れて、忍び姿で熱田大宮司の城、尾張国波津が崎へお逃げになって、十日あまり逗留して、敗軍の兵をお集めになって
こうしている中で、畑はいろいろと考えて、このままではよくない、珍しい戦いをもう一度して、敵を散らすかこちらが散らされるか、二つの間で天運を見ようと思ったので、自分の城には一井兵部少輔に兵十一人を付けて残して置き、一方自分は主だった者十六人を引き連れて十
この時、寄せ手の中に、上木九郎家光という、元は新田左中将の家来だった者が心変わりして敵となって攻め手の前陣にいたが、数tの兵糧を送って畑に内通しているという噂があったので、どういう者がしたのか、大将尾張守高経の陣の前に、「畑をうとうと思えば、まず上木を
暦応四年(興国二年・一三四一)秋から 康永元年(興国三年・一三四二)秋のころまで その頃、京都の討手が大軍で攻め下ったので、杣山城も落とされ、越前、加賀、能登、越中、若狭五ヶ国の間に、宮方の城は一ヶ所もなかったのだが、畑六郎左衛門時能がわずかに
北国の南朝方がしきりに力を得て、尾張守が黒丸城を落とされたと伝えられると、京都は大変に慌てて、援護の兵を下さねばならないと協議された。すぐに四方の大将を決めて、その国々に軍勢を添えられる。高上野介師治は正面の大将として、加賀、能登、越中の軍勢を率いて加
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下