ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
「動乱の『太平記』は、振り返ればすべては兵どもの夢の跡、しかし、当人たちにとっては揺れ動く歴史の流れの中で誇りと名誉に文字通りに命を賭けた、男たちの旅路の物語、…だと思って読み始めてみます。よろしければお付き合い下さい。」
『徒然草』→【徒然草〜人間喜劇つれづれ】 『源氏物語』→【源氏物語・おもしろ読み】 『正法眼蔵』→【「正法眼蔵」を読んでみます】 に続く第四弾は『太平記』としました。 よろしければ覗いて見てください。
六 遺勅にまかせ綸旨を成さるる事 付けたり義助黒丸城を攻め落とす事 ~2~
この二、三年、越前の城三十余ヶ所は互いに戦って、合戦の止む時がなかった。中でも、湊城といって、北陸道七ヶ国の軍勢がついに攻め落とさなかった城は、義助の若党、畑六郎左衛門時能がわずかに二十三人で立て籠もった平城である。南帝ご即位の時で、天運が得られる時で
六 遺勅にまかせ綸旨を成さるる事 付けたり義助黒丸城を攻め落とす事 ~1~
同じ年十一月五日、南朝の群臣は皆で相談して先帝に追号を送った。ご在位の間執政に多く延喜の御代を手本としておられたので、もっともその縁が深いということで、後醍醐天皇と諡申し上げる。 新帝は幼帝でいらっしゃる上に、君がお亡くなりになった後は全ての官が摂政に
同じ十月三日に伊勢神宮へ奉幣使をお遣わしになり、第七の皇子が天子の位にお即きになる。本来なら皇位を継がれる方が即位される時は様々な儀式があるはずである。 まず新帝が即位される日に三種の神器を伝えられてご即位の儀式がある。 その翌年の三月に、卜部宿禰と
天下が長く乱れていることは、末法の世の習いであるから、言っても仕方がない。延喜、天暦の頃以来、先帝ほどの聖主であり武徳を備えた帝は、これまでいらっしゃらなかったのだから、特別な事がなくても、尊い徳が今一度開花してお仕えして忠節を尽くす望みは叶えられない
南朝の年号延元三年(一三三八)八月九日から、吉野の主上はご病気になられたが、次第に重くおなりだった。薬師如来の霊験にお願いしてもその効果がなく、名医の薬も、お飲みになっても効き目がない。お体は日々お痩せになって、崩御の時も遠くないだろうと思われたので、
康永二年(一三四二)三月二十日に、岡崎の民家から急に失火して、すぐに焼け静まったけれども、わずかな細い火屑が遠く一㎞あまりを飛んで、法勝寺の五重の塔の上に落ちた。しばらくは灯籠の火のようで、消えもせず燃えもしないで見えていたが、寺中の僧たちが入り乱れて
叡山の衆徒はこれを聞いて、「昔から今に到るまで、喧嘩が思いがけず起こることが多いと言っても、いまだに門主や座主の御所を焼き払い、僧たちを後ろ手に縛るなど、聞いたことがない。ただちに道誉と秀綱をもらい受けて、死罪にしなければならない」ということを朝廷へ申
この頃特に時流に乗って羽振りの好さが人目を驚かすほどだった佐々木佐渡判官入道道誉の一族や若党達が、ばさらと言われる派手に贅を尽くした振る舞いで、西岡、東山で小鷹狩りをして帰った時に、妙法院の御前を通りかかって、後に従う下僕達に、南庭の紅葉の枝を折り採ら
暦応元年(延元三年・一三三八)八月(正しくは暦応二年八月)から 康永元年(公告三年・一三四三)三月頃)まで 暦応元年の末に全国の反乱勢力の全てが天皇の執政を助けて、大軍が一斉に立ち上がったので、今はいよいよ帝のご運が開けるかと見えたのだったが、北畠
中でも結城上野入道が乗った船は、強風に吹かれて、渺々たる海上に揺られ漂うこと七日七夜である。いよいよ大海に沈むか、地獄の番人の国に落ちるかと思われたが、風が少し静まって、これも伊勢の安野津へ吹き寄せられた。ここで十日あまりが経った後、なお奥州へ下ろうと
吉野では、奥州の国司が阿部野で討たれ、春日少将が八幡の城を落とされて、兵士たちは皆力を落としていたが、新田殿が北国から攻め上るということが帝に伝えられていたのを頼りになされて、今か今かとお待ちになっているところに、この人も足羽で討たれたと伝わったので、
新田左中将の首が京都に着くと、「これは朝敵の最たるものであり、幕府にとっての敵の筆頭である」ということで、大路を引き回して獄門に掛けられる。この人は前帝の寵臣で、武人としての功績は世に広く及んでいたので、天下の拠り所としてその厚い志を大切に思い、その恩
脇屋右衛門佐義助は、河合の石丸城へ帰って義貞の行方をお尋ねになると、始めの頃ははっきり知る人もなかったが、事の様子が次第にはっきりしてきて、「お討たれになったのだ」と話が一致したので、「日を措かずに黒丸へ押し寄せて、大将のお討たれになった場所で一緒に討
戦いが終わって、氏家中務丞が尾張守の前に来て、「私が新田殿のご一族かと思われる敵を討ち取りました。誰とは名乗りませんでしたので、名は分かりませんが、馬、武具の様子、付き従っていた兵達が死骸を見て腹を切り討ち死にいたしましたことで、きっと並みの武者ではあ
燈明寺の前で三万余騎を七隊に分けて、七つの城の連絡を絶ち、まず攻めるための砦を作られた。前もっての手配として、「先陣の兵は城に向かって合戦し、後ろの足軽は櫓を作り塀を塗って砦を作り上げた後に、徐々に攻めることにしよう」と決められたが、平泉寺の衆徒の籠も
閏七月二日、足羽の合戦をすると告げられると、国中の官軍が義貞の陣河合の庄に馳せ参じた。その軍勢はまるで雲霞のようだった。大将新田左中将義貞朝臣は赤地の錦の直垂に脇楯だけを付けて主殿から離れた詰め所の上座に座られると、脇屋右衛門佐は紺地の錦の直垂にちょっ
それから七日目の夜、義貞朝臣は不思議な夢を見られた。場所は今の足羽辺りと思われる川縁で、義貞と高経とが向かい合って陣を張っている。まだ戦わないで数日を経たところ、義貞が急に長さ九十mほどの大蛇になって、地上に寝ていた。高経がこれを見て、兵を退き楯を捨て
義貞が京都への出発を急がれたのは、八幡の官軍を元気づけ、洛中の隙を狙おうとしたためである。ところが今、その打ち合わせに手違いが生じたからには、慌てずに越前の敵を全て討ち滅ぼして、再度吉野と打ち合わせてから京都の合戦をしようということで、義貞も義助も河合
この時、城中の官軍に、多田入道の部下に高木十郎、松山九郎といって名を知られた兵二人がいた。高木は、気持ちは強いが力が足らず、松山は力は世に優れていたが臆病だった。二人とも同じ城門を守っていたが、第一の門を敵に攻め破られて、第二の門でなお防いでいた。敵が
将軍はこのことをお聞きになって、「八幡の城をまだ攻め落とさずに兵達が戦いに疲れているところに、脇屋右衛門佐義助が山門と示し合わせて北国から上洛するらしいが、それはゆゆしい大事だ。その時になって退くようでは、南の敵が勝機として勢いづくだろう。まだ事が大き
児島備後守高徳が義貞朝臣に向かって、「先年京都の戦いの時に、官軍が叡山を攻略されたことは、全く戦いの雌雄を決したものではなく、ただ北国の敵に道を塞がれて兵糧に困窮したからです。今後もその時のようでしたら、かりに山上に陣を進められましても、また先年のよう
数日が経って、越後勢がすでに越前の河合に着くと、義貞の軍勢はますます強大になって、足羽の城を攻め落とすことは片手でもできると、皆が掌を指さすようなものだと思った。なるほど尾張守高経の忠義の心は奪いがたいけれども、小さな平城に三百余騎が立て籠もって三万余
そこで、越後の国はその国境が上野と接していて新田の一族が多くいた上に、元弘以後義貞朝臣が朝廷からの恩賞に所領として任されて長年になっていたので、国中の地頭、御家人がその治政に当たることも久しかった。義貞がいよいよ北国を平らげて京都へ攻め上ろうとしておら
巻第二十 暦応元年(延元三年)(一三三八)五月から九月中旬まで 新田左中将義貞朝臣は、去る二月の初めに越前府中の合戦でお勝ちになった時、国中の敵の城七十余カ所を瞬く間に攻め落として、勢いがまた強大におなりになった。この時山門の衆徒は古いなじみで
この頃、顕家卿と弟春日少将顕信朝臣はこの度南都から逃れた敗軍の兵を集めて和泉国へ討って出て、近隣を侵略しそのまま八幡山に陣を取って、京都を飲み込む勢いになった。これによって京都はまた大騒ぎをして、急いで討手の大将を差し向けようと厳しく命令を出されたが、
その噂が京都にそのまま伝わったので、将軍は大変に驚かれて、急いで南都へ大軍を出して、「顕家卿を阻止せよ」といって討手の相談をされたが、自分が向かおうという人がなかったのだった。これはどうしようかと二人の将軍が適当な人を選考された時に、師直が、「何とし
さて、国司の軍勢十万騎が、垂井、赤坂、青野原に溢れて、東西四㎞、南北二㎞に陣を張った。夜ごとの篝火を見渡すと、全天の星が落ちたように光っている。この時、越前国で新田義貞と義助が北陸道を平定して、天を動かし地を支配するようである。奥州勢がもし黒地川の陣を
京都では、奥州勢が上洛するということがはやばやと伝えられていたけれども、土岐が美濃国にいるから、それでも一旦は食い止めるだろうと当てにしていたところに、頼遠はすでに青野原の合戦に敗れて行方知れずになったとも伝わり、あるいは討たれたという話もあったので、
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ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下
ご無沙汰しました。私のブログ第5段は、トルストイ作『戦争と平和』を読んでみることにしました。タイトルは「『戦争と平和』を物語る~粗筋とつぶやき」です。リンクになっていますので、お気が向いたら、覗いてみて下さい。
《ところで、さて、読み終わって、これは一体どういう物語だったのかと振り返って見ますと、人びとの出入りがあまりに激しく、舞台も日本中に及び、また途中に長々と中国の歴史もはさみ込まれていて、にわかにはストーリーも思い出せません。 『太平記』は三部に分けて考え
《およそ二年半懸かりましたが、全巻を読み終わって、さまざまな思いがあります。 まずは、『集成』が言っていたように、この作品はまだ草稿であって、これから書き改められて完成品になるべきものであったらしいことへの驚きです。年次や人物の誤りが随所にあり、読者の知
そんな時、細川右馬頭頼之が、その頃西国の統治に当たっていて、敵を滅ぼし人を心服させ、諸事の取り仕切りのやり方が、いくらか先代の貞永、貞応の昔のやり方に似ていると噂されたので、ただちに天下の管領職に据えて幼い若君を補佐するようにと、協議の意見が一致したの
こうしているところに、その年の九月下旬の頃から、征夷将軍義詮が心身ともに具合が悪くなり、寝食が優れなくなったので、和気と丹波の医家両家は言うに及ばず、医療にその名を知られたような者たちを呼んで様々の治療をしたけれども、あの大聖釈尊が沙羅の木の下で亡くな
そうしているうちに、その年八月十八日、最勝講が行うようにということで、南都北嶺に命じて必要な人数が呼び集められた。興福寺から十人、東大寺から二人、延暦寺から八人だった。園城寺は、今回の訴訟に是非の裁定が成されていないので招集に応じないという考えを伝えた
その年の六月十八日、園城寺の衆徒が蜂起して、朝廷と幕府に連れ立って訴えを興すということがあった。その原因を何事かと調べると、南禅寺の造営のためにこの頃建てられた新しい関所において、三井寺(園城寺)へ帰る稚児を関所にいた禅僧が殺害したのだった。これは希代
このようでは天下もどうなることかと危ぶんでいるところに、今年の春の頃から鎌倉左馬頭基氏がちょっとした病になったと噂されたところ、貞治六年四月二十六日、生年二十八歳で急に逝去なさった。兄弟の愛情は強いものだけれども、この別れとなるとどうして悲しまずにいら
いよいよその日になると、寝殿の中央の廂の御簾を巻き揚げて階段の西の間から三間北に向かって、二間にそれぞれ菅の座布団を敷いて公家の座とする。長治元年には二列だったが、今回は関白殿がこのような座を設けられた。御帳の東西には九十㎝ほどの几帳を立てられ、昼の御
貞治六年(正平二十二年 一三六七)三月から同年十二月頃まで。 貞治六年三月十八日、長講堂へ行幸があった。この時は後白河法皇の御遠忌追善のために三日間ご逗留なさって、法華経をお誦みになった。安宮院の良憲法印と竹中僧正慈照が導師として参られた。めっ
この時の新院光明院殿も、山門の貫首梶井宮も、ともに皆禅僧におなりになって、伏見殿にいらっしゃったので、急いでお亡くなりになった山中へお出かけになって、火葬のことなどをお取りしきりになり、後ろの山に葬り申し上げる。おいたわしくも、仙院や宮中での崩御であら
御下向は大和路に入られたので、道の都合もよいと、南朝の主上のいらっしゃる吉野殿にお入りになった。この三、四年の前までは両統が南北に分かれてここで戦いあちらで敵対したので、呉と越が会稽山で策略を巡らし漢と楚が覇上で対立した以上だったけれども、今は世を捨て
さて御山にお着きになって大塔の扉を開かせて金剛界と胎蔵界の曼荼羅を拝見なさると、胎蔵界七百余尊、金剛界五百余尊は、入道太政大臣清盛公が手ずからお書きになったお姿である。あれほど悪を積んだ浄海がどのような宿縁に促されてこうした大善行をしたのだろうか。宇宙
光厳院禅定法皇は、正平七年の頃に、南山賀名生の奥から楚の囚われ人のような身を許されなさって、都へ還御なさった後、世の中をますますつまらないものとお思いになったので、その御所を離れ都の華やかな暮らしを捨てて、さらに御身を楽な立場に置きたいとお思いになった
昔、仲哀天皇が天皇としての文武の徳によって高麗の三韓をお攻めになったが、戦いに利なくお帰りになったのを、神功皇后はこれは戦略と軍備が足らなかったためだと、唐国へ戦さを学ぶための謝礼として金三万両を送られて、履道翁の一巻の書物を求められた。これは黃石公が
つくづくと読書の合間に太古の記録を見ると、異国から我が国を攻めたことが、国の始まり以来これまでに七回に及んでいる。特に、文永、弘安の二回の戦いは太元国の皇帝が支那の四百州を討ちとってその勢いが天地を凌ぐ時だったので、小国の力で退治しがたかったけれども、
四十数年の間、我が国は大いに乱れて外国も少しの間も穏やかでない。この動乱に乗じて、山道には山賊が現れて旅人は山野を通ることができず、海上には海賊が多く、舟人は海難を避けがたい。欲心に溢れた流れ者達が徒党を組んで集まったので、浦々島々は多く盗賊に占拠され
大夫入道道朝が都を出て後、越前国河口の庄が南都に返されたので、神の訴えがたちまちに収まって、八月十二日に神木はお帰りになった。時刻は午前六時と定められたのだが、その夜明けから雨が暗くなるほどに降って風が荒かったので、天の怒りはなお何事か残っているのかと
道朝はこのことを伝え聞いて、貞治四年八月四日の夕方、将軍の御前に参上して、「ご不審を受けているということを内々知らせてくれる人がありますが、私には不忠不義のことはありませんので、知らせてくれた人の間違いでしょうと私の気持ちを言い遣りましたが、昨日、近江
ごぶさたしました。春になってまた読書を始めようと思い、ご案内します。トルストイをやったんなら、次はドスト氏だろうと、カラマーゾフに向かうことにしました。『カラマーゾフの兄弟』~その粗筋とつぶやき~4月10日からスタートします。よかったら覗いてみて下