ネットでもリアルでも、人と人とのあたたかな触れ合いは、確かに存在していて、どちらにおいても癒されたり、勇気づけられたりする事はある。ネットの普及によって、良い事も沢山あったのだ。便利な機器やネット環境の無い生活には、もう戻れない。
太極拳愛好歴20年のヒヨッコ🐥です。 ~ 太極拳、その他中国武術、東洋思想、中医学などに興味があります ~
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2024年5月
ネットでもリアルでも、人と人とのあたたかな触れ合いは、確かに存在していて、どちらにおいても癒されたり、勇気づけられたりする事はある。ネットの普及によって、良い事も沢山あったのだ。便利な機器やネット環境の無い生活には、もう戻れない。
人の欲求はとどまる事を知らない。便利なものを開発し、ヒット商品を出すのが企業。でも商業主義が行き過ぎて、何でもかんでも、「高い機能を持った機械・機器が処理します。」となると、人が人としての能力を低下させる事に繋がる。
2024年5月
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ネットでもリアルでも、人と人とのあたたかな触れ合いは、確かに存在していて、どちらにおいても癒されたり、勇気づけられたりする事はある。ネットの普及によって、良い事も沢山あったのだ。便利な機器やネット環境の無い生活には、もう戻れない。
人の欲求はとどまる事を知らない。便利なものを開発し、ヒット商品を出すのが企業。でも商業主義が行き過ぎて、何でもかんでも、「高い機能を持った機械・機器が処理します。」となると、人が人としての能力を低下させる事に繋がる。
便利なモノを取り入れる為に、事前の交渉の段取りを経なければならないという事。それだと、かえって時間がかかるのではないか。でも最初は時間をかけてでも進めなければ、いつまでも何も変わらない。
どんな分野でも「好き」こそが長続きの秘訣であり、指導者の課題は、指導を受ける相手にも「好き」を感じてもらえる指導ができるか。そこには、やっている事そのものの内容だけでなく、互いの相性、人間関係、人柄までが影響を及ぼす。
「武術的な動きの要素を健康法として利用する」という説明が、私にはしっくりくる。稽古を続ける事で、しなやかな動きが可能となり、心肺機能が強化され、深部感覚も磨かれる。
稽古に関して、とにかく言えることは、その人ができるタイミングで稽古の場へ来て、継続できるのが一番。家族の事情でやむを得ず休会しても、また時間に余裕ができたら戻ってくればいい。
1つの流派の創始者は、昔、ある時点で、熱心に拳術などの技法の習得に取り組み始め、技を弟子に伝承していく中で、1つのグループが形作られていった。
恬憺虚無という言葉がある。落ちついていて、心に何のわだかまりも無く、平安な状態。他人や世間に振り回されること無く、そんな状態が継続できれば理想だろう。
鍛錬を積んだ人の円熟した動きは、基礎体力や腕力がある人をも凌駕するかもしれない。それは焦って身に付く技ではなく、じっくり時間をかけて醸成していくものだと思う。
社会の中で生きる一定のルールは要る。でも個人の趣向や楽しみに関しては、社会のルールに当てはまらないもの。実態がないようなモノに対し、苦労して、当てはめなくてもいい。ただ、生きやすい程度の常識があればいい。
終戦の日を前にして、初めて祖父のことを書く。冷たいと思われるかもしれないけれど、私は、戦死した祖父に対して愛着は無い。会った事がない人だから。遺影でしかその姿を見たことはないから。ただ、私自身が中年世代になった事で、人生について、より深く考えるようになった。祖父は当時どんな思いを抱えていただろうか。
老いていきながら自己鍛錬を重ね、重力を味方に付けながら、徐々に軽霊へ向かっていきたい。いつか生きている間に「どんな動きをしても、すごく軽やか!」、そんな境地へ行ってみたいものだ。
ちょうど去年のこと。テレビのニュースをみて驚いたことがあった。それは、冒険家の堀江謙一さんが、80代に突入しているのにヨットでの冒険を決行し、太平洋横断を見事に成し遂げたニュースだった。それをみたとき、自分が高校生だった頃の記憶が蘇った。
焦りの中に、敢えて静寂を持ち込めば、過剰な緊張は無くなり、筋肉と心の緊張も緩む。
当たり前だけど、常に心がけていること。投げやりにしない。初心を忘れない。学ぶほど謙虚になる。言葉遣いは丁寧に、冷静に他人の話を聞く…等。
「意」というのは、心=感情ではない。喜怒哀楽のような感情とは別のもの。短い表現であれば「脳で自分の体を感じる感覚」。長く言えば「無駄な力を用いず、無駄に意識をこじらせず、感情を捨て、感覚を研ぎ澄ます。その結果、ほどよい神経伝達と気血の巡りが促される状態」。
陰陽バランスは、狂言、太極拳など、いろんな世界に存在する。日本の古いもの、いろんな世界を紐解いていけば、何かしら中国古来の思想の影響を受けていて、面白いくらい共通点が見つかっていき、たくさんの繋がりを感じられそうだ。
慣れた人がスイスイ動いているのを見ると、何となく「自分にもできそう」と思ってしまう。しかし現実は、そんなに簡単ではない。どんな分野でも、努力の継続なしに結果は得られない。
要らないもの、過剰なものどんどん減らしていく。そんなふうに、長期に渡って延々と引き算を続けた結果、本当に必要な効率的な動きと感覚だけが最低限、意識の中に残る。この究極の引き算をした結果に至るまでには、事前に相当な期間の足し算、つまり知識や技術の習得を頑張る長い年月がある。
「たくさんの事を得た」と思えたとき、やっと初めて「では、本当に必要なものは何なのか?」の判断が付くようになる。「自分にとって本当に必要なもの」の判断がつけば、「何が無駄なのか」もおのずと明確になる。何年もかけて学び、たくさんの事を習得しなければ「無駄を捨てる準備段階」に入ることはない。
ちょうど去年のこと。テレビのニュースをみて驚いたことがあった。それは、冒険家の堀江謙一さんが、80代に突入しているのにヨットでの冒険を決行し、太平洋横断を見事に成し遂げたニュースだった。それをみたとき、自分が高校生だった頃の記憶が蘇った。
焦りの中に、敢えて静寂を持ち込めば、過剰な緊張は無くなり、筋肉と心の緊張も緩む。
当たり前だけど、常に心がけていること。投げやりにしない。初心を忘れない。学ぶほど謙虚になる。言葉遣いは丁寧に、冷静に他人の話を聞く…等。
「意」というのは、心=感情ではない。喜怒哀楽のような感情とは別のもの。短い表現であれば「脳で自分の体を感じる感覚」。長く言えば「無駄な力を用いず、無駄に意識をこじらせず、感情を捨て、感覚を研ぎ澄ます。その結果、ほどよい神経伝達と気血の巡りが促される状態」。