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2020/12/06

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  • 東京散策日記 東京タワー

    東京散策日記東京タワー東京タワーは、東京都港区芝公園にある総合電波塔です。1958年(昭和33年)に竣工され、東京の観光名所となっています。高さは333メートルとされています。所在地東京都港区芝公園四丁目2番8号最後に関東から関西へ、移住することになったワイ。そこで、子どもに移住する前にどこへ行ってみたいと聞いてみると、東京タワーと返ってきました。そこで、東京タワーを訪れてみました。何度か訪れた事がある東京タワー。いつもとは違う見学にしようと、今回は、トップデッキツアーにも参加してきました。中々面白いツアーでした。景色もメインデッキよりも遠くまで見渡せて中々の眺望でした。展望台からの景色展望台は、地上125メートル(海抜約150メートル)と223.55メートル(海抜約250メートル)にあるのですが、きちん...東京散策日記東京タワー

  • 東京公園巡り 芝公園

    東京公園巡り芝公園(しばこうえん)芝公園(しばこうえん)は、東京都港区にある都市公園です。江戸時代には増上寺の境内であった敷地が、明治6年の公園制定の太政官令によって公園として開放された、日本最古の公園の一つです。園内の碑伊能忠敬測地遺功表大野伴睦句碑「鐘がなる春のあけぼのヽ増上寺」と刻まれています。所在地東京都港区芝公園最後に芝公園は増上寺を取り囲むように作られています。私が散策したのは、芝東照宮の辺り。事前に調べた時に、この辺りに芝丸山古墳があることを知りました。是非見学したいと思っていたのですが…園内を散策した際、どこにあったのかわからず、そのまま帰宅しました。帰宅後、もっと詳しく調べてみると。どうやら、上記の写真、古墳の上から撮影していたようで。ワイ、古墳の上をズカズカと歩いていたのね~。確かに、...東京公園巡り芝公園

  • 東京史跡巡り 増上寺・大門

    東京史跡巡り増上寺・大門増上寺の旧・総門です。現在の大門は1937年に東京市が市民の寄付を募って従来の意匠のままコンクリート造りで改築したものです。所在地東京都港区芝公園2丁目3-6最後に明治維新以降、増上寺が経済的に困窮し維持できなくなり東京府に寄付された大門。一時は公共の物となった大門ですが、何故か?東京都の財産目録から抜け落ち、所有者が曖昧になってしまったそうです。長い間所有者不明のまま放置された大門。最終的には、東京都から増上寺に無償で譲与され、耐震補強・外観化粧直しが行われ現在の姿となりました。しっかし、財産管理がなっていないなんて、オイオイですね。東京史跡巡り増上寺・大門

  • 東京橋巡り 古川に架かる橋

    東京橋巡り古川に架かる橋古川渋谷川・古川は、東京都渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2・6㎞を渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4・4㎞を古川とよんでいます。赤羽橋(あかばねばし)赤羽橋は、古川に架かる橋です。芝園橋(しばぞのばし)大正15年に古川に架けられた橋です。現在の橋は、昭和59年に架け替えられたものです。金杉橋金杉橋は、古川に架かる橋です。江戸時代に東海道の公儀橋として架橋されました。近くにあったセンダンの木が光って見えるようであったことから名付けられました。所在地東京都港区最後に金杉橋辺りは、名所江戸百景でも描かれた場所だったのですが。現在、古川の上には首都高速都心環状線が建てられ、薄暗い川へと変わってしまいました。なんだかなぁ。東京橋巡り古川に架かる橋

  • 東京橋巡り ・浜川橋

    東京橋巡り浜川橋(はまかわばし)立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。現在の橋は、昭和9年(1934)に架け替えられたものです。涙橋の由来慶安四年(1651)、品川にお仕置きば(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は裸馬に乗せられて江戸幕府から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれる様になりました。平成十三年三月三十日品川区教育委員会所在地東京都品川区東大井2丁目最後にこの場を訪れた際は、写真を撮影した後、するっと通り過ぎたのですが、帰宅後、写真の整理の際、初めて掲示板を読みこ...東京橋巡り・浜川橋

  • 東京橋巡り 柳橋

    東京橋巡り柳橋(やなぎばし)神田川に架かる橋で、南岸は、東京都中央区東日本橋2丁目。北岸は台東区柳橋一丁目。現在の橋は、関東大震災復興事業として1929年(昭和4年)に架橋されました。所在地東京都中央区東日本橋2丁目2最後に関東大震災復興事業で架橋された柳橋。緩やかなカーブを描く鉄橋。緑色の鉄骨が、名前と合っていていい感じです。柳橋より望んだ神田川柳橋より望んだ神田川。この風景を見るとなんだか、異国に紛れ込んだような、そんな気持ちになります。中々の風景です。東京橋巡り柳橋

  • 東京橋巡り 隅田川橋梁

    東京橋巡り隅田川橋梁(すみだがわきょうりょう)隅田川橋梁は、隅田川にかかる鉄道橋で、JR東日本・中央・総武緩行線を通しています。竣工は、1932年3月(昭和7年)所在地両国駅と浅草橋駅の間最後に鉄子では無いのですが、鉄橋と電車を見ると、思わずシャッターを切りたくなります。隅田川と総武線とスカイツリー。中々の絵図らです。ただ、もう少し粘って、遊覧船とのコラボも目指せば良かったと、ふと思いました。東京橋巡り隅田川橋梁

  • 東京史跡巡り 旧国技館跡

    東京史跡巡り旧国技館跡旧国技館は、江戸時代以来の相撲興行の歴史を刻む回向院の境内に、明治42年(1909)に竣工・開館した、1万3千人を収容する当時最大規模の相撲常設館でした。昭和58年(1983)に老朽化に伴い解体されました。旧両国国技館(昭和10年代)大相撲旧国技館跡旧国技館は、天保四年(一八三三)から回向院で相撲興行が行われていたことから、明治四十二年(一九〇九)に、その境内に建設されました。建築費は二十八万円(現在の価値では七十五億円程度)です。ドーム型屋根の洋風建築で、収容人数は一万三千人でした。開館当時は両国元町常設館という名前でしたが、翌年から国技館という呼び方が定着し、大鉄傘と愛称されました。しかし、東京大空襲まで、三度の火災に見舞われるなど御難続きで、戦後は進駐軍に接収されました。返還後...東京史跡巡り旧国技館跡

  • 東京橋巡り 両国橋

    東京橋巡り両国橋(りょうごくばし)両国橋は、隅田川にかかる橋で、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通しています。西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結んでいます。両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、現在の橋は、1932年(昭和7年)に架け替えられました。両国橋と百本杭両国橋と百本杭所在地墨田区両国一丁目~横綱一丁目両国橋の風景を特徴づけるもののひとつに、百本杭があります。昭和5年(1930)に荒川放水路が完成するまで、隅田川には荒川、中川、綾瀬川が合流していました。そのため隅田川は水量が多く、湾曲部ではその勢いが増して、川岸が浸食されました。両国橋付近はとりわけ湾曲がきつく流れが急であったため、上流からの流れが強く当たる両国橋北側には、数多くの杭が打たれました。水中...東京橋巡り両国橋

  • 東京橋巡り 蔵前橋

    東京橋巡り蔵前橋(くらまえばし)蔵前橋は、隅田川に架かる橋で、西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横綱一丁目。関東大震災復興事業で1927年(昭和2年)11月に新設されました。所在地東京都墨田区横綱2丁目最後に関東大震災復興事業で架橋された橋の一つ、蔵前橋。現在も現役とは、凄いですね。フラットな橋は、ワイの好みではないのですが、橋脚のアーチが美しいです。もっと細部に渡って見学するべきだったと、ちょっと後悔です。東京橋巡り蔵前橋

  • ねこ日記と主のつぶやき 新しいもの

    久しぶりのねこ日記です。ノブさんもタケちゃんも元気です。さて、春先まで使用していたノブさんの猫ベッド。ノブさんがムキムキして捏ねくり回したため、ボロボロに。そういうわけで、冬を迎えるにあたって、新しいものを購入してきました。ただ、荷物が多くて一つしか買って来られなかったんですね。そのせいで、一個のベッドに二匹で入ってギュウギュウ。しかも、ノブさんはみ出し〜結局、ノブさん用に買ってきたのですが、タケちゃんのものになってしまいました。早急にもう一個買ってこないとね。オマケ岩手に帰省してきた時に買ってきた車掌さんの黒ビール。コクがあって美味しかったです。ただ、気になる事が、銀河鉄道999の車掌さんとfinalfantasyの黒魔道士激似ですよね。どっちが先?それでは、また。ご訪問ありがとうございました。ねこ日記と主のつぶやき新しいもの

  • 東京史跡巡り・浅草御蔵跡

    東京史跡巡り浅草御蔵跡浅草御蔵跡碑台東区蔵前二丁目一番浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する直轄地すなわち天領から年貢米や買い上げ米などを収納、保管した倉庫である。大坂、京都二条の御蔵とあわせて三御蔵といわれ、特に重要なものであった。浅草御蔵は、また浅草御米蔵ともいい、ここの米は、主として旗本、御家人の給米用に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。元和六年(一六二〇)浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一・二丁目にかけての地域を埋め立てて造営した。このため、それ以前に江戸にあった北の丸、代官町、矢の蔵などの米倉は、享和(一七一六ー三六)頃までに浅草御蔵に吸収された。江戸中期から幕末まで、浅草御蔵の前側を「御蔵前」といい、蔵米を取り扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。現...東京史跡巡り・浅草御蔵跡

  • 名所江戸百景を訪ねて 第119景 「王子装束ゑの木大晦日の狐火」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第119景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」この作品は、王子装束榎の伝説を描いています。 王子稲荷社王子稲荷神社(おうじいなりじんじゃ)は、東京都北区岸町にある神社です。大晦日、稲荷の使いである狐が、近くの榎の下で身なりを整え、この神社に初詣をするという言い伝えがあります。 装束稲荷神社装束稲荷神社(しょうぞくいなりじんじゃ)は、東京都北区王子にある神社です。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあります。 王子装束榎榎王子の狐火と装束榎北区王子二ー三〇ー一四装束稲荷神社かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改めて...名所江戸百景を訪ねて第119景「王子装束ゑの木大晦日の狐火」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第118景 「湯しま天神坂上眺望」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第118景「湯しま天神坂上眺望」湯島天神の女坂から、上野方面を望んだ作品です。雪がやんだあとの一コマを描いています。近景、右側には男坂の石段がわずかに見えています。女坂から見下ろす中景には、池之端の町並み、その奥には不忍池と中島が描かれています。 湯島天満宮湯島天満宮は、東京都文京区湯島三丁目にある神社です。学問の神様として全国的に有名な神社です。 女坂湯島天満宮、北方にある勾配緩やかな33段の石段坂です。 男坂湯島天満宮、東方にある急な38段の石段坂です。 不忍池東京都台東区西部にある、上野公園内にある池です。上野台地と本郷台地の間の谷にできた海跡湖の名残です。1965年(寛永2年)天海が寛永寺建立の際、この池を琵琶湖になぞらえて、池中の島に弁財天を祀り、竹生島を模しまし...名所江戸百景を訪ねて第118景「湯しま天神坂上眺望」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第117景 「高田姿見のはし俤の橋砂利場」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第117景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」画面の手前に流れているのは神田上水です。その神田上水に架けられ、大きく描かれている橋に関しては、諸説あります。手前が「梯の橋」で、その奥の橋は、「姿見のはし」という説と、その逆、手前が「姿見のはし」、奥が「梯の橋」という説があります。橋を渡り進んだ左側の杉木立の森に氷川神社があり、その反対、右側には南蔵院の大屋根が見えます。そのあたりが砂利場主と呼ばれていました。 面影橋(おもかげばし)東京都を流れる神田川に架かる橋です。面影橋の由来目白台から続く鎌倉街道と推定される古い街道沿いにあり、姿見の橋ともいわれていました。橋名の由来には諸説あり、高名な歌人である在原業平が鏡のような水面に姿を映したためという説、鷹狩りの鷹をこのあたりで見つけ...名所江戸百景を訪ねて第117景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第116景 「高田の馬場」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第116景「高田の馬場」近景の左側には、馬場の北側にあった松が大きく描かれています。その側にある的の前には複数の矢が地面に落ちています。馬場には馬術の練習中の武士、手前には弓の練習をしている武士の姿が描かれています。遠景、馬場の向こうには、下戸塚村の集落と雑木林、冬枯れの田圃が、その向こうには、雪で覆われた富士山が描かれています。 高田馬場現西早稲田一丁目、および三丁目にあった馬場です。1636年、徳川三代将軍家光の命により、旗本太刀の馬術の訓練や流鏑馬などのための馬場が造営されました。広さは、東西へ約650m、南北へ55mありました。旧跡高田馬場跡所在地新宿区西早稲田三丁目一・二・十二・十四番西早稲田三丁目一・二・十二・十四番を含む長方形の土地が、江戸時代の高田馬場跡であ...名所江戸百景を訪ねて第116景「高田の馬場」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第115景 「びくにはし雪中」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第115景「びくにはし雪中」中央に描かれた橋は比丘尼橋です。左側に描かれた「山くじら」は獣肉を提供した「尾張屋」という店です。右側の看板にある「〇やき」とはサツマ芋の丸焼きです。「十三里」と書かれているのは、「栗(九里)より四里うまい」という洒落です。比丘尼橋京橋川が外堀に出る河口に架かっていた橋です。尾張屋この店は牛鳥西洋料理とバーの営業で昭和の初めまで営業していたといいます。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。比丘尼橋のあった場所にて撮影してみました。最後に江戸時代には、美しい夜空を見渡せたこの場所。現在はというと…東京高速道路が建てられ空が見えない状況に。名所江戸百景の描かれた場所をしみじみと眺めたいのだが、いつも首都高速が邪魔をする。...名所江戸百景を訪ねて第115景「びくにはし雪中」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第114景 「虎の門外あふひ坂」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第114景「虎の門外あふひ坂」右側の丘の上に灯りの点った屋敷が内藤右近将監の上屋敷です。画面の手前の路を右に行くと丸亀藩京極家の上屋敷で、邸内に金比羅宮がありました。作品に描かれている屋台は、二八そば、手前には太平しっぽくの屋台です。葵坂赤坂溜池の北側へ上る坂で、明治期までは存在していましたが、開発により姿を消しました。金刀比羅宮(ことひらぐう)虎ノ門金刀比羅宮は、東京都港区虎ノ門1丁目にある神社です。虎の門江戸城の外堀にあった城門の名前です。現在の虎ノ門交差点付近にありました。丸亀藩丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国(現・香川県)の西部を領し、丸亀城(現・丸亀市)を本城とした藩です。金刀比羅宮(ことひらぐう)への参道である丸亀街道、多度津街道の起点を持ち、参拝客を相手とした...名所江戸百景を訪ねて第114景「虎の門外あふひ坂」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第113景 「愛宕下藪小路」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景第113景「愛宕下藪小路」正面に見える山は愛宕山です。左には伊勢薦野藩土方備中守の上屋敷です。正面奥の赤い門は真福寺の山門です。愛宕山東京都港区愛宕にある標高25・7mの丘陵です。天然の山としては東京23区内最高峰です。真福寺(しんぷくじ)東京都港区にある真言宗智山派の寺院です。描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。西新橋にて撮影してみました。最後に江戸時代には、武家屋敷が立ち並んでいた場所には、現在、高層ビルが建ち並んでいました。ほんの数百年でこのように変わるとは、当時の人々も想像つかなかったのではないでしょうか。参考Wikipedia太陽の地図帖広重「名所江戸百景」の旅名所江戸百景を訪ねて第113景「愛宕下藪小路」

  • もしも猫展に行ってきました

    先日、京都文化博物館に行ってきました。京都文化博物館は、京都府京都市中京区にある博物館です。京都文化博物館・別館別館・室内本館の方は、近代的な建物ですが、別館は重要文化財に指定されている建物です。煉瓦造りで、明治中期の体表的洋風建築で、設計は辰野金吾と弟子・長野宇平治。昭和40年まで日本銀行京都支店として使用されていました。辰野金吾が設計した建物は、どれも美しいですね。今回の目的は、「もしも猫展」135点にも及ぶ、動物、主に猫を描いた作品が展示されています。写真撮影OKとのことで数点ご紹介します。浮世絵、猫と言ったら歌川国芳ですよね〜国芳塾は、猫だらけ〜国芳の懐には、もちろん猫〜国芳とは、話が合いそうです。歌川国芳流行猫の曲手まり国芳の描く猫は、表情がなんとも言えないですよね。いい味出しています。今回の猫...もしも猫展に行ってきました

  • 名所江戸百景を訪ねて 第112景 「目黒太鼓橋夕日の岡」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第112景「目黒太鼓橋夕日の岡」画面に流れる川は目黒川です。その目黒川に架かる江戸時代には珍しい石橋は「太鼓橋」です。その太鼓橋を渡った先にある坂は「行人坂」。左側の斜面は「夕日の岡」で、紅葉の名所でした。画面右下の屋根は、「正月屋」という「しるこ餅」の茶屋です。目黒川(めぐろがわ)日本の南関東の、東京都世田谷区・目黒区および品川区を流れて東京湾に注ぐ河川です。二級水系の本流です。 目黒太鼓橋太鼓橋は、目黒川の橋で、行人坂の西端にあります。1769年(明和6年)に完成した橋で、当時としては珍しい石造りでした。長さ8間3尺(約15・3m)、幅2間(約3.6m)あり、「太鼓橋」の形状をしていました。太鼓橋を造った人物には諸説あります。西運上人が造ったという伝説。木喰上人...名所江戸百景を訪ねて第112景「目黒太鼓橋夕日の岡」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第111景 「千束の池袈裟懸松」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第111景「千束の池袈裟懸松」作品に描かれている池は千束池です。近景に描かれている街道は、中原街道。中景右に描かれている松は、日蓮が袈裟を架けたと伝えられる松です。遠景の左側に描かれている社は千束八幡神社です。 洗足池(せんぞくいけ)洗足池は、東京都大田区南千束にある池です。湧水池で、流れ込む河はありませんが、付近一帯には農家が作物の洗い場として利用していた大小の湧水があり、用水路を通して池に流れ込んでいました。この地域の古い地名は「千束(せんぞく)でした。のちに身延山久遠寺から常陸へ湯治に向かう途中日蓮が、池のほとりで休息し足を洗ったという言い伝えが生まれ、千束の一部が「洗足」となりました。妙福寺妙福寺は、東京都大田区南千束2丁目にある日蓮宗の寺院です。当寺院は、...名所江戸百景を訪ねて第111景「千束の池袈裟懸松」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第110景 「南品川鮫洲海岸」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第110景「南品川鮫洲海岸」左側の沿岸には東海道沿いの町並みが描かれています。その左にある森は海晏寺と思われます。遠景にある山は筑波山です。 鮫洲海岸南品川から南大森にかけての海岸を鮫洲海岸といい、海苔の養殖が盛んな場所でした。ここで採れた海苔は浅草に運ばれ加工され、浅草海苔として販売されていました。 勝島運河1939年(昭和14年)京浜弟一区埋立地として東京都により埋め立てが開始されました。1949年に勝島ができ、その後1987年に運河の一部を埋め立てて、勝島西側は勝島運河、南側は勝島南運河となりました。水際には柵がなく、水面間近まで行くことができます。春には、桜が満開となります。 海晏寺(かいあんじ)東京都品川区南品川5丁目にある曹洞宗の寺院です。建長3年(12...名所江戸百景を訪ねて第110景「南品川鮫洲海岸」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第109景 「芝うらの風景」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第109景「芝うらの風景」浜御殿の海岸を北側から望んだ作品です。近景に描かれている鳥は、冬の渡り鳥ゆりかもめの群れ。左近景に描かれているのは船の航行安全を助ける水路標識の澪標(みおつくし)です。沖の向こうには複数の御台場が描かれています。高輪、品川、羽田に至る海岸線が延びています。芝浦芝浦(しばうら)は、東京都港区の地名です。現在の芝浦一帯は、かつては東京湾の海底でした。江戸時代には芝の雑魚馬と呼ばれ栄えていました。浜御殿江戸時代から明治時代にかけての、浜離宮の別称です。元々は将軍家の鷹狩りの場所でしたが、甲府藩下屋敷の庭園として造成され、徳川将軍家の別荘浜御殿となりました。現在は、宮内省管理の離宮を経て、東京都に下賜され都立公園として解放。浜離宮恩賜庭園(はまりき...名所江戸百景を訪ねて第109景「芝うらの風景」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第108景 「深川洲崎十万坪」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第108景「深川洲崎十万坪」洲崎上、空からの鳥瞰図です。眼下に広がる一面雪に覆われた平地は、一橋徳川家が譲り受けた十万坪と呼ばれた埋立地です。画面左端には丸太が建ち並ぶのが見えるので、そのあたりが木場です。遠景に見える山は筑波山です。 洲崎十万坪洲崎(すさき)は、東京都江東区東陽一丁目の旧町名です。元禄年間(1688~1704)に埋め立てられた土地で、古くは「深川洲崎十万坪」と呼ばれた海を景勝地でした。 描かれた場所は現在どのようになっているのでしょうか?訪ねてみました。小名木川橋の南岸より撮影してみました。最後に何処で描かれたのか? 上記の写真は、参考にさせて頂いている広重ー「名所江戸百景」めぐり東京シティガイド江戸百景グループさんの説ですと、小名木川橋の南岸辺り...名所江戸百景を訪ねて第108景「深川洲崎十万坪」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第107景 「深川木場」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第107景「深川木場」絵がいた場所の特定は困難ですが、深川木場、貯木場の冬景色を描いています。左側近景には垂直に立てられた木材と斜めに立てられた木材。その材木の側には、二匹の犬が描かれています。川面には材木が浮かび、その上には、二人の川並鳶の姿が見られます。雪が舞う、灰色の空には、二羽の雀の姿。遠景には材木群が見られます。近景中央の傘には版元・魚栄の魚の文字が記されています。 深川木場木場は、東京都江東区一丁目から六丁目の地名です。江戸時代、材木商は日本橋付近に集まり材木河岸を形成していましたが、1657年の明暦の大火の被害が甚大であったことから、江戸幕府は江戸の町を大改造する計画を立てました。この中で、材木河岸を深川に移転させることになりました。明治維新以降、木場...名所江戸百景を訪ねて第107景「深川木場」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第106景 「御厩河岸」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第106景「御厩河岸」隅田川、御厩河原の渡しを描いています。左端の舳先に立っているのは二人の夜鷹の女性です。 御厩河岸現在の厩橋西詰周辺には、幕府の馬を飼っていた厩があり、「御厩河岸」と呼ばれていました。御厩河岸の渡し江戸時代、幕府の馬を飼っていた「御厩河岸」と対岸、本所石原町を結んでいた渡しです。うまやの渡し跡江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し船」がありました。ここには「うまやの渡し」があり多くの人々を渡しました。春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。看板より引用 夜鷹江戸時代の街娼の一種で、夜になると現れ、野天、もしくは夜だけの仮小屋で売春をしていた女性たちのことです。描かれた場所は現在どのようになっているの...名所江戸百景を訪ねて第106景「御厩河岸」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第105景 「小梅堤」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第105景「小梅堤」本所の北、隅田川東岸にあった小梅村の風景を描いています。曳舟川の始点近くの堤から北を望んでいます。近景には色づいた葉をつけた榛の木(はんのき)が描かれています。その下では子どもたちと犬がじゃれ合って遊んでいます。描かれている橋は手前から八反目橋、庚申橋、七本松橋です。 曳舟川曳船川由来碑曳船川の由来曳船川は、徳川幕府が本所開拓に伴う上水として、万治二年(1659年)に開削したものです。当時は、本所上水、亀有上水などと呼ばれ、瓦曽根(現越谷市)の溜井から分水して、亀有から四ツ木をへて本所と深川の各地に配水されたようです。その後、享保七年(1722年)に上水としては利用されなくなりましたが、川筋の脇を四ツ木街道が通り水戸街道に接続しているため、次第に...名所江戸百景を訪ねて第105景「小梅堤」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第104景 「千住の大はし」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第104景「千住の大はし」画面に描かれている川は隅田川です。その川に架けられている橋は、千住大橋。江戸の北の玄関で、奥州街道を旅する人々が利用してきた橋です。作品でも多くの旅人が橋を渡る姿が描かれています。この作品は、南側(荒川区側)の岸から北西の上流側を望んで描かれています。遠景の山は、秩父連山の武甲山との説があります。 千住大橋千住大橋(せんじゅおおはし)は、隅田川に架かる橋です。北岸は足立区千住橋戸町、南岸は荒川区南千住六丁目です。徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月、隅田川に架けられた最初の橋です。当初の橋は現在より上流200mほどのところにありました。現在の橋は、昭和2年に架橋されたもので、タイドアーチ橋としては日本最古のものです...名所江戸百景を訪ねて第104景「千住の大はし」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第103景 「箕輪金杉三河しま」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第103景「箕輪金杉三河しま」大空を羽ばたく鶴と水辺のほとりで立つ鶴の姿が描かれています。中景には田んぼが広がっていています。 三河島江戸時代、三河島には徳川家康が遷都の際、開墾のため三河から連れてきた伊藤氏などの農家が居住して稲作を行なっていました。江戸時代、三河島付近は、鶴の飛来地で、農閑期には鶴の餌付けが行われていました。将軍によって鶴御成(つるおなり)と呼ばれる、ツルを捉える鷹狩りが行われ、捕らえられた鶴は、天皇に献上する慣わしでした。現在では駅名や保育園の名前などに残るのみとなっています。 浄閑寺浄閑寺(じょうかんじ)は、東京都荒川区南千住にある浄土宗の寺院です。投込寺(浄閑寺)浄閑寺は浄土宗の寺院で、栄法山清光院と号する。安政二年(一八五五)の大地震の際...名所江戸百景を訪ねて第103景「箕輪金杉三河しま」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第102景 「浅草田圃酉の町詣」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第102景「浅草田圃酉の町詣」猫が遊女屋の格子窓から鷲神社詣での人々を見下ろしている様子を描いています。外の浅草田圃には大勢の人々がシルエットで描かれています。その中には、大きな熊手を担いでいる人の姿もあります。鷲神社は障子の右の影にあたります。遠景に描かれた富士山は、すでに雪をかぶっています。 吉原遊廓吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期に...名所江戸百景を訪ねて第102景「浅草田圃酉の町詣」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第101景 「よし原日本堤」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第101景「よし原日本堤」作品では吉原に行く道「日本堤」が描かれています。その日本堤には葭簀(よしず)張りの茶屋が軒を連ねていました。作品にはその様子が描かれています。中景の右側の堤の先に見返り柳が描かれています。その奥に見える屋根が吉原遊郭です。 吉原遊廓吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3000人の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には...名所江戸百景を訪ねて第101景「よし原日本堤」

  • 名所江戸百景を訪ねて 第100景 「浅草金龍山」

    名所江戸百景を訪ねて名所江戸百景を訪ねて第100景「浅草金龍山」雷門から奥にある仁王門と右側の五重塔を望んだ作品です。雷門に掛けられている大提灯には「(志)ん橋」と書かれています。雪景色の白と朱塗りの赤は、安政地震からの復興を紅白の吉祥で祝うとの意味が込められているとされています。 浅草金龍山金龍山浅草寺(きんりゅうざんせんそうじ)は、東京都台東区浅草二丁目にある寺院です。聖観世音菩薩を本尊としています。 大提灯作品に描かれている雷門は、明和4年(1767)の焼失後、寛政7年(1795)に再建されました。「(志)ん橋」と書かれた大提灯は、復旧に参加した新橋の屋根職人、屋根屋三左衛門が奉納したものです。現在の大提灯は、2020年にパナソニック株式会社より寄進されたものです。 五重塔浅草金龍山の五重塔の始まり...名所江戸百景を訪ねて第100景「浅草金龍山」

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