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2020/12/06

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  • 東京史跡巡り 五百羅漢跡・五百羅漢道標

    東京史跡巡り五百羅漢跡五百羅漢跡大島4-5五百羅漢は、元禄八年(一六九五)に松雲元慶禅師により創建された黄檗宗の寺院です。禅師は貞享年間(一六八四~八八)に江戸へ出て、元禄四年(一六九一)から木造羅漢像を彫り始めました。元禄八年、将軍徳川綱吉から天恩山五百阿羅漢寺の寺号と六千坪余の寺地を賜り、ここに自ら彫像した羅漢像など五三六体を安置しました。当時の三匝堂は、廊下がらせん状に三階まで続いており、その様子がサザエのようであることから、また三匝とサザエの発音が似ていることから「さざえ堂」と呼ばれ、多くの参詣客を集める江戸名所のひとつでした。区内には、五百羅漢までの道筋を示す道標が二基現存しています。羅漢寺は明治20年(1887)本所緑町(現墨田区)へ移り、さらに同42年(1909)現在地(目黒区)へ移転しまし...東京史跡巡り五百羅漢跡・五百羅漢道標

  • 東京坂巡り 団子坂

    東京坂巡り団子坂東京都文京区千駄木にある坂です。団子坂文京区千駄木2丁目と3丁目の境潮見坂、千駄木坂、七面坂の別名がある。『千駄木坂は千駄木御林跡の側、千駄木町にあり、里俗団子坂と唱ふ云々』(御府内備考)「団子坂」の由来は、坂近く団子屋があったともいい、悪路のため転ぶと団子のようになるからともいわれている。また、「御府内備考」に七面堂が坂下にあるとの記事があり、ここから「七面坂」の名が生まれた。「潮見坂」は坂上から東京湾の入江が望見できたためと伝えられている。幕末から明治末にかけて菊人形の小屋が並び、明治40年頃が最盛期であった。また、この坂上には森鴎外、夏目漱石、高村光太郎が居住していた。ー郷土愛をはぐくむ文化財ー文京区教育委員会団子坂下団子坂上所在地東京都文京区千駄木2丁目と3丁目の境最後に数多くの文...東京坂巡り団子坂

  • 東京坂巡り 富士見坂

    東京坂巡り富士見坂(ふじみざか)東京都荒川区西日暮里にある坂です。都内各地に残る、「富士見」を冠する地名の中で、最近まで富士山を望むことができた坂です。富士見坂(ふじみざか)坂下の北側の墓地は日蓮宗妙隆寺(修性院に合併)の跡。妙隆寺が花見寺と呼ばれたことから、この坂も通称「花見坂」、または「妙隆寺坂」と称さた。都内各地に残る、「富士見」を冠する地名の中で、現在でも富士山を望むことができる坂である。都心にいくつかある富士見坂のうち、最近まで地上から富士山が見える坂でした。「関東の富士見百景」にも選ばれています。荒川区教育委員会関東の富士見100景富士山の見えるまちづくり地点名東京富士見坂平成16年11月国土交通省関東地方整備局寄贈(社)関東建設弘済会所在地東京都荒川区西日暮里3丁目7番付近最後に富士見坂と言...東京坂巡り富士見坂

  • 東京坂巡り 地蔵坂

    東京坂巡り地蔵坂東京都荒川区西日暮里にある諏方神社の境内からJR西日暮里駅の西わきへと屈折して下る坂です。地蔵坂JR西日暮里駅の西わきへ屈折して下る坂です。坂の名前の由来は、別当寺であった浄光寺に、江戸六地蔵の三番目として有名な地蔵が安置されていたことにちなみます。荒川区教育委員会境内掲示板より引用所在地東京都荒川区西日暮里3-4-8最後に古くから人々に利用されてきた地蔵坂。江戸時代には、この場所から筑波山の双耳峰や日光連山が見えたと言います。現在は、高い建物が建ち、遠くまで見渡すことができませんが、電車や線路を見下ろすことができ、これはこれで中々の景色となっています。東京坂巡り地蔵坂

  • 東京公園巡り 西日暮里公園

    東京公園巡り西日暮里公園西日暮里駅から坂を上がった高台にあります。昭和48年4月1日に開園しました。クスノキやケヤキなどの樹木が立ち並んでいます。所在地東京都荒川区西日暮里3丁目5-5最後にJR西日暮里駅のすぐ上にある公園。駅のすぐそばにいるとは思えないほど緑豊かな公園でした。この公園からは、JR西日暮里のホームや線路を眺めることができます。電車好きにはたまらない公園ですね。西日暮里公園看板道灌山の説明書きが多々あり、撮影したのですが…逆光、さらに木々の影が写り込んで全く読めませんでした。がっくし。東京公園巡り西日暮里公園

  • 東京駅巡り 西日暮里駅

    東京駅巡り西日暮里駅(にしにっぽりえき)JR西日暮里駅西日暮里駅は、東京都荒川区西日暮里五丁目にある駅です。東京メトロ・千代田線、JR東日本・京浜東北線および山手線、東京都交通局・日暮里・舎人ライナーの三路線が乗り入れている、相互間の接続駅となっています。1969年12月20日に営団地下鉄・千代田線の駅が開業。1971年4月20日、国鉄(JR東日本)の駅が開業。2008年3月30日、東京都交通局日暮里・舎人ライナーの駅が開業。所在地東京都荒川区西日暮里5丁目最後に西日暮里駅を調べてみますと、歴史の長い駅だと思っていましたら、半世紀ちょっとしか経っていないのですね。意外です。東京駅巡り西日暮里駅

  • 東京史跡巡り 岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑

    東京史跡巡り岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑日光御成道(にっこうおなりみち)日光御成道(=岩渕街道)とは、江戸時代に五街道と同様に整備された脇往還(わきおうかん)の一つです。日光御成道は、江戸時代将軍の日光社参専用道路でした。寛永期(1624~1644年)以降、日光社参にこの道を利用するのが慣例となり将軍御成り道ということで「日光御成道」と称されるようになりました。御成道は中山道の本郷追分を起点として、岩淵宿・荒川・川口・鳩ヶ谷・大門・岩槻を経て、幸手で日光街道に合流するおよそ12里30丁(約43㎞)の脇往還でした。江戸時代初期には、この街道筋は岩槻を通ることから日光道中岩槻通りや岩槻道とも呼ばれていました。岩槻宿(いわつきじゅく)岩槻宿は、中山道の本郷追分を起点とした日光御成道の4番目の宿場町です。岩槻街道岩...東京史跡巡り岩槻街道岩渕宿問屋場阯之碑

  • 東京橋巡り 新荒川大橋

    東京橋巡り新荒川大橋(しんあらかわおおはし)新荒川大橋は、埼玉県川口氏舟戸町と東京都北区岩淵町との間で、荒川および新河岸川に架かる橋です荒川新河岸川新荒川大橋が開通する以前は、「川口の渡し」が対岸を結んでいました。所在地埼玉県川口市舟戸町ー東京都北区岩淵町最後に荒川と新河岸川に架かる橋、新荒川大橋。橋長は旧橋である下り線が総延長が809.917メートル、一方の新橋である上り線は橋長792メートルです。徒歩で橋を渡るとかなりの距離。私がこの橋を渡った時、徒歩で歩く人の姿はなく、車道を車がブンブン走っていました。初冬に訪れたので、冷たい風が吹き抜け、かなり寒かったです。しかし、広い河原、そして東京の街並みと川口の街並みを遠くまで見渡すことができ、清々しい気分になったことを思い出します。東京橋巡り新荒川大橋

  • 東京橋巡り 荒川橋梁・新河岸川橋梁

    東京橋巡り荒川橋梁(あらかわきょうりょう)新河岸川橋梁(しんかしがわきょうりょう)東京都北区赤羽と埼玉県川口市舟戸町の間で荒川に架かるJR東日本・東北本線の密接する3本の伏線鉄道橋です。所在地東京都北区ー埼玉県川口市最後に荒川橋梁新河岸川橋梁何度も言っていることですが、鉄子ではないのですが、橋梁を見るとテンションが上がってしまいます⤴︎武骨な鉄骨が何とも言えない。しかも、この橋梁、長くて見応えがあります。東北本線に乗った際、ガタンガタンと言いながら、荒川を越えていたことを思い出し、あれは、この橋梁を渡っていたのだと、感慨深く見つめました。いい橋梁だなぁ、もっと写真を撮っておけばよかった…東京橋巡り荒川橋梁・新河岸川橋梁

  • 名所江戸百景を訪ねて はじめに

    名所江戸百景を訪ねてはじめに関東から関西へと移住を決めたある日のこと。移住する前に、東京の思い出の場所や日本書紀に登場する神様を祀る神社を訪れてみようと思い立ちました。それから、計画通りに数カ所を訪れてみると…あることに気づきました。あれ?この場所って「名所江戸百景」で描かれた場所じゃね?そんな事が重なり、これは、いっそのこと名所江戸百景巡りも一緒にやったらいい思い出になるんじゃね。、と軽い気持ちで始めたのが運の尽き。実際、やってみると…結構な距離を歩く羽目になったとさ〜。でも、いい思い出になりました。というわけで、名所江戸百景巡りを連載していきたいと思います。しかしながら、訪れたのは2021~22年。若干、情報や映像が古い事が多々あるとは思いますが、お付き合い頂けたら幸いです。名所江戸百景(めいしょえど...名所江戸百景を訪ねてはじめに

  • 東京史跡巡り 新吉原

    東京史跡巡り新吉原(しんよしわら)吉原遊廓(よしわらゆうかく)は、江戸幕府によって公認された遊郭です。現在の東京都台東区千束四丁目、および三丁目の一部にありました。はじめは江戸日本橋近くにありましたが、明暦の大火の後、浅草寺の裏の日本堤に移転しました。江戸日本橋近くにあった物を元吉原、浅草寺裏日本堤にあった物を新吉原と呼びました。新吉原明暦の大火(1657年)後に、日本橋にあった元吉原から浅草北部の農村部に移転してきたことにより、新吉原と呼ばれた遊郭。最盛期には3000人の遊女が在籍していた。遊郭の周囲には堀がめぐらされ、出入口は吉原大門の一箇所のみだった。新吉原の中央にあった大通りでは、春には桜、秋には紅葉を一時的に移植し、特別な空間を演出していた。浮世絵を見てみると、遊客が名残を惜しんで振り返った位置...東京史跡巡り新吉原

  • 東京公園巡り 足立区立大橋公園

    東京公園巡り足立区立大橋公園足立区千住橋戸町の千住大橋北詰にある公園です。「奥の細道」に旅立つ松尾芭蕉が、深川から船で来て、その一歩を記したといわれる場所にあります。おくのほそ道と千住日光道中と奥州道中の初宿千住宿にある千住大橋は、文禄3年(1594年)に隅田川に架かった最初の橋で、江戸から北関東、東北への出発点でした。元禄2年3月27日(1689年5月16日)、松尾芭蕉は門人曽良とともに千住大橋付近から俳諧紀行「おくのほそ道」の旅へ立ちました。その後、千住地域は芭蕉の俳諧を追慕する地となり、文政3年(1820年)には琳派絵師の酒井抱一が願彰したのをはじめ、下図のとおり、現在までいくつかの芭蕉の記念碑と像が建立されています。所在地東京都足立区千住橋戸町31最後に松尾芭蕉がこの地より、東北へ向かったのですね...東京公園巡り足立区立大橋公園

  • 東京橋巡り 千住大橋

    東京橋巡り千住大橋(せんじゅおおはし)千住大橋は、隅田川の東京都区部に架かる橋で、国道4号を通しています。最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府し手間もない文禄3年(1594)で、隅田川最初の橋です。所在地足立区千住橋戸町ー荒川区南千住六丁目最後に歴史の長い千住大橋。松尾芭蕉もこの場所に立ち、辺りを見渡したのではないかと、感慨深く見つめました。東京橋巡り千住大橋

  • 東京公園巡り 山谷堀公園

    東京公園巡り山谷堀公園(さんやぼりこうえん)かつてあった東京の水路「山谷堀(さんやぼり)」の埋立地に作られた公園です。猪牙舟や今戸焼、山谷堀ヒストリカルツアーなどが展示されており、歴史が学べる公園です。山谷堀公園ここは、かつては山谷堀と呼ばれる水路であったが、経済成長に伴う水質汚濁と悪臭が問題となり、東京都により昭和51年(1976)頃から暗渠化された。区がその上部を公園として整備し、昭和52年以降に山谷堀公園として開園した、幅約9メートル、ながさ約740メートルの公園である。平成29年(2017)から令和2年(2020)、老朽化により全面改修工事を実施した。隅田公園から桜の並木が続き、春は桜越しに東京スカイツリーを眺めることのできるビューポイントとなっている。埋め立てられる前の山谷堀には、下流から、今戸...東京公園巡り山谷堀公園

  • 東京史跡巡り 今戸橋跡

    東京史跡巡り今戸橋跡今戸橋は、かつてあった水路「山谷堀」に架けられた山谷堀最下流の橋です。今戸橋跡今戸橋は、山谷堀がまだ堀であった頃に架けられた山谷堀最下流の橋です。最初に整備された時期は不明ですが、江戸時代の資料に橋を架け渡すという記載が残っています。この橋の下を吉原通いの船が通った頃には、その船を親不孝舟などといったといい、「今戸橋上より下を人通る」というほどのにぎわいだったと言われています。現存する欄干は、大正15年(1926年)に竣工した橋の欄干で、山谷堀の埋立てに伴い、昭和62年(1987年)現在のような形となりました。待乳山・今戸橋待乳山は現在の浅草7丁目にある小高い丘で、真土山・真乳山とも書かれた。聖天様をお祀りする「待乳山」は、地中より突然隆起して現れた霊山で、その時金龍が天より降って守護...東京史跡巡り今戸橋跡

  • 東京史跡巡り 竹屋の渡し跡

    東京史跡巡り竹屋の渡し跡隅田川にあった渡し船の一つです。山谷堀口から向島三囲神社の前あたりを結んでいました。隅田公園内に竹屋の渡し跡碑があります。竹屋の渡し台東区浅草七丁目一番隅田公園隅田川にあった渡し舟のひとつ。山谷堀口から向島三囲神社(墨田区向島二丁目)の前あたりを結んでいた。明治四十年刊『東京案内』には「竹屋の渡」とあり、同年発行『東京市浅草全図』では山谷堀入口南側から対岸へ船路を描き「待乳ノ渡、竹家ノ渡トモ云」と記しており、「竹屋の渡」とも、あるいは「待乳ノ渡」とも呼ばれていたようである。「竹屋」とは、この付近に竹屋という船宿があったためといわれ、「待乳」とは待乳山の麓にあたることに由来する。「渡し」の創設年代は不明だが、文政年間(一八一八~一八三〇)の地図には、山谷堀に架かる「今戸はし」のかたわ...東京史跡巡り竹屋の渡し跡

  • 東京橋巡り 厩橋

    東京橋巡り厩橋(うまやばし)隅田川にかかる橋で、東京都道453号本郷亀戸線を通しています。この辺りには、江戸時代から続く「御厩の渡し」がありましたが、転覆事故が相次ぎ、民間の手により1874年(明治7年)に木橋が架けられたと伝えられています。その後、その橋は老朽化により東京府によって鉄橋に架け替えられました。現在の橋は、関東大震災復興事業として1929年(昭和4年)に架橋されたものです。うまやの渡し跡江戸時代は幕府の政策により橋の数が少なく、かわりに各所に「渡し船」がありました。この場所には、「うまやの渡し」があり多くの人々を渡しました。春のお花見の頃は「墨堤の桜」を見に行く多くの人々が利用しました。所在地東京都台東区蔵前2丁目15最後に隅田川。穏やかな水の流れのように感じましたが…「うまやの渡し」から厩...東京橋巡り厩橋

  • 東京橋巡り 駒形橋

    東京橋巡り駒形橋(こまがたばし)駒形橋は、隅田川に架かる橋で、東京都道463号上野月島線を通しています。関東大震災後の復興計画により、昭和2年(1927)に、それまで駒形の渡しがあった場所に現在の橋がはじめて架橋されました。駒形橋駒形(こまかた)の名は、浅草寺に属する駒形堂に由来する。土地の人々によれば、コマカタは清く発音して、コマガタと濁らないと伝えている。ここは古来、交通の要所で、”駒形の渡し”のあったところである。江戸の巷説に有名な、君はいま駒形あたりほととぎすの句は、文芸・美術などの上で、駒形堂とともに、この辺りの雰囲気を伝えるものである。関東大震災(一九二三年)の後、復興事業の一環として、この地に新しく優美なアーチ橋が設計され、昭和二年(一九二七年)に完成した。歌人、正岡子規の和歌にも、浅草の林...東京橋巡り駒形橋

  • 東京公園巡り 大森貝塚遺跡庭園

    東京公園巡り大森貝塚遺跡庭園アメリカの動物学者E・S・モースによって、発掘された日本考古学上最初の遺跡「大森貝塚」の跡地に、平成8年に開園した公園です。入り口E・S・モース像品川区・ポーランド市姉妹都市提携記念碑貝塚展示ブースミスト噴水所在地東京都品川区大井6丁目21-6アクセスJR大森駅徒歩5分最後に「日本考古学発祥の地」と言われる「大森貝塚」の跡地に作られた公園。貝層の剥離標本や説明の看板などがあり、縄文時代や大森貝塚について学習することでき、大変勉強になりました。縄文時代好きの私には、たまらない場所でした。遊具とかはありませんでしたが、公園内で元気に走り回る子どもたち。彼らを見つめ、縄文時代の子どもたちも、彼らのように遊んでいただろうと、思いを馳せました。参考しながわ観光協会HP東京公園巡り大森貝塚遺跡庭園

  • 東京史跡巡り 大森貝墟

    東京史跡巡り大森貝墟(おおもりかいきょ)大森貝塚は、明治10年(1877)、アメリカの動物学者E・S・モースによって、発掘された日本考古学上最初の遺跡で、縄文時代後期(約3000年前)の遺物が出土しています。その発掘記念碑が、大田、品川の両区にそれぞれ建てられ、大森貝墟の碑は、そのひとつです。入り口大森貝墟の碑<大森貝墟>碑の由来大正14年十二月、大森貝塚を発掘し、江戸・明治期の文化を海外に紹介したエドワード・シルベスタ・モース博士の訃報(ふほう)が伝わると、ただちに博士と関係のあった石川千代松・岩川友太郎・臼井米二郎・佐々木忠次郎・松村暸・宮岡恒治郎の六名が発起人となり、大森貝塚の顕彰(けんしょう)とモース博士の偉大なる功績(こうせき)を後世に伝えるため、調査場所に記念碑をたてることにした。その場所は、...東京史跡巡り大森貝墟

  • 東京橋巡り・旧中川に架かる橋

    東京橋巡り旧中川に架かる橋旧中川(きゅうなかがわ)東京都江戸川区と墨田区、江東区の境界を流れる荒川水系の川です。もみじ大橋所在地東京都江東区大島9丁目ー江戸川区小松川1丁目逆井橋所在地東京都江東区亀戸9丁目ー江戸川区小松川3・小松川2最後に旧中川の沿岸には、舗装はされていませんでしたが、小道が川に沿って続いており、散歩しやすい場所でした。川には、ちょっと見づらいですが、魚が泳いでいたり、鳥が寛いでいる姿が見られ、大変癒されたことを思い出します。東京橋巡り・旧中川に架かる橋

  • 東京公演巡り ・聖跡蒲田梅屋敷公園

    東京公演巡り聖跡蒲田梅屋敷公園(せいせきかまたうめやしきこうえん)東京都大田区蒲田にある区立公園です。江戸時代には梅の名所「梅屋敷」として人で賑わっていました。その後、所有者が代わり面積も小さくなりましたが、昭和二十八年より区立公園となりました。約100本の梅の木が植えられています。入り口梅屋敷の由来梅屋敷の由来 梅屋敷は、山本忠左衛門が和中散(道中の常備薬)売薬所を開いた敷地三千坪に、その子久三郎が文政の頃(1818~1829)に、梅の木百本をはじめとしてカキツバタなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたらことに始まるといわれています。当時は後の十二代将軍徳川家慶が鷹狩りの休み所とした程の屋敷で、その雅趣ある風情は多くの文人、行楽客、東海道の旅人を集め、特に梅の開花期には非常な賑わいを見せたようでした...東京公演巡り・聖跡蒲田梅屋敷公園

  • 東京橋巡り 古川に架かる橋2

    東京橋巡り古川に架かる橋2古川渋谷川・古川は、東京都渋谷区内の宮益橋から天現寺橋間の2・6㎞を渋谷川、港区内の天現寺橋から河口間の4・4㎞を古川とよんでいます。四之橋古川に架けられた橋です。昭和6年に架橋されました。土屋相模守下屋敷前にかけられていたことから、相模殿橋とも言われていました。上部は昭和59年に架替えました。所在地東京都港区白金1・3丁目ー南麻布3丁目最後に四之橋の辺りは、名所江戸百景でも描かれた場所だったのですが、現在、古川の上には首都高速都心環状線が建てられ、薄暗い川へと変わってしまいました。しかし、江戸時代にはのどかな風景が広がっていたとは、現在の様子からは想像できませんね。東京橋巡り古川に架かる橋2

  • 京都散策日記・東寺

    京都散策日記東寺の秋の特別拝観に行ってきました。東寺(とうじ)東寺は、京都府京都市南区九条町にある真言宗総本山の寺院です。本尊は薬師如来。真言宗のの根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれています。五重塔天長3年(826)、弘法大師の創建着手に始まりますが、雷火などによって、焼失する事4回におよんでいます。現在の塔は、正保元年(1644)徳川家光の寄進によって竣工した総高55mの、現存する日本の古塔中最高の塔です。金堂東寺一山の本堂です。文明18年(1486)に焼失し、今のお堂は、豊臣秀頼が発願し、再興させたもので、慶長8年(1603)に竣工しました。講堂講堂は、天長2年(825)弘法大師によって着工され、承和2年(835)ごろには完成しました。食堂南大門慶賀門所在地京都府京都市南区九...京都散策日記・東寺

  • 東京橋巡り 永代橋

    東京橋巡り永代橋(えいたいばし)永代橋は、隅田川にかかる橋です。東京都道・千葉県道10号東京浦安線を通しています。国の重要文化財となっています。創架は元禄11年(1698年)3月25日で、徳川家康の江戸入府から江戸時代にかけて隅田川に架橋された5つの橋のうち、4番目です。架橋は江戸幕府第5代将軍徳川綱吉の誕生から50歳を祝う記念事業として造られました。「永代橋」の名の由来は、架橋された江戸対岸にあった中洲の永代島にちなみます。永代橋元禄11年(1698)に架橋された木造の永代橋は、現在の永代橋の場所よりも約150m上流のこの付近に架けられていました。橋名の由来は、当時このあたりが永代島と呼ばれていたことから名付けられたようですが、一説には五代将軍綱吉の50歳を迎えた記念として名を付けられたとも伝えられて...東京橋巡り永代橋

  • 東京橋巡り 豊海橋

    東京橋巡り豊海橋(とよみばし)豊海橋は、日本橋川に架かる橋で、北岸の東京都中央区日本橋箱崎町と南岸の中央区新川一丁目を結んでいます。1927年(昭和2年)に震災復興橋として架設されました。中央区民文化財豊海橋所在地中央区新川一丁目日本橋箱崎町(日本橋川)現在の豊海橋は、大正15年(1926)五月起工、昭和二年(1927)九月に竣工。日本橋川が隅田川に流入する河口部の第一橋梁です。橋の歴史は古く、江戸時代中期には豊海橋(別名「乙女橋」がありました。この辺り新掘河岸と呼ばれ、諸国から廻船で江戸に運ばれた酒を陸上げする所で、川に沿って白壁の酒倉が並んでいました。明治期に豊海橋は鉄橋になり、大正十二年(1923)の関東大震災で落橋してしまいました。復興局は新規に設計を土木部の田中豊に依頼、実際の設計図は若手の福田...東京橋巡り豊海橋

  • 東京橋巡り 八幡橋

    東京橋巡り八幡橋(はちまんばし)八幡橋は、東京都江東区富岡にある八幡堀遊歩道に架かる人道橋です。元々は現在の中央区宝町の楓川に架橋されていた弾正橋(だんじょうばし)でした。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称され人道橋となりました。八幡橋(旧弾正橋)由来旧弾正橋は、明治11年(1878)東京府の依頼により工部省赤羽製作所が製作した国産第1号の鉄橋です。昭和4年(1929)現在地に移され八幡橋と改称し、以来人道橋として活躍してきました。昭和52年(1977)近代橋梁技術史上価値の高い橋であることから、国の重要文化財に指定されました。また、アメリカ人技師スクワイアー・ウイップルの特許を基本としたところから、平成元年10月、国内で初めてアメリカ土木学会より「栄誉賞」を受けました。所在地東京都江東区富岡...東京橋巡り八幡橋

  • 東京橋巡り 大横川に架かる橋

    東京橋巡り大横川東京都墨田区・江東区を流れる運河です。かつては流域によって亥の堀川や大島川と呼ばれていましたが、1965年の河川法改正により大横川に統一されました。江戸時代に埋立地に造られた運河で、竪川と大川(現在の隅田川)の間の十万坪と呼ばれる葦原を流れていました。大横川に架かる橋平野橋(ひらのばし)木場二丁目から木場一丁目、大横川に架かる橋です。単径間鋼製ガーター橋です。平成27年に架け替えられました。所在地木場二丁目~木場一丁目間大横川東富橋(とうとみばし)富岡二丁目~牡丹三丁目、大横川に架かる橋です。単径間鋼製トラス橋です。昭和5年に関東大震災復興で架橋され、昭和57年に小改修されています。所在地東京都江東区富岡2丁目ー牡丹3丁目新田橋(にったはし)木場五丁目から木場六丁目、大横川に架かる橋です。...東京橋巡り大横川に架かる橋

  • 東京橋巡り 平久川に架かる橋

    東京橋巡り平久川平久川(へいきゅうがわ)江戸時代、右岸側を平井新田、左岸側を久左衛門新田と呼ばれていたことから、両岸の地名をとり平久川と呼ばれました。平久川に架かる橋平久橋(へいきゅうばし)江東区を流れる平久川に架かる橋です。昭和2年に関東大震災復興計画のもと架橋された単径間鋼製トラス橋です。平成5年に改修されています。所在地東京都江東区牡丹3丁目・木場1丁目汐見橋(しおみばし)富岡二丁目から木場二丁目、平久川に架かる橋です。路線名は都道10号・永代通りです。1径間鋼製トラス橋。所在地東京都江東区富岡2丁目13最後に平久橋。鉄橋といえば、緩やかなカーブを描いた物が多いのですが、角ばった鉄橋も中々オツです。しかし、関東大震災復興計画で架橋された橋は、今でも現役で、頑丈ですな。これからもその姿を保っていただき...東京橋巡り平久川に架かる橋

  • 東京散策日記・肥後細川庭園

    東京散策日記肥後細川庭園(ひごほそかわていえん)東京都文京区目白台にある文京区立の公園です。細川家下屋敷の庭園の跡地をそのまま公園にした池泉回遊式庭園です。入り口回遊式泉水庭園松聲閣(松声閣、しょうせいかく)もと細川家の学問所だった建物で、大正時代の建造物です。肥後細川庭園周辺案内所在地東京都文京区目白台1-1アクセス都電荒川線早稲田駅徒歩7分東京メトロ有楽町線江戸川橋駅徒歩15分最後に神田川散策のおり、ふらりと訪れた肥後細川庭園。門をくぐり抜けると、美しい庭園に目を奪われました。訪れたのが、初秋とあって、紅葉もまばらで、花も余り咲いていませんでしたが、手入れが行き届き、見応えのある素晴らしい庭園でした。参考文京区HP東京散策日記・肥後細川庭園

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