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古代四方山話 https://blog.goo.ne.jp/kaorio39

古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。

咲くやこの花
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2020/07/24

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  • 天叢雲剣と越王勾践剣

    どうも応援してくださる方がいるみたいで。ありがとうございます。三種神器の鏡と勾玉については高天原の神が自ら作ったもののようです。しかし剣はヤマタノオロチの尾から出たものとされています。「八尺瓊勾玉」「八咫鏡」は長さの単位としての八尺、大きな勾玉・鏡という一般名詞であるにもかかわらず「天叢雲剣」だけ固有名詞です。天叢雲剣は特別な、唯一無二のもののように感じます。自分たちで作ることが出来なかった剣とはどんな剣であったのか?妄想をかきたてられます。高天原がいつの時代の話であるか、どこにあったのか不明なのでなんとも言えませんが、銅鏡を作れるのであれば銅剣も作れるでしょう。銅剣は九州・中国地方・四国地方に特に濃密に分布していますし、出雲の荒神谷遺跡からは358本もの銅剣が出土しています。もし本当に草を薙いだ剣なのであれば...天叢雲剣と越王勾践剣

  • 邪馬台国と神武東征

    かつては私、邪馬台国は北部九州にあったと考えていました。邪馬台国東遷説についても、さもありなんと考えていました。しかし纏向遺跡から九州の影響が薄いことと、弥生時代後期の淡路島に鉄加工工房があったと判ったことから、あれ?本当に邪馬台国は九州にあったのか?と思い始めていました。折しも何かの書物で邪馬台国九州説をとってこられた原田実氏が、五斗長垣内遺跡の存在から現時点では邪馬台国は北部九州よりも近畿地方の方が妥当と考えると書いておられるのを読みました。我が意を得たり、という感じでした。しかし畿内に邪馬台国があったというのも素直に首肯出来ません。その時から今まで私には邪馬台国がどこにあったのか見当がついていません。邪馬台国が判らなくなると、神武東征も判らなくなりました。今は神武天皇については八幡和郎氏の話にも興味があり...邪馬台国と神武東征

  • 神武天皇は九州から来たのですか

    根本的なこととして九州の人が何故大和へやって来たのかがどうも納得にまで至りません。また、やって来たとしたらいつ頃の話なのでしょうか。3世紀前半から中葉にかけて、日本列島では土器が活発に移動しているようです。土器が移動するということは人びとが移動しているということです。北部九州は弥生時代であっても古墳黎明期であっても、列島の最先端の地ですよね。出雲なり吉備なり畿内なりが最先端の文物を求めて北部九州へ出ていくのは当然です。実際、出雲・吉備・畿内などの土器は北部九州へ移動しています。例えば物部氏がどこの地方の出身であろうとも、北部九州に物部氏の足跡が残るのは当たり前だと思うのです。九州の地名と大和の地名の一致についても、それがどの時代かはわかりませんが、むしろ大和から九州へ地名が移ったのではないかと思ってしまいます。...神武天皇は九州から来たのですか

  • 魏の張政

    魏の臣である張政は247年に倭国へやって来て(魏志倭人伝より)266年に帰国した(晋書武帝記より)という説があります。19年もの間、張政は倭国で何をしていたというのでしょうか。森浩一氏は「張政は台与をつれて大和遠征を行い大和纏向の地に到達し、古代大和政権を打ち立てる大事業を完成した」との説を展開されています。なんとも歴史ロマンにあふれているではありませんか!しかし、纏向遺跡からは北部九州の影響はほとんどうかがえません、纏向遺跡の発掘が進むにつれて何かでるだろうと思っていたのですが、未だ出ません。出てくれないかな…。纏向遺跡からは魏の張政が主導したような痕跡も全く見受けられません。今のところ…。では、張政は倭国で一体何をしていたのでしょうか?張政の墓は朝鮮半島の楽浪郡の地で方墳として発見されています。磚に「使君帯...魏の張政

  • 土佐の遺跡群

    縄文時代末期や弥生時代の土佐が各地と繋がっていたことに、私ただいま興味津々です。土佐市の居徳遺跡群からは縄文晩期の面白い遺物がたくさん出土しています。まずは、金属器によるとみられる鋭い傷や矢じりの貫通痕がある人骨が三体分。人骨にはノミ状の金属器によると思われる刺突痕があり、同時に出土した猪の解体痕にも同様の金属器が使われた様子がうかがえます。国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡なのだそう。縄文時代末期に金属器で戦闘です!この遺跡から出土した木胎漆器は、東北地方の漆を使う特徴と中国・長江流域の影響を受けたと考えられる文様を併せ持っています。東北地方と長江流域、なんて広域なんでしょう!わくわくします❤️日本最古の木製鍬や、全国最大級の土偶頭部なども出土しています。南国市の田村遺跡群もまた面白い!現在までに発掘された日...土佐の遺跡群

  • 物部守屋と信濃国 2

    6世紀に物部氏と蘇我氏が「崇仏・拝仏論争」で戦ったというのは本当なのでしょうか。もし本当であれば、物部が難波の堀江に棄てた仏像がご本尊のはずの善光寺。このご本尊は日本書紀によれば百済から贈られた釈迦仏金銅像。しかし善光寺の本尊は阿弥陀如来だといわれています。誰も見たことがない秘仏ですが、秘仏本尊を模した前立本尊の印相は薬師如来に似ているとされるし、一体どんな仏様がどんな由来でまつられているのでしょうね?善光寺本堂に「守屋柱」なる柱があり、柱の下にはその首が埋まっていると言われるのは有名な話です。四天王寺の守屋祠とともに謎ですね。守屋の墓は大阪府八尾市に現存し、全国の有名神社が玉垣を寄進しています。なのになぜ守屋の首が善光寺にあると言われるのでしょうか。 諏訪大社上社の神体山は「守屋山」です。上社の大祝に次ぐ神官...物部守屋と信濃国2

  • 物部守屋と信濃国 1

    記紀の真の主導者が藤原不比等と考えられるにもかかわらず、藤原氏の始祖である鎌足の出自が未だ判明していません。「大鏡」を信用した説では鎌足は常陸の中臣氏の家に生まれ、中央宮廷の祭祀に関与する中央中臣家に身を寄せたとされています。この地方に生まれて中央に身を寄せるパターン、ひょっとして物部守屋にもあてはまらないでしょうか。信濃の洩矢神を祀る物部氏の家に生まれた守屋が、中央宮廷の祭祀に関与する中央物部家に身を寄せたと。中央に出るにあたって洩矢神を祀る物部としての誇りをもって物部守屋を名乗り、中央で活躍したと。もっとも守屋は大連物部尾輿の子であり、母は弓削氏の阿佐姫と伝えられていますが。物部氏の祀る石上神宮の神戸八十戸のうち、信濃国が五十戸と突出していることを大和岩雄氏が調査しています。石上神宮のある大和における神戸は...物部守屋と信濃国1

  • 七枝刀

    国懸神宮の御神体の鏡が銅鐸かどうかというのはさておき、神事に使用される剣とホコがきちんと分類されていなかったのではないかについては、本当にそう疑っています。石上神宮に伝世する国宝「七枝刀」は、かつて「六叉鉾」と呼ばれていました。七枝刀は石上神宮の神剣渡御祭の際、木枠に納め金綿の袋を被せた状態で神剣の代わりとして明治以前は用いられてきました。刀の代理品なのですから、刀と認識されていたはず。しかし銘文が見つかるまでは「刀」が「ホコ」と呼ばれてきているようなのです。刀とホコの境界が曖昧だったら、刀と鎌の境界も曖昧でいいのではないか、薙鎌がサナキの剣でもなどとどんどん古代妄想の沼へ・・・いけない、いけない!七枝刀は6本の枝刀を持つ特殊な形の鉄剣です。このような刀、東アジアのどこを見渡しても見当たりません。類似品のないこ...七枝刀

  • 穴師坐兵主神社の神宝 2

    さて上社、穴師坐兵主神社のご祭神は「大倭社注進状裏書」によると御食津神。しかし御神体は「日矛」であると記されています。武神に相応しいと思われる矛が御食津神の御神体なのも違和感がありますね。こちらのご祭神、アメノヒボコを祭神とする説もありか…と考えてしまいます。でも下社の御神体が「鈴之矛」でイコール子鈴で、上社の御神体が「日矛」であるなら、天降りの「鏡」はいずこへ?まあ現在の上社の御神体が「鏡」とされますので、上社に天降りの鏡があると解釈すべきなのでしょうが。穴師の神も祭器も情報がかなり錯綜してしまっているようです。御食津神や天鈿女命、稲田姫が祭神であるならば、何故「兵主」神社なのかとなります。そもそものところになりますが「兵主神」自体、どういう神様であるか諸説ありすぎて・・・皆神山すき氏は「巻向穴師社に祀られた...穴師坐兵主神社の神宝2

  • 穴師坐兵主神社の神宝 1

    穴師坐兵主神社は、崇神天皇の御代に巻向穴師山に倭姫によって祀られたとされる古社です。現在は穴師坐兵主神社(上社)、巻向坐若御魂神社、穴師大兵主神社(下社)が合祀されています。古くからその祭神には諸説があり、謎だらけの神社です。「大倭本紀」に天皇始めて天降り来まし時、斎鏡三面と子鈴一合を副え護らせた1つの鏡は天照大神の御魂で天懸大神といい、1つの鏡は天照大神の前御魂で日前国懸神宮の国懸大神であるまた1つの鏡と子鈴は天皇の御食津神として巻向穴師社に祀ったというような記述があります。どう考えても重要な神社です。巻向坐若御魂神社の祭神は稲田姫説、和久産巣日神説などがありますが、勾玉と鈴を御神体とするそうです。この鈴が天降りの「子鈴」なのでしょうか?稲田姫は越の姫君の可能性もあり、勾玉をご神体とすることは肯けます。玉作と...穴師坐兵主神社の神宝1

  • かごめ かごめ

    地図を眺めていて、また妄想に捉われました。ええそうですとも、今日もくだらない妄想話です(^o^;)私がずっと気になっている「八幡大井、住吉、諏訪は同体」を頭に置きながら地図を眺めておりました。今さらながら「あれ?諏訪大社と宇佐神宮の間に松尾大社があるんだ」と気づきました。一直線とまではいきません。でも妄想をかきたてられる並びです。諏訪の神使は鶴だったな、松尾大社って亀だったな。鶴亀か、そりゃめでたい。ツルカメ!?宇佐神宮がここだということはもしかして・・・・・やっぱりありました。諏訪大社、松尾大社、宇佐神宮の延長線上に大分県日田郡「夜明」が。これって「かごめ唄」!?かごめ=籠目とすれば当然連想されるのが丹後国一宮・籠神社です。籠の中の鳥はいついつでやる・・・羽衣伝説のある地です。籠の中の鳥とは「豊受大神」でしょ...かごめかごめ

  • タニワ王国

    古代の日本海ネットワークを考える上で、タニワの存在が不思議でなりません。弥生時代のタニワには目を見張る遺跡が多く存在します。京丹後市の奈具岡遺跡は弥生中期の玉造工房遺跡です。原石から製品まで一貫した玉作りが行われ、緑色凝灰岩や水晶の玉とともに中国や朝鮮半島から入ってきたと考えられる大量の鉄製工具類、鉄器生産の鍛冶炉なども見つかっています。伴とし子氏は、弥生中期に北部九州を凌駕する技術力が丹波に存在していたと指摘されています。大風呂敷1号墳からは弥生時代後期後半の透明度の高い青いガラス製の腕輪が完形で出土しています。その美しさたるや!中国産のカリガラス製である可能性が高いそうで、鉄で発色したカリガラス製品は国内では大変珍しいものだそう。また一つの埋葬施設から11本もの鉄剣が出土しているといいます。京丹後市の赤坂今...タニワ王国

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