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古代四方山話 https://blog.goo.ne.jp/kaorio39

古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。

咲くやこの花
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2020/07/24

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  • 勾玉

    勾玉の形については諸説あるものの、未だ何の形であるか定説には至っておりません。獣形勾玉などを見ると胎児の形なのかとも思いますが、そうすると緑色の翡翠に拘った理由が理解できません。月の形であるならば、太陽の意匠とされる鏡とのバランスが取れていないにもほどがあるように思います。動物の牙を模したのであれば、固い翡翠を労力かけて削らなくても牙を身に付ければ?って思ってしまいます。頭が日を尾が月を表し宇宙の表現だとか、魂の意匠なのだとかいう説もあります。金属がまだなかったとされる縄文時代から翡翠の勾玉は作られます。硬い翡翠を勾玉形に加工して穴をあけるのにどれほどの労力がかかったことでしょうか。細い竹ひごを使い、きりもみ法で翡翠に穴をあける実験では3時間で1ミリほどしか進まなかったそうです。そこまでしてあの形にし穴を開けて...勾玉

  • 卑弥呼・台与と真珠

    真珠って綺麗ですよね。あの光沢や石にはない暖かみとかが大好きです。天然真珠だけの時代であれば私には手に入れられなかったかもしれません。「世界中の女性を真珠で飾りたい」と養殖を成功させてくださった御木本幸吉氏に感謝です。真珠って何故か古墳からはほどんど出土しません。発掘できない宮内庁管理の古墳に大量に眠っているのだとか、交換財として朝鮮半島や中国にほとんど渡ってしまったからだとか言われています。魏志倭人伝によると、卑弥呼は魏の皇帝から真珠を50斤(約11キロ)、もらっています。卑弥呼の墓かもしれない平原王墓からも真珠は出土していません。卑弥呼は魏の皇帝からもらった綺麗な布類や真珠を身に付けたのでしょうか。巫女である卑弥呼は古来からの呪具である翡翠や麻などしか身に付けなかったのでしょうか。卑弥呼の墓かもしれない箸墓...卑弥呼・台与と真珠

  • 畿内の鉄

    青銅器と鉄はほぼ同時期に朝鮮半島経由で日本列島に伝わったとされます。弥生時代にまずは北部九州に入って来た青銅器と鉄。纏向遺跡が誕生する直前の畿内からは鉄の出土が著しく少なく、その時代の鉄の出土分布は北部九州に偏っていると言われてきました。最近ではタニワなどにも鉄が多く存在したことが判明していています。銅鐸文化圏という言葉があったように、近畿では銅鐸を盛んに作っていました。その青銅は一体どこから手に入れていたのでしょうか。北部九州が絡んでいないとは思えないのですが。鉄資源をめぐって倭国大乱が起ったとするならば、青銅はなぜ争いの対象とならなかったのでしょうか。当時の青銅器は神器として使用されており、巫女王の時代には対立国に青銅器による宗教的な権威を与えることは危険なこととなりかねないようにも思われます。実用品ではな...畿内の鉄

  • 前方後方墳と近江

    前方後方墳は前方後円墳から派生したのだと以前は考えられていました。前方後円墳は王家や勢力圏の首長の墓で、それに準じた者に前方後方墳の造営が認められたと。しかし植田文雄氏は、前方後方墳は纏向遺跡誕生とほぼ同じ時代に近江に出現していたのだと主張されています。前方後方墳が先に全国に伝播し、そのあとを追うように前方後円墳が広まっていったのだといいます。ヤマトのシンボルであり全国へ伝播した前方後円墳は、纏向で誕生していることで間違いなさそうです。ヤマトの建国は前方後円墳という新しい埋葬文化を共有することによって成されたのだと考えられています。纏向遺跡から出土する外来土器のうちの半数近くを伊勢・東海地方の土器が占めているといいます。伊勢・東海地方は纏向遺跡、つまりヤマトの建国に中枢として関わっており、単なる労働力だったなど...前方後方墳と近江

  • 長柄・豊崎と難波宮

    「地名は歴史の生き証人」とよく言われます。難波長柄豊碕宮。前期難波宮の名前を見ると、モヤモヤしてしまいます。大阪の人ならもう察していただけたでしょうか。長柄・豊崎という地名が前期難波宮跡とは別の場所にあるのがモヤモヤの源です。現在も「長柄橋」という橋が淀川に架かっています。新大阪から直線で1キロほど南にいった辺りです。この長柄橋の西には「豊崎」という地名が残っています。この地にある豊崎神社には「大化の改新後、遷都された難波長柄豊碕宮旧跡地」であるとの伝承があるそうです。淀川沿いの長柄・豊崎は、法円坂にある難波宮跡公園から5キロ程度離れているでしょうか。同一地域とみるには遠すぎると思うし、かといってたまたまにしては長柄・豊崎と両方の地名が並んで存在しているのですよね。長柄橋にまつわる大阪の昔話が「長柄の人柱」で、...長柄・豊崎と難波宮

  • 卑弥呼だけ匂わせるのは何故ですか

    日本書紀には「倭の奴国王」も「邪馬台国・卑弥呼」も「倭の五王」も「阿毎多利思比狐」も誰も記されていません。何故書かれていないのでしょうか。日本書紀が書かれたころには奴国王や卑弥呼については分からなくなっていたとしても、アメノタリシヒコが誰か分からなくなっていたはずはないでしょう。中国に跪いてきたことを書きたくなかったとしても、アメノタリシヒコのことなら書けるのではないでしょうか。アメノタリシヒコについてはわざと誰のことだか判らなくしていますよね、確信犯ですよね?諸説ありますが、一体アメノタリシヒコって誰ですか?誰のことも書いていないのに、日本書紀は卑弥呼のことだけは神功皇后かもしれないと匂わせます。卑弥呼とは「日本」の歴史においてそれほどに重要な人物なのでしょうか?卑弥呼の系譜に繋がっていない王家などあり得ない...卑弥呼だけ匂わせるのは何故ですか

  • 天武天皇 駅路と日本書紀

    「駅路」の存在を考えるとき、日本書紀は天武天皇のために書かれたものではないという説を実感します。駅路とは日本最古の幹線道路網です。天武天皇の時代、藤原京を起点として東北から九州までの総延長6300キロに及ぶ道路が整備されたようです。日本書紀にはそんなことは記されていないのですが、考古学の進展で判ってきたものです。幅が最小でも6メートル、最大30メートル超の道路で、後世、江戸幕府が整備した五街道さえも凌ぎます。小さな丘など躊躇なく切り崩し、道を一直線に通しているといいます。この駅路は天武天皇による「列島改造」で、中央政権・律令国家を目指して造られたのだそう。そして律令制の終焉とともに平安時代中期に廃絶されました。日本書紀が天武天皇のために書かれたものであるならば、こんな大事業を書かないはずはありません。東北から九...天武天皇駅路と日本書紀

  • 始まりはえべっさん

    昨年、自身の備忘録的に始めてみたブログです。あれがわからない、これがわからないだとか妄想を書き散らかしておりますが、なぜだか読んでくださる人が…。ありがとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。さて、こちら関西では初詣の次は十日戎。娘が学生時代、とある神社で福娘としてご奉仕させていただきました(けっして今宮戎ではありません。あないなべっぴんさんではありません)。「その神社のえべっさんは、どのえべっさんや」と質問し、娘に嫌な顔をされたことを思い出します。えべっさんには系統があることなど、神社や神様または古代史などに興味がない人には常識ではないと。・・・そうですね。島根県松江市にある美保神社の主祭神、事代主命は「鳴り物が好き」で歌舞音曲の神様とされます。事代主命を祀る大阪の今宮戎においては、えべっさんは耳が...始まりはえべっさん

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