古代史が好きです。考古学も史学も好きです。でも読めば読むほどわからないことだらけです。日々疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに書いています。
半年間の罪や穢れを払い除く大祓は全国各地で、また宮中においても古くから行われてきました。大祓が毎年6月の晦日と、12月の大晦日に行われるのは春秋二倍年暦の名残なのでしょうか。大祓といえば茅の輪くぐりが思い浮かびますがそこから話は飛んで、蘇民将来の話ってそもそもは「疫病が流行ったときにはしめ縄をめぐらして家に閉じこもりましょう」という教訓話だったのではないかと思う今日この頃です。疫病にはステイホームが効果的だという教訓を伝えていくための話なのだと思います。また「家送り」というのも疫病封じだったのではないかと妄想しています。アイヌではチセウフイカあるいはカソマンデ(カッオマンデ)と呼ばれた家送りの儀式がありました。老人、特に老女が死んだ折に墓地に土葬した後、個人の持ち物を家ごと焚き上げる儀式です。家送りは焼失竪穴建...疫病退散の知恵
漢字が伝来する以前、古代日本には固有の文字があったのでしょうか。神代文字としては阿比留草文字などが有名どころですね。滋賀県彦根市の荒神山神社のお札に今でも書かれている文字も神代文字だと言われていますし、同じ滋賀県高浜市安曇川町の阿閑神社には神代文字の刻まれた石が残っています。先史時代に岩に刻まれた文字や文様、絵画であるペトログラフは日本各地にたくさん残されているようです。また神代文字といえばホツマツタエに使われたヲシテやカタカムナなど、いわゆる古史古伝の真偽も知りたいところです。真偽を論ずるようなものではなく、我々が日常的に使用している「ひらがな」が神代文字であるとの説もあります。室町時代中期から戦国時代にかけての神道家である吉田兼倶の「日本書紀神代巻抄」に「いろは四十七字は、弘法大師これを作る。かたかなは吉備...ひらがなは神代文字?
古代史以外のことを初めて書きます。私は大阪在住の持病持ちで数年来、十三市民病院に外来患者として通っています。ご存知の方も多いかと思いますが、十三市民病院は全国初のコロナ専門病院です。一時はコロナの入院のみに特化した病院となっていましたが、今は外来も再開しています。多くの医師が退職されましたが、私の主治医の先生方は残っておられ概ね2カ月に一度通院しています。先日、診察に行ってまいりました。待ち合いの椅子もガラガラで、明らかに患者数が減っているように感じます。この病院、未だに会計が機械精算ではなく窓口で人がお金のやり取りをするので、これまでは会計にやたらと時間がかかったのですが、会計さえもスムーズです。私などは病状が安定している期間だったから良かったものの、外来ストップの期間に多くの患者が転院せざるを得なかったこと...十三市民病院
7世紀の中国は南朝の「梁書」などによると、どうも日本列島には倭国のほかにも国があった様子です。「文身国」は倭国の東北7千里にあり、刺青の習慣があるといいます。物は豊かで安く、王のいるところは金銀、珍宝、美しい品で飾っている。館の周囲は濠をめぐらし、幅一丈に水銀を流している。市場がある。犯罪には厳しいと書かれているそうです。なかなか素晴らしい国のようです。文身国の東5千里には「大漢国」があるとし、武器がなく戦争をしない。風俗は文身国と同じだが言語が違っていると記されています。こういう記述があると、やはり「倭国」というのは九州を指すのだろうなと思います。九州が倭国で、扶桑国は関西、北陸が文身国で、関東が大漢国、女国が伊勢あたりでしょうか。また「三国史紀」には、新羅の第4代王の脱解の出身地である「多婆那国」は倭国の東...日本列島の中の倭国とそのほかの国
新羅本紀に249年に出兵した倭王についての記載があるそうです。倭の使節を接待する席で「いずれ倭王は塩汲み奴隷に、妃は飯炊き女になるだろう」という冗談を言った新羅の名将、于老(うの)。この冗談を伝え聞いた倭王は激怒し出兵したといいます。倭王は謝罪する于老を許さず、火炙りの刑に処したそうです。于老とは百済との戦いで大いなる戦果をあげた、古代新羅の12代王の従兄で10代王の子にあたる人物だそうです。兵にも慕われていたという名将を火炙りにされても、新羅は倭に対して争いを起こすことはなかったようです。当時の倭国と新羅の力関係を考えさせられるエピソードです。列伝・于老では253年の出来事として同様の事件が記されているようですが、いずれにせよ年代的に于老を処罰した倭王こそが、卑弥呼と台与の間の男王だと思われます。魏志倭人伝に...卑弥呼と台与の間の男王
古墳の数って多すぎませんか。大仙古墳のような大きなものからほんの小さな古墳まであわせると、全国に16万基もありコンビニの3倍の数だという比較がよくなされています。埋没古墳も数多くあり、一体我々の祖先は3世紀初頭から7世紀初頭の間にどれほどの古墳を造ったのでしょうか。古墳の数が多すぎて中国の薄葬令などとは関係なく、単に場所がなくなってきたから古墳を作るのを止めたのではないかと、くだらないことを考えてしまいます。大林組の仁徳天皇陵を復元するプロジェクトでは、仁徳天皇陵は15年8カ月の歳月をかけ、延べ680万7千人の人が関わり、現代の金額に換算すると796億円ものお金を使って造られたものだといいます。1週間に1回休み、1日8時間労働で、工事のピークには1日に2000人も作業をしていたとされます。鋤や鍬などを作る要員、...古墳の数
秦の始皇帝に「東方の三神山に長生不老の霊薬がある」といい3000人の童男童女を連れ、財宝、財産、五穀の種を持ち東方に船出をしたという徐福。当時の中国において倭人が長寿であるとの噂が流布されていたが故に、徐福は日本を目指して旅立ったのでしょうか。日本各地に徐福伝説が残されています。和歌山県の新宮市も徐福が渡来したとされる地のひとつで、徐福の墓もあります。徐福の生没年は不詳ですが、2200年ほど前の人であると考えられています。徐福は「平原広沢」を手に入れそこに留まり王となり帰らなかったとも言われていますし、徐福=神武天皇という説もあります。和歌山の新宮市に徐福が渡来していて徐福の墓が本物であったとします。それって「先進国」からやって来てかつ人材も財産も持っていた徐福が、単なる豪族として亡くなったってことですよね?多...徐福が和歌山に渡来していたなら
魏志倭人伝には「其の人は寿考(長生き)にして、或いは百年、或いは八、九十年」との記載があります。倭人は百年、あるいは八、九十歳まで長生きするのだと書かれています。現在であれば日本人は本当に八、九十年生きていますから、何ら不思議な記載ではありません。しかし歴史から見ればつい最近の、明治・大正時代の男性の平均寿命が43才前後だというのです。もちろん平均寿命であり、明治・大正時代であっても江戸時代であっても長生きする人は長生きしています。それにしても3世紀の人々が百才まで生きていたとは、まず考えられません。「魏略曰く、その俗、正歳四節を知らず。ただ春耕秋収を計って年紀と為す」との記載もあることから、倭人は春から秋までを1年、秋から春までをまた1年、1年で2歳、歳を数えているのだという説があります。いわゆる春秋二倍年暦...倭人の年齢
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