彼らは不正を企み、「企んだ策略がうまくいった」と言っています。人の内なる思いと心とは、底が知れません。(詩篇64:6) ダビデは、「悪を行う者ども」「不法を行う者ども」(2)について描写した。 彼らは、その舌を剣のように研ぎ澄まし、苦いことばの矢を放っています。全き人に向けて、彼らは隠れた所から射掛け、不意に矢を射て、何も恐れません。彼らは悪事に凝っています。示し合わせて、ひそかに罠をかけ、「だれが見破ることができよう」と言っています。(3-5) そして、「人の内なる思いと心とは、底が知れません」(6)と言った。 まだ主イエスを信じていなかった二十歳前後、私は武者小路実篤の本を好んで読んでいた…
神よ、あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。(詩篇63:1) 63篇は、そのまま日々の自分の祈りにしたい。 一昨日の記事で、あのことこのことではなく神ご自身を求める祈りをしたいと書いたが、この詩がまさにそうだ。 「あなたは私の神」 キリスト者は、心からの確信をもってこう言える。 わたしたちが祈りをささげる神は、偶像でも空想でもなく、生ける本物の神だ。 「私はあなたを切に求めます」 ダビデの信仰は、これに尽きると言っていい。 この態度こそ、彼が主に喜ばれた秘訣だ。 水のない、衰え果てた渇いた地で、私のたましいは、あなたに渇き、私の身も、あなたをあえぎ求めます。(1) 彼は居心地の良い部屋の、…
民よ、どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を、神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(詩篇62:8) 信仰とは、信じ込むことではなく、信頼することだと聞いた。 ある教えや何らかの存在を信じるというのではなく、神ご自身を信頼することだと。 信頼には、人格的な交わりがある。 わたしたちは、どんな人を信頼するだろうか。 嘘のない人だ。 裏表のない人だ。 彼らは偽りを好み、口では祝福し、心では呪う。(4) こういう人を信頼することはできない。 また、自己本位でない人だ。 キリストは、こう語られた。 「自分から語る人は自分の栄誉を求めます。しかし、自分を遣わされた方の栄誉を求める人は真実で…
神よ、私の叫びを聞き、私の祈りに耳を傾けてください。(詩篇61:1) 「祈り」とは何だろう。 考えてみれば、不思議な行為だ。 目に見えない存在に向かって手を合わせ、こうべを垂れ、言葉を告げる。 あらゆる宗教には「祈り」があり、日ごろ無宗教な日本人も、寺社仏閣に行けば手を合わせる。 子どもの頃、わたしの家の窓から見える山上に仏像があり、夜になるとライトアップされていた。 わたしは受験や部活の試合などのたびに、その仏像に向かって手を合わせた。 結果が良いと、「祈りが聞かれた」と思ったものだ。 二十代でキリスト信者となり、「祈り」に対する捉え方も大きく変わった。 それまでの「祈り」は言わば「祈り心」…
神よ、あなたは私たちを拒み、私たちを破られました。あなたは怒られました。どうか、私たちを回復させてください。(詩篇60:1) この詩篇は、ダビデが民の回復を祈る内容だ。 ただ、表題を見ると、あれ?と思う。 ダビデがアラム・ナハライムやアラム・ツォバと戦っていたとき、ヨアブが帰って来て、塩の谷でエドムを一万二千人打ち殺したときに。(表題) ヨアブはダビデの部下であるが、この頃のダビデは勢力を拡大し、行く先々で勝利を重ねていた。 そのときに詠んだ詩というのは、どういうことだろうか。 もしかすると、自軍の緩みを見て、自戒のために詠んだのかもしれない。 あなたは地を揺るがし、引き裂かれました。その裂け…
私の力よ、私はあなたを見続けます。神が私の砦だからです。(詩篇59:9) これもダビデの作だが、表題にはこうある。 ダビデを殺そうとサウルが人々を遣わし、彼らがその家の見張りをしたときに。(表題) ここまで読んできた59の詩篇では、ダビデによるものがたくさんあった。 その多くは、敵に追い詰められた状況で詠まれたものだ。 ダビデとしてはたまったものではなかっただろうが、その苦しみがあったことで、これだけの詩篇が生まれた。 むしろ彼は、揺るがぬ地位を得たときに、大きな罪を犯した。 私の神よ、私を敵から救い出してください。向かい立つ者たちよりも高く、私を引き上げてください。(1) 59篇では、敵に関…
「まことに、正しい人には報いがある。まことに、さばく神が地におられる。」(詩篇58:11) 58篇にタイトルをつけるとすれば、「人のさばきと、神のさばき」とでもなろうか。 力ある者たちよ、おまえたちは本当に義を語り、人の子らを公正にさばくことができるのか。(1) 人をさばく立場にある者は、当然、大きな権力を持つわけだが、公正にさばけるのかと問うているのだ。 なぜか? 実に、おまえたちは心で不正を働き、地で手の暴虐をはびこらせている。悪しき者どもは、母の胎を出たときから踏み迷い、偽りを言う者どもは、生まれたときからさまよっている。(2-3) 聖書は、人はみな生まれながらにして罪人であるという。 …
私はいと高き方、神を呼び求めます。私のために、すべてを成し遂げてくださる神を。(詩篇57:2) ダビデは、彼のいのちをつけ狙うサウル王から逃れて、洞窟に潜んでいた。 私のたましいは、獅子たちの間で、人の子らを貪り食う者の間で横たわっています。彼らの歯は槍と矢、彼らの舌は鋭い剣です。(4) 恐怖と緊張の中で、ダビデは神に身を避けた。 私をあわれんでください。神よ。私をあわれんでください。私のたましいは、あなたに身を避けていますから。私は、滅びが過ぎ去るまで、御翼の陰に身を避けます。(1) 神に身を避けるとは、具体的には、神に信頼して祈ることだった。 私はいと高き方、神を呼び求めます。私のために、…
私は知っています。神が味方であることを。(詩篇56:9) ときどき、古い記憶の中の、ある“事件”を思い出す。 それは、わたしが幼稚園の年長クラスに上がった日のこと。 悪ガキのF君が、わたしの顔に向かって回し蹴りの真似事をした。 F君はふざけ半分だったろうし、実際に蹴られたわけでもなかったのだが、驚いたわたしは泣き出してしまった。 後にも先にも、友達に“泣かされた”のは、この一度だけだ。 この事件を思い出すたびに思う。 子どもが泣くのは、誰かからの拒絶や否定が耐えられないからではないかと。 そして、その辛さや悲しさは、大人になっても基本的に変わらないのではないか。 「人を恐れる」ことの奥底に、そ…
あなたの重荷を主にゆだねよ。主があなたを支えてくださる。主は決して、正しい者が揺るがされるようにはなさらない。(詩篇55:22) 昔、主によって大いに用いられた方の奥様に、「ご主人は大変ですね」と言うと、こう返された。 「主人は全部、主にゆだねます。そうしないと、みんな問題ばかり持って来てやってられません」 ダビデは執拗なまでに敵に追われ、苦しめられた。 その苦しみは、単純なものではなかった。 まことに、私をそしっているのは敵ではない。それなら私は忍ぶことができる。私に向かって高ぶっているのは、私を憎む者ではない。それなら私は身を隠すことができる。それは、おまえ。私の同輩、私の友、私の親友のお…
主よ、あなたの御名に感謝します。すばらしい御名に。神がすべての苦難から私を救い出し、私の目が敵を平然と眺めるようになったからです。(詩篇54:7) パウロは、次のように書いた。 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6:12) ペテロは、こう書いている。 身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、吼えたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に対抗しなさい。(1ペテロ5:8-9) これらのみことばからわかるのは、わたしたちは意識するしないに…
神は天から人の子らを見下ろされた。悟る者、神を求める者がいるかどうかと。(詩篇53:2) 53篇は、14篇とほぼ同じだ。 だからといって、聖書がおかしいとか、間違っているということではない。 それだけ重要な真理ということである。 愚か者は心の中で「神はいない」と言う。彼らは腐っている。忌まわしい不正を行っている。善を行う者はいない。・・・彼らはことごとく背き去り、だれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。(1・3) これが神の判断だ。 全員腐っている、こう言われていい気持ちはしない。 いえいえ私の友人の〇〇さんは根っからの善人ですよ、腐っているとはひどいですよ、と言いた…
しかし私は、神の家に生い茂るオリーブの木。私は世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。(詩篇52:8) 何を誇るかで、その人が分かる。 それは、その人が何に拠り頼んでいるかを示している。 勇士よ、なぜおまえは悪を誇りとするのか。(1) たしかに人は、「悪を誇りとする」。 どれだけ裏社会に通じているか、どれだけ若い頃“やんちゃ”をしたか、そしてどれだけ神を頼ろうとしていないか。 面白いもので、そういったことは、どこか“かっこ良く”見える。 しかし、神のさばきは正しく下される。 欺きの舌よ、おまえはあらゆる滅びのことばを愛している。だが神は、おまえを打ち砕いて倒し、幕屋から、おまえを引き抜かれる。生ける…
神へのいけにえは、砕かれた霊。打たれ、砕かれた心。神よ、あなたはそれを蔑まれません。(詩篇51:17) 昨今、「自己肯定感」の大切さが声高に語られる。 自分は価値がある、素晴らしい存在だと信じる心は、人が健やかに成長する上で、たしかに大切なものだろう。 しかし、その根拠は何だろうか。 自分はすごいんだ、素晴らしいんだというのは、少し違う気がする。 「自己肯定感」の確かな根拠は、神の愛にあると、わたしは思う。 聖書は、一人ひとりは神によって愛されており、神の目に高価で尊い、と教えている。 と同時に、一人ひとりの内側には、神への敵対という恐ろしい闇があり、一人残らず神からさばかれるべき“罪人”だと…
「自分の道を正しくする人に、わたしは神の救いを見せる。」(詩篇50:23) 50篇は、天地の審判者としての神のことばだ。 神は上なる天を、また地を呼び集められる。ご自分の民をさばくために。(4) 天は神の義を告げ知らせる。神こそが審判者であると。(6) 内容は、 「敬虔な者」(5)へのことば 「悪しき者」(16)へのことば の二つに分かれている。 1.「敬虔な者」に 「聞け、わが民よ。わたしは語ろう。・・・あなたのいけにえのいことであなたを責めるのではない。あなたの全焼のささげ者は、いつもわたしの前にある。」(7-8) 神は「森のすべての獣はわたしのもの」(10)とし、それらのささげ物を求めて…
人は栄華のうちにあっても、悟ることがなければ、滅び失せる獣に等しい。(詩篇49:20) 49篇は、知恵者が国々に語りかけることばになっている。 すべて国々の民よ、これを聞け。すべて世に住む者よ、耳を傾けよ。低い者も高い者も、富む者も貧しい者も、ともどもに。私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。(1-3) どこかソロモン王を思わせる内容だ。 なぜ、私はわざわいの日々に、恐れなければならないのか。私のかかとを狙う者の悪意が、私を取り囲むときに。彼らは、自分の財産に拠り頼み、豊かな富を誇っている。(5-6) 人は富者をうらやむが、それは同時に「恐れ」にもつながる。 金持ちだ、資産家だ、というだけ…
私たちは聞いたとおりを見た。万軍の主の都、私たちの神の都で。神は都をとこしえに堅く立てられる。(詩篇48:8) 48篇は、「神の都」「シオンの山」を巡る賛歌だ。 主は大いなる方。大いにほめたたえられるべき方。主の聖なる山、私たちの神の都で。高嶺の麗しさは、全地の喜び。北の端なるシオンの山は大王の都。(1-2) シオンとあることから、これはやはりエルサレムの都だろうか。 そこは神の臨在と祝福があり、敵も近づけない。 見よ、王たちは集って、ともどもにやって来た。彼らは、見ると驚き、おじ惑い、慌てた。その場で震えが彼らをとらえた。子を産むときのような激しい痛みが。(5-6) 神の民は、昔から聞いてい…
国々の民の高貴な者たちは集められた。アブラハムの神の民として。(詩篇47:9) 聖書が何度読んでも飽きない理由の一つは、あの分厚さにあるのではないだろうか。 10ページ程度であれば、頑張れば暗記できるかもしれないが、なにせあれだけの分量だ。 読むたびに、はじめて目にするようなことばに出会う。 上のことばも、その一つ。 47篇は、神は全地と国々を治める王であり、われらの国に国々を従属させられる、だからほめ歌え、という内容だ。 まことに、いと高き方主は恐るべき方。全地を治める、大いなる王。国々の民を私たちのもとに、もろもろの国民を私たちの足もとに従わせられる。(2-3) 神は国々を統べ治めておられ…
「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる。」(詩篇46:10) 46篇は、いまの世界的コロナパンデミックの様相を思わせる。 見てみよう。 神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。それゆえ、われらは恐れない。たとえ地が変わり、山々が揺れ、海のただ中に移るとも。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。(1-3) 天地がひっくり返るほどの事態の中で、人々は「これはどうなるのか」とおじ惑う。 しかし、まことの神を知る者は、神のみもとに避け所を見出す。 そこはどのような場所だろうか。 川がある。その豊かな流れ…
あなたは人の子らにまさって麗しい。あなたの唇からは優しさが流れ出る。神がとこしえにあなたを祝福しておられるからだ。(詩篇45:2) 45篇は、詩篇の中でも異色だ。 誰かはわからないが、附属の解説によれば「王の結婚の祝歌」ということだ。 詩人は、王の婚宴にあたり、王をほめたたえる歌を書いた。(1) それが、そのまま後のキリストの賛歌になっているように見える。 2節では、王の麗しさと、言葉の優しさが賛美される。 そのような唇の者になりたいと思う。 唇から、愚痴や皮肉や傲慢の言葉でなく、「優しさが流れ出る」者に。 悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。むしろ、必要なときに、人の成長に役立つ…
あなたのために、私たちは休みなく殺され、屠られる羊と見なされています。(詩篇44:22) 44篇は、イスラエルの先祖に対する主の恵みを想起するところから始まる。 神よ、私たちはこの耳で聞きました。先祖たちが語ってくれました。あなたが彼らの時代、昔になさったみわざを。・・・自分の剣によって、彼らは地を得たのではなく、自分の腕が、彼らを救ったのでもありません。ただあなたの右の手、あなたの御腕、あなたの御顔の光が、そうしたのです。あなたが彼らを愛されたからです。(1・3) わたしたちが主にある喜びと平安を知ることができたのも、まったく同様だ。 それは主がわたしたちを愛されたがゆえに、主の御手によって…
どうか、あなたの光とまことを送り、それらが私を導くようにしてください。あなたの聖なる山、あなたの住まいへと、それらが私を連れて行きますように。(詩篇43:3) 43篇は、42篇の続きになっている。 最後の5節は、42篇11節とまったく同じだ。 わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(5) 「待ち望む」という言葉は、英語では、trust in、hope in、wait for、などと訳されている。 「待つ」ことは、信頼して、期待して、待つことにほかならない。 しかし、それがあまりに長引く…
わがたましいよ、なぜ、おまえはうなだれているのか。なぜ、私のうちで思い乱れているのか。神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。(詩篇42:11) 42篇は、非常に美しい、よく知られる表現ではじまる。 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ、私のたましいはあなたを慕いあえぎます。(1) ここで興味深いのは、「私のたましいは」慕いあえぐと言っているのであって、「私は」ではないことだ。 詩篇には「わがたましいよ」とか「私のたましいは」という表現が多いので、なんとなく読み過ごしていたが、よく考えたら不思議な言葉だ。 「わがたましい」「私のたましい」は、この42篇に6度も出てくる。…
幸いなことよ、弱っている者に心を配る人は。わざわいの日に、主はその人を助け出される。(詩篇41:1) 「おまえは弱っている者に心を配っているか。自分の好むことばかり追い求めているのではないか」 いきなり、そう問われた気がした。 ダビデは病に伏したとき、訪ねてくる人たちの姿に傷ついた。 私の敵は、私の悪口を言います。「いつ彼は死に、その名は消え去るのだろうか。」人が見舞いに来ても、その人は嘘を言い、心のうちでは悪意を蓄え、外に出てはそれを言いふらします。(5-6) 見舞い人は、面と向かっては「お大事に」とか「早く治りますように」などと言うが、外では「あいつも終わりだな」などと毒づいた。 私を憎む…
私は、あなたの義を心の中におおい隠さず、あなたの真実とあなたの救いを言い表します。私は、あなたの恵みとあなたのまことを大いなる会衆に隠しません。(詩篇40:10)初代教会の兄弟たちは、イエスが約束された救い主であることを、聖書(旧約聖書)の中に熱心に調べた。 そして、詩篇40篇が目に留まった。 あなたは、いけにえや穀物のささげ物をお喜びにはなりませんでした。あなたは私の耳を開いてくださいました。全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物を、あなたは、お求めになりませんでした。そのとき、私は申し上げました。「今、私はここに来ております。巻物の書に私のことが書いてあります。わが神よ、私はあなたのみこころ…
主よ、私の祈りを聞いてください。助けを求める叫びに耳を傾けてください。私の涙に、黙っていないでください。私はあなたとともにいる旅人、すべての先祖のように寄留の者なのです。(詩篇39:12) 39篇は、38篇の続きのような詩篇だ。 38篇では、敵の嘲りに対して「聞こえない人のように」(詩篇38:13)黙して抗さず、という態度を取った。 39篇も、こう始まる。 私は言った。私は自分の道に気をつけよう。私が舌で罪を犯さないように。口に口輪をはめておこう。悪しき者が私の前にいる間は。私はひたすら黙っていた。良いことにさえ沈黙した。そのため私の痛みは激しくなった。(1-2) ダビデは「悪しき者」の前で、…
私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。(詩篇38:4) 38篇でダビデは、“三重の苦痛”について告白している。 罪の苦痛 肉体の苦痛 周囲からの蔑みの苦痛 1.罪の苦痛 主よ、あなたの激しい怒りで私を責めないでください。あなたの大いなる憤りで私を懲らしめないでください。・・・あなたの憤りのため、私の肉には完全なところがなく、私の罪のゆえ私の骨には健全なところがありません。私の咎が頭を越えるほどになり、重荷となって、担いきれません。(1・3-4) ダビデの名は、旧約聖書の中でもひときわ輝く名であるが、彼は完全無欠な人物だったわけではない。 そうではなく、神の前で自分の罪を深…
主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。(詩篇37:3-4) この詩を歌ったとき、ダビデはある程度晩年にあった。 25節に、こうある。 若かったころも年老いた今も、私は見たことがない。正しい人が見捨てられることを。その子孫が食べ物を乞うことを。(25) 多くの人を見、たくさんのことを経験してきたダビデが、人生の結論として語っていると捉えてもいいだろう。 そこで語られていることは、とてもシンプルだ。 神を恐れない悪者は断ち切られるが、神を恐れ、慕い求める者はかならず主の祝福にあずかる。だから、主を信頼して、誠実に歩め、と。 ダビデ…
注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。あなたの義を、心の直ぐな人たちに。(詩篇36:10) 詩篇におさめられたダビデの多くの言葉を読むと、彼が主をいかに愛したかだけでなく、主に背く者をいかに憎んだかも伝わってくる。 その者を憎むというよりも、その心にある神への敵対、高ぶり、侮りを憎んでいるのだろう。 それは主への愛の裏返しでもある。 はたして、わたしはそのような心でいるだろうか。 私の心の奥にまで、悪しき者の背きのことばが届く。彼の目の前には、神に対する恐れがない。彼は自分の判断で自分を偽り、自分の咎を見つけて、それを憎む。彼の口のことばは、不法と欺き。思慮深くあろうともせず、善を…
主よ、私と争う者と争い、私と戦う者と戦ってください。(詩篇35:1) 自分を攻撃してくる者に対して、どう対処すればよいのか。 そう悩むひとがいたなら、35篇を読むことをすすめたい。 ダビデはいのちの危険を感じるほどに攻められたが、自ら戦おうとせず、主が戦ってくださるよう叫んだ。 私のいのちを求める者たちが恥を見、卑しめられますように。私に対してわざわいを謀る者たちが退き、辱めを受けますように。彼らを風の前の籾殻のようにし、主の使いが追い散らすようにしてください。(4-5) わたしたちは、どうだろうか。 他人から攻撃されたとき、どうするだろうか。 直接攻撃し返すこともあるかもしれないし、じっと耐…
正しい人には苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから救い出してくださる。(詩篇34:19) これが34篇のテーマだ。 正しい人だから苦しみに遭わないのではない。 むしろ「苦しみが多い」とさえ言われている。 他の節からも、それがわかる。 私が主を求めると、主は答え、すべての恐怖から、私を救い出してくださった。(4) この苦しむ者が呼ぶと、主は聞かれ、すべての苦難から救ってくださった。(6) 若い獅子も乏しくなり、飢える。しかし、主を求める者は、良いものに何一つ欠けることがない。(10) 苦しむ者が叫ぶと、主は聞かれ、そのすべての苦難から救い出してくださる。(17) 共通するのは、 恐怖、苦難、飢…
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