私は声をあげて主を呼び求める。すると、主はその聖なる山から私に答えてくださる。(詩篇3:4) 表題に、こうある。 ダビデの賛歌。ダビデがその子アブサロムから逃れたときに。(表題) ダビデ王は、愛するわが子からいのちを狙われ、追われる身となった。 人々は、嘲笑しただろう。 「あのダビデ王が、惨めなことよ。神は彼を見放されたのだ。傲慢になった結果に違いない」 主よ。なんと私の敵が多くなり、私に向かい立つものが多くいることでしょう。多くの者が私のたましいのことを言っています。「彼には神の救いがない」と。(1-2) そんな中でも、ダビデの主に対する信頼は揺るがなかった。 しかし、主よ。あなたこそ私の周…
「私は主の定めについて語ろう。主は私に言われた。『あなたはわたしの子。わたしが今日、あなたを生んだ。』」(詩篇2:7) 詩篇2篇は、一読してわかるように、“メシア預言”そのものだ。 旧約聖書には“メシア預言”が数え切れないほどあるわけだが、この2篇は代表的なひとつといえる。 わずか12節のなかで、何度もメシア自身を指す表現が出てくる。 主に油注がれた者(2) わたしの王(6) わたしの子(7) 子(11) ちなみに最後の「子」は新改訳2017の訳では11節になっているが、新改訳第三版までは12節で「御子」と訳されていた。 2篇の作者がだれであるかは、明記されていない。 たしかなことは、イエス・…
幸いなことよ。悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、嘲る者の座につかない人。主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ人。(詩篇1:1-2) 今回から『詩篇』を読んでいきたいと思う。 『詩篇』を愛する人は、とても多い。 いや、クリスチャンであれば、だれもがそうであろう。 人間のあらゆる感情が素直に表現され、とても身近に感じるのだ。 『詩篇』は、おおむね2500年前にできたものだという。 日本でいえば弥生時代であり、卑弥呼の登場までまだ700年もある大昔だ。 それほど古い書物でありながら、現代のわたしたちが全く心合わせて読むことができるのは、神のなさる奇跡と言っていい。 同じ…
これらのことを証しする方が言われる。「しかり、わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示録22:20) いつだったか、夢を見た。 緑溢れる森の中にいた。 ひとすじの小川が流れ、水面はキラキラと輝き、やわらかな木漏れ日が差し込んでいた。 どこまでも清く、あたたかく、心地良い世界だった。 目覚めたとき、(天国はあんな所なのだろうな)と思ったのを覚えている。 黙示録を読むと、この夢を思い出す。 御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎…
すると、御座に座っておられる方が言われた。「見よ。わたしはすべてを新しくする。」また言われた。「書き記せ。これらのことばは真実であり、信頼できる。」(黙示録21:5) 悪魔も、反キリストも、偽預言者も、すべての不信者たちも、「火の池」に投げ込まれた。 それから主は、「すべてを新しく」される。 また私は、新しい天と新しい地を見た。以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。(1) わたしたちがいま住んでおり、「千年王国」においても継続されていた天・地・海は、すべて消え去る。 そして、「新しい天と新しい地」が創造される。 この啓示は、ペテロにも与えられていた。 その日の到来によって、天は燃え崩れ…
この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対して、第二の死は何の力も持っていない。彼らは神とキリストの祭司となり、キリストとともに千年の間、王として治める。(黙示録20:6) 黙示録は、終盤に近づくほど難解になるような気がする。 時間軸が前後したり、同じ出来事が異なる表現で書いてあったりして、混乱してしまう。 いま地上に生きるわれわれの理解をはるかに超えているため、詳細に語ることを避けてあるのかもしれない。 理解すること以上に大切なのは、主を信頼することであるから。 19章の最後で、反キリストと偽預言者、および彼らの信奉者たちは、火の池に投げ込まれた。 20章のはじめでは…
また私は、大群衆の声のような、大水のとどろきのような、激しい雷鳴のようなものがこう言うのを聞いた。「ハレルヤ。私たちの神である主、全能者が王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。子羊の婚礼の時が来て、花嫁は用意ができたのだから。花嫁は、輝くきよい亜麻布をまとうことが許された。その亜麻布とは、聖徒たちの正しい行いである。」(黙示録19:6-8) 19章で、いよいよキリストの再臨が描かれる。 そのときには、「花嫁」(7)と「婚宴に招かれている者たち」(9)、すなわち「天の軍勢」(14)を従えて天から来られる。 また私は、天が開かれているのを見た。すると見よ、白い馬がいた。それに乗って…
彼女と淫らなことを行い、ぜいたくをした地の王たちは、彼女が焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣いて胸を打ちたたく。彼らは遠く離れて立ち、彼女の苦しみに恐れをなして、「わざわいだ、わざわいだ、大きな都、力強い都バビロンよ。あなたのさばきは一瞬にしてなされた」と言う。(黙示録18:9-10) 17章では世界的宗教に対するさばきが描かれ、18章では政治的・経済的システムに対するさばきが描かれる。 「大バビロン」と呼ばれる世界的宗教とその中心都市は一日で滅びる。 「これらのことのため、一日のうちに、様々な災害、死病と悲しみと飢えが彼女を襲います。そして、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主…
また、七つの鉢を持つ七人の御使いの一人が来て、私に語りかけた。「ここに来なさい。大水の上に座している大淫婦に対するさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と淫らなことを行い、地に住む人々は、この女の淫行のぶどう酒に酔いました。」(黙示録17:1) 17章で、また印象的な者が登場する。 「大淫婦」だ。 その姿は、なんともグロテスク極まりない。 その女は紫と緋色の衣をまとい、金と宝石と真珠で身を飾り、忌まわしいものと、自らの淫行の汚れで満ちた金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名、「大バビロン、淫婦たちと地上の忌まわしいものの母」という名が記されていた。私は、この女が聖徒たちの血…
また私は、大きな声が神殿から出て、七人の御使いに、「行って、七つの鉢から神の憤りを地に注げ」と言うのを聞いた。(黙示録16:1) 「七つの封印」の七番目に「七つのラッパ」があり、「七つのラッパ」の七番目に「七つの鉢」がある。 この流れで、「七つの鉢」のさばきが始まる。 さばきの内容も、成就するスピードも、加速度的に強まる。 鉢のさばきを、その対象と内容ごとにまとめてみよう。 第一の鉢/地:獣の信者にひどい悪性の腫れものができる 第二の鉢/海:血のようになり、中の生き物が全滅する 第三の鉢/川:血になる 第四の鉢/太陽:人々を激しい炎熱で苦しめる 第五の鉢/獣の座:獣の国が闇でおおわれ、人々を苦…
私は、火が混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣とその像とその名を示す数字に打ち勝った人々が、神の竪琴を手にしてガラスの海のほとりに立っていた。彼らは神のしもべモーセの歌と子羊の歌を歌った。(黙示録15:2-3) 15章は、全部で8節と、黙示録の中でもっとも短い。 ここから、神のさばきがクライマックスに入っていく。 また私は、天にもう一つの大きな驚くべきしるしを見た。七人の御使いが、最後の七つの災害を携えていた。ここに神の憤りは極まるのである。(1) ――ここに神の憤りは極まるのである これもまた、黙示録特有のゾクッとする表現だ。 よく旧約の神は“怒りの神”で新約の神は“赦しの神”、という…
御使いは地上に鎌を投げて、地のぶどうを刈り集め、神の憤りの大きな踏み場に投げ入れた。都の外にあるその踏み場でぶどうが踏まれた。すると、血がその踏み場から流れ出て、馬のくつわの高さに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。(黙示録14:19-20) 14章では、救われた者たちの勝利と、神に従わない者たちへのさばきとが描かれている。 ことにさばきに関しては、15章以下で描かれる「七つの鉢のさばき」の概観となっている。 また私は見た。すると見よ。子羊がシオンの山の上に立っていた。また、子羊とともに十四万四千人の人たちがいて、その額には子羊の名と、子羊の父の名が記されていた。・・・彼らは御座の前…
また私は、海から一頭の獣が上って来るのを見た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の王冠があり、その頭には神を冒涜する様々な名があった。(黙示録13:1) 12章では、天上における竜(悪魔)との戦いの様子が描かれた。 13章では、地上における二頭の獣との戦いが描かれる。 一頭目は、冒頭の通り「海から」上って来る。 これは、「反キリスト」であると言われている。 二頭目は、「地から」上って来る。 こちらは、「偽預言者」だ。 また私は、別の獣が地から上って来るのを見た。それは、子羊の角に似た二本の角を持ち、竜が語るように語っていた。(11) この「悪魔ー反キリストー偽預言者」が、終わりの…
また、大きなしるしが天に現れた。一人の女が太陽をまとい、月を足の下にし、頭に十二の星の冠をかぶっていた。女は身ごもっていて、子を産む痛みと苦しみのために、叫び声をあげていた。(黙示録12:1-2) 11章15節から「第七のラッパ」に入った。 そして12章において、天に現れた「大きなしるし」について語られる。 身ごもった一人の女(1)=イスラエル 赤い大きな竜(3)=悪魔 男の子(5)=キリスト ミカエル(7) などが登場する。 悪魔ははじめ、「男の子」すなわちキリストを狙う。 また竜は、子を産もうとしている女の前に立ち、産んだらその子を食べてしまおうとしていた。(4) しかしその目論見は失敗し…
「わたしがそれを許すので、わたしの二人の証人は、粗布をまとって千二百六十日間、預言する。」(黙示録11:3) 黙示録も半分まで来た。 11章は、14節までが「第二のわざわい(第六のラッパ)」の続きだ。 15節からは「第三のわざわい(第七のラッパ)」に入る。 ここで「二人の証人」が現れる。 彼らは、地を治める主の御前に立っている二本のオリーブの木、また二つの燭台である。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、彼らの口から火が出て、敵を焼き尽くす。もしだれかが彼らに害を加えようとするなら、必ずこのように殺される。この二人は、預言をしている期間、雨が降らないように天を閉じる権威を持っている。また、…
それから、海の上と地の上に立っているのを私が見たあの御使いは、右手を天に上げ、天とその中にあるもの、地とその中にあるもの、海とその中にあるものを造って、世々限りなく生きておられる方にかけて誓った。「もはや時は残されておらず、第七の御使いが吹こうしているラッパの音が響くその日に、神の奧義は、神がご自分のしもべである預言者たちに告げたとおりに実現する。」(黙示録10:5-7) 10章は、「第七の封印」の中の「七つのラッパ」のうちの「第六のラッパ(=第二のわざわい)」の途中だ。 ここで、特徴的な御使いが登場する。 また私は、もう一人の強い御使いが、雲に包まれて天から下って来るのを見た。その頭上には虹…
その人たちを殺すことは許されなかったが、五か月間苦しめることは許された。彼らの苦痛は、サソリが人を刺したときの苦痛のようだった。その期間、人々は死を探し求めるが、決して見出すことはない。死ぬことを切に願うが、死は彼らから逃げて行く。(黙示録9:5-6) 9章では、第五と第六のラッパが吹かれる。 これら第五、第六、第七のラッパがそれぞれ「第一、第二、第三のわざわい」と呼ばれている。 七つのラッパのうちの四番目まではそう呼ばれず、五番目以降が「わざわい」と呼ばれるのは不思議な気もするが、直前の8章の最後を見ると意味がわかる。 また私は見た。そして、一羽の鷲が中天を飛びながら、大声でこう言うのを聞い…
また、別の御使いが来て、金の香炉を持って祭壇のそばに立った。すると、たくさんの香が彼に与えられた。すべての聖徒たちの祈りに添えて、御座の前にある金の祭壇の上で献げるためであった。香の煙は、聖徒たちの祈りとともに、御使いの手から神の御前に立ち上った。(黙示録8:3-4) 8章で、ついに最後の七つ目の封印が解かれる。 すると、七人の御使いが現れ、七つのラッパが与えられた。 ここから、それぞれのラッパが吹かれていく。 黙示録を読んでいくと、七つの封印、七つのラッパ、七つの鉢などが出てきて混乱してしまう。 それぞれがパソコンでいう“フォルダ”のようになっていると考えると、わかりやすいかもしれない。 「…
「御座の中央におられる子羊が彼らを牧し、いのちの水の泉に導かれる。また、神は彼らの目から涙をことごとくぬぐい取ってくださる。」(黙示録7:17) 黙示録の6~18章は、いわゆる「艱難期」を示しているという。 「艱難期」とは、終わりの時にやってくる7年間の艱難時代のことだ。 そのとき「教会」は、すでに天に「携挙」されている。 4章1節の「ここに上れ」という言葉が、その象徴という解釈もある。 その後、私は四人の御使いを見た。彼らは地の四隅に立ち、地の四方の風をしっかりと押さえて、地にも海にもどんな木にも吹きつけないようにしていた。(1) 四人の御使いが四方の風を押さえて、世界を守っている描写だ。 …
そして、山々や岩に向かって言った。「私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示録6:16-17) 6章で、いよいよ七つの封印のうちの六つが解かれる。 解くのはもちろん、屠られた姿の子羊だ。 また私は、子羊が七つの封印の一つを解くのを見た。そして、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい」と言うのを聞いた。(1) 四つ目までは、その都度四つの生き物が「来なさい」と言い、色のついた馬が現れるなど、似たような書き方になっている。 白い馬/冠、勝利 赤い馬/平和を奪う、…
彼らは大声で言った。「屠られた子羊は、力と富と知恵と勢いと誉れと栄光と賛美を受けるにふさわしい方です。」(黙示録5:12) 5章で、ある重要な物が出てくる。 「巻物」だ。 また私は、御座に着いておられる方の右の手に巻物を見た。それは内側にも外側にも字が書かれていて、七つの封印で封じられていた。(1) ところが、この巻物を開き、見ることができる者はどこにもいなかったため、ヨハネは「激しく泣いた」。(3-4) 四つの生き物や二十四人の長老たち、また御使いたちですら開くことができないとは、どれほど重要な巻物であることだろう。 すると、長老の一人が私に言った。「泣いてはいけません。ご覧なさい。ユダ族か…
この四つの生き物には、それぞれ六つの翼があり、その周りと内側は目で満ちていた。そして、昼も夜も休みなく言い続けていた。「聖なる、聖なる、聖なる、主なる神、全能者。昔おられ、今もおられ、やがて来られる方。」(黙示録4:8) 7つの教会への言葉に続いて、ヨハネはまた声を聞いた。 その後、私は見た。すると見よ、開かれた門が天にあった。そして、ラッパのような音で私に語りかけるのが聞こえた、あの最初の声が言った。「ここに上れ。この後必ず起こることを、あなたに示そう。」(1) 似たような経験を、パウロもしている。 私はキリストにある一人の人を知っています。この人は十四年前に、第三の天にまで引き上げられまし…
「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。そのように、あなたは生ぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしは口からあなたを吐き出す。」(黙示録3:15-16) 3章では、7つの教会のうちの3つに向けて主の言葉が語られる。 7つ目のラオディキア教会に対する言葉を見てみたい。 これら7つの教会は、初代教会から現代の教会に至るまでの時代区分を表すともいわれる。 つまり、一番最後であるラオディキアは、現代の教会の姿ということになる。 この教会の特徴は、「生ぬるさ」だ。 「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、足りないものは何もないと言っ…
「けれども、あなたには責めるべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(黙示録2:4) 2章と3章は、7つの教会に向けての主のことばだ。 それらのことばは、おおよそ、次のパターンで語られている。 承認・「わたしは、あなたの〇〇を知っている」 非難・「しかしあなたには責めるべきことがある。悔い改めよ」 約束・「勝利を得る者に〇〇を与えよう」 7つの教会のうち、非難されていないのは、2番目のスミルナと6番目のフィラデルフィアだけだ。 今日は、1番目のエペソの教会へのことばを取り上げたい。 エペソは、“惜しい”教会だった。 もうちょっとで、非難されない教会になれた。 「わたしは、あなたの…
イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。(ヨハネの黙示録1:1) 昨夏から始めた新約聖書一日一章の旅も、いよいよ最後の書物、『ヨハネの黙示録』までやって来た。 あーついに来てしまったか、というのが正直なところだ。 なんせ難解な黙示録だ。 いい加減なことは書けないし、かと言って、省略するのもどうかと思うし。 マルクスの『資本論』を「寝っ転がって読む本」と言った思想家がいたが、そこまでではないにせよ、『黙示録』もあまり肩肘張らずに読んでいきたい。 わたしは牧師でもなければ…
しかし、愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。(ユダ20) 『ユダの手紙』も、一章だけの短い手紙だ。 愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。(3) 「信仰のために戦う」とは、のっぴきならない事態だ。 何があったのか? それは、ある者たちが忍び込んできたからです。彼らは不敬虔な者たちで、私たちの神の恵みを放縦に変え、唯一の支配者であり私たちの主イエス・キリストを…
あなたに書き送るべきことがたくさんありますが、墨と筆で書きたくありません。近いうちにあなたに会いたいと思います。そうしたら、直接話し合いましょう。(3ヨハネ13-14) 『ヨハネの手紙第三』も、『第二の手紙』と同じく、一章のみの短い手紙だ。 ガイオという人物に向けて、彼が兄弟たちをもてなして真理に歩んでいるのを喜んでいること、またディオテレペスという人物がかしらになりたがって教会をかき乱していることなどを、伝えている。 そして手紙の最後に書いているのが、冒頭のみことばだ。 同じような言葉は、『第二の手紙』にもあった。 あなたがたにはたくさん書くべきことがありますが、紙と墨ではしたくありません。…
だれでも、「先を行って」キリストの教えにとどまらない者は、神を持っていません。その教えにとどまる者こそ、御父も御子も持っています。(2ヨハネ9) 『ヨハネの手紙第二』は、わずか13節の短い手紙だ。 ここでヨハネは、「私たちが初めから持っていた命令」を思い起こすよう強調している。 そこで婦人よ、今あなたにお願いします。それは、新しい命令としてあなたに書くのではなく、私たちが初めから持っていた命令です。私たちは互いに愛し合いましょう。私たちが御父の命令にしたがって歩むこと、それが愛です。あなたがたが初めから聞いているように、愛のうちを歩むこと、それが命令です。(5-6) なぜこのことを確認する必要…
何事でも神のみこころにしたがって願うなら、神は聞いてくださるということ、これこそ神に対して私たちが抱いている確信です。私たちが願うことは何でも神が聞いてくださると分かるなら、私たちは、神に願い求めたことをすでに手にしていると分かります。(1ヨハネ5:14-15) このみことばは、祈りへの大いなる励ましだ。 ここで「神は聞いてくださる」「神が聞いてくださる」とくり返されている。 ヨハネは3章でも、次のように書いていた。 愛する者たち。もし自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。そして、求めるものを何でも神からいただくことができます。私たちが神の命令を守り、神に喜ばれる…
私たちは自分たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。(1ヨハネ4:16) 聖書は、分厚い。 文字数にしてどのくらいなのか、想像もつかない。 しかし、この分厚い聖書を、凝縮して凝縮して、極限まで凝縮して、ひと言にしたならば、この言葉になるだろう。 神は愛です。 地球をサイコロ大まで凝縮すると、強大な引力を持つブラックホールになると聞いた。 同じようにこの言葉は、聖書全体を凝縮した強力な力を持つみことばだ。 神を見失い、罪の中に死に、その結果、人生の意味が分からなくなった人類は、過去の長い歴史において…
このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。(1ヨハネ3:10) 2章でヨハネは「反キリスト」について書き、その流れで、3章では「神の子ども」と「悪魔の子ども」について述べている。 「神の子ども」については、こうある。 将来、キリストに似た者になる(2) 自分を清くする(3) 罪を犯さない(6) 神から生まれた(9) 神から出た(10) 兄弟を愛する(14) 祈りが聞かれる(22) これに対し、「悪魔の子ども」はこうだ。 悪魔から出た(8) 罪を犯す(8) 兄弟を愛さずに憎む(10・15)…
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