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2020/07/12

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  • 世の欲は過ぎ去ります

    世と、世の欲は過ぎ去ります。しかし、神のみこころを行う者は永遠に生き続けます。(1ヨハネ2:17) この言葉の前に、ヨハネはこう書いている。 あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はありません。すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢は、御父から出るものではなく、世から出るものだからです。(15-16) 罪は、常に「欲」から出てくる。 悪魔は、人間を支配するには「欲」というエサがもっとも効果的だと知っているのだ。 そこで、女が見ると、その木は食べるのに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそう…

  • 自分には罪がないと言うなら

    もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。(1ヨハネ1:8) 『ヨハネの手紙第一』に入った。 この手紙も“ザッと読み”で、まずは骨格をつかむ。 すると、次のような状況に対して書かれたことが、浮かび上がってくる。 罪に対する妥協 兄弟を憎むことや口先だけの愛 反キリストによる惑わし これらに対し、罪から離れること、兄弟を愛すること、反キリストを見分け警戒することを説いている。 1章はわずか10節と短いが、その内容は実に深淵だ。 私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです。(5) 「神は光」…

  • 主の忍耐は救いである

    また、私たちの主の忍耐は救いであると考えなさい。(2ペテロ3:14) ペテロは、主がまだ来臨されないのは、ひとりでも滅びることを望まれない「主の忍耐」の現れだと書いた。 主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。(9) イエスさまがなさった、たとえ話を思い出す。 99匹の安全な羊を残して、1匹の迷い出た羊を、羊飼いは探し歩くという話だ。 99匹いるのだから1匹くらい仕方ないか、とはお考えにならない。 なぜ今日、この地上にいのちがある…

  • 偽教師が現れます

    しかし、御民の中には偽預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも偽教師が現れます。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込むようになります。自分たちを買い取ってくださった主さえも否定し、自分たちの身に速やかな滅びを招くのです。(2ペテロ2:1) この2章は、「偽教師」に惑わされないようにという警告だ。 ペテロは彼らを「のろいの子」と呼び、その特徴について次のように列挙している。 主を否定する(1) 作り話をする(2) 厚かましく、栄光ある人たちをののしる(10) 知りもしないことを悪く言う(12) 昼間から飲み騒ぐ(13) 人々を誘惑し、貪欲である(14) むなしいことを大げさに語る(…

  • 召しと選びを確かなものとするように

    ですから、兄弟たち。自分たちの召しと選びを確かなものとするように、いっそう励みなさい。これらのことを行っているなら、決してつまずくことはありません。(2ペテロ1:10) 『ペテロの手紙第一』につづいて、『ペテロの手紙第二』に入る。 教会の信者たちは、信仰から離れてしまう危険があった。 ひとつは厳しい試練によって、もうひとつは偽教師たちの誤った教えによってだ。 第二の手紙は、後者に対する警告となっている。 異端的教えに惑わされて敬虔さを失い、偽教師たちの放縦に倣うことのないよう、ペテロはくり返し語っている。 愛する者たち、私はすでに二通目となる手紙を、あなたがたに書いています。これらの手紙により…

  • 神があなたがたのことを心配してくださる

    あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。(1ペテロ5:7) かつてヨブは、こう告白した。 女から生まれた人間は、その齢が短く、心乱されることで満ちています。(ヨブ14:1) また、ダビデ王はこう言っている。 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。そのほとんどは、労苦とわざわいです。(詩篇90:10) 考えてみれば、ものごころついた子どもの頃から、悩みが一つもないという時は無かった。 子どもには子どもの悩み苦しみがあり、大人には大人の悩み苦しみがある。 いまも日々、新たな悩みがあぶくのように生じ、心を疲弊させる。 ペテロは、そういう…

  • 万物の終わりが近づきました

    万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(1ペテロ4:7) 聖書ほどスケールの大きな書物は、ほかにないと思う。 なにせ「万物の終わり」について言及しているのだから。 神をかんたんに否定している現代人から見れば、大昔のたわごとのように思えるかもしれない。 しかし、ペテロは第二の手紙でも、このことについて詳しく述べている。 まず第一に、心得ておきなさい。終わりの時に、嘲る者がたちが現れて嘲り、自分たちの欲望に従いながら、こう言います。「彼の来臨の約束はどこにあるのか。父たちが眠りについた後も、すべてが創造のはじめからのままではないか。」・・・しかし、今ある天と地…

  • 祝福を受け継ぐために召された

    悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです。(1ペテロ3:9) 悪に対して悪を返さず、「キリストにある善良な生き方」を示すように努めよ、これがこの手紙の主要なテーマだ。 ただし、柔和な心で、恐れつつ、健全な良心をもって弁明しなさい。そうすれば、キリストにあるあなたがたの善良な生き方をののしっている人たちが、あなたがたを悪く言ったことを恥じるでしょう。神のみこころであるなら、悪を行って苦しみを受けるより、善を行って苦しみを受けるほうがよいのです。(15-16) わたしたちは、「祝福を受け継ぐために召された」とある。 キリストの…

  • その足跡に従うようにと

    このためにこそ、あなたがたは召されました。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残された。(1ペテロ2:21) ペテロは、試練の中にある兄弟姉妹たちに、次のように語りかけた。 異邦人の中にあって立派にふるまいなさい。そうすれば彼らがあなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたの立派な行いを目にして、神の訪れの日に神をあがめるようになります。(12) 立派にふるまうとは、どういうことか? こう続いている。 すべての制度に従う すべての人を敬う 主人に従う 不当な苦しみを耐える 意地悪な主人にも従い、不当な苦しみを耐えよと聞くと、キリスト者とはなん…

  • 私たちを新しく生まれさせ

    私たちの主イエス・キリストの父である神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。(1ペテロ1:3) 新約聖書の旅も『ペテロの手紙第一』まで来ると、いよいよ終盤が近づいてきたという気になる。 そして、いつものように全体を"ザッと読み"しながら、こう感じた。 当時の兄弟姉妹と同じような思いで読みたいものだ、と。 当時は原本やいくつかの写しが、回し読みされたり、朗読されたりしただろう。 使徒ペテロからの言葉を、皆がむさぼるように読んだ(聞いた)に違いない。 …

  • 主が来られる時まで耐え忍びなさい

    ですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は大地の貴重な実りを、初めの雨や後の雨が降るまで耐え忍んで待っています。あなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主が来られる時が近づいているからです。(ヤコブ5:7-8) 5章では、対照的な二種類の人について語られている。 ひとつは「金持ち」だ。 金持ちたちよ、よく聞きなさい。迫り来る自分たちの不幸を思って、泣き叫びなさい。あなたがたの富は腐り、あなたがたの衣は虫に食われ、あなたがたの金銀はさびています。そのさびがあなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財を蓄えた…

  • 世を愛することは神に敵対すること

    節操のない者たち。世を愛することは神に敵対することだと分からないのですか。世の友となりたいと思う者はだれでも、自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4:4) ここでいう「世」とは、「この世の神」(2コリント4:4)である悪魔が支配する世界のことだ。 わたしたちは、世の人々を愛しても、悪魔の支配する「世」を愛してはならないということだろう。 「世を愛することは神に敵対すること」であり、「自分を神の敵」とすることだと言われている。 それはつまり、完全に“悪魔の側”に立つことを意味する。 あなたがたは世も世にあるものも、愛してはいけません。もしだれかが世を愛しているなら、その人のうちに御父の愛はあり…

  • 舌を制する

    しかし、舌を制することができる人は、だれもいません。舌は休むことのない悪であり、死の毒で満ちています。(ヤコブ3:8) 3章では、「舌」「口」「ことば」が主要なテーマとなっている。 これらに関する戒めは、旧約、新約を問わず、聖書には数え切れないほどある。 それほど人間にとって大きな問題であり、処するのが難しい事柄と言えるだろう。 私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です。(2) “舌禍”という言葉がある。 昨今の政治家たちを見れば、それがいかにたやすく起きるかがわかろうというものだ。 わたしが、「『先生、先生…

  • 行いのないあなたの信仰

    しかし、「ある人には信仰があるが、ほかの人には行いがあります」と言う人がいるでしょう。行いのないあなたの信仰を私に見せてください。私は行いによって、自分の信仰をあなたに見せてあげます。(ヤコブ2:18) このみことばから、はっきり分かることがある。 「信仰の人」はかならず「行いの人」である、ということだ。 Aさんは「信仰の人」でBさんは「行いの人」、ということはないのだ。 ほんとうに「信仰の人」であるなら、その信仰はかならず行いに現れるので「行いの人」でもある。 では、その「行い」とは何か? まじめに教会に通うことか。 聖書を欠かさず読むことか。 大きな集会を企画したり、伝道に励むことか。 そ…

  • みことばを行う人

    みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません。(ヤコブ1:22) 『ヤコブの手紙』に入る。 全部で5章ということで、"ザッと読み"もしやすい。 イエスさまの肉の弟、ヤコブが著者だ。 新約聖書の他の手紙に比べても比較的早い時期のものだそうで、西暦40年代に書かれたらしい。 読者としては、ユダヤ人キリスト者が想定されている。 一読して思った。 ヘブル書が"激励の書"であるとすれば、このヤコブ書は"𠮟咤激励の書"だ。 当時の兄弟姉妹たちを信仰に歩むよう励ますことに変わりないが、ところどころ厳格な口調で語られている。 冒頭のみことばのように、信仰における「行い」を強…

  • 来たるべき都

    私たちは、いつまでも続く都をこの地上に持っているのではなく、むしろ来たるべき都を求めているのです。それなら、私たちはイエスを通して、賛美のいけにえ、御名をたたえる唇の果実を、絶えず神にささげようではありませんか。(ヘブル13:14-15) 『ヘブル人への手紙』もいよいよ最終章にきた。 最初は険しい山岳に挑むような気持ちでいたが、いざ登り始めると、新しく感動することばかりで、いつの間にかここまで来れた。 昨夏からこのブログを書き始め、あらためて聖書の奥深さ、素晴らしさに感動し続けている。 こうして発信することで、より熱心に、より注意深く、そして祈り深く聖書を読むようになった。 主が一歩ずつ手を取…

  • 訓練として耐え忍びなさい

    訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。父が訓練しない子がいるでしょうか。(ヘブル12:7) 兄弟姉妹たちは、このとき何らかの苦難に遭遇していた。 それは激しい迫害だったかもしれないことが、3・4節から推察される。 あなたがたは、罪人たちの、ご自分に対するこのような犯行を耐え忍ばれた方のことを考えなさい。あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないようにするためです。あなたがたは、罪と戦って、まだ血を流すまで抵抗したことがありません。(3-4) あるいは、経済的な問題だったかもしれないし、流行り病だったかもしれない。 いずれにせよ、辛く苦しい状況にあった。 …

  • ご自分を求める者には報いてくださる方

    信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。(ヘブル11:6) 11章は、「信仰の章」としてよく知られる。 「信仰者列伝」ともいうべきすばらしい章で、数々の信仰者たちが列挙され、彼らの信仰に倣おうではないかという励ましのことばとなっている。 天地創造から始め、アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ・・・と、ていねいに時系列で述べられている。 著者はきっと、学者肌の几帳面な人だったのだろう。 さらに、「信仰によって」(英語では「by fa…

  • 私たちは聖なるもの

    このみこころにしたがって、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけ献げられたことにより、私たちは聖なるものとされています。(ヘブル10:10) 10章でも引き続き、キリストの救いの完全性が説かれる。 律法には来たるべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることができません。それができたのなら、礼拝する人たちは一度できよめられて、もはや罪を意識することがなくなるので、いけにえを献げることは終わったはずです。(1-2) ここに書いてあるのは、キリスト以前、すなわち律法の支配下にある時代のことだ。 ここか…

  • ご自分をいけにえとして

    しかし今、キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(ヘブル9:26) 前章で、モーセの律法によるものは本物の模型であったことにふれたが、9章にははっきりとそう書いてある。 キリストは、本物の模型にすぎない、人の手で造られた聖所に入られたのではなく、天そのものに入られたのです。そして今、私たちのために神の御前に現れてくださいます。(24) キリストは本物の大祭司であり、完全な救いを成し遂げられた。 なぜ完全と言えるかといえば、この方が「ご自分をいけにえとして」献げられたからだ。 雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかける…

  • よりすぐれた契約の仲介者

    しかし今、この大祭司は、よりすぐれた契約の仲介者であるだけに、その分、はるかにすぐれた奉仕を得ておられます。その契約は、よりすぐれた約束に基づいて制定されたものです。(ヘブル8:6) ここに、「よりすぐれた契約」「はるかにすぐれた奉仕」「よりすぐれた約束」と、立て続けに同じ表現が出てくる。 これらは、ヘブル書に特徴的な表現でもある。 なぜ、「よりすぐれた」ものと言えるのか? それは、イエス・キリストによる救いは"本物”であるからだ。 この方は天におられる大いなる方の御座の右に座し、人間によってではなく、主によって設けられた、まことの幕屋、聖所で仕えておられます。(1-2) それまでのものが、偽…

  • まさに必要な方

    このような方、敬虔で、悪も汚れもなく、罪人から離され、また天よりも高く上げられた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方です。(ヘブル7:26) ヘブル書の著者は、5章で次にように書いていた。 このメルキゼデクについて、私たちには話すことがたくさんありますが、説き明かすことは困難です。あなたがたが、聞くことに対して鈍くなっているからです。(ヘブル5:11) 5章ですでに、キリストの大祭司職が、メルキゼデクに比することができるくらい特別なものであることが示されていた。 7章で、再度そのテーマに踏み込んでいく。 メルキゼデクについて、著者は次のことを列挙している。 アブラハムを出迎えて祝福した。(…

  • 力強い励ましを受けるため

    それは、前に置かれている希望を捕らえようとして逃れて来た私たちが、約束と誓いという変わらない二つのものによって、力強い励ましを受けるためです。その二つについて、神が偽ることはありません。(ヘブル6:18) 1章のところでも書いたが、『ヘブル人への手紙』は"励ましの書"だ。 信仰の道を踏み外すことなく最後まで歩み通し、約束の地にまで進もうではないか、という励ましの言葉で満ちている。 上の聖句には、「力強い励まし」という、ヘブル書のテーマそのものの言葉がある。 その「力強い励まし」の根拠は、「約束と誓いという変わらない二つのもの」、すなわち神のみことばだ。 これもまた、ヘブル書の基本的スタンスだ。…

  • 苦しみによって従順を学び

    キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、メルキゼデクの例に倣い、神によって大祭司と呼ばれました。(ヘブル5:8-10) 4章では、「神の子イエスという偉大な大祭司」(ヘブル4:14)がおられるのだから、「大胆に恵みの御座に近づこう」(同16)と、著者は語りかけた。 5章ではさらに、この方はふつうの大祭司ではなく、「メルキゼデク」に比するほどの偉大な大祭司だと示している。 その偉大な大祭司は、「涙」と「苦しみ」の人でもあった。 7節には、こうある。 キリストは、肉体をもって生きている間、自分を…

  • 大胆に恵みの御座に近づこう

    私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。(ヘブル4:15-16) 4章の冒頭で著者は、次のように書いた。 こういうわけで、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。神の安息に入るための約束がまだ残っているのに、あなたがたのうちのだれかが、そこに入れなかったということのないようにしましょう。(1) ここでいう「恐れる心」とは、不信仰のゆえに神の安息に入れないこと…

  • 心を頑なにしてはならない

    ですから、聖霊が言われるとおりです。「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない。荒野での試みの日に神に逆らったときのように。」(ヘブル3:7-8) 『ヘブル人への手紙』の特徴は、聖書(旧約聖書)からの引用が多いことだ。 ユダヤ人読者を想定しているので、聖書にある先祖の話は知っているものとして書かれている。 その良い例、悪い例、それぞれから学び、いまを生きる教訓にしようというスタンスだ。 そしてこの3章では、"悪い例"が扱われる。 「あなたがたの先祖はそこでわたしを試み、わたしを試し、四十年の間、わたしのわざを見た。だから、わたしはその世代に憤って言った。『彼らは常に心が迷…

  • こんなにすばらしい救い

    御使いたちを通して語られたみことばに効力があり、すべての違反と不従順が当然の処罰を受けたのなら、こんなにすばらしい救いをないがしろにした場合、私たちはどうして処罰を逃れることができるでしょう。この救いは、初めに主によって語られ、それを聞いた人たちが確かなものとして私たちに示したものです。(ヘブル2:2-3) ヘブル書の著者は、2章のはじめに次のように書いた。 こういうわけで、私たちは聞いたことを、ますますしっかりと心に留め、押し流されないようにしなければなりません。(1) わたしたちは、「押し流され」、「こんなにすばらしい救いをないがしろに」する可能性がある。 恐ろしいことだ。 だからこそそう…

  • 御使いよりもすぐれた方

    御子が受け継いだ御名は、御使いたちの名よりもすばらしく、それだけ御使いよりもすぐれた方となられました。(ヘブル1:4) 今回から、『ヘブル人への手紙』に入る。 『ローマ人への手紙』のときと同じような、ある種の緊張感がある。 居ずまいを正されるというか、心して読もうという気にさせられる。 山で言えば、ローマ書が奥穂高岳なら、ヘブル書は槍ヶ岳、といったところだ(わかる人にしかわからないが)。 いつものように、全体を"ザッと読み"してみた。 やはり"ザッと読み"はいい。 著者の思いが、浮かび上がってくる。 一読して強く感じるのは、この手紙は"励ましの書"だということだ。 著者が誰であるかは、判明して…

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