兵庫県加古川市在住の歴史愛好家がボランティアで歴史ガイドを行っております。過去のガイド書を公開しております。 ロマンと風情溢れる加古川の歴史を“風化”させない、そのための一助としたいため、たくさんの方々に楽しんで頂ければ幸いです。
「加古川小学校」の前身は、検番筋に存在した!(1) 学制が公布(明治5年)された6年後(明治11年)、寺家町144番地に「麑げい松しょう小学校」が誕生した。(粟津・北在家・平野・加古川町・木村・稲屋・
茜はまたまた驚いて、ちょっと使っただけの一の糸をなぜ捨てるのか?と徳兵衛に訊ねる。「一の糸は、いじったらすぐに替えないかんのや。三の糸が切れたら二の糸で代わって弾くことが出来る。二の糸が切れても一の
〜春秋を織りなし、おろち伝説が今なお息づく播磨の名刹〜 昔、龍泉寺は、寺家町字蔵屋敷、今のニッケパークタウンの辺りにありました。この付近には大蛇が棲む大池があり、里人は毎年人身御供を行っていました。あ
賀古泊(かこのとまり)の守護神『泊神社』 その由緒と歴史を訪ねて
『私たちが小さい頃には、隋ずい神門しんもん(神門)南側の「泊川」は水量も多かったし、水もきれいでしたから、夏になると、子供たちはみんな泳いでいました。隋神門のちょうど前あたり、川べりには、川の中まで
薬王山 常住寺因みに新宮十郎行家の腰かけたる松は所謂、初代鹿児の松にて、松の高さ三丈二尺(9.7m)、太さ三丈一尺(9.4m)東西二十一間(38m)南北十八間(32m)の巨木なりしと云う。(加古郡誌よ
春日神社 由緒
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