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五郎のロマンチック歴史街道 https://rekishigoro.amebaownd.com/

兵庫県加古川市在住の歴史愛好家がボランティアで歴史ガイドを行っております。過去のガイド書を公開しております。 ロマンと風情溢れる加古川の歴史を“風化”させない、そのための一助としたいため、たくさんの方々に楽しんで頂ければ幸いです。

五郎
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2020/06/09

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  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第八部

    このガイド書にピリオドを打つ壮烈にして悲壮な戦いとして、「サラクサク峠」での戦闘の要旨を紹介してみたいと考える。聯隊の歴史を閉じることになった「サラクサク峠」での邀撃(「迎撃」の意)物量を誇り、最新鋭

  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第七部

    徐州会戦 大閘(たいこう)の戦闘攻撃部隊である第1大隊は、5月15日午前9時ごろ「大閘」に向かい前進した。約300の敵は、我が右翼第3中隊を包囲するように攻勢に転じ、第2中隊もまた優勢な敵の攻撃を受け

  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第六部

    支那事変勃発昭和12年7月7日、情勢の緊迫していた北支に、「盧溝橋事件」が起きた。この事件の解決のために、当時の軍中央部には、積極解決派、と慎重不拡大派の二潮流があったが、全般的には政府の方針通り、拡

  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第五部

    満州事変の勃発 国際連盟脱退1931年(昭和6年)9月18日午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道線路上で爆発が起きた。現場は、3年前の「張作霖爆殺事件」の現場から、わずか

  • 父が他界しました。

    五郎のロマンチック歴史街道を読んでいてくれている皆さん、いつもありがとうございます。実はこのブログは海外に住む娘の紀子が、父・五郎の歴史資料をもとにアップデートしています。父は2017年の4月に膵臓癌

  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第四部

    沙河会戦での「三塊石山」大夜襲沙河会戦での「三塊石山」大夜襲の決行~「血染めの軍旗」由縁の戦い~明治37年9月下旬ころから、ロシア軍の行動は、逐次活気を呈してきた。特に、我が第1軍の右翼方面に対する動

  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第3部

    日露戦争勃発と遼陽会戦日露戦争勃発と第39聯隊日露戦争は、当時としてはまさに古今未曽有の大戦争であった。前述の沙河会戦当時、米国の有名なトリビューン紙は、「この会戦は、その兵力の莫大なる点において、お

  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第二部

    創設と軍旗授与第三十九聯隊の創設[軍旗授与]明治29年7月、39聯隊の位置は、姫路と定められた。この年の11月、姫路城三の丸内の歩兵第10聯隊の兵営内に歩兵第39聯隊と第1大隊本部が開設された。徴兵対

  • 姫路歩兵第三十九聯隊 第一部

    百二十一年の春秋を経た今も尚英霊とともに生き続ける“血染めの軍旗”はじめに歩兵第39聯隊は、明治31年姫路)白鷺城下に創設されて以来、ほぼ半世紀にわたって、日露戦争、満州事変、支那事変、更には大東亜

  • 維新列伝 激動の時代を 駆け抜けた風雲児・鳥尾小弥太(とりおこやた)

    子爵にまで上り詰めた小弥太は、ある日、父の面影を偲ぶため、加古川・光念寺に墓参した。 父は、加古川の菊屋という旅館で志半ばで逝った。父の最後を看取ったという、今は年老いた当時の女将に会い臨終の様子をつ

  • 平野庸脩

    四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、地詩『播磨鑑』を大成した、加古川が生んだ稀代の偉人 「播磨鑑」は、江戸時代に平野庸脩が著した播磨国の一大地詩である。庸脩は播磨国印南郡平津村(現在の加古川市米

  • 腹切り地蔵

    志方町山中地区の伝説四百五十年を経た今もなお、お参りが絶えないと云われる伝説のお地蔵様‥。三木城落城にまつわる、一武士の悲劇に心を寄せ続けてきた村人の慈悲心が現代においても連綿と引き継がれていることに

  • 加古川町友沢 壽願寺(じゅがんじ)

    フジバカマ…その乾燥葉の、桜餅にも似た香しき匂いに誘われ優美に舞い降りる“アサギマダラ”錦秋の友沢には、そんな風情を醸し出す古刹があります。

  • 本町・唐人、薬師堂

    因縁ニテ此処迄上リシャ委細ヲ知ル者ナシまことに、そのオランダ人いかなる因縁で この地まで到来したか、委細知る者はなし。 七百五十年…悠久の歴史を刻んだ『唐人(とうじん)薬師堂』も今は昔。(平成18年

  • 清田藍卿(きよたらんけい)

    江戸中期、当地「寺家町」には志方の玉田黙翁とともに加古川を代表する稀代の教育者がいた。その師は仁と礼を尊ぶ偉人でもあった。

  • 重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史3

    重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史1の続きです。重巡洋艦「衣笠」乗組員が目の当たりに見た「加古」の最期第一次ソロモン海戦において、「加古」とともに戦闘に加わった、重巡洋艦「衣笠」。その艦に、当時17

  • 重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史2

    前回の続きです。「加古」元信号員による沈没時体験談加古乗組員で、信号員であった石上民夫さんは、ご高齢また、体調不良等で、残念ながら慰霊祭にはご出席戴けなかった。そこで、事前に神戸新聞社・記者が、氏のお

  • 重巡洋艦『加古』その栄光と殉難の歴史1

    加古川ゆかりの帝国海軍軍艦 遙か南の洋上より、艦内神社を通じて、加古川と日岡神社に思いを馳せた乗組員、そして全ての戦没者に鎮魂の誠を捧げる。

  • あまねく衆生の安寧を願い続ける 平野・胴切れ地蔵

    『無礼者!』供侍が激昂するや否や、横一文字に空を切った刃は、不覚にも参勤交代の行列を横切った一町人の胴を瞬時のうちに一刀両断にした。「無礼討ち」であった。しかし…、である。その若者は一時の後に目を覚ま

  • 加古川地蔵尊

    為 河川犠牲者追善供養 真紅のペチュニアに囲まれた地蔵尊を訪れた7月17日、“私がこのお地蔵さんの涎掛けを作っているんですよ”という女性に偶然にもお会いすることが出来た。米田町に住む彼女の話では、これ

  • 『播磨鑑』(はりまかがみ)平野庸脩

    四十数年をかけて、播州をくまなく調査し、地詩『播磨鑑』を大成した、加古川が生んだ稀代の偉人、平野庸脩「播磨鑑」は、江戸時代に平野庸脩が著した播磨国の一大地詩である。庸脩は播磨国印南郡平津村(現在の加

  • 加古川町寺家町 大将軍堂 時を超え、今なお地域の人々に崇められる、ミステリアスなお堂 大将軍堂

    『大将軍堂』は、寺家町字山之内に在って、大将軍は、暦塞の方位を掌る神(方位の守護神)で、首楞嚴経(しゅりょうごんきょう・八世紀における中国の書物)註に「上天大将軍は天帝(帝釈天・仏教を守護する神)を

  • クラシカルな佇まいの中匂い立つ昭和レトロのかほり 篠原・准田(わいだ)邸

    JR加古川駅南玄関口より高架沿いの歩道を西へ約200m。そこに、ひときわ目を引く和洋折衷のクラシカルな建物がある…。淮田邸である。以前より、その由緒について気になっていたところ、つい先日、幸運にも、ご

  • 大川町寺家町 弘法大師堂

    疫病蔓延を憂い、その終息を祈願する為大師堂建立に奔走した熱き四名の住人がこの地にいた。。 国道2号線の大川町信号北側直近の住宅道路沿いに、約八坪余りの瀟洒なお堂がある。以前より、その縁起について気にな

  • 懐かしの活動写真館シリーズ【最終回】興栄ビル(加古川興行<株>)

    イオンシネマに先んずること十八年前。この加古川で“マルチプレックスシネマ”の原型が誕生した。 これは、映画復権を夢に見た一経営者が“起死回生”を図った回想録でもある。興栄ビル(加古川興行<株>)~加

  • 懐かしの活動写真館シリーズ【2】加古川映画劇場

    昭和5年、加古川駅前の「大成座」から「新興座」に改称された頃、本町・雁南川のたもとには、芝居小屋「加古川劇場」があった。加古川映画劇場 「映画館名簿」によると、昭和27.28年当時までは「加古川劇場

  • 懐かしの活動写真館シリーズ【3】新興座と新興会館

    昭和7年(1932)、倉谷清太郎氏の手に移り、改造を加えて「新興座」となり、旭倶楽部とともに活動写真館となった。この館で上映された「青い山脈」や「君の名は」は超満員だったという。

  • 加古川市立加古川図書館

    ~その生い立ちと歴史を探訪~“加古川町の川まつりは、俄然近づくにつれて人氣沸騰し種々な催し物が豫想よそうされてゐるが搗かてて加えて本年は待望の公會堂の新築落成式を兼ねてゐるので一層の好況を見せるで

  • 篠原地蔵尊(北向き地蔵)

    地域に密着、霊験あらたかな篠原地蔵尊 後世に名と体を遺す歴史であったとしても、結局は人々が日々織りなす何気ない日常の営みの中で生まれるものであり、この史実も決してその例外ではない。今から306年前、宝

  • 続・懐かしの活動写真館シリーズ【1】

    夢と憧れが詰まった少年期の原風景・・・映画館私が映画に傾倒しだしたのは、たしか中学生後半頃からだと思う‥。当時、「旭倶楽部」では主に洋画を上映していた。

  • 懐かしの活動写真館シリーズ【1】旭倶楽部

    私たちが幼いころ、親世代は、それを“活動写真”と呼んでいた。 昭和30年から40年代、私たち団塊の世代に夢と憧れを与えてくれたのは、“娯楽の殿堂”「映画館」であった。昭和21年から昭和40年代前半に

  • 消えゆく町 加古川”検番筋”長老たちの古き懐かしき時代証言

    「加古川小学校」の前身は、検番筋に存在した!(1) 学制が公布(明治5年)された6年後(明治11年)、寺家町144番地に「麑げい松しょう小学校」が誕生した。(粟津・北在家・平野・加古川町・木村・稲屋・

  • 稀代の文楽三味線弾き「豊澤團平」その芸道と愛の軌跡

    茜はまたまた驚いて、ちょっと使っただけの一の糸をなぜ捨てるのか?と徳兵衛に訊ねる。「一の糸は、いじったらすぐに替えないかんのや。三の糸が切れたら二の糸で代わって弾くことが出来る。二の糸が切れても一の

  • 加古川町平野 龍泉寺

    〜春秋を織りなし、おろち伝説が今なお息づく播磨の名刹〜 昔、龍泉寺は、寺家町字蔵屋敷、今のニッケパークタウンの辺りにありました。この付近には大蛇が棲む大池があり、里人は毎年人身御供を行っていました。あ

  • 賀古泊(かこのとまり)の守護神『泊神社』 その由緒と歴史を訪ねて

    『私たちが小さい頃には、隋ずい神門しんもん(神門)南側の「泊川」は水量も多かったし、水もきれいでしたから、夏になると、子供たちはみんな泳いでいました。隋神門のちょうど前あたり、川べりには、川の中まで

  • 霊松『鹿児の松』とともに歴史を刻み続ける薬王山常住寺

    薬王山 常住寺因みに新宮十郎行家の腰かけたる松は所謂、初代鹿児の松にて、松の高さ三丈二尺(9.7m)、太さ三丈一尺(9.4m)東西二十一間(38m)南北十八間(32m)の巨木なりしと云う。(加古郡誌よ

  • 御仏の慈悲に、本堂修復でご恩返し 福林寺

    光陰を超え、今に息づく五郎兵衛さんの心意気

  • 明治天皇と”樹悳堂” 陣屋、その栄光の歴史

    明治天皇御巡幸に際しては千古未曾有の御巡幸とて、沿道を清掃し、本道並びに横道通行を差し止め御通輦(れん)の際は二階または高所にあることを厳禁され、藩治時代にその風習があったこととて店先にゴザを敷き、合

  • 決断なき原爆投下 ~米大統領71年目の真実~

    編者 まえがき“原爆投下は全く正当なものだ、と大半のアメリカ人が答えている。しかも、日本本土に侵攻していたら、失われたであろう非常に多くの、それも100万人の命が、原爆投下によって回避できた、という

  • 特攻中継基地『加古川飛行場』と兵士たちの安らぎの場となった旧中村旅館の物語

    『さぞ淋しかったでせう。今こそ大聲で呼ばせていただきます。お母さん、お母さん、お母さん…と。』(特攻隊員の遺書より) 第5次航空総攻撃は、初めて加古川で編成された。この目的は敵艦船を徹底的に攻撃して

  • 加古川改修記念碑にみる加古川…その豊かな恵みと氾濫、改修の歴史

    1.河川・流域のあらまし 加古川は、その源流を兵庫県朝来郡山東町と丹波市青垣町の境界にある粟鹿山(標高962メートル)に発し、丹波市山南町において篠山川を合わせ、西脇市においては杉原川と野間川を、小野

  • 加古川城主、糟谷武則:その栄枯衰退の歴史

    糟谷氏の家紋:三盛り左三つ巴 糟谷武則は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名で12代目加古川城主。生誕や死没年月は不明。糟谷氏は、播磨加古川城を拠点に、鎌倉時代から続く武家で、武則は、三木

  • 風化して久しい“海城”高砂之城。 謎に満ちた歴史秘話を追ってみる。

    高砂城を攻略した秀吉軍に完勝した毛利水軍であったが、不可解にも進軍もせず、また高砂に留まることもなく帰国の途に就いた…。

  • 【加古川銀行】境界石が語る石造西洋建築

    本町2丁目の表通り…高砂コンピューターさん前の東角に郵便ポストがあるが、その足元に、よほど注意して見ないと気付かない“郵政”と彫られた境界石が、遠慮がちにひっそりとたたずんでいる。

  • 日本初の鉄道開設と、西日本鉄道網の整備開通

    1. 日本初の鉄道開設(開業) 日本の鉄道は明治5年9月12日(1872年10月14日)に、新橋駅-横浜駅間で正式開業した。ただし、実際にはその数か月前から品川駅-横浜駅間で仮営業が行われていた。鉄道

  • 勉学と商工の発展を祈願するお社 栗津神社

    加古川町栗津 栗津神社 当神社の『権禰宜(ごんねぎ)』を務める田中氏の言葉を思い浮かべながら、ペダルは、粟津神社へと向かう。ススキの穂先に季節感を感じるにはまだ早いが、今夜は中秋の名月…。見上げる

  • 三つの「間」が失われている近年の子供達

    近年の子供たちの遊びには、三つの「間」が失われているという。即ち「時間」「空間」「仲間」である…。 愛する我が郷土・本町二丁目の近世を訪ねて激動の明治、大正、昭和を懸命に生き抜いた先人の確かな足どり、

  • 賀古川宿 繁栄と終焉の歴史ヒストリア

    五百年余りに亘り春秋を織り成した宿駅 弘安2年(1322)3月12日、隠岐の島に流される後醍醐天皇が『賀古川宿』に泊まる。(常住寺または播磨守護所と思われる。)

  • 加古川の古き良き江戸期から大正期のレトロな家々

    西国ロマンチック街道 賀古川宿現存する古き良き時代の面影を楽しみながら、ゆったりと散策してみませんか? 1,700年台の前半(寛永期)に、最も華やいだ宿場町があった。寺家村、加古川村(寺家町・本町)

  • 昔のこども達。貧しいながらに毎日が輝いていた。

    本町二丁目 長老たちの少年時代(開戦当時前後)去る8月の或る日、「ひだまり会館」で当町の長老三名の方(男性)にいろいろお話を伺う機会を得た。その概要は以下の通り。 『当時は、西谷さんの西隣が空き地で

  • 野口城落城ノ記

    三木城攻略の緒戦において大敗した秀吉軍は支城から順次攻め落とし、三木城を無援の孤城とすることに戦略を変更した…。 天正六年二月の毛利攻めの軍議(加古川評定)で、別所側が秀吉に反旗を翻したことが発端と

  • 御着城の戦い(姫路市)

    中ニモ原小五郎ハ名誉ノ射手ニテ羽柴の瓢箪馬印ニ當ル矢ヲ秀吉取ラセ見給フニ原小五郎と姓名ヲ書付たる矢多数アリ寄手ノ人々其弓勢ヲ誉メニケリ…。(播磨鑑)御国野(みくにの)町御着春まだ浅き二月ではあったが

  • 『志方城』その成立と崩壊のミステリー

    『あなおもしろ、鹿田と名付けまし』志方の地名については、神功皇后が三韓征伐に行かれた時にこの地に上陸され、今の宮山に登られ、たくさんの野鹿が遊び戯れているのをご覧になり、『あなおもしろ、鹿田と名付けま

  • 播磨の名刹 野口町念佛山『教信寺』

    千二百年にわたり教信上人の威徳を語り伝え今なお衆人とともに歩み続ける・・

  • 俳諧宗匠・栗本青蘿 その数奇な運命と栄光の歴史

    ~加古川・光念寺と青蘿~

  • 神吉合戦ノ記 〜神吉勢二千対織田勢三万〜

    彼我の差は悲劇的ではあったが、神吉勢は勇猛果敢に戦い、天命としてその結末を受け入れた天正五年(1577)秀吉は、加古川・加須屋の館(加古川城)にて毛利討伐の為、播磨諸城主を集め軍議を開いたが、決裂し、

  • 加古川駅 写真で綴る127年の軌跡

    加古川駅が産声を上げた明治二十一年。三ケ月間の利用客数は上等、中等併せて平均四人、下等にあっても百七十一人で、合計一日当たり僅か百七十五人に過ぎなかった。加古川市統計書によると、2014年度の1日あ

  • ニッケ加古川社宅倶楽部 今に留めるニッケのパイオニア精神

    “先取の気概”に宿る“和魂洋才”と“モダンセンス”

  • 昭和レトロが醸し出す過ぎし日へのノスタルジー『宝湯』

    コーヒー10銭、たばこ7銭、はがき1銭5厘…。ウォール街での株価暴落が契機となって世界大恐慌へと発展し、大量失業時代を迎えた昭和4年…。“大学は出たけれど…”そんな言葉の流行った暗い世相のさ中に、“宝

  • 奉天会戦 知られざる一兵士の歴史

    元・姫路歩兵第三十九聯隊歩兵一等卒 西田常次氏・顕彰モニュメント建立から八十七年を経た今、声なき顕彰碑が語る「沙河会戦、奉天会戦」‥武勲を称える碑文の行間に刻まれた殉難者の悲痛な思いに心を寄せ、以て

  • メディア紹介

    メディア紹介 - 新聞、Yahooニュース等メディアに紹介されました。「戦争を知らない世代」が語る戦争体験 渡邊五郎さんが伝える「想像力」とは (Yahooニュースページのウィンドウが開きます)加古川

  • 著者五郎について

    著者五郎について - みなさん、こんにちは。ランチも終えて、やっと一息つける昼下がり‥それは、くつろぎの“ティータイム”ですね‥。そんな時、カップ片手に、ほんの少しだけでも、ブログ「五郎のロマンチッ

  • 干殺しではなかった?三木城陥落の真偽

    加古川の支流である美嚢川が大きく蛇行した三木市の中心部、「上の丸公園」に三木城跡がある。羽柴秀吉の大軍を一歩も寄せ付けず、二年近くも籠城して守った天下の要塞であったが、今は本丸跡の天守台に建つ最後の城

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