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FORZAさんの新着記事

1件〜30件

  • アメリカ独立革命はなぜ、どこが革命なのか?

    アメリカ独立革命はなぜ、どこが革命なのか?ピューリタン革命とアメリカ独立革命との違いは?アメリカ独立革命「代表なくして課税なし」という言葉の意味が重要。植民地から「代表」を本国議会に送っていない、ということよりも、当時の本国議会が特権階級によって構成されている、という点に着目する。すると、植民地人は特権階級には属していない人々だということがわかるのは特権階級に属さない13州のイギリス系白人が本国特権階級の支配を排除した後に、民主的手続きを経て政府を樹立した。という「革命性」が見えてくる。限界は白人男性だけが政権を担えたこと。イギリス革命特権階級の分裂によって絶対王政を打倒した。しかし、特権階級が政権を担い続けた。イギリスの場合、産業革命が特権階級を打破する契機となった。このことから、革命には二通りの見方ができる...アメリカ独立革命はなぜ、どこが革命なのか?

  • 2016年上智大学TEAP(改)中南米©植民地の特徴

    設問3先住民が狩猟・採集にもとづいて部族単位で分散的に生活していたことが後のイギリス領13植民地の構造に影響を与えた。彼らを強制的に外部に排除することによって獲得した土地を自営農民や農場主をめざす白人入植者に分配することが選択された。一方、メキシコとアンデス高原を中心とするスペイン領ラテンアメリカでは,13植民地と対照的な社会構造が形成された。下の表を参考にしながら、その理由について,具体的な歴史上の事実を補足しながら,350字以内で論じなさい。【設計】①西領ラテンアメリカの社会構造が形成された理由。対照的であるように記述したい。200字②その社会構造が形成されるに至った具体的的な歴史上の事実。150字【解答のキーワード】②コルテスとアステカ帝国/ピサロのインカ帝国/ポトシ銀山とサカテカス銀山の開発とインディオ...2016年上智大学TEAP(改)中南米©植民地の特徴

  • 農業革命

    農業革命

  • 東インド会社の歴史

    東インド会社の歴史

  • 19世紀前半のイギリス社会の変革

    19世紀前半のイギリス社会の変革

  • エネルギー革命・動力革命・交通革命

    エネルギー革命・動力革命・交通革命

  • 2000年東京大学本試第1問(改)啓蒙思想家がみた18世紀の清

    第1問(改)大航海時代以降,アジアに関する詳しい情報がヨーロッパにもたらされると,特に18世紀フランスの知識人たちの間では,東方の大国である中国に対する関心が高まった。以下に示すように,中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は,称賛もあり批判もあり,様々だった。彼らは中国を鏡として自国の問題点を認識したのであり,中国評価は彼らの社会思想と深く結びついている。儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし,愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。(略)四千年来,中国の識者は,最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて,彼らこそが,生まれながらに,自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。(略)ヨーロッパでは,凡庸な宰相...2000年東京大学本試第1問(改)啓蒙思想家がみた18世紀の清

  • 清末の改革運動

    清末の改革運動

  • 唐の統治体制

    唐の統治体制

  • 清の領域統治体制

    清の領域統治体制

  • 2007年東京大学本試第1問(改)中国農業の変化と意義

    古来,世界の大多数の地域で,農業は人間の生命維持のために基礎食糧を提供してきた。それゆえ,農業生産の変動は,人口の増減と密接に連動した。耕地の拡大,農法の改良,新作物の伝播などは,人口成長の前提をなすと同時に,やがて商品作物栽培や工業化を促し,分業発展と経済成長の原動力にもなった。しかしその反面,凶作による飢饉は,世界各地にたびたび危機をもたらした。以上の論点をふまえて,ほぼ11世紀から19世紀までに生じた中国における農業生産の変化とその意義を240字以内で述べなさい。下記の4つの語句を必ず一回は用いたうえで,その語句の部分に下線を付しなさい。 湖広熟すれば天下足るトウモロコシアンデス占城稲【設計】1.農業生産の変化(120字):宋代は長江下流域が占城稲が普及して穀倉地帯。湖田・囲田の技術改革で生産力向上。明代...2007年東京大学本試第1問(改)中国農業の変化と意義

  • 2000年東京大学本試 啓蒙思想

    大航海時代以降,アジアに関する詳しい情報がヨーロッパにもたらされると,特に18世紀フランスの知識人たちの間では,東方の大国である中国に対する関心が高まった。以下に示すように,中国の思想や社会制度に対する彼らの評価は,称賛もあり批判もあり,様々だった。彼らは中国を鏡として自国の問題点を認識したのであり,中国評価は彼らの社会思想と深く結びついている。儒教は実に称賛に価する。儒教には迷信もないし,愚劣な伝説もない。また道理や自然を侮辱する教理もない。(略)四千年来,中国の識者は,最も単純な信仰を最善のものと考えてきた。(ヴォルテール)ヨーロッパ諸国の政府においては一つの階級が存在していて,彼らこそが,生まれながらに,自身の道徳的資質とは無関係に優越した地位をもっているのだ。(略)ヨーロッパでは,凡庸な宰相,無知な役人...2000年東京大学本試啓蒙思想

  • 1995年一橋大学本試第1問 30年戦争

    ドイツを舞台とする宗教戦争としてはじまった三十年戦争は、ドイツに政治的利害と領土的野心をもつフランスとスウェーデンなどの介入をまねき、多数のヨーロッパ諸国が関与する戦争となった。また、その講和会議はヨーロッパ最初の国際会議とされる。以上のような点に留意しながら、三十年戦争の結果と、それが後のドイツに及ぼした影響について述べなさい(400字)。【字数配分設計】1.30年戦争の結果(200字):経過を書く必要はない。またドイツ以外の影響も結果として書ける。条約の内容についてはアウグスブルクの和議の再確認すなわち領邦教会制が確立した。これにより教皇権や公会議の権威が及ばない主権国家が成立しそれらが国際法によって関係づけられた主権国家体制が成立した。ドイツ社会の荒廃。ハンザ同盟に代わってスウェーデン王国がバルト海沿岸地...1995年一橋大学本試第1問30年戦争

  • 2006年東京大学本試(改)第1問30年戦争の助長と抑止

    近代以降のヨーロッパでは主権国家が誕生し,民主主義が成長した反面,各地で戦争が多発するという一見矛盾した傾向が見られた。それは,国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし,対外戦争を支える国内的基盤を強化したためであった。他方,国際法を制定したり,国際機関を設立することによって戦争の勃発を防ぐ努力もなされた。このように戦争を助長したり,あるいは戦争を抑制したりする傾向が,三十年戦争ではどのように現れたのかについて150字以内で説明しなさい。その際に,以下の2つの語句を必ず一度は用い,その語句の部分に下線を付しなさい。ウェストファリア条約『戦争と平和の法』【問われている2点】1.戦争を「助長」する傾向(75字):国内社会の民主化が国民意識の高揚をもたらし,対外戦争を支える国内的基盤を強化。2.戦争を「抑制」する傾...2006年東京大学本試(改)第1問30年戦争の助長と抑止

  • 問題:2004年一橋大学本試(改)第1問宗教改革の帰結

    第1問宗教改革は,ルターにより神学上の議論として始められたが,その影響は広範囲に及び,近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした。ドイツにおける宗教改革の経緯とその政治的帰結について述べなさい。その際,次の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(200字以内)アウグスブルクの和議【問題のテーマ】ドイツにおける宗教改革の経緯(100字)その政治的帰結(100字)【考え方】1.経緯についてどこまで書くかを考える。30年戦争まで考えるとドイツをテーマとした宗教改革とは言えないだろう。なぜなら国際戦争の様相が強いから。したがって1555年アウグスブルクの和議までを記述する。2.「政治的帰結」とあるの。要求は「帰結」すなわち「たどり着いたところ」を答えるので、リード文に「近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割」...問題:2004年一橋大学本試(改)第1問宗教改革の帰結

  • 西欧哲学の系譜

    西欧哲学の系譜

  • 前5~4世紀のギリシア史

    前5~4世紀のギリシア史(1)ペリクレス時代①時期②建築③前451年①前5世紀中頃②パルテノン神殿を再建③市民権法を制定(2)アテネ民主制の完成①最高議決機関②参加者③政治指導者①民会②18歳以上男子市民全員③ペリクレス(3)アテネの官職①選出方法②任期③給料①抽選②1年間で再任は禁止③有給(4)アテネの民主政治の特徴①制度②制限③権力①代議制ではなく直接民主制②女性、在留外人、奴隷には参政権がない③3権分立の思想はない(5)パルテノン神殿①再建者②設計者③建築様式①ペリクレス②フィディアス③ドーリア式(6)デロス同盟①最初の本部②移動先の本部③目的①デロス島②アテネ③アケメネス朝ペルシアの再攻撃に備える軍事同盟(7)3大悲劇作家①アガメムノン②オイディプス③リディア①アイスキュロス②ソフォクレス③エウリピデス...前5~4世紀のギリシア史

  • イオニア哲学

    自然は古代の人々にとって不可解で恐ろしいものでした。自然を【神】として祭ることで、その恐ろしさを収めようとしたことでしょう。神すなわち宗教で自然を理解使用としたわけです。【前6】世紀の【イオニア】地方【ミレトス】の【タレス】は、自然は元をただせば何からできているのかを「思索」しました。彼はすべてのものの根源を「【水】」としました。彼に続いて多くの人々が「万物の根源は何か」と思索しています。この自然に関する思索を「【自然哲学】」とよび、最終的には【デモクリトス】は「万物の根源は【アトム】(原子)」であると考えています。なお、タレスは前585年の【日食】を予言しています。【ソクラテス】・【プラトン】・【アリストテレス】に代表される「ギリシア哲学」はイオニアの「自然哲学」とは扱ったテーマが違います。先の3人は「良く生...イオニア哲学

  • ギリシア哲学を概観する

    前6世紀初、小アジアのイオニアのミレトスを中心に、自然の本質を合理的に探ろうとする自然哲学が成立した。前585の日食を予言したとされるタレスや、「万物は流転する」の言葉を残したヘラクレイトスらがイオニア自然哲学を代表する。一方、アテネにおいて民主政治が確立すると、ポリス市民たちは政治や軍事に活動の中心を求め、財産や生命以上に名声や名誉を尊重した。ポリスでは政治参加の権利や政治的発言力をめぐる競争が公然と展開され、市民として協力し合う一方で、激しい名誉獲得を追及する行動様式が支配的であった。このような「協力」と「競争」とのバランスが崩れていった時代がペロポネソス戦争の時期である。名誉獲得のための弁論・修辞を教える職業教師が出現し、その代表者であるプロタゴラスは絶対的な真理の実在を否定した。このような潮流に対して一...ギリシア哲学を概観する

  • ペロポネソス戦争と衆愚政治に墜ちたアテネの政治

    【ペリクレス】の時代、【デロス同盟】はアテネの帝国支配のように利用されていました。供出金の流用などです。これ反発するポリスは存在し、【スパルタ】を中心にアテネのデロス同盟のポリスと対峙していきます。反アテネという目的を持ったそれらのポリスはスパルタを中心に【ペロポネソス同盟】を結成しました。アケメネス朝ペルシアがこの混乱を見逃さず、ギリシア世界のポリス間の対立をさらにけしたてました。アテネとスパルタの戦争は、ギリシア世界を指導するポリスがどちらなのかという戦争でもあります。いわゆる【覇権】争いです。この【ペロポネソス戦争】は【前431年~前404】年まで、【約30】年間も続いた戦争です。この間、アテネの衰弱はひどく、【ペストの流行】で【ペリクレス】もあっさり病死しました。抽選で選出される政治家ではこのような混乱...ペロポネソス戦争と衆愚政治に墜ちたアテネの政治

  • 無知の知

    人間はいかに生きるべきか?ソクラテスはそれまでの哲学者とは違って、この問いに対する答えを求めていました。ソクラテスは「無知の知」という言葉で知られています。しかし、この言葉の前に「知徳合一」という言葉が重要になります。すなわち、「知る」ことと「よく生きる」こととは結びつくという言葉です。自分が知らないことを知っていることの大切さは、無知の知の言葉が示しているとおりですが、さらにこのことは、知徳合一とあわせて考えると面白くなります。「知」への欲求が「よく生きる」ことにつながっている。「知的好奇心」が、「よく生きる」ことであり、「いかに生きるか」という問いに対する答えでもある。ソクラテスはそのように考えていたのではないでしょうか。したがって、よく生きることを追い求めるものにとって、「知的好奇心」はとどまることはなく...無知の知

  • ソクラテスの「問い」

    ギリシアの人々は「抽象的に理解する」ことが苦手でしたから、「愛」とか「美」とかといった抽象的な事柄すべてを「神」という「具体的なもの」に置き換えて理解していたのです。ギリシアの神々が大勢いることは当然だったわけです。この具体と抽象の違いに気づいていたのがソクラテスでした。ソクラテスは具体と抽象が違うこと、抽象的な概念である「善」すなわち「良く生きる」ことを人々に問いかけました。しかしそのことは、ソクラテスが「具体である神」を否定している、という見方を生み出しました。その結果彼は毒杯を飲まされたのです。そこでプラトンは「抽象」をイデアと呼び変えて、ソクラテスの業績を受け継いだわけです。ソクラテスの「問い」

  • オスマン帝国の拡大(図)

    オスマン帝国の拡大(図)

  • オスマン帝国と神聖ローマ帝国との攻防 

    オスマン帝国と神聖ローマ帝国との攻防

  • 中国税制史

    中国税制史

  • 2000年一橋大学本試第3問 16-18世紀前半の銀経済

    次の文章を読んで,問いに答えなさい。15世紀末に始まるヨーロッパ諸国のアジアヘの進出は,主役とその形態を変化させながら,今日に及んでいる。初期の段階について考えると,彼らのアジア進出の目的は,当時のヨーロッパにおいて珍重されたアジアの物産を入手することにあった。この時期,彼らはアジアの物産を買い,それをヨーロッパ市場で売りさばいて利益をあげたばかりではなく,アジア内の貿易にも参加して,大きな利益を得ていた。問下線部分をよく読んで,16世紀から18世紀中頃にかけて,ヨーロッパ諸国はアジアの物産を買い付けるための貨幣をどのように得ていたのかを,金銀の産地や経由地を明示しつつ,説明しなさい。(65字以内)【考え方】時期は16-18世紀半。重商主義を展開し覇権国家となったのは16世紀前半ポルトガル、16世紀後半スペイン...2000年一橋大学本試第3問16-18世紀前半の銀経済

  • 2013年一橋大学本試第1問(改)東方植民

    「ハーメルンの笛吹き」の伝承はドイツの歴史学界では完全なフィクションではないと考えられ、「鼠捕り男」の正体や村から姿を消した子どもたちの行方について、これまで様々な学説が打ち立てられてきた。その中の有力説の一つによれば、中世ドイツの東方植民が伝承の歴史的モチーフになったとされる。中世ドイツの東方植民の経緯を、送り出した地域の当時の社会状況を踏まえて述べるとともに、植民を受け入れた地域が近代に至るまでのヨーロッパ世界のなかで果たした経済史的意義について、その地域の社会状況の変化に言及しつつ論じなさい。(400字以内)【字数配分】東方植民の経緯:100字PUSH要因:100字経済的意義:100字社会状況の変化:100字【考えるポイント】東方植民の経緯:シトー修道会「祈り働け」開拓と開墾・第3回十字軍のドイツ騎士団送...2013年一橋大学本試第1問(改)東方植民

  • 一橋大学2016 第2問問題 ナントの勅令廃止の影響

    第2問次の文章を読んで、問いに答えなさい。ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネ...一橋大学2016第2問問題ナントの勅令廃止の影響

  • ジョン=ロックの「所有権」

    ジョン=ロックは17世紀後半に活躍した哲学者です。世界史では「抵抗権」を提唱してアメリカ独立革命に大きく影響した人物として扱います。その一方で、ロックは啓蒙思想の政治哲学者として18世紀に先駆けて「所有権」を擁護し、フランス革命が解く「所有権の不可侵」という理念にも大きく影響を与えました。ロックは政府ができる以前の状態を想定し「自然状態」としました。彼は「私有財産」と「自己所有」を問題にしています。ロックは人々が選んだ政府であっても政府が介入できない権利が存在すると考えていました。この権利を政府が承認する権利よりも前から存在する権利として「自然権」といいます。その中に「財産権」も含まれるとしています。すなわち「財産を所有する権利」は政治が行われる前から「自然権」として認められているものだとしていこの権利は人々が...ジョン=ロックの「所有権」

  • 2001年一橋大学本試第2問 絶対王政の特徴

    2001年一橋大学本試【第2問】17世紀から18世紀におけるヨーロッパは絶対主義あるいは絶対王政の時代と呼ばれる。とりわけルイ14世が統治したフランスは典型的な絶対主義国家とされているが、このような政治体制がどの程度「絶対的」であったのかに注意しながら、その特徴を述べなさい。(400字以内)【解答のポイント】1.どの程度「絶対的」どの程度「絶対的」を考えることは、絶対王政における国王と特権階級との関係を考えること。絶対王政の国王が「絶対的」な権力を持っているのではなく特権階級との「持ちつ持たれつ」の関係の上に成り立っている王権であることを説明する。すなわち、国王は特権を付与しその特権を守ってあげる代わりに、そのような特権階級が王権を支持し協力的に振舞う(協賛)ことを期待する。ただし特権階級はその特権が維持されて...2001年一橋大学本試第2問絶対王政の特徴

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