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  • 年代暗記法 周~漢

    (1)前770年春秋時代始まる。・・・先生多770い、春秋時代(2)前403年戦国時代始まる。・・・世をみ403だす、戦国時代(3)前221年始皇帝の統一。・・・ににんが4の、始皇帝(4)前202年漢成立。・・・2列202に、つづれ220、前漢・後漢(5)前154年呉楚七国の乱・・・引越し154ごそごそ7国の乱(6)前141年前漢武帝即位・・・いよい141よ登場、漢の華87(7)25年後漢成立・・・復興25させる後漢の光武帝(8)166年大秦王安敦の使者訪中・・・一路ロ166-マの大秦王(9)280年西晋の中国統一・・・ふんばれ280西晋、中国統一  年代暗記法周~漢

  • 唐の年代暗記

    (1)618~907年唐・・・娘が一番(618)、暮れな(907)いの唐(2)668年高句麗滅亡・・・娘がロバ(668)乗り、高句麗征服(3)690年武韋の禍で周建国・・・リングを(690)はめた則天武后(4)751年タラス河畔の戦い・・・垂らす涙が濃い(751)川辺(5)755~763年安史の乱・・・おんなごこ(755)ろ、み(63)だれる長恨歌(6)780年両税法施行・・・楊炎が、縄を(780)張って両税法(7)875年黄巣の乱発生・・・黄巣の乱で花子(875)さん(8)907年唐滅亡・・・くれな(907)いに沈む唐王朝  唐の年代暗記

  • 魏晋南北朝時代

    (1)184年黄巾の乱・・・イワシ(184)の目がまっ黄色(2)220年魏建国・・・つづれ(220)、三国志(3)280年西晋が中国再統一・・・踏ん張れ(280)精神(西晋)、中国統一(4)386年拓跋珪が北魏建国・・・見張ろう(286)鮮卑の拓跋珪(5)439年太武帝が華北支配・・・豊作(439)の華北もらった太武帝(6)494年孝文帝の漢化政策・・・鮮卑族、しくし(494)く泣いて故郷捨て(7)552年突厥建国・・・ここに(552)突然突厥帝国(8)581年隋建国、589年中国再統一・・・こわい(581)、公約(589)、隋の文帝魏晋南北朝時代

  • イスラム史(成立からアッバース朝)

    (1)610年イスラム教成立・・・納豆より100年(610)古いイスラム教(2)622年ヒジュラ・・・浪人2(622)年、マホメット(3)642年ネハーヴァントの戦い・・・虫に刺(642)されて、ネハーヴァント(4)661年ウマイヤ朝成立・・・室井(661)さんとムアウイア(5)711年西ゴート王国滅亡・・・ナイイ(711)ブ過ぎる、ワリード1世(6)732年トゥール・ポワティエ間の戦い・・・波に(732)乗ってる、カール=マルテル(7)750年アッバース朝成立・・・名ごれ(750)、アッバース、日に壊(1258)れ(8)751年タラス河畔の戦い・・・しつこい(751)汚れ、たらす河畔(9)756年後ウマイヤ朝成立・・・和む(756)イベリア、スゴうま朝。(10)909年ファーティマ朝成立・・・クオーク(...イスラム史(成立からアッバース朝)

  • イスラム史年代暗記

    (1)622年ヒジュラ・・・浪人2年マホメット(2)632年正統カリフ時代開始・・・無残に死んだマホメット(3)642年ネハーバントの戦い・・・虫にさされてネハーバント(4)661年ウマイヤ朝成立・・・料理人室井さん、超ウマいや(5)750年アッバース朝成立・・・(6)751年タラス河畔の戦い・・・垂らす涙が濃い(751)川辺(7)786年ハールン=アッラシード即位・・・悩むことないシンドバッド(8)909年ファーティマ朝成立・・・(9)929年後ウマイヤ朝カリフ成立・・・苦肉の策でカリフ位使用(10)946年ブワイフ朝バグダッド入場・・・くすむ色の不細工なバグダッド(11)999年サーマーン朝滅亡・・・スリーナインのサーマーン朝(12)1055年セルジューク朝バグダッド入城・・・いいワここ、セレブが入場...イスラム史年代暗記

  • 重要年代暗記(1)ギリシア・共和制ローマ史

    重要年代暗記(1)ギリシア・共和制ローマ史�前594年国宝、ソロンの改革�前508年号令発して、陶片追放�前480年素っ裸(480)で、サラミスの海戦�前431年~前404年四散と(431)、知れよ(404)、ペロポネソス�前334年さーさし(334)っかり、サレキサンダー�前509年功多く(509)あり、共和制ローマ�前451年横の(451)字で書く、12表法�前367年みんな(367)力んで、リキニウス法�前287年庭な(287)ど、掘ルテンシウス法�前264~146年ふろし(264)き、海にひとしろ(146)げ�前202年痛烈(202)なザマ、ハンイバル�前133年勇み(133)足の、グラックス兄弟�前73年波(73)にのまれたスパルタクスの乱�前60年群れ(60)るカエサル・ポンペイウス�前43年...重要年代暗記(1)ギリシア・共和制ローマ史

  • 帝政ローマ時代とキリスト教

    帝政ローマ時代とキリスト教(1)9年=トイトブルクの森の戦い・・・グー9の音も出ぬ、トイトブルク(2)64年=ネロ帝のキリスト教迫害・・・ペテロとパウロは蒸し64焼き(3)96~180年=五賢帝時代・・・苦労96言わない180、五賢帝(4)166年=大秦王安敦の使者が日南に来航・・・一路、ローマ166に大秦王(5)193年= 軍人皇帝時代開始・・・戦193始まる、軍人皇帝(6)212年=アントニウス勅令・・・ついに212ローマの、市民権(7)284年=ディオクレティアヌス帝即位・・・庭よ284くまとめたディオクレティアヌス(8)313年=ミラノ勅令・・・再三313の迫害、やっと公認(9)325年=ニケーア公会議・・・3つ込325みで、三位一体(10)375年=ゲルマン民族大移動開始・・・みんなゴ375ソゴ...帝政ローマ時代とキリスト教

  • 古代オリエント史

    (1)前1286年カディシュの戦い・・・いつ止む、カディシュの戦い(2)前922年ヘブライ王国分裂・・・苦痛に分かれるヘブライ王国(3)前722年イエルサレム王国滅亡・・・夏になってもイエルサレム(4)前586年バビロン捕囚開始・・・拒む、ユダヤを連れ去って(5)前550年アケメネス朝ペルシア成立・・・ここは、ペルシア帝国(6)前538年バビロン捕囚解放・・・きょろきょろと、ゴミ屋さんを解き放つ古代オリエント史

  • ノルマン・シチリア王国

    【1130】年シチリア島【パレルモ】の都として【ノルマン・シチリア】王国が成立しました。もともとのルマン人は北フランスの【】ノルマンディー公国にいた人々で、シチリアには巡礼に訪れることが多く、その関係もあって移住したようです。北フランスの世界遺産モンサンミシェルと同じ大天使ミカエルを祀った南イタリアのモンテサンタンジェロへの巡礼がノルマン人も間で流行していました。ノルマン・シチリア王国建国以前、シチリア島を支配していたのはイスラム教徒でした。建国者【ルッジェーロ2世】は、イスラム教徒への迫害は行わなかったばかりでなく、【アラビア】語文献やビザンツ時代から残る【ギリシア】語文献を【ラテン】語に翻訳するなど、イスラム・ビザンツ文化を積極的に取り入れました。そのため、首都パレルモにはアラブ人学者やギリシア人学者...ノルマン・シチリア王国

  • 中世西欧史(1)

    (1)375年ゲルマン民族大移動開始・・・みなここに集合ゲルマン人(2)395年ローマ抵抗東西分裂・・・割くことになるローマ帝国(3)451年カタラウヌムの戦い・・・仕事休んでカタラウヌム(4)476年西ローマ帝国滅亡・・・死なんとする西ローマ(5)486年メロヴィング朝成立・・・座ろうパリのクローヴィス(6)496年クローヴィスがカトリック改宗・・・仕組むクローヴィス、カトリック(7)726年レオン3世聖像禁止令・・・何が無理だと聖像禁止(8)732年トゥール=ポワティエ間の戦い・・・波に乗ってるカール=マルテル(9)751年小ピピンがカロリング朝建設・・・しつこいピピンのカロリング朝(10)756年ラヴェンナ寄進・・・和むピピンの教皇領(11)800年カール戴冠・・・晴れれ?カール大帝(12)829年...中世西欧史(1)

  • 中世西欧世界 前半

    (1)375年ゲルマン民族大移動開始・・・みなここに集合ゲルマン人(2)395年ローマ抵抗東西分裂・・・割くことになるローマ帝国(3)451年カタラウヌムの戦い・・・仕事休んでカタラウヌム(4)476年西ローマ帝国滅亡・・・死なんとする西ローマ(5)486年メロヴィング朝成立・・・座ろうパリのクローヴィス(6)496年クローヴィスがカトリック改宗・・・仕組むクローヴィス、カトリック(7)726年レオン3世聖像禁止令・・・何が無理だと聖像禁止(8)732年トゥール=ポワティエ間の戦い・・・波に乗ってるカール=マルテル(9)751年小ピピンがカロリング朝建設・・・しつこいピピンのカロリング朝(10)756年ラヴェンナ寄進・・・和むピピンの教皇領(11)800年カール戴冠・・・晴れれ?カール大帝(12)829年...中世西欧世界前半

  • 都市の空気は自由にする

    このドイツの諺には2つの意味が含まれています。キーワードは「自由」。すなわち教科書に説明されているように、農奴が荘園から都市に逃れて1年と1日都市で生活すれば、自由な身分になれるということをこの諺は示している。ここでいう自由とは、領主権からの「自由」であり、自治都市が領主権から自由を獲得しているため、都市の市民として認められれば、領主による人格的支配から自立することができる。しかし、いっぽうで、ここで言う「自由」には限界があることも説明する必要がある。その自治都市内では、都市貴族が参議会を構成して市政を独占し、都市民を支配しているため、現在の我々が思い描くような自由な雰囲気は中世都市には存在しないという点。さらに商業活動もギルドが支配していて、自由な商業活動は認められていない。つまり、領主に対して自由であ...都市の空気は自由にする

  • 西欧政治思想史

    前6世紀初、小アジアのイオニアのミレトスを中心に、自然の本質を合理的に探ろうとする自然哲学が成立した。前585の日食を予言したとされるタレスや、「万物は流転する」の言葉を残したヘラクレイトスらがイオニア自然哲学を代表する。一方、アテネにおいて民主政治が確立すると、ポリス市民たちは政治や軍事に活動の中心を求め、財産や生命以上に名声や名誉を尊重した。ポリスでは政治参加の権利や政治的発言力をめぐる競争が公然と展開され、市民として協力し合う一方で、激しい名誉獲得を追及する行動様式が支配的であった。このような「協力」と「競争」とのバランスが崩れていった時代がペロポネソス戦争の時期である。名誉獲得のための弁論・修辞を教える職業教師が出現し、その代表者であるプロタゴラスは絶対的な真理の実在を否定した。このような潮流に対...西欧政治思想史

  • 皇帝教皇主義

    東ローマ帝国で【皇帝】が東方教会を支配する「政教一致」の体制を【皇帝教皇主義】と言います。東ローマ皇帝が【東方教会】の指導者であるコンスタンティノープル教会の大司教(大主教)を任命したり、自分の言うことを聞かせたりできたので、政教一致なわけです。ここでいう教皇とは、実際の教皇ではなく、大主教のことです。皇帝が西欧の教皇を兼務しているようだ?!という意味の言葉といえます。【帝国教会制】という言葉と似ていますが、まったく違う内容の言葉です。皇帝教皇主義

  • 帝国教会制

    自分の領地内にある教会は、その領主の所有物である、という考え方を前提にしている制度です。この考え方を拡大すると、神聖ローマ帝国はその皇帝のものだから、その帝国内にある教会は皇帝の支配下にあるのだと、歴代の皇帝たちは主張したわけです。これを「帝国教会制」といいます。さらにこのことを、より具体的に話をすすます。帝国内にある教会を支配するとはどのようなことでしょうか。そもそも教会は、教皇を頂点として、各国にいる大司教が自分の大司教区内にある教会を管理しています。その大司教区は司教区に分かれ、司教がその司教区にある教会を管理しています。大司教や司教ももちもん、それぞれ教会に住んでいます。その教会は村にある教会に比べれば立派なわけです。神聖ローマ帝国の皇帝は教会を支配するといいましたが、つまり大司教や司教レベルの上...帝国教会制

  • 東京大学の入学者選抜に関する考え方について 東大HP

    東京大学の入学者選抜に関する考え方について-平成32年度(平成33年度入学者選抜)以降における入学者選抜方法の検討について-社会のグローバル化が進展する中で、高校から大学を通じて学生の英語力の4技能を鍛えることが重要です。その意味で、大学入学者選抜に英語認定試験を取り入れ、4技能を評価することは意義があるものと考えます。一方で、入学者選抜における公平公正の担保について、社会からの要請は非常に高くなっています。英語認定試験を入学者選抜に利用するにあたっては、公平公正の観点から十分な検証が必要と考えており、この点については、かねて国立大学協会の場でも表明してきました。昨年11月に国立大学協会から「平成32年度以降の国立大学の入学者選抜制度-国立大学協会の基本方針―」が公表され、この中で「平成36年度以降に向け...東京大学の入学者選抜に関する考え方について東大HP

  • 10世紀前半に訪れた西欧の危機

    【800】年に【カール戴冠】によって西欧世界が成立しました。その西欧世界は9世紀になっても安定していたわけではありませんでした。9世紀、【スカンディナヴィア】半島や【ユトランド】半島からノルマン人が西欧世界に侵入を開始します。東からはアジア系【マジャール】人が【パンノニア】(ハンガリー)方面から侵入します。このように、西欧の混迷は続きました。この混迷によって西欧世界は封建社会という閉鎖的な状況に追い込まれたわけです。東フランク王国はノルマン人の被害は少なかったのですが、西フランク王国は【ノルマン】人の侵入に苦しみました。そこで国王【シャルル3世】は【911】年、ノルマン人首長【ロロ】に北フランスの海岸線にあるノルマンディ地方を与え、【ノルマンディ公国】を設置させました。東フランク王国は【マジャール】人の侵...10世紀前半に訪れた西欧の危機

  • フランク王国の分裂

    カール大帝の死後、後継者はルートヴィッヒ1世になりました。しかし、その死後彼の子供たちが継承権を争い、内線状態になりました。843年ロタール、ルートヴィッヒ、カールの3人は3分割して相続することに決定。この条約をヴェルダン条約といいます。とくに中部フランクおよび北イタリアを相続したロタールは西ローマ帝国皇帝の暗いも獲得し、ロタール1世と名乗りました。彼の名前が現在のフランス領ロレーヌ地方の名前になっています。ドイツ読みだとロートリンゲンです。この地方はアルザス地方とともにドイツ・フランスの争奪の歴史を歩むことになります。中部フランク領は東西フランク王国の間に位置するプロヴァンスとロートリンゲンに加えイタリアです。ロタール1世の死後、さらに870年のメルせん条約ではロートリンゲン(ロレーヌ)は東フランク王国...フランク王国の分裂

  • 皇帝と教皇の関係

    313年にコンスタンティヌス帝がキリスト教を公認しましたが、当時のキリスト教会は「イエスとは何者か?」という重要な問題に対して意見を統一することができずにいました。そこで325年にコンスタンティヌス帝はニケーアにキリスト教会の論客たちを集め、議長として「イエスとは神の子である」というアタナシウスの意見を正統だと決定しました。このような会議を「公会議」といい、325年の公会議をニケーア公会議といいます。しかし、本来、キリスト教会の問題であるはずの「イエスとは何者か?」という問に対してローマ皇帝が決定に大きく関与したことは、後の「皇帝」とキリスト教会の指導者である「教皇」との関係に多大な影響を残すことになりました。すなわち、皇帝がキリスト教会の様々な決定に口出しをするということです。395年にローマ帝国は東西...皇帝と教皇の関係

  • 古代世界の終わり

    【コンスタンティヌス】帝は【コロナートゥス】制を法制化した皇帝です。彼が【コロヌス】に対して【移住を禁止】する法令を定めたことから、このように言うことができます。またひとたびコロヌスになると、他の職業に就くことも禁じられました。以上のことは、非常に大きな問題をはらんでいます。ギリシアからローマに続いた古代世界では、自由人にたいして、個人の自由が大きく保障されていたからです。移動の自由や転職の自由があったからこそ、人々は地中海を舞台に商業・貿易活動を活発に行なえたはずです。その古代世界の活気を裏付けていた「自由」が制限されたことで、古代世界はそれまであった輝きを失っていきました。さらに不幸なことに、【ディオクレティアヌス】帝ころから金貨に含まれる金の量を減らし、貨幣価値を下げ続けました。戦争を行なったり、官...古代世界の終わり

  • カール戴冠の意義

    800年カール1世に対して教皇レオ3世がローマ皇帝の冠を授けました。フランク族のカール1世がローマ皇帝になったわけです。このことは「西欧世界の成立」を象徴する出来事だといえます。「西欧世界の成立」とは、476年西ローマ帝国滅亡以来、それまで唯一のローマ帝国だった東ローマ帝国から独立した世界が誕生したことを意味します。東ローマ皇帝はさまざまな機会でローマ教皇を救ってきました。しかしイスラム教の影響を受けた東ローマ皇帝レオン3世が「聖像禁止令」を出すと、教皇と皇帝との関係は悪化しました。教皇は自分の保護者としてカロリング家を見出し、カロリング家の王をローマ皇帝にしたわけです。こうして西欧世界にも教皇と皇帝が誕生し、東ローマ帝国とは切りはなされた西欧世界が誕生しました。「西欧世界の成立」とはもう一つの意味で重要...カール戴冠の意義

  • 初期フランク王国の性格

    北ガリアに侵入したフランク族は、軍事拠点に集中して住んでいて、地方に広がることはありませんでした。その理由は、ローマ人に対して圧倒的に人数が少なかったからと考えられます。ゲルマン民族の大移動期は、古代ローマ社会が混乱した時代でした。ローマ時代に作られていたさまざまな法律は全く守られなくなり、フランク王国の人々は自分のみは自分で守る必要がありました。しかし、キリスト教会はローマ帝国時代の行政組織を受け継ぎ、ローマ時代の行政単位をそのまま「大司教管区」、さらにそれを細かくした「司教管区」、さらにそれを細かくした「教区」にわけ、それぞれに大司教・司教・司祭をおきました。そしてローマ人系の有力者(すなわち元老院議員の子孫など)が高位聖職者になっていたようです。ローマ人はフランク族に北ガリアの支配権を奪われましたが...初期フランク王国の性格

  • 神聖ローマ帝国の歴史

    中世より13世紀初頭まで存続したドイツの国家である神聖ローマ帝国は,ドイツ王【オットー1世】が【962】年にローマ教皇【ヨハネス12世】により帝冠をうけたのに始まる。以後ドイツ王は即位後イタリアに赴いて教皇から戴冠され神聖ローマ皇帝をかねた。ドイツでは部族の分権的傾向が強く,オットーは初め一族を部族大公に任命して集権化をはかったが挫折した。代わって王権の支配下にある教会に諸特権を与えて強化し,司教・修道院長の任命権を握って教会を国内統治の支柱にしようとした。この教会政策のためオットーはローマおよび【イタリア】を支配しようとイタリアに遠征し,教皇の窮状を救って帝冠を受け,その後もイタリアに遠征して教皇権に対する影響力を強めた。これを【イタリア政策】と言う。この帝権と教権の結合は皇帝に教会支配権を握らせ,それ...神聖ローマ帝国の歴史

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