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  • アラブ帝国

    ウマイヤ家カリフであった【アルマリク】はウマイヤ朝の基礎を作りました。ウマイヤ朝は「【アラブ帝国】」と称されますが、【アラビア】語が公用語であり、アラブ人が経済を握り、アラブ人に税制上の優遇政策がとられたためです。とくにアラブ人だけ免税特権を持ち、同じイスラム教徒でも、異民族で改宗したイラン人などは【ジズヤ】に加え【ハラージュ】の支払いを求められました。彼ら異民族でイスラム教徒に改宗した人々のことを【マワーリー】といいます。この点もウマイヤ朝を「アラブ帝国」とよぶ理由です。つまり、イスラム教徒の間でも歴然とした不平等があったということです。アラブ帝国

  • アッバース革命

    「【アラブ帝国】」とも言われ、【アラブ人至上主義】をとったウマイヤ朝は、8世紀になると【マワーリー】となっていた【イラン】人などの反発を受けるようになりました。その一方で、ウマイヤ家カリフを認めない【シーア】派勢力も反ウマイヤ家に動き出し、ついに【】イラン人と【シーア】派の支持を受けた【アブー=アッバース】がウマイヤ朝を打倒し、【750】年に【アッバース】朝を建てました。このときウマイヤ家の一部が【イベリア半島】まで逃れ、【756】年、【】後ウマイヤ朝を建国しています。建国者は長い名前ですが、【アブド=アッラフマーン1世】。都はイベリア半島中央部の【コルドバ】です。ただし、彼らはカリフ位を持たず【アミール】(地方太守として一つの地方を支配するポスト)の称号を用いています。750年のアッバース朝成立を「【ア...アッバース革命

  • ワリード1世の大征服時代

    8世紀に入るとすぐにウマイヤ家カリフとして【ワリード1世】が即位しました。彼は東は【ソグディアナ】から西北インドの【シンド】地方まで征服し、西へは【ジブラルタル】海峡を越えて【】イベリア半島に達しました。当時イベリア半島にはゲルマン民族の【西ゴート】族が建てた西ゴート王国が都を【トレド】においていました。彼らは【アリウス】派というカトリックから【325】年の【ニケーア】公会議で異端とされたキリスト教の一派を振興していた人々です。【711】年【ワリード1世】の軍隊はこれを滅ぼし、以後【1492】年までスラム勢力がイベリア半島を支配する端緒となりました。このようにして、ワリード1世の時代のウマイヤ朝はイスラム教の【単独王朝として最大版図】を現出しました。ただし、注意したいのは、イベリア半島を支配下に置いたウマ...ワリード1世の大征服時代

  • イスラム教成立の背景

    東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌスは555年に東ゴーと王国を征服し、イタリアを回復しました。彼はこのほかにも北アフリカ一帯を征服し、地中海世界の再統一に成功しました。6世紀中ごろは西アジアのササン朝ペルシアにホスロー1世が登場して、ササン朝の全盛期を築いた時期でもありました。ユスティニアヌスとホスロー1世はライバルで、東西交易の重要地であるシリアをめぐって抗争しています。さらに、この2人の後になっても、シリアを両国の抗争は続きました。東ローマ皇帝ヘラクレイオスとササン朝ペルシアのホスロー2世とは長く戦争を続けましたが、7世紀にはいると東ローマ帝国がシリアを確保する状態でした。東ローマ帝国とササン朝ペルシアとが長い間シリアをめぐって戦争を続けた結果、シリアを通って交易することができなくなりました。そこで、アラ...イスラム教成立の背景

  • イスラム教の成立

    【東ローマ帝国】皇帝【ユスティニアヌス】は【555】年に【東ゴート】王国を征服し、イタリアを回復しました。彼はこのほかにも北アフリカ一帯を征服し、【地中海世界の再統一】に成功しました。6世紀中ごろは西アジアの【ササン朝ペルシア】に【ホスロー1世】が登場して、ササン朝の全盛期を築いた時期でもありました。ユスティニアヌスとホスロー1世はライバルで、東西交易の重要地である【シリア】をめぐって抗争しています。さらに、この2人の後、東ローマ皇帝【ヘラクレイオス1世】とササン朝ペルシアの【ホスロー2世】の時代になっても、シリアを両国の抗争は続きました。長く続いた戦争でしたが、7世紀にはいると【東ローマ帝国】がシリアを確保する状態でした。東ローマ帝国とササン朝ペルシアとが長い間シリアをめぐって戦争を続けた結果、シリアを...イスラム教の成立

  • ムハンマド(マホメット)

    【ムハンマド】(【マホメット】ともいいます)は【メッカ】の名門一族【クライシュ】族の【ハーシム】家の出身です。彼は25歳のときに、年上(40歳)の未亡人【ハディージャ】と結婚しました。商売名順調だったようですが、ムハンマド40歳のとき、【610】年ヒラー山で大天使【ガブリエル】から啓示を受け、イスラム教を創始しました。啓示を受けるというのは、神アラーの教えを大天使ガブリエルによって伝えられたということです。したがって、マホメットはこのときから神アラーの言葉を預かった【預言者】担ったわけです。マホメットの言葉は神の言葉ですが、マホメット自身は預言者ではあるが人間です。イスラム教は、唯一神【アラー】への絶対的服従を求め、【偶像崇拝】を極度に否定する宗教です。妻の【ハディージャ】が最初の信徒になりました。イスラ...ムハンマド(マホメット)

  • ヒジュラ(聖遷)

    イスラム教徒のことを【ムスリム】といいます。彼らの教団を【ウンマ】といい、イスラム教寺院を【モスク】といいます。メッカで迫害を受けたムハンマド達は、【622】年【メッカ】を逃れ、北方のオアシス都市【メディナ】に引越しました。メディナは【ヤスリブ】とも言いますので、注意してください。この引越しを【ヒジュラ】(聖遷)といいます。また、引越しについていったイスラム教徒たちの集団を【ウンマ】といいますが、このウンマはのちに【イスラム教徒の共同体】という意味で使われます。この【622】年をイスラムの暦(【ヒジュラ暦】)で紀元としています。メディナで起きていたメディナ市民間のトラブルを解決することを委ねられたとされています。メディナで問題を解決し、人々の人望を確立したムハンマドは、【630】年メディナの人々を率いて、...ヒジュラ(聖遷)

  • イスラム教の特有の用語(1)

    (1)ムスリム・・・イスラム教徒のことを「ムスリム」といいます。江戸時代の日本でキリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んでいたのと似ています。ムスリムは世界に9億人以上いて、アフリカなどでは今での増え続けています。(2)ウンマ・・・「ムスリム共同体」と訳します。つまり、仲間意識を持っているムスリム達の世界のことです。例えば、関東学院にも三春台と六浦がありますが、なんとなく関東学院生としての一体感や仲間意識がありますよね。他校の生徒よりも親近感を持っていると思います。そのような「仲間意識」をもったムスリム社会を「ウンマ」と呼びます。少し前に、「オウム真理教」が富士山の麓に「サティアン」を作って生活していました。初期のムスリム達のウンマはそんな感じだった?のかもしれません。(3)ヒジュラ・・・メッカで成立した...イスラム教の特有の用語(1)

  • 正統カリフ時代

    【632】年にムハンマドが亡くなった後、【ウンマ】の経営を任せる【預言者ムハンマドの後継者】が選出されました。【預言者の代理人】という意味であるカリフに初めて選出されたのは【アブー=バクル】です。彼から【4人】のカリフは世襲ではなくウンマの中で選ばれたカリフで、この時代を【正統カリフ】時代(【632~661】年)をよびます。第2代カリフは【ウマル】です。ウマルは大規模な征服活動を行なったカリフで、【642】年【ネハーヴァントの戦い】で【ササン朝ペルシア】に勝利。その結果、【651】年にはササン朝ペルシアは滅亡しました。また【東ローマ帝国】から【シリア】と穀倉地帯の【エジプト】を奪い支配下におさめました。このようなイスラム教徒の征服活動を【ジハード】(聖戦)といいます。各地にムスリムが住む軍営都市【ミスル】...正統カリフ時代

  • ウマイヤ朝の成立

    ムハンマド時代から正統カリフ時代にかけて、西アジア世界は安定期に入ります。ササン朝ペルシアと東ローマ帝国とのシリアをめぐる抗争もすでに終結し、【シリア】を経由する貿易路が復活しました。シリアが利用できるならわざわざ砂漠を横断する貿易を行う意味はなくなります。そのシリア総督に就任したのはウマイヤ家の【ムアーウィア】でした。ウマイヤ家はクライシュ族の名門です。彼は正統カリフ第4代【アリー】の即位に反対し、アリーと戦争になりました。結局、両者の和睦が成立しましたが、アリーは和睦に反対する過激派によって殺されました。ムアーウィアがカリフに即位すると、彼に反対する人々は「【アリーの一派】」と呼ばれる【シーア】派を形成しました。シーア派は、ウマイヤ家カリフを認めず、アリーの子孫のみがカリフ位を継承できると考えた人々で...ウマイヤ朝の成立

  • アッバース朝の最盛期

     アッバース朝は「イスラム帝国」と呼ばれるように、アラブ人の特権は廃止され、ムスリム間の平等が実現した時代です。そのため、カリフは多民族帝国にふさわしく、民族を超越する存在であることが求められました。これをカリフの神格化ととらえることができます。アッバース家第2代カリフのマンスールのとき、カリフの神格化が進み、さらに彼の手によって「平和の都(マディーナ=マッサラーム)」と言う名の都市バグダッドが建設されました。アラブ人至上主義の世界が終わり、イスラム教世界としてひとつにくくることができるイスラム文化圏が成立したわけです。同じ8世紀には中国の唐が「東アジア文化圏」を確立していたので、同時期にユーラシア大陸の東と西で、強大な文化圏が成立していたことになります。西のバグダッドと東の長安はともに100万人の人口を...アッバース朝の最盛期

  • イスラム世界の称号

    カリフは「【預言者マホメット(ムハンマド)の代理人】」の意味。イスラム世界(【ウンマ】)の指導者です。正統カリフ時代は有力者がウンマから【選出】されましたが、【661】年から【】ウマイヤ家が独占して世襲化し、さらに【750】年から【1517】年まで、【アッバース】家の一族がカリフの地位に就きました。アッバース朝成立によって成立したウマイヤ家の亡命政権であるイベリア半島の【後ウマイヤ】朝などでは【アミール】(太守)の称号を用いています。アミールは【地方の支配者】のことで、カリフの政治的権威を認め、その下で地方を統治したわけです。しかし、【10】世紀にイスラム教世界が分裂・混乱期になると、西アジアに出現した【シーア】派の【ブワイフ】朝は都【】バグダッドに入城し、【大アミール】という称号を用い、自己を顕示しまし...イスラム世界の称号

  • イスラム教世界の年代暗記

    (1)610年イスラム教成立・・・納豆より100年(610)古いイスラム教(2)622年ヒジュラ・・・浪人2(622)年、マホメット(3)642年ネハーヴァントの戦い・・・虫に刺(642)されて、ネハーヴァント(4)661年ウマイヤ朝成立・・・室井(661)さんとムアウイア(5)711年西ゴート王国滅亡・・・ナイイ(711)ブ過ぎる、ワリード1世(6)732年トゥール・ポワティエ間の戦い・・・波に(732)乗ってる、カール=マルテル(7)750年アッバース朝成立・・・名ごれ(750)、アッバース、日に壊(1258)れ(8)751年タラス河畔の戦い・・・しつこい(751)汚れ、たらす河畔(9)756年後ウマイヤ朝成立・・・和む(756)イベリア、スゴうま朝。(10)909年ファーティマ朝成立・・・クオーク(...イスラム教世界の年代暗記

  • アター制とイクター制

    【ブワイフ】朝で始まった【イクター】制は、【セルジューク】朝で完成しました。イクター制を完成させたときのセルジューク朝の宰相【ニザーム=アルムルクです】。彼は自分の名前をつけたスンナ派の学校である【ニザーミア】学院を各地に建てたことでも知られます。もともとアラブ人は遊牧民でしたから、土地を所有する考えはあまりなかったようです。そのため正統カリフ時代やウマイヤ朝のころは、ジハードに参加した報酬に【戦利品】をもらっていました。戦利品とは女や財宝などです。このような制度?を【俸給】制(【アター】制)といいました。しかし、アッバース朝の後半の時期になり帝国が分裂すると、ジハードもうまくいきませんし、そうなると戦利品も分配できなくなりました。そこで、【946】年に【バグダッド】に入城した【ブワイフ】朝は、兵士たちに...アター制とイクター制

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