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nagisa727 aoiさんのプロフィール

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ブログタイトル
陸海軍けんか列伝
ブログURL
https://blog.goo.ne.jp/oceandou
ブログ紹介文
オーシャン堂店主・青井渚が探索する日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。その軍人の宿命を探って逆光の中を彷徨する。 <br>
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8回 / 293日(平均0.2回/週)

ブログ村参加:2020/04/05

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歴史ブログ / 太平洋戦争/大東亜戦争

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nagisa727 aoiさんの新着記事

1件〜30件

  • 740.野村吉三郎海軍大将(40)大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する ■■■■■ブログ休止のお知らせ■■■■■

    これに対して、駐米全権大使・野村吉三郎大将は次のように述べた。「今回の貴国側の提案は、日本を失望させるであろう」。するとルーズベルト大統領はまず、次のように応じた。「事態のここに至ったのは真に失望するところである。第一回は本交渉開始後数ヶ月にして仏印進駐で冷水を浴びせられたが、最近の情報によると、またまた第二回の冷水を浴びせられる懸念がある」。それから、ルーズベルト大統領はさらに話を続け、次のように結論付けた。「ハル長官と貴大使等が話し合い中に、日本の指導者から何ら平和的な言葉を聞くことのできなかったことは、この交渉を非常に困難にしたのであって、暫定取り決めによって現状を打開するという折角の案も、終局に於いて日米両国の国際関係処理に関する根本主義が一致しない限り所詮は無駄になる」。会見の最後に、駐米全権大使・野...740.野村吉三郎海軍大将(40)大統領の政治手腕をもって、何らかの打開の道を見出すことを希望する■■■■■ブログ休止のお知らせ■■■■■

  • 739.野村吉三郎海軍大将(39)今後十年もたった後には、貴国もアメリカと同じ側に立ってドイツと闘わなければならない

    これに対してルーズベルト大統領は、強い口調で、石油の禁輸の断行を次のように強くほのめかしたのである。「従来、世論は日本に対して石油を禁輸せよと強く主張してきたが、自分は日本に石油をあたえることは太平洋平和の為に必要であると説明して今までやってきたのである」「ところが、日本が今日のように仏印に進駐し、さらに南方に進もうとするような形勢になっては、自分は従来の根拠を失い、もはや太平洋を平和的にしようすることができなくなってくる」「そしてアメリカが錫、ゴムのごとき必要品を入手することが困難になってくる。その上他のエリアの安全が脅かされて、フィリピンも危険となってくる。これでは、せっかく苦心して石油の対日輸出を継続していても何にもならない」「今はすでに多少時期遅れの感があるが、もし日本が仏印から撤兵して各国が仏印の中立...739.野村吉三郎海軍大将(39)今後十年もたった後には、貴国もアメリカと同じ側に立ってドイツと闘わなければならない

  • 738.野村吉三郎海軍大将(38)大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する

    昭和十六年二月十四日、フランクリン・ルーズベルト大統領をホワイト・ハウスに訪問して、駐米全権大使・野村吉三郎が天皇陛下からの信任状を奉呈する時、ルーズベルト大統領の表情はやや硬かった。その後、会談に移ってからは、ルーズベルト大統領は、いつもの大統領スマイルで旧友の長旅をねぎらった。この会談が、ルーズベルト大統領と駐米全権大使・野村吉三郎大将の第一次会見となった。ルーズベルト大統領は次のように言った。「自分は日本人の友であり、アドミラル・ノムラはアメリカの友である。お互いは十分率直に話し合えることができる」「日米の関係は、国務省において、すでに二百数十通の抗議書を日本に出しており、その結果世論は刺激され、今や両国国交は悪化の道をたどっている」「昔のメイン号の例もあり、揚子江においては、パネー号事件のような際は、自...738.野村吉三郎海軍大将(38)大統領においても、大乗的に政治的考慮を払われんことを希望する

  • 737.野村吉三郎海軍大将(37)そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから

    だから、私は海軍の先輩や友人から意見を聞いたのだが、その中でも思い出すのは、米内(光政、三期後輩、前総理・海相)君の言葉である。事情やむをえず就任を引き受けることに踏み切りかけたとき、米内君に会っていろいろ話し合ったが、その時私が、『政府や軍も自分の意見をよく理解して、その線で働かせるという約束だから……』というと、米内君は、『それはまことに結構だが、そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから、十分気を付けるように』と忠告してくれた。後日になって、この米内君の言葉が胸にこたえることもあったが、とにかく私としては大廈(大建築)のまさに覆らんとするのを、あえて支えるような悲壮な気持ちで就任を受諾したことは事実である。以上が、野村吉三郎の駐米全権大使就任までのいきさつの回顧である。昭和十...737.野村吉三郎海軍大将(37)そうやって君を上らせておいて、後から梯子をはずしかねない近頃の連中だから

  • 736.野村吉三郎海軍大将(36)野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる

    次に、当時の朝日新聞は次のように評している。「――外相に決まった野村大将、隻眼の今西郷――第一次上海事変では第三課引退長官の要職にあって活躍、肉弾を受けて右眼を失い、隻眼提督の異名を馳せた」「当時、停戦交渉にあたり、英・米・仏・伊各国代表間を奔走して外交手腕を示したことは、内外人のよく知るところで、海軍きってのアメリカ通として知られている」「軍事参議官から急旋回して学習院長におさまり、院内に鋼鉄の精神を叩きこんでいた。大将が欧州動乱の突発を契機として、いよいよ目まぐるしく広がりゆく外交舞台に出陣したことは、大将の明朗闊達な性格と思いあわせて頼もしい」。だが、残念ながら、内外の混乱は、この“今西郷外相”に十分の腕を振るわせてはくれなかった。当時の内情と野村吉三郎外務大臣の人柄を、毎日新聞が「素人大臣と万年浪人の悲...736.野村吉三郎海軍大将(36)野村さんは外務省の若い者が掛け合いに行くと、むきになって議論をおっぱじめる

  • 735.野村吉三郎海軍大将(35)中国の一〇〇万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げた。感激した

    その水筒が、野村吉三郎海軍中将と重光公使の間に来た時、閃光に続いて轟音が響き、ごうっ!と不気味な音ともに第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将は熱湯を全身に浴びせかけられたようなショックを受けた。強烈な火薬(手榴弾)の爆発だった。会場は騒然となり、第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将の身を気遣う参謀たちが壇上に駆け上がって来た。犯人を捜そうとする警備の警官、壇上の被害者を心配する関係者、会場から逃げ出そうとする者……会場は一瞬にして騒乱の巷と化した。上海派遣軍司令官・白川義則陸軍大将は重傷だったが、血潮をかぶったまま、一人で壇上から下りようとした。第三艦隊司令長官・野村吉三郎海軍中将と在上海公使・重光葵駐華公使は舞台の上に倒れた。在上海総領事・村井倉松、第九師団長・植田謙吉陸軍中将、上海居留民団行政委員会会長・河...735.野村吉三郎海軍大将(35)中国の一〇〇万大軍もできないことを朝鮮の一青年がやり遂げた。感激した

  • 734.野村吉三郎海軍大将(34)中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった

    大正十五年七月二十六日、野村吉三郎少将は軍令部次長に補され、十二月一日、海軍中将に進級した。大正十五年十二月二十五日、大正天皇が崩御され、年号は昭和に改まった。時の内閣は若槻礼次郎内閣で、海軍大臣は財部彪大将、軍令部長は鈴木貫太郎大将、海軍次官は大角岑生中将、軍務局長は野村吉三郎中将と同期の小林躋三中将だった。連合艦隊司令長官は、かつて、ワシントン会議で大加藤と激論した加藤寛治中将だった。昭和二年四月二十日、陸軍大将・田中義一内閣が発足すると、加藤寛治大将が軍令部長に就任した。軍令部次長・野村吉三郎中将は、ワシントン会議以来の知己である軍令部長・加藤寛治大将の下で特に政争などに巻き込まれることはなかった。だが、昭和五年のロンドン軍縮会議が近づいてくると、海軍部内では、条約(軍縮)派と艦隊派の対立が際立ってきた。...734.野村吉三郎海軍大将(34)中立の立場にいた野村吉三郎中将は練習艦隊司令官に追いやられてしまった

  • 733.野村吉三郎海軍大将(33)隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない

    後に、加藤友三郎大将の系統を引く海軍士官は「条約派(軍縮派)」、加藤寛治中将の系統は「艦隊派(艦隊拡張派)」と呼ばれるようになった。野村吉三郎大佐は後に、ワシントン会議の思い出を次のように回想している。十一月十一日の初会議で、ヒューズ氏はいわゆる爆弾的といわれる軍縮案を提案して、場内から盛んな喝采を博していた。その初会議からの帰途、加藤(友三郎)さんは、井出謙治海軍次官(十六期、後、大将、佐世保鎮守府長官)宛ての電報を示されたが、要領は『アメリカ案を基礎として交渉する決意である。もちろんこのことは日本海軍としては造艦対策上、人事行政上大問題であるが、これは国内問題として善処すべきである』という意味であった。井出次官はスマート、かつ俊敏な人であったが、帰朝した時。私に『あの電報で大臣の決意のほどを知り善処するを得...733.野村吉三郎海軍大将(33)隠居扱いにするつもりでいたら、大変だぞ。君にはまだ元帥の偉さが分かっていない

  • 732.野村吉三郎海軍大将(32)海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……

    一方、出来るだけ努力し、ねばるが、最終的には世界恒久平和のために、五・五・三(米・英・日)の比率を呑まなければならないだろうというのが、ワシントン会議全権、海軍大臣・加藤友三郎大将だった。ワシントン会議の始まる前、野村吉三郎大佐は、全権・加藤友三郎大将と首席随員・加藤寛治中将の間で論争・対立が起きることを予想していた。その場合、全権・加藤友三郎大将の方には、自分、野村吉三郎大佐がつき、首席随員・加藤寛治中将には末次信正大佐がつくだろうと思った。大正十年十一月十二日、アメリカのワシントンD.C.で軍縮会議(ワシントン会議)が始まった。会議は討論を重ね、全権・加藤友三郎大将も懸命の努力を続けたが、米英は妥協せず、結局、主力艦保有率を五・五・三(米・英・日)以外には、妥協か決裂の二つに一つしかない、という状況に追い込...732.野村吉三郎海軍大将(32)海軍中将にもなって、どうしてそんなことが分からないのか……

  • 731.野村吉三郎海軍大将(31)初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない

    在アメリカ大使館附武官・永野修身(ながの・おさみ)海軍大佐(高知・海兵二八期・次席・海大八期・人事局局員<第一課>・大佐・人事局第一課長・巡洋艦「平戸」艦長・在米国大使館附武官・ワシントン会議全権随員・少将・軍令部第三班長・第三戦隊司令官・第一遣外艦隊司令官・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校校長・軍令部次長・ジュネーヴ会議全権・横須賀鎮守府司令長官・大将・ロンドン会議全権・連合艦隊司令長官・議定官・高等技術会議議長・軍令部総長・元帥・終戦・A級戦犯・昭和二十二年一月五日急性肺炎で死去・享年六十六歳・従二位・勲一等旭日大綬章)。軍令部作戦課長・末次信正(すえつぐ・のぶまさ)大佐(山口・海兵二七期・五〇番・海大七期・恩賜・第一艦隊参謀・大佐・巡洋艦「筑摩」艦長・軍令部第一班第一課長・ワシントン会議随員・軍令部第一班...731.野村吉三郎海軍大将(31)初めから敵の十に対して我が方が七か六では、漸滅作戦は成り立たない

  • 730.野村吉三郎海軍大将(30)アメリカ政府は海軍軍縮と太平洋・極東問題についての会議開催を日本に申し入れてきた

    そういう状況から大正十年七月、アメリカ政府は海軍軍縮と太平洋・極東問題についての会議開催を日本に申し入れてきた。参加国は、日本、アメリカ、イギリス、フランス、イタリアとその関係諸国だった。日本は、他の諸問題は別として、海軍軍縮に関する限りは内心考慮しつつあった矢先だから、直ちに参加を受諾した。大正十年十一月十二日から大正十一年二月六日まで、アメリカのワシントンD.C.で国際軍縮会議が開催された。ワシントン会議である。参加国は、日本、イギリス、アメリカ、フランス、イタリア、中華民国、オランダ、ベルギー、ポルトガルの九か国だった。当時のアメリカ大統領は、ウォレン・ハーディング(オハイオ州コルシカ<父は博士で教師のち新聞社経営・母は医師>オハイオセントラル大学卒・新聞「マリオン・デイリー・スター」経営・オハイオ州議会...730.野村吉三郎海軍大将(30)アメリカ政府は海軍軍縮と太平洋・極東問題についての会議開催を日本に申し入れてきた

  • 729.野村吉三郎海軍大将(29)世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していった

    野村吉三郎大佐が帰朝した翌日、大正八年八月十一日付けの朝日新聞に掲載された野村吉三郎大佐に関する記事は次の通り(抜粋・原文のまま)。「講和会議から」――野村大佐、昨朝ペルシャ丸で帰る――三月二十四日桑港を出版せし東洋汽船ペルシャ丸は昨日早朝横浜に帰港せり、先客中には講和会議委員として牧野特使に随行せる海軍大佐野村吉三郎氏あり、其談に曰く「講和会議に於ける日本委員の行動に関し内地では兎角の説をなす者があるが大体に於いて其目的を達した」「自分は講和会議中、海軍に関係しただけで単に会議の一半を知るのみであるから全般に関する話は出来ぬが、海軍会議に於いては独逸に於ける海軍力に制限を付し、単に偵察用として軍艦を在置するのみとなったから今後の同国の海軍は手も足も出す事は出来ない」「又残存せる独逸艦隊の処分に関しては仏国は分...729.野村吉三郎海軍大将(29)世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していった

  • 728.野村吉三郎海軍大将(28)「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心された

    今度(一九六〇年七月)アメリカ民主党の大統領候補に選ばれた四十三歳のケネディー氏は、受諾の大会演説において「現下の国際環境でアメリカは新しい国境精神、即ちアメリカ開拓当時の勇気ある精神にフレッシュさを加えたものが必要である」と説き、また「今日アメリカ国民は倫安をむさぼって明日の衰亡を撰ぶか、或いは真情勢に対応する新国境精神(newfrontierspirit)により明日一層の繁栄発展の道を撰ぶか、これを大統領選挙で国民に問う」といって居るが、私はこれに関連して所感の一書を送っておいた。明治・大正期の日本には伊藤公、原敬氏のような傑出した信念の政治家が在ったが、鈴木貫太郎氏もまた閣僚中に二人の自決者を出しながらも、よく踏み切って終戦の大事を果たした。あの際、僅かの時機を失したならば少なくとも今日、北海道は北方より...728.野村吉三郎海軍大将(28)「野村はイギリスの急行列車を止めた」と妙なことで感心された

  • 727.野村吉三郎海軍大将(27)政治家に信念を持つ傑物が居たら軍部に引きずり廻されることなどあろうはずがない

    次に、野村吉三郎は、パリ講和会議の光景と、三大国巨頭について、自身が見聞した興味ある回想を次のように語っている。私が今日でも忘れることの出来ないのはヴェルサイユ宮殿“鏡の間”における平和条約調印式の光景である。式場に憤然として現れたドイツ全権の姿は恰も屠所の羊の如く、一語も発せず黙々として調印する様子は、まことに敗者の悲哀をそぞろに催わせるものがあった。それにつけても当時のドイツに鉄血宰相ビスマークのような傑れた人物の居なかったことが悲劇を更に大きくしたものと思う。それから私の最も興味を惹いたのは三巨頭(Bigthree)である。そのうちのウィルソンは在米中も時々演説を開いて居た。態度は荘重であったが所謂雄弁家という方ではなかった。その政治思想はリンカーンの“人民に依る人民の為の政治”(Governmentof...727.野村吉三郎海軍大将(27)政治家に信念を持つ傑物が居たら軍部に引きずり廻されることなどあろうはずがない

  • 726.野村吉三郎海軍大将(26)若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合った

    次に、各界からの出席者は、次の通り。立作太郎(東京・東京帝国大学法科大学政治学科卒・東京帝国大学教授・東京帝国大学名誉教授・昭和十八年五月十三日死去・享年六十九歳)。近藤廉平(徳島・慶應義塾・大学南校卒・日本郵船社長・男爵・貴族院議員・大正十年二月九日死去・享年七十三歳)。深井英五(群馬・同志社英学校普通科卒・日本銀行理事・日本銀行総裁・貴族院議員・枢密顧問官・昭和二十年十月二十一日死去・享年七十三歳)、喜多又蔵(奈良・市立大阪商業学校卒・日本綿花社長・鈴政式織機社長・昭和七年一月三十一日死去・享年五十五歳)。その他、福井菊三郎(三井合名会社理事)などが出席している。野村吉三郎大佐は、パリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)では、海軍委員として竹下勇中将を扶け重要な役割を果たすとともに、世界の...726.野村吉三郎海軍大将(26)若い連中は冗談に「牧野さんはずるいな」とか「流石は慎重だな」と話し合った

  • 725.野村吉三郎海軍大将(25)野村吉三郎大佐は、海軍、時には日本の主要舞台で注目を集める存在になっていった

    有田八郎(ありた・はちろう)参事官(新潟・東京帝国大学法科大学独法科卒・外務省・パリ講和会議全権委員随員・亜細亜局長・オーストリア公使・外務次官・ベルギー大使・中国大使・外務大臣・終戦・衆議院議員・東京都知事選で落選・昭和四十年三月四日死去・享年六十五歳・正四位・旭日中綬章・ハンガリー王国メリット・オングロアーズ勲章プルミエール)。重光葵(しげみつ・まもる)参事官(大分・東京帝国大学法学部卒・外務省・在ドイツ公使館書記官・在英国公使館書記官・在シアトル領事・駐華公使・駐ソ公使・駐英大使・外務大臣・戦艦ミズーリ―甲板上で日本政府全権として降伏文書に署名・終戦・外務大臣・A級戦犯・衆議院議員・改進党総裁・日本民主党副総裁・自由民主党・外務大臣・昭和三十二年一月二十六日狭心症発作で死去・享年六十九歳・正三位・勲一等旭...725.野村吉三郎海軍大将(25)野村吉三郎大佐は、海軍、時には日本の主要舞台で注目を集める存在になっていった

  • 724.野村吉三郎海軍大将(24)艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された

    大正七年九月二十九日、日本国に内閣制度が誕生してから、初めて無爵の政党人を首班とする純政党内閣が誕生した。大正七年十月十八日付けで、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長に転補され、久しぶりの海上勤務に出た。また、初めての艦長勤務であった。だが、野村吉三郎大佐は、重巡洋艦「八雲」(九六九五トン・乗員六四八名)の艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された。さらに十二月三日には、野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦後のパリ講和会議に出席する全権大使に随行する海軍側委員を命ぜられた。大正八年一月十八日から開催されたパリ講和会議(ヴェルサイユ宮殿で調印式=ヴェルサイユ条約)への、日本の主要な出席者は、次の通り。首席全権大使・西園寺公望(さいおんじ・きんもち)元首相(京都・...724.野村吉三郎海軍大将(24)艦長勤務は僅かに一ヶ月足らずで、海軍軍令部出仕兼参謀に補された

  • 723.野村吉三郎海軍大将(23)アメリカに関する戦力打診は当初大いに誤っていたことを率直に告白せざるを得ない

    大正六年四月一日、野村吉三郎中佐は、大佐に進級した。野村吉三郎大佐は、第一次世界大戦当時のアメリカとアメリカ人について、次の様に述べている。駐在武官として赴任した私は恰もヨーロッパの大戦当時であったから働き甲斐もあったが、多忙でもあった。武官としての第一の任務は駐在国の軍事的視察であるが、この時はその他にヨーロッパ戦局に最後のイニシアティーブを執る、無疵の強大国アメリカを通じて連合国、同盟国双方の動きを観測することも重大任務であった。何といってもアメリカ自体の処女地的な戦力の検討評価が、私に与えられた最高の任務であることはいうまでもない。私は凡ゆる角度からアメリカの戦争能力を観察して東京へ報告した。ところがこの時の私の報告は実のところ米国という国を過少評価していたのである。当時としては私も自信を持って報告したし...723.野村吉三郎海軍大将(23)アメリカに関する戦力打診は当初大いに誤っていたことを率直に告白せざるを得ない

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