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  • 和歌以後の塩文化史仮説……西行・芭蕉・歌舞伎

    「藻塩」から「潮干」へ 前稿では、凡そ壬申の乱から兵站として塩産地が重視され、征夷と同時進行していた伊勢物語の世界で描かれる「塩竃」の世界がたんなる遊楽ではなく、首都平安京の食糧基盤の増強や、軍事的示威活動を秘めていたのではないか、という仮説を展開した。 その後、広山堯道氏の『塩の日本史』および亀井千歩子氏の『塩の民俗学』を落手し、日本史・民俗学上の塩業の有様を改めて学んだ。実際のところ、「藻塩垂る」が盛んに歌われた平安期は、藻塩から塩浜法へ、土器から鉄釜へと、技術革新が起こった時期でもあったことを知った。宗教的、軍事的需要が高まり、より大規模に保護統制が採られるのである。 その中で、塩も単な…

  • 伊勢物語と塩――百人一首論の序章として

    源融という公卿がいる。嵯峨天皇の皇子にあたり、臣籍降下して源姓を賜った。「河原左大臣」の異名で知られる。賀茂川の河原に邸宅を構え、陸奥の塩竃を模して塩を焼かせたことで殊に名高い。その推定地には現在東本願寺の渉成園が造営されている。 また、嵯峨野に「棲霞観」という邸宅を構え、そこがのちに清凉寺となったことがご存じの方も多いだろう。『伊勢物語』八十一段にみられるように、「塩竃作り」の伝説が独り歩きし都の風流人の典型とされた。六条院で太上天皇として栄華を極めた「光源氏」のモデルとしても有力だ。 はたして、この「塩竃作り」は単なる優雅な閑事であったのだろうか。融は貞観6(864)年からの5年間、陸奥出…

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